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ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE


ここ数作のミッション:インポッシブルは、次女と映画館へいって鑑賞することが恒例になっている。

今回も同じ。私と次女の予定を合わせる必要があったので、私たちが劇場に行ったのは公開されてからほぼ1ヵ月後。劇場は閑散としていて、私たち2人を含めても10人ぐらいしか劇場にはいなかったように思う。
さすがのトム・クルーズの話題作であっても、1ヵ月もたつとこれほどまでに人が減ってしまうのかと思った。

減った理由として一瞬脳裏をよぎったのは、主演のトム・クルーズの加齢だ。

本作は、前作の『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』よりもトム・クルーズが容貌がさらに老けたような気がした。そう感じたのは私だけだろうか。

先日公開された『トップガン:マーヴェリック』も次女と劇場でみたが、トム・クルーズが演ずるマーヴェリックは自らの加齢を前提にしていた。そして、並み居るパイロットたちを導く立場で出演していた。
ところが本作のトム・クルーズは第一線に立って体を張っている。スパイとして走り、飛び、闘う。現役のアクションスパイである。

私は『トップガン:マーヴェリック』のレビューの中でこのように書いた。
「本作のマーヴェリックの姿にうそっぽさがないとすれば、トム・クルーズの演技に年齢の壁を越え、さらなる高みへと努力する姿が感じられるからだろう。」

まさに本作もそう。加齢によってトム・クルーズの口の脇に刻まれたほうれい線が特に目についた。
もっとも、ほうれい線など、今の技術であれば簡単に消せるはずだ。だが、トム・クルーズはそれをよしとしない。

人は加齢する。これは当たり前のことだ。
その当たり前をごまかそうとしない潔さ。それでいて60歳を超えたとはとても信じられないアクションをスタントマンに頼らずに自らでこなす。
この真っ当さがいいのだ。この正直なところに私たちは惹かれるのだ。

本作もパンフレットが買えなかったので、どのシーンがスタントマンを使わずにトム・クルーズがこなしたのか、私はあまり知らない。
ただし、メイキング映像がYouTube(https://youtu.be/SE-SNu1l6k0)で上がっている。その動画を紹介する記事だけは事前に読んだ。
それによると、500回のスカイダイブ、そして1万3000回ものモトクロスジャンプの練習をこなしたらしい。その練習の成果があのシーンに現れているそうだ。

まさに、努力の塊である。

一万時間の法則という理論がある。人が何かの分野で一流になるためには、一万時間を費やしている、というものだ。
この法則はマルコム・グラッドウェルというジャーナリストが発表した本の中に書かれているらしい。

もしそれがまことなら、トム・クルーズは本作の一シーンだけのために一万三千時間以上を練習に費やし、一流になっているはず。それも一生ではなく、一本の映画を作るたびに何かで一流になっている。
その姿勢は素晴らしいというしかない。

本作には、かつて登場した人物も登場する。30年の、というセリフ幾たびか出てくる。若きイーサン・ハントこと、トム・クルーズのかつての写真も登場する。
あえて、今のトム・クルーズと対比させるように、過去の自らを登場させる。そうすることで、加齢した自らを受け入れ、加齢した自らを顕示し、退路を断った上で走り回る。アクションする。闘う。スタントを自らが行う。
その姿勢こそが最近の『ミッション:インポッシブル』シリーズに新たに備わった魅力ではないかと思う。

技術には頼らない。その上で痛々しさは見せない。やり切る。
世界的に寿命が延び、高齢者の割合が増加する今。本作は60歳などまだまだ若造じゃわい、という風潮を象徴する一本になると思われる。

さて、風潮という意味では、本作の中でAIの脅威が大きく取り上げられていることも見逃せない。

暴走するAIの脅威と、それをコントロールした国家こそが次世代の世界の覇者となる。そんな構図だ。

果たして、そのような未来は到来するのだろうか。
かつてアメリカのハンチントン教授が唱えた、国際関係のあり方が西洋東洋や南北対立軸から、各地の文明の衝突に変わったという論がある。

本作にはそうした構図を奉じるCIA長官や諜報部員が執拗にイーサン・ハントを追う場面が描かれる。AIを利用して次世代の国際社会の覇権を握ろうとする立場だ。だが、その立ち位置はどちらかというとイーサン・ハントの宿敵というよりは、コミカルかつ茶化された扱いに甘んじている。トリックスターのような扱いといえばよいだろうか。

かつてのスパイものの定番だった東西の対立軸。そんなものはとうに古び、茶化される存在になってしまった。
上に書いたようなAIをコントロールした国家こそが次世代の世界の覇者となる構図を奉じて走り回る。そんなCIAの立場はもはやない。

となると、本作において、AIはどういう立ち位置になるのだろうか。

暴走するAIとそれに対するイーサン・ハントという対立軸は、それはそれで手垢のついた構図のように思える。
その一方で、もはや人は争う対象ではない。それどころか、ありとあらゆる思惑が入り乱れ、単純な二極対立が成り立たない時代になっている。

スパイ映画を作る立場としては、題材を選ぶのがとても難しい時代になったのではないか。

だが、AIとイーサン・ハントを対立軸に据えると、敵、つまりAIに観客が一切共感できないとのリスクが生じる。
いわゆる、それまでのスパイ映画の悪役は人間の思考論理の延長にある悪の正義にのっとって行動しており、まだ観客には悪役を理解できる余地があった。
ところが、AIを悪役に仕立ててしまうと、そのよって立つ論理が観客に伝わらない。共感も理解もされない。
それは作品としての奥行きを著しく狭めてしまうはずだ。

本作は二部制になっている。
次の作品は本作の続きとなり、来年夏ごろの公開らしい。
本作に登場したAIが次作ではどのよう立ち位置で描かれるのか。どのようなシナリオになるのか、今から楽しみでならない。

‘2023/8/16 109シネマズ ムービル


007 NO TIME TO DIE


本作は見る前からさまざまな情報が飛び交っていた。
ここ十数年のジェームズ・ボンド役としておなじみだったダニエル・クレイグが、本作でジェームズ・ボンド役から勇退すること。悪役にBohemian Rhapsodyでフレディー・マーキュリーを演じたラミ・マレックがキャスティングされたこと。

それらの情報を得た上で観劇に臨んだので、何かしらの劇的な終わり方はあるのだろうと思っていた。
なるほど、そう来たか、と。
本稿ではそれが何かは書かないが、私にとっては納得の行く終わり方だった。

007ほど老舗のアクション映画となると、観客を喜ばせることはそう簡単ではない。人々の目は肥えてしまっているのだ。本作は「007 ドクター・ノオ」から数えて25作目なのだから。
もうボンドカーにしてもQのガジェットにしてもすでに行き着くところまで行ってしまった。これ以上新たな新味を加えるのは難しい。
ビリー・アイリッシュによるテーマ曲も良かった。ただ、今を時めくアーチストなので、それほど新鮮味を感じなかったのも確か。
もちろん本作でも、ボンドカーの凄まじい新機能が披露されるし、Qもすごい能力を持ったガジェットをボンドに提供する。それらはとても面白く、以前からのファンは思わずニヤリとすること請け合いだ。

それよりも本作は007の中でも大きく進歩した作品と記憶される点がある。その進歩は、007を時代遅れのアクション映画との誹りから遠ざけるはずだ。
本作において最も進歩が感じられたこと。それは今の世の中の動きに沿ってキャラクター造形に修正をほどこしたことだ。具体的に言うと、ボンド・ガールや007の称号そのものについてだ。本作は大きな変化があった。
実はこれ、今までの007の概念をかなり覆す大きな変更だと思う。

そのことに触れても、本作をまだ見ていない方へネタをばらすことにはならないはず。以下でそのことを書いてみたい。

本作には数名の女性が登場する。私にとって一番魅力的に映ったのは、キューバでボンドと行動をともにする現地エージェントのパロマだ。美しい容姿を持ち、胸元もあらわなドレスを着て、ボンドとともにパーティー会場に潜入する。

今までの007の定番だったボンド・ガールのセクシーなイメージを本作で最も体現していたのはパロマだ。今までのボンドであれば、パロマと何かしらのラブシーンがあってもおかしくない。だが、本作にはそれがない。
それどころか、パロマの見事なエージェントとしての働きに感銘を受けたポンドは、別れにあたって彼女をほめたたえる。
その時のボンドの態度には見下した印象も感じられない。あくまでも対等なパートナーとして彼女を認める。その姿こそ、新時代にふさわしいボンドの態度であり、ダニエル・クレイグの注意深い演技の成果だと思う。

そもそも本作では、もうボンド・ガールとは呼ばない。ボンド・ウーマンだ。ガールと言う時点で対等なエージェントではなく、下に見る印象を与える。
今、世界ではMeTooやダイバーシティなど、男女同権の考えが浸透しつつあり、その中では今まで当たり前に呼ばれていたさまざまな人やものへの呼び方が変わりつつある。ボンド・ウーマンにもそれが反映されている。
本作には重要な女性のキャラクターがあと二人登場するが、二人とも性的なイメージを与えない服装の配慮がなされていることも付け加えておきたい。

もう一つは007の称号だ。
今さら言うまでもなく、007は殺しのライセンスを持つMI6のエージェントに与えられたコードネームだ。007はその中でもエースナンバーとしての地位をほしいままにしてきた。
今までに007は25作品が作られできた。その中で007のジェームズ・ボンドは、ショーン・コネリーからジョージ・レイゼンビー、ロジャー・ムーア、ティモシー・ダルトン、ピアース・ブロスナンを経てダニエル・クレイグに至るまで6人の俳優が演じてきた。
だが、俳優が変わっても、007はジェームズ・ボンドを名のることがお決まりになっていた。

だが本作でついに007は別の人物が務める。ジェームズ・ボンドすなわち007の組み合わせが崩れたのは本作が初めてではないだろうか。これはとても重要な変更ではないかと思う。
さらに、007を務める人物の造形は、今までとはガラリと変えられている。

原作のイアン・フレミングの呪縛が解けたのだろうか。
この変更こそ、ダニエル・クレイグが勇退した後、本シリーズの主役が誰になるのかを占う鍵かもしれない。

かつて、口の悪いファンからは007シリーズはマンネリと批判する言葉もあったと聞く。また、東西冷戦が終わった後、007をやる意味があるのかと言う意見もあったらしい。
だが、本作で加えられた変更は、その懸念を払拭するものだと思う。

人類が存続する限り、さまざまな考えを持つ人はいるだろう。そして、その時代において、人々が最も恐怖を感じる対象も変わるだろう。
本作の悪役や全体のテーマは、今の時代に人々が感じる恐怖を表したものだと思う。

本作のテーマは、人々にとって恐怖であるとともに、人が人であり続けてきた重みと喜びも同時に表しており、秀逸なテーマだったと思う。

エンド・ロールの最後には、今後の本シリーズの続編を約束する言葉もあり、とても興味深い。私は多分死ぬまで本シリーズを見続けることだろう。

‘2021/10/17 109シネマズグランベリーパーク


坂の上の雲(六)


本書を通して著者は、日露戦争で陸海軍の末路が太平洋戦争の敗戦にあることを指摘する。
さらに著者は、このころの陸軍にすでに予断だけで敵を甘く見る機運があったことも指摘する。
例えばロシアの満州軍は、厳冬のさなかには矛を収めるはずという予断。その予断からは児玉源太郎ですら逃れられなかった。いわんや陸軍の全体は言うまでもなく。
ただし、秋山好古が率いる騎兵団を除いて。

騎兵団から敵情視察の結果、幾たびもロシア軍に動きがあるとの報告をあげても、参謀本部はたかをくくったまま。
好古はここにきて腹を決める。敵軍の動きをわずかな手勢で食い止めるしかないと。
秋山好古が幾たびもの軍の壊滅の危機をどうやって防いだか。それはただ耐えることに尽きる。動じない。愛用の酒の入った水筒を携え、ただ呑み、ただ耐える。
その忍耐こそが好古の名を後世に残したといってもよい。

陸軍首脳が完全にロシア軍の意図を読み違えていた「黒溝台付近の会戦」は、軍の動員の状況からロシア軍の攻勢までのすべてにおいて日本に不利だった。そう著者はいう。
その結果、一方的に押し込まれる日本軍。しかもロシア軍の攻勢は好古のいる翼の側面に集中する。
そんな攻勢をやり過ごすため、好古は騎兵の長所である馬をあきらめる。そして秋山支隊に支給された機関銃を携え、壕にこもって防戦する。守戦に徹しつつ、将の風格である豪胆さを示す。そこに秋山好古の真骨頂はある。

そんな風に危機に瀕していた日本軍を救ったのはロシア軍の分裂だ。
グリッペンベルク将軍が率いる第二軍の攻勢に乗じ、クロパトキン将軍の第一軍の攻勢が合流すれば戦局は決したはず。
だが、グリッペンベルク将軍の策が的中し、功を挙げることで自らの立場が喪われることを懸念したクロパトキン将軍は、攻めるのをやめ、そればかりか退却を指示する。
9割以上の兵が無傷に残されていたというのに。官僚の打算が日本を救ったのだ。まさに僥倖という他はない。

さて、バルチック艦隊は、マダガスカルの北辺にあるノシベという小さな港で二カ月待機している。それはロシア政府からの指示を待っていたため。
ロシア外務省の外交力はまったく効果を上げていない。そして旅順艦隊が消え去った今、新たな艦隊をこれ以上派遣することに意味があるのか。そんな意見の分裂があったかどうかは資料に残っていない。
ただ言えるのは、そうした時間の浪費が日本の連合艦隊の傷を完全に癒やしたことだ。そればかりか日々の厳しい砲撃訓練によって、連合艦隊の精度は上がってゆく。

そして著者の筆は、長期の停泊によってバルチック艦隊を覆った士気の低下と、長期にわたる航海が露わにした石炭の補給の問題に進む。それは、バルチック艦隊が最初からはらんでいた宿命だ。
ロシア皇帝はそんなバルチック艦隊のために、第三艦隊を追加で編成させる。そして極東に向けて出航させる。

そこにはロシア政府の思惑もあった。ロシアの国内で起こる革命の機運を鎮めるためにも、バルチック艦隊には勝ってもらわねばならないという。
それほどまでにロシアの国内には不穏な空気が充ちていた。
その空気の醸成に一枚も二枚も噛んでいたのが、明石元二郎大佐だ。
本書では明石大佐の八面六臂の活躍がつぶさに描かれる。その活躍はロシアの屋台骨を揺るがし、ロシア革命へとつながる道を帝政ロシアに敷いた。
その活躍によるかく乱の戦果は、一説には日本軍の二十万に匹敵したというほどだ。

帝政ロシアの害悪とは、ただ専制体制だったからではない。
極東に侵略の手を伸ばしたように、東欧やバルト海沿岸でもロシアの侵略の手はフィンランドやポーランドに苦しみを与えていた。
明石大佐はそうした国際風潮を即座に読み取る。そして明石大佐は謀略の全てを実名で行った。そうすることで信頼を得、ロシアの周辺国とロシアの内部から反帝政の機運を煽ったのだ。

およびスパイが持つ暗いイメージとは反対のあけすけで飾りを知らない人物。そんな人物だからこそ明石は信頼されたのだろう。
また、その行動を助けるように、反ロシアの空気が充満していたからこそ、彼の行動は広い範囲に影響を与え、絶大な効果をあげたのだと思う。

本書とは関係がないが、明石元二郎は日露戦争後、台湾総督をつとめた。
その縁からか、元二郎の子の元長が、国共内戦で苦境に陥った臺灣の国民党軍を助けるため、日本の根本博中将を台湾に送り届ける役割を果たしたという。
その事実を扱った本を読んだのは、本書を読む二週間ほど前の話。
それを知っていたから、本書で八面六臂の活躍を見せる明石元二郎の姿には、単なるスパイではなく別の印象を受けた。

明石元二郎がどれほど変人だったかは、本書にも描写されている。たとえば生涯、歯を磨かなかったとか。
そういえば、本書に登場する秋山好古も生涯、風呂を嫌っていたという。
そうした人物が活躍できるほど、当時の社会は匂いに鈍麻していたのだろうか。現代の私たちが何かあればすぐ臭いを言いつのる事を考えると隔世の感がある。

そして本書はいよいよ、奉天会戦と日本海海戦へ向けて時間を進める。
まずは、士気の低下したままのバルチック艦隊の様子を描く。
後世ではあまり芳しくない評価を与えられているバルチック艦隊。そして、司令長官のロジェストウェンスキーへの評価も辛辣だ。
著者は辛辣に描きつつ、彼を若干だが擁護する。それはロシアの官僚主義が司令長官の力だけではどうにもならなかったという指摘からだ。

ロシアの満州軍は、黒溝台付近の会戦の結果、辞表を叩きつけたグリッペンベルク将軍が本国に帰ってしまう。
残されたクロパトキン将軍は奉天を最終決戦の場にするべく準備を進める。
準備を行うのは日本側も同じ。
遊軍に近い扱いの鴨緑江軍を満州に送り込んだ大本営の意図は、奉天会戦を見込んだのではなく、日露戦争の戦後を見据えたものだ。少しでも有利な条件を勝ち取れるよう、敵の占領地を確保することが鴨緑江軍の目的だった。が、現地の参謀本部は少しでも軍勢を増やすため、鴨緑江軍を戦場の遊軍として組み入れる。

奉天会戦が迫る中、日本の連合艦隊は砲術の猛特訓を行い、バルチック艦隊がいつ日本近海に現れてもよいように万端の準備を進める。

‘2018/12/17-2018/12/22