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あなたを天才にするスマートノート


本書は、お客様にお勧めとして貸していただいた一冊だ。

本書はいわゆるノート術を扱っている。いろいろなノート術は世の中に出回っている。だが、そうしたやり方とは一線を画している、と著者は主張する。

それは、著者がダイエットに成功した実績があるからだ。その時に使った実際のノウハウをノートとして置き換えたものが本書に惜しみなく書かれている。

タイトルにある天才、とは受け狙いのネーミングにも見えるが、そうではない。
著者は天才を、発想力、表現力、論理力の三つを兼ね備えた人物だと定義する。この三要素を持ち合わせた人となると、人類の中でも一握りだ、とも。

著者はその人物を例に挙げ、スティーブ・ジョブズ、北野武、レオナルド・ダヴィンチだとする。あいまいな天才という概念で終わらせず、三つの能力を持ち出したのが本書の良い点だ。私たちに目指すべき目標をまず明確に提示しているからだ。

著者は本書において、手書きのノートの効用を強調する。そして、自らのノートの実例を何例もそのまま掲載する。

私が普段実践している方法は、著者が本書で推奨する方法のいくつかに近い。だが、取り入れていないことはまだまだあると思っている。

私が既にやっていることは、日々の反省を必ずSNSにアップすることだ。これは七年ほど毎日、欠かさず行っている習慣だ。
だが、私がSNSに書く内容は著者の勧める内容とは少しだけ違う。書く内容が雑多だからだ。日記に近い。
著者はより踏み込んだ記述を勧めている。その記述とは、良かったことと悪かったことを明確にリストアップし、記す。そしてその内容は積極的に忘れる。著者が打ち出す姿勢はその二つだ。

この姿勢は、著者の意見に全く同意だ。私がSNSにアップする理由の一つは、忘れるためだからだ。

一方でメモを取る人間と取らない人間の差についても著者は触れている。それは人間の記憶容量と加齢による衰えだ。脳内で処理する人は、それができるうちはメモが不要だが、やがてその能力に衰えが兆した時、メモを取っていたものが優位になる。
著者も元来はノートが不要と考える論者だったが、今はノートの効用を確信しているという。

著者は続いて、日々の良かった点と悪かった点に六段階で評価することも勧めている。点をつけることによって、自分を客観視することができる。自分の中で区切りをつけられる効果も見越しているのだろう。これもまた、忘れるための一つの通過点だ。

著者は忘れることの効果を説く。ところが、積極的に忘れているつもりでも、無意識では自分の中に日々の言動が確実に蓄積されてゆく。それが著者のいう効果だ。
私の場合、SNSにアップした記事の数々によって、パブリックイメージも間違いなく蓄積されていると思う。

著者の勧めるメソッドで最も目をみはらされたのが、余白の効用だ。
著者は一日の記述を見開き左右ページで使うことを強く推奨する。
右にその日の出来事を書いたら、左ページは雑感、所感、なんでも好きなことを書くために空けておく。書かなくてもいい。数日間空白でもいい。ただし、左は何でも書けるように確保しておく。

これが本書で著者が勧めるメソッドの肝だ。

それはあえて心に余白を意識させることだと思う。余白とは余裕であり、遊びだ。
それを左ページの余白として日々意識することで、心はそれを埋めよう、活かそうと作用する。

私がSNSに書き込むのとはそこが違う。
SNSは書き込んだ後、余白はトリミングされて表示される。
いくら自由に編集もでき、ツイッターのように字数制限がないとしても、入力欄には余白がない。
つまり、SNSは余白を意識しにくいツールなのだ。

だが、著者の勧めるスマートノートは常に左一面を余白として用意する。その余白を意識させることで、今の自分の可能性を意識させ、器を広げる。
なるほど。

ただし、余白を意識するにはノートと筆記具が必要だ。スマホやパソコンではそれが難しい。
私にとってそれが大きなハードルだ。
今までも手帳を持ち歩く習慣を身につけようと頑張ってみたが、予定を管理する機能においてスマホやパソコンにかなわない。また、予定を簡単に共有できる利点も捨てがたい。そもそも、毎回カバンから出すのが面倒だからだ。

デジタルな私は本書を読んだあと、著者のスマートノートのメソッドがアプリとして存在しているのではないかと探してみた。ところが見つけられなかった。
自分で作ろうかと思ったぐらいだ。

ここで大切なのは、著者がデジタルを否定していないことだ。著者はアナログを礼賛し、デジタルを否定してはいない。
ただ、現状ではまだデジタルは紙の利便性に到達していないといっている。本書は2011年に出版された。だが、それから10年近くがたった今でも、デジタルは余白を意識させる設計にはなっていない。背後には広大なハードディスクの空き容量があるにもかかわらず。

デジタルの余白の問題は、デバイスの画面サイズという問題としてもついて回る。
著者はデジタルを頭から否定するわけではなく、デジタルが著者の構想を再現できるようになればデジタルを厭わないと書いている。

私もせっかく貸していただいたので、これを機会にノートへの記述を始めてみようと思う。
本書をお客様に返す日が、年の後半の開始という切りの良さもあるし。
何より、私が自分の弱点であるビジネスの発想力を養ってくれるかもしれないからだ。
衰えていく一方の脳に刺激を与える意味でも。

最後に著者はオタキングexというFREE ex組織についても紹介している。
これは面白い。著者は自らがもらうべき印税その他の報酬を0円にしているという。その代わり、オタキングexの社員から一人あたり12万円を受け取っているという。
社員は著者の印税で収入を得て、それと同時に著者に給料を払う。
それによって著者は定期収入を確保するというしくみだ。
いわゆるサブスクリプションの考えを会社の運営に当てはめた試みだ。

これは面白い。
私も今後の生き方について大いに参考になった。

もっとも私の場合、著者の持つ知名度の足元にも及ばないが。
そのためにもスマートノートを試し、飛躍したいと思う。

上の文章は、お借りした当時に記した文章だ。だが、実は私の中にスマートノートの習慣は根付いていない。
ノートを取り出すのがどうしても億劫だったのだ。
Evernoteをより頻繁に利用するようにした。
そして、これからの展望を書くようにもした。
確実に本書を読んだ成果はどこかで身についているようだ。
著者と貸してくださったお客様には感謝だ。

‘2020/06/01-2020/06/02


二人静 第四回 金春流能楽師中村昌弘の会


能を最後に観たのはいつのことだろう。まったく覚えていない。そもそも私は能を観たことがあるのかすら自信がない。たしか学生時代に授業の一環で鑑賞した気がするのだが。それぐらい今の私は能の初心者だ。もちろん、国立能楽堂を訪れるのは今回が初めて。

この度の機会は主催の金春流の能楽師、中村昌弘さんが狛江にお住まいであるご縁からお誘いをいただいた。私はそのご縁を逃がさず、きちんとした能を観劇し、堪能し、さまざまな気づきをいただいた。この日はあいにくの雨だったが熱心なファンは多数いるらしい。ほぼ九割がた席は埋まっていた。

能舞台といえばイメージがすぐ浮かぶ特徴のある外観。渡り廊下(橋掛かり)から前面に突き出た立体的な舞台までは幾何学を思わせる構築の美にあふれている。舞台の背後のほかはすべて開放された無駄のない空間。そんな能舞台を国立能楽堂は観客席を含めて屋内に収めている。屋内でありながら能の臨場感を感じさせ、同時にこの日のような悪天候でも気にせず開演できる。それが国立能楽堂の良いところだろう。

観客席から舞台を見て右後ろ奥に切戸口という役者の出入り口がある。開幕の合図を機に、四名の羽織袴の男性とまだ幼さの残る少年が舞台へと進み出てきた。そこからしずしずと進み出る様はそれだけで一つの様式美を感じさせる。仕舞の「邯鄲 夢の舞」が始まる。変声期を迎える前の少年のかん高い声と四名の地謡の野太い声の対照が印象に残る。重厚な地謡の響く中、少年の舞はわずかなたどたどしさを感じたものの、金箔があしらわれた扇を操る様は軽やか。この後に登場して解説を加えた能楽評論家の金子氏によると、少年は今日の主催の中村昌弘さんの息子さんだそう。昨年末に今日の演目である邯鄲を披露する予定だったが、急なインフルエンザで休演を余儀なくされたとか。今日の舞は雪辱を果たす舞台になったそうだが、無事に勤め上げられてホッとしている事だろう。次代の日本の伝統芸能を担っていってほしいと思う。

金子氏の解説は続いての狂言「空腕」と能「二人静」にも及ぶ。能楽評論家という職業は今日初めて知ったが、名乗るだけのことはあり、明快に見どころや聞きどころを語ってくださる。とても参考になった。

金子氏が退場した後は、仕舞「野守」だ。中村昌弘さんが優雅に扇を操り、舞に動きをつける。時にたたらを踏んで舞台から音の波動を発し、リズムを刻む。重厚かつ軽快な舞。さすがだと思う。まさに静と動。それでありながら、前にかざした扇に首をキリッと向ける所作がとても印象に残った。地謡の山井綱雄さんが謡う微妙なメロディの抑揚と、時折、中村さんがたたらを踏んで舞台を鳴らす外は静寂に満ちた舞。そこに一つのアクセントを与える首の表現。私が美しさを感じたのはそこだ。

私は仕舞を見るのはほぼ初めて。妻の日舞を何度か見、歌舞伎の舞台を見た程度だ。こうした所作の美しさは、きらびやかな西洋仕立ての舞台ではあまり感じることはない。ところが能舞台で見ると、その美しさがことさらに迫ってくる。この上なく簡潔な衣装でありながら、人の動きが鮮やかに迫ってくる。空気の動きまで感じられるかのような舞は、音響がまったくない澄み切った能舞台ならではのものだと思う。

続いての仕舞「昭君」は中村さんではなく、別流派である観世流の武田宗典さんによるもの。私はこうした舞踊を語る知識も経験もない。うまく語れないし、二つの演目の違いが何なのかも分からない。それでも二つの舞からは何らかの個性は感じられた。これが舞う演者の個性なのか、流派の違いによるものかは分からない。だが、この二つの仕舞は、時間も短く、メリハリもあってかえって印象に残った。

続いては狂言「空腕」。事前に金子氏から解説が加えられていたため、おおかたの筋は理解していたつもり。狂言はいわゆるコントの源流。だからセリフが観客に聞き取れなければ、何にもならない。正直、最初の三つの仕舞では、地謡が何を言っているのか全く分からなかった。

ところが「空腕」はとても分かりやすかった。大蔵流の善竹富太郎さんがシテ。善竹大二郎さんがアドを演じていたが。この二人の発するセリフは朗々としてとても分かりやすい。どこが笑いどころなのかも理解できる。笑いのツボは数百年の時を隔ててもなお通じるのだ、と理解できる。

歌舞伎や落語など、江戸時代に発展した芸能が今も盛んに興行を行うのはわかる。だが、室町以前から受け継がれた芸能は今の世の中ではなかなか表舞台に出ることは少ない。ところが狂言は別だ。狂言は今の芸能界でも存在感を十分に発揮している。和泉元彌さんを真似たチョコレートプラネットの「ソロリソロリ」もそうだし、野村萬斎さんの活躍ぶりもすごい。それはセリフが明朗で、かつ人間の本性に切り込む芸の本質が、現代にもなお通じるからではないだろうか。

幕あいの休憩を挟み、続いては能「二人静」。今日の主演目だ。これまでの三つの仕舞と狂言はかろうじて舞のダイナミズムが現代の時間軸に通じるものがあった。だが、能はまったく違う。舞台の上で流れる時間は忙しない現代のそれとは別世界。橋掛かりを進んでくる菜摘娘や静御前の亡霊の歩みの遅さといったら。

ビジネスの現場ではあり得ない時間の進み。それは、合理化を旨とする情報業界に住む私にとってはもはや異次元に思える。現代人は忙しない、と揶揄されるが、その一員として生きていると、その忙しさは実感できない。だが、能舞台に流れるゆったりとした時間は、私の生活リズムとは完全に乖離している。ビジネスの現場にどっぷりの今だからこそ、能に流れる時間の遅さを新鮮に感じた。古き良き日本の風土や文化から見た時、現代のビジネスの時間軸とは果たして人のあるべき姿なのだろうか。そんなことを思った。

正直、あまりの時間の進みの遅さに、私は前半の菜摘娘が徐々に静御前に憑依されてゆく部分で三度ほど瞬間的に寝落ちしてしまったほどだ。金子氏よりここが見どころと教わっていたにもかかわらず。

後半、静御前の亡霊が橋掛りを渡って舞台へ乗り、菜摘娘と静御前の亡霊がそろって舞うシーンはクライマックスだと思う。ここも事前に金子氏の解説でなぜ難しいのかを教わっていた。いわゆる能面の目の部分は、わずかにしか開いていない。そして眼の位置は演者の顔に合わせているのではないという。つまり能面を被ると視野が極端に狭まる。それでありながら、菜摘娘と静御前の亡霊の所作にズレや狂いは許されない。そこを鍛錬と勘で合わせるのが見所だという。

正直、微妙なズレは何度か見かけた。明らかなズレも数度はあった。最初はそのズレが失敗に思え、残念にも感じた。だがやがて、そのズレをも含めて鑑賞するのが正しいのではないかと思うようになった。

そもそもズレとは基準としたリズムがあってこそ。ところが能を鑑賞していると基準となるリズムがわかりにくい。確かに能には囃子が付く。「二人静」でも太鼓と小鼓、笛や八名の地謡の方々が背後と脇に控えている。太鼓と小鼓の方は「ヨーッ!」「ハ」と声を伸ばし、合いの手を入れつつ鼓を打つ。だが、その拍子にロックやジャズのリズムは感じられない。そもそも、大鼓に拍子の整合性はあるのだろうか、と思ってしまう。だが、悠久のリズムに合わせ、演じられるのが能なのだろう。

と考えると「二人静」の少しぐらいのズレは許容しなければならない。そしてズレも含めて楽しむ。それが正しい能の楽しみ方ではないかと思った。解説で金子氏がおっしゃっていたが、能が好きだったことで知られる太閤秀吉の望みで「二人静」が舞われた際のエピソードが伝わっているという。当時も二人静を演ずるには同じぐらいの技量を持ち、背格好も同じぐらいの演者をそろえなければならなかったという。そして当代の実力ある二人の演者は流派も違い、犬猿の仲だったとか。実際、秀吉の前で披露された「二人静」の舞はバラバラだったという。にも関わらず、演目としては確かに完成されていたとか。つまり一分たりとも狂ってはならないというのは現代人ならではの感性であり、能の本質ではないということなのだろう。

むしろピッタリと一分の狂いもなく二人の演者の舞が合うことこそ、非現実的でかえって興が削がれるのではないか。デジタルを思わせる完全に同期された舞など、能の舞台にあっては異質でしかない。そんなものはVTuberに任せておけばよい。むしろ、能舞台の上に流れる雄大な時間軸にあっては少しぐらいのズレなど、差のうちに入らないことのほうが大切だ。

私はそのことに思い至ってから、舞台の舞のズレが気にならなくなった。

また、狂言と能では座席前のパネルにセリフが流れるようになっている。狂言は明確にセリフが理解できたので不要だった。だが、能ではさすがに何を謡っているのかわからずパネルのスイッチを入れた。そこで見た極端までに切り詰められたセリフ。それは古くからの日本語の響きが受け継がれており美しい。日本古来の美学が感じられる。ただ、惜しいことに、現代の日本には私も含めてそれを理解できる人がほとんどいない。

パネルにセリフを流すのはよいことだと思うけれど、このセリフをなんとかして理解できるものにできないか。それとも、これは能本来の様式として保存すべきで、セリフも変えずに今後も上演されていくのが正しいのだろうか。私にはわからない。でも、現代の能楽師は当然そのことを考えているはず。本来ならば観客に教養や素養があればよいが、それはかなわぬ願い。では現代のどこに能が生き延びる余地があるのか。

あらゆる文化がデジタルの波に洗われている昨今。能舞台の上こそは、現代ではもはや見られない情報から隔絶された世界なのだと思う。そして能舞台から発信される情報とは、舞台の上で演じられる所作や舞や謡いや拍子のみ。ピンマイクもなく、特殊効果にも頼らない舞台。磨き抜かれ、時流とは一線を画した美意識に純化された生身の人間から発せられる情報。今どき、そんな情報に触れられる機会はそうそうない。

私は能の孤高の世界観にとても惹かれた。そして能の世界に流れる時間軸から逆に現代の世界の疲れと歪みをみた。

そして能が生き延びる余地とは、まさにそこにあるのではないかと考えた。人本来のリズム。そのリズムとは本来、エンジンの動きやCPUのクロック信号、電磁波の周波に襲われるまでは、人間が刻んでいたもののはず。ところが今や人間が刻むべきリズムはデジタルの圧倒的な沸騰に紛れどこかに消えてしまった。だが、人が人である限り、そのリズムはどこかで誰かが保ち続けなければならない。それを担うことこそが能の役目ではないだろうか。

人を置き去りにしていったリズムは、この先もデジタルが牛耳っていくことだろう。だからこそ、能が求められる。能舞台に流れる時間だけが、人の刻むリズムを今に伝える。とすれば、能をみることに意味はある。時間を思い出すための能。人がデジタルから離れるためには、今や能だけが頼りなのかもしれない。

‘2019/06/15 国立能楽堂 開演 13:30~

https://nakamura-nou.saloon.jp/kouenkai/index/tandokukouenbacknumber.html


デジタルは人間を奪うのか


IT業界に身をおいている私だが、今の技術の進展速度は空恐ろしくなる。

ハードSFが書くような未来は、今や絵空事でなくなりつつある。自我や肉体がITで補完される時代の到来だ。

自我のミラーリングに加えて自我の世代管理が可能な時代。自我と肉体の整合性チェックが当人の意識なしに、スリープ時にcron処理で行われる未来。太陽系内の全ての意識がデータ化されトレース可能な技術の普及。そんなSF的発想が遠からず実現可能になるのではないか。一昔前ならば妄想で片付けられる想像が、もはや妄想と呼ぶのも憚られる。今はそんな時代だ。

そんな時代にあって自我とは何を意味するのか。そして哲学は何に悩めば良いのか。数多くのSF作家が知恵を絞った未来が、道筋の果てに光となって見えている。今のわれわれはそんな時代の入り口に立ちすくみ、途方に暮れている。

本書は、現代の技術爆発のとば口にたって震えおののく人々のためのガイドだ。

今、最先端の技術はどこまで達し、どこに向かっているのか。デジタルの技術は人間を地球を幸せにするのか。それとも死の星と変えてしまうのか。IT業界に身を置いていてもこのような課題を日々取り扱い、悩んでいる技術者はあまり見かけない。おそらくホンの一握りだろう。

今の技術者にとって、周囲はとても賑やかだ。機械学習にIoT。ビッグデータからAIまで。といっても私のようなとるに足らぬ技術者は、それら最先端の技術から産まれ落ちるAPIをさわって悦に入るしかない。もはや、ITの各分野を横断的に把握し、なおかつそれぞれの分野に精通している人間はこの世に数人ぐらいしかいないと思う。それすらもいるのか怪しいが。

だが例えIT業界に身をおいていないとしても、IT各分野で起こっている技術の発展については表面だけでもは知っておかねばならない。少なくとも本書で書かれているような技術事情や、それが人間と社会に与える影響は知っておくべきだろう。それだけに本書のようなデジタルが人間存在にもたらす影響を考察する書は貴重だ。

著者は科学ジャーナリストではない。デジタルマーケティングディレクターを肩書にしている。という事はIT現場の第一線でシステムエンジニアやプログラマーとして働いている訳ではない。設計やコーディングに携わることもないのだろう。だがマーケティングからの視点は、技術者としての先入観に左右されることなく技術が人々に与える影響を把握できるのかもしれない。「はじめに」で著者は、デジタルの進化に違和感を感じていることを吐露する。つまり技術を盲信する無邪気な楽天家ではない。そこが私にとって共感できる部分だ。

本書冒頭では永遠に動き続ける心臓や精巧に意志を再現する義肢などの最新の技術が披露される。本書では他にも仮想通貨、3Dプリンター、ウェアラブルコンピューター、IoT、自動運転車、ロボット、仮想政府、仮想企業、人口器官などなど様々な分野の最先端技術が紹介される。

だが、本書は単なる技術紹介本ではない。それだけなら類似の書籍はたくさんある。本書の素晴らしい点は、無責任なデマを煽らずにデジタルのもたらす光と影を洗いざらい紹介していることだ。そこでは著者は、冒頭に私が書いたようなSF的な絵空事まで踏み込まない。著者が考察するのは現時点で達成された技術で起こりうる範囲に限定している。

著者の説くデジタル世界の歩き方。それはこれからの時代を生きねばならない人類にとっては避けて通れないスキルだ。テクノロジーがもたらす影を受け入れ、それに向かい合うこと。もののネット化(IoT化)が人にもたらす意味を考えること。人間はロボットを常に凌駕し続け、考える葦でありつづけねばロボットに負けてしまうこと。そのためには人間の思考、感性の力を発揮し続けねばならないこと。

各章で著者が訴えるのは、デジタルをリードし続ける責任を人類が担っていることだ。それがITを産み出した人類に課せられた使命。そのためには人間は考え続けなければならない。ITの便利さは利用しつつも想像力は常に鍛え続ける。そのためのヒントは、情報と知識の使い分けにあると著者は言う。

「情報」はメディアなどを通じて発信者から受信者へ伝達されるある物事の内容や事情に関する知らせで、「知識」はその情報などを認識・体系化することで得られるものである。さらに「思考」は、その知識や経験をもとに何らかの物事についてあれこれ頭を働かせることである。これらの言葉を曖昧に使っていると、大いなる勘違いを招く。(174-175ページ)

情報を知識と勘違いし、知識を知力と錯覚する。それこそがわれわれが避けなければならない落とし穴だ。そこに落ち込まないためには思考の力を鍛えること。思考こそがテクノロジーに飲み込まれないための欠かせない処方箋である。私は本書からそのように受け取った。思考さえ疎かにしなければ、ITデバイスの使用は必ずしも避ける必要はないのだ。著者の提言はそこに集約される。

著者は最後に紙の新聞も読んでいることを告白する。紙の新聞には、電子媒体の新聞にない「閉じた安心感」があるという。全くその通りだと思う。閉じた感覚と開けた感覚の違い。ファミコンやPCエンジンで育った私の世代は、決してITに無縁だったわけではない。ゲームだって立派なIT技術のたまものだ。だが、それらは閉じていた。それが開いたのがインターネットだ。だから、インターネットに囲まれて育った世代は閉じた世界の安心を知らない。だが、閉じた世界こそは、人類の意識にとって最後の砦となるような気がする。紙の本は確かにかさばるかもしれないが、私が電子書籍を読まないのもそれが理由だと思う。

私は閉じた世界を大切にすべき根拠に感覚を挙げたい。触覚もいずれはデジタルによって代替される日が来るだろう。だがその感覚を受容するのがデジタルに寄生された意識であってはならないと思う。今はまだ百パーセント有機生命体である脳が感覚を司っている。そして、それが人が人である定義ではないか。例えば脳疾患の治療でもない限り、頭に電極を埋め込み、脳をテクノロジーに委ねる技術も実現間近だ。そしてその技術が主流になった時、人類は深刻な転換期を迎えるのではないだろうか。

思考こそが人の人たるゆえん。著者の論理に従うならば、我らも思考しなければならない。デジタルデパイスはあくまでも人の思考を助けるための道具。決して思惟する行いをデジタルに丸投げしてはならない。本書を読んでその思いを強くした。

‘2016/05/06-2016/05/07