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夜更けのエントロピー


著者の名前は今までも知っていた。だが、読むのは本書が初めてかもしれない。

著者の作風は、本書から類推するにブラックな風味が混ざったSFだが、ホラーの要素も多分に感じられる。つまり、どのジャンルとも言えない内容だ。
完全な想像上の世界を作り上げるのではなく、短編の内容によっては現実世界にもモチーフを求めている。
本書で言うと2つ目の「ベトナムランド優待券」と「ドラキュラの子供たち」、そして最後の「バンコクに死す」の三編だ。これらの三編は「事実は小説より奇なり」を地で行くように、過酷な現実の世界に題材をとっている。
史実で凄惨な現実が起こった場所。そこを後年の現代人が迷い込むことで起きる現実と伝説の混在。それを描いている。
人の醜さが繰り広げられたその地に今もなお漂う後ろ暗さ。その妖気に狂わされる人の弱さを描き出す。
本書の全体に言えるのは、現実の残酷さと救いのなさだ。

本書には近未来を題材にとった作品もある。「黄泉の川が逆流する」「最後のクラス写真」の二編がそうだ。ともに現実の延長線にありそうな世界だが、SFの空想としてもありうる残酷な未来が描かれている。

残りの二編「夜更けのエントロピー」「ケリー・ダールを探して」は、過去から現代を遡った作品だ。歴史的な出来事に題材をとらず、よりパーソナルな内容に仕上がっている。

本書の全体から感じられるのは、現実こそがSFであり、ホラーであり、小説の題材であるという著者の信念だ。
だが著者は、残酷な現実に目を背けず真正面から描く。それは、事実を徹底的に見つめて初めて到達できる境地だろう。
この現実認識こそ、著者の持ち味であり、著者の作風や創作の意図が強く感じられると理解した。

以下に一編ずつ取り上げていく。

「黄泉の川が逆流する」
死者を復活させる方法が見つかった近未来の話だ。
最愛の妻を亡くした夫は、周囲からの反対を押し切り、復活主義者の手を借りて妻を墓場から蘇らせる。
だが、夫の思いに反して、よみがえった妻は生きてはいるものの感情がない。精気にも乏しく、とても愛情を持てる相手ではなくなっていた。

死者を蘇らせたことがある家族を崩壊させていく。その様子を、ブラックな筆致で描いていく。
人の生や死、有限である生のかけがえのなさを訴える本編は、誰もが憧れる永遠の生とは何かを考えさせてくれる一編だ。

「ベトナムランド優待券」
解説で訳者も触れていたが、筒井康隆氏の初期の短編に「ベトナム観光公社」がある。
ベトナム戦争の戦場となった場所を観光するブラックユーモアに満ちた一編だ。ただ、本編の方が人物もリアルな描写とともに詳しく描かれている。

日常から離れた非現実を実感するには、体験しなければならない。
観光が非日常を売る営みだとすれば、戦争も同じく格好の題材となるはずだ。

その非現実を日常として生きていたのは軍人だろう。その軍人が戦場を観光した時、現実と非現実の境目に迷い込むことは大いにありうる。
本書はブラックユーモアのはずなのに、戦場の観光を楽しむ人々にユーモアを通り越した闇の深さが感じられる。それは、著者がアメリカ人であることと関係があるはずだ。

「ドラキュラの子供たち」
冷戦崩壊の中、失墜した人物は多い。ルーマニアのチャウシェスク大統領などはその筆頭に挙げられるはず。
その栄華の跡を見学した主人公たちが見るのは、栄華の中にあって厳重な守りを固めてもなお安心できなかった権力者の孤独だ。
この辺りは、トランシルバニア、ドラキュラの故地でもある。峻烈な統治と権力者の言動を絡め、残酷な営みに訪れる結末を描いている。
正直、私はルーマニアには知識がない。そのため、本編で描かれた出来事には入り込めなかったのが残念。

「夜更けのエントロピー」
保険会社を営んでいると、多様な事件に遭遇する。
本編はそうした保険にまつわるエピソードをふんだんに盛り込みながら、ありえない出来事や、悲惨な出来事、奇妙な出来事などをちりばめる。それが実際に起こった現実の出来事であることを示しながら。
同時に、主人公とその娘が、スキーをしている描写が挿入される。

スキーの楽しみがいつ保険の必要な事故に至るのか。
そのサスペンスを読者に示し、興味をつなぎとめながら本編は進む。
各場面のつなぎ方や、興味深いエピソードの数々など、本編は本書のタイトルになるだけあって、とても興味深く面白い一編に仕上がっている。

「ケリー・ダールを探して」
著者はもともと学校の先生をやっていたらしい。
その経験の中で多くの生徒を担当してきたはずだ。その経験は、作家としてのネタになっているはず。本編はまさにその良い例だ。

ケリー・ダールという生徒に何か強い縁を感じた主人公の教師。
ケリー・ダールに強烈な印象を感じたまま、卒業した後もケリー・ダールと先生の関係は残る。
その関係が、徐々に非現実の様相を帯びてゆく。
常にどこにでもケリー・ダールに付きまとわれていく主人公。果たして現実の出来事なのかどうか。

人との関係が、本当は恐ろしいものであることを伝えている。

「最後のクラス写真」
本編は、死人が生者に襲いかかる。よくあるプロットだ。
だが、それを先生と生徒の関係に置き換えたのが素晴らしい。
本編の中で唯一、生ける存在である教師は、死んだ生徒を教えている。

死んだ生徒たちは、知能のかけらもなくそもそも目の前の刺激にしか反応しない存在だ。
そもそも彼らに何を教えるのか。何をしつけるのか。生徒たちに対する無慈悲な扱いは虐待と言っても良いほどだ。虐待する教師がなぜ生徒たちを見捨てないのか。なぜ襲いかかるゾンビたちの群れに対して単身で戦おうとするのか。
その不条理さが本編の良さだ。末尾の締めも余韻が残る。
私には本書の中で最も面白いと感じた。

「バンコクに死す」
吸血鬼の話だが、本編に登場するのは究極の吸血鬼だ。
バンコクの裏路地に巣くう吸血鬼は女性。
性技の凄まじさ。口でペニスを吸いながら、血も吸う。まさにバンパイア。

ベトナム戦争中に経験した主人公が、20数年の後にバンコクを訪れ、その時の相手だった女性を探し求める。
ベトナム戦争で死にきれなかったわが身をささげる先をようやく見つけ出す物語だ。
これも、ホラーの要素も交えた幻想的な作品だ。

‘2020/08/14-2020/08/15


珠玉


本書は著者にとって絶筆となった作品だ。すでに病に体を蝕まれていた著者。本書は大手術の後、病み上がりの時期に書かれたという。そして本書を脱稿してすぐ、再度の発作で亡くなったという。そんな時期に発表された本書には回想の趣が強い。著者の人生を彩った出来事や体験の数々が、エッセイにも似た不思議な文章のあちこちで顔を出す。

著者の人生をさまざまに彩った出来事や体験。私たちは著者が著した膨大なエッセイから著者の体験を想像し、追っかける。だが、私たちには、著者が経験した体験は文章を通してしか伝わらない。体験とは、本人の記憶にしか残らないからだ。私たちはただ、文章からイメージを膨らませ、著者の体験を推測することしかできない。

著者の体験で有名なものは、釣り師としての冒険だろう。また、ベトナム戦争の前線に飛び込み、死を紙一重で逃れた経験もよく知られている。壽屋の社員として酒と食への造詣を養い、それを数々のエッセイとして発表したことも著者の名を高めた。そうした著者が過ごしてきた多方面の経験が本書には断片的に挟まれる。エッセイなのか、小説なのか判然としない、著者自身が主人公と思われる本書の中で。

著者は作家として名を成した。名を成したばかりか、己の生きた証しをエッセイや小説に刻み、後世に残すことができた。

ところが、本書からはそうした積み上げた名声や実績への誇らしさは微塵もない。むしろ、諦念やむなしさを感じるのは私だけだろうか。それは著者がすでに重い病を患っていたから、という状況にもよるのかもしれない。

本書に満ちているのは、人生そのものへの巨大な悲しみだ。著者ほどの体験を成した方であっても、死を目前にすると悲しみと絶望にくれる。なぜなら未来が残されていないから。全ては過去に属する。現在、病んでいる自分の肉体でさえも。本書からは未来が感じられない。全編に過去を追憶するしかない悲しみが漂っている。

死ぬ瞬間に走馬灯が、という月並みな言葉がある。未来がわずかしか残されていない時、人の心はそうした動きを示す。実際、未来が閉ざされたことを悟ると、人は何をして過ごすのだろう。多分、未来に楽しみがない場合、過去の記憶から楽しみを見いだすのではないか。それがストレスをためないために人の心が本能的に振舞う作用のような気がする。

著者は作家としての名声を持っている。だから、過去の記憶から楽しみを拾い上げる作業が文章に著す作業として置き換えることができた。おそらくは依頼されていた執筆の責任を果たしながら。

輝いていた過去の記憶を原稿に書きつけながら、著者は何を思っていたのだろうか。それを聞き出すことはもはやかなわぬ願いだが、これから死ぬ私としては、そのことが知りたい。かつて茅ケ崎市にある開高健記念館を訪れ、著者が使っていたままの状態で残された書斎を見たことがある。そこでみた空っぽの空間と本書に漂う悲しみのトーンは似通っている。私が死んだ後、絶対的な空虚が続くのだろうか。誰も知らない死後の無に恐れを抱くしかない。

本書は三編から成っている。それらに共通するのは、宝石がモチーフとなっていることだ。言うまでもなく、宝石は未来に残り続ける。人は有限だが、宝石は永遠。著者が宝石をモチーフとしたのもわかる気がする。まさに本書のタイトル「珠玉」である。病の悲しみに沈み、過去の思い出にすがるしかないからこそ、そうした日々を思い出しながら原稿に刻んでゆく営みは著者に救いをもたらしたのではないか。著者は自らの過去の体験が何物にも代えがたい珠玉だったのだ、と深く感じたに違いない。三編に登場する宝石のように。

「掌のなかの海」は、主人公が訪れたバーで知り合った船医との交流を描いた一編だ。世界の海や港の話に花を咲かせる。そこでは著者が培った旅の知識が縦横に披露される。そこで主人公が船医から託されたのがアクアマリン。船乗りにふさわしく青く光るその貴石には”文房清玩”という一人で楽しむための対象として紹介される。息子を亡くしたという船医が感情もあらわに寂しいと泣く姿は、著者の不安の表れに思える。

「玩物喪志」は、主人公が良く訪れる渋谷の裏道にある中華料理店の店主との物語だ。世界の珍味をあれこれと肴にして、食の奥深さを語り合う二人。その店主から受け取ったのがガーネット。深い赤が長方形のシェイプに閉じ込められた貴石だ。主人公の追想は今までの人生で見つめて紅や緋色に関するイメージであふれかえる。サイゴンでみた処刑の血の色、ワインのブドウから絞られた透き通る紅、はるばる海外のまで出かけてみた川を埋めるキング・サーモンの群れの紅。

追憶に満ちたこの一編は、著者の人生のエッセンスが詰め込まれているといえよう。ここに登場する店主の友人が無類のギャンブラーであることも、著者の思想の一端の表れに違いない。

「一滴の光」は、主人公が鉱物の店で手に入れたムーンストーンの白さから始まる。本編では新聞社に勤める記者の阿佐緒とのエロティックな性愛が描かれる。温泉につかり、山々を散策し、温泉宿で抱き合う。ムーンストーンの白さとは、エロスの象徴。著者の人生を通り過ぎて行った女性がどれだけいたのかは知らない。著者は家庭的にはあまり円満でなかったという。だからこうした関係にわが身の癒やしを得ていたのかもしれない。

三編のどこにも家庭の団欒を思わせる記述はない。そんな著者だが、本編には著者が生涯でたどり着いた女性についての感想を思わせる文が記されている。
(・・・女だったのか)(192P)
(女だった・・・)(193P)

後者は本書の締めの一文でもある。この一文を書き記した時、著者の胸中にはどのような思いが沸き上がっていたのだろうか。この一文が著者の絶筆であるとするならば、なおさら気になる。

‘2018/09/20-2018/09/22


カデナ


We haven’t had that spirit here since 1969
一九六九年以来、その精神はここにはありません。

本書冒頭の扉にはイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」のあまりにも有名な一節が掲げられている。「ホテル・カリフォルニア」は、音楽ビジネスの退廃と閉塞を歌った曲として有名だ。この中にある1969年とはウッドストック・フェスティバルの開催された年。その年を最後に音楽からスピリットが失われてしまったと切ないメロディで歌われるこの曲は、ミュージシャン自身が歌うだけに説得力がある。酒のスピリットと音楽精神のスピリットを掛け、理想が失われつつある業界を憂う一節は、ロック史上に残る。私も何百回と聞いてきたが、これからも聞き続けることだろう。曲自体、イーグルスのメンバーや私がいなくなった後も残り続けるはずだ。

沖縄旅行から戻った私が続けて読んだ沖縄関係の本も本書で四冊目を重ねる。

本書は1969年を沖縄軍政の実質が終わった年としている。1969年1月にジョンソン大統領の後任となったニクソン大統領は、就任直後からベトナム戦争終結へと動き出したという。1969年に開かれた日米首脳会談でも沖縄返還は規定事項となった。沖縄の軍政の終わりが決まったのが1969年なのだ。沖縄返還は1972年だが、すでに沖縄の人々にとって軍政は終わっていた。そんな中、沖縄ではアメリカ軍政への不満が爆発するように1970年12月にコザ暴動がおこる。本書でもコザ暴動は物語の終わりを告げるエピソードとして登場する。

沖縄を囲む時代の空気と、基地の島の精神の変容。それを著者は冒頭に名曲の一節を掲げることでさりげなく問うている。

1945年の6月23日の沖縄戦の終結から、1972年5月15日に日本に復帰するまでの27年。本書が舞台とするのはその期間の沖縄だ。特に後半の数年は、ベトナム戦争が沖縄に暗い影を落としていた。沖縄返還をもって、日本は沖縄に復帰する。その復帰に尽力した功績で、佐藤栄作元首相はノーベル平和賞を受賞した。だが、その裏には沖縄がベトナム戦争の基地として活用された日々があったことは忘れてはならない。裏を返せば、沖縄返還はベトナム戦争が終結したからこそ実現したのかもしれない。ジョンソン大統領が米国の威信をかけてベトナム戦争の勝利へ突っ走る一方、戦場に赴く兵士には厭戦気分が広がっていた。そんな混乱した思惑がベトナムへの後方基地である沖縄に無縁だと考えるほうがおかしい。日本に返還される数年間、沖縄はかなり雑然としていたようだ。沖縄旅行の初日に訪れた平和祈念資料館には、アメリカの軍政下の日々が詳しく紹介されていた。実物大の街並みが再現され、私にも雑然とした街の雰囲気が感じられた。

本書はそのような背景のもとで展開される。沖縄には米軍基地がある。基地には軍人たちが大勢いて、それぞれの人生を生きている。軍人とはいえ、忠実な機械ではない。ましてやアメリカ本土ではフラワームーブメントが起こり、ヒッピー文化もますます華やかになっている。反戦運動も各地で盛り上がりをみせている。そんな世相の中、米軍基地に属する全ての軍人が職務に忠実と考える方が逆に不自然だ。

フリーダ=ジェインもその一人。有能な事務スタッフとして機密会議の資料や議事録を作っている彼女は、アメリカ人の血が半分入ったフィリピン出身。父の縁で軍に入ったが、彼女の母は自分を捨ててアメリカに帰った夫とアメリカを許せず、反アメリカの組織を束ねている。そして娘であるフリーダ=ジェインにも軍の秘密を漏らすよう、符丁だらけの手紙を送りつけてくる。

フリーダ=ジェーンは、b-52の機長であるパトリック・ビーハンに声を掛けられステディな関係になる。パトリックは機長であるが、ベトナムに爆弾を落とすことにストレスを感じている。毎回、出航の前夜には酒の力に頼っている人物だ。

嘉手苅朝栄は戦前、沖縄からサイパンへと移民した人物だ。サイパンは日米の間で凄惨な戦いの場となった。朝栄はサイパンが戦場になる前に沖縄に引き揚げてきたが、沖縄戦でも九死に一生を得るほどの状況に巻き込まれる。朝栄は戦後、小さな運送会社を経営していたが、結婚した妻が沖縄そばの店舗経営で軌道に乗る。そして朝栄は、事業のトラックが壊れたのを機に会社を畳み、無線の技術をを生かして電機修理のお店を営んでいる。

安南さんは朝栄とサイパンで旧知の人物。戦後は沖縄に腰を据えている。ベトナム出身だが、日本語は流ちょうで物腰も柔らかいため、沖縄に溶け込んでいる。祖国がアメリカに攻撃されている現状を見逃せず、ひそかにB-52の攻撃ルートをベトナムに伝える組織を作り上げた。

タカは朝栄の妻方の親族だ。彼は那覇でロックバンドを組んで活動していたが、地元のマフィアを諍いを起こし、基地でかくまってもらっている。

ここに挙げた主要人物は、沖縄とベトナム、サイパン、そしてフィリピン、アメリカにルーツを持つ。われわれ本土の人間が沖縄を語るとき、どうしても本土と沖縄の関係に目をやってしまう。せいぜい、沖縄と中国の関係を語るくらいだろう。しかし、当時の沖縄はさらに複雑な状況にあった。日本と沖縄と大陸の関係だけでは到底足りない。少なくとも本書に書かれるぐらいの関係は把握せねばならないはずだ。私にはそれが本書から得た気づきであり、とても新鮮に映った。ベトナム戦争が最も激烈な時期にアメリカの軍政の下に置かれ、かつ前線への基地だった沖縄では、本書に描かれるような複雑な思惑が外交の場と同じく繰り広げられていたのだろうから。

沖縄から見た世界とは果たしてどのようなものだったのか。本書の終わりの方で、タカがロックバンドとともに大阪万博の沖縄館に行くシーンがある。日本で開かれる万国博に沖縄館が置かれること自体の違和感。その事実は、沖縄が日本とは別の国であったことを示している。それは歴史的な事実でもある。今回の旅で訪れた平和祈念資料館の展示でも学んだ。27年間、沖縄は日本とは別の国だった。

ところが私が22年前と今回訪れた沖縄は間違いなく日本だった。多少の文化の違いはあるにせよ、パスポートが要らず、日本語を何の違和感なしに話せる島。沖縄県。私は沖縄をなんの疑いもなく日本と受け入れていた。ところが平和祈念資料館の展示と本書から学んだことは、沖縄が別の国だった事実だ。それも琉球王国の時代ではなく、私が生まれる前の年まで。だから本書のように、日本の影がうすい沖縄がとても新鮮に映る。

いまもなお、沖縄には米軍基地がかなりの面積を占めている。まだ、沖縄にとって戦後は続いている。そして沖縄の抱える矛盾が最も激しく姿を現していたのが、ベトナム戦争の後方基地であったこの時期だったと思う。

だからこそ本書には存在意義がある。安南さんとフリーダ=ジェーンの母がそれぞれ作った組織に存在意義があったように。フリーダ=ジェーンが次の攻撃地点など会議で得た情報を外に持ち出すリスク。フリーダ=ジェーンの家に庭師のバイトで来るタカがその情報を朝栄の店に運ぶリスク。朝栄が暗号化して店にある無線装置からベトナムに向けて発信するリスク。彼らがそれだけのリスクを引きうけたのには、沖縄が置かれた状況が矛盾に満ちていたからだろう。ベトナム戦争の大義について本書は触れない。だが、ベトナムの人々が枯葉剤やナパーム弾から逃げ惑う悲劇と、沖縄戦で人々が焼かれた悲劇は本書の中で密につながっている。あらゆる矛盾が混在した沖縄にあって、唯一矛盾しなかったことがベトナムと沖縄の戦場経験であるのは、とても皮肉なことだ。

タカは大学の反戦サークルにも関わりを持つ。反戦サークルは実際に軍からの脱走希望者を海外に逃す活動にも手を染めている。タカは、マーク・ロビンソンをスウェーデンに向けて脱走させ、さらに反戦への動きに巻き込まれてゆく。軍からの脱走希望者は、大義なき戦争の矛盾が戦争をなりわいとする軍人のアイデンティティに破綻として現れた証だ。パトリック・ビーハンもそう。ベトナムへの航行の前夜に酒に溺れ、インポテンツのためフリーダ=ジェーンとの愛の営みもままならない機長。彼も、その矛盾を全身で受け止め、苦しんでいた。

皆が感じる矛盾は、パリ協定の進展によって軽減される。つまりはベトナム戦争の終結に向けたアメリカの譲歩だ。アメリカの譲歩は、パトリック・ビーハンの負担も軽減する。それによってビーハンのインポテンツは治り、フリーダ=ジェーンとの愛情はより深まる。だが、矛盾が根本から解消されるためには残酷な結末が必要だ。著者はパトリック・ビーハンの操縦する機をエンジンの不調で墜落させ、結末をつける。

四人の機密漏えいは結局バレずに済んだ。脱走兵の支援工作も実行者が特定されることはなかった。もちろん、それらとビーハンの死にはなんの因果もない。だが、沖縄をめぐる幾重にも重なった矛盾を物語の中で大団円として解消させるため、著者はビーハンに死んでもらったのだと思う。直前にはフリーダ=ジェーンとビーハンをアブチラガマの戦争遺跡に連れ出し、沖縄戦の遺骨にも対面させる。

本書ではコザ騒動も描かれる。それはもちろん冒頭に書いた通り、アメリカ軍政下でたまった沖縄の人々の不満が爆発した結果だ。それと同じくコザ騒動にはアメリカの立場の弱まりと、ベトナム戦争の基地としての沖縄の意義低下、つまりは沖縄返還の前兆を感じた人々の前祝いの意味もあったのかもしれない。

だからこそ、コザ騒動やビーハンの死、アブチラガマなど重いテーマが続く後半の展開にも関わらず、本書にはすがすがしい読後感が感じられるのだと思う。

本書を読んだ時、私が訪れた沖縄は再び矛盾の噴出する地になろうとしている。私が今回訪れた際も、辺野古への反対行動への参集を呼びかける具体的な看板を見かけた。それらがどれほどのパワーを秘めているのか、誰にもわからない。特に本土の人間にとっては。その上、本稿をアップする前日に、現職の翁長沖縄県知事がなくなられた。基地に対して一貫して反対の立場をとってきた翁長氏の死が何をもたらすのか。本書の二冊前に読んだ佐藤優氏の結論も、外交官の立場でありながら沖縄に基地が集中することには反対で沖縄は日本にとどまっていたほうが得、とのことだった。

現状とこれからが不透明な今だからこそ、返還前の沖縄がどのようなことになっていたのか本書を読んで知ると良い。1969年以降にスピリッツがないと言ってられるのも今のうちだけかもしれないのだから。

‘2017/07/16-2017/07/17


現代短篇の名手たち1 コーパスへの道


映画化された長編で知られる著者だが、短編集である本書でもその才能は光っている。

本書は比較的長めの二幕物の戯曲一編と、短編が六編で成っている。

著者の作風はどちらかというとダーク調の語り口、世界観に基づいている。本書もまた、その作風に通ずるものがある。

巻頭を飾る「犬を撃つ」は、一番印象を受けた一編。アメリカのサウス・カロライナ州のイードンという町が舞台になっている。観光による町の活性化のため、町が徘徊する野良犬の始末をブルーという男に依頼する。ブルーはベトナム帰りの元兵士で、戦場で極限状況の中に居続けていた。

ブルーは居場所を得たかのように、野良犬を撃つ。そして、ブルーの人生の中で無縁だった女との関わりができる。小さなイードンの町で男達と女達がくっついては別れる。ブルーもその中で人並みの恋愛を求めるが、幸福はブルーには訪れることがない。そして犬撃ちという仕事の非倫理性が問題となり、行ブルーから犬撃ちの仕事が取り上げられてしまう。そのとき、ブルーの鬱屈が臨界点を越え、という話。

孤独な上に、さらに戦場で心を痛め付けられた男の内面を、外からの客観視点だけで描いている。状況の変化はブルーの内面にどう影響を与えるのか。無口なブルーのわずかな台詞と状況からブルーの内面を炙り出す様は鮮やか。設定や描写、結末ともにダークな苦味が残る一編だ。

続いて「ICU」。人生に破れ、何かに追われて病院に忍びこんだダニエルの物語。読者には最後まで何にダニエルが追われているのか明かされない。ダニエルを探す男達の存在が伝聞で聞こえてくるだけである。

病院のICUという、医療の真髄の場所でダニエルは一ヶ月を過ごし、追っ手をやり過ごそうとする。しかし、マイケルという名の患者との会話を通し、ダニエルが何から追われているのかがマイケルの言葉を借りて読者に仄めかされる。しかし、そのような分かりやすいスパイ小説的な展開は本編の表の顔でしかない。おそらくは、ダニエルや我々読者は得体のしれないモノ、つまり自分以外の世界に常に追われているのだ、という寓意を読み取った。

三つ目は「コーパスへの道」。本書のタイトルチューンである。

高校生活最後のアメフトでヘマをし、チームを敗北に導いたライル。ライルに仕返しを食らわそうと空き巣に入るチームメイトたちの乱暴狼藉を描いている。若さゆえの無謀さでライルの家のを破壊するも、偶然帰ってきたライルの妹ラーリーンにその場を目撃される。しかしラーリーンはその破壊に手を貸すばかりか、その勢いで別のもっと豪勢な家への空き巣を提案する。果たしてそこに行った破壊者達は・・・というのが筋。若さゆえの破壊衝動と、権威には弱い人の心の裡を上手く描いている。

4編目の「マッシュルーム」も、危うさにあこがれる若者の心と、行き過ぎる危険の手前で恐れをなす揺れ。その様子が短い掌編の行間に描き表されている。銃の威力が、無音で、ひそやかな動きによって表されているのが印象的な一編。

5,6番目に収められた二編は、お互いに関連している。5番目に収められた「グウェンに会うまで」と6番目の「コロナド」。前者は短編で、後者は戯曲。しかし時間の前後関係では逆である、つまり戯曲が短編の前に来る。短編は、ムショから出所した男を迎えにきた父と思しき男。しかし、父と思しき男は、主人公が収監前に起こした事件で得た成果物を狙っている。事件の過程で、その男は主人公の恋人をも死に至らしめる。戯曲は犯罪に手を染める前の主人公と恋人が事件に深入りしていく様を描いている。短編と戯曲の取り合わせは珍しく、興味深く読めた。ちなみに短編の男二人の交わすやりとりはスリリングで、会話の妙に満ちており、著者がその前段階を戯曲化したくなる気持ちもわかる。ただ、戯曲コロナドは、本書でも紙数を占めており、戯曲慣れしていないと少々辛い。私も辛かった。しかし短編との取り合わせはやはり魅力である。

最期をかざるのは「失われしものの名」。正直いってこのダウナーな世界観には今イチはまり込めなかった。妄想癖を持つ男の一瞬を切り取った一篇だが、本書の他の編にない異色の雰囲気をまとっている。

‘2015/1/29-2015/2/3


アメリカの鳥


通勤車内が私の主な読書の場である。そのため、読む本はどうしても文庫か新書が多い。全集に至ってはどうしても積ん読状態となる。かさばるし重いし。そんな訳で、全集を読む機会がなかなかない。池澤夏樹氏によって編まれたこの全集も、ご多分に漏れず読めていない。この全集は、英米に偏らず世界の名作が遍く収められており、私も何冊か持っている。が、実際に読むのは本書が初めてだろう。

法人化を控えた2015年元旦。2015年の巻頭に読むべきは、会社設立の心構えについての本が相応しい。それは分かっていたが、全集を読める機会は年始しかないのもまた事実。普段読めない文芸大作が読みたい、という動機で本書にチャレンジした。

とにかく時間がかかった。本作や著者について事前の知識がないままに読み始めたものだから尚更。本書ではピーターという一人の青年の成長が丁寧に描かれている。彼の成長やいささか難解な学びの遍歴をじっくり読むあまり、なかなかページが進まなかったというのが理由だ。

思えば、ジャン・クリストフや次郎物語といった人間の成長をつぶさに書き綴る物語から遠ざかって久しい。この忙しい時代、そういった物語を読み耽ることの出来る時間を捻出することは困難だ。時代に巻き込まれている私もまた、本書のような本を読む時間はあまり与えられていない。

しかし、逆を言えば忙しない時間の合間に本書のような成長の過程を描く物語に触れることで、忙しない日々の中で我々が忘れ去ろうとしているものを取り戻せるのではないか。

そのことは、本書を読むと殊更に思う。何せ本書のテーマのひとつが文明の利器への抵抗なのだから。主人公ピーターの母ロザモンドは、その信条を愚直に貫こうとする人物である。加工食品を頑なに拒み、素材をいかした料理をよしとする。ミキサーやフードプロセッサーには見向きもせず、昔ながらの料理法こそが正しいと信ずる。充分に聡明でありながら、ロザモンドの信念は堅い。

本書は1960年代中盤を舞台とする。遺伝子組み換え食品の問題など影も形もなく、公害すらもようやく問題化され始めた時期である。文明の行く末に過剰な消費文化が待っていることや、IT化の申し子ロボットによって職が奪われる可能性も知らない時代。誰もが文明の利器の便利さに飛び付いていた頃。主人公ピーターは、そのような母ロザモンドと二人きりの家庭で育つ。古きよきピルグリム・ファーザーズのような価値観の中で。

母の薫陶の下、真面目に人生の価値を求める主人公。カント倫理学を奉じ、誰であれ人を手段として利用してはならないと自分に誓う主人公。まだアメリカが1950年代の素朴さを辛うじて残していた時代を体現するのがピーターだ。時は1964年で、ピーターは19歳。自立を追及する余り、放蕩に走るヒッピー文化前夜の話である。母から自立する人生を敢えて選ぼうとするピーターは、かろうじて素朴なアメリカを保つ主人公として読者の前に現れる。本書はそのような危うい時期の危うい主人公ピーターの成長の物語である。

冒頭、ピーターは四年前に母と訪れた地ロッキー・ポートを再訪する。前に訪れた際に巣を拵えていたアメリカワシミミズクに再会するために。しかし、アメリカワシミミズクは、姿を消していた。アメリカワシミミズク。アメリカの鳥だ。本書は冒頭からアメリカの鳥が失われる。そしてその喪失感が読者の脳裏に刻まれる。読者に本書が失われたアメリカの鳥を求める物語であることが示される。アメリカの鳥が失われるのが、アメリカが泥沼のベトナム戦争に踏み込む最中であることは決して偶然ではない。我を失ったアメリカの現状と、それに背を向けるように姿を消したアメリカワシミミズクは、本書の全体のトーンを決める。その時期はまた、既成の権威に背を向けるヒッピー文化花開く前であることも見逃せない。ピーターの性格設定がヒッピーと対極にあることと併せて作者の意図するところだろう。

つまり、本書は失われつつあるアメリカの伝統を、主人公に託して探し求める物語なのだ。

失われたアメリカを求め、母ロザモンドはロッキー・ポートに留まり古き良きアメリカに拘り続ける。一方でピーターは自らのルーツを求め、ヨーロッパへと旅立つ。

新大陸から旧大陸へ。それはアメリカのルーツ探しでもある。リーヴァイというユダヤ人の姓を持つピーター。とはいえ、敬虔なユダヤ教徒でもないピーター。彼がヨーロッパに求めたのは、ユダヤ教ではない。ユダヤ教よりも、自ら信ずる哲学の源泉、連綿と続く芯の通った文化を求めにいったのだ。

だが、その冒険心は、自分が後にしてきたアメリカと同じ性格を持つことにピーターは気付かない。それはアメリカを狂騒の渦に巻き込み、古き良きアメリカを失わせようとする。ピーターがアメリカ人としての自らに気付くのは、ヨーロッパに着いてからの事。ヨーロッパについて早々、手違いでバイクを手放すはめになる。替わりに乗った列車のボックスシートでは、いかにもアメリカ的な賑やかな中年婦人に囲まれ閉口する。この二つの出来事を通じ、ヨーロッパではアメリカ人もまた異邦人に過ぎないことを悟ることとなる。旧大陸はアメリカとは違うのである。その事を改めて実感して。

浮ついたお上りさんとしてのアイデンティティにうろたえ、必死に冷静さを保とうとするが、ますます空回りするばかり。ピーターの姿は第二次大戦の勝利者の地位を得てはじめて国際秩序の守護者としての体裁を整えようとするアメリカそのものだ。

そういった異邦人としての疎外感と母なる文化の産まれた地に住む喜び。そして、狂騒度を増す一方のアメリカ人とは自分は違うという自意識のまま、ピーターはパリやローマで成長を遂げてゆく。友人との交流。家族ぐるみの一家との付き合い。そのパーティーに参加していた女性への片思い。住宅改善デモへの参加。文化的知識と俗っぽい部分を同居させる変わり者のスモール教授との交流。そんな風に徐々にヨーロッパに馴染むピーター。

異国にアメリカを、アメリカの鳥を探しに来たのに、当の母国はベトナム戦争やヒッピー文化に騒がしく、ますますピーターからは遠ざかり、ヨーロッパに愛着は増す。しかしそれでもアメリカの鳥を求め、ピーターは遠い母と文通を重ねる。しかし、母の奮闘もむなしく、アメリカはますます文明の利器に溺れる一方。

しかし、パリで親しくなった一家の晩餐に招かれたピーターは、アメリカのジョンソン政権が北ベトナム爆撃の敢行が間近であることを聞かされ、動揺する。ヨーロッパ人として馴染みつつあった仮面が剥がれた瞬間である。自らがアメリカ人であることに辟易し続けたピーターは、報道を通して自らがアメリカ人であることに狼狽し、図らずもさらけ出してしまったということだろう。

ローマへ旅立ったピーターは、システィーナ大聖堂にスモール教授と赴く。そこでツーリズムについて思いをぶちまける。その思いとは自らがツーリズムの本場であるアメリカ市民であることや、そのツーリズムが俗にまみれ、ヨーロッパの文化の深淵を観ることなく、あまりに表面をなぞることしかしないことへの苛立ちである。そこには現代においては先進国となっているアメリカ人として、豊饒な文化的空間にいることの座りの悪さの裏返しなのだろう。また、この中でピーターは、もはやこの地球には真の旅行に値する処女地は残されていないことも指摘している。それは、母ロザモンドの拘る古き良きアメリカの文化、そして食文化がもはや残されていないことへの諦めとも取れるのかもしれない。

パリへ戻ると、浮浪者の女性を義侠心から部屋に泊める。そこには性的な欲望も何もなく、ただ単に厚意からの行動である。それは若者の正義感でもあり、おそらくはベトナム戦争の反動といった意味が込められているのだろう。本書を通してピーターは童貞を通すが、それもフリーセックス全盛のアメリカ文化への対比軸であることは言うまでもない。

しかし、アメリカの北爆は敢行され、友人と動物園に行ったピーターはそこで鳥に噛まれる。アメリカの鳥を求めてヨーロッパに来たピーターは、黒い鳥に噛まれて感染症にかかる。これ以上ない皮肉である。意識を取り戻したピーターは枕元にいる母ロザモンドを認める。夢から覚めてみれば結局アメリカからの使者が待っていたという結末だ。朦朧としたピーターは夢の中である人に出会う。その人が発した「もう見当はついているかもしれないね。自然は死んだのだよ、マイン・キント(我が子よ)」で本書は締められる。

アメリカが苦しみ、変化を遂げた1960年代にあって、本書のような物語が語られたことは、必然であったのかもしれない。アメリカのうろたえ振りは、当時の著者にとって本書を書かせるまでに深刻に映っていたのだろう。その堕ちていくアメリカと、失われていく自然を描いた本書は、大河小説としても一級であるし、我々が現代で失われていたものを気付かせる点でももっと読まれてもよいのではないか。

結果として、帰省中に読了することができず、痛勤車内で読むはめになってしまった。本書がどこかの文庫も再録されればよいのに。

‘2015/01/02-2015/01/15