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この国の未来に私や弊社ができること


金曜日の朝に流れた安倍元首相が銃撃されたニュースはかなりの衝撃を私に与えました。

そのニュースを私は八王子に向かう電車の中で知りました。
八王子駅に着くと、ちょうど日本共産党の候補者の方が街頭演説をしていました。私が通りがかった時、先ほど入ってきたニュースとして銃撃のことに言及されていました。暴力は許されない、私たちは議会で議論してこの国を良くしていく、とその方は熱弁をふるっておられました。

用事を済ませた私がコワーキングスペースで仕事をしていたら、安倍元首相が死去されたニュースが飛び込んできました。
そこから、ジワジワと私の中に衝撃が染み渡ってきました。何か大切なものが抜け落ちてしまったかのような。

その喪失感がどこから来るものなのか。私はその感情を持て余し、衝動的にバーに飛び込みました。
バーから出て八王子の駅に向かうと、読売新聞の号外が配られていたので一枚手に取りました。

帰宅した後も今朝になってもまだその衝撃は去りません。さらに一日おいても。
衝撃を受けた理由を自分なりに考えるため、本稿に著してみます。なぜ衝撃は去らないのか。

その前に私の政治的な立場を明らかにしておきます。
私はどちらかというとノンポリのその他大勢に属しています。特定の政党にも宗教にも属していません。シンパでもなく、オルグもされていません。
改憲には賛成の立場です。ただし、それは武力行使を許すためでなく、逆に専守防衛のために自衛の軍隊を持つことを条文に明記するためです。他にも施行当時にはなかった国民の権利の考えを今の時代に合わせてアップデートすべきだと思っています。多様性を重んじ、LGBTQ+も加味した憲法として。

安倍元首相は改憲に向けてリーダーシップを発揮しておられました。私は氏に改憲の可能性を感じていました。安倍元首相とは目指す方向が違う可能性はありましたが、私は期待し、応援していました。ところが、疑惑を招くような数々の行いがありました。あれには失望させられました。日本を変えたいのなら脇を甘くせず、一切の疑惑を招かないよう、注意深く振る舞ってほしかったと。

ですが、政治家も官僚も人間です。私は人間の能力では皆が完全に納得できる政策を立案し、施行するのは不可能だと思っています。
そして、誤りを犯さない人間もいません。安倍元首相は聖人君子のパーフェクトヒューマンではありませんでした。が、それが逆に、人間の強さと弱さを兼ね備えた名政治家の証だったと思います。

衝撃を受けた理由を考えてみました。

事件が起きたのが、私が三週間前に通りがかった大和西大寺駅の北口だったから何かの数奇な縁を感じたのでしょうか。多分違います。
事件の夜、私は大和西大寺駅前で一緒に飲んだ後輩に連絡しました。すると、その後輩はたまたま大和西大寺駅にいたらしく、駅の写真を撮って送ってくれました。いつもと変わらないであろう駅の様子を見て、私が感じた衝撃の理由が最近に訪れた場所だからではないことが分かりました。

では安倍元首相が有名だからでしょうか。これも違うように思えます。アメリカのケネディ大統領やジョン・レノンが撃たれた時の世間の反応もこのような感じだったのでしょうか。ですが、ジョン・レノンが撃たれた時、私は7歳でした。全く記憶していません。

アメリカ同時多発テロ事件のような、私たちがよく理解できない主義主張による凶行だからでしょうか。これも違うと思います。
今のところ、報道によれば犯人には、政治的な信条の他に動機があるらしいとのことです。多くのアンチを抱えていた安倍元首相ですが、アンチが主張する理由をある程度は知っています。その理由があったからこそ、もっとも安倍元首相が標的に選ばれやすかったことも。

では、日頃から起きている悲惨な事件や事故と今回の事件は何が違うのでしょう。何がこれほどに衝撃を与えるのでしょう。

私は、ネットの暴力がついにリアルを侵食し始めた怖さにあると思います。
今までも、わが国では暗殺が多数なされました。元首相や現職の首相も。テロもそう。平成にはオウム真理教が暴走し、令和でも京都アニメーションの放火が世間に衝撃を与えました。他にも通り魔事件や凶悪な犯罪は何度も発生しています。
ですが、こうした暴力は、私たちにとっては突発のものでした。犯人の中で人知れず憎悪が増幅していたにせよ、私たちがそれを知る術はありませんでした。オウム真理教による脅威はサリン事件の前から一部のマスコミで報道されていましたが、当時はまだネットが未開拓でした。世間にオウム真理教の内情は知られていませんでした。
戦前のテロは社会に不安が高まり、それが新聞などで報道された中で行われていました。ですが、当時はネットもなく、今の情報の広がり方とは明らかに異なっています。
今までの事件は、どれも事態が起こってから、動機を後追いしてさかのぼる種類のものでした。それは論理による振り返りです。

ところが、安倍元首相の場合、ネットの中でアンチの世論が形成されていました。中には見苦しい暴言も散見されました。
今回、犯人の動機が報道されています。それによると政治信条ではなく、私的な理由が動機だそうです。ガードが堅い特定団体の関係者を襲うかわりに、その団体とのつながりを報道されていた安倍元首相を狙ったと。
ここからは私の推測ですが、その団体とつながりがあると報道されたことが犯人の矛先を向かせたのではないかと。もしそうだとしたら、ネットに渦巻くアンチの声は、リアルへの緩衝効果どころか、犯罪を後押しした結果を招きました。

私は今まで、こうしたネット内のアンチの声を鬱憤の発散の場として許容し、甘くみていました。
ですが、たまり続ける鬱憤はリアルの場で暴発する。そのことが実証されたのが今回の事件だったと思います。その恐ろしさが私に衝撃を与えたのだと考えています。論理による振り返りを許さない現実の恐怖。

ネットが出現する以前のメディアや通り魔事件犯人の心の中は、いわば閉じた情報でした。ですが、ネットにあふれる情報は、社会に向けて開かれています。そうした情報は社会に広がっているため、希釈され発散され、凝縮して暴発しない。私はそのように油断し、勘違いをしていました。
犯人の行為は許せません。罪を償ってもらうのは当然ですが、それで終わらせず、社会をなんとかしないと。

このような事態が起こった今、私や弊社のような情報技術に携わるものはどうすれば良いのでしょう。
まず、確認しておきたいのは、今まさに進んでいる情報社会の流れは絶対に後には戻らないことです。これからも社会にはますます情報が流れ、あらゆるものがデータで表現されていくはずです。それは間違いありません。

多分、情報技術に関わる人は、私も含めてこれからも忙しい日々を送ることでしょう。
その時、技術者は個人情報を含む機密情報の扱いには細心の注意を図ることが求められます。ヒューマンエラーをなくすための仕組みの導入を含めて。
ただし、秘匿すべき情報を除けば、これからは逆に情報を開示していく時代になると思います。
すでにビットやバイトなどのパケットの仕組みやネットプロトコルなどのレイヤー1からレイヤー6までは規格が策定され、公開されています。レイヤー7のアプリケーションに関わる部分は私や弊社が関わる部分です。そこも機密情報を公開しない限りにおいて、求められれば開示できるよう、備えておくことが必要です。

これからは、情報は原則として公開するものというポリシーを持つことが私たちに求められます。いわば情報の民主化です。
情報が特定の組織や立場に握られない社会。誰もが公平に世の中の情報を享受できる社会。
国や民族や性別や宗教や信条や立場や門地によって与えられる情報が区別されない社会。
社会から疎外されたと感じる人がいなくなり、いかなるパーソナリティの方でもなじめるような社会。

そうした社会を創るためには、そうした方々にあまねく情報を配信できる仕組みを作らねばなりません。
また、あらゆる方がきちんと情報を扱うリテラシーを備えることも大切です。そのための教育も必要でしょう。
今回の犯人のように、自らの中の衝動に追い詰められる人を少しでも減らしていかなければ。

弊社も私もそのような社会が実現できるよう、努力していきたいと思います。

今日は参議院議員選挙です。私も投票してきました。
皆さんも投票の権利を行使し、社会に参加して、まずは身の回りから不満に思う部分を変えていってほしいと思います。
ただし、それには時間がかかります。すぐに世の中は変わりません。身の回りもすぐには変わりません。何年も何年もかけて変えていかなければ。
事件の翌日、私が好きな場所の一つである、世田谷の慶元寺を訪れました。そこで門前に掲げられていた標語をアップしておきます。何事も好転するまでには若干のタイムラグがあるのです。

末筆になりましたが、安倍元首相に心からの哀悼をささげたいと思います。あなたの死を無駄にはしないように。そして改憲への志を引き継いでいけるように。


Facebookのフランス国旗騒動について


Facebookのプロフィール画像のフランス国旗化の話。案の定騒ぎになっていますね。

とはいえ、変える変えないは個人の自由です。言うまでもなく。なので、変えたからと言って引け目を感じる必要もなく、変えなかったことを誇る話でもありません。

ただ、皆さんのプロフィール画像が一斉に三色に染められて行く様は、興味深いものがありました。で、しばらくするとある記事がシェアされ始めました。プロフィール画像を設定すると個人情報が抜かれるというあれです。すると、みるみるうちに皆さんの画像が元へ戻っていきました。

その様子をみていて、思う事があったので、記事を書いてみます。

思う事とは、情報の受け止め方とその反応についてです。時代に合わせて、新聞、テレビ、ネットとメディアの主役は移り変わりました。それに伴い情報を受け取った我々の反応も変わりつつあります。

新聞が情報源だった頃、我々は時間をおいてニュースを知り、時間をおいて義援金を送るなどして現地に反応していました。その際も我々にはニュースに対して考える時間が与えられていたように思います。テレビが情報源だった頃は、リアルタイムで情報は届きました。しかし、それに対する反応の時間はまだ与えられていたように思います。

今、ネットの時代の真っ只中です。ニュースは発生から間髪入れずに我々の元へと届けられます。国民総ジャーナリストですから。また、我々にも現場に対する反応が即座に返せる環境が整いました。

ただ、その便利さを享受する替わりに、我々には無言無形の圧力が課せられるようになったのかもしれません。それは、ニュースを受け取ったら反応しなければならない、という圧力です。今のニュースに対する反応を見ると、そのような圧力が生まれ、それに流されてはいないか、と思うのです。

勿論、ニュースにたいし、無反応でいることは自由です。また、ニュースにたいしてじっくりと考え、考えを表明する自由もあると思います。

しかし、今生まれつつある圧力はそれを許さない方向へと向かっているように思います。ニュースを吟味し考える余裕も与えられぬまま、情報に対して即座にレスを返すことが求められているように思えるのです。
情報に対する判断力、決断力は無論重要でしょう。特にビジネスの世界においては。でも、今回のフランスでのテロに関しては、なにかそういう圧力が働いていたかのようでした。

情報に対して無反応であったり、時期を逸して意見を発したりすると情報弱者と見なされる風潮。そういう風潮にはなってほしくないですね。そう思いません?


娘にスマホを持たせないために


アメリカのニューヨークタイムズが、本社ビルから自社サイトへのPC経由のアクセスをブロックし、スマホかタブレットからのみ接続を許可する実験を始めたそうです。
島田さんのブログ 島田範正のIT徒然より

デジタル時代の戦場はすでにPCではなくモバイルにある。このことを意識させるための意図を含んでいるとかいないとか。

日本でも、ながらスマホによる事故や、スマホを取り上げられた生徒が教師に襲いかかるといった、虚構新聞も真っ青のニュースが報じられています。

我が家でもご多分に漏れず、スマホを巡ってのせめぎ愛が絶えないこの頃です。
今回は、娘達へのメッセージも込めつつ、私のスマホに対する考え方を一席ぶちたいと思います。

のっけから結論を述べます。
子を愛する故になみだを呑んで、スマホさん、また今度ね。
これです。

我が家の娘たちから初めてケータイ欲しい、という希望が出されたのは八年前です。当時某所に書いた文章を当ブログに転載し、リンクを貼り付けておきます。
幼児にパソコンって必要か? 2008/4/16
娘にケータイもたせたないねん 2007/7/7

以来、我が家の娘の念願は常に一つ。自由にスマホで連絡を取り合い、自由にスマホで写真をアップする。願いは単純明快、けれども大人の世界はフクザツ。

一昔前だと汝身の程を弁えよ、の一言で一蹴できたこの願い。年を追う毎に反論に工夫が必要になりつつあります。みんな持ってるもん!という定番セリフには、みんなって誰よ?10人挙げてみなさい!と伝家の宝刀を抜くだけで効果てきめん、途端に娘の言葉も尻つぼみでした。しかし、今は宝刀を抜いたが最後、その刃は振り上げた親を切りつけます。まあ携帯持ってる友達の名が出てくること出てくること。ことケータイ、スマホに関しては、みんなの定義を生半可な数字で設定してはいけません。せめて100人以上にセットしてようやく逃げ切れるぐらいの勢いでしょうか。次々出てくる名前の羅列にうろたえた経験のある親は、私だけではありますまい。

今や、スマホを持っていない児童は少数派になりつつあります。いくつか、最近の調査結果を見た感じでも、その感覚は裏付けられます。
スマートフォンを持っている小学生は、クラスに1人か2人 ライブドアニュースより
中高生対象「ICT利用実態調査」 ベネッセホールディングスより
上の記事は控えめな数字ですが、それでも小学生全体で3割。ということは高学年だともっと割合は高いということでしょう。下の資料でも中高生の利用実態が示されており、大変興味深い内容です。

我が家とて、決して娘にケータイを持たせていない訳ではありません。昨春より、娘達にキッズケータイを持たせました。それすらも、鉄砲玉のような次女を現世につなぎ止めて置くためのやむを得ぬ措置。決して世間の流れに逆らえなかったわけではありません。

しかし、その時から確信していました。キッズケータイの最低限の機能に甘んじるほど、娘たちは内向的でない、と。案の定でした。娘たちの要求は次々とステージを登り詰めようと試みます。しかも、3DS+Wi-Fi経由でのネット接続を許したのが失敗でした。3DSのブラウズ機能を舐めていたとしかいいようがありません。もう、勝手にYouTubeなど朝飯前です。本当に早起きして朝飯前に繋いでいるのだから始末に負えません。家屋内のルーターからしか認めていないため、まだしも通信内容をある程度管理はできているとはいえ、少しはネット接続を制限しなければ、と葛藤に逡巡を重ねる最近です。

もっとも私も娘のことは言えません。ファミコンを隠す親とそれを探し求める息子という構図は当事者として臨場感ありありで語れます。特に、家庭の医学のカバー裏に潜んだそれ、ゴミ箱の二重底に潜ったそれを見つけた時のカタルシスは、少年時代の歓喜の一瞬としてしっかり覚えています。我が家でも同じことをして2年以上隠した挙句、DSが一つ行方不明となったままです。おそらく我が家がある限り、家のどこかでスポットライトを浴びる日を待ち続けていることでしょう。隠す親と隠される子どもというゲーム感覚に溢れた駆け引きも面白いことは面白いですが、あえて建設的なやり方でネットとの触れ合いをさせたいなと思う最近です。子を持って初めて知る親心を会得した私。オホン。

我が家の長女の場合は、ネット上にイラストをアップするにあたってデジカメ経由だと面倒だから、という理由です。3DSだとイラストを撮影しても画質が悪く、アップしたイラストに物言いがついたのだとか。次女の場合は、友達と遊んでも、走り回る時間以外は、みんなスマホとにらめっこ。話題もスマホのことばかりでつまらない。ということです。

二人の言い分はよくわかります。かつて心配していたような懸念-対人コミュニケーション能力が未熟な大人となる-については二人には杞憂だと思います。今の二人にスマホを与えたところで、コミュ障の引きこもりに堕ちることはないでしょう。だから親である我々夫婦が世間の流れに巻かれ、スマホを与えてしまうことは決して敗北ではないのかもしれません。むしろ、今まで世間の流れによくぞ抗い続けたと拍手で迎えられるかもしれません。

しかし、あえてここで私は最後の抵抗を試みたい。親の意地ではありません。世間に対して駄々をこねる訳でもありません。私なりの理由があって、スマホを与えることを今一度見送ろうと思います。その替わりに、ノートPCを与えようと思います。個人毎にアカウントを作り、時間制限やインストール制限などのペアレンタルロックをかけた上で。

何故か。

まず、長女の言い分は、イラスト書きを生業とするのであれば、明らかに間違っていると云えます。イラストレーターが自作のイラストを撮影して納品?そんな納品形態が許される職業はイラストレーターではなく、画家でしょう。近い将来、いや今でもすでにイラストレーターの納品する媒体は、紙ではなく電子データが主流です。現時点でも100パーセント近いのではないでしょうか。百歩譲って看板に直接書いて納品物としたり、紙の直筆が求められたり、といった場合は電子データ以外の媒体もありです。しかしその他の用途で電子データが不要なイラストは私のアナログ脳では思い浮かびません。つまり、ファイル操作に慣れる必要があるということです。ファイルを保存し、メールに添付またはオンラインストレージに保存といったファイル操作です。そしてファイル操作は、今のウィンドウズやマックのファイルシステムが廃れたあとも当分ついて回るはずです。少なくとも長女が120歳まで現役イラストレーターであったとしても。スマホで撮って即投稿、確かに便利で手軽です。しかし、長女にはそういうスマホ依存症のような利用だけでなく、まずはPCの操作を学んで欲しいと思います。本当に人から望まれ、自分がアップしたい内容なら、デジカメ経由で何が悪い?

次に次女です。次女の社交能力はピカ一で、友人もすぐ作れます。それゆえに、スマホを持っておらず、友達との話に加われないのは可哀想だと思います。その点は理解してあげないと。そこで少し妥協点を探りたいと思います。与えたノートPC上での連絡手段を作ることを認めようと思います。例えばLINEやメールといった連絡手段をもちろん親の監視付きで。おそらく次女は不満に思うでしょう。実際数日前に話し合った際にも主張していました。外でネット出来なければ意味がない、と。次女の云う通りなのでしょう。残念ながら、友達みんながスマホとにらめっこしてしまうのは、どうしようもありません。私にもその状況を打開するいい案は思い浮かびません。しかし、これだけは云えます。スマホを与えても、友達と遊んでいる最中にスマホとにらめっこするくらいなら持たない方がまし、と。むしろ、スマホに夢中のみんなを振り向かせるくらい、もっともっと社交性に磨きをかけてもらいたい。スマホ不所持の減点を埋めるのではなく、持ち前の明るさに加点する。次女にはそうあって欲しいと願います。

これから娘たちが世の中を渡っていく上で、ITを使いこなすことは当たり前の必須項目となるでしょう。むしろ必要なのは、より進んだ知能にとって代わられるプログラミング能力よりも、実世界の営みとITを結びつける能力でしょう。しかしそれには実世界の営みについての深い洞察力が必要となります。高吸収材よりも知識吸収力の優れた今の時期に、スマホの扱い方を覚えることが、実世界の営みを理解することより優先されるとは到底思えません。スマホの使い方など大人になってからもすぐに覚えられます。だって今の我々もそうなんだし。


幼児にパソコンって必要か?


 週一回、妻と互いの超整理手帳を見せ合って、スケジュール調整をしている。

 さっきもそれやっていたのだが、夫婦のそれぞれの仕事に加えて、娘たちも娘たちの習い事やら学校の用事が色々と増えて、スケジュール組むのも大変になってきました。

 その中で聞いたのだが、下の娘の幼稚園、色々と課外授業をしてくれていたのだが、絵画のコマを減らすそうで・・・

 その替わりにパソコンとか英語とかが入ってくるらしい。

 英語はともかく、パソコン? 幼稚園児にパソコン教えてどないすんねん!
 うちの小二の上の娘にはゲームでパソコンを開放してあげたりしてるが、それでもあまり教えようという気がない。

 パソコンより前に学ばんならんことって一杯あるんとちがうんかなぁ・・・今、金融機関で常駐SEやっておる私、本格的にパソコンやり始めたん、25過ぎてからです。23の時は入力オペレータの仕事で、全角への切り替え方しらんと、半角カナで住所うちまくって怒られていた私です。
 そんなんでも金融機関の常駐SEになれんのに、そないにあせって幼稚園児に教えてどないすんねんな。自動車教習と同じで18から学ばせても充分間に合うとおもうし。
 学校裏サイトで陰口しかたたけんような使い方させるくらいなら、18までWebフィルタリングを義務付けるとかしてもええぐらいに思ってるんやけど。


娘にケータイ持たせたないねん


ケータイ 中学生の6割が使用

高校生9割強、中学生6割、小学生3割が携帯電話を使用。


小学一年の娘にもせがまれている。周りにも何人か持っている友達がいるとか。

今に至るもケータイ嫌いの私としては、持たせたくないところである。確かに35分の道を通学させる親心としては、不安でもあるが、ココセコムもさせてるしねぇ。携帯であれば必要だが、ケータイとなると「みんなが持ってるから」という程度なんでは?

でも娘にそんな理屈っぽいこと言ってもわからんしなぁ。だましだまし行きますか。