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球界に咲いた月見草 野村克也物語


本書を読んだのは、野村克也氏が亡くなって三カ月後のことだ。

もちろん私は野村氏の現役時代を知らない。野村氏は私が7歳の頃に現役を引退しているからだ。
ただ、野村氏が南海ホークスの選手だった頃に住んでいた家が、私の実家から歩いて数分に位置していたと聞いている。ひょっとしたら幼い時にどこかですれ違っていたかもしれない。

現役時代から、解説者として監督として。野村氏の成し遂げた偉大な功績は今更言うまでもない。
また、野村氏は多くの著書を著したことでも知られる。実は私はそれらの著書は読んだことがない。ただ、野村氏の場合はその生涯がそもそも含蓄に富んでいる。

その生涯を一言で表現すると”反骨”の一言に尽きるだろう。本書のタイトルにそれは現れている。月見草。この草は600本の本塁打を打った際、インタビューを受けて語った中に登場する。野村氏の生きざまの体現として知られた。

本書は、野村克也という一人の野球人の生涯を丹念に追った伝記だ。本人も含めて多くの人に証言を得ている。
幼い頃、父が中国で戦死し、母も大病を患うなど貧しさの少年時代を過ごしたこと。高校の野球部長が伝をたどってつないでくれた南海ホークスとのわずかな縁をモノにして入団したものの、一年でクビを告げられたこと。そこから捕手として、打者として努力を重ね、戦後初の三冠王に輝いたこと。選手で一流になるまでにはさまざまな運にも助けられたこと。
南海ホークスでは選手兼任監督として八シーズンの間、捕手と四番と監督の三つの役割を兼任したこと。ささやき戦術や打撃論、キャッチャーのポジションの奥深さ。王選手や張本選手との打撃タイトルや通算成績の熾烈な争い。

南海ホークスから女性問題で解任されたあとも、生涯一捕手としてボロボロになるまでロッテ、西武と移り、45歳まで捕手を務め上げたこと。
その後解説者として腕を磨き、ノムラスコープと言う言葉で野球解説に新風を送り込み、請われて就任したヤクルト・スワローズでは三回の日本一に輝いた。本書の冒頭はその一回目の優勝のシーンで始まっている。

本書には書かれていないが、その後も阪神タイガースや楽天イーグルスの監督を務め、社会人野球の監督まで経験した。
楽天イーグルスの監督時代には、そのキャラクターの魅力が脚光を浴び、スポーツニュースでもコーナーが作られるまでになった。

本書には月見草を語ったインタビューの一節が載っている。
「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある。自己満足かもしれないが、そんな花もあっていい。月見草の意地に徹し切れたのが、六○○号への積み重ねになった」(230ページ)

長年日の当たらないパ・リーグにいた野村氏。だが、その生涯を通して眺めれば、月見草どころか超一流のヒマワリであったことは間違いない。
ただ、その結果がヒマワリだったからと言って、野村氏のことをあの人は才能があったから、と特別に見てはならない。
確かに、野村氏の生涯は、結果だけ見れば圧倒的な実績に目がくらむ。そして、野村氏のキャラクターには悪く言えばひがみっぽさもある。
たが、そうした境遇を反骨精神として自らのエネルギーに変え、自らを開花させたのも本人の意思と努力があってこそ。
努力を成し遂げられる能力そのものを才能と片付けてしまうのは、あまりにも野村氏に失礼だと思う。

本書の中には、野村氏に師匠がいなかったことを惜しむ声が度々取り上げられる。かの王選手を育てた荒川博氏も本書で語っている。遠回りせずに実績を残せたのに、と。一人の力で野村氏は自らを作り上げてきたのだ。荒川氏はそれが後年の野村氏に役立っているとも述べている。

私が野村氏の生涯でもっとも共感し、目標にできるのは独りで学んだことだ。なぜなら私も独学の人生だから。
一方、私が野村氏の生涯でもっともうらやましいと思うのは、幼い頃に苦難を味わったことだ。私は両親の恩恵を受けて育ち、その恩に強く感謝している。だが、そのために私が試練に立ち向かったのは社会に揉まれてからだ。今になって、子供の頃により強靭な試練に巡り合っていれば、と思う。そう思う最近の自分を逆に残念に感じるのだが。

野村氏がさまざまな書物を著していることは上に書いた。
おそらくそれらの書物には、ビジネスの上で世の中を渡るために役に立つ情報が詰まっているだろう。
私がそれらの本を読んでいないことを承知で言うと、野村氏の反骨の精神がどういう境遇から生み出されたのかを学ぶ方が必要ではないかと思う。あえてその境遇に自分を置かずにビジネスメソッドだけ抽出しても、実践には程遠いのではないか。
今、私も自分の生き方を変えなければならない時期に来ている。ちょうど野村氏が選手を引退してから、評論家として生きていた年齢だ。私は野村氏のような名伯楽になれるだろうか。今、私にはそれが試されている。

くしくも本稿を書き始めた日、日本シリーズでヤクルト・スワローズが20年ぶりに日本一に輝いた。スワローズの高津監督は野村氏の教え子の一人として著名だ。
人が遺すべきものとして金、仕事、人がある。言うまでもなく、最上は人た。
亡くなった野村氏はこの度のスワローズの日本一を通し、人を遺した功績で今もたたえられている。

私も人を遺すことに自分のマインドを変えていかないと。もちろん金もある程度は稼がなければならないが。
それらを実現するためにも、本書は手元に持ち続けたいと思う。そして、本書が少しでも読まれることを願う。

‘2020/05/25-2020/05/25


もっと遠くへ 私の履歴書


本書を読む少し前、Sports Graphic Numberの1000号を買い求めた。
そこには、四十年以上の歴史を誇るNumber誌上を今まで彩ってきたスポーツ選手たちの数々のインタビューや名言が特別付録として収められていた。

その中の一つは著者に対してのインタビューの中でだった。
その中で著者は、755本まで本塁打を積み上げた後、もっとやれたはずなのにどこか落ち着いてしまった自分を深く責めていた。引退した年も30本のホームランを打っていたように、まだ余力を残しての引退だった。それを踏まえての言葉だろう。
求道者である著者のエピソードとして印象に残る。

著者が引退したのは1980年。私が小学校1年生の頃だ。
その時に担任だった原田先生から聞いた話で私の印象に残っていることが一つだけある。それは、王選手がスイングで奥歯を噛み締めるため、ボロボロになっていると言う話だ。なぜかその記憶は40年ほどたった今でもまだ残っている。
後、私は著者によるサインが書かれた色紙を持っていた。残念なことにその色紙は、阪神淡路大震災で被災した後、どさくさに紛れて紛失してしまった。実にもったいないことをしたと思う。

本書は、著者の自伝だ。父母や兄との思い出を振り返った子供時代のことから始まる。
浙江省から日本に来て五十番という中華料理の店を営んでいた父の仕事への取り組み。双子の姉だった広子さんのことや、東京大空襲で九死に一生を得たこと。
墨田区の地元のチームで野球に触れ、左投げ右打ちだった著者を偶然通りがかった荒川選手が左打ちを勧めたところ、打てるようになったこと。
甲子園で優勝投手となり、さらにその後プロの世界に身を投じたこと。プロに入って数年間不振に苦しんでいたが、荒川博コーチとともに一本足打法をモノにしたこと。
さらに巨人の監督に就任したものの、解任される憂き目に遭ったこと。そこで数年の浪人期間をへて、福岡ダイエーホークスの監督に招聘されたいきさつ。長きにわたってチームの構築に努力し、心ないヤジや中傷に傷つきながら、日本一の栄冠に輝いたこと。さらにその後WBC日本代表の初代監督として世界一を勝ち取るまで。

本書を読む前から、著者の文庫本の自伝なども読んでいた私。かねて福岡のYahoo!ドームの中にあると言う王貞治記念館を訪問したいと切に思っていた。福岡でお仕事に行くこともあるだろうと。
本書を読んでますますその思いを募らせていた。

それがかなったのが本書を読んでから11カ月後のこと。福岡に出張に行った最終日、PayPayドームと名前を変えた球場の隣にある王貞治ベースボールミュージアムに行くことができた。

ミュージアム内に展示された内容はまさに宝の山のようだ。しかも平日の夜だったこともあり、観客はとても少なかった。私はミュージアムを心ゆくまで堪能することができた。帰りの新幹線さえ気にしなければ、まだまだいられたと思う。
そしてその展示はまさに本書に書かれたそのまま。動画や実物を絡めることにより、著者の残した功績の素晴らしさが理解できるように作られていた。

ミュージアムでは一方足打法の連続写真やそのメリットも記され、等身大のパネルやホログラム動画とともに展示され、一本足打法が何かをイメージしやすい工夫が施されていた。
その脇に「王選手コーチ日誌」と表紙にタイトルが記されたノートが置かれていた。荒川博コーチによる当時のノートだ。中も少しだけ読むことができたが、とても事細かに書かれていた。著者もこのノートの存在をだいぶ後になるまで知らなかったらしい。
ミュージアムの素晴らしさはもちろんだが、一方で本書にも長所がある。例えば、一本足打法の完成まで荒川氏と歩んだ二人三脚の日々で著者自身が感じていた思いや、完成までの手ごたえ。その抑えられた筆致の中に溢れている感謝の気持ちがどれほど大きいか。それを感じられるのは本書の読者だけの特典だ。これはミュージアムとお互いを補完し合う意味でも本書の良さだと思う。

そこからの世界の本塁打王としての日々は、本書にも詳しく描かれている通りだ。

ただ、著者の野球人生は単に上り調子で終わらないところに味がある。藤田監督の後を継いで巨人の監督に就任して五年。その間、セ・リーグで一度優勝しただけで、日本シリーズでは一度も勝てなかった。そして正力オーナーから解任を告げられる。
数年後、福岡ダイエー・ホークスから監督就任の依頼があった著者は悩みに悩んだ結果、受諾した。当時のホークスはとても弱いチームだった。かつて黄金時代を築いた南海ホークスの栄華は既に過去。身売りされて福岡に来たもののチーム力は一向に上向かない。
そんなところに監督として招聘されたのが著者。ところがそこから数年、なかなか勝てない時が続いた。バスに卵を投げつけられるなど、ひどい仕打ちを受けた。

それを著者はじっと耐え忍び、長い時間をかけてホークスを常勝チームに育て上げていった。今でこそソフトバンク・ホークスと言えば常勝軍団として名をほしいままにしている。その土台を作ったのが著者であることは誰も否定しないはずだ。

ミュージアムでもホークスの監督時代のことは多く取り上げられていた。だが私は、著者の選手時代の輝きに当てられたためか、あまりその展示は詳しくみていない。
著者のためにこのような立派なミュージアムを本拠地に作ってくれる。それだけで著者が福岡で成し遂げた功績の大きさがわかろうと言うものだ。

本書はあとがきの後も、著者の年表が載っている。さらに全てのホームランの詳細なデータや輝かしい記録の数々など、付録だけでも60ページ強を占めている。
まさに、本書は著者を語る上で絶対に落とせない本だと思う。
いつかは著者も鬼籍に入るだろう。その時にはもう一度本書を読み直したいと思う。

‘2020/05/01-2020/05/01


地方への流れはまずプロ野球から


今年の日本シリーズはホークスが完全にジャイアンツを圧倒しましたね。
二年続けて四タテでジャイアンツを破ったホークスの強さに隙は見当たりません。

この圧倒的な結果を前にして、私たちは「球界の盟主」という古びた言葉を久々に思い出しました。仮にこの言葉に意味があったとして、それが今回の日本シリーズの結果によって東京から福岡へと移ったという論調すら見かけます。

東京と福岡。古くからのプロ野球ファンは、この二つの土地から象徴的な関係を思い出すはずです。それは読売ジャイアンツと西鉄ライオンズ。
かつて、ジャイアンツの監督を追われ、西鉄ライオンズの監督に就任した三原監督は「我いつの日か中原に覇を唱えん」と語ったと聞きます。数年後、西鉄ライオンズはジャイアンツを三年続けて日本シリーズで破り、三原監督の宿願は見事に成就しました。
三原監督のこの言葉からは、この頃の東京が中原=中心と位置づけられていたことが読み取れます。
なにせ、この頃の世相を表す言葉として有名なのが「巨人、大鵬、卵焼き」なる言葉だったくらいですから。これは、当時の子どもたちに愛された対象を並べたキャッチフレーズですが、地方の野球少年少女にとって巨人が羨望の的だったことは事実でしょう。

全国からの上京者を飲み込み続けた東京が文字通りの首都だった時代。
それが今や、コロナにあって四カ月連続で転出超過となっています。
(記事はこちら
これはまさに時代を表す出来事だと思います。
この出来事は、東京への一極集中に異常さを感じていた私にとっては歓迎したい現象です。ようやくあるべき姿に戻りつつある傾向として。

実はプロ野球は、地方への流れを先んじて実施していました。プロ野球、というよりパ・リーグが、です。
今や、プロ野球において、強いチームとは地方に比重が移りつつあります。かつてはセ・パー両リーグともに東名阪にプロ野球チームが集中していました。わずかに広島と福岡に本拠を置くチームがあった以外は。
その頃に比べ、今は福岡・広島・仙台・北海道にチームが移り、それらのチームが一時代を築くまでになりました。
その流れはパ・リーグに顕著です。
その流れが近年のパ・リーグの強さにつながっていると思います。

かつて「人気のセ、実力のパ」という言葉がありました。
私はかつての西宮球場の状況を知っています。戦力的には黄金期であったにもかかわらず、試合中でも閑散とした球場の異様さを。それは、近くの甲子園球場で行われた試合の観客が盛り上げる様子に比べると悲壮さすら漂うほどでした。
最も格差が開いた時期(1975年)では、セ・リーグの観客数がパ・リーグの2.96倍、つまりほぼ3倍に達していました。
それが今や、ここ数年は1.20倍前後に落ち着いています。人気の面でもパ・リーグがセ・リーグに伯仲しようとしているのです。
セ・リーグ観客数の推移表(https://npb.jp/statistics/attendance_yearly_cl.pdf
パ・リーグ観客数の推移表(https://npb.jp/statistics/attendance_yearly_pl.pdf
セ・パ両リーグの観客数の推移グラフ

その理由はいくつでも挙げられると思います。
その中でも、今の都市圏にはかつてのように地方の野球少年を惹きつける魅力がないことに尽きると思います。
テレビ放送の黎明期を担った方がジャイアンツのオーナーであった頃、地方で放映されるプロ野球の試合といえばジャイアンツのみでした。それが全国の野球少年の憧れをジャイアンツに向けさせていたことは否めません。それが入団希望者の多さにもつながっていました。
その時の影響は、今もなお、FAで巨人を希望する選手や、逆指名でジャイアンツを希望する選手もいる現象として見られるくらいです。

でも、少しずつジャイアンツの占める重みは減り続けています。
「球界の紳士たれ」なる窮屈な言葉がある球団に入るより、地方の球団でのびのびしたいという選手の思い。
今や、ジャイアンツの選手であることのブランド力は薄れ、それが今回の日本シリーズの結果でさらに拍車がかかるような気がします。

情報が流通する社会において、都市に集まる利点はどんどん減っています。
かろうじて、ビジネス面では首都であることの利点があるのかもしれません。でも、そのメリットはプロ野球の世界ではもはや効果を失いつつあります。
それにいち早く気づき、活路を見いだしたのがパ・リーグの球団。であるとすれば、いつまでも東名阪に止まっているセ・リーグの各球団はそろそろ地方に目を向けるべきだと思うのです。

特に、首都圏に五球団というのは多すぎます。埼玉、千葉、横浜はいいとしても、東京に二つというのはどうなんでしょう。例えば思い切って、キャンプ地の宮崎を本拠地にするぐらいの改革をしても良いのではないでしょうか。
今回の二年続けてのような体たらくでは、やがては観客数すら逆転しかねません。

もちろんこれはプロ野球だけの話ではなく、東京に集中して報道しがちなマスコミやビジネス界についても同じです。
もはや東京への一極集中はデメリットでしかない。それが今回の東京からの転出超過につながっているように思います。

これは、何も東京を軽んじているわけではないのです。
私は常々、日本の健全な発展とは、東京一極集中ではなく地方と東京が等しく発展してこそ成されるものだと思っています。それが逆に東京の魅力をよみがえらせる処方箋であると。

ジャイアンツも、いつまでも首都の威光を傘にきて「球界の盟主」なる手垢のついた言葉に頼っているうちは、地方の活きのいい球団の後塵を拝し続ける気がします。
今回の日本シリーズの結果がまさにそれを証明しているのではないでしょうか。


背番号なし戦闘帽の野球 戦時下の日本野球史 1936-1946


当ブログでは、幾度か野球史についての本を取り上げてきた。
その中では、私が小学生の頃から大人向けの野球史の本を読んできたことにも触れた。

私の記憶が確かなら、それらの本の中には大和球士さんの著作も含まれていたように思う。
残念なことに、当時の私は今のように読書の履歴をつけておらず、その時に読んだ著者の名前を意識していなかったため、その時に読んだのが大和球士氏の著作だったかどうかについては自信が持てない。
だが、40年近く前、球史を網羅的に取り扱った本といえば、大和氏の著作ぐらいしかなかったのではないだろうか。明治から大正、昭和にかけてのわが国の野球史を網羅した大和球士氏の著作の数々を今、図書館や本屋で見かける事はない。おそらく廃版となったのだろう。

それは、大和氏のように戦前の野球史を顧みる識者が世を去ったからだけではなく、戦前の野球そのものへの関心が薄れたことも関係していると思われる。
毎年のペナントレースや甲子園の熱闘の記録が積み重なるにつれ、戦前から戦中にかけての野球史はますます片隅に追いやられている。

ところが、この時期の野球史には草創期ならではのロマンが詰まっている。
だからこそ最近になって、早坂隆氏による『昭和十七年の夏 幻の甲子園』や本書のような戦前から戦中の野球史を語る本が発刊されているのだろう。

なぜ、その頃の野球にはロマンが感じられるのだろうか。
理由の一つには、当時の職業野球がおかれた状況があると考える。
職業野球など、まともな大人の就く職業ではないと見なされていた当時の風潮。新聞上で野球害毒論が堂々と論じられていた時期。
だからこそ、この時期にあえて職業野球に身を投じた選手たちのエピソードには、豪快さの残滓が感じられるのかもしれない。

もう一つの理由として、野球とは見て楽しむスポーツだからだというのがある。
もちろん、野球は読んでも面白い。そのことはSports Graphic Numberのようなスポーツジャーナリズムが証明している。例えば「江夏の21球」のような。
そうしたスポーツノンフィクションは、実際の映像と重ね合わせることによってさらに面白さが増す。実際の映像を見ながら、戦う選手たちの内面に思いを馳せ、そこに凝縮された瞬間の熱量に魅せられる。私たちは、文章にあぶりだされた戦いの葛藤に極上の心理ドラマを見る。

野球の歴史を振り返ってみると映像がついて回る。古来から昭和31年から33年にかけて西鉄ライオンズが成し遂げた三連覇や、阪神と巨人による天覧試合。そして巨人によるV9とその中心であるONの活躍。阪神が優勝した時のバックスクリーン3連発も鮮やかだったし、イチロー選手の活躍や、マー君とハンカチ王子の対決など、それこそ枚挙に暇がない。

ところが、野球史の中で映像が残ってない時期がある。それこそが戦前の野球だ。
例えば沢村栄治という投手がいた。今もそのシーズンで最高の活躍を残した投手に与えられる沢村賞として残っている名投手だ。
沢村栄治の速球の伸びは、当時の投手の中でも群を抜いていたと言う。草薙球場でベーブ・ルースやルー・ゲーリックを撫で切りにした伝説の試合は今も語り草になっているほどだ。ところが、沢村投手の投げる姿の映像はほとんど残っていない。その剛速球の凄まじさはどれほどだったことだろう。
数年前、一球だけ沢村栄治が投げる当時のプロ野球の試合の映像が発掘され、それが話題になった。そうした映像の発掘がニュースになるほど、当時の映像はほとんど残されていないのが現状だ。

景浦將という阪神の選手がいた。沢村栄治のライバルとして知られている。景浦選手の自らの体をねじ切るような豪快なスイングの写真が残されているが、景浦選手の姿も動画では全く残っていない。
他にも、この時期のプロ野球を語る上で伝説となった選手は何人もいる。
ヘソ伝と呼ばれた阪急の山田伝選手の仕草や、タコ足と言われた一塁手の中河選手の捕球する姿。荒れ球で名を遺す亀田投手や、名人と称された苅田選手の守備。
そうした戦前に活躍した選手たちの伝説のすべては、文章や写真でしか知るすべがない。延長28回の試合なども有名だが、それも今や、字面から想像するしかない。
だからこそ、この時期のプロ野球には憧れやロマンが残されている。そしてそれがノンフィクションの対象として成り立つのだと私は思っている。

私も戦前のプロ野球については上述の大和氏の著作をはじめ、さまざまな書物やWikipediaで目を通してきた。だが、本書はそうした私の生半可な知識を上回る内容が載っている。

たとえば戦時中に野球用語が敵性語とされ、日本語に強制的に直されたことはよく知られている。だが、それらの風潮において文部省や軍部がどこまで具体的な干渉を野球界に対して突き付けていたかについて、私はよく知らなかった。
文部省からどういう案が提示され、それを職業野球に関わる人々はどのように受け入れたのか。
もう一つ、先にも書いた延長28回といった、今では考えられないような試合がなぜ行われたのか。そこにはどういう背景があったのか。
実はその前年、とある試合で引き分けとなった試合があった。その試合が引き分けとなった理由は、苅田選手の意見が大きく影響したという。ところが、その試合が戦いに引き分けなどありえないという軍部の心を逆なでしたらしい。その結果、勝負をつけるまでは試合を続ける延長28回の長丁場が実現したという。
そうした些細なエピソードにも、軍国主義の影が色濃くなっていた当時の世相がうかがえる。

本書はプロ野球だけではなく、戦時中の大学野球や中等野球についてもさまざまな出来事を紹介している。
大学野球が文部省や軍部の横やりに抵抗し、それにも関わらず徐々に開催を取りやめていかざるを得なかったいきさつ。
私は、当時の大学が文部省や軍部の野球排斥の動きに鈍感だった事を、本書を読むまで知らなかった。
中等野球についても、戦時色が徐々に大会を汚してゆく様子や、各大会の開催方式が少しずつ変質させられていった様子が描かれる。そうした圧力は、ついには朝日新聞から夏の甲子園の開催権を文部省が取り上げてしまう。

厳しい時代の風潮に抗いながら、野球を続けた選手たちの悲劇性は、彼らの多くが徴兵され、戦地に散っていったことでさらに色合いを増す。
本書は、戦没選手たちの活躍や消息などにもきちんと触れている。
少しずつ赤紙に呼ばれた選手が球場から姿を消していく中、野球の試合をしようにも、そもそも選手の数が足りなくなってゆく苦しさ。選手だけでなく、試合球すらなかなか手に入らなくなり、ボールの使用数をきちんとカウントしては、各球場でボールを融通し合う苦労。著者が拾い上げるエピソードの一つ一つがとてもリアルだ。

選手の数が減ってくると、専門ではないポジションなど関係なしに持ち回ってやりくりするしかない。それは投手も同じ。少ない投手数で一シーズンを戦うのだから、今のように中四日や中五日などと悠長なことは言っていられない。南海の神田投手や朝日の林投手のシーズン投球回数など、現代のプロ野球では考えられないぐらいだ。高校野球で最近議論された投手の投球数制限など、当時の時代の論調からいえばとんでもない。そう思えるほどの酷使だ。
そうした選手や関係者による必死の努力にも関わらず、昭和19年になるともはや試合の体をなさなくなるほど、試合の質も落ちてきた。
そんな中、昭和20年に入っても、有志はなんとかプロ野球の灯を消さないように活動し続ける。
そうした戦前と戦中の悲壮な野球環境が本書の至るところから伝わってくる。

本書の前半は少々無骨な文体であるため、ただ事実の羅列が並べられているような印象を受ける。
だが、詳細なエピソードの数々は、本書を単なる事実の羅列ではなく、血の通った人々の息吹として感じさせる。

ここまでして野球を続けようとした当時の人々の執念はどこから来たのか。野球の熱を戦時中にあっても保ち続けようとした選手たちの必死さは何なのか。
野球への情熱にも関わらず、応召のコールは選手たちを過酷な戦場へと追いやってゆく。
才能があり、戦後も活躍が予想できたのに戦火に散ってゆく名選手たちの姿。ただただ涙が出てくる。

本書は昭和20年から21年にかけて、プロ野球が復活する様子を描いて幕を閉じる。
そうした復活の様子は本書のタイトルとは直接は関係ない。
だが、野球をする場が徐々に奪われていく不条理な戦前と戦中があったからこそ、復活したプロ野球にどれだけ人々や選手たちが熱狂したのかが理解できると思う。
大下選手が空に打ち上げたホームランが、なぜ人々を熱狂の渦に巻き込んだのかについても、戦中は粗悪なボールの中、極端な投高打低の野球が続いていたからこそ、と理解できる。

本書を読むと、東京ドームの脇にある戦没野球人を鎮める「鎮魂の碑」を訪れたくなる。もちろん、野球体育博物館にも。

本書は、大和球士氏の残した野球史の衣鉢を継ぐ名著といえる。

‘2019/9/5-2019/9/6


追憶の球団 阪急ブレーブス 光を超えた影法師


西宮で育った私にとって、阪急ブレーブスはなじみ深い球団だ。
私の実家は甲子園球場からすぐ近くだが、当時、阪急戦を見に西宮球場に行く方が多かった。阪神の主催ゲームはなかなかチケットが取れなかったためだろう。
よく父と西宮球場の阪急戦を観に行ったことを覚えている。

西宮球場や西宮北口駅のあたりは、当時も今も西宮市の中心だ。家族と買い物にしょっちゅう訪れていた。
そのため、子供の頃の私の心象には、西宮球場付近の光景がしっかりと刻まれている。
ニチイ界隈の賑わう様子。西宮北口駅のダイアモンド・クロッシングを通り過ぎる電車が叩く音。そして西宮球場で開催される阪急戦の雰囲気。
時期はちょうど1984年ごろだったと思う。

それから35年以上が過ぎた。
いまや西宮北口駅の周辺は阪神・淡路大地震を境にすっかり変わってしまった。ニチイもダイアモンド・クロッシングも西宮球場も姿を消した。
もちろん、本書で取り上げられる阪急ブレーブスも。

すぐ近くの甲子園球場で行われる阪神戦の熱気とは裏腹に、阪急戦の雰囲気は寂しいものだった。
1984年、阪急ブレーブスは球団の歴史上で、最後のパ・リーグ優勝を成し遂げた。
昭和40年代から続いた黄金期の最後の輝き。
本書の著者である福本豊選手。山田久志、簑田浩二、加藤英司、ブーマー・ウェルズと言った球史に残る名選手の数々。上田監督が率いたチームには、今井雄太郎、佐藤義則、山沖之彦という忘れがたい名投手たちもいた。弓岡敬二郎や南牟礼豊蔵といった選手の活躍も忘れてはなるまい。
こうした球史に名を残す選手を擁しながら、西宮球場で行われるナイターの試合には、いつもわずかな観客しかいなかった。
甲子園球場のにぎやかな応援風景とあまりにも違う西宮球場の寂しさ。それは小学生の私にとても強い印象を残した。

今日、阪急ブレーブスの栄華をしのぼうと思ったら、阪急西宮ガーデンズの5階のギャラリーを訪れると良い。
そこに飾られた幾つものトロフィーや銅像、優勝ペナント、著者を初めとした野球殿堂に選ばれた13選手をかたどったレリーフからは、球団の歴史の片鱗が輝いている。

だが、私が実家に帰省し、阪急西宮ガーデンズに訪れるたび、このギャラリー内のブレーブスの記念コーナーが縮小されているように思える。
阪急西宮ガーデンズが出来た当初、記念コーナーはギャラリーのかなりのスペースを占めていたように思う。
スペースの縮小は、阪急グループにとっての阪急ブレーブスの地位が低下していることをそのまま表している。

著者はこの現状も含め、阪急ブレーブスが忘れられることを危惧したのだろう。それが本書を著した動機だったと思われる。
かつてあれほど強かったにもかかわらず、強さと人気が比例しなかった球団。黄金期を迎える前は灰色の球団と言われ続け、黄金期を迎えても阪神タイガースには人気の面ではるかに及ばなかった球団。

本書は著者がブレーブスに入団する時点から始まる。悲運の名将と呼ばれた西本監督の下、黄金期への地固めをするブレーブス。
著者と著者の同期である加藤英司選手が、プロ生活の水に慣れていく様子が書かれる。

著者が入団する前年に、阪急ブレーブスは創立32年目にして初優勝を果たした。
当時は米田哲也投手、足立光宏投手、梶本隆夫投手が健在で、野手もスペンサー、長池選手といった選手がしのぎを削っていた。
そうそうたる選手層に加わったのが著者と加藤選手、そして山田投手。
そこで揉まれながら、著者は走攻守に存在感を発揮して行く。
著者が入った年、ブレーブスはパ・リーグを2連覇し、最初の黄金時代を迎える。
著者の成績に比例してブレーブスは強くなっていく。だが、V9中の巨人にはどうしても勝てない。そんな挫折と充実の日々が描かれる。

ブレーブスの選手層は、大橋選手、大熊選手、島谷選手といった選手の入団によってさらに厚くなる。
それまでパ・リーグといえば、南海ホークスか西鉄ライオンズ、大毎オリオンズの三強だった。そこに、黄金期を迎えたブレーブスが割り込む。
他の強豪チームに引けを取らない力を蓄えたブレーブスは、1967年から1984年までの18シーズンにパ・リーグを10度制し、3度日本一になっている。その間にはパ・リーグ3連覇を二度果たした。2度目の3連覇ではその勢いのまま、セ・リーグのチームを破り、三年連続で日本一の美酒を味わう偉業を成し遂げている。
昭和五十年代に限っていえば、ブレーブスは日本プロ野球でも最強のチームだったと思う。さらにいえば、わが国の野球史を見渡しても屈指のチームだったと言える。

著者はそのチームに欠かせない一番打者として、華々しい野球人生を送った。
二塁打数、安打数、盗塁数など著者の築き上げた成績は、いまも日本プロ野球史に燦然と輝き続けている。通算1065盗塁に至っては、当分の間、迫る選手すら現れないことだろう。

山田投手が日本シリーズで王選手に逆転スリーランを打たれたシーンや、昭和53年の日本シリーズがヤクルトの大杉選手のホームランをファウルだと主張した上田監督によって1時間19分の間、中断したシーン。
阪急ブレーブスが球史に残したエピソードは今もプロ野球の記憶に残り続けている。
それなのに、阪急は身売りされてしまう。

「9月上旬、南海ホークスがダイエーへの球団譲渡を発表した。かねてから噂になっていたので、僕はそれほど驚かなかった。86年以降の阪急ブレーブスは、念願だった年間100万人の観客動員を続けていた。身売りされた南海は、一度たりとも大台へ届かなかった。ブレーブスのナインにとって、南海ホークスの消滅は、対岸の火事にしか見えなかった。」(190ページ)

著者が危惧するように、売却と同時にブレーブスの歴史は記憶の彼方に遠ざかろうとしている。
冒頭に書いた通り、当の阪急グループからも記念コーナーの縮小という仕打ちを受け、ブレーブスの栄光はますます元の灰色に色あせてつつある。
阪急グループについては、宝塚ファミリーランドの跡地の扱いや、宝塚歌劇団の内部運営など、私の中でいいたい事はまだまだある。

著者はあとがきで宝塚歌劇のファンになった事を書いている。ベルばらブームによって宝塚歌劇団が息をふきかえした時期、くしくも阪急ブレーブスも黄金期を迎えた。
だが、その後の両者に訪れた運命はくっきりと分かれた。痛々しいほどに。

宝塚歌劇は東京に進出し、今では公演の千秋楽は宝塚大劇場、続いて有楽町の宝塚劇場の順に行われるという。要は公演のトリを東京に奪われているのだ。
東京という華やかな日本の中心に進出することに成功し、徐々にそちらに軸足を移しつつあるように見える歌劇団。
その一方で日本シリーズで三連覇したにもかかわらず、そして、徐々に観客数の向上が見られたにもかかわらず、身売りされた阪急ブレーブス。
人気のないパ・リーグで存続し続ける限り、日本の中心どころか、関西の人気球団にもなれないと判断した経営サイドに切り捨てられた悲運の球団。

たしかに、同じ西宮市に球団は二つも要らなかったかもしれない。
阪急ブレーブスが阪神タイガースの人気を凌駕することは、未来永劫なかったのかも知れない。
それでも、県庁所在地でもない一都市の西宮市民としては、二つのプロ野球球団を持てる奇跡に満足していた。そして、いつかは今津線シリーズが開かれることを待ち望んでいられた。
私は今もなお、ブレーブスを売却した判断は拙速だったと思う。

阪神間で育った私から見て、小林一三翁の打ち立てた電鉄経営の基本を打ち捨て、中央へとなびく今の阪急グループには魅力を感じない。
東京で仕事をする私から見ると、東京で無理に存在感を出そうとする今の阪急グループからは、ある種の痛々しさすら覚える。

たしかに経営は大切だ。赤字を垂れ流す球団を持ち続け、関西でも奥まった宝塚の地に遊園地と劇団を持っているだけでは、グループに発展の余地はないと考える心情もわかる。
だが、中央への進出に血道を上げる姿は、東京に住むものから見ると痛々しい。
それよりは、関西を地盤とし、球団と歌劇団と遊園地を維持し続けた方がはるかに気品が保てたのではないだろうか。東京一極集中の弊害が言われる今だからこそ。
それでこそ阪急、それでこそ逸翁の薫陶が行き渡った企業だと愛せたものを。
私のように歌劇団の運営の歪みを知る者にとっては、順調に思える歌劇団の経営すら、無理に無理を重ねているようにしか見えない。

著者があとがきに書いた歌劇団への愛着も、阪急ブレーブスという家を喪った痛みの裏返しであるように思う。
著者が本当に言いたいこと。それは、阪急グループに歴史を大切にしてほしい、ということではないだろうか。
タイトルにある影法師がブレーブスだとして、ブレーブスが超えた光とは何か。そのタイトルにこそ、著者の願いが込められているはずだ。

‘2019/5/22-2019/5/22


カミソリシュート―V9巨人に立ち向かったホエールズのエース


当ページのブログでは何度も書いているが、私の実家は甲子園球場のすぐ近くだ。私が小、中学生だった9年間はすっぽり80年代におさまっている。つまり、80年代の甲子園とともに育った。タイガースが怒涛の打撃を披露する強さや、脆く投壊する弱さ。高校球児が春夏に躍動する姿。歓声や場内アナウンスが家にまで届き、高校野球は外野席が無料だったので小学生の暇つぶしにはうってつけ。そんな環境に身を置いた私が野球の歴史に興味を持ったのは自然の流れだ。難しい大人向けのプロ・アマ野球に関する野球史や自伝を読み、自分の知らない30年代から70年代の野球に憧れを抱く少年。野球史に強い興味を抱いた私の志は、大人になった今もまだ健在だ。

著者は、甲子園の優勝投手でありながら、投手として名球会に入った唯一の人物だ。ところが、私にとってはそれほどなじみがなかった。私が野球に興味を持ち始めた頃もまだ現役で活躍していたにもかかわらず。それは、著者が所属していたのが横浜の大洋ホエールズで、甲子園ではあまり見かけなかったからかもしれない。そもそも、著者の全盛期は私が物心つく前。なじみがなかったのも無理はない。

しかし、それから長い年月をへて、著者に親しむ機会が増えてきた。というのも、私はこのところ仕事で横浜スタジアムの近くによく行く。その度にベイスターズのロゴをよく見かける。そして、最近のベイスターズは親会社がDeNAになってから、マーケティングや観客の誘致に力を入れている。昨年の秋にはレジェンドマッチ開催のポスターを駅で見かけ、とても行きたかった。当然著者もその中のメンバーに入っている。

実は本稿を書くにあたり、レジェンドマッチの動画を見てみた。70歳になった著者の投球はさすがに全盛期の豪球とは程遠い。が、先発を任されるあたりはさすがだ。ベイスターズ、いや、ホエールズの歴史の中でも著者が投手として別格だったことがよく分かる。そんな著者は、2017年度の野球殿堂入りまで果たしている。

なお、同時に殿堂に選ばれたのは星野仙一氏。くしくも本書を読んでから本稿を書くまでの一週間に、星野氏が急死するニュースが飛び込んできたばかり。そして著者と星野氏は同じ岡山の高校球界でしのぎを削った仲。著者より一学年上の星野氏のことは本書でもたくさん触れられている。

本書は著者のプロ一年目の日々から始まる。プロの洗礼を浴び、これではいかんと危機感を持つ著者の日々。プロで一皮むけた著者の姿を描いた後、著者の生い立ちから語り直す構成になっている。

よく、ピッチャーとはアクが強い性格でなければ務まらないという。最近のプロ野球の投手にはあまり感じられないが、かつての野球界にはそういう自我の強いピッチャーが多いように思う。別所投手、金田投手、村山投手、江夏投手、鈴木投手、堀内投手、星野投手など。それを証明するかのように、本書は冒頭から著者の誇り高き性格が感じられる筆致が目立つ。特に1970年の最優秀防御率のタイトルを、当時、監督と投手を兼任していた村山投手にかっさらわれた記述など、著者の負けず嫌いの正確がよく表れていると思った。投球回数の少ない村山投手に負けたのがよほど悔しかったらしい。でも、それでいいのだと思う。著者は巨人からドラフト指名の約束をほごにされ、打倒巨人の決意を胸に球界を代表する巨人キラーとなった。対巨人戦の勝ち星は歴代二位というから大したものだ。一位は四百勝投手である金田投手であり、なおさら著者のすごさが際立つ。著者は通算成績で長嶋選手を抑え込んだことにも強い誇りを持っているようだ。

著者の負けん気の強さが前に出ているが、それ以上に、先輩・後輩のけじめをきちんとつけていることが印象に残る。著者からみた年上の方には例外なく「さん」付けがされているのだ。星野さんもそう。プロでは著者の方が少し先輩だが、学年は星野氏の方が一つ上。「さん」付けについては本書はとても徹底している。そのため、本書を読んでいると、誰が著者よりも年上なのかすぐに分かる。

もう一つ本書が爽やかなこと。それは著者が弱かったチームのことを全く悪く言わないことだ。著者は、プロ野球選手としての生涯をホエールズに捧げた。そのため、一度もペナントレースの優勝を味わっていない。甲子園で優勝し、社会人野球の日石でも優勝したのに。ところが、負けん気の強さにも関わらず、著者からは一度もホエールズに対する悪口も愚痴も吐かれない。そこはさすがだ。1998年にベイスターズが成し遂げた日本一について、自分がまったく関われなかったことが寂しいと書かれているが、そこをぐっと抑えて多くは語らないところに著者の矜持を感じた。

もっとも、生え抜き選手をもっと大切にしてほしいと、球団に対して注文は忘れていない。著者はベイスターズ・スポーツコミュニティの理事長を務め、横浜から球団が出て行ってほしくないと書いている。だからこそ、冒頭に書いたようなレジェンドマッチのような形で投球を披露できたことは良かったのではないだろうか。

それにしても、著者が大リーグのアスレチックスにスカウトされていたとは知らなかった。さらには、冒頭で触れたように甲子園優勝投手で、投手として名球会に入ったのは著者だけである事実も。ともに本書を読むことで知った事実だ。

野球史が好きな私として何がしびれるって、著者のように弱いチームにいながら、巨人に立ち向かった選手たちだ。こういう選手たちが戦後のプロ野球を盛り上げていったことに異を唱える人はいないだろう。正直、今も巨人を球界の盟主とか、かつての栄光に酔ったかのように巨人こそが一強であると書き立てるスポーツ紙(特に報知)にはうんざりしているし、もっというと阪神の事しか書かない在阪スポーツ紙にも興味を失っている。今や時代は一極集中ではなく地方創生なのだから。それは日本という国が成熟フェーズに入ったことの証だともいえる。だが、著者が現役の頃は、日本が登り調子だった。その成長を先頭に立って引っ張っていたのが東京であり、その象徴こそが「巨人、大鵬、卵焼き」の巨人だったことは誰にも否定できない。V9とは、右肩上がりの日本を如実に現した出来事だったのだ。そして、それだけ強い巨人であったからこそ、地方の人にとってはまぶしさと憧れの対象でもあり、目標にもなりえたのだ。そのシンボルともいえる球団には敵役がいる。著者や江夏投手、星野投手、松岡投手や外木場投手のような。そうした他球団のエースが巨人に立ち向かう姿は高度成長を遂げる日本の縮図でもあり、だからこそ共感が集まったのだと思う。

私は、かつて日本シリーズで三年連けて巨人を破ったことで知られる西鉄ライオンズのファンでもある。だからこそ、数年前に催されたライオンズ・クラシックにはとても行きたかった。同じくらい、ベイスターズのレジェンドマッチがまた開かれた暁にはぜひ行きたいと思っている。巨人に立ち向かい、ともにプロ野球を、そして戦後の日本を盛り上げた立役者たちに敬意を示す意味でも。

まずは、横浜スタジアムでの公式戦の観戦かな。できれば阪神戦が良いと思う。そして、実家に帰った際には甲子園歴史館で、著者が甲子園で優勝した記録を探してみたいと思う。

‘2017/12/27-2017/12/27


しゃべれども しゃべれども


著者の本は初めて読んだが、とても面白かった。本書が面白いのは、読者のほとんどにおなじみの「しゃべり」が扱われているからだろう。しゃべること自体が小説のテーマになっていることはそうない。なぜなら人がしゃべるのは日常で当たり前のことだからだ。

話す事で糧を得る人は世の中に多い。落語家もそう。話すこと自体が芸となっている。本書が描き出すのは、落語家の生態や、彼らに伝えられる口承芸ー噺についてだ。ただ、噺家の生態を描くだけではなく、噺家の回りに集う人々との関わりで描くのが本書のいいところだ。噺家の周りに集う人々に共通するのが、話すのが苦手な人というのがいい。話す技術とは、生きていく上で欠かせない。だが、誰もが自在に扱えるかといえばそうでもない。ほとんどの人が身につけていながら、その技を完全にわが物としている人はそうそういない。私もそう。しかも主人公の噺家すら、その難しさに悩んでいるのだから。だから、本書は読者の共感を呼ぶ。

主人公は今昔亭三つ葉。今昔亭小三文門下の二つ目である。ちなみに二つ目とは噺家の階級のこと。「前座見習い」「前座」「二つ目」「真打ち」とあり、三つ葉はプロとして認められた段階だ。ところが、話すことにかけてはプロであるはずの三つ葉は伸び悩んでいる。噺家をなりわいとしていくには芸道の先がみえず、焦る日々を過ごしている。

そんな三つ葉の周りには、不思議なことに話すことが不得手な人が集まる。まずは、いとこの良。彼はドモる癖を持っていて、会話が少し不自由。ドモリがテニスクラブのコーチの仕事にも影響を及ぼしはじめている。

そんなある日、師匠の小三文がカルチャースクールの話し方講座に呼ばれる。付き人として付いて行った三つ葉は、そこで黒猫こと十河を知る。彼女は本音で生きており、その口調は取りつく島もないぐらいに攻撃的。話し方講座とは、話すことが苦手な人の集まりだ。話し方講座を聴講していた良も本気でドモリを治したい、内輪の集まりでよいから、話し方教室を開いてくれといってくる。ならば、と三つ葉はこぢんまりとした落語教室を始める。

落語教室の生徒は四人だ。良と十河、そして近所に住む小学校六年生の少年村林。彼は、関西で育ち最近吉祥寺に越してきた。だが、意地になって関西弁を直さずにいるため、クラスでなじめずにいる。もう一人は湯河原。彼は代打専門の元プロ野球選手として有名な人物。ところが、プロ野球のテレビ中継の解説が全くダメで解説者として崖っぷちに立っている。

生徒の四人が四人とも、しゃべることに劣等感を持っている。それが苦手なあまり、世の中に生きにくさすら感じている。三つ葉は、彼らとの落語教室をほそぼそと開きながら、噺家としての日々も送る。師匠からダメ出しをくらい、二つ目として二人会の舞台を催し高座に上がる。だが、噺家として壁にぶつかり、もだえる日々を過ごしている。

話すことは、本当に難しい。私も自分のこととして深く思う。ここ数年、このままでは自分の人生の可能性を生かし切れない、自分のキャリアパスに活路を開かねばならない、と人前で話す機会を増やしている。私の場合、話し方についての師匠はいない。全てが自分の独学。果たして自分の話し方の成長カーブ学校上向いているのかも分からぬままだ。何しろ、自分の話す内容を動画で残さない限り、反省するすべがないのだから。話すとは、その場限りの一瞬の行いなのだ。

だからこそ、場数を踏まねばならないと思う。場数を踏んで、毎回反省し、反省しながら、少し上達していることに気づく。まれに聴講してくださった方から話がうまいといわれて、そうかといい気になる。だが、しゃべるプロたちが立て板に水を流すように淀みなく登壇しているのを見ると、自分の技術がまだまだであることに気づく。そして、話す技術に到達点はない。それは噺家だって同じことだ。

「良は生徒のことを気にしすぎるんだ。あんたがマイクの前に座って視聴者にビクビクするのと同じだ。俺が高座で客の顔色をうかがうのと同じだ。誰だって好かれたいよな。」(220p)。これは、三つ葉が湯河原に向かって言うセリフだ。結局、好かれようとするあまり、いいたいことが言えなくなる。人にしゃべったことがどう思われるか、どう伝わるか。ここを気にしてしまうとうまく話せなくなる。

本稿を書く数日前、懇意にしているデザイナーの方からこんなセリフを聞いた。「絵を描くとき、自分の理想とする絵が頭にあると、失敗作にしかならない。もう、書き始めたら手に全てを委ねてしまう。それがどうあれ作品なのだ。」と。けだし名言だ。クリエイターとはこうあるべき。

もちろん、それには基礎がいる。基礎があれば、表現した内容には何らかの実が伴う。わたしもそう。もう、人の反応は気にしないことにしてから随分とたつ。その境地に至ってからは、人前で話すことが苦ではなくなった。

私がやるべきなのは、基礎となるべき部分をたゆまずメンテし続けること。それさえ怠らずにおれば、あとは、自分の中身を話すのみ。手に委ねるように、口に委ねてしまう。

とはいえ、その境地にどうやって至るのかは人それぞれだ。四人の生徒がしゃべる苦手を克服するには、時間がかかる。きっかけもいる。三つ葉もそれがわかるので、到達点を示そうと発表会を企画する。話す事が苦手な四人は、噺を暗記しなおかつそれを人前で披露する。これは小さな落語教室にとっては大したことだ。小さいながら、さまざまな悶着があり、四人もそろったり来なかったり、関係もごちゃごちゃしたり。

村林は自分をいじめるクラスメイトに野球で立ち向かい、湯河原に教えを請うたにもかかわらず負ける。でも、村林は落語教室が主催する発表会で「まんじゅうこわい」を披露して喝采をさらう。

成長したのは村林だけではない。落語教室に来ていたそれぞれが、それぞれに自分を見つめる。良も十河も、湯河原も、そして三つ葉も成長する。一年の間でも、人はグッと成長できる。人間が持って生まれた性質は簡単には変えられない。それでも成長はできる。成長する機会は生きていれば雨のように降ってくる。それを受け取るのか縮こまって避けるのか。それが成長につながる。妻の母が言っていた言葉だ。

三つ葉は、古典落語の装いを愛し、たとえモノマネといわれようと、古典落語の伝統を皆に伝えたいと願う。その思いは、三つ葉をライバル一門の白馬師匠の元に赴かせる。普段から自分の芸をネタにけなす白馬師匠でありながら。その思いが、三つ葉の芸の道を一段上に上げる。そして自分の生徒たちが成長する姿を見てさらに。

本書は落語の芸が詳しく書かれる。噺とは地の文とセリフを一人の話者が使い分け、客に面白く伝える芸能だ。

そこに流れる芸の道とは、小説の技術にも通じる。本書もそうだ。端正な地の文にセリフを挟むことで、ストーリーにリズムと変化がつく。勢いがつく。江戸の言葉、上方の言葉。大人の言葉、少年の言葉。男言葉、女言葉。それらが端正な地の文の間にうまく乗っていることで、本書はさらに魅力を放つのだ。

本書を読むと、きっと落語に関心が向く。そして、好きになれるに違いない。本書をよんだ後、私は落語の寄席に行きたくなった。

‘2017/07/27-2017/08/01


球界消滅


私の蔵書を数えたことはここ何年もないが、多分五千冊から一万冊の間だろう。30年以上に亘って蓄え続けてきたのだから、それぐらいにはなるだろう。しかし、その中で署名本となると、多分本書以外にはないかもしれない。

本書は署名本だ。扉に著者のサインが記されている。とはいえ、著者と面識はない。本書は新百合ヶ丘駅ビルの本屋で購入した。著者サイン本と書かれたポップの下、平積みで残っていた一冊が本書だ。ひょっとするとサイン会か何かの残りかもしれない。しかし、サイン本とのポップに惹かれたのもまた事実。著者のことも本書のことも知らないままに本書を購入したのだから。だが、サインだけなら買わなかったことは言うまでもない。題名に惹かれたからこそ本書を手に取った。というよりも、「球界消滅」という題名に興味を惹かれない野球ファンはそうそういないだろう。

惹かれないファンがいたとすれば、それは本書の題名にアンチプロ野球の匂いをかぎ付けたからかも知れない。そう思わせるような題名だ。しかし、本書はアンチプロ野球本ではない。アンチどころか、プロ野球を愛するあまり大胆に未来を提言しているのが本書だ。

本書の主人公は横浜ベイズの副GM大野。彼はチーム改革にセイバーメトリクスの手法を使い、データに基づいたチーム力の強化と効果的な補強に成功する。

しかし、そんな大野の知らぬ間に、球界再編の話が進行する。プロ野球の盟主として自他共に認める東都ジェッツとの合併。東都ジェッツの親会社は東都新聞社。社主の京極四郎の意を受けたのは国際事業室室長の牛島。横浜ベイズの選手やファンの気持ちは無視されたまま、東都ジェッツへの吸収合併は着々と進んでゆく。

降ってわいた合併話に横浜ベイズの選手の士気は落ちる一方。そして東都新聞社による巧みな世論形成により、他のセ・リーグの球団オーナーにとっても合併やむなしの雰囲気が醸成されてゆく。しかし、東都新聞社京極と牛島の描く青写真はさらに上をいく。なんと、12球団を4球団に減らし、メジャーリーグに合流させるというのだからスケールがでかい。

各社の思惑が交わる中、球界はどうなってしまうのかというのが筋だ。

横浜ベイズや東都ジェッツという名前からわかる通り、本書は限りなくモデルに近いチームや個人が想像できる。東都新聞社社主の京極四郎など、まんまナベツネその人だ。他にも楽天監督時代の星野さんを思わせる人物が東北イグレッツ監督として登場する。

ここまで書くならいっそ実名で、と思ってしまいたくもなる。が、それもできないのだろう。だが、モデルが明確なことで、読者は本書のキャラクターたちの容姿を脳裏に描きながら読み進められる。それが本書のキャラクター造形に寄与していることは確かだ。

だが、脇役は誰がモデルでもそれほど問題ない。問題なのは、主人公大野だ。大野のモデルはDeNAの球団社長のあの方に違いない。そんな気がするのは私だけだろうか。今も横浜DeNAベイスターズの球団社長である池田純氏に。

大野はデータ重視野球を進めてチームを改革する一方で、自分の副GMとしてのあり方に飽き足らないものを感じている。それは人情味。彼は合併騒ぎにゆれるチームにあって、能率のデータと人情のプレイの狭間に揺れる。

それは日本プロ野球をどうするかという選択にも通じる。データ重視のアメリカ式ベースボールか、精神論に頼った日本野球か。でも実はその二択すら違っているのではないか。昔と違い盲目的にアメリカ野球の背中を追う時期はとうに終わっている。だからといってアメリカに学ぶものは何もないというほど卓越しているわけでもない。今の日本野球は微妙なバランスの上に立っているともいえる。

一つ、本書から日本プロ野球が学ぶべきものがあるとすれば、企業をバックに付けた球団経営には限界があるということだ。アメリカはオーナーがいるとはいえ、企業色は限りなく薄い。それでいて単一経営で黒字を達成している球団が多い。それは、コミッショナー以下、大リーグ機構自体の努力でもある。大リーグは、少なくとも建前としては日本プロ野球における読売巨人軍のような存在はない。巨人一強で興行が成り立った時代はもう過去の話。本書に出てくる東都ジェッツや東都新聞社の人気に他の球団がぶら下がるような構造にはもはや先行きがない。それは明らかに改めなければならない。

そして著者の視点はより先を見据えている。本書には合併にともなう日本の企業都合のフランチャイズ集約のシミュレーションが登場する。それなど見事なものだ。また、労せずしてメジャーリーガーになれる選手の思惑、家庭の事情など選手それぞれの描きかたもよく取材している。

中でも、本書の結末までの筋運びには唸らされる。一筋縄ではいかないというか。それは果たして著者が実際の日本プロ野球に対して望む未来なのか、またはそうでないか。とても気になるところだ。次回、どこかのサイン会で著者にお見かけすることがあれあ、サイン本はよいので直にお伺いしてみたい。

‘2015/09/18-2015/09/21


また一人昭和30年代の野球を知る方が・・・


8月14日、野球評論家の豊田泰光氏の訃報が飛び込んできました。享年81歳。

豊田氏は昭和30年代のプロ野球を知る上で欠かせない人物です。昭和30年代のプロ野球を語るには西鉄ライオンズは外せません。豊田氏は黄金期の西鉄ライオンズの主軸として必ず名のあがる選手でした。野武士軍団とも称された個性派集団にあって、一層の個性を放っていたのが豊田氏です。

豊田氏の訃報については、球界の様々な方から追悼コメントが寄せられました。中でも長嶋巨人名誉監督からのコメントは、長嶋氏の訃報と読めなくもない見出しがつけられ紛らわしいとの批判を浴びました。

見出し云々はともかくとして、長嶋氏のコメントは、豊田氏の輝かしい現役時を的確に表していると思えます。

「素晴らしい打者でした。巨人が3年連続で西鉄に破れた1956年から58年の日本シリーズでの大活躍は、強く印象に残っています。ご冥福をお祈りします」

見事なコメントですよね。ミスタープロ野球とも言われた長嶋氏にここまで言わしめた豊田氏の実力が伝わってきます。

豊田氏は現役を退いたのち、評論家として活躍しました。私が見た氏は、すでに球界のご意見番としてスポーツニュースの中の人でした。辛口な評論家として立ち位置を作った豊田氏は、その一方で、プロ野球の歴史の伝道師でもありました。過去を知らないプロ野球ファンに、今のプロ野球の隆盛が過去の積み重ねの上にあることを訴え続けました。

豊田氏の業績の一つは、ライオンズ・クラシックです。2008年から2014年まで、豊田氏の監修のもと催されました。在りし日の西鉄ライオンズの栄光を顕彰しつつ、西武ライオンズが確かに西鉄ライオンズの伝統を継ぐ後裔球団であることを宣言する感動的なイベントでした。それは黒い霧事件という残念な事件によって閉ざされた西鉄ライオンズの歴史を掘り起こす作業でもありました。黒い霧事件は西鉄ライオンズの輝かしい歴史に泥を塗ったばかりか、ライオンズの歴史を作ったであろう名投手を球界から葬り去りました。数年前、池永投手の復権はなり、さらにライオンズ・クラシックによって西鉄ライオンズの栄光も復権なったといえます。

私は当時、とてもこのイベントに行きたかったのですが、仕事があって行かれずじまいでした。今年は三連覇の最初の年から60年という節目の年。きっとやってくれるはずと期待していたのですが、豊田氏の訃報によってその願いは霧消しました。それだけにこの度の豊田氏の訃報が残念でなりません。

それにしても、60年もたってしまったのだと思わずにはいられません。赤ちゃんが赤いちゃんちゃんこを着るまでの年月です。長嶋氏のコメントがご自身の訃報と間違えられるほど長嶋氏も老いました。豊田氏もいつの間にか齢80を過ぎていた訳です。気がつけば西鉄ライオンズの黄金期を闘った戦士たちのかなりがあの世へ旅立ちました。

昭和30年代のプロ野球を輝かしいものにした生き証人の皆様が、次々と旅立っていきます。多分、これからも次々と訃報が飛び込んでくることでしょう。昭和30年代のプロ野球を彩った荒武者達が居なくなるに連れ、昭和30年代のプロ野球が我々から遠ざかっていきます。

今までに何度もブログなどで書いてきましたが、私は昭和30年代のプロ野球にとても強い憧れを抱いています。その憧れの対象は、豊田氏を筆頭に野武士軍団として巨人を叩きのめした西鉄ライオンズだけではありません。他のチームにも個性派が揃っていたのが昭和30年代のプロ野球だったように思うのです。

野球がまだ洗練から程遠い荒くれものの集まりによって戦われていた時代。巨人・大鵬・卵焼きと持て囃される前の時代。そして高給取りとして高嶺の花扱いされる前の時代。それは日本が、もはや戦後ではない、と宣言し、右肩上がりする一方の時期に重なります。いわば昭和30年代のプロ野球とは、日本が一番活気あり、伸び盛りだった頃を象徴する存在だったのではないでしょうか。

私がプロ野球をみはじめた時期は1980年代です。甲子園に住んでいた私は、甲子園球場の熱狂も寅キチ達の声援もよく知っています。バックスクリーン三連発に、長崎選手の満塁ホームランに狂喜した阪神ファンです。

でも、何か物足りなかったのですね。阪神タイガースよりも、その戦う相手に。阪神以外のチームがスマート過ぎた、というのは言い過ぎでしょうか。巨人にしてもそう。当時の巨人監督は藤田氏。球界の紳士たる巨人を代弁するかのような紳士キャラでした。阪神が日本シリーズで闘った相手監督は、管理野球でしられる広岡氏でした。皮肉にも野武士軍団の後裔チームは当時黒い霧イメージを払拭するため管理野球に活路を見いだしたわけです。

当時の私にとって、阪神タイガースの敵とは魅力的なキャラでなければならない。そう思っていたのかも知れません。でも敵キャラとしては何か飽きたらない。そう思ったからこそ当時の私は大人向けの高校野球史やプロ野球史を読み耽る小学生となった。ひょっとしたらですが。でも、今思っても難しい本をよく読んでいたと思います。たぶん当時の私にはそこに描かれる個性的な選手達が魅力的に映ったのでしょう。かつてプロ野球の試合とはこれほどまでに魅力的だったのかと。

ひょっとすると私は当時のプロ野球選手たちに武士の憧れを抱いていたのかも知れません。ちょうどいまの子供たちが戦国武将に夢中になるように。

下剋上上等。高卒出の新人投手が神様仏様と持ち上げられる実力主義。分業制が幅をきかせる前の、グラゼニが正しいとされる世界。

私にとって、昭和30年代のプロ野球とはそのような魅力に溢れた世界だったのです。スポーツグラフィックナンバーがまだ二桁の頃の西鉄ライオンズ特集号も持っていたし、ベースボールマガジンが刊行した選手たちの自伝も読み漁りました。ナンバーが出した西鉄ライオンズ銘々伝というビデオももっています。

多分当時の野球は、いまの野球に比べてレベルが低かったことでしょう。それは日米野球の結果を見ても明らかです。しかし、巧さと魅力は似て非なるもの。たしかに今の日本プロ野球は格段にレベルアップしました。その象徴がイチロー選手です。イチロー選手の偉業は、メジャーリーグでの3000本安打達成で不滅となりました。ただただイチロー選手の才能と努力の賜物です。そして、イチロー選手の姿にかつてのプロ野球をしるオールドファンは、野球が輝いていた時代の時めきを感じるのではないでしょうか。イチロー選手を見出だしたのは当時の仰木監督。黄金期の西鉄ライオンズのメンバーです。昭和30年代の個性を重んずるプロ野球の遺伝子は、イチロー選手の中に確かに息づいているはずです。魅力の上にある巧さとして。

そしてイチローの偉業の前に、プロ野球を育て上げた選手たちの戦いの積み重ねがあったことを忘れてはならないと思うのです。それは単なる懐古趣味ではありません。まだプロ野球選手の社会的な地位が低い頃、ただ野球が好きな選手たちによって行われていただけ。でに魅力だけはたっぷり詰まっていたと思うのです。

でも野球の粗野な魅力が失われ、人気スポーツになった時期に起こったのが黒い霧事件です。奇しくも昨年から今年にかけ、あろうことか球界の紳士の巨人軍の内部で発生した賭博事件は、何かの暗示のように思えてなりません。

人によっては60年前の三連覇を、一極集中が進む東京への地方の意地とみる人もいるでしょう。または、かつて西鉄ライオンズを率いた三原監督が自分を追いやった巨人を見返したのと同じ姿をソフトバンクの王会長にみる人もいるかもしれません。しかし私はかつて福岡で猛威を振るった賭博が東京で起こったことに、東京と地方の立場の逆転を感じます。

もし、東京が再び野球でも都市としても日本の盟主でありたいのであれば、昭和30年代のプロ野球から学ぶべきものは多いように思います。水戸出身の豊田氏は辛口にそれをどこから見守っていることでしょう。


死闘 昭和三十七年 阪神タイガース


私が自由にタイムマシンを扱えるようになったら、まず昭和三十年台の野球を見に行きたい。
今までにも同じような事を何度か書いたが、相も変わらずそう思っている。

野武士軍団と謳われた西鉄ライオンズ。親分の下、百万ドルの内野陣と称された南海ホークス。名将西本監督が率いたミサイル打線の大毎。迫力満点の役者が揃った東映フライヤーズ。在阪の二球団も弱かったとはいえ、阪急ブレーブスは後年の黄金期へと雌伏の時期を過ごし、近鉄もパールズからバッファローズへと名を変え模索する時期。

昭和三十年台のプロ野球とは実に個性的だ。

あれ? と思った方はその通り。ここに挙げたのは全てパ・リーグのチーム。

では、セ・リーグは? 昭和三十年台のセ・リーグは、語るに値しないのだろうか。この時期のセ・リーグに見るべきものは何もないとでも? そんなはずはない。でも、この時期の日本シリーズの覇者はパ・リーグのチームが名を連ねる。以下に掲げるのは昭和30年から39年までの日本シリーズのカードだ。

年度    勝者    勝 分 負  敗者
------------------------
昭和30年  巨人(セ)  4   3  南海(パ)
昭和31年  西鉄(パ)  4   2  巨人(セ)
昭和32年  西鉄(パ)  4 1 0  巨人(セ)
昭和33年  西鉄(パ)  4   3  巨人(セ)
昭和34年  南海(パ)  4   0  巨人(セ)
昭和35年  大洋(セ)  4   0  大毎(パ)
昭和36年  巨人(セ)  4   2  南海(パ)
昭和37年  東映(パ)  4 1 2  阪神(セ)
昭和38年  巨人(セ)  4   3  西鉄(パ)
昭和39年  南海(パ)  4   3  阪神(セ)

10年間で見ると、パ・リーグのチームが6度覇を唱えている。中でも昭和31年〜34年にかけては三原西鉄に日本シリーズ3連覇を許し、鶴岡南海には杉浦投手の快投に4連敗を喫している。後世の我々から見ると、この時期のプロ野球の重心は、明らかにパ・リーグにあったと言える。それこそ一昔前に言われたフレーズ「人気のセ、実力のパ」がピッタリはまる年代。いや、むしろ残された逸話の量からすると、人気すらもパ、だったかもしれない。

では、後世の我々がこの時代を表すフレーズとして知る「巨人・大鵬・卵焼き」はどうなのだ、と言われるかもしれない。これは当時、大衆に人気のあった三大娯楽をさす言葉として、よく知られている。

だが、ここで書かれた巨人とは、本書の舞台である昭和37年の巨人には当てはまらない。当てはまるとすれば、それはおそらくONを擁して圧倒的な力でV9を達成した時代の巨人を指しているのではないか。だが、V9前夜のセ・リーグは、まだ巨人以外のチームにも勝機が見込める群雄割拠の時期だった。この時期、セ・リーグを制したチームは巨人だけではない。三原魔術が冴え渡った大洋ホエールズの優勝は昭和35年。結果として大洋ホエールズが頂点に立った訳だが、一年を通して全チームに優勝の可能性があったと言われており、当時のセ・リーグの戦力均衡がそのままペナントレースに当てはまっていたと言える。

この時期にセ・リーグを制したチームはもう1チームある。それが、本書の主役である阪神タイガースだ。昭和37年と39年の2度セ・リーグを制した事からも、当時のタイガースはセ・リーグでも強豪チームだったと言える。

本書は1度目の優勝を果たした昭和37年のペナントレースを阪神タイガースの視点で克明に追う。この年のタイガースはプロ野球史に名を残す二枚看板を抜きにして語れない。小山正明氏と故村山実氏。二人の絶対的なエースがフル稼働した年として特筆される。

当時のタイガースの先発投手は、この二人を軸とし、藤本監督によって組み上げられていたことはよく知られている。今も言われる先発ローテーションとは、この年のタイガースが発祥という説もあるほどだ。

本書はキャンプからはじまり、ペナントレースの推移を日々書き進める。いかにして、藤本監督が二枚看板を軸にしたローテーションを確立するに至ったのか。二枚看板のような絶対的な力はないとは言え、それ以外の投手も決して見劣りしない戦績を残していた。そういった豊富な投手陣をいかにしてやり繰りし、勝ち切るローテーションを作り上げるか。そういった藤本監督の用兵の妙だけでも本書の内容は興味深い。

また、この時期のタイガースは投手を支える野手陣も語る題材に事欠かない。試合前の守備練習だけでもカネを払う価値があったとされるこの時期のタイガースの内野陣。一塁藤本、二塁鎌田、遊撃吉田、三塁三宅。遊撃吉田選手は今牛若との異名をとるほどの守備の名手として今に伝わる。今はムッシュとの異名のほうが有名だが。その吉田選手を中心に配した内野守備網はまさに鉄壁の内野陣と呼ばれた。打撃こそ迫力に欠けていたにせよ、それを補って余りある守備力が昭和37年のタイガースの特徴だった。藤本監督の用兵も自然と投手・守備偏重となるというものだ。

と、ここまでは野球史を読めばなんとなく読み解ける。

本書は昭和37年のセ・リーグペナントレースをより詳細に分解する。そして、読者は概要の野球史では知りえない野球の奥深さを知ることになる。本書では名手吉田のエラーで落とした試合や二枚看板がK.O.された試合も紹介されている。鉄壁の内野陣、二枚看板にも完璧ではなかったということだろう。後世の我々はキャッチフレーズを信じ込み、神格化してしまいがちだ。だが、今牛若だってエラーもするし、針の穴を通すコントロールもたまには破綻する。本書のような日々の試合の描写から見えてくる野球史は確かにある。それも本書の良さといえよう。日々の試合経過を細かく追った著者の労は報われている。

また、他チームの状況が具に書かれていることも本書の良い点だ。先にこの時期の巨人軍が決して常勝チームではなかったと書いた。原因の一つはON砲がまだ備わっていなかった事もある。しかし、昭和37年とは王選手のO砲が覚醒した年でもあるのだ。王選手といえば一本足打法。それが初めて実戦で披露されたのが昭和37年である。以降、打撃に開眼した王選手の打棒の威力は言うまでもない。ON砲が揃った巨人軍の打棒にもかかわらず昭和39年にも優勝したタイガースはもっと認められて然るべき。が、昭和40年代の大半、セ・リーグの他のチームは巨人の前に屈し続けることになる。

その前兆が本書では解き明かされている。ON砲の完成もその一つ。また、阪神タイガースの鉄壁の守備網にほころびが見え始めるのも昭和37年だ。鉄壁の内野陣の一角を成し、当時のプロ野球記録だった連続イニング出場記録を更新し続けていた三宅選手の目に練習中のボールがぶつかったのだ。それによって、三宅選手が内野陣から姿を消すことになるのも昭和37年。また、不可抗力とはいえボールをぶつけてしまった小山投手も、翌昭和38年暮れに世紀のトレードと言われた大毎山内選手と入れ替わって阪神を去る事になる。つまり三宅選手の離脱は、すなわち二枚看板の瓦解に繋がることになったのだ。本書でも小山投手と村山投手の間に漂う微妙な空気を何度も取り上げている。両雄並び立たずとでもいうかのように。

なお、本書ではペナントレースの後始末とも言える日本シリーズにはそれほど紙数を割かない。が、その後の阪神タイガースを予感させるエピソードが紹介されている。それは相手の東映フライヤーズの水原監督に対する私情だ。先に日本シリーズで西鉄ライオンズが巨人を三年連続して破った事は書いた。球界屈指の好敵手であった三原監督に三年連続して負けた水原監督は、さらに翌年の日本シリーズで鶴岡南海に4タテを食らわされることになる。さらには昭和35年のペナントレースでセ・リーグに戻ってきた三原監督の大洋によってセ・リーグの覇権を奪われることになる。それによって巨人監督を追われる形となった水原監督が東映フライヤーズの監督となり、ようやくパ・リーグを制したのがこの年だ。そして、水原監督が巨人選手の頃の監督だったのが阪神藤本監督。水原監督を男にしてやりたいという藤本監督の温情があったのではないか、と著者はインタビューから推測する。

そういった人間関係でのゴタゴタはその後の阪神タイガースを語るには欠かせない。その事を濃厚に予感させつつ、著者は筆を置く。昭和37年の紹介にとどまらず、その後のセ・リーグの趨勢も予感させながら。

昭和40年からのプロ野球は、それこそ巨人・大鵬・卵焼きの通り、巨人の独り勝ちとなってしまう。だが、そこに理由が無かったわけではない。それなりの出来事があり、その結果がV9なのだ。その前兆こそが、本書で描かれた昭和37年のペナントレースにあること。これを著者は描いている。本書は昭和37年のペナントレースについての書であるが、実は巨人V9の原因を見事なまでに解き明かした書でもあるのだ。

本書は日本プロ野球史のエポックをより深く掘り下げた書としてより知られるべきであり、実りある記録書として残されるべきと思う。

‘2015/7/27-2015/7/30


南海ホークスがあったころ―野球ファンとパ・リーグの文化史


甲子園球場に浜風が吹けば、場内アナウンスが聞こえる。そんな至近距離に私の実家はある。20代半ばで東京に出るまで、大半の年月を実家で過ごした私にとって、プロ野球とは阪神と同義であった。

阪神ファンにとって、憎き相手は巨人。阪神ファンにとって、これは常識。子供の頃からさんざん刷り込まれる。

ところが、子供の頃の私にとって、巨人よりも嫌いな球団があった。それは南海ホークス。

我が甲子園球場至近の小学校にも、迫害をものともせず、巨人ファンを貫く連中がいた。ある時、巨人ファンの友人と応援するチームのことでやり合った。確か1984年、甲子園が日本一に酔う前の年の事である。詳細な内容は忘れてしまったが、彼に対し、「巨人は嫌いやけど、南海の方がもっと嫌いや」と言い返したことがある。

当時の私の心を思い返すと、巨人ファンの彼に対するおもねりもあったとは思う。ただ、そのころの私にとって、また、甲子園付近の住民にとって、南海ホークスとはこのような扱いであった。小学生の頃から野球史が好きで、大人向けの野球史の本を読んでいた私。南海ホークスのかつての栄光を知らなかった訳ではない。それでも、80年代の南海ホークスは、私にとってくすんだ存在でしかなかった。

本書は、南海ホークス球団の歩みを軸に、野球ファンと球団の関わり合いに焦点を当てている。南海ホークスと言えば、鶴岡監督という個性の下、100万ドルの内野陣を形成し、プロ野球の歴史に確かな足跡を残している。私が思うに、間違いなく歴代最強チームの一つだろう。だが、本書ではプレーヤーの偉業やそれぞれの紹介にはそれほどページを割いていない。野村監督ですら現役時代のエピソードはささやき戦術や月見草の語りが登場するのみである。むしろ、ユニフォーム変更などといったファンサービスの実践者として、また、引退後の解説者、執筆者としての露出についての方が多く取り上げられている。ドカベン香川選手もわずかな登場のみである。

このように、本書ではあくまで南海ホークスという球団とファンとの関わり合いを中心に据え、プロ野球ファンの生態史の分析を主眼としている。もちろん、御堂筋パレードには紙数も割かれているし、ダイエーへの身売りにも筆を費やしているが、それは球団とファンの関わりを語る上で欠かせないから。それに反して、プロ野球史では避けて通れない2リーグ分裂のごたごたにはそれほど触れていない。それよりも、当初のパ・リーグの旗振り役であった毎日の離脱による、マスコミ露出の激減と、それによるパ・リーグの長期人気低落の原因分析に重きが置かれている。

また、本書では野球ファンの応援史としての記述も充実している。早慶戦の応援スタイルから始まり、トランペットや鉦や太鼓の応援スタイル。果ては広島ファンが発祥とされているジェット風船から、甲子園の応援スタイルへと話題は膨らむ。大変興味深い一節である。

本書の分析はさらに続く。私の嫌っていた80年代の南海ホークスが、懸命のファン獲得への努力を行っていたこと。ホークスを応援し続けるファンの願いをよそに、身売りされるまでの経緯。そして、南海亡き後のファンが、どのように心の整理をつけたかにも分析の幅は広がる。甲子園の超人気チームの陰で、これほどの悲哀のドラマが繰り広げられていたことに、私は胸を衝かれた。

そして終章では、福岡に移ったダイエーホークスが、どのようにして集客力を高めていったかについて、様々な角度から考察を重ねる。ダイエーという巨大小売業の物量作戦と、西鉄移転後にプロ野球が渇望されていたという利点はあったとはいえ、見事にファンの心をつかんだダイエーホークスの姿に、今後のプロ野球とファンの関係を託し、本書は幕を閉じる。

その後、私が大阪球場に行くことは遂になかった。千里山にある大学に通っていた頃、よく難波で飲んでいた。行こうと思えば行けたが、遂に行かなかった。一度だけ足を踏み入れたのは、友人と難波WINSに行った時のこと。既に住宅展示場と化していたその場所は、もはや球場ではなく、私の好奇心の慰みものとなっただけであった。1998年、取り壊し開始。

私がようやく難波パークスにある南海ホークスメモリアル施設を訪れたのは、2012年の夏のことである。訪問前から聞いていたが、野村捕手・監督の紹介が露骨なまでに抹消されている施設。野村選手側の要望によるものとはいえ、「哀しい」の一言である。

本書は熱烈なホークスファンであった著者二人によるものである。合間に著者二人による一編ずつのエッセイが挿入されている。本書内の冷静な筆致とは違い、ホークスファンとしての心の叫びが赤裸々に記されており、本書に素晴らしいアクセントを加えている。その一編は、南海ホークスメモリアル施設が出来る前に書かれたと思われる。その中に、ホークス記念館の実現を熱く訴えている下りがある。南海ホークスメモリアル施設は実はそのエッセイによって実現したのではないかとまで思える一編である。いつの日か、野村選手が南海ホークスメモリアル施設に紹介されることを願わずにはいられない。

奇しくも、私が本書を読み終え、本稿に手を付けるまでの間に、水島新司さんの「あぶさん」の連載最終話が発売された。縁を感じる出来事である。しかし、これで南海ホークスの物語が終わる訳ではないと思いたい。不当に南海ホークスを貶めていた少年時代の私。彼への懺悔の意図もこめ、南海ホークスという球団の物語が、大阪に今も息づいていることを、何らかの形で再び確認しに行きたいと思う。

’14/01/25-14/01/30


国鉄スワローズ1950‐1964―400勝投手と愛すべき万年Bクラス球団


プロ野球史に興味を持つものとしては、国鉄スワローズの名前は避けては通れない。国とプロ野球という今では考えられない組み合わせもさることながら、400勝金田投手の名前が残る限り、必ず言及されるからである。

晩年こそ名球会会長を追われる形で辞任したことで、選手時代に天皇と呼ばれた傍若無人ぶりがクローズアップされたが、本書を読む限りではたとえ万年B級と揶揄されながらも金田投手が国鉄球団に抱いていた愛着がうかがえる。

国鉄の労使一体となった球団への応援体制や、日本野球草創期からの国鉄と野球のかかわりなど、その膨大な調査結果には頭のさがる思いである。新書と軽んじてはならぬ内容の充実ぶりは、野球ファンだけでなく、鉄道好き、経済や企業文化好きにとっても得るものが多いと思われる。

こういった球団の存在があってこその今のプロ野球の隆盛なのだが、扱いとしては誠にさびしい限りである。

最近西武ライオンズが前身である西鉄ライオンズへのリスペクトを打ち出しているが、ヤクルトスワローズも国鉄スワローズに対して何かやってくれないだろうか。

’12/3/1-’12/3/1