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一生に一度の月


小松左京展を見に行ってから、著者に興味を持った私。集中して著者の作品を読んだ。本書はその最後の一冊だ。

本書はショート・ショート傑作選と銘打たれている。
ショート・ショートといえば、第一人者として知られるのが星新一氏。星新一氏といえば、著者や筒井康隆氏と並び称されるSFの三巨頭の一人として著名だ。

三巨頭といってもそれぞれに得意分野がある。
著者の場合、あまりショート・ショートは発表していない印象がある。私は今まで著者のショート・ショートを読んだことがなかった。

本書は著者が1960年代から70年代中期にわたっていろいろな雑誌に発表したショート・ショートが収められている。
いろいろな、といっても本書に収められているのは雑多なショート・ショートではない。構成として五部のカテゴリーに分けられている。

例えば第一部「向かい同士」に収められた八編。それらは、「団地ジャーナル」が初出展だそうだ。
雑誌名から想像できる通り、八編は全て団地をテーマにしたショート・ショートだ。団地という濃縮された人間関係の中で起こり得る出来事をタネにアイデアを膨らませたこれら。ショート・ショートとしても傑作に仕上がりだと思う。

団地から想像されるのは、サラリーマンと核家族の集まり。そして、そうした世帯に付き物の小市民そのものの出来事。
著者はそれらから話を膨らませ、簡潔でしかもオチのあるショート・ショートにまとめている。
団地の上も下も筒井という名字の家族が住んでいたり、ゴールデンウィークと仕事人間を風刺したり、不倫に忙しい二組の夫婦を描いたり、団地への憧れを逆手にとったり、酔った亭主が最上階の家へと昇ったり、訪問販売員への風刺をしてみたり。

第二部「歌う空間」の四編は「新刊ニュース」が初出展のようだ。四編のどれもがSFの彩りを備えた作品だ。
宗教を風刺してみせたかと思えば、コミュニケーションの脆弱な本質を暴いてみせ、コンピューターに依存する人類の未来を予言したかと思えば、意識と肉体の実存について鋭くついてみせる。

ここで取り上げられた四編のどれもがショート・ショートというには長い気がする。原稿用紙に換算して二枚近くに及ぶような。
また、内容も、現代から見るといささか発想に古さを感じる。だが、これらのショート・ショートが発表されたのが、EXPO’70が開催された頃だと考えれば、どれもが未来への深い洞察を感じさせる。

第三部「一生に一度の月」は、毎日新聞で発表された一編だ。アポロ13号の月面着陸に湧く世間をよそに、一番盛り上がるはずのSF作家の生態を描いていて面白い。月面着陸を中継するテレビ番組をしり目に、マージャンに興じるSF作家というのがたまらない。まさに逆説そのものだ。

その時の感慨を表すのにふさわしく、著者はマージャンパイを月に向けて投げ、これが現代だと喝破する。なんとも本質をついているようで面白い。
テレビ中継で月の様子が見られる。そのイベントは当時よりもさらに技術が発達し、ネット社会になった今、考えてもすごいことではないだろうか。
ましてや当時の技術力ではとてつもない出来事で、一生に一度の月だったはず。

SF作家の矜持として、その様子をテレビにかじりつくことをよしとせず、あえてマージャンに身をやつし、無視して見せることで逆に技術の到達を体験した。その逆説的な態度がとても印象に残った。

第四部「廃虚の星にて」に収められた十三編は、朝日新聞が初出展とある。全てが環境問題に着想の源をもとめたブラックな内容になっている。

これらもまた、環境問題がしきりに起こっていた当時の世相を表している。ましてや当時はオイル・ショックによって高度経済成長が止まる前に書かれた話。だからどの編も明るそうに見える前半とそれが環境問題としてはね返ってくる後半の対比になっており、SF作家が鳴らす未来への警鐘としてもてはやされたのだろうなと思わせる。

それと同時に、不思議なことにこれらのショート・ショートが現代でも通じるのではないかという相反する思いすら感じた。
つまり、高度経済成長やバブル景気の破綻を経験した今の日本と、当時、未来を予見していた著者の立場が同じだったのではないか、ということだ。それが著者の尋常ではない学識を表していたとも言える。すでにある程度の経済レベルや技術力や文明の高みを達成したという意味で、著者と今の私たちはそう変わらないと思う。

第五部「人生旅行エージェント」に収められた十一編は、媒体もまちまちだ。雑誌名からはそれが何をテーマとしたものか判然としない。例えば原子力についての雑誌であれば、それに沿ったテーマのショート・ショートなので納得できるが、何を表しているのか定かではない出展もとも記されている。

それぞれのショート・ショートが指折りの内容なのはもちろんだ。それにも増して感心させられるのは、その雑誌に合わせてテーマをかき分ける著者の筆力だ。
もちろん著者の博学の広さと深さゆえであるのは今ら言うまでもない。

『日本沈没』のような一つのテーマに知識量を詰め込めるタイプの小説とは違い、ショート・ショートはテーマに沿った気の利いたオチがもとめられる。
だからかえって書くのは難しいように思う。
それをさまざまな媒体に描き分けた著者の筆力とアイデアに感服する。

本書のあちこちには、著者が人間を根本的な部分で信頼しておらず、むしろ愛すべき愚かな存在として慈しむ様子が感じられる。一方で自然や科学が必ずしも人間にとって有益ではないという哲学も見られる。
だからこそ、著者はSFをテーマに作品を書き続けたのだろう。

著者のSF史における立ち位置や、ショート・ショートの歴史などについては、本書の解説で最相葉月氏が触れている。『星新一』という評伝を発表した氏。著者についても評伝を手掛けてほしいものだ。

‘2020/01/04-2020/01/05


盤上の夜


本書は、友人に貸してもらった一冊だ。
友人宅に遊びに行った際、本書をお勧めとして貸してくれた。
お勧めされただけあって、本書はとても素晴らしい内容だった。

本書が取り上げているのは、有名なボードゲームだ。将棋、囲碁、チェッカー、インドの古代将棋、マージャン。それぞれの短編の中で、対象となるボードゲームを題材に物語が編まれている。
ボードゲームは一見すると単純に思える。だが、奥は深い。盤上のルールだけで世界を構築することだってできる。
そのとっつきやすさと奥の深さが人々を長きにわたって魅了し続けているのだろう。

ところが今や、人工知能の進化は人間の囲碁チャンピオンを破るまでになった。
その事実から、すでにボードゲームには限界が生じているのではないかという嘆きすら聞こえてくる。

本書に収められた「人間の王」は、チェッカーが取り上げられている。
チェッカーはチェスよりも早く、人工知能の前に人間のチャンピオンが屈したゲームだ。
チャンピオンとはマリオン・ティンズリー。実在の人物であり、42年の間、チェッカーで無敗だった。
そして、チェッカーのコンピュータープログラム「チヌーク」こそ、初めて人間を破った存在だ。

ティンズリーは一体、何を思い何を考えながらチェッカーのプロでありつづけたのだろう。
そして、自らの生命を賭して、人間に相手がいない人工知能との対戦を望み、ほぼ互角の戦績を残す。
マリオン・ティンズリーは「チヌーク」と六戦連続で引き分け、そして最後は体調がすぐれずに途中で棄権した。敗れたことは事実だとしても、生身の肉体で負けた、というのがまさに肝だ。

語り手は、ティンズリーの戦いの軌跡をたどりながら、人間が人工知能に負けた理由を考察する。
そして語り手は「チヌーク」に問いを投げ、対話することで答えを導き出そうとする。
著者が「人間の王」の中で描いているのは、チェッカーというゲームが、人工知能と人間によって葬られる瞬間だ。

後年、「チヌーク」を開発したプログラマーであるシェーファーによって、お互いが最善手を指し続けると必ず引き分けに終わることが証明されたという。
ゲームを創り出した人間の手によって、すべての指し手が解明されてしまった初めてのボードゲームこそ、チェッカーなのだ。

囲碁や将棋も、人工知能が人間のチャンピオンを凌駕してしまったことでは同じだ。だが、それらのボードゲームでは全ての解がまだ明らかになっていない。
つまり、まだ囲碁や将棋にはひらめきや可能性が残されている。
一方、すべての解が人工知能によって導かれ、ゲームとしての限界も暴かれた。それがチェッカーの悲劇。
語り手は、その事実を基に、人と機械の決定的な違いを明らかにしようと試みる。「人間の王」というタイトルは、その違いの本質を鋭く突いている。

本書に収められた他の短編も、ボードゲームの世界を再構築しようと試みている。それが本書のタイトルにもなっている。
ボードゲームの世界には、人間の論理が入り込む余地がある。そして、人の感情と感覚を色濃く投影できる。
ボードゲームといえ、完全に論理の世界だけでは場の魅力は構築できない。そこに人間の感情や感覚が入り込むからこそ、それらの競技がゲームとして成り立ってきたのではないだろうか。

そのことが特に顕著に表れているのが、表題作である「盤上の夜」だ。
「盤上の夜」は、盤上の局面のすべてを感覚として体にとらえることのできる女性棋士の話だ。
その能力は、中国を旅した際に騙され、すべての四肢を奪われたことによって得られた。それもまた運命。
その境遇から脱出するため、その女性は囲碁のスキルを身につけた。そして、庇護者を見つけることにも成功した。
四肢が失われた替わりに感覚を身につける。その設定はあながち荒唐無稽ではない。幻肢痛という症状もあるぐらいだから。
局面ごとに盤上の全ての駒の可能性を皮ふで感じる。それこそ、棋士が没入する究極の到達地といえるだろう。そればかりは人工知能の論理だけではない、人としての生の感覚に違いない。

「千年の虚空」は将棋の話だ。
そこで著者は、奨学金が頼りの若手の棋士たちの生活を描きながら、将棋の何たるかを語っていく。
二人の兄弟、そして一人の女性。三人は幼いころから性に溺れ、自堕落な生活を続けていく。そんな暮らしは、将棋に救いを求めたことで終わりを迎える。
だが、三人の爛れた育ちは、長じてからも彼らの人生に陰を与える。
兄弟のうち、兄の一郎は政治家になり、弟の恭二は棋士の道を進む。綾はその二人を翻弄し、その揚げ句に自殺する。
綾の死をきっかけに精神病院に入った兄弟。彼らの人生は、綾に翻弄される。そして、ゲームを殺すためのゲームの駒として、将棋の世界をさながら現実の世界でも指しきるように生きてゆく。
ここには、将棋というゲームの持つ自由さに焦点が当てられている。まるで棋士が指す棋譜が駒の動きだけにあきたらず、人生のあらゆる可能性を表す年譜だというように。
そこに、将棋の奥深さを見いだすことは可能だ。そして、駒の動きを人生の可能性に投影できる想像力こそ、決して人工知能の棋士が演じきれない個性なのだろう。

「清められた卓」は麻雀を取り上げている。
麻雀は私も遊んだ経験がある。技量と運の両立が必要なゲームであり、奥深さでは囲碁や将棋に引けを取らないと思う。技量と運が絶妙に両立しており、それを卓を囲んだ空間で完璧に出し切ることが求められる。
手練れになると、それぞれの手牌だけで、ある程度の局面を読み切ることも可能だという。
もちろん、いかさまでもしない限り、一人が局面の全てを支配することなど、普通は無理だ。

ところが優澄は、神業のような確率で麻雀に勝つ。なぜか。
著者は運を味方につけることと技量のバランスがどこにあるのかを本編で表現しようとしている。
優澄が行き詰まる局面。その中で果たして優澄は神業をなし得るのか。
本編を読むと、ボードゲームの仲間として麻雀を含めていなかった自らの不明も気づかされる。
そして、しばらく遠ざかっていた麻雀がやりたくなった。実際にオンラインで麻雀に手を染めてしまったほどだ。

「象を飛ばした王子」は、将棋やチェスの源流となったとされるチャトランガを創始した人物が主人公だ。
その人物とは、かのブッダこと、釈迦の息子と言う設定だ。
父は、悟りを開いたまま、国の統治を放り出して修業と悟りの旅に去ってしまった。
残された王子は、国を統治しながら、自分の中に独自の想念を育てあげていく。
その想念とは、ゲームに政治家や王族を没頭させることによって、国同士の戦争をやめさせるというものだ。

そのような発想の下、ゲームを取り上げた小説を私は今まで読んだことがない。
そして、囲碁や将棋、チェスの源流がチャトランガであったことも、本編を読んで初めて知った。このような天才によってチャトランガは創始されたとしても驚かない。
まさに、クリエイターとはこういう人のことを指すのだろう。

最後の一編「原爆の局」は、盤上の夜の続編にあたる。
広島の原爆が投下された時、ちょうど囲碁の対局が行われていた事はよく知られている。
本編はこの局面を取り上げている。
原爆によって石がバラバラに飛び散り、会場が破壊されたあと、二人の棋士は石を元どおりに戻し、対局を続けたという。
棋士たちは何を思い、どのように囲碁に向き合っていたのか。
現実の凄惨な状況よりも囲碁の盤上こそが大切だった。それは職業の性や偏執といった言葉では片づけられない。
おそらく、二人の棋士には盤上に広がる可能性が見えていたのではないか。そこにこそ、人の生きる本質が広がっているとでもいうかのように。

はじめての原爆実験が行われたアラモゴード砂漠。この砂漠の爆心地に碁盤を置き、ちょうど原爆が落ちたときの棋譜を並べ、時空を超えた再現を試みる。実に面白い。
確かに、知能で比べると人間は人工知能にかなわない。だが、この時の棋譜は今に記憶されている。それは、人間による思考の跡だ。
棋士が頭脳を絞り、しのぎを削った証。それが棋譜となり、当時の人間の活動となって残る。
ところが人工知能にとって、過去の棋譜とは判断の基盤となるデータに過ぎない。
その違いこそが、人工知能と生の人間の違いを示しているようで面白い。

‘2019/4/1-2019/4/5