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私の家では何も起こらない


本書は一軒の家についての本だ。ただし、家といってもただの家ではない。幽霊の住む家だ。

それぞれの時代に、さまざまな人物が住んでいた家。陰惨な出来事や代々の奇矯な人物がこの家で怪異なエピソードを紡いできた。そうした住人たちが残したエピソードの数々がこの家にさらなる怪異を呼び込み、さらなる伝説を産み出す。

本書は十編からなっている。各編はこの家を共通項として、互いに連関している。それぞれの編の舞台はばらばらだ。時間の流れに沿っていない。あえてバラバラにしている。バラバラにすることでかえって各エピソードの層は厚みを増す。なぜならそれぞれの物語は互いに関連しあっているから。

もちろん、そこには各エピソードの時間軸を把握した上で自在に物語を紡ぐ著者の腕がある。家に残された住人たちの思念は、無念を残したまま、その場をただよう。住人たちによっては無残な死の結果、人体の一部が残されている。人体に宿る思念が無念さを抱けば抱くほど、家には思念として霊が残る。この家の住人は、不慮の事故や、怖気を振るうような所業によって命を落として来た。そうした人々によるさまざまな思念と、そこから見たこの家の姿が、さまざまな角度でこの家を描き出し、読者へイメージとして伝えられる。

世にある幽霊屋敷とは、まさにこのようなエピソードと、残留した想いが作り上げて行くのかもしれない。不幸が不幸を呼び、思念が滞り、屋敷の中をこごってゆく。あまたある心霊スポットや幽霊屋敷とは、こうやって成り立ってきたに違いない。そう、読者に想像させるだけの力が本書にはある。冒頭の一編で、すでにこの家には好事家が集まってきている。彼らは、家主の都合など微塵も考えず、今までにこも屋敷を舞台として起こったあらゆる伝説や事件が本当だったのか、そして、今も誰も知らぬ怪異が起こっているのではないか、と今の持ち主に根掘り葉掘り尋ねる。迷惑な来訪者として、彼らはこの家の今の持ち主である女流作家の時間を容赦なく奪ってゆく。もちろん、こうした無責任な野次馬が幽霊屋敷の伝承にさらなる想像上の怪異を盛り付けてゆくことは当然のこと。彼らが外で尾ひれをつけて広めてゆくことが、屋敷の不気味さをさらに飾り立ててゆくことも間違いない。

たとえ幽霊屋敷といえど、真に恐るべきなのは屋敷でなければ、その中で怪異を起こすものでもない。恐るべきは今を生きている生者であると著者はいう。
「そう、生者の世界は恐ろしい。どんなことでも起きる。どんな悲惨なことでも、どんな狂気も、それは全て生者たちのもの。
それに比べれば、死者たちはなんと優しいことだろう。過去に生き、レースのカーテンの陰や、階段の下の暗がりにひっそりと佇んでいるだけ。だから、私の家では決して何も起こらない。」(26p)

これこそが本書のテーマだ。怪異も歴史も語るのは死者ではなく生者である。生者こそが現在進行形で歴史を作り上げてゆく主役なのだ。死者は、あくまでも過去の題材に過ぎない。物事を陰惨に塗り替えてゆくのは、生者の役割。ブログや小説やエッセイや記事で、できごとを飾り立て、外部に発信する。だから、一人しか生者のいないこの家では決して何も起こらないのだ。なぜなら語るべき相手がいないから。だからエピソードや今までの成り立ちも今後は語られることはないはず。歴史とは語られてはじめて構成へとつながってゆくのだ。

つまり、本書が描いているのは、歴史の成り立ちなのだ。どうやって歴史は作られていくのか。それは、物語られるから。物語るのは一人によってではない。複数の人がさまざまな視点で物語ることにより、歴史には層が生じてゆく。その層が立体的な時間の流れとして積み重なってゆく。

そして、その瞬間の歴史は瞬間が切り取られた層に過ぎない。だが、それが連続した層で積み重なるにつれ、時間軸が生じる。時間の流れに沿って物語が語られはじめてゆく。過ぎていった時間は、複数の別の時代から語られることで、より地固めがされ、歴史は歴史として層をなし、より確かなものになってゆく。もちろん、場合によってはその時代を生きていない人物が語ることで伝説の色合いが濃くなり、虚と実の境目の曖昧になった歴史が織り上げられてゆく。ひどい場合は捏造に満ちた歴史が後世に伝わってしまうこともあるはずだ。

しょせん、歴史とは他の時代の人物によって語り継がれた伝聞にしか過ぎず、その場では成り立ち得ないものなのだろう。

著者は本書を、丘の上に建つ一軒家のみを舞台とした。つまり、他との関係が薄く、家だけで完結する。そのように舞台をシンプルにしたことで、歴史の成り立ちを語る著者の意図はより鮮明になる。本来ならば歴史とは何億もの人々が代々、語り継いでいく壮大な物語だ。しかしそれを書に著すのは容易ではない。だからこそ、単純な一軒家を舞台とし、そこに怪異の色合いをあたえることで、著者は歴史の成り立ちを語ったのだと思う。幽霊こそが語り部であり、語り部によって歴史は作られる。全ての人は時間の流れの中で歴史に埋もれてゆく。それが耐えられずに、過去からさまよい出るのが幽霊ではないだろうか。

‘2018/07/24-2018/07/25


そして、メディアは日本を戦争に導いた


私が近代史家として信頼し、その見解に全面的に賛同する方が幾人かいる。本書の著者である半藤氏と保坂氏はその中の二人だ。

本書はそのお二人の対談をまとめたものだ。内容は題名の通り。第二次世界大戦での敗戦に至る日本の破滅に当時のマスコミが果たした役割を追究している。

お二方とも今なお言論人として論壇で活発に発言されている。だが、半藤氏は文藝春秋の編集長として、発行側の立場も経験している。マスコミが戦前の世論形成に果たした役割を、執筆者としてだけでなく編集者としての立場から語ることのできる方だ。

言うまでもなく、お二人が昭和史を語れば立て板に水だ。一家言を持つ立場から紹介される、戦前の本邦マスコミに関するエピソードは私の知らないものがほとんどだった。それらのエピソードは昭和初期のマスコミの姿勢を物語るものだ。軍部に国民に迎合し、世論を戦争へと導いていった責任。お二方は当時のマスコミを糾弾する。おそらくその真意とは、今の安倍政権に警鐘を鳴らすことにある。言論統制と取られかねない動きを見せる安倍政権。お二方の発する言葉の端々に、言論統制を憂う言葉が感じられる。おそらく、政権の目指す方向が昭和初期のそれに重なるのではないか。

私は安倍政権の改憲への動き自体には賛成だ。今の憲法をそのまま墨守すべきだとは思わない。だが、昭和初期の日本のあり方が正しかったとも思わない。そして、我が国が急速に国粋主義に偏った責任を軍部のみに負わせようとは思わない。当時のマスコミにも相応の責任があると思っている。

本書は、昭和初期のマスメディアが右傾化していった経緯が詳細に解き明かされてゆく。中でも見逃せないのが、新聞の売れ行きと記事の反戦度合いの相関性を分析する箇所だ。万朝報と言えば反戦で知られる明治時代を代表する新聞だ。だが、日露戦争の時期、同紙の反戦記事は発行部数の低下を招いたという。経営的に追い詰められた主筆の黒岩涙香が、論調を戦争推進に転向した途端、発行部数は劇的に回復した。そして、報道転向を不服として著名な記者が何人も同紙を去った。

つまり、新聞は第四の権力でも社会の木擇でもなんでもなく、読者からの収入に支えられる媒体に過ぎないということだ。万朝報をはじめとした反戦論調が経営に与える影響。それを間近で見て骨身に刻んだ経営者たち。彼らが、昭和の軍部の専横に唯々諾々と従ったというのが、二人ともに一致した意見だ。軍の圧力で偏向報道に至ったのではなく、売上を優先して国威発揚の論調を率先して発信した。つまり、当時の国民に迎合したという事だ。それはまた、日本の破滅の要因として、軍部、マスコミ、に加えて当時の付和雷同した日本国民が含まれることも示す。それは重要な指摘だと言える。なぜなら、今の日本についても同じことが言えるからだ。これからの我が国の行く末が国民の民度にもよることが示唆されている。日本の行く末は、安倍政権や自衛隊、マスコミだけの肩に掛かっているのではない。国民が安易に多勢に流されず、きちんと勉強して対処することが求められる。

選挙の度に叫ばれる投票率向上の声。ヘイトスピーチを初めとしたウェブ上での右極化。シールズに代表される戦争に反対するデモの波。右も左も含め、かつてよりも日本国民が声を挙げやすくなっていることは確かだ。楽天的に考えると、かつてのように情報統制によって国の未来が危機に瀕することはないように思う。

だが、だからこそ二人の論者は警告を発する。むしろ、今のように誰でも情報を発信し、情報を受け取れる環境ゆえに、人々は簡単に流れに巻き込まれてしまうのだ。マスメディア以外にもネットからの膨大な情報が流れて来る昨今。著者はともに、同調しやすい日本人の国民性を冷静に指摘する。そして戦前の日本の過ちを繰り返しかねない現代を憂えている。

それを避けるには、国民のひとりひとりが過去から学ばねばならない。そして簡単に周囲と同調しないだけの矜持が求められる。本書では、気概のジャーナリストとして信濃毎日新聞の桐生悠々氏が再三取り上げられている。桐生悠々とは、戦前の言論統制にあって抗議の声をあげ続けた気骨のあるジャーナリストだ。著者たちは、現代の桐生悠々を待ち望んでいる。ジャーナリストの中に、国民の中に。

本書は共著者による遺言のようにも読める。実際に本書の中で、これからの日本にいない身として責任は負えない、との気弱な発言すら吐いている。半藤氏は齢80を越え、保坂氏も70代後半に差し掛かっている。既に先の永くない二人の論者を前にして私に何ができるか。聞くところによれば、二人の著者を左寄りと指弾するネット上の書き込みもあるとか。なにをかいわんや、である。私はお二方の著作を多数読んできた。その上で、お二方が特定のイデオロギーによらず、歴史の本筋を歩まんとする姿勢に共感している。

結局、歴史とは軽々しく断罪も賞賛もできないものだ。立場によってその目に映る歴史の色合いは違う。解釈もさまざまに変わってゆく。多分、お二方にとってそんなことは自明のはず。そして、それゆえに軽々しく当時の人々を断罪できないことも感じているのだろう。碩学にしてそうなのだから、われわれには一層努力が求められる。そのためには、本書内でも二人の著者が度々ジャーナリストの不勉強を嘆いているように、中途半端な知識はもっての他。もっともっと勉強して、軽々しい言説を一笑に付すくらいの見識を身に付けなければ。

‘2016/08/21-2016/08/24