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ひとりの体で 下


上巻のレビューの最期で、本書にまつわるほとんど布石が撒かれ尽したと書いた。下巻では冒頭からミス・フロストが実は男であったことが著者に明かされる。実は上巻で主人公とミス・フロストが結ばれるシーンでは、ミス・フロストは主人公に注意深く挿入させず、裸も晒さなかった。そのため、そうとしらずに思いを遂げたと信じた主人公に衝撃が走る。さらに主人公はミス・フロストが自らの学校の卒業生であることを知る。そして、学校に残されたイヤーブックからミス・フロストの素性を探る中、自分の前から姿を消した実父の姿もイヤーブックから探り当てる。

男が女に姿を変えることは可能。今でこそ、そのようなことは誰でも知っている。が、60年代が始まったばかりのアメリカでは、それは容易なことではなかったはず。ましてやそれが、主人公の親の高校時代1930年代となれば。

高校を去るにあたり、主人公はミス・フロストと別れの儀式としてレスリングの技を伝授される。かつて男だった時、レスリングのチャンピオンとして有望だったというミス・フロストは、将来同性愛者として迫害を受ける恐れがある主人公に、護身術を贈ったのだ。そしてまた、キトリッジもまた高校時代はレスリングで鳴らしていたことが述べられる。キトリッジがミス・フロストへ向ける視線はまた、キトリッジの性癖がヘテロセクシャルのそれでないことを連想させる。本章から連想させられるのが、肉体を密着させるレスリングという競技と同性愛の関係である。著者もそのあたりの危険は考えていたとは思うが、この描写はかなりレスリング界からの論議を呼んだのではないだろうか。私自身、レスリングについての偏見は持っていないつもりだが、本書を読んで以来、意識しないと云えばうそになる。上巻のレビューでも書いたが、著者の作風は著者自身の人生を誤解させかねない危険がある。それは、著者のレスリングへの思いも誤解させかねないことにも繋がる。少し微妙なシーンである。

高校を卒業した主人公は、ヨーロッパへと旅立つ。誘ったのは、予てから主人公に熱烈な崇拝を捧げていたトム。トムからの誘いを機会とし、主人公は青年期に生活を送ったフェイヴォリット・リヴァーから去る。それはミス・フロストやエレインやキトリッジへの思い出を置きざりにすることとなる。もちろん、下巻でも折に触れ、三人の名前は登場するのだが。ヨーロッパでは主人公とトムとの仲は上手くいかなくなり、ウィーンに落ち着いた主人公は、バイセクシャルである自らをカミングアウトする。しかしカミングアウトの発端は、キトリッジへの思いではなく、トムからの同性愛としての崇拝だった。上巻と下巻を含めた全体に言えることだが、主人公の性的嗜好の原因の多くは外的なものである。主人公が進んで身を投じる能動的な描写よりは、主人公が受け身に回るシーンが多いように思える。それでいて、同性とのセックスにおいて、主人公はトップとして自覚する。ヘテロな私にはそのあたりの心理的な部分が理解できないが、面白いところである。

下巻は、祖父をはじめ、主人公の周りの人々が次々に死んでゆく。ハイスクール時代の仲間達はベトナム戦争やその他の人生の障害によって死んでゆき、一緒にヨーロッパにいったトムは堅い職業につき、自らの性的嗜好を隠したまま女性と結婚して一家をなす。キトリッジは実の母とのセックスに耽っていたことが発覚し、以来、主人公の前から姿を消す。それらは人生につきものの別れであり、それらの別れを経て主人公は作家としての熟成を高めてゆく。そんな中、父がスペインにいることが明かされる。ここで、本書は終わってもおかしくなかった。事実、次の章は「エピローグの世界」と名付けられている。

しかし「エピローグの世界」と次の「自然的原因ではなく」は、本書を語る上で避けては通れない章である。なぜなら、ゲイやバイセクシャルについて回るAIDSの章だからだ。両章では80年代を席巻したAIDS禍による様々な悲劇が書かれている。私も数冊、AIDSに関する本は読んだことがある。しかしこの両章で書かれたAIDSの実態は、それらに勝るとも劣らない。作家的な技巧が悲劇を彫琢し、患者の悲惨な末路を色濃く印象づける。トムもまた、その中で病に蝕まれてゆく。主人公と床を共にしたパートナーたちもまた、次々とAIDSの毒牙に掛けられてゆく。しかし主人公はなぜかAIDSには犯されない。そのあたりの不条理なことも描きつつ、社会的なマイノリティを狙い撃ちするかのようなAIDS禍の実態を、著者はえぐるように書き続ける。

本章は「エピローグの世界」と名付けられているが、内容は下巻の幹を成すものだ。公式には著者はゲイでもバイセクシャルでもないそうだ。しかし、実際に80年代にこうした悲劇を目撃したという。作家として人間として、後世に語っておかねば作家の魂が許さなかったのかもしれない。それはゲイやバイセクシャルとして生きることの苦しみに添ったものではなかった。また著者自身による蔑視がゲイやバイセクシャルへ注がれていた訳でもない。本書では様々なゲイを指すスラングが登場し、それらのスラングに蔑視の意味が含まれていることは承知の上で書かれている。しかし、著者自身がそういった性的嗜好についての侮蔑の念を抱いていたとは思えない。AIDSの悲惨な実態を知ってしまったものとして、自分の嗜好や性的マイノリティの人々への蔑視に関係なく、ゲイやバイセクシャルの間で蔓延してしまったAIDSという業病のことは、どうしても書かずにはいられなかったのであろう。上巻のレビューで、著者が作風柄受けがちな作中のエピソードと著者個人のエピソードが混同されるリスクを覚悟で、性を前面に出した本書を書いたことを指摘した。おそらくはそこにはAIDSの実態を書かねばならないという思いも含まれていたのではないだろうか。

最終章、作家として名を成した主人公は、60年代のフラワームーブメントを経て、AIDS禍の80年代を乗り越え、同性愛が一定の理解のある現代に住んでいる。フェイヴォリット・リヴァーで教壇に立つという機会も得、劇団で演劇指導も行っている。それは自分を育ててくれた祖父母や母、継父のように。昔のようにシェイクスピア劇ができる環境ではないが、作家としての老境を不満も抱かずに過ごしている。そしてなお、主人公の人生に影響を与えた人々の動向は風の便りに聞こえてきている。しかしそこにはもはや、かつてのような濃密な空気はない。性的嗜好のことなることがこれほどまでに人の人生にインパクトを与えていたのか、といわんばかりに。性的嗜好が自由になった今、人間関係までも軽やかになってしまったかのように思わされる。

上巻のレビューで著者がよく用いるモチーフを挙げた。その中に敢えて書かなかったが、著者の作品に必ずと言ってよいほど出てくるモチーフがある。それは再会である。終章で、70歳になろうとする主人公は自分の人生に影響を与えて行った人で、最も重要な人に再会する。その人は、本書、または本レビューを読んだ方にはお分かりだと思う。主人公の実父である。主人公が性的に翻弄された人生を送ってきた間、実父はスペインで同性のパートナーを伴侶とし、長く平穏な同性愛者としての人生を送ってきた。そこにはもはやなんの驚きもなかったが、本書の締めくくりとしては、一番納得のいく再会といえる。

丁度本作のレビューを書いている時、世界的にゲイ・バイセクシャルからの献血が解禁方向にあるとの記事を読んだ。80年代のAIDSに震撼した世界が、ようやく落ち着きを取り戻しつつある兆候なのかもしれない。ゲイ・バイセクシャルへの言及がそれほどエキセントリックでもなくなった今、実はまだそれらの世界は大手を振って表舞台に出ているとは思えない。ここまでレビューを書いてきた私も実は、ゲイの世界はよく分かっていない。ビデオの類も見たことがなく、明らかにゲイの世界を描いたと思しき小説も「禁色」か「フロント・ランナー」くらいしか読んだことがない。しかし、ゲイ・バイセクシャルを扱った文化が表に出ても良い気がしている。むしろ、音楽の世界ではかのY.M.C.Aがそうであるように、随分前からミュージシャンもカミングアウトし、歌詞にもゲイ文化を表現する文化が盛んだ。小説も続々と世に問われてもよいのかもしれない。

とはいえ、それは私が単に知らないだけに過ぎないともいえる。かつて三島由紀夫が「禁色」を世に問うたように、世界的な作家がゲイ・バイセクシャルを世に問うことは私のような無知なるものにとって良いのかもしれない。その意味でも、世界的に名の知られている著者がこういった題材を選んだことは、性的マイノリティにとっても或いは福音といえるのかもしれない。とすれば、本書はまさにエポックメイキングな一冊といえるのだろう。20世紀に性文化の多様性が一気に花開いたことを、本書が後世に証明することになるかもしれない。

‘2014/12/8-2014/12/11


ひとりの体で 上


著者の作品はほとんど読んでいる。どれも壮大なスケールの大きさと、細部まで行き届いた描写がない交ぜになった傑作である。

愛読者にはよく知られていることだが、著者の作品には特定のモチーフが様々に登場する。熊、軽業、レスリング、飛行機、母への思い等々。それらモチーフを小出しにしつつ、壮大な旅路を突飛な挿話の数々と共に歩むのが著者の作品に共通する構成となる。

著者の一連の優れた作品もここ数作は、幼少期より老境に至るまでの人生を大河のように下るような内容となっている。まるで老境に入った著者自身の生を総括するかのように。それらは、遺された作家生活の全てを振り絞り、あらゆる生の有り様を純化して、文章の中に彫り込んだかのように想わされる力作揃いである。

細かいエピソードを集めて一本の筋を作り上げる描写をお手の物とする著者だけに、それら作品では、些細な挿話が主人公の人生を様々に彩る。それら些細なエピソードは、著者が自分自身を事細かに語るかのような細やかさに充ちている。余りのリアルさに、読者によっては、これらの作品は著者自身の自叙伝であると思う向きもあるかもしれない。そう錯覚してもおかしくない。もちろん、全ては著者の創作である。だが、読む人によって作中の想像力に基づいたエピソードと著者個人のエピソードを混同して受け止めることもあり得る。その可能性は避けられないだろう。性的な嗜好や描写満載の本書などは、まさにそのリスクが溢れるばかりに詰まっていると思う。

これは私の推測だが、著者の長い作家生活の中で、そのことを恐れていたのではないだろうか。つまり、作風のエピソードからそのように私生活が勘違いされるリスクを。元々、著者の作品には性的な描写が頻繁に随所に現れていた。が、本書のようにテーマとして前面に出した作品はなかったと思う。だが、本書は性という、ある意味では人間存在の根源へと迫っている。しかも性を生殖の手段として取り上げていない。つまり男と女の関係だけではなく、男と男、性転換、フェティシズムなど、人間のある限り避けては通れない文化の一つとして様々な性の姿を取り上げている。本書は、老境に入った著者が、私生活と本書の内容を混同されるリスクを省みず、畢生の大作のつもりで性を世に問うた一作ではないか。そう思った。

著者の作品にとって筋を追うことはあまり重要でない。というより、本書のように無数に入り組んだ筋を紹介するには、私の文章では心もとない。むしろ筋よりも、章ごとの主人公を取り巻く境遇を説明する方が相応しい。

主人公は発音障害を患う十三才の少年として読者の前に登場する。一緒に暮らすのは、母と母方の祖父母との四人。実父は母によれば「ほかの人とキスしてるのを見ちゃった」ことで別れたことになっている。母は地元劇団のプロンプターをやっており、その劇団には祖父母も俳優として所属しており、祖父は専ら女形を得意とした役者として女装に磨きをかけている。

主人公は町の図書館でミス・フロストに恋をする。それは少年が漠然と抱く憧れにも似た恋心ではない。セックスしたいという、直接的な欲望を伴ったものだ。

本書の語り手は作家として名を成した、七十代にならんとする老境の語り手である。語り手が自分の少年時代から自分の人生を振り返るというのが本書の構成となる。

語り手である主人公は、自らの作家人生の出だしが、ミス・フロストの手解きにあることを述壊する。図書館の司書であるミス・フロストは、少年に読むべき本を指南する。「トム・ジョーンズ」や「嵐が丘」、「ジェーン・エア」などの自分と不適切な相手と恋する話を。ミス・フロストの薦める本は周到になっていて、まずは不適切な相手への恋物語から、そののち、主人公の成長につれて薦める本に工夫を加えてゆく。異性に恋する話だけではなく、同性もその対象に含まれるような話も。上巻は少年が作家となるまでの成長の話でもあるが、自分の性的嗜好を育ててゆく内容にもなっている。そして、主人公がミス・フロストに対する思いを遂げ、クライマックスを見せる。

その間、主人公は地元の寮のある学校(フェイヴォリット・リヴァー)に入り、多感な青春期をすごす。母はその学校の教師であるリチャード・アボットと再婚し、主人公の父役のバトンは祖父から継父へと受け継がれる。ただし主人公は寮生であり、家にいない。そのため、継父が父として主人公に接するのは専ら教師の立場としての教育面に限られる。つまり、情操教育を担うべき父不在のまま、主人公は成長していく。姿を消した実父は第二次大戦の英雄でありながら、「ほかの人とキスしてるのを見ちゃった」ことで母と主人公の前から姿を消し、祖父は劇団で女装姿の似合う祖父として主人公の情操に影響を与える。

上巻では合間を縫って、バイセクシャルとして生きる青年時代の主人公の挿話が挟まれる。時代はまだ1950年代から1960年代に移ろうとする時期。ヒッピー文化の開花にはまだ早い時期である。フラワーチルドレンもまだ時代の先におり、フリーセックスもまだ時代に抑圧されている。古き良きフィフティーズ末期である。そこで主人公はウィーンでの日々を送る。ウィーンもまた、著者お得意のモチーフの一つである。ゲイが市民権を得る前のウィーンの社会状況も豊富に描かれる。ガールフレンドであるエズメラルダとのセックスも経験するが、一方でトップかボトムか、といったゲイ文化にも造詣を深めてゆく。本書においてウィーンという場所設定は、著者が好むモチーフである以前に、主人公の性的成長を遂げる舞台としては、真に相応しく思えた。

著者の作品は、空間と時間を行き来して語るのが特徴的だ。しかし、本書では基本的な時間の流れは、過去から未来への時間として流れている。時間軸を行き来するのは、いくつかの合間に挟まるエピソード紹介のほかは、ウィーンでの挿話だけである。理由は語り手である主人公自身が作中で独白している。バイセクシャルとしての主人公を語る上では、女性との普通のセックスは通っておかねばならないからであろう。本書はいずれの性的嗜好にも属さず、しかもそれで疎外感を覚えることなく老境まで生き延びた男の話なのだから。

ウィーンの挿話は終わり、1963年のウィーンから、再び50年代終盤のヴァーモントへ。

寮生活を送る中、劇団で娘役を祖父から受け継ぐ主人公は、全寮制の学校で閉鎖的な寮の中でエレインというガールフレンドを得る。さらには、年下の少年トムから熱烈な崇拝を浴びる。しかし主人公の恋心は、同じ寮のキトリッジという餓鬼大将的な少年に向く。キトリッジは主人公に色々とちょっかいを掛けてくる。女性的な面を目ざとく発見し、ニンフというあだ名をつけて。エレインとの仲も詮索しては大声でからかいの声を投げつける。それなのに主人公はキトリッジが気になってしまう。そのあたりの同性への思慕の情が、ぎりぎりの曖昧さで描かれる。

性的に早熟な振りをするキトリッジは、結果として主人公とエレインが結ばれ「かける」のに手を貸す。そのくせキトリッジ自身は主人公にとってミステリアスな存在のまま学校生活を送る。エレインはその一夜のことが原因で、主人公との仲を疑われ、離れた学校へと遠ざけられる。しかしエレインとのドタバタの中、エレインのブラジャーは主人公の手元に残り、主人公にフェティシズムの何たるかを間接的に教えることとなる。

主人公は自分がはっきりと恋する対象がエレインではなく、キトリッジであることに気付く。そしてその告白をミス・フロストに告げる中、とうとうミス・フロストと結ばれることになる。ミス・フロストが本当は男であることに気付かぬまま。そしてその場を祖父に見つかってしまい、一方で、母によってエレインのブラジャーは切り刻まれてしまう。このあたりの流れは、ややこしいが、様々なメタファーや布石があちこちに置かれていて、実に興味深い。それらは全て主人公の性的嗜好の成長にとって欠けることのできないピースとなり、下巻で効果を発揮する。

上巻の終わりまでに、主人公を巡る性的冒険の布石はほぼ撒かれ尽した。読者はすでに主人公がバイセクシャルの作家であることを知っている。このあと、下巻では上巻で撒かれた多数の布石が著者の手によって拾い集められてゆく。いかにしてバイセクシャルの作家は、人生を生き延びたか、について。

‘2014/11/28-2014/12/6