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日本列島七曲り


これこそ著者の毒がそこいらにまかれたスラップ・スティックの宝の山だ。

著者にかかればタブーなどどこ吹く風。性も英雄も深刻な事件も政治も茶化してしまう著者の悪ノリが盛り込まれている。

「誘拐横丁」
複数のご近所家族が子どもを誘拐しあうぶっ飛んだ内容の短編。
ご近所同士で子を奪い合い、金をよこせとお隣さんの間で金が飛び交う。
そんな狂った関係も本当の殺戮につながらず、最後は乱交パーティーに突入するあたりが、本編のユーモラスな後味につながっている。
そこには著者の根本の人の良さが垣間見える。

「融合家族」
一つの家屋を奪い合った結果、二組の夫婦が標準的な広さの家屋に無理やり同居する話。
片方の家族の居間がもう片方の家族の使う台所で、片方の家族の玄関はもう片方の家族の夜の寝室を使う。しかもお互いを意識しつつ無視しながら。
こんなこんがらがった設定は小説ならでは。本編こそ映像化できない作品といえるのではないか。そして著者のすごさが堪能できる作品だと思う。
ちなみに本編も最後は乱交パーティーに突入する。

「陰悩録」
本書を読む一カ月前に訪れた世田谷文学館の筒井康隆展で、数作品の拡大された生原稿のすべてが壁に掲げられていた。
「関節話法」「バブリング創世紀」と並んで本編も。
ひらがなを主体に記された本編は、ユーモアを失わずにオチで読者を驚かせる。その点からも著者の名作の一つである事は言うまでもない。
おそらくは著者が入浴した際にひらめいたのだろうけど、そこから本編にまで発想をふくらませられたことがすごい。

「奇ツ怪陋劣潜望鏡」
人の心に潜む欲望が妙な幻覚として日常をむしばんでいく様子が描かれている。妙な幻覚とは、抑圧された性への渇望を抱えたまま結婚したあるカップルに起こる。
具体的には潜望鏡の形をとって日常のあらゆる場所に登場する。
今から思うと、よくありがちなネタなのだろう。だが、無意識の現れなど随所に著者の心理学の知識が現れているのが面白い。
もっとも、本編が前提としている性の抑圧は、ネット上でいくらでも性的な発散ができる現代では通用しない気もするが。

「郵性省」
これまた性のエネルギーについて。
オナニーによってテレポーテーションができる能力を身につけた益夫の物語。
男子の、しかも高校生の性のエネルギーはかなり高そう。だから、本編のような突き抜けた物語もあながち夢物語には思えない。
それにしても著者の突き抜け方はさすがと言うしかない。着想からの展開の広がりは、著者の感嘆すべき点だ。
本編はオチも秀逸。

「日本列島七曲り」
表題作。発表された当時、盛んだったハイジャックを風刺している。
こうした深刻な事件も著者の筆にかかれば、スラップ・スティックの格好の題材になる。実際、思想のために飛行機を乗っ取る行いなど、悪い冗談でしかない。9.11でワールドセンタービルに飛行機が突っ込む瞬間を中継で見ていた私は、なおさらそう思う。
本編を不謹慎というのは簡単だが、テロ行為をこうした手法で批評したっていいじゃないかと思う。

「桃太郎輪廻」
桃太郎という誰もが知る童話も著者が翻案すると、悪趣味な内容へと早変わり。
桃太郎だけでなく、グリム童話の名作も取り込んだ内容は、童話のほのぼの感とは無縁。
本能のままに突き進んだ桃太郎一行がやらかす悪事は、童話として中和され薄められた物語の元となった逸話がもっとギラギラとヤバかった事を思わせる。
本編のオチは有名な桃太郎の冒頭シーンにきっちりと輪廻させていて、そうした部分に著者の着想のすばらしさを感じる。

「わが名はイサミ」
メタキャラとして著者が顔を出しまくる本編は、新撰組局長の近藤勇を茶化しまくっている。歴史上の英雄だろうが知ったことか、とばかりに。
勝沼の戦いに赴くまでに甲陽鎮撫隊が連日宴会を繰り返しながら進軍し、新政府軍に先に甲府城を押さえられた失態は史実に残されている。その史実をモチーフに、近藤勇の人物を徹底してけなしている。
まったく、著者にはタブーなどないのか、と思いたくなる。

「公害浦島覗機関」
本編は著者の作品の中でも上位に挙げられるべき作品ではないかと思う。
ホテルの中にある謎の空間の存在に気づいた主人公。
空間からは二つの部屋がのぞける。部屋の様子から、どうも空間の中は周囲に比べて時間の進みが遅くなるらしい。
客室の一つでは首都から人を追い出すため公害を促進しようと画策する政治家が指示を出している。その政策が功を奏し、人が住めないレベルにまで大気汚染が進む。ところが人は首都圏にしがみつき続けそして。
作品のオチが見事。

「ふたりの秘書」
二人の女性の秘書に二股をかける社長のドタバタ。
著者にはフェミニストを敵に回す作品がいくつかあるが、本編もその一つ。
見えと虚栄と相手との比較に余念がない女性の一面を、二人の秘書を描くことで表現している。
ロボット秘書もチラッと登場させることで、人間の人間臭さを揶揄しつつ、人間のおかしみを出すあたり、著者の人の良さがわずかに見える気がする。

「テレビ譫妄症」
テレビ評論家が大量のテレビを見ているうちに、現実との境目が曖昧になっていく様が描かれている。
これはありがちな設定かもしれない。だが、数日間ぶっ通しでオンラインゲームをして死ぬ若者が報道される今、違う意味で現実味を持って迫ってくる。
VRやARなどが私たちの暮らしに身近になってきた最近では。

‘2018/11/08-2018/11/09


宇宙衞生博覽會


本作は、著者が発表してきた著作の中でも、屈指の短編集だと思う。著者が生み出した短編は膨大にあるが、ファンによってその中から人気投票を行ったとする。多分、その中には本書に納められた短編がいくつも入るに違いない。

例えば「関節話法」。著者の短編の中でも大好きな一編だ。本書に収められている。「関節話法」が著者の短編の中で傑作に数えられていることは、本書を読む少し前に世田谷文学館で開催された筒井康隆展において、パネル上に著者直筆の原稿を拡大した「関節話法」の全編が展示されたことからも確信できる。今まで「関節話法」には何度も笑わされてきたが、この時も巨大な原稿を読みながら、笑いが堪えられなかった。

本書にレビューは不要。ただ読んでください、とお勧めすればいい。あとはハマってもらうだけ。ところが、こういう世界にハマるであろう長女に貸したところ、読んだ様子がない。著者が原作を書いた「パプリカ」は好きなはずのに。情報があふれている今、私がキュレーターとなって本書を紹介する必要を感じた。ほとんどの人にとって、ドラマ化や映画化されていなければ、読むきっかけにならないのだ。著者で言うと、「時をかける少女」「家族八景」「富豪刑事」のような。

本レビューを書くために本書をいったん長女から返してもらい、各編を紹介してみる。

「蟹甲癬」
これも私の好きな一編だ。小林多喜二の「蟹工船」といえば、プロレタリア文学の金字塔でありながら、虐殺事件のイメージもあって陰惨なイメージが強い。著者はそのタイトルから、これだけ全く違う傑作を作り上げてしまった。人の顔に疥癬ができ、それがカニの甲羅っぽくなる、という着想。さらにその内側にカニミソに似たうまいものが付着し、人々はこぞってそれを食べるように。ところが、、、、。

もう、着想の天才としか言いようがない。今はあまりみないが、ハナクソを食べる子供は人々の嫌悪の対象となっている。本編はその発想を延長し、極上の一編にしている。短編の理想にも思えてしまう。

「こぶ天才」
コブといえば、奇型の象徴にみられがち。それを、子供の教育に奔走する教育ママのヒステリーと掛け合わせている。付着させ、寄生させることで、天才になれるという寄生生物。コブをつければ容姿は醜くなるが、そのかわりに天才になれる。嫌がる我が子につけようとする教育ママの醜さが描かれる。ところが、、、、

その結果、どうなったか、という結末が著者の風刺精神を全開にしていて、面白い。本編はオチが秀逸ことでも印象に残る。

「急流」
著者が江戸川乱歩に認められたのが「お助け」であることはファンには有名な話だ。自分以外、時間の進み方が遅くなった世界を描いた作品だ。本作は逆に全世界の時間が加速度的に速くなる様子を描いている。ドラえもんのエピソードでも似たような話があった気もするし、本編のアイデアは古典的にすら思える。国外には似たような話がないのだろうか。もし本作が同様のネタの嚆矢だとすれば、すごいことだと思う。

著者の多彩な作風を支えるのはSFであり、スラップ・スティックだ。その典型が本編で読める。

「顔面崩壊」
本編もまた、著者の悪趣味な毒が全開の快作だ。普段、誰もが見慣れている顔面。ただでさえ整っているのに、ご丁寧に化粧までする。だが、そんな顔も河を一枚はがすと、恐ろしい形相へと。そんな見た目にだまされず、著者の観察眼は本質をさらけだす。そこに笑いは生まれ、それが私たちの普段の認識から遠ざかるほど、笑いは増してゆく。

本編も、語り方や落ちにいたるまで、著者が短編の巧者であることを味わえる一編だ。

「問題外科」
本編は既存の倫理を笑い飛ばす著者の真骨頂だ。倫理もへったくれもない、とある病院の外科。医術とは倫理があってこそもの。倫理や職業意識が失われた外科は、なまじ道具も技術もあるだけ始末が悪い。ヨーゼフ・メンゲレや七三一部隊の手術室にアルコールを充満させたらこんな風になるだろうか。本編に描かれたような振り切った毒々しさこそが著者の素晴らしさだと思う。

笑いとは、既存の価値観を崩した先にある。医は仁術。そんな価値観が跡形もなく壊されたあと、本編のような笑いが残る。

「関節話法」
冒頭に書いた通り、私にとって本編は笑い袋に等しい。言葉とは意味がつながってこそ。それが乱された時、本人が真剣であればあるほど、笑いは増大する。不謹慎なほどに。そういう笑いのエッセンスが全て本編には詰まっている。

間接を関節と読み替えるだけでここまでの物語を作り上げる著者には、本当に脱帽だ。尊敬する。

「最悪の接触」
これまたコミュニケーションの不条理を描いている。そしてそのシチュエーションは、SFという便利な道具を用いれば、自由自在に設定できる。SFの可能性を感じさせる一編だ。異星人とのコンタクトは、SFでは必須のプロット。これをここまでの笑いに変えられる著者の才能に、いつもながら尊敬する。もはや嫉妬できるレベルからははるかに超越している。

同じ人類でも、コミュニケーションの難しさを感じさせることがある。本編には、そうした絶望や達観もあるだろう。そこで諦めるず、鮮やかに笑いに変えられることに、著者の文学的な才能があるのだと思う。

「ポルノ惑星のサルモネラ人間」
著者の父上は、天王寺動物園の園長も務めた著名な動物学者だったという。その博物学の素養は著者にも受け継がれているはずで、著者の他の作品には博物誌と名がついたものもある。そうしたが医学な知識をSFに適用したらどうなるか、という見本のような一編だ。ここにもSFの装置を使うことで、無限の可能性が生まれる実例がある。

本稿をアップする数日前、同じ世田谷文学館で開催された小松左京展を訪れた。著者の肉声を聞くこともできた。そこで感じたのは、SFの限りない可能性だ。本書はSFの可能性が存分に感じられる。40年以上前に書かれたというのに。技術を追うことがSFではない。既存の価値観を取っ払えるからこそSFなのだ。

‘2018/10/16-2018/10/16


最後のウィネベーゴ


饒舌の中に現れる確かな意思。著者が物語をコントロールする腕は本物だ。

以前読んだ『犬は勘定に入れません』でも著者の筆達者な点に強い印象を受けた。本書を読んで思ったのは、著者が得意とするのは物語のコントロールに秀でたストーリーテラーだけではなかったということだ。

ストーリーテラーに技巧を凝らすだけではなく、著者自身の個人的な思想をその中に編み込む。本書で著者はそれに成功し、なおかつ物語として成立させている。本書に収められた4編は、いずれも饒舌に満ちた展開だ。饒舌なセリフのそれぞれが物語の中で役割を持ち、活きいきと物語に参加する。そればかりでなく積み重なっていくセリフ自身に物語の進路を決定させるのだ。その上ストーリーの中に著者の個人的な思想の断片すらも混ぜ込んでいるのだから大した文才だ。そもそも、口承芸でない小説で、地の文をあまり使わずセリフのほとんどで読ませる技術はかなりの難易度が要ると思う。それをやすやすと成し遂げる著者の文才が羨ましい。

女王様でも
これは、アムネロールという月経を止める薬が当たり前のように行き渡った未来の物語。アムネロールなる架空のSF的設定が中心ではあるが、内容は女性の抱える性のあり方についての問題提議だ。月経という女性性の象徴ともいうべき生理現象への著者なりの考えが述べられている。本書には生理原理主義者ともいうべき導師が登場する。導師である彼女は月経を止める試みを指弾する。それは男性を上に置く愚かな行いであるというのだ。彼女は生物としての本来の姿を全うするようパーディタを導こうとする。パーディタとは本編に登場する一家の末娘。アムネロールが当たり前となった周囲とは違う導師の教えに惹かれる年代だ。

一家の長はパレスチナ問題の解決に東奔西走する女性であり、本書には生理の煩わしさから解放された女性の輝きが感じられる。それは当然ながら著者の願望でもあるはずだ。

一家はパーディタを呼び出し、導師の主催する集まりからの脱退を忠告する。だが、そこに現れたのは導師。導師は話を脱線させがちな一家の女性たちの饒舌に苛立ち席を立つ。男性支配に陥った哀れな人々、と捨て台詞を残して。だが、導師の苛立ちは女性に特有の饒舌への苛立ちであり、導師の中に男性支配の原理を読み取ったのは私だけだろうか。

月経のつらさは当然私には分からない。だが、本章の最後で月経の実態を聞かされたパーディタが発する『出血!? なにそれ、聞いてないよ!』のセリフに著者の思いが込められている。かくも面倒なものなのだろう。女性にとって生理というやつは。

著者は本編で、女性性と男性性は表裏一体に過ぎないという。そんな七面倒な理屈より、女性にとって月経がとにかく厄介で面倒なのだ、という切実な苛立ちを見事にドタバタコントに収め切ったことがすごいのだ。

タイムアウト
時間発振器という機械の実験に伴うドタバタを描いた一編だ。時間は量子的な存在だけでなく、現在子としてばらばらに分割できるというドクターヤングの仮説から、登場人物たちの過去と未来がごちゃ混ぜに現在に混入する様を描く。著者のストーリーテリングが冴えわたり、読み応えがある。

本章では、家庭の些事に忙殺されるうちに、輝ける少女時代を失ってしまう事についての著者の思いが投影されている。本編に登場するキャロリンの日常は子育てと家庭の些事がてんこもり。ロマンスを思い出す暇すらもない日々が臨場感を持って描かれている。著者自身の経験もふんだんに盛り込んでいるのだろう。

過ぎ去りし日々が時間発振器によって揺さぶられるとき、人々のあらゆる可能性が飛び出す。本編はとても愉快な一編といえるだろう。

スパイス・ポグロム
これまたSF的な雰囲気に彩られた一編だ。異星人とのカルチャーギャップを描いた本編では、全編がドタバタに満ち溢れている。舞台は近未来の日本。日本にやって来た英米人を書くだけでもカルチャーギャップの違いでドタバタが書けるところ、異星人を持ってくるところがユニーク。異性人の言動によってめちゃめちゃになるコミュニケーションがとにかくおかしい。著者が紡ぎだす饒舌がこれでもかというばかりに味わえる。

著者は本編でコミュニケーションの重要性よりも、コミュニケーションが成り立つことへの驚きを言いたいのではないか。一般にコミュニケーションが不得手と言われる日本を舞台にしたことは、日本人のコミュニケーション下手を揶揄するよりも、コミュニケーションの奥深さを指している気がする。ただ、いくら技術が進歩しようとも、あくまでコミュニケーションの主役は人類にあるはず。とするならば、コミュニケーションの不可思議さを知ることなしに未来はないとの著者の意見だと思われる。

最後のウィネベーゴ
表題作である本編で描かれるのは、滅びゆくものへの愛惜だ。情感を加えて描かれる本編は何か物悲しい。イヌが絶滅しつつある近未来の世界。イヌだけでなく動物全般がかつてのようにありふれた存在ではなくなっている。そればジャッカルも同じ。その保護されるべきジャッカルが、ハイウェイで死体となって発見された事で本編は始まる。ジャッカルはなぜ死んだのか、という謎解きを軸に本編は進む。

犬のいない世界が舞台となる本編のあちこちに犬への愛惜が織り込まれる。人類にとってこの惑星で最良の友とも言える犬。犬が居ない世界は愛犬家にとっては悪夢のような世界だろう。おそらくは著者もその一人ではないか。犬がいない世界の殺伐とした様子を、著者はじっくりと描きだす。

たとえ殺伐とした未来であっても、当然そこを生活の場とする人々がいる。そんな人々の中に、キャンピングカーで寝起きする老夫婦がいる。彼らの住まいはかつてアメリカでよく見られた大型キャンピングカーのウィネベーゴ。老夫婦はウィネベーゴを後生大事に使用し、観光客への見世物として生計を立てる。老夫婦は、本編においては喪われるものを慈しむ存在として核となる。イヌのいない世界にあって、彼らにとってのウィネベーゴは守らねばならないものの象徴でもあるのだ。

本編からは、現代の人類に対する問題提起も当然含まれる。われわれが当たり前のように享受しているモノ。これらが喪われてしまうかもしれない事を。

巻末には編訳者の大森望氏による解説もつけられている。こちらの内容はとても的確で参考になる。

‘2016/5/30-2016/6/3


傾いた世界―自選ドタバタ傑作集〈2〉


ミュージシャンのベスト盤に相当する、筒井氏のベスト集。ベストというに相応しい収録作である。関節話法は読むたびにゲラゲラ笑ってしまう。

難しいことは考えず、ただひたすらに笑いに徹することのできる、稀有な短編集。

ベスト盤が出せる小説家というのもそうそういないのだが、筒井御大についてはさすがというべきか。

’12/2/5-’12/2/5