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ウォンカとチョコレート工場のはじまり


年末の30日に家族で四人揃って本作を見た。

うちの家族は、昔から『チャーリーとチョコレート工場』が好きだ。
私も何度も観た。おそらく、4、5回は。

私の経験を踏まえて本作についてのレビューを本稿にまとめた。
絶賛上映中なので、本稿ではまだ観ていない方の興を削がないように配慮する。
配慮するつもりだが、本作の内容について語るので、本稿のつづきは劇場で観てから読んだ方が良いと思う。
本作は『チャーリーとチョコレート工場』の世界観を踏襲し、ウィリー・ウォンカがチョコレート工場を作るまでを描いている。

なお、本作を観た後、家族で1971年に公開された映画『夢のチョコレート工場』も観た。
『夢のチョコレート工場』は原作者のロアルド・ダールが存命中に公開されたため、原作の世界観を踏襲しているのは明らかだ。
『チャーリーとチョコレート工場』は『夢のチョコレート工場』とシナリオや登場人物がほぼ同じ。正統なリメイク版として『チャーリーとチョコレート工場』がある。ただし、リメイクにあたってはいくつかの設定が変更されている。
それを踏まえ、本稿ではジョニー・デップがウィリー・ウォンカを演じた『チャーリーとチョコレート工場』とジーン・ワイルダーがウィリー・ウォンカを演じた『夢のチョコレート工場』の違いにも言及する。

大きく設定が変更されているのはウンパルンパの扱いだ。
『夢のチョコレート工場』では、鮮やかなオレンジ色の顔に緑色の髪がウンパルンパの外見的な特徴として描かれていた。ウンパルンパのテーマを歌いながら踊る姿はとてもコミカル。
「ウンパルンパ ドゥンパティ ドゥ♪」とうたいながら踊るさまはまさに愛すべきキャラクターだ。

ところが、『チャーリーとチョコレート工場』でディープ・ロイが演じたウンパルンパのイメージは一新されている。最新技術を使って約160名の全員が同じ顔で踊るインパクトもさることながら、その踊りと歌に込められたブラックなシニカルさが洗練され、映画のインパクトに華を添えていた。
『夢のチョコレート工場』の素朴なウンパルンパが『チャーリーとチョコレート工場』の洗練されたウンパルンパに変わることで、ブラックな面白さがより強調されていたように思う。

本作のいくつかの設定、特にウンパルンパの外観は『チャーリーとチョコレート工場』より『夢のチョコレート工場』に近い。
つまり、原作者が想定していた世界観により忠実だと思う。

本作でヒュー・グラントが演じるウンパルンパも、登場シーンでウンパルンパのテーマを歌い踊る。鮮やかなオレンジ色の顔に緑色の髪を持つより原作のイメージに近い外見で。

本作に登場するウンパルンパは、ほぼヒュー・グラントによる一人のみだ。
160名のウンパルンパのインパクトには劣るが、ヒュー・グラントがもともと持っているシニカルでブラックなユーモアがうまく活かされていて、それが面白さになっていたと思う。
とても素晴らしいウンパルンパの再解釈だと思う。

ただし、本作にはブラックでシニカルな原作の良さがあまり感じられなかった。ヒュー・グラントが扮するウンパルンパだけがそれを体現していたように思う。
むしろ、ブラックでシニカルなユーモアを体現していたのが、『チャーリーとチョコレート工場』ではウィリー・ウォンカで、ウンパルンパは無表情で歌い踊ってウィリー・ウォンカのブラックな側面を強調していた。本作ではウィリー・ウォンカからブラックでシニカルな部分が姿を消し、その点を受けついだのがウンパルンパだったともいえる。

『夢のチョコレート工場』と『チャーリーとチョコレート工場』には、善と悪といったわかりやすい構図がない。むしろ、主人公のウィリー・ウォンカのつかみどころのなさこそが、作品全体の特色だ。
ウィリー・ウォンカは何を考え、登場人物はどこに連れて行かれるのか。そこにドラマの興味は絞られていた。

ところが、ティモシー・シャラメが演じる本作のウィリー・ウォンカは夢をもち、希望を語り、マジカルな能力とそこから作り出す魔法のチョコを使って人々を魅了する善人として描かれている。
カルテルを組んで街のチョコレート流通を支配し、ウィリー・ウォンカを抹殺しようとする三人組やチョコレートで三人組に籠絡される悪辣警察署長が悪で、それに対するウィリー・ウォンカという構図。そのため、ブラックでシニカルな面白さが善と悪の二元構造によって薄められてしまっており、原作の持つ面白さを体現していたのがウンパルンパのみだったのが残念な点だ。

ただ、本作の悪役陣はどこか憎めない存在として描かれていた。例えば本作では、悪役たちも歌い踊る。
『夢のチョコレート工場』と『チャーリーとチョコレート工場』の違いは、ウンパルンパ以外の登場人物も歌って踊る点だ。
本作は登場人物たちも歌って踊る。その点でも『夢のチョコレート工場』に回帰していたように思う。

悪役たちにもスポットライトを当てていて、特に登場する度に太っていく悪辣警察署長はコミカルの極み。
また、ウィリー・ウォンカを始めとする6人を契約の罠で閉じ込め、洗濯部屋でこき使うミセス・スクラビットとプリーチャーも憎めない悪役として描かれている。

登場人物の肌の色も含め、本作の善と悪も二元的に描かれてはいるものの、総じてなるべく多様性を配慮した作りになっている。

ただし、原作の世界観に忠実なのが本作であるものの、原作に合った肝であるブラックでシニカルな面白さが欠けている以上、その点で私は辛い点をつける。

ついでに言うと、ウィリー・ウォンカが持つマジカルなチョコレート作りの秘密こそが本作でも大きな興味を抱く点だったにもかかわらず、その能力をどこで手に入れたのかが描かれておらず、これも物足りなさを感じた点だ。
ひょっとしたら、ウィリー・ウォンカがそうした能力を身に付けていくいきさつだけでも一本物の映画が作れるのかもしれない。が、できれば本作でもそのあたりがもっと描かれていたらよかったのに、と思った。

ただ、それだと本作について辛く言うだけで終わってしまう。ここで、本作の良さを取り上げたい。
本作はチョコレートと言う誰もが憧れる夢の食材をマジカルに描き、それをミュージカルが持つ音楽の楽しさに乗せたことが魅力になっている。ブラックかつシニカルなユーモアは本作では強調されていないと割り切ったほうがよい。
つまり、原作がどうとか『夢のチョコレート工場』と『チャーリーとチョコレート工場』との違いや受け継ぎ方をあげつらうことは本作を鑑賞する上ではむしろ邪魔だ。
本作は独立した作品として観ることで、楽しい余韻だけを感じた方がよいと思う。
なお、チョコレートがきっと食べたくなるはず。

‘2023/12/30 109シネマズグランベリーパーク


僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?


会社立ち上げに向け、理想は高く持ちたかった。業績よりも理念が前のめりになっていることは自覚した上で。なにしろまだ法人化して最初の決算も経ていないのだから。しかし、理想なき法人化はしたくないと思っていた。

理想は色々抱いている。そのうちの一つは社風の構築である。社風といっても漠然としている。が、あえてここに書くとすれば、従業員を大切にすること。そういった社風は是非とも浸透させたいと思っている。IT業界では、請負作業にあたって、労働力を人月幾らと換算することが商慣習となっている。業界歴が長いと、そのような商慣習に染まってしまう。人月幾ら=一山幾ら、という果物屋の店先のみかんのような扱い。労働者を一山幾らとみなす算出方法には、とても違和感を持っていた。私が目指す企業の理想は、労働者を使い捨てにせず、わが社を離れた後でもその人が人生を全うできるよう、わが社での経験が活かせるような社でありたい、ということ。そのためにも社風の構築は欠かせない。

そういった社風を目指したいと思った理由はもちろんある。それは私が、かつて名の知れたブラック企業にいた経験から来ている。また、IT業界に長くいるとプロジェクト完遂、納品最優先の圧力にさらされることになる。もちろん、契約がある以上、プロジェクトを納期通りに収めるのは当然のことだ。しかし、納期を優先するあまり、納品優先を錦の御旗とし、技術者の体調を顧みないことが美徳とされ、帰宅できないことが美談として語られる状況がまかり通っている。納期を守るには、当初の作業量をきちんと見積もれるだけの実力を付けるしかない。見積りが甘いから、あとから人を足さねばやり切れなくなる。

恐らく私は、ブラック耐性の高い部類に入るだろうと自負している。だからといってブラック職場万歳ではない。若い時分にはそういう現場に身を置くことも必要と思う。しかし、それが一生続くとなると話は別だ。私にとって、ブラックな環境そのものが嫌というよりは、一生ブラック環境に身を置くことで人生の他の可能性が犠牲になることが耐え難い。私の興味範囲は広く、そして時間は有限だ。ブラック環境で人生の可能性を犠牲にする訳にはいかない。一度しかない人生の時間の使い方として一生を滅私奉公で終始することは果たして正しいのか。私の迷いは尽きなかった。そして、私の人生訓の一つとして挙げられるのが、「自分がして欲しくない事は他人にもしない」ことだ。私がブラック環境で使われるのが嫌であれば、私の下で働く従業員にもブラック環境を強いない。至極当たり前のことである。

本書は、今の労働者諸君の働き方に疑問を呈し、新しい働き方を提示せんと試みている。そもそもどうやって労働者の給与は定められているか。そのことについて本書は丁寧に説き明かす。そのベースはカール・マルクスの著した資本論。言わずと知れた、世界の歴史にも影響を与えた名著だ。

人間の持つ物欲ばかりか、向上欲までも平等の名の下に抑圧する共産主義は、歴史的にすでに経済制度として適さないとの審判が下された。少なくとも私はそう思っている。だが、マルクスによる資本論の前提となった徹底的な資本主義の分析に対し、今の資本主義は有効な回答を返し得たか? 実はまだ見いだし得ていないと思う。そして、それが今の経済システムの限界だとも思っている。今の資本主義は、その矛盾を孕んだまま、労働者から最大限労働力を搾り取る解決策がまだ大手を振って通用している。それが批判されると、解決策としてはA.Iやドローン、自動運転などの情報技術によって労働力を補い、矛盾の解決を図ろうとしているかに見える。だが、それで果たして労働者は幸せになりうるか。私は甚だ疑問に思う。

マルクスは、資本論の結論として共産主義を提唱するにあたり、資本主義を徹底的に分析した。その分析は現代の労働者の働き方を考える上で有効である。そのように著者は説く。そしてその考えに基づき、本書は論じられる。

私自身、労働者として働くことの矛盾から逃れるため、個人事業主の道を選んだ。だが法人化にあたっては、人を雇うことも考えねばならない。独立によって経済システムの矛盾を避けたはずが、経営者として改めて資本主義の矛盾に直面する必要に迫られている。

そのためにも、本書の解説は参考になった。まず、記述が平易なのがいい。易しく説いてくれているため、理解も進む。私は実は資本論は概説でしか知らず、原典にきちんと向き合ったことはない。しかし、本書はポイントを絞って解説してくれる。使用価値と価値の違い。商品の値段は価値を基準に決まり、そこには価値を作り上げるための労力の総量があること。労働力は、労働者が提供できる商品であること。そして労働力には、労働力を提供するための価値(スキル、経験、家庭での安らぎ、エトセトラ)の総量が含まれること。そのため、スキルが高い労働者の価値は高く、家族を養うための経費すらも労働力の価値の源泉と見なされること。企業が労働者に支払う給料は、企業の業績にとって有益な労働力を継続的に維持するための代価であること。娯楽までもが、労働力=価値のための源泉とみなされていること。労働者にとっては、余暇すらも労働力を維持するための費用として見なされていること。従って、年齢とともに給与が上がるのは、仕事をするための価値の総量が増えるから。

これらの原則に対し、心情から抵抗を感じる方もいるだろう。私もそうだった。私の余暇は自分のためであり、会社の為ではない、と。

だが、本書はいう。年収一千万になったところで生活に余裕がでないのは、今の給与体系が労働力の価値を再充填するための余暇や、労働力を提供できなくなった後の生活費まで考慮されていないため、と。

本書はそこから逃れるための処方箋が載っている。

その前に本書は利益のからくりにページを割く。つまり、企業は原材料に労働者によって産み出された価値を載せる。その価値は、原材料が増えれば同じく増える。しかし、原材料が増えても労働者が自分の労働価値を産み出すために必要な給料はそれほど変わらない。従ってその差額が企業にとっての利益となる。

労働者が自らの労働力の源泉を稼ぐための時間を必要労働時間といい、企業の利益を出すための時間を剰余労働時間という。この辺りの定義は私も資本論の解説書で学んだ記憶がある。しかし、私は詳細を忘れており、おさらいにはちょうどよい。また、技術革新により日用品が安くなり、その分、必要労働時間がへった差分を相対的剰余価値といい、企業自身の経営努力よって原材料から製品への加工費を安くあげた場合の差額を絶対的剰余価値と呼ぶ。これらも私自身が本書を読んで思い出した概念だ。

労働者が頑張って技術は向上する。しかし賃金は常に世の中一般の生活費に合わせられるため、努力してもどんぐりの背比べ。結局賃金は平衡する。これも分かる。

努力しても全体の利益だけでなく自分の利益も失われる囚人のジレンマ。つまりは本書の帯にあるようなラットレース。そこから脱け出すために何をすべきか。本書ではロバート・キヨサキ著「金持ち父さん貧乏父さん」が何度か取り上げられる。「金持ち父さん貧乏父さん」の結論は、不労所得を得ること。不労所得によってラットレースから逃れましょうと推奨されている。しかし不労所得を得るには、すでに先駆者達によってかなりの旨みが吸い上げられ、後発の参入者には高い壁が築かれてしまった。なので、それが一般の労働者には難易度の高い方法であることを承知の上で、著者は「労力をかけずに、高い給料をもらう」ことを薦める。

つまり、労働力という商品を、どうすれば高く買ってもらえるのか?

著者は、「労働力の使用価値」より「労働力の価値」を先に高めることに答えを見いだす。労働力の価値とは、積み上げによってのみ上がるもの。例え残業や瞬間最大風速的な努力をしたところで、それは労働を提供するための使用価値として賃金に吸収されてしまう、と著者はいう。

式に直すと、
年収・昇進から得られる満足感-必要経費(肉体的・時間的労力や精神的苦痛)=自己内利益、となる。

この自己内利益には損益分岐点がある。損益分岐点とは幸福感と不幸感の境目とでも言おうか。いくら収入を増やしたところで、労働で疲れ果てていれば幸福とは言えまい。また、時間をたっぷり持っていたところで財布の中身が軽ければ、幸福とは言えまい。そのように、幸せを自覚する損益分岐点は変動すると著者はいう。これはダニエル・カーネマン教授の研究成果として良く知られている。こちらの記事には本書の著者もコメンテイターとして登場している。おそらくは本書のこの下りは、カーネマン教授の研究成果も下敷きにしているのだろう。

結論として著者はいう。自己内利益をあげるためには、収入を増やすか支出を減らすしかない。支出を減らすには、労働力の源泉となる経費を下げること。経費を掛けないためには、仕事によって失うエネルギーを減らせばよい。中でも精神的苦痛を減らせれば、失うエネルギーも減らせるので、必要経費も減らせるはず、という理屈だ。そのために著者は世間相場よりストレスを感じない仕事を推奨する。それは、得意な仕事でも、好きな仕事でもない。なによりもストレスを感じない仕事。ストレスを感じなければ回復のための必要経費も減らせるということだ。

もう一つ、収入を増やすためには、積み上げによるスキルアップが有効と説く。しかし、普通に仕事をしていたのでは、積み上げは容易ではない。著者は、労働力を「消費」するのではなく「投資」することが大事とする。これは平たくいえば、普段の仕事に目的意識をもち、自分の積み上げの材料とする、ということだろう。また、長期的な資産を作る仕事に目を向けるべき、ともいう。言い換えれば、漫然と目の前の仕事をこなすのではなく、その仕事をこなすことで自分自身のレベルアップを図るということだろう。

ヨーロッパの人々にとって、仕事の反対は遊びだという。仕事の反対は休みではない。それだと、休日に労働力を取り戻すために寝て過ごすしかなくなる。日本人は総じて余暇の過ごし方が下手と言われる。休みの日にはのんべんだらりと休み、遊ぶことをしなかったのが今までの日本人であった。しかし自分の労働価値を上げるためには、休む替わりに自分を成長させることのできる遊びによって、積み上げを行うことが必要と著者は説く。自分の時間を休みという消費ではなく遊びという投資に使うことができれば、労働価値も上がり、収入の積み上げも実現できるはず、というのが著者の主張だ。

休日に休むくらいなら観光や旅行、読書、映画、博物館に行くというライフスタイル。それは私が社会人になってからずっと無意識にしてきたこと。なので、著者の主張はよく分かる。むしろ、本書によって私がしてきたことの意味を裏付けられたほどだ。それまでの私は、単に休日に休んで過ごすのはもったいないという意識だけで動いていた。しかし本書を読むことで、その行為は実は自分への投資となっていたことが自覚できた。

そんな訳で、実をいうと本書の結論に対し私は拍子抜けした。驚きもなく、感動もなかった。本書から目から鱗とは言わなくても、所得倍増または遊びの時間確保のための参考になる案を得られると期待していたから。しかし、冷静に考えてみるとそんな名案はおいそれと出てくるわけがない。そして、前向きに受け取ると、本書によって私の生活スタイルのお墨付きを得られたともいえる。昔から帰宅してもテレビには見向きしない生活だった。一時はまりかけたが、今はスマホゲームも遠ざけた。替わりに、昔から時間があれば読書をすることが多かった。本書から得られたのはそういったライフスタイルへのお墨付きである。

ここに至り、私が社風として育てねばならぬことも見えてきた。それは遊びの風潮である、実際にIT企業でも一流になればなるほど仕事に遊びを取り入れる例は良く耳にする。Googleなどはその良い例だ。今まで私は、それは社員が仕事のひらめきに必要な想像力の源泉を豊かにするため、と考えていた。しかしそれだけではないのだ。社員をラットレースに巻き込み、仕事仕事と追い込んだところで、出てくる利潤は、所詮は切り詰めた絞りかすのようなものでしかない。社員のレベルアップは望めず、業績の向上にも繋がらないだろう。それでわが社だけが仮に儲かったとしても、私自身はそれで幸せになれない。青いと云われようが、理想論と罵られようが、社員とわが社が幸福な繋がりで仕事をすることこそが、私が会社を作った意義だと思える。本書で得た知見は、是非社員にも伝え、今後そういった社風の構築に活かしていきたいと思った。

‘2015/4/8-2015/4/10