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さよならホテル・カリフォルニア


Eaglesの『Hotel California』の歌詞の一節はあまりにも有名だ。
We haven’t had that spirit here since 1969
この一節は、歌詞の中でホテルに立ち寄った主人公がキャプテンにワインを頼んだところ、マスターが返したセリフだ。

ここで言う1969とは、ウッドストック・フェスティバルが開かれた年。この年を境にロック・ミュージックから心が失われてしまったことへの惜別の思いがダブル・ミーニングとして込められている。まさにロック史に残る素晴らしい歌詞だと思う。

私は1973年の生まれだ。1969年は全く知らない。
私の両親が持っていたレコードは、クラシックがイージーリスニングを除けば、サイモン&ガーファンクルかカーペンターズだった。
多分、私が育ってきた音楽環境は、60年代の音楽シーンを知る人にとってはロックの抜け殻でしかないのだろう。
だが、私にとっては生まれた時から周りに流れていたのは紛れもなく70年代の音楽。私は1970年代の音楽を子守唄として育った。

そんな1970年代の音楽を改めて振り返ってみようと思ったのが、コロナウィルスによる逼塞の日々だった。1960~70年代から活躍するミュージシャンのアルバムをデビューから最新盤に至るまでの全てを聴き通す。そのような活動を始めてから、本稿をアップするまで一年十ヵ月の日々が経過した。
以来、たくさんのアーティストの音楽とアルバムを聴いてきた。
David Bowie、Eagles、Billy Joel、Queen、The Beatles、The Police、Stevie Wonder、Supertramp、U2、The Doors、Deep Purple、Yes、Genesis、Led Zeppelin、The Who、Traffic、Fleetwood Mac、Jackson Browne、Doobie Brothers、Steely Dan、Kansas、Eric Clapton、George Harrison、Linda Ronstadt、The Band、Van Halen、Dire Straits、KISS、Daryl Hall & John Oates、Paul Simon、The Steve Miller Band、Rod Stewart、Electric Light Orchestra、The Rolling Stones、そして今はElton Johnを聴いている。

この後も、Bee GeesやBruce Springsteen、Pink Floyd、Aero Smith、Diana Ross、Barbra Streisand、なども聴くつもりだ。

一方、本書に登場するアーティストは上のリストには出てこない。なぜなら、本書に登場するのはすでに名声を博したミュージシャンよりも、どちらかと言えばまだエッジの尖った最先端のアーティストが多いからだ。上に書いたアーティストの中で本書に出てくるのは、David Bowie、.U2とBruce Springsteenぐらい。つまり、私の聴いているのはどちらかと言うと70年代でもメインストリームにいる売れ線アーティストなのだろう。

著者は、いくつかのアルバムのライナーノーツで名前を見かけたことがある。ミュージック・ライフの編集長だった方として有名だ。
本書は著者が手がけた当時のインタビューから成っている。

ミュージック・ライフは私の印象ではかなりメインストリームの音楽を扱っているようなイメージがある。だが、ここに収まっている面々はその印象とは違っている。そもそも私があまりパンク・ロックを聴き込んでいないこともあるのだろう。The Sex Pistols、The Clash、The Stranglers、Patty Smyth、New York Dollsなど、本書に登場するミュージシャンは私がまだ音に疎いミュージシャンだ。それは私の単なる無知に過ぎない。

むしろ、Eaglesが別れを告げたロックがどこに向かうのかを考える上で、この時期はとても重要だと思う。そもそも70年代の音楽は決して抜け殻ではない。むしろ、多様化が進んだ時期であると思う。あらゆるロックのジャンルが派生したのは1970年代なのだから。その中で、荒々しいロックの反抗心を持ち続けたのがパンク・ロックであり、産業の中で威勢を張り続けようとしたのが本書に登場するミュージシャンたちではないだろうか。

実際、本書に収められたインタビューを読んでいると、ロックの世界で生計を立てる自らを認めながら、その中でどのようにしてオリジナリティーをだしていくかという葛藤が見える。
つまり、まだまだロックには可能性があった時代のインタビューであり、そこにはロックの気概と魂がこもっていた。

80年代こそ、メインストリームはわかりやすい音楽が増えたし、それは70年代の終わりのディスコ・ブームによって予言されていた。
だが、80年代でも、やはり反抗する気概を持ったアーティストはいたし、それは90年代から現代に至るまで変わらない。

私たちが支持すべきは、時代と言うよりも、そのアーティストの成長であり気迫であり、悩みであり葛藤であると思う。
最近の音楽ジャーナリズムは斜陽だろう。けれど、インタビューを通して時代の空気を後世に残す点では、まだまだ有効な手段だ。頑張ってもらいたいと思う。本書がその証しだ。

‘2020/06/03-2020/06/04


ボヘミアン・ラプソディ


涙こそこぼさなかったけど、泣いてしまった。ここまで再現してくるとは。映像と音楽でクイーンとフレディ・マーキュリーが私の中で蘇った今、彼らの曲の歌詞が私の中で真の意味を持って膨らんでいる。ライブ・エイドに遅れて育った私自身の後悔とともに。

ロック少年としては、私はかなり遅咲きの部類だ。中学三年生の時。1989年の春頃だったと思う。友人に貸してもらった映画のサントラ(オーバー・ザ・トップ、ロッキーⅣ、トップ・ガン)から入った私は、一気に洋楽にはまった。高校の入学祝いにケンウッドのミニコンポを買ってもらってからは、バイト代や小遣いのほとんどをCDに費やしていた。それでもなお、私は時代に遅れたロック少年だと思っている。なぜなら私はライブ・エイドをリアルタイムで経験していない。私が音楽にはまった時、FM雑誌に新譜として特集されていたのはクイーンの「The Miracle」。クイーンの歴史の中では晩年に発売されたアルバムだ。フレディ・マーキュリーが存命の間でいうと最後から二つ目にあたる。だから私は、リアルタイムでクイーンを聞いていた、とはとても言えない。

しかし、私が今までの人生で訃報を聞いて一番衝撃を受けたのはフレディ・マーキュリーのそれだ。エイズ感染というニュースにも驚いたが、翌日、畳み掛ける様に死のニュースが届いた時は言葉を失った。洋楽にどっぷりはまり、当時すでに「A Night At The Opera」がお気に入りだった高校二年生にフレディ・マーキュリーの死は十分な衝撃を与えた。さらに数年後、フレディ・マーキュリーの遺作として出された「Made In Heaven」は、ラストの隠しトラックにトリハダが出るほどの衝撃を受けた。「Made In Heaven」を始めて聴いた時の衝撃を超えるアルバムには、昔も今もまだ出会っていない。それ以来、クイーンは私のお気に入りグループの一つであり続けている。

本作が公開されることを知った時、私は半年以上前から絶対見に行くと決めていた。クイーンというバンドの成り立ちから栄光の日々が描かれる本作。だが、より深みを持って描かれるのが、フレディ・マーキュリーの出自や性的嗜好だ。パールシーの両親のもとに生まれ、インドで教育を受けてイギリスに移り住んだ出自。バイ・セクシャルとしての複雑な性欲の発散の日々。それらは、クイーンの大成功の裏側に、複雑で重層的な深みを与えていたはずだ。その点はロック・バンドの成功という表面だけではなく、もっと深く取り上げられるべきだと思う。クイーンはそうした意味でもいまだに特異なグループであり続けている。本作はまさにクイーンの特異さを描いている。本作は、私の様なアルバムとWikipediaと書籍でしかクイーンをしらない者に、より多面的なクイーンの魅力と闇を伴い、心にせまり来る。

正直、私は本作を見るまで、フレディ・マーキュリーが自身の歯の多さを気にし、常に口元を隠す様な癖を持っていたことや、デビューの頃の彼女だったメアリー・オースティンが本作に描かれる様に公私でフレディ・マーキュリーを支えたほどの存在だったことも知らなかった。また、本作でフレディ・マーキュリーを操ろうとする悪役として描かれるポール・プレンターの存在も知らずにいた。こうした情報は私の様な遅れて来たファンにとって貴重だ。

本作はブライアン・メイとロジャー・テイラーが音楽を監修しているという。だから本作に描かれた内容もおおかた事実に即しているはずだ。内容にも明らかな偏りは感じられなかった。ブライアン・メイとロジャー・テイラーがお互いの歌詞をけなし合ってケンカするシーンなども描かれていたし。ジョン・ディーコンが「Another One Bites The Dust」のベースラインを弾いて三人のケンカを仲裁するシーンとかも描かれていた。フレディ・マーキュリーを表に出しつつも、四人の個性の違いがきちんと書き分けられていたのではないか。もっとも、本作はオープニングとエンディングをライブ・エイドで締める構成にするため、事実とは違う時間軸で描いたシーンが多々あるようだ。フレディ・マーキュリーがエイズ感染をメンバーに伝えたのはライブ・エイドの前だったかのように本作では描かれているが、ライブ・エイドの後だったらしい。フレディ・マーキュリーがポール・プレンターに絶縁を言い渡す時期もライブ・エイドの後だったとか。

ただ、本作は映画であり、そうした脚色は当然あっても仕方ないことだと思う。脚色がありながらも、芯の部分を変えずにいてくれたことが本作をリアルにしていたと思う。何よりも、俳優陣の容姿が実物の四人にそっくりだったこと。それが一番、本作に説得力を与えていたと思う。フレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックは、以前友人から勧められて観ていた「Mr.Robot」の主人公としておなじみだった。また、娘たちが好きな「ナイト・ミュージアム」にも登場していた。確かに顔はフレディ・マーキュリーに似ているとは思ったが、本物より目が少し大きいな、とか。でも演技があまりにも迫真なので、次第に本物とそっくりに思えてくるから不思議だ。また、私の感想だが、ブライアン・メイにふんしたグウィリム・リーがあまりにもそっくり。彼がギターを弾くシーンだけで、事実との些細な違いなどどうでもよくなったぐらいに。「Bohemian Rhapsody」の有名な四人の顔の映像や、「 I Want to Break Free 」の女装プロモーションビデオも本作では四人が再現している。そうしたクイーンのアイコンともいえる映像を俳優たちがそっくりに演じているため、時間がたつにつれ、俳優の容姿が本物に近づいていくような錯覚を覚える。エンド・クレジットに本物の「Don’t Stop Me Now」の映像が使われることで、観客は映画が終わり、今までのドラマを演じていたのが俳優だったことにハッと気づかされる。

そして本作の音楽は、映像と違い、あえてフレディ・マーキュリー本人の声を多くのシーンで使っているそうだ。劇中でフレディ・マーキュリーが歌う、音源として残されていない歌声は、私もYouTubeで映像を観たことがあるカナダ人のマーク・マーテルが担当したそうだ。むしろ、それで良かったのではないかと思う。なぜならフレディ・マーキュリーの声はあまりにも唯一無二だから。マーク・マーテルのような手練れのそっくりさんが吹き替えるぐらいでなければ、いくら実際の俳優がうまく再現したとしても、観客の興を削いでしまう可能性が高い。

それよりも本作は、フレディ・マーキュリーという人物の志と成功、そして死に至るまでの濃縮された生の躍動に注目すべきだ。彼の生はまさに濃縮という言葉がふさわしい。たとえ45年しか生きられなかったとしても。おそらく普通の人の数倍も濃い密度をはらんだ人生だったのではないだろうか。本作にも「退屈などまっぴら」という意味のセリフが三度ほど出てくる。「俺が何者かは俺が決める」というセリフも登場する。一度やったことの繰り返しはしない、カテゴリーにくくられることを拒むクイーンの姿勢が本作の全編に行き渡っている。何気なく流され、生かされているのではなく、自分で選択した人生を自分で生きる。そしてその目標に向かい、時には弱音も吐きながら、理想は捨てぬまま、高らかに生の高みを歌い上げる。本作にはそのスピリットが貫かれていた。彼らの曲の歌詞の意味が真に理解できた、と冒頭にも書いたが、それは本作に一貫するテーマ、生の謳歌に通じる。本作が発するメッセージとは生きる事への賛歌だ。

私が訪れた回が満席で、次の回に回してもすぐに席がいっぱいになり、私が座ったのは前から二列目。とても見にくかったが、その分、迫力ある波動が伝わってきた。曲中で流れる実際の唄声の多くは私が好きな曲。私がクイーンで好きな「The Prophet’s Song」 、「39」や 「Innuendo」が流れなかったのは残念だが、最後に流れた「The Show Must Go On」が私の涙腺を緩めてしまった。人生という面白くも厳しく、愉快で苦しいショー。自分のショーは自分の力で演じてゆかねばならない。生きていく限り。表現者としてこれ以上のメッセージが発せられるだろうか。

‘2018/11/17 TOHOシネマズ六本木ヒルズ


ミスター・メルセデス 下


下巻は上巻からの承前で「毒餌」の章で始まる。ホッジズの友人ロビンスンの捜査を妨害しようと、ブレイディはロビンスン家の犬を毒殺しようとくわだてる。ところがその毒餌を、ブレイディの同居する母アンが誤って口にしてしまう。泡を吹いて死んでゆく母。これをみた時、ブレイディからタガが外れる。善良な市民という名のタガが。

ただでさえ、ホッジズとの息迫るやりとりでささくれ立ち高ぶっているブレイディの精神。すでに暴走し始めていた彼の心の崩壊は、母の死によってますます拍車がかかる。身から出た錆、という言葉はブレイディはこれっぽっちも届かない。「青いデビーの傘の下」のメッセージにホッジズを殺すと宣言し、ホッジズの車に爆弾を仕掛ける。ところが車が爆発した時、ホッジズの車を運転していたのはジャネル・パタースン。ホッジズがメルセデスを調査する中で知り合い、恋仲になったミセス・トレローニーの妹だ。恋人を殺されたホッジズの怒りは頂点に達し、二人の戦いは誰にも止められない段階に突入する。この戦いは「死者への電話」の章で著者の培ってきたスキルのすべてを費やして描かれる。

本書には登場人物がそれほど多くない。少なくとも著者の今までの大作よりは控えめだ。そして、ホッジズとブレイディの対決が大きな構成となっている。なので物語の視点は二人の行動に合わせて動く。二人のすぐ上から見下ろす神の視点だ。視点も限定され、視野も広くない。ホッジズとブレイディの戦いに迫った描写が主になる。だから読者は存分に二人の戦いを堪能できる。

ホッジズは、メルセデス・キラーがどうやってミセス・トレローニーのメルセデスのキーを開けたかを突き止める。そしてメルセデス・キラーがブレイディ・ハーツフィールドであることも突き止めてしまう。

荒ぶるブレイディの次なるたくらみ。それをホッジズがどう食い止めるのか。一気に物語はクライマックスに向かう。「キス・オン・ザ・ミットウェイ」で描かれるクラスマックスへの流れは著者が得意とするところだ。著者の熟練のストーリーテリングを読者は存分に堪能できる。この章は、著者が今までに発表して来たホラーの骨法をいかし、従来の筆さばきのまま、のびのびと書ける。この章の流れは、過去に著者が出してきた幾多の名作を思い出させる。そしてミステリーである以上、超常現象も不要だ。

それどころか、著者はスタイルを変える必要もない。なぜならここまで本書を読んで来た読者は、すでに本書がミステリーであると了解しているからだ。だからこの章が今までの著者の作品を思い出させたとしても、ミステリーとして違和感なく読める。追い詰められ、自暴自棄になった犯罪者と、猟犬のような探偵の知恵比べ。そこには善と悪の対立が明確に描かれている。

断章として置かれた「公式声明」は本書のミステリーとしての締めだ。ここで著者はミステリーとしての作法にのっとっている。いったん本書をミステリーとして終わらせた後、著者は本書の結末を読者が予想する方向から少しずらす。カタルシスでもカタストロフィでもない結末へと。その結末は本書の続編を予感させる。そして実際、本書には続編が用意されている。本書の結末も、続編以降と密接につながるはずだ。

そこで著者は、ほんの少しだけ著者の得意とするジャンルに読者を誘い込む。もちろん、ミステリーの枠組みを大きく外れない程度に。ミステリーとしての本書が締められた後、エピローグで描かれるのが「ブルー・メルセデス」だ。

本書は見事なまでにミステリーとして完結している。そればかりか、続編としての色っ気を放ちつつ、著者の従来のホラー路線のファンにもサービス精神を発揮している。「ミステリーを書いたけど、ホラーもまだまだ書くよ」と。だが、そのようなサービス精神を断章に挟み、続編に色気を出すにせよ、ミステリーとしての結構が素晴らしいことが第一だ。そこがきちんと描かれていること。ロジックやプロットがかっちりしており、読者のイマジネーションをホッジズとブレイディの対決に向かせたこと。それが本書をミステリーとして成り立たせている。
だからこそ、本書はエドガー賞を受賞できたのではないか。

本書はすでに続編とさらに続々編まで出ているという。近いうちに読もうと思う。

‘2017/08/10-2017/08/11


骨の袋 下


上巻でマイクはマッティとカイラ親子に出会う。その出会いからほどなく、マイクとマッティは男と女として惹かれ合い、カイラはマイクに実の父のように懐いてくる。しかしそんな三人に、IT業界の立志伝中の人物、老いぼれたマックス・デヴォアの魔の手が迫る。マックスは死んだ息子が残した一粒種のカイラをわが手に得るためならどんな手を使うことも厭わない。マックスの莫大な財産がカイラの親権を奪うためだけに使われる。権力と資金に物を言わせたマックスの妨害はマッティの生活を脅かす。それだけではなく、マッティとの絆を深めるマイクにも妨害として牙を剥く。

一方でセーラ・ラフスに住むマイクにも怪異がつきまとう。それは正体の分からぬ幽霊の仕業。マイクの夢の中を跳梁し、現実の世界にも侵食してマイクにメッセージを知らせようとする幽霊。それは果たして、あの世からジョアンナが伝えるメッセージなのか。そのメッセージはマッティ親子を助けようとする。それによってマイクはマッティとカイラ親子とますます離れがたくなってゆく。義理の父娘として、そして男と女として。

下巻ではカイラの監護権をめぐってマイクとマックス・デヴォアの間に起こる争いが書かれる。本書に法廷場面はあまり登場しないが、法的な話がたくさんでてくる。法律だけでない。歴史までもが登場する。マイクの知らぬうちにジョアンナが何度も一人でセーラ・ラフスにやってきては何事かを調べていた。果たしてジョアンナは何を調べていたのか。

本書は、過去の出来事の謎が作中の鍵となる。謎を探ってゆく過程で置かれてきた布石や伏線。それらが謎の解明に大きな貢献を果たす。著者が布石や伏線の使い方に長けていることはいうまでもない。著者の作品には、こうした伏線が後々効いてくることがとても多い。本書の謎とは「TR-90」で20世紀初めに起こったとされる悲劇に端を発している。かつてジョアンナが探ったという謎を、今マイクが探る。時間を超えた謎解きの過程は、ある種のミステリーを読んでいる気分にさせられる。本書を発表した後、著者は「ミスター・メルセデス」でミステリーの最高賞となるエドガー賞を受賞し、ミステリーの分野でも評価を得ている。著者が培ったミステリーを書く上でのノウハウは、ひょっとすると本書をものにしたことで会得したのではないか。そう思える。

ただでさえ、ホラー作品において他の作家の追随を許さない著者がミステリーの手法を身につければ鬼に金棒だ。その上、本書は、ゴーストラブストーリーと帯に書かれている。つまり、ホラーにミステリー、さらには恋愛まで盛り込まれているのが本書なのだ。付け加えればそこに歴史探訪と法律、文学史が味付けされている。なんとぜいたくな作品だろう。

もう一つ下巻で加わるのは音楽史だ。アメリカがロックを生んだ地であることは今さら言うまでもない。著者の今までの作品には、さまざまなロックの有名な曲が効果的に使われる。本書でもそれは同じだ。特にマッティがドン・ヘンリーの「All she wants to do is dance」に乗って踊るシーンは、本書の中でも一つのクライマックスとなっている。ドン・ヘンリーの同曲が収められているアルバム「Building The Perfect Beast」は私の愛聴盤の一つなので、本書で同曲が出てきたときは驚きながらもうれしさがこみあげてきた。

そしてロックといえば、そのルーツに黒人によるゴスペルやブルースが大きく寄与していることは有名だ。ロックに影響を与えた頃のそれらの音楽の音源はいまや残っていない。音源が残っていない分、野卑でありながらエネルギーに満ち溢れていたはずだ。本書で著者はその猥雑な音楽の魅力を存分に描き出す。

抑圧された黒人のエネルギー。それがロックを産み出し、さらに本書の物語を産んだ。著者は黒人が差別されてきた歴史も臆せずに書く。それはこの「TR-90」の地に暗さを投げ掛ける。マイクは夢と現実の両方でジョアンナと思われる幽霊に導かれ、過去を幻視させられる。果たしてジョアンナの幽霊は何からマイクを護ろうとするのか。そもそもマイクやマッティやカイラを襲おうとするのはマックスだけでなく他にもいるのか。

その過去からの抑圧されたエネルギーが解き放たれた時、何がおこるのか。本書のクライマックスの凄まじさは著者の多くの作品の中でも有数ではないか。たとえば「ニードフル・シングス」のがキャッスル・ロックの町を壊滅させたように。

上巻のレビューで、本書を読んでいると著者の他の作品を読んだ気になったと書いた。とんでもない。私が間違っていた。やはり本書も傑作だった。

基本的なプロットは似通っているかもしれない。だが、その上に物語を肉づけることにおいて、著者の筆力はもはや神業にも思える。本書でも今までの著者の作品にはそれほど出てこなかった文学や歴史、法律といった要素で肉付けをしつつ、起伏に富んだ物語を編んでいるのだから。

‘2017/02/27-2017/02/27


ロックとは止まらないこと


ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したとのニュース。何年も前から候補には挙がっていましたが、受賞が現実になるとあらためてうれしいですね。と言っても私は別にボブ・ディランのファンというわけではありません。ただ、一洋楽ファンとしてうれしいのです。

ボブ・ディランはポピュラー音楽の世界で名声を築いた方。文学者でないのに受賞したことで異論もあるようですが、それは的外れな意見といえます。まず、氏は歴とした詩人です。たまたま氏が紡ぎ出す詩にメロディーが載っているだけの話。今までにも多数の詩人がノーベル文学賞を受賞しているのだから、ボブ・ディランが受賞することに何の違和感も感じません。

三年ほど前、無為な作業の待ち時間を有効活用するため、歌詞を暗記する事に励んだ時期があります。その時に真っ先に取り上げたのがBrowin’ in the Wind。1973年生まれの私にとって、ボブ・ディランはWe Are The Worldに登場するぐらいしか接点がなく、曲も超有名曲のほかはピンと来るものがありませんでした。が、氏の詩を暗記することによって、私はようやく 詩人としてのボブ・ディランのすごみの一端を知ることができたように思います。

今、ボブ・ディランは受賞に対し、沈黙を貫いています。その姿勢を称してロックである、という意見もあるようです。そもそもノーベル文学賞という権威に頭を垂れる事は果たしてロックか否か。 それもまた 私には本質ではない議論に思えます。だいたい、今のロックに反抗をイメージする人ってどれぐらいいるのでしょうか。それこそが古臭いイデオロギーではないかと。私にはビートルズが出現した時点ですでにロックに反抗や反逆のレッテルを貼るのは無意味だと思っています。

あえて、私がロックに精神的な意味を与えるとすれば、それは動き続ける、という事。停滞せず、活動し続ける事。それこそがロックではないでしょうか。

ボブ・ディランは70代に入ってもアルバムを発表しています。2009年に発表されたTogether Through Lifeは全米と全英でアルバム初登場一位にも輝きました。今もなお、Never Ending Tourと称したライブを続けているとか。動き続けている氏はまさにロックの権化そのものです。また、ボブ・ディランの文学賞受賞発表から数日後には、かのチャック・ベリーのニューアルバム発表のニュースも飛び込んで来ましたよね。90歳になるチャック・ベリーなど、いわばロックのレジェンド中のレジェンドです。止まらずに今もなお活動し続ける姿はまさにロックそのものです。素晴らしい!

確かにノーベル賞の科学分野賞は功成り名遂げた人への功労賞の性格が強いです。それは、科学分野の実績は、当初の研究発表の時点から他の科学者による検証を経るまでの時間が必要だからです。その時間は、研究者自身を権威に祭り上げるには十分の長さです。だからと言って、ボブ・ディランの今回の受賞は過去のロックスターへの功労賞と見るのはいかがでしょう。現役のロッカーに向かって功労賞と思われるとすれば、ボブ・ディランが沈黙するのもうなづけます。

でも、ボブ・ディランは断じて過去の人ではありません。今もロックを体現し続けている人です。なので今回の文学賞は堂々と受賞してもらって良いのではないでしょうか。

動き続ける。それがロックの精神。Rock Around the Clockそのものです。ただ時計を刻み続け、動き続ける。であれば、私も負けずに動き続けるのみ!