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人類5万年 文明の興亡 下


541年。著者はその年を東西の社会発展指数が逆転し、東洋が西洋を上回った年として特筆する。

それまでの秦漢帝国の時代で、西洋に遅れてではあるが発展を遂げた東洋。しかし「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスは東洋にも等しく起こる。三国志の時代から魏晋南北朝、そして五胡十六国の時代は東洋にとって停滞期だった。しかし、それにもかかわらず東洋は西洋に追いつき抜き去る。分裂と衰退の時期を乗り切った東洋に何が起こったのか。著者はここで東洋が西洋を上回った理由を入念に考察する。その理由を著者は東洋のコア地域が黄河流域から南の長江流域へと拡大し、稲作の穀倉地帯として拡大したことに帰する。東洋の拡大は、隋と唐の両帝国を生み出し、東洋は中国をコアとして繁栄への道をひた走る。一方、西洋はビザンティン帝国によるローマ帝国再興の試みがついえてしまう。そればかりか、西洋の停滞の間隙を縫ってムハンマドが創始したイスラム教が西洋世界を席巻する。

西洋は気候が温暖化したにもかかわらず、イスラム教によってコアが二分されてしまう。宗教的にも文化的にも。つまり西洋は集権化による発展の兆しが見いだせない状況に陥ったのだ。一方の東洋は、唐から宋に王朝が移ってもなお発展を続けていた。中でも著者は中国の石炭産業に注目する。豊かに産出する石炭を使った製鉄業。製鉄技術の進展がますます東洋を発展させる。東洋の発展は衰えを知らず、このまま歴史が進めば、上巻の冒頭で著者が描いた架空の歴史が示すように、清国の艦隊をヴィクトリア女王がロンドンで出迎える。そのような事実も起こりえたかもしれない。

だが、ここでも「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスが東洋の発展にブレーキをかける。ブレーキを掛けたのは異民族との抗争やモンゴルの勃興などだ。外部からの妨げる力は、洋の東西を問わず文明の発展に水をさす。この時、東洋は西洋を引き離すチャンスを逃してしまう。反対にいつ果てるとも知らぬ暗黒時代に沈んでいた西洋は、とどめとばかりに黒死病やモンゴルによる西征の悲劇に遭う。だがモンゴルによる侵略は、東洋の文化を西洋にもたらす。そして長きにわたったイスラムとの分断状態にも十字軍が派遣されるなど社会に流動性が生まれる。イスラムのオスマン・トルコが地中海の東部を手中に収めたことも西洋の自覚を促す。そういった歴史の積み重ねは、西洋を復活へと導いてゆく。

東洋の衰えと西洋の復活。著者はここで、東洋が西洋を引き離し切れなかった要因を考察する。その要因として、著者は明の鄭和による大航海が東洋の優位と衰退を象徴することに着目する。鄭和艦隊の航海術。それは東洋を西洋に先んじてアメリカ大陸に到達させる力を持っていた。あるいはアステカ文明は、ピサロよりも先に中華文明によって絶滅に追いやられていたかもしれないのだ。そんな歴史のIF。そのIFは、マダガスカルやシリアまでも遠征し、当時としては卓越した航海術を擁した鄭和艦隊にとって不可能ではなかった。著者は鄭和艦隊を東洋の優位性を示す何よりの証拠と見ていた。

しかし明の皇帝たちは引き続いての艦隊の派遣に消極的となる。一方の西洋はバスコ・ダ・ガマやコロンブスなど航海によって大きく飛躍するのに。この差がなぜ生じたのか。この点を明らかにするため、著者はかなりのページ数を割いている。なぜならこの差こそが、541年から1773年まで1000年以上続いた東洋の優位を奪ったのだから。

あらためて著者の指摘する理由を挙げてみる。
・中国のルネッサンスは11世紀に訪れ、外遊の機運が盛り上がっていた。が、その時期には造船技術が進歩していなかった。一方、西洋のルネッサンスは16世紀に訪れたが、その際は東洋の造船技術が流入しており、労せずして西洋は航海技術を得ることができた。
・中国にとって西には西洋の文物があることを知っていた。だが、後進地域の西洋へと向かう動機が薄かった。また、東の果て、つまりアメリカ大陸までの道のりは間に太平洋を挟んでいたため遠方であった。つまり、東洋には距離的にも技術的にも未知の国へ向かわせるだけの動機が弱かった。東洋に比べて文化や技術で劣る西洋は距離的に大陸まで近く、技術の弱さが補えた。

東洋がダイナミズムを喪いつつある時期、われらが日本も登場する。その主役は豊臣秀吉だ。著者は本書の135ページで秀吉による日本統一をなぜか1582年と記している(私の意見では1590年の小田原征伐をもって日本は統一された)。が、そんな誤差はどうでもよい。肝心なのは、当時の世界史の潮流が地球的なスケールで複雑にうねっていたことだ。本書から読み取るべきは世界史の規模とその中の日本の締める位置なのだ。極東の島国は、この時ようやく世界史に名前が現れた程度でしかない。日本が範とし続けてきた中国は官僚による支配が顕著になり、ますます硬直化に拍車がかかる。ではもし、秀吉が明を征服していれば東洋にも違う未来が用意されていたのか。それは誰にもわからない。著者にも。

西洋はといえば、オスマントルコの脅威があらゆる面で西洋としての自覚が呼び覚ましていく。それは、ハプスブルク家による集権体制の確立の呼び水となる。西洋の発展には新たに発見された富の存在が欠かせない。その源泉はアメリカ南北大陸。精錬技術の発達と新たな農場経営の広がりが、西洋に計り知れない富と発展をもたらすことになる。そしてそれは産業革命へと西洋を導いてゆく。王権による集権化の恩恵をうけずに人々の暮らしが楽になる。それはさらなる富を生み出し技術発展の速度は速まる。全てが前向きなスパイラルとなって西洋を発展させる。かくして再び西洋が東洋を凌駕する日がやってくる。著者はそれを1773年としている。

1773年。この前後は西洋にとって重大な歴史的な変化が起こった。アメリカ独立戦争やフランス革命。もはや封建制は過去の遺物と化しつつあり、技術こそが人々を導く時代。ところが西洋に比べ、東洋では技術革新の波は訪れない。著者はなぜ東洋で技術発展が起きなかったのか、という「ニーダム問題」に答えを出す。その答えとは、硬直した科挙制から輩出された官僚が科学技術に価値を置かなかったことだ。東洋は後退し、いよいよ西洋と科学の時代がやって来たことを著者は宣言する。

なぜ産業革命は東洋で起きなかったのか。著者は科挙制の弊害以外に労働者単価が低かったことを主な理由としている。そして19世紀になっても東洋で産業革命が起きていた確率はほぼなかっただろうと指摘する。

いずれにせよ、西洋主導で社会は動きはじめた。その後の歴史は周知の通り。1914年から1991年までの大きな戦争(と著者は第一、二次大戦と冷戦を一つの戦争の枠組みで捉えている)をはさんでも西洋主導の枠組みは動きそうにない。いまだにG8で非西洋の参加国は日本だけ。

だが、著者はその状態もそう長くないと見る。そして、ここからが著者が予測する未来こそが、本書の主眼となるのだ。上巻のレビューにも書いた通り、今まで延々と振り返った人類の歴史。われわれのたどってきた歴史こそが、人類の未来を占うための指標となる。著者はここであらためて世界史の流れをおさらいする。今度は始源から流れに乗るのではなく、2000年の西洋支配の現状から、少しずつ歴史をさかのぼり、どこで東洋と西洋の発展に差が生じたのかを抑えながら。その際に著者は、歴史にあえて仮定を加え、西洋と東洋の発展の歴史が違っていた可能性を検証する。

著者はその作業を通じて「二〇〇〇年までの西洋の支配は、長期的に固定されたものでも短期的な偶発的事件によるものでもないと結論づけることができる」(301P)と書く。つまり、長期的に妥当な必然が今の西洋支配につながっているのだ。

では、これからはどうなるのだろう。著者は2103年を「西洋の時代が終わると予測される一番遅い時点」(309P)と仮定する。

ここ250年、西洋は世界を支配してきた。その日々は東洋を西洋の一周縁地域へとおとしめた。では今後はどうなるのか。これからの人類を占う上で、人工知能の出現は避けては通れない。人工知能が人類の知恵を凌駕するタイミング。それを技術的特異点(シンギュラリティ)という。人工知能に関するコアワードとして、シンギュラリティは人口に膾炙しているといってよい。著者はシンギュラリティが引き起こす未来を詳細に予測するとともに、破滅的な人類の未来もあらゆる視点から予想する。そもそもシンギュラリティに到達した時点で西洋と東洋を分ける意味があるのか、という問い。それと同時に、破滅した世界で東洋と西洋とうんぬんする人間がいるのか、という問いも含めて。著者の問いは極めて重い。そもそも西洋と東洋を分けることの意味から問い直すのだから。

著者の予測する未来はどちらに転ぶともしれない不安定で騒々しいものだ。著者は人類の歴史を通じて西洋と東洋の発展の差を考察してきた。そして今までの考察で得た著者の結論とは、進化という長いスパンからみると東洋と西洋の差などたいした問題でないことだ。

地理学、生物学、社会学。著者はそれらの諸学問を駆使して壮大な人類史を捉えなおしてきた。そして著者は未来を救うための三つの勢力として考古学者、テレビ、歴史を提唱する。考古学者や歴史はまだしも、テレビ? つまり、著者に言わせると、テレビのような大量に流される情報の威力は、インターネットのような分散された細分化され拡散される情報に勝るということだ。

が予測する未来は破滅的な事態を防ぐことはできる、と前向きだ。その予測は私たちにとってとても勇気をもらえる。私が本書のレビューを書き上げようとする今、アメリカの今後を占う上で欠かせない人物が頻繁にツイートで世を騒がせている。トランプ大統領だ。現代の西洋とは、アメリカによって体現されている。繁栄も文化も。そんな西洋のメインファクターであるアメリカに、閉鎖的で懐古主義を標榜したリーダーが誕生したのだ。そして世界をつぶやきで日々おののかせている。トランプ大統領は西洋の衰退の象徴として後世に伝えられていくのか。それともトランプ大統領の発言などは世界の未来にとってごくわずかな揺り戻しにすぎず、トランプ大統領の存在がどうあれ、世界は人工知能が引き起こす予測のできない未来に突入してゆくのか、とても興味深いことだ。

未来に人類が成し得ることがあるとすれば、今までの歴史から学ぶことしかない。今までの教訓を今後にどう生かすか。そこに人類の、いや、地球の未来がかかっている。今こそ人類は歴史から学ぶべきなのだ。本書を読んで強くそう思った。

‘2016/10/21-2016/10/27


人類5万年 文明の興亡 上


本書は日本語版と原書英語版でタイトルが違っている。

日本語版は以下の通り。
『人類5万年 文明の興亡』
原書ではこうなっている。
『 Why The West Rules ― For Now』

それぞれにはサブタイトルがつけられている。
日本語版は『なぜ西洋が世界を支配しているのか』
原書では『The Patterns of History, and What They Reveal About the Future』

つまり、日本語版と原書ではタイトルとサブタイトルが逆になっているのだ。なぜそのようなことになったのか。私の推測だが日本語版のタイトルをつけたのは筑摩書房の編集者だと思う。訳者の北川知子氏ではないはず。なぜなら、本書下巻に付されている北川知子氏によるあとがきにはそのあたりの意図についてを触れていないからだ。だが、北川氏は同じあとがきのなかで、原書タイトルの直訳を記している。『なぜ西洋は支配しているのか・・・・・・今のところは―歴史のパターンとそこから浮かび上がる未来』。私にはこっちのほうが本書のタイトルとしてしっくり来る。

なぜそう思ったかというと、本書は大きな問いによって支えられているからだ。『なぜ西洋は支配しているのか』という問いに。

ここ数世紀、世界は西洋が支配している。それに異を唱えるものは誰もいないはず。これを書いている現在では、参加資格停止中のロシアを含めたG8参加国の中で非西洋の国は日本だけ。もちろん、ここにきて中国の経済成長は目覚しい。一路一帯というスローガンを掲げ、中国主導の意思をあまねく世界に示したことは記憶に新しい。だが中国はまだG8の一員として迎えられていない。G8だけではない。西洋が世界を席巻している証拠はITにも表れている。これからの世界を支えるのがITであることは言うまでもない。そしてITの世界では英語がデファクトスタンダードとなっている。つまり、西洋の主導で動いているのだ。これらの実情からも、西洋が世界を支配している現状は否定できない。

そんな現状に背を向け、著者は西洋の優位が長くないことを予言する。そのための論拠として世界の通史を長々と述べるのが本書だ。通史から、過去からの西洋と東洋の重心の揺れ動きを丹念に分析し、将来は西洋と東洋のどちらが主導権を握るか指し示す。それが本書のねらいだ。つまり、本書は大きな『なぜ西洋が支配しているのか ・・・・・・今のところは 』という問いに対し『歴史のパターンとそこから浮かび上がる未来』という論拠を示す大いなる試みなのだ。私が原書のタイトルのほうが良いと思った理由はそこにある。

「はじめに」で、著者は歴史に仮定を持ち込む。その仮定の歴史では、英国はアヘン戦争で中国に敗れる。ロンドンに中国からの使者を迎え、恭順の意を示して頭を垂れるヴィクトリア女王。著者はそんな仮定の情景を以下の通りに描く。

清国の道光帝は、宗主国に対して敬意を表したいという英国女王の願いを認める。女王は朝貢と納税を請い、道光帝に最大限服従するとともにその支配を求める。道光帝は女王の国を属国として扱い、イギリス人が中国人の流儀に従うことを許す。(8P)

本書はそんな衝撃的な仮定で始まる。西洋ではなく東洋が優位になっていた歴史の可能性。その可能性を示すため、英国人の著者はあえてショッキングな描写で読者の目を惹こうとする。

著者がこのような挑戦的な仮定を持ち出したことには訳がある。というのも歴史の綾によってはこのような仮定の歴史が現実になる可能性もゼロではなかったのだ。このエピソードは本書の全編を通して折に触れ取り上げられる。読者は本書を読むにあたり、東洋と西洋が逆転する世界が到来していた可能性を念頭に置くことを求められる。

通史を描くにあたり、著者は今までの歴史観を取り上げて批評する。それら歴史観は、なぜ西洋が支配しているのかについてある定説を導いている。一つは長期固定理論。一つは短期偶発理論。前者は太古の昔に生じた何らかの要因が東洋と西洋を分かち、それが発展に差をつけたとする考えだ。著者も批判的に言及しているが、これはある種のレイシズムにも通じかねない危うい理論だ。というのも太古の昔に生じた何らかの要因とは、人種的な差であることを意味するから。つまり人種差別。この論を信ずるならば、東洋は今後いかなる奇跡が起ころうとも西洋の後塵を拝し続けなくてはならない。では、後者の短期偶発理論はどうかというと、東洋と西洋には最近まで差がなかったという考えだ。偶然によって西洋はアメリカ大陸を「発見」し、産業革命を成し遂げたことで両者の間に差が生じたとする考えだ。ただ、この偶発が生じた要因は論者によって千差万別。つまり、理論として成り立たたないと著者は指摘する。

そもそも著者によれば長期固定理論も短期偶発理論も共通の過ちがあるという。その過ちとは、両理論ともに人類史のうち、ほんの一部の期間しか考察に使っていないこと。著者はそう主張する。時間の幅をもっとひろげ、人類史の全体を考察しなければ西洋と東洋の発展に差が生じた理由は解明できないというのだ。「過去をより遠くまで振り返れば振り返るほど、未来も遠くまで見渡せるだろう」(18P)とチャーチルの言葉を引用して。

著者はまた、特定の学問成果に拠ってこの問題を考えるべきではないとする。つまり、考古学、歴史学、文献学だけでなく、生物学、経済学、人類学、化学、哲学、植物学、動物学、物理学といったあらゆる学問を学際的に取り扱ったうえで判断せねばならないという。それら学問を各時代に当てはめ、社会発展の尺度を図る。著者が考案したその尺度は、社会発展指数という。その算出方法は下巻の末尾を25ページ割いて「捕遺 社会発展指数について」と詳細な説明が載せられている。また、著者のウェブサイトにも載っている。著者自身による社会発展指数の解説は、同時に社会発展指数への批判に対する反論にもなっている。

われわれのような素人の歴史愛好家はとにかく誤解しやすい。東洋と西洋の差が生じたのは人種的な差によるとの考えに。それは無意識な誤解かもしれないが、著者が説く長期固定理論への批判は把握しておいたほうがよい。人種の優劣が東洋と西洋の発展を分けたのではない。この事実は東洋人である私の心をくすぐる。ナショナリズムを持ち出すまでもなく。そして人種差別の無意味な差について理解するためにも。

そのため、著者が西洋と東洋の歴史を語り始めるにあたり、猿人の歴史から取り掛かっても驚いてはならない。現代、世界にはびこっている西洋の文明をもととして起源へとさかのぼっていく手法。それははじまりから探求に偏向が掛かってしまう。なぜ西洋と東洋がわかれ、差が付いてしまったのか。西洋をベースとせず、まっさらな起源から語り始めなければ東洋と西洋の差が生じた原因は解明できない。そう主張する著者の手法は真っ当なものだし信頼も置ける。

われわれのような素人はともすれば誤解する。猿人からホモ・ハビリスへ。さらにホモ・エレクトスへ。原人からネアンデルタール人へ。その発展過程で現代の東洋人と西洋人の先祖がわかれ、その人種的差異が発展の差異を生んだのではないか、と。しかし著者は明確にこれを否定する。それはホモ・サピエンスの登場だ。著者は、生物学、遺伝学、あらゆる情報を詰め込みながら、猿人からの発展過程を書き進める。そして、
「過去六万年のアフリカからの拡散は、その前の五〇万年間に生じていたあらゆる遺伝的相違を白紙に戻した。」(87P)
と。つまり、それまでの進化や差異は、ホモ・サピエンスによって全て上書きされたのだ。それは人種間の優劣が今の東洋と西洋の差異になんら影響を与えていないことでもある。

では何が東洋と西洋の差を生じさせたのか。それは地球の気候の変化だ。気候の変化は氷河期に終止符を打ち、地球は温暖化されていった。それに従いもっとも恩恵を受けたのは「河沿いの丘陵地帯」だ。ティグリス川、ユーフラテス川、ヨルダン川のブーメラン状に区分けされる地域。昔、私が授業で習った言葉でいえば「肥沃な三角地帯」ともいう。この地域が緯度の関係でもっとも温暖化の恩恵を受けた。そして人々は集まり文明を発展させていったのだ。

ここで著者は、本書を通じて何度も繰り返される一つの概念を提示する。それは「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」というパラドックスだ。一つの地域が発展すればするほど、富者と貧者が、勝者と敗者が、男女の間が、年寄と若者の関係が変わる。発展すれば人々は群れ、利害は衝突する。そのため統治の必要が生じる。管理されるべき関係は複雑化し、その地域の人々自身に脅威として降りかかる。218Pで説明されるこの概念を著者はこのあと何度も持ち出す。今まで発展した地域では例外なくこのパラドックスが起きてきた。エジプト、ギリシア、ローマ、開封。今の社会でいえば、文明の過度な発展が環境問題や人口増加、温暖化などの弊害を生み出していると言えるのだろう。

「河沿いの丘陵地帯」。つまりこの当時の西洋の中心が享受していた文明の発展は、著者の社会発展指数の計算式によると東洋と比べて一万三千年分に相当する優位をもたらしていた。しかし、あまりにも繁栄したため「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスは、「河沿いの丘陵地帯」の社会に混乱を巻き起こす。そしてその混乱は一万三千年の優位を帳消しにしてしまう。シュメール、バビロニア、エジプト、ヒッタイト、アッシリアといった強国間の争いは社会発展と同時にそれを妨げる力を生んでしまったのだ。

この危機を乗り切るため、文明はローエンド国家からハイエンド国家への移行を図る。つまり中央集権化である。これによって西洋はイスラエルやアッシリアから古代ギリシャへ。また、遅れて同様の課題に直面した東洋では商から周へと国家が移りゆく。その発展への努力は、東洋に次なる社会の動きを呼び覚ます。すなわち春秋戦国時代をへての秦と漢による統一だ。そして西洋では、全ての道はローマへとつながる大帝国として結実する。

停滞もしながら、東西両方の社会発展指数はじわじわと上昇し続ける。わずかに西洋が東洋を上回る状態が続くが、発展の軌跡は東西ともに同じだ。著者は東西両方の通史をとても丹念にたどり続ける。そして、ローマ帝国の版図拡大と漢のそれは、気候温暖化の恩恵を確かに受けていたことを証明する。

そしてついに洋の東西が接触することになる。その接触は気候の寒冷化が引き金となったのかもしれない。そして東西の接触は病原菌の接触でもある。免疫を持たない病原菌の接触。それはすなわち、疫病の流行となって社会に打撃を与える。暗黒時代の到来である。

東洋では漢が滅び、三国志の時代をへて魏晋南北朝、そして五胡十六国の分裂へ。西洋ではローマ帝国が異民族侵入や内患で東西に分裂する。

その分裂は人々に混乱をもたらす。混乱に見舞われた時、人は何をよすがに生きるのか。多くの人々は人智を超えた存在に救いを求めるのではないか。すなわち宗教。人々は混迷する世から逃れようと宗教に救いを求めた。キリスト教や仏教の教えがこの時期に広まったのは寒冷化が大きく影響を与えていたのだ。寒冷化が安定した文化を解体にかかる。それは「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスとは別に社会の変化を促す要因であることがわかる。

本書の主眼は、通史の流れから東洋と西洋の発展差の原因を追うことにある。また、社会の変化が何から生まれるのか、を知ることでもある。上巻で書かれるのは古代がようやく終わったところまで。だが、人類が誕生してから古代までの歴史を追うだけでも、歴史のうねりが生じる原因を十分に知ることができる。本書は歴史書としてとても勉強になる一冊だ。

‘2016/10/15-2016/10/20


アメリカの鳥


通勤車内が私の主な読書の場である。そのため、読む本はどうしても文庫か新書が多い。全集に至ってはどうしても積ん読状態となる。かさばるし重いし。そんな訳で、全集を読む機会がなかなかない。池澤夏樹氏によって編まれたこの全集も、ご多分に漏れず読めていない。この全集は、英米に偏らず世界の名作が遍く収められており、私も何冊か持っている。が、実際に読むのは本書が初めてだろう。

法人化を控えた2015年元旦。2015年の巻頭に読むべきは、会社設立の心構えについての本が相応しい。それは分かっていたが、全集を読める機会は年始しかないのもまた事実。普段読めない文芸大作が読みたい、という動機で本書にチャレンジした。

とにかく時間がかかった。本作や著者について事前の知識がないままに読み始めたものだから尚更。本書ではピーターという一人の青年の成長が丁寧に描かれている。彼の成長やいささか難解な学びの遍歴をじっくり読むあまり、なかなかページが進まなかったというのが理由だ。

思えば、ジャン・クリストフや次郎物語といった人間の成長をつぶさに書き綴る物語から遠ざかって久しい。この忙しい時代、そういった物語を読み耽ることの出来る時間を捻出することは困難だ。時代に巻き込まれている私もまた、本書のような本を読む時間はあまり与えられていない。

しかし、逆を言えば忙しない時間の合間に本書のような成長の過程を描く物語に触れることで、忙しない日々の中で我々が忘れ去ろうとしているものを取り戻せるのではないか。

そのことは、本書を読むと殊更に思う。何せ本書のテーマのひとつが文明の利器への抵抗なのだから。主人公ピーターの母ロザモンドは、その信条を愚直に貫こうとする人物である。加工食品を頑なに拒み、素材をいかした料理をよしとする。ミキサーやフードプロセッサーには見向きもせず、昔ながらの料理法こそが正しいと信ずる。充分に聡明でありながら、ロザモンドの信念は堅い。

本書は1960年代中盤を舞台とする。遺伝子組み換え食品の問題など影も形もなく、公害すらもようやく問題化され始めた時期である。文明の行く末に過剰な消費文化が待っていることや、IT化の申し子ロボットによって職が奪われる可能性も知らない時代。誰もが文明の利器の便利さに飛び付いていた頃。主人公ピーターは、そのような母ロザモンドと二人きりの家庭で育つ。古きよきピルグリム・ファーザーズのような価値観の中で。

母の薫陶の下、真面目に人生の価値を求める主人公。カント倫理学を奉じ、誰であれ人を手段として利用してはならないと自分に誓う主人公。まだアメリカが1950年代の素朴さを辛うじて残していた時代を体現するのがピーターだ。時は1964年で、ピーターは19歳。自立を追及する余り、放蕩に走るヒッピー文化前夜の話である。母から自立する人生を敢えて選ぼうとするピーターは、かろうじて素朴なアメリカを保つ主人公として読者の前に現れる。本書はそのような危うい時期の危うい主人公ピーターの成長の物語である。

冒頭、ピーターは四年前に母と訪れた地ロッキー・ポートを再訪する。前に訪れた際に巣を拵えていたアメリカワシミミズクに再会するために。しかし、アメリカワシミミズクは、姿を消していた。アメリカワシミミズク。アメリカの鳥だ。本書は冒頭からアメリカの鳥が失われる。そしてその喪失感が読者の脳裏に刻まれる。読者に本書が失われたアメリカの鳥を求める物語であることが示される。アメリカの鳥が失われるのが、アメリカが泥沼のベトナム戦争に踏み込む最中であることは決して偶然ではない。我を失ったアメリカの現状と、それに背を向けるように姿を消したアメリカワシミミズクは、本書の全体のトーンを決める。その時期はまた、既成の権威に背を向けるヒッピー文化花開く前であることも見逃せない。ピーターの性格設定がヒッピーと対極にあることと併せて作者の意図するところだろう。

つまり、本書は失われつつあるアメリカの伝統を、主人公に託して探し求める物語なのだ。

失われたアメリカを求め、母ロザモンドはロッキー・ポートに留まり古き良きアメリカに拘り続ける。一方でピーターは自らのルーツを求め、ヨーロッパへと旅立つ。

新大陸から旧大陸へ。それはアメリカのルーツ探しでもある。リーヴァイというユダヤ人の姓を持つピーター。とはいえ、敬虔なユダヤ教徒でもないピーター。彼がヨーロッパに求めたのは、ユダヤ教ではない。ユダヤ教よりも、自ら信ずる哲学の源泉、連綿と続く芯の通った文化を求めにいったのだ。

だが、その冒険心は、自分が後にしてきたアメリカと同じ性格を持つことにピーターは気付かない。それはアメリカを狂騒の渦に巻き込み、古き良きアメリカを失わせようとする。ピーターがアメリカ人としての自らに気付くのは、ヨーロッパに着いてからの事。ヨーロッパについて早々、手違いでバイクを手放すはめになる。替わりに乗った列車のボックスシートでは、いかにもアメリカ的な賑やかな中年婦人に囲まれ閉口する。この二つの出来事を通じ、ヨーロッパではアメリカ人もまた異邦人に過ぎないことを悟ることとなる。旧大陸はアメリカとは違うのである。その事を改めて実感して。

浮ついたお上りさんとしてのアイデンティティにうろたえ、必死に冷静さを保とうとするが、ますます空回りするばかり。ピーターの姿は第二次大戦の勝利者の地位を得てはじめて国際秩序の守護者としての体裁を整えようとするアメリカそのものだ。

そういった異邦人としての疎外感と母なる文化の産まれた地に住む喜び。そして、狂騒度を増す一方のアメリカ人とは自分は違うという自意識のまま、ピーターはパリやローマで成長を遂げてゆく。友人との交流。家族ぐるみの一家との付き合い。そのパーティーに参加していた女性への片思い。住宅改善デモへの参加。文化的知識と俗っぽい部分を同居させる変わり者のスモール教授との交流。そんな風に徐々にヨーロッパに馴染むピーター。

異国にアメリカを、アメリカの鳥を探しに来たのに、当の母国はベトナム戦争やヒッピー文化に騒がしく、ますますピーターからは遠ざかり、ヨーロッパに愛着は増す。しかしそれでもアメリカの鳥を求め、ピーターは遠い母と文通を重ねる。しかし、母の奮闘もむなしく、アメリカはますます文明の利器に溺れる一方。

しかし、パリで親しくなった一家の晩餐に招かれたピーターは、アメリカのジョンソン政権が北ベトナム爆撃の敢行が間近であることを聞かされ、動揺する。ヨーロッパ人として馴染みつつあった仮面が剥がれた瞬間である。自らがアメリカ人であることに辟易し続けたピーターは、報道を通して自らがアメリカ人であることに狼狽し、図らずもさらけ出してしまったということだろう。

ローマへ旅立ったピーターは、システィーナ大聖堂にスモール教授と赴く。そこでツーリズムについて思いをぶちまける。その思いとは自らがツーリズムの本場であるアメリカ市民であることや、そのツーリズムが俗にまみれ、ヨーロッパの文化の深淵を観ることなく、あまりに表面をなぞることしかしないことへの苛立ちである。そこには現代においては先進国となっているアメリカ人として、豊饒な文化的空間にいることの座りの悪さの裏返しなのだろう。また、この中でピーターは、もはやこの地球には真の旅行に値する処女地は残されていないことも指摘している。それは、母ロザモンドの拘る古き良きアメリカの文化、そして食文化がもはや残されていないことへの諦めとも取れるのかもしれない。

パリへ戻ると、浮浪者の女性を義侠心から部屋に泊める。そこには性的な欲望も何もなく、ただ単に厚意からの行動である。それは若者の正義感でもあり、おそらくはベトナム戦争の反動といった意味が込められているのだろう。本書を通してピーターは童貞を通すが、それもフリーセックス全盛のアメリカ文化への対比軸であることは言うまでもない。

しかし、アメリカの北爆は敢行され、友人と動物園に行ったピーターはそこで鳥に噛まれる。アメリカの鳥を求めてヨーロッパに来たピーターは、黒い鳥に噛まれて感染症にかかる。これ以上ない皮肉である。意識を取り戻したピーターは枕元にいる母ロザモンドを認める。夢から覚めてみれば結局アメリカからの使者が待っていたという結末だ。朦朧としたピーターは夢の中である人に出会う。その人が発した「もう見当はついているかもしれないね。自然は死んだのだよ、マイン・キント(我が子よ)」で本書は締められる。

アメリカが苦しみ、変化を遂げた1960年代にあって、本書のような物語が語られたことは、必然であったのかもしれない。アメリカのうろたえ振りは、当時の著者にとって本書を書かせるまでに深刻に映っていたのだろう。その堕ちていくアメリカと、失われていく自然を描いた本書は、大河小説としても一級であるし、我々が現代で失われていたものを気付かせる点でももっと読まれてもよいのではないか。

結果として、帰省中に読了することができず、痛勤車内で読むはめになってしまった。本書がどこかの文庫も再録されればよいのに。

‘2015/01/02-2015/01/15


自爆する若者たち―人口学が警告する驚愕の未来


2014年は、日本の政策として急ぐ必要のあると思われる、少子化について考えてみたいと思う。

全人口に占める、高齢者の割合が増えることで、勤労世代が担う福祉費の増大が予想される。また、国の活気やムードの沈滞も予想される。一旦落ちた出生率を上昇させるには、現時点の出生率では最早難しいとのデータも出されている。日本国民だけで少子化を食い止めるためには、出産率を増やさねばならない。それが無理であれば、海外から移民を奨励する必要がある。それもかなりの割合で。そうなると、日本の国体や文化などを守るための運動や議論の一切は無意味なものとなる。

日本は古来、渡来民を受け入れ、彼らを日本文化に取り込むことで文化を発達させてきた。中国や朝鮮半島からの帰化人が、日本文化成立に果たした貢献度は、言葉には表せないほどである。ただしそれは何世代にも亘り、徐々に日本に浸透してきた結果である。今のように情報伝達の速度が速い社会で、移民を推奨したところ、日本文化の大部分は、移民文化の波に呑みこまれてしまうのではないかと危惧する。

移民もこれからの日本文化を豊かにするためにも歓迎すべきだと思うが、それも限度がある。私見だが、移民排斥運動が起きかねないほどに移民を受け入れることには、歯止めを掛けておくべきではないだろうか。

日本の文化には見るべき景観や、誇るべき美徳がまだまだ残されていると思う。それら良き部分を後世の日本人に残すことは、今日本に生きる我々が考えるべき重要な点ではないか。

ただ、上に述べた私見にはまだまだ補強すべき点が多い。それで、今年度は色々と本書のような人口問題についての本を読みこみ、自分の無知な知識を少しでも補えればと思っている。

本書の主旨をまとめると、「人口に占める若者の割合が高い国ほど、ジェノサイドや暴動、テロ、多民族への侵略の起こる確率が高い」ことである。

このテーマに沿って本書では、以下の論点を提示する。一つに、若者が求めるのは社会の中で自分が収まるべきポストであること。二つに、同世代のライバルが多い以上、同じ文化内、または、異なる世代、文化、民族、宗教を攻撃し、空きポストを作るということ。三つに、それは、若者が受ける教育や文化、生活の貧困などに関係なく起こること、である。これら怒れる若者たちを称して、ユース・バルジと呼ぶ。

これらの論証を、著者は古今東西の膨大なデータを渉猟した結果として、本書内で提示する。

例えば、大航海時代からこの方、ヨーロッパは地球のほとんどを支配するに至った。それはなぜ起きたのか。

14世紀のヨーロッパを席巻したペスト禍で、人口の相当数を失ったヨーロッパ諸国。その結果、聖職者の成り手すら枯渇するにいたる。その対応として、時のローマ法王インノケンティウス8世は、魔女勅書を出す。その中で、妊娠と出産を阻害するものは罰する旨が描かれており、中絶を実施するもの、産婆、つまりは魔女に対する迫害の端緒が開かれたということを本書は示唆する。その頃から、女性医学の経験値が失われたことが論証される。その結果として大量に生まれた若者たちのエネルギーがどこに向かったかは、世界史で知られる通りである。

性の医学の衰退と、ヨーロッパの国々が意識し始めた、占有権ではない所有権の概念についても示される。これも当時のヨーロッパの若者が、新大陸での略奪の限りを行った、理由の補強として提示される。

また、本書では、現代の世界で憂慮すべき問題として、イスラム圏での国々の若者の割合がいずれも膨大な数に上がっていること。このことが、もっと注目されるべきと訴える。これらイスラム圏のユース・バルジが、出生率の低い西欧諸国にとって何らかの災厄をもたらすのではないか、と。

本書では日本も出生率の低い国として挙げられている。しかし、残念ながら出生率低下に伴う、世代間の負担についての有効な処方箋は示されていない。また、中国については人口が増えているとはいえ、ユース・バルジの割合がそれほどでもないことから、中華人民共和国の領土拡張の野望や、周辺諸国への移民問題についても、特にページは割いていない。

ただ、現在の人口と若者人口比から算出した2050年の人口順が、124ヶ国についての詳細なリストとして掲出されている。そこでは、日本は現在の10位から18位と下がっており、明らかに衰退傾向予備軍として、挙がっている。気にかかるところである。

また、本書ではタリバンを例に挙げ、女性の教育向上を、新たな戦士=ユース・バルジの出生を阻害する要因として敵視する意図が記載されている。そして上位に衰退傾向予備軍として挙げられた国の殆どが、女性の社会進出が盛んな国であることも、わずかに示唆されている。私としては出生率の多寡に関係なく、男女協働社会はありとする考えである。そのためにも、経済至上主義、特に男性の子育てが軽視されがちな現状を憂慮するものである。

先に書いたように、本書では、出生率向上策や、女性の社会進出についての是非については触れられていない。そのかわり、日本国民の大多数が抱く、ジェノサイドや暴動、テロ、多民族への侵略とは、宗教や文化的に違うイスラム圏の問題であり、日本には影響が及ばないという考え方を改めるには、有用な書物であると言えるだろう。

’14/01/17-14/01/24


ローマ亡き後の地中海世界(上)


2013年の最大の読書体験である、著者作の「ローマ人の物語」。読み終えた後、後日談として本書があると知り、図書館で借りてきた。

ローマ帝国瓦解後、ルネサンスの訪れまでの中世ヨーロッパを俗に暗黒の中世という。少なくとも私の高校世界史レベルの知識ではそうであった。では、何を持って暗黒というのか。イスラム文明の進展に比べて停滞するヨーロッパの現状に対してか。それとも・・・

本書を読めば、中世ヨーロッパに対する曇った知識が磨かれること請け合いである。

ローマ帝国の分裂とそれに続く北欧民族によるイタリア半島やアフリカ沿岸部の覇権確立。イスラムの台頭と、国権による保護が手薄になったことをきっかけとした、サラセン人による海賊産業の隆盛。

つまり、暗黒の中世とは、海賊の跳梁による人々の拉致、奴隷化に対して無力な地中海沿岸部の人々の嘆き。その絶望感が暗黒という言葉となって後世に伝わったのではないかと思われる。そこには海賊の元締めであるイスラム文化に対して、有効な対策を打てずに1000年の時間を過したキリスト文化に対する無力感もあったことだろう。

本書で描かれる地中海世界では、アビニョン捕囚もカノッサの屈辱も、宗教改革ですらも重きを置かれない。重点的に描かれるのは、地中海を中心とした、イスラム文明とキリスト文明の衝突である。主題を太い幹一本に絞り、それ以外の枝葉には迷い込むことなく進んでいく著述には、清々しい想いさえ抱く。

何ゆえルネサンスが興り、何ゆえ西欧世界がルネサンス後、現代に至るまで世界の主勢力となったのか。そのあたりの歴史を理解するためには、必読の一書と思われる。

’13/12/23-14/01/01