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声の狩人 開高健ルポルタージュ選集


著者を称して「行動する作家」と呼ぶ。

二、三年前、茅ヶ崎にある開高健記念館に訪れた際、行動する作家の片鱗に触れ、著者に興味を持った。

著者は釣りやグルメの印象が強い。それはおそらく、作家として円熟期に入ったのちの著者がメディアに出る際、そうした側面が前面に出されたからだろう。
だが、行動する作家、とは旅する作家と同義ではない。

作家として活動し始めた頃、著者はより硬派な行動を実践していた。
戦場で敵に囲まれあわや全滅の憂き目をみたり、東西陣営の前線で世界の矛盾を体感したり。あるいはアイヒマン裁判を傍聴してで戦争の本質に懊悩したり。

著者は、身の危険をいとわずに、世界の現実に向き合う。
書物から得た観念をこねくり回すことはしない。
自らは安全な場所にいながら、悠々と批判する事をよしとしない。
著者の行動する作家の称号は、行動するがゆえに付けられたものなのだ。

そうした著者の姿勢に、今さらながら新鮮なものを感じた。
そして惹かれた。
安全な場所から身を守られつつ、ブログをかける身分である自分を自覚しつつ。
いくら惹かれようとも、著者と同じように戦場の前線に赴くことになり得ない事を予感しつつ。

没後30年を迎え、著者の文学的な業績は過去に遠ざかりつつある。
ましてや、著者の行動する作家としての側面はさらに忘れられつつある。
だが、冷戦後の世界が再び動き出そうとする今だからこそ、冷戦の終結を見届けるかのように逝った行動する作家としての姿勢は見直されるべきと思うのだ。

冷戦が終わったといっても、世界の矛盾はそのままに残されている。
ソ連が崩壊し、ベルリンの壁が崩され、東西ドイツや南北ベトナムが統一された以外は何も変わっていない。
朝鮮は南北に分断されたままであり、強大な国にのし上がった中国を統治するのは今もなお共産党だ。
ロシア連邦も再び強大な国家に復帰する機会を虎視眈々と狙っている。
そもそも、イスラム世界とキリスト世界の間が相互で理解し合うのがいつの日だろう。パレスチナ国家をアラブの国々が心から承認する日はくるのだろう。ドイツで息を吹き返しつつあるネオナチはナチス・ドイツの振る舞いを拒絶するのだろうか。
誰にも分からない。

それどころか、アメリカは世界の警察であることに及び腰となっている。日韓の間では関係が悪化している。EUですらイギリスの離脱騒ぎや、各国の財政悪化などで手一杯だ。
世界がまた混迷に向かっている。

冷戦後、いっときは平穏に見えたかのような世界は実は休みの時期に過ぎなかったのではないか。実は何も解決しておらず、世界の矛盾は内で力を蓄えていたのではないか。
その暗い予感は、わが国の活力が失われ、硬直している今だからこそ、切実に迫ってくる。
次に世界が混乱した時、日本は果たして立ち向かえるのだろうか、という恐れが脳裏から去らない。

本書は著者が旅先でたひりつくような東西の矛盾がぶつかり合う現場や、アイヒマン裁判を傍聴して感じたこと、などを密に描いたルポルタージュ集だ。

「一族再会」では、死海の過酷な自然から、この土地の絶望的な矛盾に思いをはせる。
古来、流浪の運命を余儀なくされたユダヤ民族は、苛烈な迫害も乗り越え、二千数百年の時をへて建国する。
生き残ることが至上命令と結束した民族は強い。
自殺者がすくないのも、そもそも自殺よりも差し迫った悩みが国民を覆っているから。
著者の筆はそうした本質に迫ってゆく。

「裁きは終わりぬ」では、アイヒマン裁判を傍聴した著者が、600万人の殺人について、官僚主義の仮面をかぶって逃避し続けるアイヒマンに、著者は深刻に悩み抜く。政治や道徳の敗北。哲学や倫理の不在。
アイヒマンを皮切りに、ナチスの戦犯のうち何人かはニュルンベルクで判決を受けた。だが、ヒトラーをはじめとした首脳は裁きの場にすら現れなかった。
一体、何が裁かれ、何が見過ごされたのか。
著者はアイヒマンを絞首刑にせず生かしておくべきだったと訴える。
顔に鉤十字の焼き印を押した生かしておけば、裁きの本質にせまれた、とでもいうかのように。

「誇りと偏見」は、ソ連へ旅の中で著者が感じ取ろうとした、核による終末の予感だ。
東西がいつでも相手を滅ぼしうる核兵器を蓄えてる現実。
その現実の火蓋を切るのは閉鎖されたソ連なのか。そんな兆しを著者は街の空気から嗅ぎ取ろうとする。
ステレオタイプな社会主義の印象に目をくらまされないためにも、著者は街を歩き、自分の目で体感する。
今になって思うと、ソ連からは核兵器の代わりの放射能が降ってきたわけだが、そうした滅びの終末観が著者のルポからは感じられる。

「ソヴェトその日その日」は、終末のソ連ではなく、より文化的な側面を見極めようとした著者の作家としての好奇心がのぞく。
共産主義の教条のくびきが解けようとしているのではないか。暗く陰惨なスターリンの時代はフルシチョフの時代をへて過去となり、新たなスラヴの文化の華が開くのではないか。
著者の願いは、アメリカが主導する文化にNOを突きつけたいこと、というのはわかる。
だが、数十年後の今、スラヴ文化が世界を席巻する兆しはまだ見えていない。

「ベルリン、東から西へ」でも、著者の文化を比較する視点は鋭さを増す。
東から西へと通過する旅路は、まさに東西文化に比較にうってつけ。今にも東側を侵そうとする西の文化。
その衝突点があからさまに国の境目の証となってあらわれる。
それでいながらドイツの文化と民族は同じであること。著者はここで国境とはなんだろうか、と問いかける。
文化を愛する著者ゆえに、不幸な断絶が目につくのだろうか。

「声の狩人」は、ソ連を横断してパリに着いた著者が、花の都とは程遠いパリに寒々しさを覚える。
アルジェリア問題は激しさを増し、米州機構反対デモが殺伐とした雰囲気をパリに与えていた。
実は自由を謳歌するはずのパリこそが、最も矛盾の渦巻く場所だったという、著者の醒めた観察が余韻を与える。
結局著者は、あらゆる幻想を拒んでいた人だったのだろう。

「核兵器 人間 文学」は、大江健三郎氏、そして著者とともに東欧を訪問した田中 良氏による文だ。
三人でフランスのジャン・ポール・サルトルに質問を投げかける様が描かれる。
ジャン・ポール・サルトルは、のちにノーベル文学賞を受賞するも、辞退した硬骨の人物として知られる。
ただ、当代一の碩学であり、時代の矛盾を人一番察していたサルトルに二人に作家が投げかける質問とその答えは、どこか食い違っている感が拭えない。
この点にこそ、東西の矛盾が最も表れているのかもしれない。

「サルトルとの四十分」は、そのサルトルとの会談を振り返った著者にる感想だ。
パリに来るまでソ連を訪れ、その中で左翼陣営の夢見た世界とは程遠い現実を見た著者と、西洋文化を体現するフランスの文化のシンボルでもあるサルトルとの会談は、著者に埋めようもない断絶を感じさせたらしい。
日本から見た共産主義と、フランスから見た共産主義の何が違うのか。
それが西洋人の文化から生まれたかどうかの差なのだろうか。
著者の戸惑いは今の私たちにもわずかに理解できる。

「あとがき」でも著者の戸惑いは続く。
本書に記された著者の見た現実が、時代の流れの速さに着いていけず、過去の出来事になってしまったこと。
その事実に著者は卒直に戸惑いを隠さない。

そうした著者の人物を、解説の重里徹也氏は描く。
「開高がしきりにのめりこんでいくのは、こういう、現実と理想の狭間に生まれる襞のようなものに対してである」(239ページ)

ルポルタージュとは、そうした営みに違いない。

‘2018/11/1-2018/11/2


わたしは英国王に給仕した


新年には普段読めない全集を。

昨年と同様、2016年も文学全集から読書道楽の日々を始める。とはいえ、今年は仕事上の目標が控えている。その目標とは、四月から常駐先での仕事を半分に減らすというもの。つまりは四月からは自分自身の力で0.5人月分の仕事をとり、しかも、前と同じだけの収入を確保しなければならない。

もちろん今年も暇ができれば本をひもとき、読書を楽しみたい。だが、新年早々、重厚な本から始めると、読むのに時間が割かれ他のことが疎かになりかねない。そんな訳で手元にある全集の中でも比較的薄く、さらには読みやすそうな本書を選んだ。

そんな目論見で読み始めた本書だが、読破まで案外時間がかかってしまった。本書が期待に反して難解だったわけではない。つまらなかったわけでもない。しかし、軽率に読み飛ばせる類いの本でもなかった。軽妙でありながら、イメージがあちこちを飛び回るため、ついて行くのに時間がかかってしまったのだ。ま、全集に収められるほどの本だから一筋縄ではいかなくても当然かもしれないが。

本書は一人の老いた男の回顧談だ。ホテルの給仕から身を立て、一流ホテルのオーナーへと登り詰めた男の。その過程で男がたどる摩訶不思議な体験が、たくさんのエピソードと尽きることのない挿話に埋め尽くされながら、一気呵成ともいうべきスピード感で描かれる。

ホテルの給仕が億万長者になり、人生を語るという構成。ひょっとすると映画好きの方にはピンとくるかもしれない。グランド・ブダペスト・ホテルの名前を。2015年度のアカデミー作品賞にもノミネートされた作品だ。

私も映画館で観たので印象に残っている(レビュー)。グランド・ブダペスト・ホテルは、ウェス・アンダーソン監督自身によるオリジナル脚本を基に制作されたという。だから、本書とグランド・ブダペスト・ホテルとの間には何も関係がない、はずだが、本書がまったく影響を与えなかったとは考えにくい。そう思わせるほど、作風に似通ったところがあるのだ。でも、それはあくまでインスパイアレベルだろう。お互いのシナリオに似通っている点といえば、ホテルのボーイが成長して数奇な運命に翻弄されるところぐらいだろうか。

グランド・ブダペスト・ホテルが、上品さと滑稽さを交えていたのに比べ、こちらは上品さが影を潜めている。本書はなんといえばよいだろう。慌ただしさといえばよいだろうか。何か一人の人間の一生を慌ただしく、そして滑稽かつ一歩引いた目で眺めているような。

ここまで考えて思い至る。本書から受けるイメージとは、チャーリー・チャップリンのフィルムであることに。もちろん、チャップリン作品には、本書ほどあれもこれも盛り込まれているわけではない。だが、あの忙しい動きとそこはかとなくただようペーソスには、本書と通底する何かが感じられる。

繰り出されるエピソードとイメージの氾濫。そして奇矯でユーモラスな登場人物の行動。そこに内面の描写は不要。いや、本書にももちろん内面描写はある。そして、主人公の一人称で語られる本書は、主人公の内面を独白で表す。つまり、映画で言うとナレーションだ。

なぜここまで本書が映像的なのだろう。考えてみると、本書にはとにかく改行が少ない。各パラグラフの塊は一気に書かれ、読者にも一気に読むことを求められる。著者あとがきや解説によれば、本書は18日間で書かれたそうだ。つまり即興の勢いが行間を満たしている。文章のテンポとエピソードの豊富さが絡み合い、それが本書を映像的な内容に仕立てているのだろう。本書は『英国王給仕人に乾杯!』のタイトルで映画化もされており、おそらく映像的には高いレベルの作品に仕上がっていることだろう。

だが、映像的なイメージだけに目を奪われ、本書の隠れたテーマを見過ごすことのないようにしたい。隠れたテーマとは、人生を客観的に見る視線だ。

本書は単にレストランの給仕が奇妙な出来事に振り回されているうちに、成り上がっていくだけの話ではない。主人公のヤン・ジーチェは、あらゆるものを見聞きする。給仕見習いとして、支配人からこう言われる。「まだお前はここじゃ給仕見習いだから、よく心得ておくんだ!お前は何も見ないし、何も耳にしない、と!繰り返し言ってみろ!」(5P)。そしてすぐ「でも胸に刻んでおくんだ。お前はありとあらゆるものを見なきゃならないし、ありとあらゆるものに耳を傾けなきゃならない。繰り返し言ってみろ」(5P) と。

冒頭にあるこの言葉が、本書には一貫して流れている。つまりヤンは、何も見ないし何も耳にしない。これは主観で考えないということだろう。そしてありとあらゆるものを見て聞くというのは、客観的な態度のことではないか。ヤンの行動は本書を通してどこか他人事のようだ。ホテルの支配人からオーナーに上り詰め、ドイツの女性と結婚し、ナチスの暴虐に守られながらユダヤ人からせしめた切手で大金を得、戦後はその経歴をとがめられ、収容所に入れられ無一文となる。

そういったヤンの人生の全ては、自ら進んで動くというより、運命の見えざる手に導かれたかのようだ。ヤンはどこまでも受身を貫き、それが彼の人生を揺さぶる。山あり谷ありの人生を終えようとする彼の心中には諦めも充実感もない。どこか他人事のように自分の人生を振り返る。そもそも私は英国王に給仕した、という題からして他人の行いなのだから。英国王に給仕したのはヤンではなく、スクシーヴァネク給仕長だ。ヤンが給仕したのはエチオピア皇帝のハイレ・セラシエなのに、ヤンにとっては自分ではなく給仕した上司の行為を語るのだ。これを客観的な態度といわずして何を客観的といおうか。

小説というのは話者が他人であれ自分であれ第三者であれ客観的に語ることで成り立つ。そして、それは何も物語を語る時だけに限った話ではない。それは自分の人生を振り返る時の態度にも関係するのではないだろうか。老年になって自分の人生を振り返る。その時に主観的に自分中心で考えてしまうか、それとも高みからの視点で自らを語れるか。そこで人生の締めくくりは全く違ってくる。一説によれば自らを客観的に見る訓練をすると痴呆や老化からは程遠い老後が送れるという説もあるぐらいだから。

本書がグランド・ブダペスト・ホテルと違うのは、自分を客観的に見る視点の面白さ。そして大切さではないだろうか。私はそう思った。

‘2016/01/01-2016/01/09


白洲次郎の嘘 日本の属国化を背負った「売国者ジョン」


普段、あまり新刊本を購入しない私だが、前のレビューの「横浜の戦国武士たち」と本書、そして2つ後にレビューする予定の本については、珍しく3冊まとめて購入した。

なぜ3冊もまとめて買ったかというと、本書の題名に惹きつけられ、残りの2冊もその勢いで、というのがホントウのところである。

阪神間で育ち、町田市に住まう私。著名人で同様な転居をした方となると、遠藤周作氏と白洲次郎氏が挙げられる。同郷の士として親しみを感じていた私は、数年前、白洲次郎氏の名前が脚光を浴び始めた頃、自宅近くにある武相荘に足を運んでみたことがある。武相荘には、白洲次郎氏の辣腕ぶりを示す資料はそれほど残っておらず、どちらかというと文化人としての白洲正子氏や次郎氏の粋を集めた、静かな余生の場、という印象が強い。

吉田元首相の懐刀としてGHQと丁々発止と渡り合ったエピソードの数々。政治の世界から一線を引いて以後の、プリンシプルを大事にした多様な逸話。だが、私は美化された聖人の伝記よりも、清濁併せ持った人間像に惹かれる者である。あれだけの存在感を見せつけたにも関わらず、経済人としての白洲氏からは、余生としての人生しか感じられない。理事長や会長といった名誉職を渡り歩く経歴からは、前半生の勢いはどこへやらといった、枯れた諦念すら見え隠れする。果たして、それが新憲法制定に際してGHQとの折衝で燃え尽きた結果なのか、それとも、なにか裏の顔があったのか。その興味が本書の題名と結びつき、購入を決断させた。

著者については初めて耳にする。その筆致も持論も知らない。なのでサブタイトルの「日本の属国化を背負った「売国者ジョン」」。帯にある「「日本のプリンシプル」の虚言と我欲に塗れた実像」「誰がどんな思惑で、このウソツキ野郎を礼賛するのか」。そんなドギツイ文句が、果たして能書きだけなのかどうか知らぬままにページを繰った。

結論からいうと、能書き通りであった。序文で著者はこう述べている。「白洲次郎を書きながら、申し訳ないと思いつつ乱暴な表現を繰り返してきた。これは、ただ、ただ、歴史の真実を知りたいためであり、他意はない」。私は序文のこの言葉を信じて本文に入った。

しかし、残念ながら、序文の言葉を知った上でも、そうとは思えない部分が多々あった。

批判的な伝記を書く際は猶更のことだが、徹底した調査と、その証拠の開示は最低限必要である。しかし、本書からは、既存の書籍からの引用から、著者の膨らませた想像に基づいた断定があまりにも多い。しかもその書籍は本書では「白洲ヨイショ本」という名前で何度も紹介されている。例え良い面しか見ていないとしても、先人の調査結果に基づいた批判を行う以上は、引用元には最低限の敬意を払うべきではないだろうか。

批判に正当性を持たせようとするのであれば、猶の事、証拠を積み重ね、文体や表現に頼らずに証拠で以って対象者を批判すべきである。それ反し、本書は表現に頼りすぎているきらいがある。残念でならない。

本書で書かれている白洲次郎陰謀論として、一番大きな前提として依っているのが、白洲次郎氏とユダヤ資本の結託、いわゆるユダヤ陰謀論の一種である。それも、白洲次郎氏が父・文平氏とユダヤ商人(ジャーディン・マセソン社の経営者ケズウィック氏)の一族の娘との子供ということをほぼ断定する。しかし、その証拠は過去書籍の引用の数々からの拾い集めである。容姿については日本人離れしていたとあるが、白洲家一同の写真を見る限りは次郎氏は他の兄弟に似ている。つまり兄弟全員がユダヤの血を引くことになるが、その点はどう説明するのであろうか。

その前提を元に、日本を第二次世界大戦で敗北へ導き、日本を支配しようとするユダヤ資本の操り人形として白洲次郎氏を書こうとしている。しかし、前提が弱いため、その後の論旨の展開にも
説得力が感じられなかった。

ケンブリッジを卒業したかどうかについても、先人の研究結果を引用しているが、ここは著者自らが現地に赴いた上で書くべき部分ではなかろうか。そのあたりの実地調査がもう少しされていて、表現に頼らず、積み重ねた証拠でもって白洲次郎氏を批判しているのであれば、まだ良かったのだが・・・

本書で批判される白洲次郎氏の経歴は幅広いものがある。また、吉田元首相を始め、義父である樺山愛輔氏、近衛元首相のブレーンであった牛場友彦氏など、本書で売国奴とされている方々は多い。昭和天皇でさえも。その取り上げられる範囲の広さは、本書の特筆すべき点かもしれない。白洲次郎氏が登場する歴史のエピソード全てに嘘の断定をしていくのだから、大したものである。

だが、反対から本書を捉えてみると、それだけ白洲次郎氏の活動範囲が広かったことを示している。それは本書の功績である。無論、白洲次郎氏が戦後の日本を救った英雄で、私心なく国に全てを捧げた清廉潔白の士、とは私も思わない。今までに出版された書籍にはダーティーな部分の調査が及ばず、書かれなかったことも多いと思われる。

しかし、美化してはならないが、証拠もなしに侮蔑するのは問題である。例えば白洲家の関係者の方は、白洲次郎氏のDNA鑑定なりなんなりを行い、謂われなき誹謗中傷であるなら、それに反駁して欲しいと思う。本書が挙げた問題提起に対する回答を怠り、無視するのはあまりよい解決策とは思われない。

序文には著者はこうも書いている。「あらゆる非難の声は真正面から受ける。決して逃げ隠れはしない」。私は本書で挙げられた論旨には反対するが、著者が私利を目的として本書を上梓したとは思わない。その読書量には敬意を表する。

’14/3/5-’14/3/7