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チェ・ゲバラ伝 増補版


彼ほどに、その肖像が世界に知られている人物はいるだろうか。本書で取り上げられているチェ・ゲバラである。彼の肖像はアイコンとなって世界中に流布されている。そして、遠く離れた日本の私の机の脇でも眼光鋭くにらみを利かせている。その油彩の肖像画は、数年前にキューバ旅行のお土産として頂いたものだ。

だが、チェ・ゲバラが日本に来たのは、肖像画としてだけではない。私の部屋で飾られる遥か前にチェ・ゲバラは来日していた。私は恥ずかしながらそのことを本書で知ることとなった。いや、正確にいえば微かには知っていた。しかし、後の首相である池田通産相と正式なキューバの使節として会談したことや、広島の原爆慰霊碑へ献花を行ったことなどは本書で知ったことだ。

机の脇に肖像画を飾っていながら、チェ・ゲバラとは私にとって歴史上の人物でしかなかった。しかし、本書を通じ、初めてチェ・ゲバラが残した足跡の鮮やかさを知ることができた。そしてなぜ彼の肖像がこの地上の至る所でアイコン化されるに至ったのかが理解できたように思う。私にとってチェ・ゲバラの認識がアイコン化された伝説の人物から、血の通った人間へと改まったのは、本書による。

本書が素晴らしいのは、相当早い時期に書かれ始めたということだ。チェ・ゲバラがボリビアのジャングルで刀折れ矢尽きて土と化したのは1967年の10月のこと。本書の母体となる「チェ・ゲバラ日本を行く」が雑誌に発表されたのは、1969年のことという。世界はおろか、キューバでさえも、チェ・ゲバラが死んだ事実をうまく消化できていない時期。そのような早い時期から、著者は精力的に生前のチェを知る関係者に取材している。つまり本書が軽々しくブームを後追いしたものではない、ということだ。

著者の足跡は、チェの生国アルゼンチン、生まれながらのキューバ市民の称号を得たキューバ、キューバに続いての革命の夢潰えたボリビアにまで至る。取材対象も、チェ・ゲバラの両親や、奥さん、幼少期の友人、戦友など多岐にわたっている。また、著者は本書を書くにあたり、取材だけでなく他にもチェの書いた日記や自伝、演説のたぐいまで読み込んだと思われる。

その労あってか、本書の内容は実に濃厚。チェ・ゲバラという稀有な人物の幼少期から死ぬまでの生涯が描かれている。ただ、本書で描かれたチェに批判的な記述がほとんど見当たらないことは言っておかねばならない。その筆致はチェ礼賛の域に近付いていると言っても過言ではない。おそらく著者は、チェ・ゲバラの取材を進める中でチェの思想や人格に心底心酔したのではないだろうか。しかし、本書で著者が描き出すチェに虚飾の影や空々しい賛辞は感じられない。左翼の文献に出てきがちな「細胞」とか「オルグ」とか「ブルジョア」といった上っ面の記号的な語句も登場しない。ただ、「革命」や「帝国主義」という語句は散見される。それらから分かるのは、チェの生涯がマルクス主義の理念よりも愚直な実践を軸に彩られていたことだろう。チェが単なる頭でっかちのマルクス理論家であれば、歴史的にマルクス経済学が否定された今、世界中でアイコン化されているはずがないからだ。地に足の付いた実践家だったからこそ、彼は伝説化されたのだ。

そもそも、著者がいかにチェを礼賛しようにも、史実がそれを許さない。というのもチェの後半生は、挫折また挫折の日々であったからだ。

そもそもキューバ革命自体が、アメリカ資本による搾取からの解放を旗印にしていた。当然、革命の結果としてアメリカとの外交関係は当然悪化する。となるとキューバの外交関係の活路をアメリカと対立関係にある国に求めなければならない。

本書を読む限り、カストロ・ゲバラの二人は元々マルクス主義者ではなかったのではないか。彼らの目的は、時のキューバを牛耳っていたアメリカ資本の走狗であるバチスタ政権打倒でしかなかったように思える。しかし、幸か不幸か革命が成ってしまったがために、革命家は統治者へと変わることを余儀なくされる。そこにチェの悲劇の一つ目はあった。チェはその統治責任を引き受け、誠心誠意粉骨砕身働く。しかし、アメリカと対立した以上、アメリカの息が掛かった国には行きづらい。つまりアメリカに対立する国、即ち社会主義国に近付かざるを得なくなった。反階級主義を理想に掲げたにも関わらず、階級闘争を運動のエネルギーとするマルクス主義の仮面を被らなければならない。そこにチェの悲劇の二つ目はあったのではないか。しかも、労働の過程ではなく結果の平等を問うマルクス経済学は、ラテンアメリカの人々の気質に合わなかった。そう思う。本書には、チェの並外れた克己心や自制心が何度か紹介される。チェが自らに課した努力は、当時のラテンアメリカの人々には到底真似の出来ないものだった。それがチェの悲劇の三つ目だったと思う。キューバの頭脳と称されるまでになった数年にわたるチェの努力も空しく、チェは手紙を残してキューバを、そしてカストロの元を去る。三つの悲劇はとうとう克服できないままに。

その手紙の全文は、もちろん本書でも紹介されている。カストロに宛てた感動的な内容だ。しかし、その内容が感動的であればあるほど、その行間に強靭な自制力によって隠されたチェの失望を見るのは私だけだろうか。本書で著者は、チェがキューバを去った理由を不明としながらも答えは手紙の中にあるのではないか、と書く。革命を求め続け、キューバ革命の元勲としての地位に甘んじないチェの高潔さこそが理由である、と。しかし、チェがキューバを去ったのはやはり挫折であったというしかないだろう。キューバ使節として世界中を飛び回るも、その訪問先のほとんどは社会主義国である。むしろ日本だけが例外といえる。カストロが親日家という背景もあったようだが、チェもわざわざ広島に訪れて原爆慰霊碑に献花し、平和資料館では日本人に向けアメリカへの怒りを抱かないのか、という痛烈な言葉を残したという。その言葉の底にはアメリカ一辺倒の世界への怒りが滲む。

キューバを去ったチェは、コンゴで革命を成就すべく奔走する。しかし、よそ者のキューバ人たちにコンゴでの活躍の場はなかった。そもそも、キューバでも成功することがなかった革命後の統治をどうするかという課題。革命は成り、帝国主義を追い払った。では、何をして民を養うか。この答えには、結局チェをもってしてもたどり着けなかったと思われる。

マルクス経済が歴史上衰退したのは、人間の克己心や欲望に対する自制心を過大に見積ったからだと思う。それが、統制経済の下の停滞を産み出し、人々からマルクス主義を捨てさせるに至った。それはまた、人一倍自己を律することが出来たチェが、同じくキューバ、コンゴ、ボリビアの人々に自らと同じレベルを求めた過ちとおなじであった。

だが、皮肉なことに人一倍自己を律することが出来たチェは、そのストイックさと純真さ故にアイコン化された。

一体いつチェの抱いた理想は実現されるのか。おそらくは世の中に彼の求めた理想が実現されない間はチェ・ゲバラのアイコンはアイコンであり続けるのだろう。そして、それとともに本書もロングセラーとしてあり続けるに違いない。

‘2015/11/09-2015/11/18


ガイズ & ドールズ


ガイズ & ドールズ。何とも時代を感じさせる題名だ。ガイズはまだしも、女性は人形扱いされているのだから。もっとも、時代は1948年。第二次大戦の勝利の余韻が鮮明に残るアメリカはニューヨークが舞台。戦争とその勝利によって男たちの意気が上がっていた頃の話である。男性優位のこのような題名が付けられたのも分かる気がする。

今、私の手元には一冊の写真集がある。そこに載っているうちの一枚は、第二次大戦の戦勝日にタイムズスクエアで看護婦にキスする水兵を撮ったものだ。アルフレッド・アイゼンスタットの撮ったその写真は、LIFE誌を語る上で欠かせない一枚として知られている。と同時に、当時のニューヨークの開放的で陽気なGUYS & DOLLSの雰囲気をそのままに映し出した一枚にもなっている。私にとって、当時のニューヨークのイメージは、この写真によって決定づけられている。

本作に登場する舞台美術は、舞台であるニューヨークのタイムズスクエアを模していると思われる。かの写真のように、明るく華やかなGUYS & DOLLSが闊歩したニューヨークが舞台に再現されている。今回は二階からの観劇となった。その分、舞台の奥行きにまで配慮された舞台美術の粋が堪能できた。

例えばニューヨークの大通りを表すため、背後の書き割は中心点に向けて描かれる。観客は遠近法が駆使された舞台にニューヨークの大通りを感じる。ネオンの看板は手前に立体的に配置され、それは夜のニューヨークにたむろするギャンブラー達の猥雑さを表しているようだ。そして床の反射である。背後の中心点に向け絞って書かれたニューヨークの夜景には、街の灯りが灯っている。これが床に反射することで、実に幻想的な効果を舞台に与えている。丁度、人通りの途絶えたニューヨークの夜が、観客の目前に再現されるという仕掛けだ。この反射の効果は、二階席だからこそ味わえた特権なのかもしれない。

本作は舞台の役者たちが立体的に動き回るわけではない。どちらかといえば、平面的な配置が多い。しかし、舞台のセットは立体的に作られている。なので、ギャンブラー達が生息する都会の息吹が舞台から感じられるようになっている。また、左右の花道を効果的に使っている。たとえばネイサンがクラップゲーム(サイコロ賭博)のショバを確保するため、ジョーイと交渉するシーン。ここでは、上手の舞台脇にある電話ボックスと下手の花道にあるジョーイの事務所の間で会話する。オーケストラボックスや銀橋を跨いでの掛け合いは、本作有数のコミカルなシーンである。また、下水道の賭場とストリートを行き来させるのに、上手の花道に設えられたマンホール状の出入り口を使う。主役やギャンブラー達はマンホールに消え、または現れる。その様は、かのマイケル・ジャクソンのBeat Itのビデオクリップのシーンを思い出させた。本作は役者達の配置を平面的にした分、こういった立体的な演出が印象に残った。

本作は平面的な役者配置が多い、と書いた。配置こそ平面的ではあるが、それは舞台を広々と使うためだと思われる。本作は場面展開毎に大勢の役者がストリートプレイを演じるシーンが多い。例えばニューヨークの雑踏。ニューススタンドやボクサー、トレーナー、旅行者、物売り、兵士、警官や浮浪者、ギャンブラーがひっきりなしに行き来する。役者たちの動きは恐らく計算された演出に従っているのだろう。ただ、私のような本作初見の観劇初心者には把握できない程のせわしなさだった。観劇後に妻から教えられたが、あのような雑多な動きこそが、観客をリピーターに仕立てるのだという。確かに、この動きは一度や二度の観劇で把握できるものではない。こういった観客を飽きさせないための仕掛けが、本作の随所に仕込まれている。それがまた、本作をロングラン作品へと変えたのではないだろうか。そして、妻から教えてもらったことがもう一つある。それは、雑踏の中の動きについての役者側の工夫である。役者たちは、演出家の演出意図をさらに展開するかのような工夫を行っているのだという。例えば、雑踏の中で演じられる寸劇。これらの寸劇の一つ一つに、役者同志でドラマの設定を当てはめているのだという。

一幕の終わり近くで、主役のスカイ・マスターソンとサラ・ブラウンがハバナに行くシーンがある。そのシーンでは、キューバンなラテンリズムに乗って舞台狭しとダンサーたちが躍り回る。その人数は、私のような初見者にはわけがわからなくなるほどの数だ。しかし、そのような場面でも役者たちがドラマを設定しているという。つまり、一つ一つの役者はその他大勢ではなく、それぞれの主役を演じているのだ。舞台で輝くのは主役の二人だけではない。周りの役者の一人一人に実は観客には分からないドラマが仕込まれているとすれば、観客のリピーター心はくすぐられること必至のはず。そういった細かい演出の数々によって、舞台にはさらに魂が吹き込まれるに違いない。アデレイドがトップ女優として踊るHOTBOXの場面でもそう。私は今回、ナイスリー・ナイスリー・ジョンソンを演じる美城れんさんの動きのコミカルさが気に入ったのだが、彼女の動きをよく見ていると気付いたことがある。舞台の中央で主役二人がすれ違いを演じている間も、ホール係やギャルソン役の役者と掛け合いをしているのだ。それもおそらく、観客にはドラマの内容が届かないことを承知の上での演技なのだろう。しかし、目の肥えた宝塚ファンには、そういった周辺をも疎かにしない細かい芸こそが喜ばれるのだろう。

私は最近、観劇のたびに、そういった主役だけではない、周囲の役者達の動きを観るようにしている。彼ら彼女らが舞台の壁の花に甘んじるだけで、「何かをしている振り」の演技を見せられると残念に思う。リアルに考えると、我々が一人の客としてお店に入った場合、我々自身が主役として現実のドラマを演じているはずだから。そういったリアリティは大事にしてほしいと思う。

今回、歌は安心して聞けると妻から聞いていた。スカイ演ずる北翔海莉さんの歌のうまさについては、先日のビルボード東京でのライブを鑑賞させて頂き、十分すぎるほど分かっているつもりだ。その上で言うのだが、本作で北翔さんはアドリブを効かせて歌っていたように思う。”こぶし”とでも言おうか。しかし北翔さんは、色を出さずに敢えて素直に歌っても良かったのではないか。こう書くと妻に首を絞められそうだが。なぜなら、サラ演じる妃海風さんの歌がとても綺麗で伸びやかで、北翔さんの声質に似ていたから。主演二人のハーモニーは実に良かった。なので、ここはハーモニーを聞かせることに徹して頂いても良かったのではないかと思う。どことなく、タメのような間合いが挟まっていて、それが一瞬の感覚のずれとして私の耳に残った。

歌については上に書いたような違和感も感じたが、総じて安心して聞けた。そのため、専ら私は演技を見ていた。そして主役二人の演技に関してはすごく良かったと思う。最初にスカイがサラのいる救世軍を訪ね、口説くシーン。ラブコメの定石通り、最初はつんけんし合う二人。だが、このシーンでスカイを拒絶しようとするサラの立ち居振舞いが、その堅苦しい救世軍の衣装に似合っていて実に自然だった。どうせ喧嘩していても、この後くっつくんでしょ的なラブコメ予定調和の匂いを感じさせない演技が気に入った。また、二人のすれ違いから相思相愛に至るまでの二人の見つめ合う顔。これもまた見物だと妻はいう。もっとも、妻がオペラグラス越しに舞台の二人の側から離れなかったので、私には二人の顔が見えなかった訳だが。二階席だし。でも妻曰く、スカイこと北翔さんが顔の表情だけで二人の間の感情の流れを演じきるところが実に良いと褒めちぎっていた。私も次回もし本作を観る機会があれば、望遠鏡を持って行こうと思う。

本作はブロードウェイで演じられた際も、コメディタッチだったと聞く。本作においてコメディ担当なのは、二番手の紅ゆずるさん演じるネイサンである。私にとっては、紅さんは今の星組の生徒さんの中でもっとも馴染みの一人といってもいい。妻から数限りなく見せられた他の星組作品でも、そのコメディエンヌとしての実力は承知の上。今回もトチりを瞬時に笑いに変える切り返しや、随所に挟むアドリブ?と思われるシーンに流石と唸らされた。かつて父娘三人で紅さんの出身地である通天閣の辺りを散歩したことがある。その産まれ育った環境を活かして、次代のトップとして新しい風を吹かせて欲しいものである。ただ、今回のネイサンはホンの少しだけコミカルな演技が空回り気味だったように思う。そもそも主演の北翔さんからして、お笑い系の素養が高い方である。なので、紅さんも少しコメディのトンガリ度を落として、お笑い系二人による相乗効果を狙っても良かったのではないかと思った。あと、アデレイド役の礼真琴さんもコメディエンヌ的な感じがとてもよかった。妻に聞いたところ、普段は男役でも出ているのだとか。そう思わせないほどに14年もネイサンに婚約状態で飼い殺しにされたままの娘役をコミカルに演じていた。ストレス性のクシャミを患っているという設定だが、そのクシャミの音が実にリアルでリアルで。

さて、ここまで演者さんたちの演技について私なりの感想を書かせて頂いた。だが、本作で一か所だけ解せなかった点があった。それは一幕の演出についてである。

ここで本作の筋を少々書く。ネイサンがクラップゲームのショバを開くために千ドルが工面できず四苦八苦していた。そのところにスカイがニューヨークに帰ってくる。さっそくそこで千ドルを巻き上げようとスカイに賭けを持ちかけるネイサン。それはネイサンの指定する女性をハバナに食事に連れて行けるか、というもの。その女性が救世軍で活動しているお堅いサラ・ブラウン。スカイがサラにツレなくされているのを見て、賭けに買ったとほくそ笑むネイサン。しかしその時点ではまだスカイは負けた訳ではないので、スカイからの千ドルは手に入らない。そして、クラップゲームのショバを求めるギャンブラー達の圧力はますますネイサンを追い詰める。そして、ある日、ネイサンたちはスカイが姿を消し、街を行進する救世軍の中にサラの姿がないことに気付く。ハバナに首尾よくサラを連れて行ったスカイは、二人で再びニューヨークに戻り、救世軍前でサラと別れようとするが、そこに救世軍の中からギャンブラー達が沢山飛び出してくる。ショックを受けて傷つくサラ。

ここである。ギャンブラー達は如何にして夜中の救世軍の教会が空いていることを知ったのか。救世軍の教会に夜中に忍び込んで賭場を開帳できることをいつ知ったのか、についての伏線がどこにもなかったように思う。しかも、サラがスカイからのハバナへの申し込みを承諾するシーン。ここも唐突だったように思う。分かる人には分かる台詞でサラはスカイの誘いを承諾する。だが、そこから急に舞台はハバナへと飛ぶ。この部分の流れが少し分かりにくく、私のような本作初見者にはスッと頭に入らなかった。後で幕間に妻に聞いたほどである。

例えばこのシーンは、サラがスカイの誘いに乗ることを観客に伝える工夫ができたのではないだろうか。その上で、その夜は救世軍が夜間空き家になることを、例えば舞台袖でギャンブラーの誰かに聞かせることで、ギャンブラーと観客双方に伝える演出。そういった演出上の工夫で筋を説明的になることなく演出すれば、私のように勘の悪い観客にも上手く伝わるのに、と思った。一幕と違い、二幕が実に分かりやすかっただけにここは残念。是非機会があれば他の組の演目や、ブロードウェイバージョン、またはマーロン・ブランドの映画版でこのシーンの扱い方を見てみたいと思った。

さて、私にとって良いことも悪いことも書いたが、結果としては素晴らしい作品だと思った。観劇の満足感が残る。ブロードウェイの香りのする優れた作品を優れた役者=生徒さんたちによって観させて頂くのは実に素晴らしい。しかも舞台の内容を思い出すと、他の版とも比較して見てみたいという欲求が湧く。おそらくはそうやって思ってくれる観客が何世代にもわたって居続けたことが、再演また再演と宝塚でリバイバル上演され、そしてその積み重ねが101年という年月に繋がったのではないか。本作もまた、どこかの組でいずれは再演されるのだろうか。その時はまた観てみようと思う。

‘2015/11/15 東京宝塚劇場 開演 15:30~
https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2015/guysanddolls/