Articles tagged with: レイア姫

スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け


1977年に第一作が封切られてから42年。
その期間は、私の年齢にほぼ等しい。

私の場合、旧三部作についてはリアルタイムで体験していない。全てテレビ放送で観た世代だ。
それでも、一つの物語が終わろうとする場面に立ち会う経験は、人を感慨にふけらせる。

一方で42年にわたったシリーズが完結と銘打たれると違和感を感じるのは否めない。
故栗本薫氏の言葉を借りるなら、物語とは本来は永遠に続くものである。であるなら、スター・ウォーズとは本来、永遠に続く物語の一部分に過ぎないはずだ。
だが、本作は幕を閉じた。語られるべき無数のエピソードを残して。
その点については正直にいうと違和感しかない。

それにもかかわらず、9作目である本作をもって、シリーズをいったん完結させると言う決断は評価できると思う。

というのも、スター・ウォーズとは1つの文化でありサーガであり、人類に共通の遺産ともいえるからだ。
エピソードⅦのレビューにも書いたが、スター・ウォーズ・サーガは人々にとってあまりにも普遍的な物語となってしまった。そのため、スター・ウォーズにはいままでの物語を越えた新たな展開や、意表をついた設定の変更が許されない。いわば聖域でもあるし、不可侵の存在に祭り上げられてしまっている。

それは、スター・ウォーズのテンプレートと言っても良いほどだ。
テンプレートとは、言い方は悪いがマンネリズムであり、言い方を変えれば、安定の…である。このテンプレートに乗っかっている限り、これ以上エピソードを連ねても意味はないと思う。
そうした意味で、ここら辺でスカイウォーカーの物語に区切りを打つことには賛成だ。

だが、テンプレートにはテンプレートの良さがあり、それこそがスターウォーズの中毒性の源でもある。
むしろ、これからのスター・ウォーズとは、共通の世界観を下敷きにしたまま、他のメディアで展開した方が良いと思う。その方が深みが増すと思うのだ。

スター・ウォーズに特有の展開は、エピソードⅣ、エピソードⅥの二作ですでに提示されてしまっている。
大勢で敵陣に侵入し、なんらかの手段で敵の致命的な隙をつく。その一方で超人的な能力を持つジェダイが単身、敵陣に乗り込み宿命に立ち向かう。物語の終盤はその両面からストーリーが展開される。

エピソードⅦはその設定を踏襲し、しかもそれを逆手にとってどんでん返しを何度も組み込むことで、新旧の両世代にスター・ウォーズの魅力を知らしめた。

本作もその設定を踏襲している。
スカイウォーカーの物語を完結するためには、意表を衝いたストーリーである必要はないのだろう。
9作の間に敷かれた伏線を回収し、すべての矛盾や疑問を何億人もいる世界中のファンに対して示す。そのプレッシャーたるや大変なものだったはずだ。
だから、本作がどういう風に幕を閉じるのか。気になっていた。

そもそも旧三部作であるエピソードⅣ〜Ⅵが先に製作された理由の一つは、当時の撮影技術が未熟だったためだという説がある。
その説によれば、ジョージ・ルーカスはエピソードⅠ〜Ⅲに取り掛かるまで10数年の時間を待つことに費やし、技術の進化が構想に追いつくのを待ったという。
だが新三部作が公開されるまでには、そこからさらに20年の月日が必要だった。今や特殊効果の描写はほぼ現実と変わらないレベルにまで到達しようとしている。

その証として挙げられるのが、前作の公開後すぐに亡くなったレイア姫ことキャリー・フィッシャーが、エピソードⅦに登場したときの姿とほぼ変わらない容姿で本作でもスクリーンに登場していることだ。
それはつまり、特殊効果やCGが現行の映像形式の中では究極にたどり着いたことを示している。技術の力は俳優の存在意義すら揺るがすようになっている。
かつてジョージ・ルーカスが映像技術の進化を待った段階はとうにすぎているのだ。

であるならば、新三部作では何を語るべきなのか。
旧三部作では、親子の関係を描き、次の三部作では師弟の関係を描いた。
エピソードⅦからの三部作は、血統に頼らない関係を描いていたように思う。

偶然巡りあった個人がチームとして、友達として大義のために団結し、冒険に向かう。そこには何かのメッセージを感じざるを得ない。
情愛よりも肉親愛よりも、友情や絆が優先される。新三部作では、この点に重点が置かれていたように思う。

それは作中の登場人物だけではない。映画に関わったすべてのスタッフにも言えることだと思う。映画を作り上げることは、壮大な数の人々が共同で行う作業だ。
その中のどれが欠けても映画は完成しない。誰が怠けても作品に隙がうまれる。その事は、私のような映画製作の門外漢にとっても容易に理解できる。

上質な映画でありながら、世界中のファンの期待に応える作品を生み出す苦労。それを成し遂げたものこそ、仲間の団結ではないだろうか。

それを示すのが、本作のクライマックスのシーンにこめられている。
レイが宇宙にあまねく存在するフォースを知覚するシーンだ。
今までに登場したジェダイの声がレイにフォースを通してメッセージを送る。
フォースとは宇宙に普遍の力であり、共通意志の集合体であることが理解できる瞬間だ。

フォースに込められた集合意志とは、40数年の間、スターウォーズに関わったあらゆるスタッフの集合意志でもある。
何万人、いや何億人の意志がスター・ウォーズを育て上げ、世界で最も愛されるサーガへと成長させた。
そのスタッフやファンの意思こそが、親子や師弟の絆を凌駕する仲間の意志とは呼べないだろうか。

そうしたものに支えられた本作は、良い意味で9作の末尾を飾るエピローグなのだ。
だからこそ、本作のクレジットの筆頭に登場するのはレイア姫ことキャリー・フィッシャーであり、続いて登場するのがルーク・スカイウォーカーことマーク・ハミルなのだと思う。

なお、クレジットで一瞬見かけたが、ダークサイドに堕ちたアナキン・スカイウォーカーを演じたヘイデン・クリステンセンの名前もあった。
どのシーンで登場したのだろう。役名を見逃してしまった。
それを確認するためにも、全エピソードは観直したい。

そして無限に広がるスター・ウォーズサーガのエピソードの可能性についても思いを馳せたい。製作したスタッフのエピソードについても。

‘2019/12/26 イオンシネマ新百合ヶ丘


スター・ウォーズ/最後のジェダイ


エピソード7に始まる新三部作はスターウォーズサーガを完全に再生させた。それだけでなく新たな魅力まで備えて。

エピソード4-6までの旧三部作はあまりにも偉大だった。そのため、なぜダース・ヴェイダーがうまれたのかを描くエピソード1-3の三部作は、4-6に矛盾なくつなげる使命が課せられてしまった。その使命は、エピソード1-3を監督したジョージ・ルーカスの想像力の足かせになったのだろう。観客の意表をつくストーリーは影をひそめ、最新の撮影技術の披露、もしくは、ジャー・ジャー・ビンクス、または笑えるくらい敏捷なヨーダといったキャラに頼るしかなくなってしまった。

そこでジョージ・ルーカスが下した決断がすばらしい。まず、ルーカスフィルムをディズニーに売却したこと。さらにスターウォーズに関する一切の権利を委ねたこと。これはジョージ・ルーカスのなした素晴らしい英断だったと思う。なぜなら、この決断によってエピソード7以降のストーリーに命が吹き込まれたからだ。権利がルーカスから離れたことによって、必ずしもルーカス自身が監督しなくても良くなった。そのため、監督の人選が自由になった。その成果が、エピソード7はJ.J.エイブラムス、本作はライアン・ジョンソンという若い監督の抜擢につながった。しかも、別々の監督に委ねたことは、それぞれの作品に変化を加えただけでない。スターウォーズサーガに新たな可能性も加えたのだ。優れた外伝の製作として。言うまでもなく「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」のことだ。続いて「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」まで公開予定というのだからファンにとってはたまらない。

たぶん、ルーカス監督がエピソード1-3ではなくエピソード7-9を監督しても素晴らしい作品に仕上がったことだろう。だが、一人ではスピンオフ作品までは手が回らなかったはずだ。その意味でもルーカスはスターウォーズサーガの今後にとってベストの決断を下したと思う。

ルーカスの決断が優れているのは、ただ続編の製作に繋がったことではない。世代をこえてサーガが伝わるきっかけを作ったことを評価したいのだ。だからこそ、エピソード7のJ.J.エイブラムス監督とエピソード8のライアン・ジョンソン監督が伝統を重んじ、そこにさらに新たな魅力を加えてくれたことがうれしいのだ。二人は師であるルーカスからスターウォーズサーガを受け継ぎ、弟子として申し分のない仕事をした。そして、万人に納得させることに成功した。

師匠から弟子への伝承。それは、本作そのもののテーマでもある。エピソード7はレイとルーク・スカイウォーカーの邂逅で幕を閉じた。本作ではプロローグから間も無く二人の関係が始まる。これ以上はストーリーを明かすことになるので書かないが、旅立って行くレイに対してこのようなセリフが投げかけられる。「師とは弟子に乗り越えられるためにある」と。

弟子であるライアン監督がそのようなセリフを仕込み、公開する。如実に世代交代を感じさせるシーンだ。

ライアン監督がそう自負したくなるのもわかる。本作はとにかく脚本がいい。今までの8作の中で一番といっても良い。何がいいかというと、シリーズにつきものの予定調和を排する姿勢だ。予定調和こそシリーズものの最大の敵。その排除に腐心した跡が本作から感じられる。エピソード7は、世代交代して最初の作品として、世界観の踏襲に慎重に配慮する姿勢が顕著だった。本作では前作がよみがえらせた世界観に乗りながらも、観客の期待を良い意味で外す演出が目立つのだ。しかもことさらに旧三部作を匂わせつつ、絶妙にはぐらかせる。絶妙に。

たとえばエピソード5の「帝国の逆襲」では、ヨーダの元で修行するルークが描かれる。それは主にフォースを体得するための努力だった。しかし、本作にはそういう努力のシーンが少ない。ルークはレイをベン・ソロすなわちカイロ・レンに匹敵するフォースの持ち主と恐れる。つまり、努力よりも素質が重んじられる。その違いは、ルークが修行中に闇へとつながる洞穴に赴くシーンで示される。ルークは洞穴でダース・ヴェイダーの影を憎しみに任せて切ってしまう。あのシーンに対比する本作のシーンは、映像技術の進歩を感じさせながら、よりフォースの本質に迫っている。素晴らしいシーンだ。そこではフォースの力とその根源を示し、なおかつ観客には筋書きに通ずる深い示唆を与えているのだ。

本作において、師に迫るための努力はそれほど重要とされない。グルやメンターはジェダイには不要なのだ。むしろ、フォースの力とそれを操る素質に重きが置かれている。さしずめ、弟子のライアン監督が師ルーカス監督を凌駕する本作を生み出したのは、飛躍的に進歩した撮影技術の力が大きいことの証しだとでもいうように。

ファンにとって新三部作の今後に不安はない。それどころか、スターウォーズサーガ自体が世代をこえて愛されることも本作で約束されたのではないか。新しく生まれ変わったスターウォーズサーガの今後に曇りはない。

かつて私が映画にはまった中学生の頃。旧三部作のノベライズ版も買いそろえ、エピソード7以降のストーリーが発売されているとのうわさを聞き、読みたさに心焦がれたことがある。あれから30年。本作でそれが叶った。こんな幸せなことはない。願わくは、私が死ぬ時までスターウォーズサーガの続きに耽溺させてもらえれば。

もはやその楽しみに預かれないレイア姫。本作のエンドクレジットにも以下の言葉が登場する。

in loving memory of our princess
Carry Fisher

いい演技だった。安らかに。

’2018/02/08 ムービル