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住友銀行秘史


かつて私は、某大手銀行の本店に勤務していた。全国の行員が使う内部のシステム構築の担当として。
開発センターではなく本店の中での勤務だったので、いわゆるシステム開発の現場とは違った雰囲気の中での仕事だった。朝は早く、帰りも残業ができず、強制的に帰らされることが多かった。他の開発現場に比べて納期に直接追われない現場だったのはありがたかった。受けるストレスといえば、朝夕に都心まで通うラッシュアワーだけだった事を覚えている。

今までの私の社会人経験を振り返ると、カスタマーセンターや中小企業や開発現場が多い。
個人事業主としてエージェントに仲立ちしてもらい、常駐先に通うように初めの現場は某上に挙げた大手銀行とは別の銀行の開発センターであり、かなりストレスを受けた現場だった。
その次に入った本店が開発センターと違い、現場と本店ではこうまで違うのかという経験を積ませてくれた。

この時の本店の個人個人の行員の皆さまは私によくしてくださった。私が離任するとき、行員の皆さんが10名弱集まって私のために慰労の飲み会を開いていただいたことも思い出す。

とはいえ、私は今までのさまざまな経験から組織と言うものをあまり信頼していない。

個人としては人間味が豊かに感じられる方であっても、組織の中では組織の論理に従い、非情な振る舞いに徹する。それが組織の中に生きる現実であることは分かっている。
本書は、そのような組織の中の人の振る舞いを教えてくれる。

かつての銀行勤務経験が私に本書を手に取らせた。そして本書は、それ以上の気付きを私に与えてくれた。

私は本店にいたとは言え、しょせんは外部から来た協力会社の人間に過ぎない。もちろん、内部のグループウエアにアクセスできたので、普通の人が知り得ない情報に触れられた。が、それすらもきちんとリスクマネジメント部署による統制が効いており、私が触れられることができた情報などはほんの一握りだったはずだ。

本書は、当時部長だった著者がイトマン事件に揺れる住友銀行の内情を赤裸々に語っている。文字通りの事件の渦中にありながら、著者は当時のことを克明にメモに取っていたそうだ。本書はそのメモをもとに構成されている。

本書で取り上げられるイトマン事件は、戦後最大の経済事件と呼ばれる。
大阪の中堅商社である伊藤萬の経営が傾いた。住友銀行から送り込まれた河村社長の経営責任が問われる。当時、住友銀行の天皇の異名をとった磯田会長は子飼いの河村氏を伊藤萬に送り込んだ以上、尻ぬぐいのために動かざるを得ない。道理を無理が押し通し、磯田氏の家族を巻き込んだ不透明な金が伊藤萬に投入される。そこにつけこんだ闇のフィクサーとしての異名を持つ許永中氏や伊藤寿永光氏の名前が連日のように報道され、何人もの逮捕者を生み出した。

事件によって、数千億の資金が住友銀行から伊藤萬を通してのみ社会に消えていったとされている。
そうした一連の事件を指して、バブルに踊る当時の日本の虚しさを指摘する事はたやすい。

本書に登場する人物のほとんどは当時の部長以上の役職だ。ほとんどが取締役や副頭取・頭取・会長といった経営陣ばかり。一般の行員は本書にはめったに出てこない。つまりそうした高い地位の人々だけが自らの裁量で金を自由に動かせる。銀行の些末な業務など一般の行員にまかせておけばよい。そのような論理が透けて見える。
さしずめ、本書に登場するような人々から見ると、システムを作るだけの私など一顧だにされなかったはずだ。銀行の内部にいた私も、銀行の抱える闇も深みも何も見ていなかったに違いない。

そんな私が本書から感じたこと。それは、資本家のグループと労働者の価値基準の違いだ。資本家とはつまり、会長や頭取、執行役員などを示している。そして労働者とは部長以下の一般の行員をさしている。

あえて資本家と言う手垢のついた言葉を使ったのは、本書に登場する人物たちの言動が世の価値基準から浮いてしまっているからだ。本書には高位の役職の人しか出てこない。
かろうじて労働者に属する著者が、資本家の毒に染まらずに義憤を感じて内部告発に踏み切った。そういう構図が読み取れる。

本書を読んでいると、取り扱われる額の大きさにも時代を感じる。わが国が空前のバブル景気に湧いていた時代。銀行が、バブル景気の演出者として最も羽振りの良かった時代だ。
少しくらい審査が甘くても乱発される融資。財務や経理データの語る事実よりも人と人のつながりやしがらみが重んじられる取引。それは本書の記述のあちこちに記されている通りだ。
最もリスクに敏感だったとされる当時の住友銀行にしてこの有り様。つまり、ほとんどの銀行が同じような状況だったと理解して差し支えないだろう。
後の世にさんざん批判され、大手銀行を苦しめることになる不良債権の種。それが旺盛に世の中にまかれてゆくいきさつ。それこそが本書だ。
著者のメモも、誰それと会ったとか密談したとかばかり。帳簿とにらめっこして頭を絞る担当者の姿や窓口で預金者と対話するテラーの姿は全く登場しない。それは著者が部長という役職だから当たり前なのかもしれない。

本書は、著者が訴えたいバンカーとしての自らの存在価値を越え、好景気に浮かれた当時の銀行がわが国の失われた30年を作り出したことをはからずも告白している。

私が大学に入学する少し前に弾けたバブル。それは私の人生の漂流に少なからぬ影響を与えた。
幸いにして、私は銀行内に勤務する経験も含めて、さまざまな経験を積んできた。そして、今も経営者の端くれとして活動している。

私が本書から学ぶとすれば、自分が金を操るだけの人間に堕さないようにという戒めだろう。資本家としてただ単に金を操るだけの人間には。
経営者であってもその戒めは常に持ち続けたい。

2020/10/19-2020/10/20


虚構金融


私はあまり経済系の小説は読まない。
本書は、淡路島の兵庫県立淡路景観園芸学校のイベントに仕事で参加した際、「お好きにお持ち帰りください」コーナーで手にとったものだ。以来、二、三年積ん読になっていた。

そのため、本書については私の中には何の知識もなかった。著者の作品ももちろん初めて読む。
だが、本書は、とても読み応えのある一冊だった。

大手銀行同士の合併に際し、財務省に対する便宜を図ってもらうために贈収賄があったのではないか。その疑惑が、東京地検特捜部の捜査対象だった。そんな中、財務省の官僚である大貫が謎の死を遂げた。
その大貫を検事として取り調べていた後鳥羽は、贈収賄の実態についてさらなる調査を進める。汚職疑惑から明らかになる謎とは。それが本書の大まかなあらすじだ。

官僚や検事としての生き方、そして身の処し方。外部から見た時、どちらもさほど違いがないように思える。もちろん、当事者にとってみればそれはナンセンスな視点のはず。
私のような技術者でさえ、関わる職種によって職務の内容が大きく違うのは当たり前だ。技術者だからなべて同じと思われては困る。検事と官僚を同じ枠でくくることも同じ誤りに違いない。
ただ、一つだけ言えることがある。それは、誰もが目の前の任務に専念し、目の前の難問を解決しようと仕事に取り組んでいることだ。

後鳥羽には家族もいる。大貫にも家族がいる。
だが、肥大した利権と権力にまみれた世界は、家族の憩いや願いなど一顧だにしない。彼らのささやかな平和を一蹴するかのように、陰険な手が危害を加えてくる。圧力や妨害が当たり前の任務を遂行する彼らを駆り立てるものは何だろうか。

私自身の考えや生き方は、本書に登場する男たちの多くとは少しだけ異なっている。だからこそ、本書の世界観は新鮮だった。もちろん、このような小説は今までに何度も読んだことがある。ただ、それは私が何も分かっていない若い頃。
今の私は経営者である。ある程度自由が効くワークスタイルで働けている。今の私のワークスタイルは、検事や官僚のような生き方とは離れてしまった。

だが、私は本書に出てくる男たちの働き方を全て否定しようとは思わない。
仕事に熱を入れる彼らの姿は美しい。
日本の高度経済成長期に、本書に出てくるような男たちが黙々と仕事をしたからこそ、日本は世界史上でも稀な復興を成し遂げた。それは分かっているし、私が先人の成果の上で暮らしていることも理解している。
著者は彼らの姿を硬質で冷静な筆致で描く。

銀行員は規模を追い求める。銀行を大きくするためなら手段は問わない。
政治家は愛想よく振る舞い、日本を導く大志を語る。その裏で権力抗争に明け暮れる。
官僚は今を生きることに必死の国民や次の選挙に気もそぞろの政治家とは違い、数十年先を見据えた国家の大計のためと建前を振りかざす。
検事は権力の悪を暴く名目の元、疑惑に向けて捜査を怠らない。

誰もがそれぞれの仮面をかぶり、その仮面に宿命づけられた任務を遂行する。そして長年、仮面を被り続けているうちに、それが習性となってはがれなくなった仮面に気づく。
それを自覚しながら、それぞれの信条に殉じて任務に向かう。

著者はこうした人々を客観的に、そしてバランスよく描いていく。

捜査する後鳥羽は、大貫が改革派議員と勉強会を開いていた事実を知る。彼は何かを探していた。それが、大貫と大貫を追うように死んだ改革派議員が殺された原因ではないか。後鳥羽はそう当たりをつけ、調査を進める。
やがて彼の家族や彼自身にも危害が及ぶ中、彼は大貫が追っていた対象とそれが指し示す事実に行き当たる。

その何かはここでは詳細に書かない方が賢明だろう。本書を読む方の興味を殺いでしまう。
だが、それは決して荒唐無稽な陰謀論の産物ではない。
とても説得力があるし、それがなぜ大貫の命を奪ったのかも理解できる。
ちょうど私が初めて新聞を読み始めた頃、当時の新聞の一面には二つの品物が連呼されていた。牛肉とオレンジ。

今の日本をさして、財政の危機を指摘する論は頻繁に見かける。財政の支出に占める国債の利息の割合や、収入を国債に頼っている現状。
体力を顧みない国債の乱発は、やがて日本を破綻させる。そのような悲観的な論を唱える論者は多い。

だが本書を読めば、財務省が国債の乱発に余裕をかましていられるのかに得心が行く。私の勉強不足なのかもしれないが、今までに本書に書かれたような切り口で日本の財政を切り取った論を見かけたことがなかった。

おそらく私は、勉強不足で半可通の代表だろう。大貫が見つけた問題意識を今まで考えたことすらなかった。そうした半可通が官僚や政治家の思い描く未来とは逆の、的を外した論をSNSなどで書き散らしている。
官僚や検事はそうした浮ついた論とは一線を画し、目の前の大義に向けて能力を発揮せんとしている。
本書を読み、官僚や検事を駆り立てるものが何かについておぼろげながら理解できたように思う。

改めて今、インターネットで国債の状態を見てみた。すると、国債は相変わらず同じ状況が続いているようだ。
今、日本の財政が破綻したら果たしてどうなるのだろうか。いや、そもそも破綻することはないような気がする。

このような重要なことを知らずに、失われた30年などとドヤ顔で語っていたとすれば笑止千万だ。私は自らの無知に心から反省するとともに、本書を読んで襟を正す思いになった。

‘2020/04/18-2020/04/20


苦役列車


マスコミへの露出を厭わない作家は多い。さしずめ著者などは最近のマスコミの寵児といえよう。テレビをほとんど見ない私ですら、何度かテレビ出演している著者を見掛けたくらいなのだから。

作家がテレビ出演することには私は全く抵抗がない。私が作家を判断する基準は発表された文章がすべてだ。テレビに出ようが何をしようが、作品が面白ければそれでいい。ましてやテレビ出演によって小説やエッセイのネタが広がり、面白くなるのなら大歓迎だ。著者のような私小説作家にとってはなおのことテレビ出演が作品に反映されることだろう。

それにしても私小説だ。ブログ全盛の、一億総私小説作家状態ともいえる昨今の世間。そのなかで著者は私小説を作風として勝負している。それはたいしたものだと思う。

誰もが自分の回りの出来事を呟き、語り、詠み、撮影する。そして無償で発表する。もちろん私もその一人だ。

あふれるばかりの素人私小説作家がネット上で切磋琢磨する中で、著者の日常を描いたブログは商業誌に文章が掲載されている。そればかりか本書は芥川賞を受賞した。凡百の私小説ブログに比べて本書は何が凄いのか。私自身そのことに興味があった。今まで読んだことのなかった著者の作品を手に取ったのは、そういうわけだ。

本書を読み終えて思うのは、本書はブログではなく確かに私小説だということだ。また、ここまで書いて初めてブログは私小説と呼ばれるのだ、という気づきだ。

まずは表題作。舞台は昭和、バブル真っ只中の時期だ。19歳の主人公が漂うようなその日暮らしを送っている。日当人夫として都内各所の倉庫に派遣される日々。疲れはてた後は苦役電車に乗って帰り、夕食を掻きこむように食べる。そして安酒をあおればその日の稼ぎが消える。そんな日々。恋人はもちろん、友すら出来ぬまま孤立に慣れきった日々。抜け出そうにも切っ掛けがつかめぬまま、時だけが過ぎて行く。そんな焦りを著者は自分のこととして赤裸々に語る。

その日の糧を得るためだけの成長もやり甲斐もない仕事の日々。金の貯まらぬ泥沼のような仕事。希望の持てない彼の日々は終わりの見えぬまま続いて行く。なのに周りの連中はバブルにうかれ、華やかに浮世をわたって楽しんでいる。著者が過ごす生活は、華やかな時代の陰にあって街を歩く人々の眼中には入らなかったことだろう。バブル期を舞台とする本書だが、実はその時代の人々より今の時代の人々にこそ理解されるのではないか。ニートや非正規職員の割合が過半数に近付く今、閉塞感や先細り感は今の方が強い。だが、本書で書かれた主人公の境遇に共感できる人の数は、むしろ現代の方が多い気がする。

だが、本書の世界観は、現代の若者には決して理解できない気がする。それはサイバースペースの有無だ。本書の時代、自分自身を外の世界に発信するためには、友人や仲間との交流がないと難しかった。友人や仲間との交流が希薄で、酒か風俗に逃げるしか無為な時間を潰し術がない主人公の焦りや閉塞感は、今の若者には理解されないだろう。今の時代、スマホさえもっていれば時間潰しの手段には事欠かない。発信手段も匿名に逃げれば何だって書き放題だ。

そういう環境を当たり前に享受している今の若者には、主人公の抱える屈託はおそらく理解できないはずだ。

そしてその事は、私小説ブログ全盛の今にあって本書が商業誌で評価される理由となるのではないか。

同じ時代に合わせた私小説ではなく、時代を遡った私小説。それは、もはや今の読者にとって私小説ではない。昭和末期を描いた時代小説と言ってしまって良いのかもしれない。

では、著者が昭和ではなく今を描いたらどういう私小説になるのか。その答えこそが本書の二編目に収められた「落ちぶれて袖に涙の降りかかる」だ。

本編は現代が舞台だ。前編にあたる「苦役列車」の主人公=著者の今を描いている。昭和に遡った前編とは違い、今の主人公=著者を赤裸々に描いたこちらこそ私小説と呼んでもよいのではないか。

では「落ちぶれて袖に涙の降りかかる」は凡百の私小説ブログとどうちがうのか。

それは自己開示の深さの違いではないかと思う。凡百の私小説ブログは、どうしたこうしたそう思ったで止まっている。いってみれば現在を過ごし、それを報告するだけのレベルだ。こうしたいああしたいなぜできない、と次の展開へと進むことはほぼない。あるとすれば自他啓発的な内容である事がほとんどだ。

「落ちぶれて袖に涙の降りかかる」の全編に満ちているのは、こうしたいああしたいなぜできないという主人公=著者の羨望だ。そこから先に改善案や希望が述べられるわけでもない。書かれているのは言ってみれば著者の日常の確認と報告にすぎない。しかし、その日常は恥も外聞もかなぐり捨てた赤裸々な羨望に満ちている。ここまで堂々とあからさまに著者の日常や羨みを開示されると、それは立派な文学に昇華するのだろう。

おおかたのブログやSNSの投稿は、ここまで明からさまに自己は開示しない。私だってそう。私は実名投稿を旨としているし、一つのジャンルに偏った内容にならぬよう心掛けている。だが、ある程度プライバシーには配慮しているつもりだ。なので、本書の突き抜けた開けっ広げ感には到底及ぶところではない。著者の書きっぷりは個人情報保護のせせこましさを突き抜けた境地にある。その突破感が本書を商業ベースに乗る作品として成立させているのではないだろうか。

冒頭で著者をよくテレビで見かけると書いた。テレビに出演する営みとは、著者にとっては小説で自己を開示するのとあまり変わらないことのようだ。そして、ここまで情報化が進んだ今、自分が発信する情報の管理が求められていくことだろう。テレビの世界で自己を発信する著者は、その状況をどのように私小説として開示していくのだろう。そんな著者の私小説は読んでみたい気がする。

‘2016/03/16-2016/03/17