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サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~


本作を映画館で見られてよかった。心底そう思った。
もともと聴覚に関心があった私は、本作に対してもほのかにアンテナを張っていた。昨日になって上映がまもなく終わると知り、慌てて劇場に行くことに決めた。もし間に合わずにテレビやパソコンで見たら、本作の真価は味わえなかったに違いない。

聴覚に失調をきたした時、どのように聞こえるのか。本作はそれをリアルなサウンドで体感させてくれる。

主人公のルーベンはドラマーだ。恋人のルーがボーカルで金切声を上げる後ろで、ハードなメタル・サウンドをドラムで刻んでいる。ボーカルとドラマーという変則コンビの二人は、トレーラーで暮らしながら街から街をライブで巡っている。

だが、ある日突然ルーベンの聴覚がおかしくなる。くぐもった音しか聞こえなくなり、急速に会話にも支障をきたすようになる。ルーとの演奏も合わなくなり、ライブ活動どころではなくなる。
聴覚失調者のコミュニティに入ることになったルーベンは、ルーと別々に暮らす。そしてコミュニティの中で手話を覚え、やがてコミュニティに溶け込む。リーダーのジョーにも信頼されたルーベン。
しかし、ジョーから今後ずっとコミュニティに関わってもらえないかと言われた後、トレーラーを売って脳内にインプラントを埋める手術に踏み切る。
ジョーからはコミュニティの信念に反するため荷物をまとめて出てゆくように言われる。
「失聴はハンデではなく、直すべきものではない」との言葉とともに。
ルーベンは、インプラントを埋め込んでも聴覚が完全に回復しなかったことを知り、ある行動に出る。
これが本作のあらすじだ。

ルーベンの視点に立った時、音が歪み、不協和音を立てる。そのリアルな音響は、聴覚が壊れたら私たちの生活が壊れるとの気づきを観客に与えてくれる。
ただ、聴覚が狂っても振動は感じられる。それも本作が教えてくれたことだ。
私が本作を見たのは新宿のシネマートだが、BOOST SOUNDというシステムを導入している。このBOOST SOUNDは普通よりスピーカーを多く備え、サウンドのリアルな変化や、重低音による振動を腹で感じさせてくれた。
ルーベンの冒頭のメタル・ドラマーとしての迫力の音や、施設の子どもと振動でコミュニケーションする様子など。
本作こそ、映画館で見なければいけない一本だと思う。

私が聴覚に関心があると書いたのは、私自身、あまり聴覚がよくないからだ。
十数年前に96歳で亡くなった祖父は、晩年、ほとんど耳が聞こえていなかった。うちの親や兄妹が補聴器を買ってあげたが、ノイズを嫌がったのかあまりつけておらず、晩年は孤独の中にいたようだ。私はそんな祖父の姿を見ていた。

そして、私も上京した20代の中頃から音の聞こえにくくなってきたことに気づいた。
大学時代に友人とノイズのライブ(非常階段)に行ったことがあるが、ライブの後、数日間は耳がキーンとしていた記憶がある。その後遺症が出たのか、と恐れた。または祖父の遺伝が発言したのか、と。
ただ、私の場合、耳の不調は鼻の不調(副鼻腔炎)に関係しているらしい。そのため、耳の手術や補聴器には踏み切っていない。だが、七、八年前に聴覚の検査をしてもらった際は、ぎりぎり正常値の下限だと診断された。

最近はリモートワークでヘッドホンを使うようになり、ようやく仕事にも影響を及ぼさなくなった。だが、電話で連絡を取り合っていた時期は、相手の滑舌が悪かったり、電波がつながりにくかったりすると全く聞こえず、私を苛立たせた。また、居酒屋での会話は今もあまりよく聞こえない。
本作でルーベンが最初に自覚したくぐもった音は、私にとっては自分の実感として体験していることだ。

だからこそ、本作は私にとって重要な作品だった。また、私自身の今後を考える上でも自分事として身につまされながら見た。

本作は、聴覚障碍者向けにバリアフリーで作られている。つまり、作中の音についても全て字幕が表示されるのだ。ルーベンのドラムやため息。ルーの鳴き声、風のざわめきや歪んだ鐘の音など、全ての音。
また、コミュニティでは人々が手話で話し合う様子がリアルに描かれている。十人ほどの人が輪になってめいめいが手話を操ってコミュニケーションを取る様子。それは、テレビでよく見かける、話者の横にいる手話通訳者のように一方通行ではない手話であり、とても新鮮だった。
そうした意味でも聴覚障碍者が見ても自分のこととして楽しめるに違いない。
だが、やはり正常な聴覚を持っている人にこそ、本作は見てほしい。

もう一つ、本作を見ていて気になったことがある。それは「Deaf」という言葉が頻繁に登場することだ。
「Deaf」とは、いわゆる英語の聴覚障碍者を表す言葉だ。日本では放送禁止用語になっている「つんぼ」にあたるのだろうか。
最近は聴覚障碍者という呼び名が定着しているが、英語ではそうした読み替えはないのだろうか。とても気になった。
最近はSDG’sやMeTooやダイバーシティーやLGBTという言葉が浸透している。だが、昔はそうではなかった。だから差別を助長するのではとの懸念から「つんぼ」が忌避されたのは分かる。
だが、今の時代、そうした差別の意図はあからさまに出せないはずだ。「つんぼ」「めくら」などの言葉には否定的なニュアンスがあるから復活できないのだろうか。「Deaf」が英語圏ではどのようなニュアンスなのか調べてみようと思う。

本作は終幕になるにつれ、ルーベンを演じたリズ・アーメッドの演技に引き込まれていく。パワフルなドラミングと自らを襲った悲劇に悪態をつく様子と、失調の苦しみを懸命に押し込もうとする演技は、アカデミー主演男優賞にノミネートされただけはある。
彼の感じる聴覚の不自由さが観客に伝わるからこそ、彼の表情が生きる。

また、ジョーに扮するポール・レイシーの演技も見事だ。何とかルーベンを立ち直らせよう、コミュニティに溶け込ませようとする演技も素晴らしかったと思う。
「静寂の世界は私を平穏な気持ちにさせてくれる」という言葉は、本作を見る上でキーになるセリフだ。

‘2021/10/24 シネマート新宿


ボヘミアン・ラプソディ


涙こそこぼさなかったけど、泣いてしまった。ここまで再現してくるとは。映像と音楽でクイーンとフレディ・マーキュリーが私の中で蘇った今、彼らの曲の歌詞が私の中で真の意味を持って膨らんでいる。ライブ・エイドに遅れて育った私自身の後悔とともに。

ロック少年としては、私はかなり遅咲きの部類だ。中学三年生の時。1989年の春頃だったと思う。友人に貸してもらった映画のサントラ(オーバー・ザ・トップ、ロッキーⅣ、トップ・ガン)から入った私は、一気に洋楽にはまった。高校の入学祝いにケンウッドのミニコンポを買ってもらってからは、バイト代や小遣いのほとんどをCDに費やしていた。それでもなお、私は時代に遅れたロック少年だと思っている。なぜなら私はライブ・エイドをリアルタイムで経験していない。私が音楽にはまった時、FM雑誌に新譜として特集されていたのはクイーンの「The Miracle」。クイーンの歴史の中では晩年に発売されたアルバムだ。フレディ・マーキュリーが存命の間でいうと最後から二つ目にあたる。だから私は、リアルタイムでクイーンを聞いていた、とはとても言えない。

しかし、私が今までの人生で訃報を聞いて一番衝撃を受けたのはフレディ・マーキュリーのそれだ。エイズ感染というニュースにも驚いたが、翌日、畳み掛ける様に死のニュースが届いた時は言葉を失った。洋楽にどっぷりはまり、当時すでに「A Night At The Opera」がお気に入りだった高校二年生にフレディ・マーキュリーの死は十分な衝撃を与えた。さらに数年後、フレディ・マーキュリーの遺作として出された「Made In Heaven」は、ラストの隠しトラックにトリハダが出るほどの衝撃を受けた。「Made In Heaven」を始めて聴いた時の衝撃を超えるアルバムには、昔も今もまだ出会っていない。それ以来、クイーンは私のお気に入りグループの一つであり続けている。

本作が公開されることを知った時、私は半年以上前から絶対見に行くと決めていた。クイーンというバンドの成り立ちから栄光の日々が描かれる本作。だが、より深みを持って描かれるのが、フレディ・マーキュリーの出自や性的嗜好だ。パールシーの両親のもとに生まれ、インドで教育を受けてイギリスに移り住んだ出自。バイ・セクシャルとしての複雑な性欲の発散の日々。それらは、クイーンの大成功の裏側に、複雑で重層的な深みを与えていたはずだ。その点はロック・バンドの成功という表面だけではなく、もっと深く取り上げられるべきだと思う。クイーンはそうした意味でもいまだに特異なグループであり続けている。本作はまさにクイーンの特異さを描いている。本作は、私の様なアルバムとWikipediaと書籍でしかクイーンをしらない者に、より多面的なクイーンの魅力と闇を伴い、心にせまり来る。

正直、私は本作を見るまで、フレディ・マーキュリーが自身の歯の多さを気にし、常に口元を隠す様な癖を持っていたことや、デビューの頃の彼女だったメアリー・オースティンが本作に描かれる様に公私でフレディ・マーキュリーを支えたほどの存在だったことも知らなかった。また、本作でフレディ・マーキュリーを操ろうとする悪役として描かれるポール・プレンターの存在も知らずにいた。こうした情報は私の様な遅れて来たファンにとって貴重だ。

本作はブライアン・メイとロジャー・テイラーが音楽を監修しているという。だから本作に描かれた内容もおおかた事実に即しているはずだ。内容にも明らかな偏りは感じられなかった。ブライアン・メイとロジャー・テイラーがお互いの歌詞をけなし合ってケンカするシーンなども描かれていたし。ジョン・ディーコンが「Another One Bites The Dust」のベースラインを弾いて三人のケンカを仲裁するシーンとかも描かれていた。フレディ・マーキュリーを表に出しつつも、四人の個性の違いがきちんと書き分けられていたのではないか。もっとも、本作はオープニングとエンディングをライブ・エイドで締める構成にするため、事実とは違う時間軸で描いたシーンが多々あるようだ。フレディ・マーキュリーがエイズ感染をメンバーに伝えたのはライブ・エイドの前だったかのように本作では描かれているが、ライブ・エイドの後だったらしい。フレディ・マーキュリーがポール・プレンターに絶縁を言い渡す時期もライブ・エイドの後だったとか。

ただ、本作は映画であり、そうした脚色は当然あっても仕方ないことだと思う。脚色がありながらも、芯の部分を変えずにいてくれたことが本作をリアルにしていたと思う。何よりも、俳優陣の容姿が実物の四人にそっくりだったこと。それが一番、本作に説得力を与えていたと思う。フレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックは、以前友人から勧められて観ていた「Mr.Robot」の主人公としておなじみだった。また、娘たちが好きな「ナイト・ミュージアム」にも登場していた。確かに顔はフレディ・マーキュリーに似ているとは思ったが、本物より目が少し大きいな、とか。でも演技があまりにも迫真なので、次第に本物とそっくりに思えてくるから不思議だ。また、私の感想だが、ブライアン・メイにふんしたグウィリム・リーがあまりにもそっくり。彼がギターを弾くシーンだけで、事実との些細な違いなどどうでもよくなったぐらいに。「Bohemian Rhapsody」の有名な四人の顔の映像や、「 I Want to Break Free 」の女装プロモーションビデオも本作では四人が再現している。そうしたクイーンのアイコンともいえる映像を俳優たちがそっくりに演じているため、時間がたつにつれ、俳優の容姿が本物に近づいていくような錯覚を覚える。エンド・クレジットに本物の「Don’t Stop Me Now」の映像が使われることで、観客は映画が終わり、今までのドラマを演じていたのが俳優だったことにハッと気づかされる。

そして本作の音楽は、映像と違い、あえてフレディ・マーキュリー本人の声を多くのシーンで使っているそうだ。劇中でフレディ・マーキュリーが歌う、音源として残されていない歌声は、私もYouTubeで映像を観たことがあるカナダ人のマーク・マーテルが担当したそうだ。むしろ、それで良かったのではないかと思う。なぜならフレディ・マーキュリーの声はあまりにも唯一無二だから。マーク・マーテルのような手練れのそっくりさんが吹き替えるぐらいでなければ、いくら実際の俳優がうまく再現したとしても、観客の興を削いでしまう可能性が高い。

それよりも本作は、フレディ・マーキュリーという人物の志と成功、そして死に至るまでの濃縮された生の躍動に注目すべきだ。彼の生はまさに濃縮という言葉がふさわしい。たとえ45年しか生きられなかったとしても。おそらく普通の人の数倍も濃い密度をはらんだ人生だったのではないだろうか。本作にも「退屈などまっぴら」という意味のセリフが三度ほど出てくる。「俺が何者かは俺が決める」というセリフも登場する。一度やったことの繰り返しはしない、カテゴリーにくくられることを拒むクイーンの姿勢が本作の全編に行き渡っている。何気なく流され、生かされているのではなく、自分で選択した人生を自分で生きる。そしてその目標に向かい、時には弱音も吐きながら、理想は捨てぬまま、高らかに生の高みを歌い上げる。本作にはそのスピリットが貫かれていた。彼らの曲の歌詞の意味が真に理解できた、と冒頭にも書いたが、それは本作に一貫するテーマ、生の謳歌に通じる。本作が発するメッセージとは生きる事への賛歌だ。

私が訪れた回が満席で、次の回に回してもすぐに席がいっぱいになり、私が座ったのは前から二列目。とても見にくかったが、その分、迫力ある波動が伝わってきた。曲中で流れる実際の唄声の多くは私が好きな曲。私がクイーンで好きな「The Prophet’s Song」 、「39」や 「Innuendo」が流れなかったのは残念だが、最後に流れた「The Show Must Go On」が私の涙腺を緩めてしまった。人生という面白くも厳しく、愉快で苦しいショー。自分のショーは自分の力で演じてゆかねばならない。生きていく限り。表現者としてこれ以上のメッセージが発せられるだろうか。

‘2018/11/17 TOHOシネマズ六本木ヒルズ