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吹けよ風呼べよ嵐


川中島にいまだ訪れたことがない私。それなのに、川中島の戦いを描いた小説を読む経験だけは徐々に積んでいる。そして合戦シーンに血をたぎらせては、早く訪問したいと気をはやらせている。そんな最近だ。友人が貸してくれた本書もまた、私の心を川中島に向かわせようとする。

だが本書の中において、川中島の戦いが描かれるシーンはほんのわずかしかない。386ページある本書の終盤、多めに数えてもせいぜい60ぺージほど。では、あとのページは何の描写に費やしているのか。それは、村上義清軍の戦いを追うことで費やしている。本書は上田原の戦いから始まる。上田原の戦いといえば、村上義清と武田晴信によってなされた信濃の覇権をめぐる一連の戦いでも初期に行われた合戦だ。上田原の戦いで武田軍の侵攻を退けた村上軍は、続けて武田軍に後世、砥石崩れと称される程の痛手を負わせる。北信濃に村上義清あり、と高らかに謳うかのような戦い。本書の主人公である須田満親は、従兄でかつ刎頸の友である信正とそれらの戦いを間近にみていた。

だが、村上義清がいくら北信濃で武名を高めようとも、勢力としては信濃の一地域を治めるだけの存在にすぎない。そもそも、信濃とは諸豪族が割拠する地。戦後史においては、信濃における二大勢力として小笠原長時と村上義清の両雄が並び称されていた。だがそれぞれは勢力として小粒。それゆえ、甲斐から侵略を進める武田軍に徐々に突き崩されてゆく。しかも武田軍は武で成果がなければ調略を試すなど、柔軟かつ老練な攻め手を繰り出してくる。硬軟取り混ぜた武田軍の攻撃に徐々に勢力を削られてゆく村上軍。その調略の先は、信正の親である須田信頼にも伸びる。その結果、須田信頼と信正親子は武田軍にくみする。つまり、須田満親と信正は敵味方となってしまうのだ。満親を襲った凶報は、満親と信正を互いにとっての仇敵に仕立て上げることになる。上田原の合戦見物の際は、弥一郎、甚八郎と呼び合っていた二人。それが憎み合い戦場で剣を交えるまでに堕ちてしまう。戦国の世の習いの無残さを思わせる展開だ。

仲の良かった従兄が敵味方に分かれる。そんなことは下克上のまかり通る戦国時代にあって特に珍しくもなかったはず。そして豪族が相打ち乱れ、合従連衡を繰り返す信濃にあってはより顕著だったに違いない。つまり戦国期最大の合戦として後の世に伝わる川中島の戦いとは、ついにまとまる事を知らぬまま、乱れに乱れた信濃が堕ちるべき必然だったのだ。信濃の地で戦われた合戦でありながら、甲斐の武田と越後の上杉の戦場となった川中島とは、つまるところ信濃の豪族たちのふがいなさが凝縮した地だったともいえる。

だが、その事実をもとに須田満親を責めるのは酷な話。彼は村上家にあって生き延びるため、そして須田家を存続させるため、懸命に働く。満親の働きは、村上家がいよいよ武田軍の攻勢を防ぎきれず上杉家を頼る際に彼自身の運命を切り開く。村上義清によって上杉家への使者に命じられることで。それまでに使者として上杉景虎の知己を得ていたことが上杉家への使者として適任だったのだ。それは、須田満親を次なる運命へと導く。つまり、川中島の戦いへと。満親の嫁初乃はもともと信正の妹として満親に嫁いできた。だが、武田軍の調略が須田家を引き裂いたため、兄信正と初乃は敵対することになる。そんな運命に翻弄されながら、彼女は世をはかなむことなく満親へ付き従い越後へと落ち延びる。本書で描かれる彼女の運命は戦国の時代の過酷さ、そして確固たる権力に恵まれなかった信濃に生まれた女子の運命を如実に書き出している。

親しさの余りに、憎さが百倍したような満親と信正の関係。それは、幾度もの運命の交錯をへてより複雑さを増してゆく。そしてついには川中島の戦いでは上杉軍と武田軍として相まみえ、剣を交えさせることになるのだ。

残された記録による史実によれば須田満親は1598年まで存命だったようだ。つまり満親は川中島を生き残ったのだ。では信正はどうだったか。史実によれば武田家滅亡後に上杉家に属したと伝わっている。だが、本書では川中島以降の両者には触れていない。あるいは、上杉家で旧交を温め直したのか、それともかつての反目を引きずりながら余生を過ごしたのか。本書には、上杉家での二人の邂逅がどうだったかについては触れておらず、読者の想像に委ねている。

そのかわりに著者は、川中島の戦いで満親と信正に剣を打ち合わせることで、二人のその後に著者なりの解釈を示している。満親に勝たせることで。そして満親にとどめを刺させないことで。その瞬間、二人の間には弥一郎と甚八郎の昔が戻ったのだ。「禍根を断っては、武士は鈍ります。禍根あってこそ、武士はよき働きができます」とは川中島の戦いの後、謙信と語らった際の満親のセリフだ。それを受けて謙信もこう返す。「もう一太刀か二太刀見舞えば、わしは信玄を殺せた」「だがな、馬を返して四太刀目を浴びせようとしたところで気づいたのだ。欲が勝つか義が勝つかは、力で決めるものではなく、天が決めるものだとな」「そうだ。欲に囚われた者は欲に滅ぼされる。最後に勝つのは義を貫く者だ。つまり禍根を断たずとも悪しき者は自ずと立ち枯れる」

ここでいう欲とは武田信玄の領土拡張欲であり、義とは毘沙門天を戴く上杉謙信の信念を表わしている。この二つの概念は、両者を比較する際によく見かける。だが、有名な一騎打ちをこういう解釈で描いた事に、本書の真骨頂がある。川中島の合戦で敵味方に相まみえる事になった須田満親と信正の従兄同士。二人の運命に小豪族の置かれた運命の悲哀を表しただけでなく、義と欲の争いを禍根を断つ形で決着させず、人の生き方として歴史の判断にゆだねた著者の解釈。これもまた、一つの見識といえる。

おそらく、川中島の戦場には、幾多の入り組んだ、長年に渡って織りなされた運命の交錯があったはずだ。満親と信正。信玄と謙信。信繁と景家。川中島には彼らの生きた証が息づいている。人の一生とは何を成し遂げ、何に争わねばならないのか。そんな宿命の数々がしみ込んでいるのだ。そのことを新たに感じ、人の一生について感慨を抱くためにも、私は川中島には行かねばならないのだ。

‘2016/12/24-2016/12/28


天佑、我にあり


真田幸村を書いた「華、散りゆけど 真田幸村 連戦紀」を読んだのは一年前。その時に著者を知ってからまだ一年経っていない。九度山蟄居の日々から大阪夏の陣での真田幸村の見事な散り様が描かれた傑作であった。だが、構成のバランスに少々ムラがあったように見えたのが残念だった。

上記の本を読んだ際、家族でしなの鉄道の「ろくもん」に乗車したタイミングだったことはレビューに書いた。長野から軽井沢までを走るろくもん。その沿線には数々の風趣に溢れた観光地が点在している。中でも川中島の合戦場は屈指のスポットと言えるだろう。だが、私はまだ川中島古戦場を訪れたことがない。

そこにきて本書を見かけ、図書館で借りてみた。するとどうだろう。上記の本で見られたバランスの欠如が、本書では見事に拭い去られているではないか。拭い去られているどころか、一部の隙もないといってよい。本書は私が読んだ時代小説の中で十指に数えられる一冊だといえる。

私の知識によると、川中島の戦いは五度にわたって戦われた。中でも第四次のそれは、山本勘助によるきつつきの献策や、信玄公と謙信公が刀と軍配で相見えた挿話でも知られている。

本書はその第四次の戦いにのみ焦点を当てている。

本書の語り手は天海和尚。江戸幕府初期の頃、大僧正として数々の施策に関わったことで名高い。長命な天海和尚はまた、十代の頃、第四次の川中島の戦いを山の上から見届けたという伝説を持っている。本書は、天海和尚の晩年、江戸城において徳川二代将軍秀忠、三代家光の両者より江戸幕府が採るべき軍学が甲州流、越後流のどちらであるかを下問される場面で始まる。それに応じ、両方の軍学を引き合いに出す上で、天海和尚が見聞した川中島の戦いを昔語りに語るという構成となっている。

若き天海和尚が、謎の白面の青年とともに戦を山の上から見届けるという設定。その白面の青年は偵察で相模から直々にやってきた風魔小太郎。という設定は突飛なものに見えるが、さもありなんと思わされるだけの説得力を持っている。

また、信玄公と謙信公の書き込みも入念だ。信玄公については、幼少期から父信虎に遠ざけられた忍従の日々、そして父信虎追放に至る背景がきっちりと精緻に描かれている。その結果、信虎の暴政に危機感を募らせた武田家宿将達によって持ち上げられ、国境に戻ってきた父信虎を駿河へと追い返すことになる。武田家について書かれた小説は何冊か読んできたが、本書ほどこの父子相克の場面を描き切った小説はないのではないか。それは謙信公も同じ。長尾家にあって天室光育を師とした修行の日々が描かれている。後年、謙信女説が生まれたほどの女犯を遠ざけたストイックさ、毘沙門天を背負っての軍神とまで言われるその背景に、天室光育の薫陶があったことがきっちりと描かれている。そして著者は、民を養うために国を富ませ、他国を奪うことに正義を見出す信玄公と、己の信義に従い、道理を友とし、攻められれば受けて立つ謙信公の戦に対する違いをも鮮やかに描き出す。

著者はそれゆえに両者の対立が、単に信濃の領有をめぐってではなく、天佑の争いであると定義する。これは序章で天海和尚が語る言葉にすでに表れている。

「では、信玄公と謙信公は、いったい何を競うために鎬を削ったのでござりましょうや」三代家光の下問に対し、天海和尚はこう答える。「天佑の貫目、ではないかと」。またこうもいう。「天運は生まれながらにして人の生に宿る決まり事で、寿命などをはじめとするものにござりまするが、天佑はその人の才や努力の上に積み上げられていくものにござりまする」と。

第四次の戦いは、香坂昌信の籠る海津城の目の前を横切るように、上杉軍が妻女山へと布陣することで幕を開ける。戦の定石を外した意表を突く布陣に、狐に摘まれた様な武田軍。おっとり刀で甲斐から進軍した信玄は茶臼山に登り、盆地を挟んで上杉軍と対峙する。碁の用語である真似碁のように睨み合う両者。その膠着状態に耐えかね、武田家謀将山本勘助が軍議である策を提案する。それは、背後から妻女山を衝く、キツツキ戦法。軍議の末、その案は容れられ、武田軍は動き出す。そしてそれは謙信公にとって思う壺であった。

戦は動き、軍勢を二手に分けた武田軍は、険しい山を背後を衝くために移動する。そして、それを予期した上杉軍は、半分となった敵勢力を渦を描きつつトグロを巻く龍蜷の陣で待ち受ける。上杉軍の半分に満たない武田軍が、上杉軍の本隊に襲い掛かられる。その危機を察した信玄公の弟信繁は、圧倒的不利な状況に戦慄しながらも武田軍を身を挺して守るため、上杉軍の名将柿崎景家との一騎打ちにまで持ち込む。

この柿崎景家と武田信繁の一騎打ちの場面は、本書のクライマックスといってもよい。そのぐらい素晴らしい。闘いの気の流れ、体術の冴え、戦地の駆け引き、そして真に相手を強敵と認めた男たちにだけに通い合う闘気。これらが凛として文に満ちわたる様は、私を恍惚とさせた。私にとってこの場面は、今まで読んだすべての小説の一騎打ち場面で筆頭と推したい。それほど魅了された。闘いも見事ならば、破れた信繁と勝った景家が互いに名乗りを挙げる様、景家が止めを刺す場面もまた見事。

戦局は、もぬけの殻となった妻女山へ向かった武田軍の半隊が戦場に遅れて合流し、武田家がぎりぎりのところで巻き返す。ここまでの戦いで十中八九負けを覚悟した信玄公が、ぎりぎり胆を据わらせ、腰を構えたことで運気を武田家に引き寄せる。その場面の心の動きも、戦国時代きっての戦上手と言われた信玄公の凄味を良く著している。

謙信公は、武田家の別働隊が合流するまでの間に武田軍を殲滅できなかったことで、勝機が自らの手から逃れ去りつつあることを悟る。そして、その期に及んで、乾坤一擲の策を打つ。そのためにも、謙信公は戦いの序盤から、自らの特徴的な装束を着せた武者多数を戦の中に放つ布石を打っていた。すなわち攪乱策。そして最後の一手は武田軍本陣への謙信公自らの単騎討ち入り。信玄公に肉薄した謙信公の刃は、紙一重で信玄公の喉をかすめる。

「-されど、余は生き残っている。天が、・・・天が余命を与えてくれたのか!?」

余りに一瞬の交錯。両雄の日本史に残る一騎打ちは、本書では2ページでまとめられている。が、上に描いた信玄公の独白が全て。優れた描写の多い本書において、この場面も繰り返し読むに耐える場面である。それでも尚、私としては、柿崎景家と武田信繁の一騎打ちの場面に軍配を上げたい。

終章、天海和尚は三代家光に問われる。本当に一騎打ちはあったのか、と。信玄公と旧知の天海和尚は、戦の後、養生中の信玄公を訪ねて一騎打ちの真相を問うた、と伝承にある。そして信玄公の答えはなかった、と。しかし天海和尚は云う。あの戦い全体が両雄の一騎打ちのようなものではなかったか、と。そしてその戦いののち、両雄の間には義縁が生まれたのではないかと。川中島の戦い後、戦場で勝鬨を挙げたのは武田軍で、両軍問わずに死者を弔っている。それを意気に感じた謙信公は、有名な敵に塩を送るの故事を実行し、塩の欠乏に困る武田軍に塩を送っている。また、信玄公は死の直前、後継ぎの勝頼公に、何かあったら越後を頼れとの遺言を残している。

結果、天海和尚は徳川将軍に、軍学として甲州流を採用することを進言する。越後流は、天才の孤高の戦術であり、多数の民を収める江戸幕府にはふさわしくない、と。ここで、我々読者は悟るのである。江戸時代と戦国時代の本質的な違いに。そして、この裁定をもって両雄の優劣を問うこともまた、無意味なことに。

初めからしまいまで、一部の隙もない刃に追い立てられるように、一気に読み終えられるのが本書である。

‘2015/10/12-2015/10/17


武田家滅亡


武田家滅亡。そのものズバリの題名だ。だが、私にとってこの題名はそれだけではなく、何か響くものを感じる。

それは、私にとって武田家とは滅亡した一族ではないからだ。

確かに戦国大名としての武田家は、最後の当主勝頼公が勝沼近くの天目山で自害して滅んだ。と、されている。が、滅亡の際、武田家に縁のある人々が八王子辺りに逃れたことは戦国史に詳しい方なら既知の話だと思う。私の妻が昔から親戚同然でお付き合いしている方は、まさしく八王子の武田さんという。私も以前、自宅にご招待頂いたことがある。詳しい系図を伺ったことはないが、おそらくは直系でないにせよ、武田家初代義光公のご縁に連なる一族なのではないか。

我が家は「週末は山梨にいます」と銘打たれた観光ポスターのコピーがはまるほど、頻繁に山梨を訪れている。また、ここ数年は友人と連れ立って武田家関連の史跡の訪問も重ねている。ただ、私にとって心残りなのは、未だに天目山の景徳院に訪問できていないことだ。それもあって武田家滅亡については一度きっちり勉強したいと思っていた。そんなところに本書を見かけ、手に取った。

だが、本書を手に取ったのは題名もあるが、著者の存在も大きい。というのも本書を読む8ヶ月ほど前、先に書いた友人と共に著者の講演を拝聴させてもらっているからだ。それは小田原市で行われた嚶鳴フォーラムでのこと。著者は北条氏五代を題材にとり、小田原の城郭都市としての成り立ちについて話されていた。その講演の際、私の印象に残っているのは、自己紹介でIT系の会社から作家への転身を成し遂げたとのくだりだ。IT系の会社から歴史作家への転進というのは、なかなか興味深い。私が飯を食っているITの世界の激務の合間を縫い、歴史を紐解きそれを物語りとして世に問うことは早々出来ることではない。それで著者にはなおさら興味を持った。それ以来8か月、本書が私にとってようやくの著者デビューとなる。

本書の舞台は戦国時代の甲斐国。長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れてすぐの武田家の本拠が舞台だ。武田家は信玄公亡き後、勝頼公が後を継ぐ。が、武運拙く長篠の戦いで一敗地に塗れることになる。本書では長篠合戦大敗の後、再起を果たさんとする勝頼公を中心に、それぞれの思惑を抱えた武田家の人々が描かれる。

複数の人々の思惑を描くにあたり、本書は複数の視点を語り手として物語を進める。その視点とは勝頼公、勝頼公の継室で北条夫人として知られる桂、そして長坂釣閑斎、などの人々のそれだ。

戦国時代といえば下克上の世として知られている。しかし、主従の縛り以上に軽視されたのは契約と女性だ。とくに武田家が治める甲斐は、相模の北条、駿河の今川、のちに徳川、そして越後の上杉などの強国に囲まれる地勢にあった。外交が固まらないことには国の経営も難しい複雑な国情。そんな山国が戦国の世を乗り切るには、犠牲にしなければならないものも多々あったはず。それは契約に左右される人々の運命であり、政略結婚という名の輿入れを強いられた女性たちだったろう。そして、信玄公の治下、一枚岩だった人々の思いは、その重石が取れたことによって千々に乱れ、それが武田家を滅亡へと導いて行く。

著者の筆さばきは、このあたりの人々の思惑を丹念に描いていく。それぞれの時局でなぜそのような判断、決定が成されたかをおざなりにせず、きっちり書き込む。そのあたりの論理の構築と、プロセスの進展は見事というほかない。著者がIT業界で培ったスキルの賜物だろう。

山に囲まれた武田家がなぜあれほどの軍勢を養えたか。その財源が黒川金山と湯之奥金山から算出される金にあったことは、武田家に関心がある方にとってはよく知られる事実のようだ。私も以前、湯之奥金山に訪れたことがあるが、往時はかなりの金産出量を誇っていたと聞く。それが信玄公存命中から枯渇の兆しを見せたことが、武田家の政策を誤らせたと著者は見る。

教科書的知識では、武田家の衰滅の因は長篠の戦いで騎馬軍団が信長軍の鉄砲隊に全滅させられたことにある。しかし、著者はそこに決定的な原因を置いていない。武田家の軍勢は長篠の大敗後もまだ戦国大名としての体裁を保っていた。しかし、著者の解釈では、長篠の戦いで信玄公の薫陶を受けた宿老たちが戦死し、そこに乗じて権勢を手にしたのが長坂釣閑斎で、彼が国策を誤らせた元凶としている。

釣閑斎は、信玄公直々の薫淘を受けた宿将ではない。どちらかといえば信玄公の父信虎公に属していた。そのため、信玄公の治下にあっては不遇を囲っていた。また、信玄公の嫡男義信公が、父への謀反を疑われて自害を命じられた事件に連座して我が子源五郎を殺されている。本書は、釣閑斎がその処遇に関する私怨を宿老たちに抱いているとの設定だ。そのような暗さを視線に含む釣閑斎が、枯渇した金山の替わりとなる財源を求めているところに、上杉景勝公の名代として訪れた直江兼続の見せ金に目がくらみ、伊豆の土肥金山を狙って北条との絆を断ったのが武田家衰亡のはじまり。そう著者は分析する。このあたりは甲陽軍鑑にも書かれている話らしく、真偽は不明ながらも一定の評価を得た史観を題材に筋が組み立てられていることがわかる。ただ、それだけでは足りないので、釣閑斎に宿老への暗い私怨を抱かせ、それが信玄公の遺した国策と違った方向へ武田家を導いたというのが著者の描いた構図である。

本書の幕開けは、北条家から勝頼公の正夫人として政略結婚で輿入れしてきた桂の描写で始まる。だが、桂と勝頼公の蜜月は、北条家と武田家を土肥金山欲しさに離間させようとする釣閑斎の謀りの前に、あっけなく崩される。しかし、勝頼公に遠ざけられてもなお勝頼公を信じ、武田家のために生きようとする桂のけなげさが、政略ロジックが縦横する本書にあって、彩を放っている。

一方、甲斐武田家最後の当主である勝頼公。ともすれば暗君として見られがちな勝頼公は、最近の研究ではむしろ武に優れ、英明な君主だったとの見方をされている。だが、自身が諏訪氏を継ぎ、信玄公の治下にあっては世継ぎではなく義信公の下に置かれていた立場から一点、義信公の謀反死によって後継ぎの座を得られた。そんな経緯が勝頼公に遠慮を抱かせ、それが君主としての隙を産み、ひいては釣閑斎に乗じられる悲劇を生んだというのが著者が勝頼公に投げるまなざしだ。なので、本書が勝頼公を書く筆致には愚かさというよりは哀しみを感じさせる。釣閑斎の奸計で遠ざけられた後、桂が勝頼公の誤解を解き、再び夫婦として愛を育む。その時すでに二人には残された時間は限られており、事態は急流のように二人を死へと追いやる。そのあたりの悲哀が武田家滅亡を弔う調子となって効果的に響く。

本書で二人の夫婦の周辺を固める人物達の造型も実に豊かだ。

釣閑斎が権勢を築くなか、釣閑斎の政策への反対派として追放した武士が何人か登場する。そのうち小宮山内膳は修験者や旅の僧に身をやつし、武田家に恩返しする日を待っている。また、同じく追放された辻弥兵衛は徳川に仕官するために間者に身を落とし、武田方の高天神城の落城に暗躍し徳川方に恩を売ろうとする。

その高天神城では伊那の地侍の片切監物と宮下帯刀と四郎佐の親子三代が徴兵され、守りについている。高天神城の落城後、城内にいた武田家の姫君を甲斐へ落ち延びさせる役割を担い、勝頼公の敗走ルートを辿ることになる。

こういった人々が、武田家の最期に向かって天目山に集ってゆく。そして武田家の最期を飾るに相応しい舞台の登場人物としてそれぞれの役割を果たす。最期の最期まで辻弥兵衛の策に踊らされ、勝頼公と桂が一縷の望みを掛けた亡命策まで奪われてしまう筋の組み立てには隙がない。小山田信茂公も土壇場で主君を見限った不忠者として後世に汚名を残しているが、案外真相は本書で書かれたような徳川方の離間策に嵌ったためではないだろうか。そして小宮山内膳は最後に盟友辻弥兵衛を武田家の家臣として名誉のうちに葬り去り、片切四郎佐は四郎佐は勝頼公の最期まで共に戦い、命を落とす。共に武士道を体現したかのような鑑のような最期を遂げる。そしてその父帯刀は姫君を八王子まで落とすという役割を全うする。

あの武田軍団が最期は十数騎を数えるほどまで残骸をさらし、勝頼公と桂は、そして嫡男である信勝は武田家の最後に恥じぬ自死を遂げる。そして全てが終わった後に姫君を送り届けた帯刀が彼らの遺骸を懇ろに葬り、故郷の伊那に帰ったところで物語は終わる。

武田家の家臣達の多くは徳川家に丁重に迎えられ、江戸時代を全うした家も多いと聞く。あまりにあっけなく滅亡した武田家だが、早晩山国の甲斐では衰退は避けられなかったのかもしれない。しかし「人は城 人は石垣 人は堀」という言葉を残した信玄公は未だに甲州各地で偲ばれている。それは伊那に帰った帯刀のような人物がその威徳を伝え残したためだろう。国破山河在で知られる杜甫の春望を例に引くとすれば、国破人声在と400年以上も人々の声を残し続けたのが武田家だったのではないか。

見事な滅亡の謎解きと、ロジックを越えた所にある人の心情や友情を書き尽くした著者はただただ見事。IT系の企業出身であることは嚶鳴フォーラムの自己紹介で知っていた。が、本書の奥付の記載で著者が日本IBM出身であることを知った。猛烈に働く人々の多いかの会社から著者のような作家が登場したことに例えようもないほどの励みをもらった。行きたいところがありすぎる私だが、なるべく早く天目山には訪れたいと思っている。おそらくは著者も立って、武田家に思いを馳せた場所で。

‘2015/9/24-2015/9/28


上杉鷹山の経営学―危機を乗り切るリーダーの条件


本書はユニークなアプローチを取っている。歴史上の人物を取り上げ、伝記や小説に仕立てるのではなく、そこにビジネス論を含めているのだ。つまり、本書はビジネス書と小説のハイブリッドといえる。

本書の主人公は上杉鷹山公。歴史上の人物でしかない上杉鷹山公の事績を、伝記とビジネスのハイブリッドで迫れるのも上杉鷹山公が単なる歴史上の人物ではないからだ。故ケネディ米大統領が尊敬できる日本人として挙げた人物。それが上杉鷹山公である。

上杉鷹山公は名字からも分かるように上杉家の方である。上杉家といえば軍神として知られる上杉謙信公が良く知られている。群雄割拠の戦国時代を駆け抜けた謙信公も病に倒れ、それから信長、秀吉、家康へと権力者は移り変わる。上杉家も謙信公から景勝公へと代替わりし、滅亡の憂き目を見ることなく、時代の波を乗り切った。しかし上杉家も無傷ではすまなかった。豊臣政権下では五大老の一人として名を馳せたが、越後から会津へ移封される。会津藩では120万石の大藩であったが、関ケ原合戦で東軍に敵対したため、30万石の米沢藩に転封されてしまう。しかし謙信公からの名藩意識は容易には抜きがたく、石高120万石の大藩意識を引きずったまま江戸時代を凌ごうとする。参覲交代に普請奉仕と幕藩体制にあって出費は嵩む一方。それなのに、1/4に石高が減らされたにも関わらず、人員は120万石の体制を抱えたまま。そんな訳で鷹山公が藩主に就いた頃は、藩籍奉還、つまりは藩を幕府に返上することを画策するまでに追い詰められていた。

しかし幾多の困難を経て果敢に改革を断行した鷹山公は米沢藩を再生させる。莫大な借金を完済したのは鷹山公の次々代であったが、その功績は間違いなく鷹山公にあるといってよい。

日本人は世界でも稀なメンタリティーを持っていると言われる。それは個人の意思よりも集団の意思を重んじる心性だ。それは長所であるが、こと改革を行う上では短所となり枷となる。外圧なく自己変革を成し遂げた事例が稀な我が国において、内側から変革を成し遂げた所に鷹山公の凄さがある。しかも鷹山公は日本人とかけ離れたメンタリティーを持っていたわけではない。むしろ人一倍日本人の心性の持ち主だったと思われる。つまり、鷹山公が成したことは、今の日本を変える上で大いなるヒントとなるのだ。

財政難とプライドに絡め取られて二進も三進もいかず、跡継ぎもない米沢藩。そんな落ち目の藩主として、宮崎の高鍋藩秋月家から養子として入ったのが鷹山公。若く、人脈もなく、経験も足りない鷹山公。しかし、鷹山公は自らの弱点を冷静に受け入れ、その上で素直に忠言を聞き入れる度量を備えていた。また、目的へのビジョンやそのために率先して自らが為すべきことも弁えていた。そして、何よりも覚悟を持っていた。

鷹山公の改革は江戸から始まる。手始めに対象となったのは、本国から疎んじられ江戸藩邸に遠ざけられていた士、改革を志す人々。彼らをまず鷹山公は味方につける。打算でなく改革への意志をもつ故に江戸に追いやられた志士達。彼らこそ藩の改革に欠かせない人物として登用する。その上で鷹山公は、まず彼らに対して改革へのビジョンを語る。語る言葉の内容に曖昧さが含まれていれば逆効果。改革の士達は新たな若き藩主を見限ってしまうことだろう。しかし、そこで鷹山公が語ったとされるビジョンには、以下の要素が含まれていたという。

何がしたいか・・・・理念・目的の設定
どこまで出来るか・・・・限界の認識
なぜ出来ないか・・・・障害の確認
どうすれば出来るか・・・・可能性の追求

上記の4項目は、文中においてもその形のまま箇条書きで記述されている。ここが本書の特徴だ。小説の体裁を取りながら、ビジネス書の風味が実に濃厚なのだ。通常の小説ではこのような書き方はしない。しかし、このような書き方によって読者の理解を助ける点に本書がビジネス書である所以がある。

小説の場合筋を追う事に没頭するあまり、ビジネスに活かすためのヒントを読み流してしまう。が、上に箇条書きで書いた4項目は、鷹山公の改革へのとば口である。ここを読み飛ばすことは、鷹山公の改革の根本を見逃すことに等しい。本書がビジネス書の体裁を濃厚に備えているのは、鷹山公の事績を通じて、現代の経営に役立つ重要なメッセージを余さず取り込むためである。この4点はビジネスにあってもプロジェクトにあっても無意識に考えるはずの事項だからだ。

続いて鷹山公は、本国へ出立する。藩士に対して自己の改革の意思を明確にするために。本国では、全藩士を城の大広間に集めるという前例のない行動によって自らの意思を直接全藩士に伝える。著者はそこで読み上げたメッセージもビジネスに活かせるよう箇条書きにまとめる。

実態の報告
方針の明示
自己の限界明示
協力要請

上記4項目を達成するために、

情報の共有
討論のすすめ
コミュニケーション回路を太く短く設定する
トップダウンとボトムアップを滑らかにする

といった具体的な策を著者は書き記す。江戸時代の文章をそのまま提示したのでは、今の多忙なビジネスマンの心には届かない。そう意図したのだろう、著者は現代文に書き下した上で箇条書きにして記載する。念には念を入れて。

以下、本書は鷹山公の改革をつぶさに紹介する。その内容は実に先進的であり、封建社会の江戸時代に為された施策であるとは俄かには信じられない程だ。私自身、鷹山公の事績についてまとまった本を読むのは本書が初めてだ。そのため、鷹山公の行った施策を詳しく知れば知るほどその内容には驚くばかり。江戸時代ばかりか日本史上における名君として外国の大統領からも尊敬を受ける理由も分かる気がする。

もともと本書を読んだのは小田原市で開催された第8回嚶鳴フォーラムがきっかけである。誘ってくれた友人と一緒に出掛けた嚶鳴フォーラムは、全国の自治体、それも郷土ゆかりの偉人を擁する自治体の首長が一堂に会し、互いの偉人を紹介し合い、その叡智に学ぶのが主旨だ。第8回の会場が小田原だったので全般的には二宮尊徳公が取り上げられていた。だが、嚶鳴フォーラムには参加自治体が地元ゆかりの偉人を紹介する時間もきっちりと設けられている。当時の安部米沢市長もその一人として登壇され、上杉鷹山公の事績を紹介して下さった。それで改めて鷹山公に興味を持ったのが、本書を手に取った理由だ。

士農工商穢多非人という身分差別がまかり通っていた江戸時代にあって、身体障害者を始めとした弱者の命は現代とは比べ物にならないくらい軽視されていたことだろう。しかし鷹山公は藩内の身体障害者に対する虐待禁止を打ち出したという。また、出生直後の乳児を殺してしまう間引き。これも当時はよく行われていた風習らしいが、鷹山公によって禁止されている。また、自助、互助、扶助を三位一体として弱者への福祉に力を入れたという事績も伝わっている。姥捨山や間引きなど、弱者にとって生きにくい世。それが江戸時代であった。そんな中、このような政策を打ち出した鷹山公の先進性には驚きを禁じ得ない。また、鷹山公に輿入れした幸姫が、小児脳性麻痺の障害者だったことも付け加えておかねばならない。幸姫を受け入れた度量があってこそ、福祉政策に理解があったのかもしれない。

本書で挙げられた改革の全ては資金あってのものだ。そして米沢藩とは債務超過藩として名を馳せた藩である。では乏しい資金の中、どうやって鷹山公は改革を成し得たのか。それは、殖産政策による収入の増加に励んだからである。収支のバランスが崩れた場合、普通は支出から先に削る。しかし鷹山公が改革に着手した当時の米沢藩の財政状態は、生半可な経費節減策では焼け石に水であった。それほどまでに追い込まれていたのが米沢藩だ。そのため、鷹山公は支出の削減と同時に収入の増加という二方向で改革を進めた訳だ。

殖産政策として特筆されるのは、武士を農商業の作業に向かわせたことだ。士農工商の身分社会にあって、武士が農商業に手を染めることに対する反発は相当だったらしい。武士だけでなく奥方始め家族にもその対象は及んだというのだから徹底している。

では、武士を農商業に向かわせたことによって何が変わったのか。それは仕事のための仕事、報告のための報告が一掃されたことだという。そのような生産性ゼロの仕事に従事するくらいなら、作物を植え畑を開墾する農作業に使ったほうが余程生産的。結果として鷹山公の指導の下、武士たち自身も荒れ地を開墾し、新田開発を担ったというから奮っている。いわば武士に対する意識改革の達成であり、謙信公からの大藩意識の革命でもある。

鷹山公の改革を見てみると、形式主義の一切を否定していることがわかる。〜だからだめ。〜だからできない。それでは改革は進まない。そのような思い込みが組織を硬直化させ、改革の芽を摘む。それは現代においても思い当たることばかりだ。

しかし現代においても抵抗勢力はいる。過去においてもそれは同じ。自らの生まれ育った文化を捨て去ることへの抵抗は思いのほか大きい。成果が見え始めれば尚の事、抵抗勢力にとっては自らの存在意義が失われることを意味する。そんな抵抗勢力による反撃が鷹山公を襲う。それは反対派の重臣たちによる藩主軟禁。寸でのところで改革派の重臣達の機転で辛くも逃れることに成功した。

ここで鷹山公が示した抵抗勢力に対する処罰。この処置もまた鮮やかなものであった。むしろ、この処罰によって鷹山公の名声が後世に残ったのかもしれない。一定の改悛期間を与え、それでも悔い改めぬ者に対して死罪を含めて厳畯な対応を行う。単に優しいだけでは民も家臣も付いて来ない。藩主として改革を示すだけではだめなのだ。それだと家臣は面従腹背の態度を身に付けてしまう恐れがある。いざとなれば改革のためには部下すら切り捨てるだけの覚悟。その覚悟を懐中に潜ませ、いざという時には伝家の宝刀として抜く。そういった凄みを漂わせた者にしか改革は成し得ない。私自身、この点がまだまだ足りないと自覚している。今後の課題として、鷹山公が成した処分の詳細は肝に銘じておきたい。

また、さらに難しいのは功遂げた家臣が堕落した時の毅然とした対応だ。功臣だからといって甘い顔を見せると、改革の成果は一気に瓦解する。鷹山公の場合、藩主就任の初期から改革を共にした竹俣当綱に対する処分がこれに相当する。不要な企業功労者は処断せよ、と著者は言う。功臣といえども権力を握ると錯覚を起こし堕落に走る。起業家ならずとも肝に銘じておくべきことだろう。

最後に著者はリーダーに必要なのは、次代の後継者へ改革を伝えること、という。鷹山公はその点も怠らなかった。伝国の辞を作り、後継者に託したのだ。そこには藩主たるもの、国家と人民のために存在しており、国家や人民が藩主のために存在しているのではない、と書かれていたらしい。封建時代の藩主の言葉とはとても思えない先見性は、ここでも見られる。

エピローグにおいて、著者は鷹山公が自身の改革の本質を機関に見立てていたのではないかと指摘している。つまり属人的な政治ではなく、普遍的で恒久的な機関である、と。鷹山公が仮に亡くなったとしても、藩が機関であれば改革は継続して成し遂げることができる。では、機関がその根底に持つべき思想とは何か。それを著者は愛という言葉で表す。他人への労り、思いやりを持ち続けてこその愛。しかしこのことを実践するのは難しい。しかし、やらねばならないのもまた事実。会社のトップとして、家長として。努力せねばならないことは私自身まだまだある。

本書は何度も折に触れて読み返そうと思う。鷹山公が成し遂げた改革を自らの血肉としていかねばならない。得難い本である。

‘2015/04/13-2015/04/13


哄う合戦屋


生き急ぐ多くの現代人にとって、過去を描く歴史・時代小説は、教養臭いものとして遠ざけられがちである。

だが、私は将来への展望とは、過去の土台があってこそ、と常々考えている。実在・架空を問わず、歴史上の登場人物のたどった歩みには、自分の行先にとっての参考や指針となることがおうおうにしてある。

昨年末に友人より薦めて頂き、お借りした本書には、私にとって得るところが多々あった。

時は16世紀半ば。越後の上杉家が台頭し、甲斐では、武田晴信(信玄)が領土拡大の野望を隠そうともしない。両者の激突場となる気配濃厚の、川中島合戦前夜の信州が本書の舞台である。

二大勢力の狭間でしのぎを削る豪族たちの一つ、遠藤家は、内政に定評のある当主吉弘の下、領民一体となった経営を行っている。そこに風来坊として仕官する石堂一徹と、遠藤吉弘の娘若菜。そして吉弘を交えた3人が本書の主人公である。

題名からも想像できるとおり、表向きの主人公は、世に聞こえたいくさ上手として設定された石堂一徹となっている。名利を求めず、己の能力がどこまで戦国の世に通ずるかを人生の目的に据えた男として。本書を通して、軍師として主君を支える男の生き様の潔さに心震わすことも一つの読み方。

しかし、私は本書の面白みは他にもあると思う。むしろ、本書に込めた著者の思いとは、「物事の本質を見抜くことの美しさと苦み」にあったのではないか、と。

苦みとは、人々と視点の達する深みが違うため、感情や考えがずれる生きづらさを指す。たとえば、一徹がいくさの手柄話をせがまれる場面。そこで一徹は、首級を挙げたことよりも、戦況を自由自在に操ったことを手柄とする。もちろんそれは家臣たちには伝わらず、困惑で迎えられる。また、隣国との争いの一番手柄を最初に情報を知らせた者に与え、肝心の戦いで敵の大将を討ち取ったものに与えない。それがもとで、その者から恨みを買う。

美しさとは、外面の技巧よりも、内面にその物の真実を見て取る考えを指す。たとえば一徹は、若菜の描いた絵に、技巧ばかりが先走る若さを見抜き、その絵から想像がふくらむ余地のないことを指摘する。また、領民に慕われる若菜の、才能から来る無意識の打算に対し、その無意識を意識する強さと、そうせざるをえない立場の弱さに対し、共感を覚える。

そして吉弘はその間に立ち、領主としての立場や体面といった、物事の表面を完結させようとする。それは、娘を一徹に渡したくないとの親のエゴであり、一徹のお蔭で領地を拡大できたのに、その地位に甘んじて一徹を疎んずると心の弱さである。吉弘は、本書では物事の本質を見抜くことと逆の、人間的な弱さの持ち主として描かれる。

本書の面白みは、表立った激動の歴史を追うことよりも、この3者の心の動きを追うことにあると思う。そして彼らの世渡りの術とは、現代に生きる我々にも参考になるのではないか。会う人々、抱える仕事、あふれる情報。その中からどのようにして本質を見極め、自分の行動を律するか。本書から考えさせられることは多い。

いままで、本書についても著者についても知らずにいた。このような佳作を生み出す作家がまだまだ多数、私の読書経験から漏れている。読書は人生にとって涸れない泉とはよく言ったもので、こういう新たな喜びが与えられるから、読書は面白い。

’14/01/15-14/01/16