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ウルフ・ホール 下


下巻では、ウルジーの寵臣だったトマス・クロムウェルがヘンリー八世に目をかけられ、信を得てゆく様が描かれる。

ウルジーが失脚した原因となった、ヘンリー八世の離婚問題。それはキャサリン・オブ・アラゴンを離縁し、アン・ブーリンと結婚する事に執心したヘンリー八世のわがままから起こった。アン・ブーリンも気が強く、王と結婚するためにやすやすと操を捧げないしたたかさを持っている。王の気持ちをうまく操りながら、自らの栄達へ一歩ずつ登っていくアン・ブーリン。

トマスは、両者の間に立ち、ヘンリー八世の意に沿うように巧みな才能と弁舌を発揮する。
そして難題だった、離婚と結婚を解決する。

それによって、トマスはますますヘンリー八世の寵をわがものにしていく。徐々に立場と権勢が上がり、王室の全てを掌握するまでになる。
その過程でトマスは相手によって冷酷な言葉を操り、相手を屈服させることに意を砕く。
本書はその様な振る舞いをするトマスの内面を描く。トマスの内面は葛藤を覚えるが、任務を遂行するために心を無にし、自らに与えられた役割を全うしようとするトマス。

本書の上巻は、イギリス王室やテューダー王朝に対する知識がなかったため、読むのにてこずった。だが、下巻になってくるとようやく知識も備わってくる。そして本書の面白みがわかってくる。

トマスを権謀術数に長け、狡猾で世渡りのうまい宮廷の臣として認識してしまうことはたやすい。
だがその視点は、周囲に比べあまりにも才能に恵まれた人間の悲哀を見逃している。

自らが成り上がろうとの意思がさほどないのに、自らの能力だけで時流に乗って上昇してしまう人物。こうした人物は時代を超えてどこにでもいる。もちろん現代にも。
ヘンリー八世からの寵が増すとともに、トマスの内面を描く記述からは、愛情やゆとりを感じさせる描写が減っていく。潤いがなくなり、乾いてゆく。忙しさのあまりに。そして交渉ごとにすり減って。

トマスにも後妻を迎える機会はあった。アン・ブーリンの姉からも結婚をほのめかされもした。トマスは、後にヘンリー八世の妃となるジェーン・シーモアへのほのかな思いも漂わせつつ、忙しさを言い訳に再婚に踏み切ろうとしない。家族への愛情が軽々しい行いにトマスを走らせないのだろう。
そしてトマスはますます積み重なる任務に忙殺されてゆく。

トマスをめぐる環境の変化とトマス自身の抱える葛藤。それが丹念に積み重ねられ、巧みに折り合わされていくうちに層の厚い物語が私たちをいざなってゆく。

後半はなんといっても、トマス・モアに対するトマスの戦いが中心となる。
ヘンリー八世の離婚問題に端を発したカトリック教会からの離脱。そしてイングランド国教会の設立。
それに頑強に抵抗する大法官トマス・モア。自らの信念と信仰に忠実であろうとするこの人物をどのようにして説得し、国王の意思を通させるか。
トマスは硬軟を織り混ぜてトマス・モアを説得しようと苦心する。
だが、自らの良心という、目に見えない最強の鎧を身にまとったモアは頑として譲らない。

かつてはヘンリー八世の寵臣であり重臣として名をはせたトマス・モアは、トマスにとってはるか高みにいる人物。トマス・モアに対し、トマスの手を尽くした恫喝や説得も通じない。

信仰と頭脳。信心と能率。その二つの対立軸が、本書の中であらゆる視点と立場から描かれている。
結局、トマス・モアは自らに殉じる。安らかに覚悟を決めたトマス・モアは、ロンドン塔のギロチンの露と消える。
それはすなわち、ここまで登りつめてきたトマスにとって初めての失点。

本書はこの時点で幕を閉じる。トマス自身の敗北感をほのめかしながら。

史実では、この後にもさまざまな出来事が起こる。ヘンリー八世は、世継ぎを産めなかったアン・ブーリンを離縁し、アン・ブーリンもまた、ロンドン塔へと消える。
そしてトマス自身もロンドン塔で死を迎える。四人目の妃選びに失敗した責任を取らされて。

だが、アン・ブーリンやトマスに待ち受けている運命は本書では描かれない。それらは本書の続編にあたる「罪人を召し出せ」で描かれている。

本書の上下巻を通して描かれるのは、トマス自身に降りかかる運命を暗示する壮大な物語だ。栄達の階段を登っていきながら、その高み故、落ちると死に直結する。
誰が差配しようと、最後に権力を持つのはヘンリー八世。トマスやウルジーやトマス・モアではない。
描かれる彼らの栄枯盛衰は、すべてはトマス自身の運命を暗示している。

不条理にも思える権力構造。それこそが封建制度の持つ本質なのだろう。
その残酷さの中、自らの能力を精一杯に生かしつつ、自らに与えられた運命を懸命に生きるトマスの描き方がとても印象に残る。

本書のタイトルであるウルフ・ホールとはジェーン・シーモアとその一族の領地の居館に付けられた別名だ。
狼の穴とは、言うまでもなく剣呑な宮廷をたとえた比喩だろう。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」の故事のように、外からは決して分からず、中に入らねば理解できない厳しい場所。
ウルフ・ホールとは同時に、トマスが持つジェーン・シーモアへの淡い恋心を踏まえたタイトルでもあるはずだ。
ウルフ・ホールの中に入ったからこそ、トマスは栄達への階段を上れた。それもまた否めない。それがもとで後世に悪名を残したことも。だが、実在のトマス・クロムウェルとは才に恵まれたがゆえにヘンリー八世に使い捨てられた憐れむべき人物だったのかもしれない。

上下巻で分厚く、読み応えのある一冊。上巻ではなかなか読み進められずに苦しんだが、読み終えて良かったと思える一冊だ。
978-4-15-209206-9

‘2020/06/27-2020/06/30


ウルフ・ホール 上


本書はブッカー賞受賞作品だ。それもあって手に取った。
表紙には見覚えのある人物の肖像画が載っている。トマス・クロムウェル。帯にもその人物の名前が記されていたが、かつて高校時代に世界史の授業で聞いたことがある。
だが本書を読む前の私は、クロムウェルはおろか当時のイギリス王室やテューダー朝の歴史についてほとんど知識を持っていなかった。

にもかかわらず、私は借りてきた本書を読み始めた。上下巻を合わせて1000ページ近くある本書を。

正直に言うと、上巻を読むのはかなり難儀した。

なぜなら、本書にはイギリス王朝や王室に関するこまごまとした記述がいたるところにちりばめられているからだ。

おそらく英国人であれば、本書を読むのは容易いのだろう。だが、私のような別の時代、別の民族の人間が、当時のイギリスについての知識を有していない場合は、本書には苦労させられるかもしれない。登場する多くの人物や数々のエピソードは、当時のイギリスを知らないと共感しにくい。
例えば太平記の戦闘が終わった後の南北朝の対立を描いた小説をイギリス人が読めば同じような感覚になるだろうか。

本書は全部で六部からなっている。そのうち上巻では四部の途中までを含んでいる。

第一部は、トマス・クロムウェルの幼少時代を描いている。子供に対する虐待を当たり前のように行う父ウォルター。その境遇に耐えながら、父のもとから逃げることに必死のトマス・クロムウェル。この描写がなかなか秀逸だ。
ところが、ここで私はてこずった。その理由として、長じてからのトマス・クロムウェルの人物像に十分な知識がないためだと思われる。
私がトマス・クロムウェルについての印象を強く持っていれば、幼少期に味わった苦しみが、長じてからヘンリー八世の時代を代表する稀代の策謀家で寵臣を作り上げたのだと共感できたはず。そして本書に一気に引き込まれたはずだ。
本書は実に細かく時代の様子を描いている。幼少期のトマス・クロムウェルの苦しむ姿と長じたトマス・クロムウェルが内面に抱える苦悩は、当時の時代背景やエピソードが生き生きと描かれてこそ、浮き彫りになる。だが、当時の世相や文化をよく知らない私にはそれがかえって混乱の元になってしまった。

物語はやがて、クロムウェルがヘンリー八世に重宝される場面に差し掛かる。
ヘンリー八世とはイギリス国教会を創設したことで著名だ。カトリックからの離脱を一国王が成し遂げたことは、世界史上にも特筆されるべき事績だろう。
なぜそのようなことをしようと思ったのか。それは、当時のカトリックが結婚を神聖なものとみなし、離婚は断じて認めない姿勢を示していたからだ。それがたとえ国王であっても。

だが、多情で精力にあふれたヘンリー八世にはカトリックの掟に納得がいかない。
ヘンリー八世にとって、正当な男性の嫡子を設けることは何にもまして優先されるべき聖なる義務だ。そのためには、六人の妃を次々と入れ替えることもいとわない。ヘンリー八世にとって、世継ぎを生まない妃など離婚する対象にすぎない。

そんなヘンリー八世の姿勢は、ヨーク大司教のトマス・ウルジーを苦しめる。ウルジーの立場は、ローマのカトリック総本山から任命された枢機卿としての役割と国王の寵臣の板挟みになっていた。それでありながら、カトリックの教義から国王の意思を翻させなければならない。教皇の意思を伝えるウルジーは、板挟みになったあげく、ヘンリー八世の説得に失敗する。
そればかりか、ヘンリー八世からの寵を失って一気に失脚する。ロンドンから都落ちして、地元のヨークの館で逼塞させられて。
権力者といえども、国王の意向には逆らえない。かつて身にまとっていたきらびやかな聖職者としての衣装も全て没収される。
なのにウルジーは、国王に対して反逆の意思はない。ただわが身の境遇の変化を嘆くのみ。

そのようなヨーク大司教ウルジーこそが、クロムウェルのパトロンだった。クロムウェルは、そのような落ちぶれたパトロンに対して手のひらを返さず、誠意を持って振る舞おうと努力する。

諸外国語を操り、財務や経理などにも明るいトマス・クロムウェルの才能。その才をウルジーは愛し、側において重用した。
が、トマスの努力もむなしく、ウルジーにくだされた処罰はとうとう撤回も赦免もされぬまま、地方の教区で没する。

本書は、トマスの視点から描かれる。トマスの内面は、ウルジーに対してあくまでも誠実であろうとする。そこには策謀を巡らす二枚舌のイメージはない。
そして、トマスの家族への思いも描かれている。娘二人が、流行病でなくなったときの描写にそれが表れている。早世した妻や、若い頃にヨーロッパのあちこちを旅した際、現地で愛情を交わした女性への追憶も本書では描かれる。
本書は、そのようなクロムウェルの内面を描くことで、腹黒く策謀に長けた人物とされる後世の評価を覆そうとした意欲が見える。
本書で描かれるトマス・クロムウェルとは狡猾な人物ではない。むしろ、あまりにも才能を持ちすぎたため、時代の波に飲み込まれた悲劇の人物として解釈されている。

トマス・クロムウェルはその才能をどこで磨いたのか。
本書は、父ウォルターのもとから逃げ出した後の流浪だったはずの時期についてあまり触れない。

所々にトマスの追想として挿入される程度だ。どこでどのような履歴をたどり、才能を磨き、努力したのか。普通であれば、この部分を描くことで、小説はもっとも面白くなるはずだ。

だが著者はそうした誘惑には目もくれない。
そのかわり、家族との時間やさまざまに舞い込む任務や仕事に取り組み、王室のさまざまな思惑の中で確実に日々をこなしてゆくトマス・クロムウェルの姿を描く。

‘2020/06/15-2020/06/27


ジンの歴史


ジンが熱い。
ジンが今、旬であることは、酒に興味がある人、特に蒸留酒の世界に興味を持つ人にとっては周知の事実だ。
昨今のジン界隈の盛況は、ウイスキーの盛り上がりにも引けを取らない。

去年の秋、Whisky Festival 2019 in TOKYOに参加した。
このイベント、タイトルはウイスキーと名乗っているが、ジンのブースも結構目立っていた。特に国内のクラフトジンはかなり数の蒸溜所が出店しており、ジンの盛り上がりを如実に感じた。

実際、会場のジンをいくつか試飲させてもらったが、それぞれに個性が認められる。
ジンだけを巡っていても決して飽きがこない。
実際、Whisky Festival 2019 in TOKYOの半年ほど前に天王洲で開かれたGIN FESTIVAL Tokyo 2019にも参加したが、GINだけで埋められた空間は、食傷どころか食指が伸びる一方だった。
Whisky Festival 2019 in TOKYOから四カ月ほど後、今度はWHISKY galoreでクラフトジンの特集が組まれていた。
WHISKYを専門とする雑誌でジンの特集が組まれるなど、異例だといえる。
そうした流れの目の当たりにし、ますます私の中でジンの興味が増す中で本書を手に取った。

本書が出版されたタイミングは、世界的なジンの復興が起こり始めた時期に等しい。
産業革命を目前にしたイギリス、ロンドンでは、ジンが社会風紀の乱れの象徴として槍玉に挙がっていた。
その事実は当時のロンドンを描いた文章を読んでいるとよく見かける。酒の歴史を扱った本では必ずと言ってよいほど。
つまり、ジンとは悪徳を体現したふしだらな酒、という印象がついて回っていたのだ。

そんな悪いイメージがついて回ったジンが、ここに来てなぜ大復活を遂げたのか。なぜ、今になってGINに脚光が当たっているのか。
それが気になって私は本書を手に取った。その理由を知るために、もう一度ジンを学び直すことも悪くない、と。

本書が扱うのはジンの歴史だ。同時にジンの歴史とは蒸留酒の歴史にもかぶる。
なぜならウイスキーをはじめ、蒸留酒の歴史はまだよく解明されていない。そして、ジンの製法がウイスキーの製法に影響を与えた可能性も大いにあり得るからだ。

今までにも私は、ウイスキーの歴史を取り上げた本を数多く読んできた。
そうした本を読んだ後の余韻には、なんとなくの収まりの悪さを感じていた。
その中途半端な感じは、ウイスキーの歴史には長らくの空白があることから生じていたようだ。本書は、そんな私のウイスキーに関する知識の欠落をいくつかの点で補ってくれた。

特に、中世のヨーロッパに決定的な影響を与えたペスト禍において、ジンに欠かせないジュニパーベリーの薬効が信じられ、人々がジュニパーベリーにすがった事実はジンの歴史において重要だ。
そもそも蒸留酒の起源を調べると、医薬品として用いられていた事実に行き当たる。
そうなると、続いて湧き上がる疑問は、数ある蒸留酒の中で最初に人々をとりこにしたのがなぜジンだったのかの理由だ。なぜブランデーやウイスキーではなく、ジンだったのか。
その理由は、ペストに苦しむ人々がジンのジュニパーベリーの薬効にすがっていた事実を知ると納得がいく。ペストに効くと人々が信じたジュニパーベリー。それを主要成分として用いたジン。

もう一つの興味深い事実は、ブランデーの存在だ。
もともとヨーロッパで広く飲まれていたのはビールでありワインだった。
特にキリスト教文化にとって、ワインは欠かせぬ飲みものであり、それを蒸留したブランデーは、他の蒸留酒と比べても先んじた地位を確立していた。

実際、本書によるとジュニパーベリーを蒸留酒に漬け込みはじめた当初、その蒸留酒とはブランデーだった。
ところが、ヨーロッパを覆った寒気と国際情勢は、北の国からぶどうを奪い去っていった。
そこで、人々は穀物を使った蒸留酒を作るようになり、ジンやウォッカ、ウイスキー、アクアビットがブランデーにとって変わっていったという。

ジンも当初は、ジュネヴァというネーデルランドの酒として生まれたという。そして、その味は今のジンとは似ても似つかぬものだったという。より濃厚でより芳醇な。私も前述のGIN FESTIVAL TOKYO 2019でジュネヴァを飲ませてもらったが、ジンの持つ清涼感がなく、個性に満ちた味だったように記憶している。

著者によれば現代のジンは味のついたウォッカだという。
そしてオランダ語でイエネーフェルと呼ばれたジュネヴァはジンの原点だという。また機会があれば飲んでみたいと思う。

続いて本書は、ジュネヴァがイギリスへと伝わり、粗悪な酒としてはびこる様子が描かれる。その様を称してジン・クレイズと呼ぶ。
著者はこうした表現によってジンを陥れようとしているわけではない。
むしろ、当時のロンドンの世相を陰惨なものにしていたのは貧困だった。貧困に至る社会制度。
それこそが当時のロンドンを支配していた悪だった。
そのため、民は粗悪で安いジンに群がった。当時重税が掛けられたビールの代わりとして。
それがジンの悪名の元となり、今に至るまで影響を与え続けている。

ところがロンドン・ドライ・ジンが生まれたことによって状況が変わった。
ジンといえばイギリスというイメージがつき始める。
それはイギリスの海軍が強大になり、それが各地、各国の産物を集結させたため、品質の向上に拍車がかかった。
さらにコフィ式連続蒸溜器の発明がジンの品質を劇的に向上させた。
次いで、さまざまな果実とジンを混ぜる飲み物が流行し、それはアメリカの自由な雰囲気の中でカクテルとして開花し、世を風靡する。

そればかりか、ジンはアメリカでギムレットのベーススピリッツとして好まれ、その他のさまざまなカクテルのベースにもなる。そうやって、ジンの活躍の場は増大していった。
時代は1920年代。後々にまで語り継がれる華美に輝いた時代。そして、アメリカがつかの間の繁栄を謳歌した時代。
カクテルはあちこちで飲まれ、ジンはあまりにもメジャーな存在となった。
ところが、それがメジャーになりすぎ、さらに禁酒法がジンにさらなる逆境となり、いつのまにかジンは時代から取り残された存在となった。匂いのないウォッカにその座を奪われて。

すっかり主役の座から降ろされたジン。長い間、時代遅れの酒の代名詞であったジン。
それが変わったのがボンベイ・サファイアの登場だ。水色の清々しい瓶は鮮烈で、それまでのジンが門外不出を旨としていたのと違い、レシピを公開した。
ボンベイ・サファイアの登場によってジンの歴史に新時代が到来した。

そしてそこからヘンドリックスジンをはじめとしたあまたのジンが追随し、今の世界的なクラフトジンの繁栄へと至る。

こうしてジンの歴史を概観すると、ジンのベースがプレーンだったことが、ジンに大いなる可能性を与えたことは間違いない。
プレーンであるが故、ボタニカルを無限の組み合わせることもできる。それは既存の蒸留酒にないあらゆる伸びしろをジンに与えたのかもしれない。

私も本書を読み、またジンの専門バーやGIN FESTIVALに行ってみたくなった。今年はコロナの影響で中止だとか。それが残念だ。

‘2019/3/10-2019/3/24


ミッション:インポッシブル フォールアウト


イメージがこれほどまでに変わった俳優も珍しい。トム・クルーズのことだ。ハンサムなアイドルとしての若い頃から今まで早くも30年。今なお第一線にたち、相変わらずのアクションを見せている。しかもスタントなしで。ここまで大物俳優でありながら、芸術的な感性を感じる作品にも出演している。それでいて、50歳も半ばを超えているのに、本作のような激しいアクションにスタントなしで挑んでいるのだからすごい。もはや、若かった頃のアイドルのイメージとは対極にいると思う。

正直言うと、本作も半ばあたりぐらいまでは、『ミッション:インポッシブル』や『007』シリーズなどに共通するアクション映画のセオリーのような展開が目についてしまい、ほんの少しだけだが「もうおなかがいっぱい」との感想を抱きかけた。だが、本作の後半は違う。畳みかけるような、手に汗握る展開はシリーズでも一番だと思う。それどころか、今まで私が観てきたアクション映画でも一、二を争うほどの素晴らしさだと思う。

なぜ本書の後半の展開が素晴らしいのか。少し考えてみた。二つ思いついた。一つは、トム・クルーズふんするイーサン・ハントだけを完全無欠なヒーローとして描いていなかったことだ。もちろん、ハントのアクションは驚異的なものだ。それらのアクションのほとんどを50代半ばになるトム・クルーズがスタントなしで演じないことを考えるとなおさら。だが、彼にはIMFのチームがある。ベンジーとルーサー、そしてイルサのチーム。クライマックスに至るまで、ハントとハントのチームは最後の瞬間まで並行して難題に取り組む。普通、こうした映画の展開は、主人公が最後の戦いに挑むまでの間に、露払いのように道を開く仲間の活躍を描く。それは主人公を最後の戦いに、最大の見せ場にいざなうためだけに存在するかのように。だが、本作ではハントが最後の努力を続けるのと同時に、ハントの仲間たちもぎりぎりまで戦う。その演出はとてもよかった。もはや一人のスーパーヒーローがなんでも一人で成し遂げる展開は時代にそぐわないと思う。

また、超人的な活躍を繰り広げるハントの動きも本作のすばらしさに一役買っている。ハントの動きにうそが感じられないのだ。スタントが替わりに演じていたり、ワイヤーアクションによる動きは目の肥えた観客にはばれる。要するにトム・クルーズ自身がスタントなしで演じている様子が感じられるからこそ、本作の後半の展開が緊迫感を保てているのだと思う。

それを是が非でも訴えたいかのように、パンフレットにもスタントなしの撮影の大変さに言及されていることが多かった。トム・クルーズが撮影中に足を骨折したシーンと、全治9カ月と言われたケガからわずか6週間で撮影に復帰したトム・クルーズの努力。トム・クルーズがけがしたシーンは、パンフレットの記述から推測するに、ハントがイギリスで建物の屋根を走って追いかけるシーンで起こったようだ。骨を折っても当然と思えるほど、本書のアクションは派手だ。そして、ここで挙げたシーンの多くは、本作の前半のシーンだ。私が「もうおなかがいっぱい」とほざいたシーンとは、実は他のアクション映画ならそれだけでメインアクションとなりえるシーンなのだ。それらのシーンを差し置いても、終盤のアクションの緊張感が半端ないことが、本作のすごさを表している。

なお、50代半ばというトム・クルーズの年齢を表すように、直接肉体で戦うアクションシーンは本書にはそれほど出てこない。だが、本書にはそのことを感じられないほど、リアルで斬新なアクションシーンが多い。例えば成層圏を飛ぶ飛行機から飛び降りたり、ヘリコプターから吊り下げた荷物へと10数メートル飛び降りるシーン。パリの街並みを逆走してのバイクチェイス。イギリスで建物の屋上を走り抜け、ジャンプするシーン。そもそも、ミッション:インポッシブルのシリーズにはアクション映画におなじみの格闘シーンはさほど登場しない。それよりも独創的なアクションが多数登場するのがミッション:インポッシブルのシリーズなのだ。

ちなみに、本作はIMAXでみた。本当ならば4Dでみたかった。だが、なぜか4Dでは字幕ではなく、吹替になってしまう。それがなぜなのかわからなかったが、おそらく4Dの強烈な座席の揺れの中、観客が字幕を読むのが至難の業だからではないか、という推測が妻から出た。IMAXでもこれだけの素晴らしい音響が楽しめた。ならば、4Dではよりすごい体験が得られるのではないだろうか。

よく、映画は映画館でみたほうがよい、という作品にであう。本作は、映画館どころか、4Dのほうが、少なくともIMAXで観たほうが良い作品、といえるかもしれない。

なお、スタントやアクションのことばかり誉めているが、共演陣が素晴らしいことはもちろんだ。だが、本作の俳優がどれほど素晴らしかろうとも、アクションシーンの迫力がそれを凌駕している。

また、本作は少々ストーリーがややこしい。誰が誰の味方で、誰が誰の敵なのか、かなり観客は混乱させられる。私自身、本作の正確なストーリーや、登場人物の相関図を書けと言われると詰まってしまう。多分、そこは正式に追っかけるところではなく、アクションシーンも含めて大迫力の映画館で何度でも見に来てね、という意図なのかもしれない。私もそれに乗ってみようと思う。

‘2018/08/14 TOHOシネマズ ららぽーと横浜


屍者の帝国


本書は読書人の間で話題になっていた。

屍者が動く世界。
主役はホームズの相手役であるワトソン。
途中で著者の伊藤計劃氏が死去され、途中から盟友の円城塔氏が後を引き継ぎ完成。

本書のこの様な特徴は、話題に持ってこいだ。私も本書の評判は聞いていて一度読みたいと思っていた。

そもそも、伊藤計劃氏の著書はまだ読んだ事がなく本書が初めて。ただ、未読ではあったものの、伊藤計劃氏の作品が取り上げられた書評は目にしていた。それを読んで伊藤氏のことをSF作家と認識していた。実際、本書を読んでみて印象に残ったのもSFを思わせるような世界観だ。だが、本書の著者は上に書いたとおり途中で交替している。どこまでが伊藤氏の筆によって書かれ、どこからが円城氏の執筆部分なのか。私は本書を読みながらその事がずっと気になっていた。その答えは末尾のあとがきに書かれていた。それによると伊藤氏が担当したのはプロローグだけらしい。つまり、伊藤氏はプロローグによる世界観を構築したのみ。内容のほとんどは円城氏によって書かれたということだ。円城氏の作風も文学の極北を目指すような実験性に溢れているが、SF的なところも多分にある。だから円城氏も書き継げたのだろう。だが、それによって伊藤氏が本書に与えた貢献が薄れることはない。本書の特色は伊藤氏が作りあげた世界観にあるのだから。

なにしろ、死者が動く世界だ。しかもゾンビやグールのようなファンタジー世界の住人ではなく、科学技術にのっとって死者を動かすという設定が奇抜だ。そして時代設定を近未来でなく過去としているのもよい。

なぜかというと、今の私たちは死者を動かす技術を持っていないからだ。私たちを支配する倫理観は、死者を動かす行いを無意識に拒むように仕向けている。死者自体を忌避するような検閲が働いてしまうのだ。なので、本書の舞台を近未来に設定することは難しい。なぜなら、今の倫理観の延長上に死者を動かす技術を成立させることになるからだ。それは読者にとって抵抗を感じることだ。それを回避するため、伊藤氏は時代を過去に設定したのではないか。それによって、本書の世界観は私たちにとってなじみ深くなるが、実際は別の世界の物語として構成されるのだ。

読者は本書の物語が別世界に展開する物語と了解しつつ本書の世界観を受け入れる。倫理観の抵抗に遭うことなく。屍者を蘇らせ、心を持たないロボットの様に自在に使役する。読者はそんな世界観に馴染みつつ、倫理観の抵抗を感じることもない。伊藤氏が作りあげたのは、そのような世界観だ。

屍者が違和感なく街中を歩き、軍隊にあっては忠実な兵士として命を顧みず突っ込んでいく。ワトソン氏が住むのはそのような世界だ。ワトソン氏はその優秀さゆえ、ある機関に雇われることになる。ある機関は、医者の免許をワトソン氏のために用立て、世界各国へと任務で赴かせる。その任務とは、屍者を多数配下におき、自在に使役する謎の組織の調査。

ネクロウェアと呼ばれる屍者の操縦技術。本書の19世紀末では、この様な技術が発明されおおっぴらに使用されている。ネクロウェアがあっての屍者文化だ。だが、ネクロウェアは万人に広く公開されている技術ではない。しかし、実際に大量に屍者を扱っている組織がいる。そればかりかその組織は屍者に新たな能力を吹き込む技術を開発し、それで死者をより複雑に操っているふしがある。

SFの世界でよく知られているのは、アイザック・アシモフによるロボット三原則だ。本書にはその三原則に似た別の三原則が登場する。名づけてフランケンシュタイン三原則。提唱者はフローレンス・ナイチンゲール。
一、生者と区別のつかない屍者の製造はこれを禁じる。
二、生者の能力を超えた屍者の製造はこれを禁じる。
三、生者への霊素の書き込みはこれを禁じる。

そのような原則を踏まえてワトソン氏がまず訪れたのはボンベイ。大英帝国の植民地インドにあって有数の都会。ここでバーナビーという武闘派パートナーとタッグを組むことになる。

基礎調査を終えた二人が向かったのは中央アジア。今でいうアフガニスタンにあたる。ここで二人に相対するのは、アレクセイ・カラマーゾフ。いうまでもなく『カラマーゾフの兄弟』の三男である。学究肌の控えめな人物アリョーシャとして世界文学史上でも著名なキャラクターだが、本書においては「ザ・ワン」の遺志を継ぎ、屍者の秘密を探る人物として登場する。

「ザ・ワン」とは、屍者を操作する技術を発見した人物である。というよりも屍者を創り上げる技術を発見した人物といえば分かりやすい。「ザ・ワン」が創造した屍者こそ、あのフランケンシュタインなのだから。上に挙げた三原則でも名前が登場するフランケンシュタインだ。

本書は虚構の世界が舞台である。著者はそれを最大限に利用し、虚構の世界の他の住人たちを自在に登場させ、本書の世界を華やかな物にしている。後の世の私たちのよく知る人物が数多く登場するのも本書の面白さといえる。

本書はワトソン氏をさらに異境へといざなう。それは日本。文明開化真っ只中の、いまだに西洋人を指して異人やメリケンさんと呼ぶ時代の日本である。そこにさらに屍者まで乱入させてしまうのだから、著者もまったくいい度胸をしている。幕末ならいざ知らず、和洋がぎこちない形で混じわっていた明治初期は、小説でもあまり読んだことがない。だが、著者は本書は外遊中に日本を訪れていたグラント米国元大統領と明治天皇の会見の場を、あろうことか屍者からなる軍勢に襲わせている。ワトソン氏の波乱万丈な旅行もそうだが、著者のプロットも相当冒険だ。ただでさえ描くのが難しい時代と場所なのに米国元大統領と天皇の会見の場を屍者に蹂躙させるのだから。でもここまでぶっ飛んだ設定だとかえってすがすがしく思えてしまう。

円城氏の著作を読むのはは「これはペンです」に続いて久々だが、どちらかといえば理論に裏打ちされた冷徹な文体が記憶に残っている。本書で目立つのは断定調の「〜る」を多く用いた文体だ。その筆致は、屍者という冷えたクリーチャーが登場する本書にあって疾走感を与える効果を発揮している。そもそも本書の文体は冷徹を通り越し、全体が冷えている。それは、冷えた死者が動き回る本書の世界観にふさわしい。冒険小説を思わせる波乱万丈な筋書きで血沸き肉踊る戦闘シーンもふんだんに用意されているのに、これほどまでに熱量が感じられない小説はなかなかない。それは読む人にとっては違和感を感じるかもしれない。だが、それが逆に本書に印象的な読後感を与えている。むしろ、死者がうごめく本書にあって、冷えていないほうがおかしいと思えるほどに。

だが熱量の点を抜きにしても、本書は生と死の境目がどこか、という深遠なテーマを追求しておりとても興味深い。意思を持たず操られていればそれは屍者なのか。果たして意思とはどこにあるのか。どこまでが自由意志なのか。自由意志があったとしてそれをどこまで発揮できているのか。

フランケンシュタイン三原則にある、生者への霊素の書き込み。これこそは、ネクロウェアを使って生者を屍者として扱う技術。ある組織とワトソン氏が追い求める本書の核心でもある。ここに至り、生者と屍者の区別は融けて無くなる。

生と死を区別する無意識の判断。著者はこの点を執拗に揺さぶる。読者は本書を読み進めるうちに、自らの価値観が揺さぶられることに気づくはずだ。果たして自分たちが生きていると断言できる根拠はどこにあるのか、と。

SFというジャンルが近未来の世界を借りて、人間の常識や概念を揺さぶることにあるとすれば、本書は過去の時間軸を借りて哲学的なまでに死生の境目を追い求めた作品といえる。円城氏恐るべしである。そして、この世界観を構想した伊藤氏もまた同じ。夭折が惜しまれる。私も伊藤氏の作品を読んでみなくては。そう思った。

‘2016/01/31-2016/02/10


グランド・イリュージョン 見破られたトリック


2016年も残り四ヶ月になり、ようやくの初観劇で観たのが本作である。観劇活動が低調な2016年を象徴するかのように、本作は鉄則から外れた形で観てしまった。鉄則というのは、必ずシリーズ物は第一作から観始めること。それは私にとって全てのメディアを通しての鉄則。本も映画も舞台も含めて。なのに、本作の前作となるグランド・イリュージョンを観ることなく、パート2である本作から観てしまった。

これは私にとっては忸怩たるところだ。もちろん、制作側はパート2からでも楽しんでもらえるように作っているはず。それは当然だ。だがそうは言ってもシリーズ物で毎回物語の背景の説明はしない。むしろ省くのが定石だ。前作を観た方にとってみれば、背景説明は冗長でしかない。それは映画そのものへも悪印象を与えかねない。なので、前作を観たという前提で製作者は続編のシナリオを書く。本作にも当然のように前作を観た方にしか分からない描写があった。私としてはもどかしい思いを持ちながら本作を観た。それはもちろん制作側の非ではなく、前作を観ずに本作に臨んだ私の責任なのだが。

だが、前作を観ていない私にとって救われることがたった一つだけある。それは、本作と前作を比較せずに楽しめる事だ。一緒に観た妻は前作を観たという。妻によれば、本作は前作で受けたほどの新鮮味はなかったとか。ただ、前作に比べてアクションシーンが増えた印象があったという。アクションシーンについては、私にも少し猥雑な印象をもった。それは、本作の舞台の多くがマカオだったことも関係しているのかもしれない。

猥雑な都市と洗練されたテクノロジー空間の対比。本作はその点が鮮やかだったように思う。一粒の塵すら存在し得ない計算された空間が、エネルギー溢れるカオスなマカオに潜む。そんな本作の設定は、もちろんジョン・M・チュウ監督が意図したことに違いない。本作はアクションシーンの多くがマカオで繰り広げられる。その一方でフォー・ホースメンによる精妙なカードの手妻捌きはIT空間で繰り広げられる。最後のグランド・イリュージョンすらもマカオではなくロンドンという洗練された都市で行われる。その対比があまりに分かりやすいのが、少しだが本作の欠点なのかもしれない。

また、フォー・ホースメンの5人(なぜ5人なのにフォーなのかは知らない)たちの演技は、スタイリッシュなあまり、まとまりすぎていたキライがあった。なんというか、タメがないというか、遊びがないというのか。それは主人公が五人にばらけてしまったため、私の視点が散ってしまったことにも原因があるのかもしれない。または、トリックにだまされまいとする私の気負いのせいかもしれない。ディランと父の挿話や、敵と味方に別れたマッキニー兄弟の掛け合い、ジャックとルーラの恋の芽生えなど、よく見れば面白いシーンがあるのに、そこにスッと入り込みきれなかったのが惜しい。もう一度本作は観てみなければと思っている。

一方で、敵方の出演者はいずれも個性派揃い。とくにダニエル・ラドクリフはハリー・ポッターを演ずる以外の彼をスクリーンで見るのは初めて。とても興味を持っていたが、残念ながら小粒な印象が拭えなかった。顎鬚を生やしていたとはいえ、彼の童顔がそう思わせたのだとしたら、気の毒だ。でも、演技面では悪役になるにはもっとエキセントリックな感じを出したほうがよいように思える。それぐらい敵役としては少し印象が薄かった。とはいえ、敵役でバックにつく二人が名優中の名優だったからそう思ったのかもしれない。マイケル・ケインにモーガン・フリーマン。この二人の重厚感溢れる演技はさすがと思わされるものがあった。この二人の存在がなければ、派手な展開の続く映画自体の印象も上滑りしてしまい、後に残らなかったのではないかとすら思えたから。でも、ダニエル・ラドクリフには子役出身の役者として是非成功してほしいと思っている。

また、私が気になったのは、主要キャストからは漏れてしまっているが、マカオの世界最高のマジックショップオーナーの老婆。途中まで全く英語が使えず、広東語で話していたのが、実は英語がぺらぺらという役柄。それは
フォー・ホースメンを見極めていたという設定。それがすごく自然で、素晴らしいと思った。調べたところ、ツァイ・チンという中華民国出身の女優さんのようだが、この方を知ったのも本作の収穫だ。お見事。

しかし結局のところ、本作の魅力とはマジック描写のお見事さに尽きる。作中のいたるところで見られる本場のテクニックには魅了された。これらマジックはVFXなどの視覚効果ではなく、実際に我々が体験できるマジックなのだという。つまり人はいかにしてだまされやすいか、という実証でもある。私は手品に騙され易い人と自認しているからそれほどのショックはないが、大方の人もやはり本作に仕掛けられたマジックには騙されるのではないだろうか。「あなたは必ず、爽快にダマされる。」というコピーには偽りはないといえる。

また、本作は結末がいい。本筋のトリックのネタはきれいに明かすが、ストーリーとして最後になぞを残す演出が余韻を残すのだ。本作を観た誰もが、カーテンの後ろには一体何が・・・?という思いを抱くことだろう。聞くところによると、本作は続編の制作が進行中なのだとか。私もそれまで第一作を観、可能なら本作を再度観、備えたいと思う。

‘2016/9/13 イオンシネマ新百合ヶ丘


TOP HAT


ミュージカル「TOP-HAT」

本場のスタッフによる日本語以外で演ぜられるミュージカル。しかもタップダンスを前面に押し出した舞台。それらを生で観るのは、私にとって初めての経験である。開演前から楽しみにしていたが、本作は期待以上の出来だった。ダンスや歌の素晴らしさはもちろんだが、本作の喜劇的な側面を全く期待していなかった私に沢山の笑いを与えてくれた。喜劇として秀逸な「くすぐり」が随所にあり、私の好きな海外の喜劇作家であるメル・ブルックスの作品を思わせる内容に、いやぁ笑った笑った。

本作はフレッド・アステア主演で1935年に封切られた同名映画を演劇化したものである。フレッド・アステアといえば、私でも名を知るダンスの名手であり、かのマイケル・ジャクソンが尊敬していた人物としても知られている。本作を観に行くことが決まってからフレッド・アステア主演のTOP HATの映像を見たが、80年以上前の作品とは思えぬほどのダンスの切れとアンサンブルが素晴らしい。当時のダンスといえば、優雅であるが退屈な社交ダンスの印象が強い。しかし、そのようなスローな踊りとは次元が違うリズムに乗った靴のタップとステッキのリズムは、見事なまでに軽妙である。私のような80年代のMTV、ことにマイケル・ジャクソンのダンスを観て育ったような者にも、充分鑑賞に耐えうるだけのシャープな動きとリズムが揃う群舞。思わず見とれてしまった。

ミュージカルの冒頭、オーケストラボックスから本編の歌曲の抜粋がオーバーチュアとして流される。それに合わせて暗色を主としていた幕の投影色が、段々と色相を替え、黄色から赤へと変わりゆく。舞台の幕が上がり、Puttin’ on the Ritzの曲と共に一糸乱れぬ群舞がタップの音と共に舞われる。ステッキがアクセントとして床を叩き、靴音が鳴らす切れのある音が観客席へと響く。80年前の映像が蘇るかのようなダンスにはただ見とれるばかり。フレッド・アステアの踊りに魅了された私は、本作でも同じような群舞が見られると期待したが、その思いが叶ったのは嬉しい。

先に80年代のマイケル・ジャクソンに原作が与えた影響は書いた。逆に80年代を経て本作に取り入れられた曲もある。オランダのTacoという歌手が1983年にヒットさせたのが、本作の冒頭で唄われるPuttin’ on the Ritzで、80年代の音楽シーンでは比較的知られた曲だ。作曲はアーヴィング・バーリンで、原作では5曲を提供したことが記録に残っている。ただ、本作を舞台化するに当たって5曲ではミュージカルとして足りないため、フレッド・アステアの他作品から曲を借用して本作で使用しているという。Puttin’ on the Ritzもそのうちの一曲であり、1946年にBlue Skiesという映画の中でフレッド・アステアによって唄われている。だが、本作でPuttin’ on the Ritzが冒頭で採用されたのはTacoによるリバイバルヒットの影響もあったのではないか。だが、Tacoのカバーバージョンは80年代風の味付けが濃厚だ。今の我々が聞いてもそのサウンド・エフェクトはフレッド・アステア版よりもさらに古く感じる。Tacoのバージョンはプロモーションビデオも観ることが可能で、その中でタップも少し披露されているが、本作で演じられたタップには到底及ばない。本作のPuttin’ on the Ritzはフレッド・アステアを蘇らせたような見事なステップが繰り広げられる。80年前を蘇らせるばかりか、80年代のダンスをも凌ぐようなキレのあるダンスにはただ見とれるばかり。それを冒頭に持ってきた演出家の意図は十分に効果を上げているといえる。

しかし一点、タップについては云いたいことがある。私がタップを前面に出したミュージカルを生で観るのが初めてなので、或いは的を外した意見かもしれないが・・・マイクがタップ音を感度良く拾うためか、鼓膜にビシビシとタップ音が飛び込んでくる。しかし、そのタップ音が切れのある音としては響いてこないのだ。妻に聞いたところ、タップダンスでは靴の近くにマイクを取り付けるのだとか。そのためか、タップの音が寸分の狂いなく聞こえてこず、わずかなタイミングの違いによってなのか、ほんの少し音がぼやけてしまったのは残念だった。これは演者たちの鳴らすタップ音に僅かにずれがあったからかもしれないし、会場の音響の影響があったのかもしれない。それならば、タップ音については観客が静寂にしていてくれることを信じ、一切のマイクを通さず生音を響かせたほうがよかったのではないか。

本作のストーリー自体は、一言で云ってしまえばすれ違いを元にしたラブコメディーである。ブロードウェイのスターダンサーであるジェリーが、巡業先のホテルで会ったモデルのデイルに一目惚れし、デイルもジェリーに好意を持つが、デイルはジェリーのことを友人マッジの夫ホレスと勘違いしてしまい、妻ある身なのに誘惑してきたことに怒ってベネツィアへと旅立ってしまう。ジェリーとホレス、そしてマッジも遅れてベネツィアへと向かうが、一足先にデイルは自分の服のデザイナーであるアルベルトと結婚してしまい、というのが筋書きである。

パンフレットによれば、映画版もほぼ似たようなストーリーだという。しかし、舞台化するにあたり、筋書きに様々な演出上の工夫が施されたという。そのためか、今の目の肥えた観客を飽きさせないだけの演出上の工夫が随所に見られ、だれることなく大いに楽しませてもらった。

一番の演出上の工夫は、喜劇的要素を強めたことだろう。そしてそれには、二人のトリックスター、ホレスの召使いであるベイツと、ラテン男のアルベルトの役割が大きい。この二人が筋に絡むことで、本作に笑いの味付けを効かせることに成功している。原作ではベイツとアルベルトの役割がほんの少ししかなかったようだが、本作では二人の役割を効果的に用いたことが成功の原因だろう。その点、ベイツことジョン・コンロイとアルベルトことセバスチャン・トルキアの両氏のトリックスター振りは実に見事であった。また、ホレス役のクライヴ・ヘイワード氏とマッジ役のショーナ・リンゼイ氏が演じた狂言回しとしてのすれ違いのきっかけを作る演技がなければ、観客はすれ違いに不自然さを感じ、演出効果も出せなかったであろう。実にお見事であった。

そして主演のお二人。本作がいくら喜劇として成功したとしても、本作を締めるのはやはり歌とダンスである。ここが締まらないと本作は単なる喜劇としてしか観客の記憶に残らない。アラン・バーキット氏演ずるジェリーとシャーロット・グーチ氏演ずるデイルは、踊りも歌も、容姿すらも主演を演ずるために相応しい気品を醸し出していた。フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの二人が演じた諸作品は、それだけで一つのジャンルとして認められるほどの成功を収めたと聞く。おそらくは相当に息が合っていただろうし、私が観た当時の映像でもそのことは感じられた。しかし本作の二人もそれに劣らぬほどの見事な息の合ったダンスを見せてくれた。いや、むしろカット割りやテイクなしで目の前で演じてくれた分、彼らの練習に掛けた努力が伝わってくるほどの素晴らしい歌と踊りだったと思う。華やかなアメリカの当時の雰囲気を80年後の我々に届けてくれるかのようなすらりとした容姿、切れのあるタップとよく響く歌声は、もう一度見たいと思わせるに充分なものだった。

また、すでに没後30年近く経ち、マイケル・ジャクソンも亡くなった今となってはますます歴史の中に埋もれつつあるフレッド・アステア。彼の素晴らしさを現代に蘇らせたことだけでも、主演の二人や振付のビル・ディーマー氏、演出のマシュー・ホワイト氏の他、スタッフやキャストの方々の作り上げた功績は、多大なものといえる。私も改めてフレッド・アステアの遺した諸作品を観て、20世紀の初めを彩った素晴らしいエンターテイナーの演技に見惚れてみたいと思った。

2015/10/11 シアターオーブ 開演 12:00~
https://www.umegei.com/tophat_musical/


夜愁〈下〉


承前として、上巻から続く1944の章で本署は始まる。これから読まれる方の興を削いでしまうので、登場人物たちの動向については書かない。が、本章で起こる様々な出来事は、運命や時代に左右される人々について、心に訴えかけるものがある。戦争という緊迫した状況下では、人は普段被る仮面を剥がされ、うろたえ、醜い姿もエゴもさらけ出す。空襲に怯えるロンドンで、爆撃された廃墟の傍で、V2が飛来する恐れの中、人々は生きる。

人が懸命に、も生きようとする本章には、色々と心に残る場面が登場する。空襲のさなかにどうしようもなく惹かれあうレズビアン。爆撃が迫る中、牢獄に閉じ込められた子供たち。爆撃された街で、堕胎によって瀕死となる女性。わが日本でも空襲体験やそれを描いた小説も多々あれど、本書の空襲描写は、ことさら印象に残る。おそらくは私を捨てて救護活動に没頭する消防士の視線からみた空襲描写が多いからであろうか。

1944の章の描写を通し、1947の章に登場した人々の過去に何があったのか、読者は理解する。1947の登場人物達に共通する空虚さの中に、嵐の中を潜り抜けてきた人々の反動を観る。

最後に1941年。

普通の小説ならば、プロローグとして書かれる内容の本章だが、本書は末尾の章として置かれている。1944年の大戦を懸命に生きる登場人物達。彼らがどうして大戦の混乱を、それぞれの立場で身を置くようになったのか。本章ではそれが書かれる。

繰り返すが、本章の内容は登場人物たちの紹介であり、本来ならばプロローグとして物語の前提を説明するものである。

上巻のレビューの最初に、本書を読んだことを3年半しか経っていないのに忘れたと書いた。なぜ忘れたかについては、すでに上に書いてきた通りである。つまり、文章の構成順と物語の時間軸の順序が逆だからであり、本来ならプロローグにあたる部分が最後に来ているためである。物語の時間軸に沿えば、最後に置かれるべきシーンが冒頭の1947の章に配されている。そのため、従来の小説の読み方では読後感が混乱してしまうのである。特に、斜め読みに読んでしまうと、全く記憶に残らないということになってしまう。おそらくは3年半前の私は、そのような読み方をしてしまったのだろう。言い訳をするようだが、丁度この時は、私的に衝撃的な出来事があり、本書に集中できていなかったのかもしれない。

だが、今回は前回の失態を取り返せたのではないかと思う。本書の凄さと意図が把握を実感することができたように思う。

1941の章の最期は、廃墟の中から救い出された少女の美しさに、消防士が感動する場面で終わる。
1944の章の最期は、空襲に死んだと思った恋人が見つかり、消防士がそのことを友人に告げる場面で終わる。その恋人が友人と情を通じあっているとも知らずに。
1947の章の最期は、ロンドンをさまよい、ロンドンの静けさを、うつろに見る元消防士の視線で幕を閉じる。元消防士のケイの視線で。

本書はレズビアンという愛の形を、時代に翻弄された無残な愛の終わり方で描いたものである。その無残な愛の形を描くためには、時間軸では無残に、文章構成では感動で終わらせる必要があったのだと思う。本書のラストが、感動で終われば終わるほど、その愛が無残に終わる結末を知る読者には、なおさら虚しく響いてしまう。そんな効果を狙っての、本章の構成だとすれば、その効果は確かに上がっているといえる。

’14/07/02-‘14/07/08


夜愁〈上〉


実は本書を読むのは二度目である。3年半前に一度読み終えている。本好きで、様々な本を読んできた私だが、再読する本はそれほどあるわけではない。どれだけ面白い本を読もうが、同じ本をもう一度読むよりは、別の本に手を伸ばす。それが私の読書スタイルである。

本書はわずか3年半の間を経て再読することになった。本書がそれだけ再読に耐えうる内容か、と問われるとそうとばかりは云えない。では、なぜ再読したか。それは、単に私が前に読んだ内容を忘れてしまっていたからである。読み始めて数十ページでようやくそれに気が付いた。3年半しか経っていないのに、内容を忘れてしまう本書。本書が読むに堪えない内容かというと、違う。むしろ素晴らしい内容であることを、再読によって再確認させられた。本書で描かれている作品世界は、実に濃密で素晴らしい。では、私がなぜ内容を忘れてしまったのか。そのことについて、本書の素晴らしさと合わせて、上下巻の本レビューを通じて記そうと思う。

本書の舞台は第二次大戦中の英国ロンドンである。大戦下の各都市に違わず、ロンドンもまた、様々な戦争の荒波に晒された都市である。きな臭い欧州情勢に怯える開戦前夜。V2ロケットの空襲に脅かされた開戦中。勝利するも、第二次大戦中勝利者の主役の座をアメリカに奪われた空虚感の漂う終戦後。第二次大戦中の写真集を観ても、ロンドンを被写体とした写真は、空襲に備えたガスマスクを被った人物や、空襲に被災した建物など、陰鬱とした対象が採り上げられている。

本書は、文庫本で上下2巻に別れているが、その中で3章に分かたれている。1947、1944、1941という順番の3章に。これは云うまでもなく、西暦の年数を示している。すなわち、終戦後の1947、大戦末期の1944、大戦開始直後の1941。本書の最大の特徴は、この3章の順番にある。

まず、1947年。

大戦に勝利したものの、勝利の立役者であるチャーチルは失脚し、インドをはじめとした海外の植民地も独立の動きを強める。勝者の高揚感もなく、没落の予感に震える大英帝国。衰退の道を辿るロンドンの匂いが、本章の行間のあちこちから立ち上っている。屋根裏部屋に逼塞するケイ。37歳の彼女は、男に見間違えられる格好で、世捨て人のような暮らしを過ごす。彼女の過去に何があったのか。ヘレンとジュリア。レズビアンの関係である彼女たちは、ヘレンの嫉妬からくる倦怠期の兆候を迎えている。彼女たちはどうやって出会ったのか。ヘレンと共に働くヴィヴ。新しい時代の働く女性である彼女には、探し求めている女性がいる。それは誰で、なぜ探し求める必要があるのか。恋人のレジーとは不倫の関係を続けている。真面目に働く技師であるダンカン。ヴィヴの弟であり、まだ若いのにマンディ氏という老人と生活を共にし、沈滞しきった毎日に苛立ち始めている。偶然にも仕事場でばったり、過去の友人であるフレイザーに出会い、若者らしい振る舞いを思い出したかのように街にでる。マンディ氏とはなぜ同居することになり、フレイザーとはどんな過去を共有したのか。

本章の終わりで、何かが劇的に変わることはない。何かが解決することもない。しいて言えば、ヴィヴが探していたケイに巡り合い、過去に託された品物を渡せたのみである。ダンカンはマンディ氏との時間から逃れようと飛び出し、ヘレンは嫉妬の余りに自殺を図り、ジュリアとの仲は倦怠から醒めない。

ロンドンは、大戦後の溌剌とした勝者気分を取り戻す訳でもなく、ぼんやりとした時間を過ごしていく。登場人物たちのその後は、ロンドンの霧のように、杳として見えない。

続いて1944年。

V2ロケットの襲来と、バトル・オブ・ブリテンの興奮が街を活気で覆っている。至る所に空襲があり、家屋が爆撃され、人々は斃れ、泣き崩れ、泣く間もないほどの救助活動に忙殺される。

1947の章にでてきた登場人物たちの境遇は大きく違っている。まだ読んでいない方のために、詳細は書かないが、1947のそれぞれの過去が、戦争という非常時の中、細やかに、鮮やかに描かれる。

上巻は、1944の章の途中で一旦幕を閉じる。戦争に翻弄される、人々のその後が、どうなるかに気を持たせつつ。

’14/06/25-‘14/07/02