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ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー


次女のリクエストで見に行ってきた!
とても面白かった!

私はマリオブラザーズの世代だ。
初代のファミコンが出た時は、小学三年生だった。マリオブラザーズでボコンボコンとブロックを突き上げて遊んでいた。
スーパーマリオブラザーズが出たのは小学五年生の時だったように思う。もう、何回カセットを差し込み、何回電源を入れたか、思い出せないくらい遊んだ。
スーパーマリオブラザーズは何回もクリアした。階段でノコノコを蹴飛ばし続ける無限1upは私たちの世代体験の上位に入る技だった。旗の向こうに飛び越えられる裏技は、とうとう実現できなかったとはいえ、何度もチャレンジした記憶がある。
1-1から8-4までの速解きに血道を上げ、ノートにビット絵を描いては、想像をたくましくしていた。

そんな世代の私が、本作に興味を惹かれるのはもはや宿命。
作中でマリオや他の登場人物がプレイするビデオゲームには、当時のゲームに夢中になった気持ちを思い出させられた。
樽をハンマーで壊しながら鉄骨を駆け上がるドンキーコングはゲーム&ウォッチの頃からの付き合いだ。本作の中でふてくされたマリオが自室でプレイしていた、天使が矢を放つゲームは確かパルテナの鏡だったはず。

マリオが生まれた頃のゲームにも敬意を払っているのは、とてもうれしい。本作の製作陣の配慮に心が動かされた。
時はファミコン創世記。ゲームの世界は子どもだった私に無限の可能性を見せてくれた。

と、ここまで書いたが、私とマリオのお付き合いはそこで途切れる。
スーパーファミコンで出たスーパーマリオワールドあたりまではプレイしたことを覚えているが、それ以降のマリオはあまり記憶がない。マリオカートもどこかで一、二回ほどプレイしたきりだ。次々と登場するマリオシリーズとは疎遠の日々が続いていた。
大人になり、個人事業主としての道を歩んで以降は、ゲームからは足を洗ってしまった。
今もたまにゲームはするが、すぐに終わる簡単なパズルゲームくらいだ。

本作は、そんな私を瞬時に小学生の頃に引き戻してくれた。
かつて私が遊んだ平板な二次元の世界でなく、奥行きのある世界で。

今回、家族で見たのは吹き替えの2D版だった。そのため、より深い没入体験が期待できる3Dではなかった。
が、それでも小学生の頃の貧弱なグラフィックから比べると、圧倒的なほどの映像体験だ。

もちろん、メタバースをはじめ、実写と区別できないレベルに到達した昨今のコンピューターグラフィックの威力は知っている。
そもそも、プロンプトを打つだけで人工知能が勝手に実写と思わせるほどのイラストを描いてくれる時代だ。
本作で描かれた世界がいくら美しかろうと、それだけで心は動かされない。

本作は、私たちが育ったマリオのゲーム世界が、血肉すら感じさせるメタバースのような世界として体験できたことに意義がある。
私たちがかつて経験したゲームの世界は、あくまでも私たちの操作一つだけにかかっていた。カセットを差し込み、電源を入れ、リセットボタンで最初からやり直せる世界。手元の両親指の操作で完全に操れた世界。
それが、本作ではルイージやマリオやピーチ姫やクリボーやキノピオなど、キャラクターが自立し、意志を持っている。
そうしたキャラクターに個性が感じられたことこそが、40年近い年月に人類が成し遂げた高みを感じさせてくれた。

マリオとルイージが配管工だった設定も、本作をみて思い出した。同じように、実はマリオブラザーズの二人はブルックリンで育っていたのだ。子供のころは見過ごしていたディテールを、大人になってようやく理解したような気持ちだ。

はじめは敵キャラだったドンキーコングがドンキーコングの算数遊びの主役になっていたように、私がゲームから離れた後に登場したマリオカートではクッパ大王は仲間扱いされていた。
そういうキャラクターたちの変化と成長を見届けられず、私がゲームから遠ざかった年月の長かったこと。
その間に、私は自分が少年であったことをあれほど思い続けていたのに、ここ数年でかつての少年の心も失ってしまった。

小学校三年生に初代のマリオをプレイした私たちの世代は、大学を出て社会に入るころ、インターネットの洗礼を浴びた。そして、情報の在り方や交流の意味が変わっていく様子を自分たちの世代体験として経験してきた。
そして今や、人工知能がもたらす脅威と驚異だ。
メタバースで体験するアバターを通したコミュニケーション体験。それは、私たちに違うコミュニケーションの可能性を見せてくれた。本作では私たちが知っているキャラクターたちが個性のあるキャラクターとなって具現化したことで、私たちが経験した価値の転換が、ゲームでも実現されたような感慨を抱かせる。

もう、今後にどのような体験ができても驚くことは減るはず。
自分が操作するブラウン管の向こうの平板な世界が、五感で感じられる日がやって来ようとも。

本作のストーリー自体は、よく考えられているとはいえ、とりたてて目を引くほどではない。
あえていうなら、わき役だったはずのピーチ姫が、勇敢で自立心の強い一人の女性として書かれていたこと。それが時代の流れを感じさせてくれる。
そして、かつてはエコノミック・アニマルと揶揄されていた日本が、今やこのような世界的なコンテンツを生み出し、それが映画の本場アメリカによって見事な形で逆輸入したこと。そのことにも世界の中の日本の立場の変化を感じた。

そうした時代の変化をすべて経験してきたのが私たちの世代。私たちの50年を追体験させてくれたかのような現実と仮想空間がまじりあった経験への驚き。
それこそが私を本作にのめりこませた理由だろうと思う。
おそらく、本作をみた多くの大人も、私と同じ感慨を抱いたのではないだろうか。

‘2023/5/14 イオンシネマ新百合ヶ丘