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僕が本当に若かった頃


老境に入った著者が過去の自分を思い返しつつ、そこから生まれた随想を文章にしたためる。
本書を一言で言い表すとこのようになる。

本書に収められた十の短編をレビューにまとめることは、正直言ってなかなか難解だ。

なぜなら、本編には、著者自身の人生を彩った出来事が登場し、著者の親族も登場し、そして著者が今までに発表した作品の登場人物が登場するからだ。

著者の代表作である『同時代ゲーム』はよく知られている。その世界観が著者が生まれ育った四国の山奥の村をモチーフとされていることも。
そうした作品に登場する人物は、著者の人生にも登場する人物でもある。そうした人物が本書にはあちこちで登場する。だから、著者の作品を読んでいないと読者には何のことか分からなくなってしまうのだ。

「火をめぐらす鳥」
この一編は、著者の生涯を持って生まれた息子との日々を描いている。
今や作曲家として著名な光氏と過ごした時間は、著者にどのような影響を与えたのか。
その一端が描かれる本編からは、光氏の存在が著者の作家活動に大きな影響を与えたことが見て取れる。

「「涙を流す人」の楡」
華やかな外交官との交流を語る内容が一転して、著者の育った四国の山奥の谷間の村の描写へと変わる。
その二者を繋ぐイメージがニレの木だ。楡を通して結びついた二つの世界。

その二つの世界の主人公である著者は時間によって隔てられている。
百戦錬磨の外交官との談論ができるようになった、と著者が感慨をもつ今。そして、四国の谷間の村の幼い頃の経験。
著者の育った谷間の村の狭いけれど豊かな世界が授けてくれたことは、著者の今と確かにつながっている。
その谷間の村の経験は、著者の作家活動にも大きな恵みをもたらしてくれた。そう著者は振り返る。

そしてそうした自分にさらなる成熟がもたらされたのも、外交官との交流があったからだと著者は述べる。
N大使の逝去に際して書かれたと思われる本編で、著者は今の自分の心で過去を再構成する。

それにしても著者の文章の読みにくさといったら!

「宇宙大の「雨の木」」
時間と空間をつらぬいて遍在する「不死の人」。
不死の人を小説に書きたいと願う著者が、文学の影響や好みを自由自在に語る。
三島由紀夫を批判し、フォークナーの作品世界を好む著者。
著者の探し求めるイメージの断片がさまざまに現れる。

“雨の木”は著者の作品でも登場する。
著者が想起する多様なシンボルが本編のように混交して現れることで、著者の小説の基本的なイメージが形をなしてゆく様子をうかがうことができる。

「夢の師匠」
谷間の村の「夢を読む人」と「夢を見る人」を見て育った著者の子供の頃の記憶。
彼らが戦争によって境遇を変えられてしまう様子は、著者に強い印象を刻む。
そのイメージを通し、続いての「治療塔」の構想へとまとまってゆくいきさつを記した一編だ。

平田篤胤全集の「仙童寅吉」の話と、ゲルショム・ショーレムの「ユダヤ神秘主義」に書かれた中世ヨーロッパの祈禱神秘主義をめぐる引用。
それらに刺激を受けたという著者がそれらを引用しつつ、SFへとイメージを広げてゆく。

「治療塔」
著者にとって珍しいと思われるSF作品。
筒井康隆氏と著者の交流は知られているが、本編は筒井氏の影響から生まれたのだろうか。
古い地球を見捨てる人類と、古い地球に留まり続ける人類。
新しい人類にならんとする人々は、治療塔で癒やされる。
著者にとって、人類や地球は理想の姿ではないだろう。ところが治療塔の概念は、人類が自ら根本的に成長を遂げることを諦めてしまっているかのようだ。
それは著者自身の諦めの表れなのだろうか。『治療塔』はまだ読んでいないので、機会があれば読んでみたいと思う。

「ベラックワの十年」
ダンテの「神曲」をモチーフにした著者の作品『懐かしい年への手紙』に登場させなかった道化者のべラックワ。

その姿を振り返りながら、自らの中の道化の部分や放埒さを思い起こそうとする一編だ。
本書の中では読みやすい部類に入る。

ノーベル賞を受賞し、難解と言われる作風のため、著者に近づきがたい印象を受けているのなら、本編で書かれた著者の姿から印象が変わるかもしれない。

「マルゴ公妃のかくしつきスカート」
性的に放縦だったとされるマルゴ公妃の生涯を振り返るテレビ番組をきっかけに、ある人物の放縦と性的な自由さを探ってゆく一編。

著者の思索の対象はマルゴ公妃だけではない。テレビ局のスタッフである篠君の言動も著者の興味を引く。その二人を通して、著者は人の自由さとは何かについて考えを深めてゆく。

著者にとって冒険とは文学的なそれに等しいと思う。だが、著者は自由で羽目を外した行いをする人物には見えない。きっと堅実だったと思う。動くよりも見る側の人。
その証拠に以下のような文章が登場する。
「事実、小説家は志賀、井伏といった例外的な「眼の人」をのぞいて、見る瞬間にではなく、文章を書き、書きなおしつつ、かつて見たものをなぞる過程でしだいに独特なものを作ってゆくのだ。」(202p)

「僕が本当に若かった頃」
著者が20歳の頃、家庭教師をしていた繁君。ひょんなことで繁君の消息がわかったことから、著者が当時のことを思い出し、つづってゆく一編。
まさに著者が若かった頃の話だ。

かつて著者の前から消息を絶った繁君に何が起こったのか。繁君はその理由を長文の手紙で知らせてくる。
本編に載っているその手紙は果たして著者の創作なのか。それとも繁くんの実際の手紙なのか。私にはわからない。

繁君の秘密が明かされてゆく様は本編は、ミステリーを読んでいる気分になる。

「茱萸の木の教え・序」
著者の故郷の四国から、孝子ことタカチャンの残した文書やその他の事績をまとめる段ボールが送られてきたことから始まる一編。
孝子とは、著者の従妹にあたる。起伏の多い人生を送った末、亡くなった。
著者の伯父がその一生をまとめたいと、作家である著者に託す意図で送ってきた資料の数々。

著者はタカチャンの思い出を振り返る。その中で著者は故郷で繁っていた茱萸の木に着目する。タカチャンの残した文の中でもいく度か取り上げられる茱萸の木。
伐採されてしまった茱萸の木に語りかけていたタカチャンの思いは何か。それを探りながら著者はタカチャンの一生をつづってゆく。

そうすることで著者なりに同時代を生きたタカチャンの鎮魂を果たそうとするかのように。

「著者から読者へ」
これは本書に収められた「僕が本当に若かった頃」を書いた著者から読者に向けての手紙の体裁をとっている。
著者にとっては「僕が本当に若かった頃」は、旅の疲れを癒やす作品でもあったようだ。

解説の井口時男氏の文章は、大江健三郎という巨大な作家の著作群の中で、本書が占める意味を克明に記している。
その中で本書のいくつかで登場した若い頃の著者=僕の出来事は、徹底的に言語化された「僕」というテキストになっていることが示される。つまり、本書は私小説ではないし、エッセイもどきの小説でもない。
本書は著者がその小説技法を存分に生かした巧妙な短編群なのだ。

‘2018/11/20-2018/11/28


アリス殺し


「このミステリーがすごい」で本書が上位に入っていたこともあって久々に著者の本をよんだ。

夢の世界に起きた殺人が現実の世界にも影響を与える設定。これはSFでは有りそうな設定だが、ミステリーでは冒険だ。なぜ設定のような現象が起きるのか。そんな整合性は度外視される。ただつながっているからつながっている。そんな突き抜けた感じが本書の全体に漂っている。

そういうことが許されるのも、アリスの不思議な世界をモチーフとした夢の世界という本書の設定がユニークだからだろう。その設定だけで、不条理なことも何となく丸く収まってしまうから面白い。夢の世界とこちらの世界。世界は全く違うのに、人物が一対一になっているのが本書のミソだ。自分のもう一人の分身が夢の世界にいる。そのことに気付く人と気づかない人。それは鋭敏な感覚、または夢の世界を克明に覚えている人物だけが気づく。夢の中では己の分身は人間ではなく別の物に化けていることもある。三月ウサギとか、ハートの女王とか。夢の中に自分の分身がいることに気づく登場人物とそうでない人物によって現実の世界の人物の行動が変わることにも注目だ。

違うものに化けている。つまり、夢と現実が人の意識でリンクしている。だがそれが誰が誰ことに気づいている者たちの間ですら、現実の誰が夢の誰か、夢の誰が現実で誰か、お互いにわからない。そしてそれは読者も同じ。それが本書のキモだ。読者は誰が誰に対応しているのか、さんざん著者のミスディレクションに振り回されることになる。私もやられた口だ。

夢の世界、つまりアリスの世界には奇妙キテレツな言動の主がわんさか登場する。彼らが発する不条理で混沌とした言葉がさらに読者を惑わす。現実の世界で起こった事件が、夢の世界では違う趣の事件に対応する。犯人と探偵役が、どういう関係になっているか、果たしてこのアンフェアにすれすれのミスディレクションに惑わされない読者はいるのだろうか。本書の帯にもこうかかれている。「正解不可能」と。

本書は、犯人が判明したあとの展開も面白い。その不思議の国の不条理な世界だからこそありのグロテスクさ。著者の作品は以前にも読んだことがある。その時にもグロテスクな世界観を好む作家だなあと思った記憶がある。不条理な夢の世界では、人間の世界の規範に当てはめるとドギツイこともたくさん登場する。犯人に対するお仕置きのシーンのグロテスクさなどは著者の本領が発揮されているのではないか。そうした描写がいとも簡単に書き込めるのも、著者が仕掛けた設定の妙にあることは言うまでもない。しかも、最後にはさらなる仕掛けが読者を別の世界に突き落とす。これもまた、たまらない。

本書のようなタイプの小説は、現実を現実の外の視点で、つまりメタ現実として眺めることを読者に求める。それは認識の原点にまで関わることだ。そもそも私たちが生きるこの世界の法則が正しいなど、誰が決めたのだろうか。誰にも強いられたわけではない。ただ子どものころからの教育としつけのたまものに過ぎない。周りがその認識を正しいと信じているから、それに従ったほうが角を立てずに生きていけますよ、という約束事として私たちが教え込まれてきただけの話だ。優れた芸術とは、積もりに積もった既成の観念を揺さぶることに存在価値がある。

存在価値を揺さぶることにかけて、本書のアプローチはとても面白い。童話の世界の中から読者に挑んでくる。不思議の国のアリス、という有名な作品をモチーフに取り上げることで、本書の世界観は奇天烈でありながらも、どこか読者に懐かしさを感じさせる。つまり、不条理でありながら、読者に拒否感を与えないのだ。これはとても賢いアプローチだと思う。

童話とはそもそも不条理な世界ではなく、幼い頃の私たちには驚きと冒険に満ちた物語だったはず。幼い無垢な心には、童話とは不条理どころか心のよりどころとだったのではないか。大人になるまでに私たちは、童話とは作りごとに満ち、現実とは程遠いおめでたい世界との常識を植えつけられる。汚れ、くすんだ大人の心には童話の世界がはらむ「わくわく感」は決して届かない。

だがそれは、大人になる過程で私たちが世の常識をさんざん吸い込まされ、世のあり方に従うことが生きる最適な道と学ばされてきただけのこと。童話とは、私たちの常識を打ち破るはずの世界とは、もっと私たちの心の垣根を乗りこえる何かを秘めているのではないか。常識という鎧をまとうことで、私たちの心は守られているようで、その実は大変な鎖が巻き付けられてしまったのではないか。本書を読んでそんなことを思う。本書のアプローチは、私たちに童話に込められた違う世界を見せてくれる。それは夢と魔法の国が演出するテーマパークではなく、心で読み込んで感じるものだ。目や耳や舌ではなく、もっと違う側面。たとえば心の認識のあり方において。フロイトがかつて提唱したイド、ユングがかつて説いた集合的無意識。なんでもいい。それは私たちの中で凝り固まった自我の彼方で目覚めを待っているはずなのだ。

本書は無意識や認識の壁を破るための方法を、推理小説という形式で私たちの前に提示する。謎解きというプロセスを過ぎることによって、大人でありながら論理に沿った楽しみも味わえる。なおかつ本書は、結末で童話の世界の不条理性を示す。私たちは不条理性が提示されることで、かえって子供の頃にはなんの疑いも抱かずに不条理を受け入れていたことを思い出す。謎解きが間に挟まることで、論理と常識の壁を乗り越え、不条理が不条理とは限らないことを私たちに教えてくれる。

なかなか味わえないテイストを持つ本書だが、ミステリーファンは一度読んでおくことをお勧めしたい。もっとも、私も著者の作品はぜんぜん読めていない。いくつも出版されている著者の作品で読むべきものは多いはず。これを機会にもっともっと読まねばと思った。

‘2017/10/27-2017/10/30


繁栄の昭和


いつの間に筒井御大の最新作が出ていたのを見逃していた。不定期的にWeb連載されているblog「偽文士日録」1、2ヶ月に一度はチェックしているのに。不覚。

本書は短編集である。題名を見ただけでは高度成長期の日本を舞台にした内容と思う向きもあろう。高度成長期といえば、著者がスラップスティックの傑作を連発していた時期。繁栄とは著者自身の脂の乗り切った作家生活のそれを
指しているのではないかと。しかし、そうではない。

繁栄の昭和
大盗庶幾
科学探偵帆村
リア王
一族散らし語り
役割演技
メタノワール
つばくろ会からまいりました
横領
コント二題
附・高清子とその時代

「繁栄の昭和」
時代設定や文体など、本書に収められたそれぞれの短編は旧かな遣いこそ使っていないが昭和初期を意識している。名探偵や魔術師といった登場人物の肩書きは江戸川乱歩のそれ。主人公は緑川英龍なる架空の探偵小説作家の愛読者という設定。その主人公がとある事件の探偵を頼まれ捜査に乗り出す。ご丁寧に事件の犯行現場見取り図まで載せられている。

主人公は自らを緑川英龍の小説世界の登場人物になぞらえる。そして主人公の生きるのが昭和40年代なのに昭和初期を思わせる描写になっていること。そしてそれが緑川英龍の昭和の繁栄をとどめたいとする意図であることを看破する。言わば本編は小説のメタ世界を描いた一編である。著者にとってはメタ小説はお手の物だろうが、それを敢えて作り物っぽい昭和初期の時代設定でやってみせたのが本編。

「大盗庶幾」
少年の頃、ポプラ社の少年探偵団シリーズに熱中した人は本編に喜ぶに違いない。華族に生まれ、好奇心や運命の導きで軽業や変装を覚えた男の成長譚が本編だ。少年探偵団シリーズを読み込んだ方には、早い段階でこの物語が誰を描いた物語かピンと来るはず。そういえば江戸川乱歩の著作でも、他の方の著作でも彼の成り立ちを読んだことがないことに気付いた。しかし、彼の前半生は、少年探偵団シリーズの愛読者にとって大いに気になるはずだ。何故執拗に明智小五郎に挑戦状を叩きつけ続けるのか、彼の財力や組織力はどこから湧いてくるのか。本編末尾に明かされる正体は、もはや蛇足といってよいだろう。怪人二十面相。

「科学探偵帆村」
著者の元々の得意分野であるSFに昭和初期の荒唐無稽な空想科学小説の赴きを加えた小品。とはいえ、本編の舞台は昭和から平成の現代へと移る。処女懐胎をテーマに御大の放つ毒がちらちらと漂う一編。特に最後の文などは著者の作品ではおなじみの締め方だ。

「リア王」
著者のもう一つの顔が舞台役者であることは有名だ。本編では舞台役者としての自身に焦点を当てている。短編の場を借り、著者が望む演劇の姿を披瀝する。とかく堅苦しく考え勝ちな演劇論に一石を投じた一編といえよう。

「一族散らし語り」
著者が一頃影響を受けていたマジックリアリズム。私も著者のエッセイなどからマジックリアリズムを知り愛好するようになった。そのマジックリアリズムを日本古来の怪談風味で味付けた一編。願わくば、この路線で凄まじい長編を上梓して頂ければ。御大なら出来うると思うのだが。ま、これは単なる一ファンの世迷い言である。

「役割演技」
著者の風刺がピリッと効いている。社交界の華やかな舞台に現れては消える主人公。実は社交界の華という役割を担う、下層階層の雇われ人。ブランドや女優のカタカナ語の乱舞する前半から、マイナスイメージのカタカナがまばらな後半まで。著者の風刺精神は今なお健在で嬉しくなる。

「メタノワール」
テレビ界でも未だに顔の利く著者の多彩な交流が垣間見える一編。実名で俳優達がズバズバ登場。俳優としての著者の、舞台裏と舞台上の姿が交わりあい、役割の境目が溶けて行く。俳優としての己を表から引き下げ、メタ世界から見つめた世界観は流石。

「つばくろ会からまいりました」
短い掌編。入院した妻に変わって家政婦としてやって来た若い女性との交流を描いている。家で夕食を誘ったところ、呑みすぎて泊まってしまった彼女。モヤモヤとしながら男は手を出さない。翌朝、彼女は行方不明となり、妻は昏睡状態となる。妻が彼女の姿を借りて、最後に交流するという筋。愛妻家として知られる著者の今を思わせる好編。

「横領」
小心ものであるが業務上背任の罪を犯した男女の寸劇がハードボイルドタッチに描かれる。著者のペダンチックな思想が登場人物の部分として登場し、著者の考えの断片を短編化しようとした一編。本書に収められた諸編の中ではいまいち消化できなかった一編である。

「コント二題」については、ノーコメント。

「附高清子とその時代」
本編はかつて著者の上梓したベティ・ブーブ伝を彷彿とさせる。トーキー時代の女優高清子をについてエッセイ風に論じている。私にとって高清子とは全く初耳の女優だが、著者の筆にかかると興味が湧いてくるから面白い。トーキー時代の日本映画は全く見たことがないのだが、引き込ませる。私のように興味ない人をも引き込ませるほど語ることのできる著者の文才を羨ましく思う。

著者の創作意欲はまだまだ衰えそうもない。それは冒頭に紹介した「偽文士日録」を読んでいる

‘2015/8/28-2015/8/30


中庭の出来事


意欲的な内容である。その前衛的な内容に眩惑され、引き込まれる。

本書は作中作が幾重にも続く構成になっている。とても把握できないくらいに。その階層の数たるや、十層は下らないのではないか。しかも、それぞれの一章一章があるホテルの中庭で起こった事件を取り上げている。同じような情景が、少し視点や視覚、語り手の意識を替えて執拗に反復される。読者が今の立ち位置を把握しながら読み進めるのは至難の業といえる。油断するとすぐに物語の中で迷子になってしまう。

その構成からは、折り紙の入れ子箱が連想される。あるいはロシアの民俗人形として知られるマトリョーシカを。それらは、ある形の立体の内部に同じ形の立体が、その中にはまた同じ形の立体・・・と幾重にも連なっている。それぞれの箱や人形が紙や木でできている場合、内部は、外に対しては閉じた形になっている。持ち上げられて初めて底が開き、その中に抱えていた別の箱や人形が現れる。持ち上げられるまでは閉じた作りになっていて、その中から外を見ることはできない。

しかし、本書の場合、同じ入れ子であってもさらに複雑な構成となっている。入れ子の内壁から、外を見透かすことが出来る作りになっているのだ。自らを覆っていた箱の、さらにその外側の箱のそのまた外側の箱まで、延々と内側から見ることができる。これを本書の構造に当てはめてみると、入れ子になった一章の中から、自らを覆っていた別の章が透けてみえる。さらに別の章は、それを覆う別の章の内容をわずかに透過する。それぞれの章がレストランの中庭で起こった事件を描く。中庭の情景が似た様な視点と角度で描かれ、それが幾重にも透過して重なりあう。重なるだけではなく、そこには本を読み進めた読者の移ろいやすい記憶に歪まされたそれぞれの章の中庭の光景が被さる。その章を覆っていた別の章の情景が素直に映らず、複層のそれぞれの章が歪み、透かされ、凝縮され読者の眼前に迫る仕掛けとなっている。読者の記憶の歪みが増幅され、次第に読者は自分の立ち位置を見失う。

加えて、本書の各章は自分を覆っていたのがどの章か分からないように注意深く書かれている。つまり本の一つ前の章が上の層の章とは限らない。章と章の関係が一対一なのか、一対複なのかすら明かされず、読者はますます立ち位置を見失うばかりである。

救いは、それぞれの章の中は、人称や時制、視点など一貫していることである。つまり、章と章の繋がりを把握できれば、本書の構造は把握できる。

とはいえ、それは簡単ではない。十層以上に積み重なった構造を解きほぐすのは。

そして、このようなこんがらがった物語であっても、著者の筆は中庭の物語を終わらせにかかる。立体図形を解体するための展開図は用意せずに。それどころか、章と章の関係すら示さずに。読者は置き去りにされたように感ずるだろう。割りきれない思いを引きずるだろう。

本書に答えはない。

最後に拡げた風呂敷がきれいに畳まれたり、すべての謎が快刀乱麻を断つがごとく解決されたり、主人公の人生に確固たる指針が示されたり。そんな大団円とは無縁の位置に本書はいる。

著者にとって覚悟のいる書き方である。しかし著者は本書に世に問うた。その意欲と覚悟、そして破綻させずに物語を紡ぎきった手腕には敬服の念すら覚える。

かつて、ラテンアメリカ文学が脚光を浴びた。ガルシア・マルケス、フリオ・コルタサル、マリオ・バルガス・リョサを初めとした各氏。ホセ・ドノソによる「夜のみだらな鳥」という複雑極まりない一冊もある。我が国にも筒井康隆という巨匠や、円城塔といった書き手がいる。いずれも私の敬愛する作家たちである。本書もまた、そういった前衛的な諸作の中で論ぜられてもよいのではないか。そんなことを思った。

‘2014/9/27-2014/10/3


神器〈下〉―軍艦「橿原」殺人事件


上巻の感想では書かなかったけれど、この本、実は太平洋戦争論、日本人論としてかなり突っ込んだところまで書いている。

平和ボケの私には分かり様のない戦争の理不尽さや、戦争に行った人間が今の平和な世に対して頂く複雑な思いなどを含め、皇室や戦後の日本人に対して辛辣なまでに筆が走っている。

戦争に赴く人間の滑稽さや理不尽さとともに、敗戦をへた日本人は日本人なのか?という極端な問いが発せられているこの小説からは、単純に戦前の日本が悪かった、いや良かったなどといった立場を超えて、ただ日本人として在っていくこと、戦後の繁栄する世間が美徳を忘れていようといまいと、それを受け入れていくという姿勢を問われているように思えた。

ここまで皇室や戦後日本人を辛辣に書いてこそ、逆に肯定するという考えもあるのだろうなと。

’11/10/22-’11/10/22


神器〈上〉―軍艦「橿原」殺人事件


著者の作品、芥川賞受賞という背景があるためかどうかはわからないけれど、推理小説の分野にもここ数年進出しているけれど、ただの推理小説にとどまらない、メタミステリ的な感じがあり、よく読んでいる。

こちらの作品もミステリの定石を突き崩すような仕掛けだらけで、そういう読み方をすると?になってしまうけれど、あえてそういう定石をとっぱらって読むと縦横無尽。

語彙も豊富で文体だけでもうならされるところあり。

’11/10/16-’11/10/22