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信濃が語る古代氏族と天皇ー善光寺と諏訪大社の謎


本書はとても面白かった。私のここ数年の関心にずばりはまっていたからだ。

その関心とは、日本古代史だ。

日本書記や古事記に書かれた神話。それらは古代の動乱の一端を表しているのか。また、その動乱はわが国の成り立ちにどう影響したのか。
大和朝廷の起源はどこにあり、高千穂や出雲や吉備などの勢力とはどのようにしのぎを削って大きくなってきたのか。
神功皇后の三韓征伐はいつ頃の出来事なのか。熊野から大和への行軍や、日本武尊の東征は大和朝廷の黎明期にどのような役割を果たしたのか。
卑弥呼や壱与は歴代天皇の誰を指しており、邪馬台国とは畿内と九州のどちらにあったのか。
結局、日本神話とは想像の産物に過ぎないのか。それとも歴史の断片が刻まれた史実として見るべきなのか。そこに尽きる。

わが国の古代史の謎を解くカギは、現代まで散在する神社や遺跡の痕跡をより精緻に調べることで分かるのだろうか。
上に挙げた土地は、そうした歴史の証人だ。
そして、本書で取り上げられる信濃も日本の古代史を語る上で外せない場所だ。

国譲り神話に記された内容によると、建御名方神は建御雷神との力比べに敗れ、諏訪まで逃げたとされる。そしてその地で生涯を終え、それが今の諏訪大社の起源だともいう。
出雲から逃れた建御名方神は、諏訪から出ないことを条件に助命された。そのため、他の国の神々が出雲に集まる10月は、諏訪では神無月と呼ばないという。出雲に行けないからだ。

実際に諏訪大社やその周辺の社に詣でると、独特のしきたりが見られる。例えば御柱だ。四方に屹立する柱は、日本の他の地域ではあまり見られない。

私は友人たちや妻とここ数年、何度も諏訪を訪れている。諏訪大社の上宮、下宮はもちろん、守屋山にも登ったし、神長官守矢資料館にも訪れた。
諏訪を訪れるたびに力がみなぎり、旅の喜びも感じる。
この辺りの城や神社や地形から感じる波動。私はそれらに惹かれる。おそらく、神話が発する浪漫を感じているのかもしれない。

さらに、この辺りには神話の時代より、さらに下がった時代の伝説も伝わっている。それは上にも書いた守屋山に関するものだ。
守屋とは物部守屋からきているという伝承がある。
物部守屋とは、日本に仏教が入ってきた際、仏教を排撃する立場にたった物部氏の長だ。蘇我氏との権力争いに敗れた物部氏が諏訪に逃亡したという伝説がある。現代でも物部守屋の末裔が多く住んでいるという。
上に書いた建御名方神が諏訪に逃げた神話とは、実は蘇我氏に敗れた物部氏を描いているという説もあるほどだ。

本書の序章では、建御名方神の神話を振り返る。
海から糸魚川で上陸して内陸へと向かい、善光寺のある長野から松本を通り、諏訪へと至る道。その道に沿って建御名方神を祀る神社の多いことが紹介されている。かつて、何らかの勢力がこの道をたどって糸魚川から諏訪へと至ったと考えてよいだろう。
さらに、その痕跡には九州北部を拠点としていた海の民の共通点があるという。
松本と白馬の間に安曇野という地名がある。ここも阿波や安房やアマの地名と同じく海の民に由来しているという。

第一章では「善光寺秘仏と物部氏」と題されている。善光寺と諏訪大社には建御名方神という共通項がある。
そもそも善光寺とは由来からして独特なのだという。それは高僧や名僧や大名が建立したのではなく、本田善光という一庶民がきっかけであること。本筋の仏教宗派ではなく、民俗仏教というべき源流。そこが独特な点だ。
また、善光寺は現世利益を打ち出している。牛に引かれて善光寺参り、とは有名な言葉だ。
その思想の底には、過酷な自然に苦しめられ、自然に対して諦念をかみしめるわが国に独特の思想があるという。現世が過酷であるがゆえに、自然を征服せんとする西洋のような発想が生まれなかったわが国の思想史。
その思想を濃厚に残しているのが善光寺であるという。
さらに、誰も見たことのないという秘仏や、善光寺の七不思議といわれる他の仏閣にない独特な特徴。

本田善光が寺を建てたきっかけとは、上にも挙げたように物部守屋と蘇我稲目の仏教を導入するか否かで争った際、捨てられた仏像を拾ったことにあるという。
つまり善光寺と諏訪大社は物部守屋でもつながっていたという。次から次へと興味深い説が飛び出してくる。
さらに著者は、物部氏と蘇我氏が実は実権をめぐる争いをしておらず、実は共闘関係にあったという衝撃の説も述べている。
また、聖徳太子が建立したとされる四天王寺と物部守屋との関係や、信濃(しなの)や長野といった地名の起源も大阪の河内にあったのではという説まで提示する。もうワクワクしかない。

第二章では「諏訪信仰の深層」と題し、独特な進化を遂げた諏訪大社をめぐる信仰の独自性を探ってゆく。
上にも書いた通り、諏訪大社の周辺に見られる独特な民俗の姿は私を飽きさせない。御柱もそうだが、神長官守矢資料館では独特の神事の一端を垣間見ることができる。
鹿食免という鹿を食べてもかまわない免状など、古来の狩猟文化を今に伝えるかのような展示など、興味深い展示がめじろ押しだ。
ここは藤森照信氏による独特の外観や内部の設えも含めて必見だ。

この地方にはミシャグジ信仰も今に残されており、民俗学の愛好家にとってもこの辺りは垂涎の地である。
上社の御神体である守屋山に伝わる物部守屋伝説も含め、興味深いものが散在している。
本章では、そうした諏訪信仰の深みの秘密を探ってゆく。なんという興味深い土地であろうか。

第三章では「タケミナカタと海人族」と題し、古代日本を舞台に縦横に活躍した海の民が信濃にもたらしたものを探ってゆく。
歴史のロマンがスケールも豊かに描かれる本章は、本書でももっともワクワクさせられる。
安曇野が海由来の地名であることは上にも書いたが、宗像大社でしられる九州北部のムナカタがタケミナカタに通ずる説など、興奮させられた。
神社の配置に見られる規則や、各地の神社の祭神から導き出される古代日本の勢力の分布など、まさに古代史の粋が堪能できる。

第四章は「信濃にまつわる古代天皇の事績」
神功皇后をはじめ、神話の時代の天皇と神社にあらわれた古代日本の勢力の関係などについても興味深い。
あらゆる意味で、古代史の奥深さが感じられる。
まさに日本書記や古事記の記述には、古代史を探る上でヒントが隠されている。今に残る史跡や神社や民俗とあわせると、より意外な真相も明かされるのかもしれない。

もちろん、著者の述べる魅力的な説をうのみにして、これが史実だ、などと擁護するつもりはない。
だが、私にとって歴史とはロマンと一体だ。
本書はまさにそれを体現した一冊だ。また機会があれば著者の本は読んでみたいと思う。

‘2019/9/19-2019/9/24


相撲の歴史


2016年ごろから両国に行く機会が増えた。仕事では十数回。プライベートでも数回。そのうち、プライベートで訪れた一回には相撲博物館も訪れた。

2018年になってからは、伊勢ヶ濱部屋とのご縁もいただくようになった。ちゃんこ会にお呼ばれし、初場所の打ち上げ会にもお招きいただいた。

私の中で相撲とのご縁が増してきたこともあり、相撲そのものをより知ってみたいと思った。それが本書を手に取った理由だ。

今までの私は正直なところ、相撲にはあまり興味を持っていなかった。私がスポーツをよく観ていた小学生の頃は、千代の富士関が全盛期。スポーツニュースでも大相撲の取り組みがかならず放映されていた。小学生の頃から野球史には興味津々だった私なのに、なぜ相撲にはあまり興味を持てずにいたのか。わからない。

だが、年齢を重ねてくるにつれ、日本文化の深層や成り立ちに興味が湧いてきた。それはつまり、民俗学への興味にもつながる。友人たちと何度もミシャクヂや神社巡りをし、今の私たちの生活に民俗学や、日本の歴史が根付いているのを知るにつけ、民俗学が日常のあれこれに痕跡を残していることがわかる。なので民俗学も深く学びたいと思うようになってきた。

本書を読んで知ったこと。それは相撲が成り立ちの時点から日本の民俗学と深くつながっていることだ。両国の辺りを歩けば野見宿禰神社が目に入る。境内には二基の顕彰碑が立っている。顕彰碑には歴代の横綱の名が刻まれており、歴史を感じる。その神社にも名を残す野見宿禰とは、当麻蹴速との相撲対決で今に名を残す人物だ。私は本書を読むまで、相撲の由来についての知識はそれぐらいしか持っていなかった。

本書ではより深い観点で相撲が語られる。そもそも「スモウ」は「すまう」からきていること。それは格闘技の総称であることなど。各国の相撲をモンゴル相撲(ボフ)、韓国相撲(シルム)、セネガル相撲(ブレ)と呼ぶのは、それらが格闘技という共通のフォーマットで認識しているためだ。相撲とは特殊な格闘技を指すのではなく、格闘技のそのものを指す。我が国のいわゆる相撲は、我が国で発展した格闘技に過ぎないのだ。「序章 相撲の起源」で語られる内容がすでに知識と発見に満ちている。

また、序章では日本書紀のあちこちに相撲が登場していることも教えてくれる。例えば、アマテラスがスサノオの乱暴に悲しみ天岩戸に閉じこもった挿話はよく知られている。アマテラスを外に出すため、天岩戸の外でアメノウズメが舞い踊り、それに興味を持ったアマテラスがほんの少し戸を開けて様子を見る。そのすき間を逃さず広げたのはタヂカラヲ。彼は剛力の者だ。国譲り神話の中でタケミナカタとタケミカヅチの戦いにも相撲が登場する。彼らは一対一で力比べをするが、この争いの形こそ相撲の原型だ。この戦いに敗れたタケミナカタが諏訪に逃げ、そこで諏訪大社の祭神となったことはよく知られている。もう一つは先にも書いた野見宿禰と当麻蹴速の争いだ。私は今まで神々たちの争いを漠然とした争いや野の決闘のような物と捉えていた。しかしその争いこそが相撲の源流に他ならないのだ。だからこそ今も相撲のあちこちに、現代日本にない古代文化の痕跡が残っているのだ。

もちろんその装いやしきたりの全てが神話の時代に定まったわけはない。それぞれの時代に採られたしきたりを後の世の人が取捨選択して伝えてきたのが現代の相撲なのだから。

続いての第一章は「神事と相撲」と題して、相撲が民衆の生活にどう取り入れられたかが詳述されている。当時は今とは比べものにならないほど、農耕が生活に直接結びついていた。そして祭りやしきたりが今とは比べ物にならないほど日常で重んじられていた。それは、季節のめぐりが農作物の出来を深刻に左右していたからだ。そしてしきたりや祭りの主役として、神事や奉納物の一つとして相撲が発展する。本章では、なぜ俳句の季語で「相撲」が秋に設定されているかについても教えてくれる。そこには相撲と七夕の密なつながりがあり、七夕は秋に属するから。本章だけでも得られる知識が多すぎて満足。だがまだ第一章に過ぎないのだ。

第二章は「相撲節」と題し、八世紀から十二世紀まで朝廷の年中行事だった相撲節を採り上げる。著者はこの相撲節が今の相撲の様式に大きな影響を与えた事を指摘する。私は本書を読むまで相撲節の存在すら知らなかった。服属儀礼と農耕儀礼の2つの性格を持つという相撲節。本章は相撲節の内容を詳しく紹介しつつ、服属儀礼としての相撲に着目する。それによると、相撲節の起源には、大和朝廷の創成期にあった隼人族との争いで隼人族を服属させたことの象徴、つまり「地方の服属種族による相撲奉仕と、王族臣下による行事奉仕という、二重の奉仕関係があらわされている」(90P)という。

また、相撲節で相撲を披露する当時の様子が紹介される中で、相撲人がどのように専門化されたかについても語る。専門化されていく中で、相撲自体が力比べから技芸の1つへと次第に様式化していった様子が本書からうかがえる。儀式としての戦いだけでなく、鑑賞の対象へ。相撲節が今の相撲に与えた影響の大きさ。本章で初めて知った知識であり、本書でも肝となる部分だと思う。

そんな相撲人が徐々に専門化されるまでに至る経緯を描いたのが第三章「祭礼と相撲」。本章では、京の都に呼び集められた相撲人が、地方に帰らず京都で相撲を芸として糧を得ていく姿が描かれる。寺社や村落で開かれる祭礼で相撲人は奉納相撲を披露し、それによって相撲節が廃れてしまっても相撲人が生計を立てていける道筋ができた。

第四章の「武家と相撲」では、鎌倉、室町、安土桃山の各時代を通して、相撲人が武家に抱えられ、剛力と武芸で活躍する様子が描かれる。特に権力者、源頼朝や織田信長、豊臣秀吉といった武士たちが相撲を好んだ事は象徴的だ。相撲という格闘技を好み、なおかつ、武士自身は相撲を取らずに専門の相撲人を抱えた事実。それは高度に組織化されつつあった武家社会のあり方として印象に残る。そして、相撲人だけが抱えられた存在であったことこそ、なぜ相撲だけが柔道、剣道、弓道などと違って、職業化や興行化が進んだのかの答えとなる。その事情について著者は細かく考察を加える。

第五章「職業相撲の萌芽」は、職としての相撲人の成立を勧進相撲の成立に絡めて描く。他の分野の芸能でも興行による発展が見られた中世だが、相撲も当初は寺社の費用調達のための勧進相撲から始まったという。さらに、興行形態や行司の成立など、さまざまな点で相撲が今の私たちが知る相撲に近づいていく。

第六章では「三都相撲集団の成立」と題し、江戸、京都、大坂の三都の相撲興行の盛衰を取り上げる。なぜ三都で盛んになったのか。その理由は戦国が終わり、徳川幕府による統一がなされたことがある大きい。統治と治安維持が為政者にとって重要な仕事になる中、民衆のはけ口の1つとして相撲が利用されるようになった。そしてそれは公許相撲の成立にもつながった。ここまでくると、もはや一時の稼業として相撲に取り組むのではなく、生涯をかけて相撲で糧を得られる人も現れる。それによって、本章で紹介される年寄制度や、土俵による勝敗の明確化など、今の相撲の興行にさらに近づいていく。

相撲が職業として成立した事で、有力な相撲取りは何年も続けて興行に参加することで名を売れるようになる。次第に興行元が寺社ではなく、相撲取り自身が行う流れが主になる。そして、それとともに各地から相撲取りが参加し、今の相撲にも見られる〇〇県出身と出身地をことさらに強調するしきたりにつながる。また、重要なことは京都で開催された場合は京坂出身の力士は善で江戸出身の力士は悪、逆に江戸で開催された場合は江戸出身の力士が善となるような地域ごとにひいきされる力士が生まれ、それが興行を栄えさせたことだ。それは八百長ではなく、単に力と力の勝負だけでない色合いを相撲に帯びさせる。こういう相撲の由来を知ることができるのが本章だ。

ところが、三都による相撲興行の拮抗は、次第に京坂が衰退していくにつれ、江戸に中心が移ってゆく。それは幕府が江戸にあったためという理由も大きいはずだ。江戸に相撲の中心が移った後の相撲の隆盛を描くのが第七章「江戸相撲の隆盛」だ。この章もまた本書の中では核となる。なぜなら今の相撲興行の制度がほぼ整ったのがこの時期だからだ。そしてその時に権力の庇護を得て相撲興行を盤石のものにしようとした当時の人々の努力を感じるのも本章だ。そこにはエタの人々を相撲観覧から排除したことや、相撲の有職故実をことさらに強調するような方向性も含まれる。その方向性は天覧相撲をへて相撲の権威が確立した後もやまない。当時の相撲はまだ卑しめられる風潮があり、その払拭に当時の相撲関係者が躍起になっていたことが事情がうかがえる。それが、相撲の精神性や伝統性に権威付けしようとしたさまざまの取り組みにつながる。本章にはそうした事情が書かれる。

精神性を強調したがる風潮が引き起こす相撲にまつわる騒動。それは現代でも相変わらずだ。昨今の貴乃花親方と相撲協会のいざこざもそう。大相撲舞鶴場所の土俵であいさつした舞鶴市長が倒れた際、女性が土俵に上がって心臓マッサージを行ったことから騒ぎになった女人禁制についての論議もそう。

女人禁制が問題となった際、相撲協会は「相撲は神事が起源」「大相撲の伝統文化を守りたい」「大相撲の土俵は男が上がる神聖な戦いの場、鍛錬の場」の三つを挙げたという。これは本章の232-233Pにある「相撲は武道である」「朝廷の相撲節の故実を伝える」「相撲取は力士つまり武士である」の記述に対応している。

それらについて、232-235Pにかけて著者が分析した結果と主張は見逃せない。それを引用する。
「精神性を過度に強調したり、「見世物」をおとしめる必要が、どこにあろう。楽しむべき娯楽、鍛えあげられた肉体と技量を誇る「見世物」の最高峰としての矜恃で、何が悪いというのだろうか。相撲こそは、興行としての長い伝統を持ち、高度に完成された技術と美しい様式を誇る、すばらしい「見世物」なのである。「見世物」を卑下し「武道」にすりよろうとするなどは、歴史を誤り、「相撲」そのものの価値をおとしめることにしかならない。」

第八章は「相撲故実と吉田司家」とし、相撲の様式美や伝統を推し進める一連の動きを追う。相撲の伝統には、相撲節から始まる伝統を古来から伝えてきた家があるという。その家こそが吉田司家。吉田司家こそが相撲の正しい姿を伝えてきた、とする主張だ。南部家や五条家など並みいるライバルを退けつつ、吉田司家が権威として成り立ってきた。その権威は横綱免許の交付においてより世間一般に示される。横綱はそもそも相撲の番付において、新しい格付だ。大関の上にさらに格付けを与える。その権限を持つ家こそが吉田司家であるとの主張。さしずめ当代で言うところの横綱審議委員会といえば良いだろうか。本章では「横綱」の名の由来についても各論併記で紹介しており、とても興味深い。

第九章は「近代社会と相撲」と題されている。明治維新の動乱は、江戸で繁栄していた相撲興行をも揺るがした。そして社会が近代化に向けて進む中、封建性の香りを色濃く残す相撲興行がそれにどう対処したかが紹介される。

まずは国技館。国技館の名は板垣退助が命名したとの話が流布しているが、本書では違う説が採られている。また、いったんは維新によって大阪に流れた相撲興行も、国技館の落成が決定的となって東京が名実共に唯一の本拠地になる。

明治から昭和に掛けての我が国が富国強兵をもっぱらとし、その国策に利用されるように相撲も取り込まれていく。そこで著者が着目するのが双葉山だ。六十九連勝は今も歴代の最多として残っている。そしてその偉業は双葉山の神格化につながった。言うまでもなくそこには世間の雰囲気を国策に合わせ醸成させようとする思惑があった。著者はそう評価した上で糾弾する。
「双葉山が偉大な強豪力士であったことは疑いない。だが、双葉山の偉大さがその精神性のゆえをもって語られ、それを尺度として他の力士をも評価しようという傾向が、いまなお跡を絶たないことほ、相撲にとって、また双葉山自身にとっても、むしろ不幸なことであると思う。
~中略~
戦前の国家御用達の日本精神論を丸のみにしたような空論をふりかざすのは、益あることとは思われない。そんなあやしげな粉飾を凝らすまでもなく、双葉山は、史上にに稀なすぐれた力量と技術をもって昭和初期の土俵に君臨した、偉大な力士なのである。」(298P)

第十章は「アマチュア相撲の変貌」と題されている。これまでは職業相撲の発展を描いてきた。が、相撲の歴史にとって文士相撲や学生相撲を見逃すわけにいかない。著書は東大相撲部の監督であるからなおさらだろう。ただ、著書は本章でアマチュア相撲の危機を訴える。
「学生相撲からは大相撲の人気力士がつぎつぎと生まれており、技術的なレベルも高く、隆盛を誇っているかのように見えなくもなかろうが、ひとたび内部に分けいってみると、学生相撲は相当に深刻な危機に直面している。」(314P)

アマチュア相撲の層の薄さは私たちにも想像がたやすい。とくに小学生のわんぱく相撲体験者は多数いるのに、中学生の思春期の恥じらいや学校体育の構造で、相撲体験が途切れてしまうことに問題があるというちょしゃの指摘は核心をついていると思う。そしてスポーツとしての、世界競技としての相撲にも当然、著書の視線は及んでいる。さらに柔道がオリンピックの正式競技になるいきさつと、どのように国際的な認知を得るに至ったかにも触れている。

終章は「現代の相撲」と題されている。興行の観点。マスコミと力士の観点。そしてスポーツと相撲のギャップをファンや好角家がどう見るかの観点。さらに世界における相撲の広まり。ここでは多様な視点から相撲を見る著者の視野の広さが感じられる。もちろん外国人力士の問題にも多少触れている。

とくに「二十一世紀の相撲「学術文庫版あとがき」にかえて」では、力士の品格の問題や、国際化する力士のアマチュアリズムとプロフェッショナルの観点、そしてますます国際化する相撲についても取り上げており興味深い。本編ではまったく触れられなかった女子相撲についてもここで触れている。土俵の女人禁制については、先にも触れたとおりだ。しばらく相撲の興行について回る問題だろう。ただ、私が読んだ限りでは神事の観点からの女人禁制には本書は触れていない。

私としては女人禁制は今回のような緊急時には認めるとしても、神事を装飾とする限り、相撲の興行からはなくならないと思う。多分相撲と神事の結びつきは、相撲が国際化されるタイミングて髷やまわし、土俵や塩などと一緒に撤廃されるはず。その時に合わせて女人禁制も解けていくことだろう。

そしてそのタイミングで競技としての相撲と、神事としての相撲は分かれていくはずだ。競技としての相撲は国や民族、性別を超えた様式に収まっていき、神事としての相撲は神事の様式や女人禁制を残していくのではないか。

著書は法制史の専門家らしい。だが、本書は私のような相撲の素人にも興味深く、それでいて相撲を網羅している。まさに素晴らしい一冊だと思う。興行相撲だけでなく、文化や民俗の地点から相撲を語り切ったことで、本書は相撲史の決定版として読み継がれていくはずだ。

‘2018/02/13-2018/03/02