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007 NO TIME TO DIE


本作は見る前からさまざまな情報が飛び交っていた。
ここ十数年のジェームズ・ボンド役としておなじみだったダニエル・クレイグが、本作でジェームズ・ボンド役から勇退すること。悪役にBohemian Rhapsodyでフレディー・マーキュリーを演じたラミ・マレックがキャスティングされたこと。

それらの情報を得た上で観劇に臨んだので、何かしらの劇的な終わり方はあるのだろうと思っていた。
なるほど、そう来たか、と。
本稿ではそれが何かは書かないが、私にとっては納得の行く終わり方だった。

007ほど老舗のアクション映画となると、観客を喜ばせることはそう簡単ではない。人々の目は肥えてしまっているのだ。本作は「007 ドクター・ノオ」から数えて25作目なのだから。
もうボンドカーにしてもQのガジェットにしてもすでに行き着くところまで行ってしまった。これ以上新たな新味を加えるのは難しい。
ビリー・アイリッシュによるテーマ曲も良かった。ただ、今を時めくアーチストなので、それほど新鮮味を感じなかったのも確か。
もちろん本作でも、ボンドカーの凄まじい新機能が披露されるし、Qもすごい能力を持ったガジェットをボンドに提供する。それらはとても面白く、以前からのファンは思わずニヤリとすること請け合いだ。

それよりも本作は007の中でも大きく進歩した作品と記憶される点がある。その進歩は、007を時代遅れのアクション映画との誹りから遠ざけるはずだ。
本作において最も進歩が感じられたこと。それは今の世の中の動きに沿ってキャラクター造形に修正をほどこしたことだ。具体的に言うと、ボンド・ガールや007の称号そのものについてだ。本作は大きな変化があった。
実はこれ、今までの007の概念をかなり覆す大きな変更だと思う。

そのことに触れても、本作をまだ見ていない方へネタをばらすことにはならないはず。以下でそのことを書いてみたい。

本作には数名の女性が登場する。私にとって一番魅力的に映ったのは、キューバでボンドと行動をともにする現地エージェントのパロマだ。美しい容姿を持ち、胸元もあらわなドレスを着て、ボンドとともにパーティー会場に潜入する。

今までの007の定番だったボンド・ガールのセクシーなイメージを本作で最も体現していたのはパロマだ。今までのボンドであれば、パロマと何かしらのラブシーンがあってもおかしくない。だが、本作にはそれがない。
それどころか、パロマの見事なエージェントとしての働きに感銘を受けたポンドは、別れにあたって彼女をほめたたえる。
その時のボンドの態度には見下した印象も感じられない。あくまでも対等なパートナーとして彼女を認める。その姿こそ、新時代にふさわしいボンドの態度であり、ダニエル・クレイグの注意深い演技の成果だと思う。

そもそも本作では、もうボンド・ガールとは呼ばない。ボンド・ウーマンだ。ガールと言う時点で対等なエージェントではなく、下に見る印象を与える。
今、世界ではMeTooやダイバーシティなど、男女同権の考えが浸透しつつあり、その中では今まで当たり前に呼ばれていたさまざまな人やものへの呼び方が変わりつつある。ボンド・ウーマンにもそれが反映されている。
本作には重要な女性のキャラクターがあと二人登場するが、二人とも性的なイメージを与えない服装の配慮がなされていることも付け加えておきたい。

もう一つは007の称号だ。
今さら言うまでもなく、007は殺しのライセンスを持つMI6のエージェントに与えられたコードネームだ。007はその中でもエースナンバーとしての地位をほしいままにしてきた。
今までに007は25作品が作られできた。その中で007のジェームズ・ボンドは、ショーン・コネリーからジョージ・レイゼンビー、ロジャー・ムーア、ティモシー・ダルトン、ピアース・ブロスナンを経てダニエル・クレイグに至るまで6人の俳優が演じてきた。
だが、俳優が変わっても、007はジェームズ・ボンドを名のることがお決まりになっていた。

だが本作でついに007は別の人物が務める。ジェームズ・ボンドすなわち007の組み合わせが崩れたのは本作が初めてではないだろうか。これはとても重要な変更ではないかと思う。
さらに、007を務める人物の造形は、今までとはガラリと変えられている。

原作のイアン・フレミングの呪縛が解けたのだろうか。
この変更こそ、ダニエル・クレイグが勇退した後、本シリーズの主役が誰になるのかを占う鍵かもしれない。

かつて、口の悪いファンからは007シリーズはマンネリと批判する言葉もあったと聞く。また、東西冷戦が終わった後、007をやる意味があるのかと言う意見もあったらしい。
だが、本作で加えられた変更は、その懸念を払拭するものだと思う。

人類が存続する限り、さまざまな考えを持つ人はいるだろう。そして、その時代において、人々が最も恐怖を感じる対象も変わるだろう。
本作の悪役や全体のテーマは、今の時代に人々が感じる恐怖を表したものだと思う。

本作のテーマは、人々にとって恐怖であるとともに、人が人であり続けてきた重みと喜びも同時に表しており、秀逸なテーマだったと思う。

エンド・ロールの最後には、今後の本シリーズの続編を約束する言葉もあり、とても興味深い。私は多分死ぬまで本シリーズを見続けることだろう。

‘2021/10/17 109シネマズグランベリーパーク


007 SPECTRE


東西冷戦、宇宙開発、冷戦後の情勢、最新技術。007は、常に時代を取り入れ、スクリーンに映し出す。ダニエル・クレイグのボンドになってからの007も最初の2作は、最新の技術を惜しげもなく展開していた。例えば、スタイリッシュなオープニングシーン。クレイグ版のボンドは、オープニングシーンだけで素晴らしい映像美が楽しめる。ここだけで映像技術の最先端が味わえること間違いないほどの。ボンドがスマホを自在に扱う姿や巨大なタッチパネルを自在に操る様子からはIT技術の最先端が読み取れた。それこそ、どんなSF映画よりも未来の技術を先取りしている、それが007だった。

が、前作のスカイフォールからは、意図してか、時代に007を合わせていない。仕掛けもストーリーも内省的なボンドに合わせて原点回帰している気がする。仕掛けについてはあまりにITの技術発展が早すぎて、作中でどう活かすか決め切れていないのではないか。前作スカイフォールからQ役がベン・ウィショーへと替わっている。IT技術が全盛の今は年輩のQよりも若々しいQのほうが、リアリティがあってよい。ベン・ウィショー扮するQはIT技術を活かすのにふさわしい外見で、はまり役といえる。それにも関わらず、映画の仕掛けからはIT技術が遠ざかっているように思えるのは皮肉だ。本作でもCがMにドローンを使えば007など不要と言い放つ台詞がある。つまり、007はもはやITの進展には追い付けない。そのことを自覚し、方向転換を宣言した台詞ではなかったか。

007の製作陣もそういった時代の空気の変化を敏感に察知し、007の中におけるITの役割を控えめにしたと思われる。IT技術の替わりにここ2作で目立つのはボンドの内面描写である。ボンド自身の過去に潜む秘密を抱えながら、ボンドがどう振る舞い、どうスパイとしての自分を律してゆくのか。本作でも寡黙でありかつ僅かに揺れるボンドの内面が見事に描かれている。先ほど、CがMに対して語る台詞を紹介した。それに対してMがCに対して返答する台詞がある。ドローンもその他IT技術をいかに使おうとも、結局殺すか殺さないかを決めるのはボンド自身だと。この台詞に製作者たちの想いの一つは凝縮されているといえるだろう。

ITのような小道具に頼らないと決めたのであれば、どうすべきか。それは、アクション映画の本分に力を入れることである。本作のアクションシーンは、007の50年間のエッセンスを詰め込んだごとく素晴らしい。特にオープニングアクトの「死者の日」のソカロ広場上空でのシーン。死者に扮した多数のエキストラがソカロ広場を逃げ惑い、広場上空では不安定に錐もみするヘリコプターの中で壮絶なアクションが繰り広げられる。このシーンだけでも観客は手を握り締め、固唾を呑むに違いない。万が一失敗したらエキストラもただでは済まないはずだが、縦に横に360度旋回するヘリコプターの映像はCGが使われている気配は感じさせないほどリアルだった。見事である。

また、ローマの街中でのカーチェイスも良かったし、オーストリアの雪山のランドローバーと飛行機の追跡シーンも良かった。それらシーンに登場するのは、ミスター・ヒンクス。元総合格闘技家の迫力をフルに活かしての立ち回りは歴代のボンド悪役でも随一ではないか。最後にボンドが勝つと思いながらも、「ボンド危うし」と思わせたのはさすがである。デイヴ・バウティスタというこの役者には注目したい。

だが、もちろん本作の黒幕はミスター・ヒンクスではない。スペクターの首領であるあの方である。血を汚す仕事は部下に任せ、首領たるものあくまでスマートにスタイリッシュに、という意図は分かる。分かるのだが、少し演技を抑制しすぎのように思えた。クリストフ・ヴァルツは私が興味を持っている役者で、本作でも「イングロリアス・バスターズ」で魅せたあのナチス将校の冷静と狂気を揺れる絶妙な演技を期待していただけに、そこは少し消化不良。まあ007の黒幕に共通するのは知的で冷静な振る舞いである。その役作りに縛られてしまったと云ってしまえばそれまでだが。

さて、007といえば、Qの新技術や悪役以外にも楽しめる要素がいろいろある。まずは冒頭。かつての007には必ずあったシーン。左からは銃口が、右からは歩いてくるボンド。重なった瞬間左に振り向き観客へ発砲する。このシーン、ダニエル・クレイグ版では初めて使われたのではないか。これは正直いって嬉しい。50周年の節目ということもあったのだろうか。

さらにオープニングシーン。映像美の見事さは上に書いたが、今回のサム・スミス歌う主題歌がなかなか良かった。007の主題歌は、歴代あまりキャッチーさは求められておらず、007の世界観を壊さないものが多かったように思う。(とはいえ、私が一番好きな007の主題歌は、キャッチーなa-haのThe Living Daylightsやデュラン・デュランのA View To A Killなのだが)。が、本作のサム・スミスの主題歌は久々になんか来た気がする。本作のオープニングシーンが、ここ3作とは違い、煌びやかな演出ではなかったためかもしれない。ここ3作は映像美だけでぐっとスクリーンに引き込まれてしまい、音楽に意識が行かなかった。しかし、本作は映像とともに主題歌も脳内に入ってきた。

続いてボンド・ガール。今回はモニカ・ベルッチという意表をついたところで来た。すでに大分年齢を重ねられているようだが、妖艶さはさすがというところか。とはいえ、最近のご本人の出演作はほとんど観ていない。時間があれば観たいと思うのだが。そして入れ替わるように後半のボンド・ガールを務めるのはレア・セドゥ。最近よくスクリーンでお見かけする。確かミッション・インポッシブルにも出ていなかったっけ?007とミッション・インポッシブルの両シリーズでヒロインを張るって凄いことだと思う。上にも書いたがここ2作の007は技術を追うのではなく、内面描写に重点が充てられている。ヒロインが超格闘技のような活躍をすれば興ざめになってしまうが、今回もその辺りの演技は自然体のようで素晴らしいと思った。

最後に、ジェームズ・ボンド。今までの007と違い、ダニエル・クレイグのボンド作は全て劇場で観ている。切れのある動きや抑制された内面など、私は凄く素敵だと思っている。本作の終わり方は、ダニエル・クレイグ勇退を思わせるような感じなのだが、報道で観る限りではまだ続投するとか。どっちなのだろう?いずれにせよ、次回もまた彼がジェームズ・ボンドに扮するのであれば是非観に行きたいと思う。

’2015/12/19 イオンシネマ新百合ヶ丘