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日本書記の世界


令和二年。日本書記が編纂されて1300年。
その年に日本書紀を解説する久野先生の講演を聴く機会をいただいた。講師の後、久野先生ご自身が書物に署名してくださる機会にも恵まれた。久野先生の日本書記にかける熱い思いは、私に日本書紀の世界への興味を抱かせた。それもあって、入門篇と言える本も読んでみたいと思った。
久野先生の日本書紀への熱い思いには感銘を受けたが、だからこそ、主観を排した中立の立場で書かれた研究書を読まなければ、と思った。また日本書記が中立の立場からどのように捉えられているかについても知っておきたかった。
本書は著者による主観を排し、なるべく客観的な事実を述べることに終始している。私の目的に合致している。

本書はまず概観の章が設けられている。
そこでは日本書紀の成立年代が養老四年(七二〇)であること。六国史の第一の書として編纂されたことが記されている。
他にも、編纂の材料がどこからとられたか、名称や年表、執筆者、内容といった、日本書記の全体像の大筋が取り上げられている。

日本書紀は、直前に日本を騒乱の渦に巻き込んだ壬申の乱によって資料が散逸するなど、編纂にあたっての苦労があったようだ。
さらに、日本書記がわが国の歴史を振り返る史書として、手本となる中国の史書に遜色のない内容と体裁を目指したことによって、編纂者による苦労は大だったようだ。
そのため日本書紀は同時期に編纂された古事記との違いを打ち出すためか、漢文で書かれている。古事記との比較においても注目すべき内容が多い。

日本書記は舎人親王による編纂が中心だが、紀清人らが執筆の実務に当たったことも紹介されている。
わが国の最初の史書であるがために、神代の時期から歴史を取り扱うことが求められた。証拠も文書も残っていない伝説を史書としていかにして取り扱うか。そうした編纂者たちの苦労にも著者は筆を割いている。
凡例をどうするか。漢文調をどうするか。名称については当初は日本書紀ではなく、日本紀であったこと。そもそも借字日本紀と言う別の日本書記の存在や、和銅五年に上奏された日本書紀の存在説など、日本書紀には別の版があった可能性を本書は説明している。

また、日本書記の紀年方法は古くより議論が絶えない。初めの頃に在位していた天皇の物故年齢や在位年数が異常に長く設定されていること。年数が長い理由について、古くからさまざまな諸説がとなえられてきたが、結局のところ定説と言われる紀年方法はないこと。
また、歴史上の出来事の出典はどこから題材としたのか、という問題も重要だ。なぜなら、わが国の歴史とされているものが実は中国側から見た歴史に過ぎないと言う問題もはらんでいるからだ。本書には日本書記の出典元として、多様な書物が紹介されている。史記、漢書、後漢書、三国志、梁書、隋書、藝文類聚、文選、金光明最勝王経、淮南子、唐実録、東観漢記。

こうした成立にあたっての処処の問題を考えると、日本書紀とは単純に礼賛だけしていれば良い類の文書ではなさそうだ。もちろん日本書紀がわが国最初の史書であり、尊重すべき対象であることは当然だが。

そこから本書は内容の紹介に移る。まず神代の時代。神々が誕生し、神々が国土を生む。さらに日月神が生まれ、天照大御神から誕生した神々が地に満ちていく。天孫降臨神話から、海幸山幸の物語、スサノオの挿話が紹介される。

さらに神武天皇の実績が描かれる。
神武天皇とは、言うまでもなく初代天皇である。神武東征もよく知られた神話だが、日向の高千穂が出発地として設定されている。実はその理由について、定説がない。本書にもそのことに触れているが、私としても日本国家の成り立ちがどこかについては、興味が深い。

続いて綏靖天皇から開化天皇までのいわゆる欠史八代の天皇について書かれている。この部分に関してはあまり研究は進んでないようだ。
さらには景行天皇、成務天皇について。景行天皇とは、いわゆる日本武尊の父とされる。そうした日本武尊の伝説と史実の比較も著者は指数を割いている。
続いての応神天皇と神功皇后は、本書の中でも多めに取り扱われている。それはその時期に目立つ天皇の在位年数に空白がある問題だ。一説に神功皇后=卑弥呼という説もあるが、その説も踏まえ、同時期になんらかの巨大な争いがあったことが示唆される。この時期も古代史の愛好家にとっては興味深い部分だ。
古代史でも日本書紀の記述の中でも、この部分はクライマックスの一つだ。大陸や朝鮮半島の史書と日本書紀がリンクし合い、謎が解けそうな予感。何かが明らかにされようとしているのに、それが決して解決されない。そのロマンも日本書紀の魅力に数えて良いだろう。

同時にこの時期は、大陸や半島からの人物の来日や文化の流入が相次いだ時期でもある。その意味でもわが国にとって重要な時期であることに間違いはない。
その後の仁徳天皇も、最大の陵墓を擁する天皇として知られている。が、その知名度のわりに、仁徳天皇の事績と伝えられたものが実は根拠もなく曖昧であることを本書は指摘している。

この辺りからの歴代天皇の記述には不自然な年数が見られなくなる。が、一方で天皇に対する描写が荒れはじめる。そこで描かれた天皇の業績は、とても神々の末裔を描いたとは言えない。
家臣に殺された安康天皇や、雄略天皇、武烈天皇が成したとされる残虐な行いの数々。
政府が編纂した史書であるにもかかわらず、天皇を貶めた表現がある。著者はこの部分を天皇観に異なる解釈があったのではないかと指摘している。こうした部分についての著者の解釈はとても慎重であり、断定をしないように気を配っている。

続いての継体天皇からは、著者は国体の系統に何かの断絶があったことを示唆している。
むしろ、この時期は対半島との関係や、仏教伝来についての記述が増えていることを指摘する。

こうして記紀は蘇我氏と物部氏の争いや、聖徳太子、大化の改新から壬申の乱へと記載が続く。
著者の姿勢は断定を避け、あくまでも諸説並列を原則としている。
記述は簡潔で、特定の立場に依拠していない。そのため、入門編としてスイスイ読み進められる。

以降の本書は、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、明治以降に続く日本書紀の研究史を紹介する。
先人たちによる多くの研究の上に日本書紀は解き明かされてきた。だが、先に見てきた通り、まだまだ日本書記には根本の部分で謎が多い。
そして、それが人々を惹きつけてきたこともまた事実だ。

私としては、本書を入門書として折りに触れて目を通したい。そして、基本的な知識を忘れずにいたいと思う。

‘2020/03/26-2020/03/28


イマドキ古事記 スサノオはヤンキー、アマテラスは引きこもり


旅が好きな私。日本各地の神社にもよく訪れる。
神社を訪れた際、そこに掲げられた由緒書は必ず読むようにしている。
ところが、その内容が全く覚えられない。特に御祭神となるとさっぱりだ。

神代文字に当てた漢字の連なりも、神の名前も、神社を出るとすぐに忘れてしまう。
翌日になるとほとんど覚えていない。
そんな調子だから、いまだに古事記の内容を語れない。
何度も入門書や岩波文庫にチャレンジをしているのだが、内容が覚えられないのだ。

結局、私が覚えている事は、子供向けの本に出るような有名な挿話をなぞるだけになってしまう。
いつも、旅に出て神社を訪れる度に、何とかして古事記を覚え、理解しなければ、と思っていた。

そんなところに、妻がこのような本を買ってきた。タイトルからしてクダけている。
クダけ過ぎている。
スサノオはマザコンのヤンキーだし、アマテラスは引きこもりでしかもロリ巫女。因幡の白ウサギはバニーガールで、海幸山幸はねらー(5ちゃんねるの住人)だ。

文体もそう。砕けている。
私はあまりライトノベルを読んでいないが、ライトノベルの読後感は、多分こんな感じなのだろう。
折り目正しく端正な日本語とは無縁の文体。
ネット・スラングを操り、SNSを使いこなす神々。
かなりはっちゃけている。今の若者風に。
それがイマドキ。

でも、イマドキだからいいのだ。

暴れ狂うスサノオも、古事記に書かれる姿は何やらしかつめらしく武張っている。威厳ある神の姿。
だが、暴れ狂う姿は、成人式で傍若無人の所業に狂うヤンキーと変わらない。しかも母のアマテラスへの甘えを持っているからたちが悪い。
スサノオにサジを投げ、天の岩戸に隠れたアマテラスも、見方を変えれば、ドアを閉め切った引きこもりと変わらない。

文化、文明、言葉。そうしたものが古めかしいと、権威を帯びてしまう。
そして、古典としてある種の侵しがたい対象へと化ける。

だが、同じ時代を生きた神々が見た身内とは、案外、今の私たちがSNSに一喜一憂し、仕事にレジャーに家庭に勤しむ姿とそう変わらないように思える。
「いまどきの若いものは」と愚痴る文句が古代の遺跡から見つかった、と言う話はよく聞く。
このエピソードは、今も昔もそう変わらない事実を私たちに教えてくれる。
結局昔も同じなら、日本人の祖先を描いた古事記も同じではないか。

神々の行いを全て神聖なものと見なし、全てに深淵なる意味を結びつける場合ではない。
そうした行いは、見る神から見れば、単なる甘えた駄々っ子の振る舞いと変わらない。そう気づいた著者は偉い。
神々とはいえ、今の人間とそう変わらないのでは。そう見直して書き直すと本書が生まれ変わるのだろう。

古事記と名がついていても、やっている事は、今の私たちの行いとそう変わらない。
なら、いっそのこと今風の文体や言葉に変えてしまえ。

そうして、全編が今風な文体と言葉で置き換えられた古事記が本書だ。

本書の内容は古事記の内容とそう変わらない。
ただし、その内容やセリフが大幅にデフォルメされ、脚色されている。
そのため、圧倒的に読み進められる。

まず、あの古めかしい言葉だけで古事記を遠ざけていた向きには、本書はとっつきやすいはずだ。
上に書いた通り、古事記といっても難しいことはなく、ただ神々の日々を少し大げさに描いただけのこと。
それが本書のようにイマドキに変えられると、より親しみが湧くだろう。

ただ、古事記の内容は簡潔だ。
そして登場する神の心象も詳しく描かれることはない。
著者はそれを埋めようと、イマドキのガジェットで埋め尽くす。
それによって現代の若者には親しみが湧くだろう。

だが、ガジェットも行きすぎると、肝心のシナリオを邪魔してしまう。
ライトノベルを読み慣れていないからだろうか。
イマドキの表現に目移りして、肝心の筋書きが頭に入って来にくかった。
それは著者のせいでなく、そうしたイマドキの表現に印象付けられた私のせいなのだが。

これはライトノベルを読み慣れた読者にとって、どうなんだろう。
慣れ親しんだ表現なので、帰って筋書きは頭に入ったのだろうか。
若者が古事記に関心を持ってもらえるなら、私一人が惑わされても大したことではないのだが。

古事記とは、日本創世神話だ。
ナショナリズムを今さら称揚するつもりはないが、古事記に込められている物語の豊かさは、注目しても良いはずだ。
ましてやそれが1700ー2000年の昔から語り継がれて来た。
これだけ豊穣な物語。大陸やユダヤの影響があったとしても荒唐無稽とはいいきれないが、それが昔の日本で編まれたことは事実だから。

だから日本はすごい、とかは考えなくても良い。
けれど、日本人であることを卑下する必要もないと思う。
そうした物語の伝統が今もなお息づいていることを、本書を読んだイマドキの方が感じ取ってくれればと思う。

本書は著者が東北芸術工科大学文芸学部に在籍している間、授業の課題から産まれたそうだ。自由で良いと思う。
温故知新というが、若い人たちが古い書物に新しい光を与えてくれることはよいことだ。

‘2018/10/28-2018/10/29