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楽園のカンヴァス


本書は実に素晴らしい。あらゆる意味で端正にまとまっている。
小説としての結構がしっかりしている印象を受けた。

本書の主人公、織絵は、美術館の監視員というどちらかといえば裏方の役割を引き受けている。母と娘と共に暮らし、配偶者は登場しない。

ところがある日、織絵にオファーが届く。
そのオファーとは、アンリ・ルソーの作品を日本に貸し出すにあたり、日本側の交渉担当として織絵を指定していた。
オファーを出してきたのは、ニューヨーク近代美術館のチーフ・キュレーターであるティム・ブラウン。
キュレーターとして花形の地位にあり、地味に描かれている織絵の境遇とは似つかわしくない。

娘の真絵との関係を修復できぬまま、生活に思い悩むように描かれる織絵。
そんな彼女の過去に何があるのだろうか。冒頭から読者の興味を惹いてやまない。
そして、舞台は十六年前へ。

ここから、本書の視点は十六年前のティム・ブラウンに変わる。
ティム・ブラウンは、ニューヨーク近代美術館のアシスタント・キュレーターとして、上司のトム・ブラウンのもとで働いていた。
上司のトム・ブラウンだけでなく、ティムのもとへも何通ものダイレクトメールが届く。
その中に混ざっていた一通こそ、スイス・バーゼルからの招待状だった。招待の主はコンラート・バイラー。伝説の絵画コレクターであり、有名でありながら、誰も顔を見たことのない謎に満ちた人物。
てっきり上司に届くべき招待状の宛名が誤って自分に届いたことをチャンスとみたティムは、誤っていたことを明かさずに招待を受ける。

バーゼルに飛んだティムは、そこでバイラーの膨大なコレクションのうちの一つ、アンリ・ルソーが描いた絵画の真贋の鑑定を依頼される。
アンリ・ルソーの代表作『夢』に瓜二つの『夢をみた』。果たしてこれが真作なのか偽作なのか。
その依頼を受けたのはティムだけではない。もう一人の鑑定人も呼ばれていた。
バイラ―の依頼は、二人の鑑定人がそれぞれ『夢をみた』を鑑定し、より説得力のある鑑定を行った方に『夢をみた』の権利を譲るというもの。
ティムともう一人の鑑定人は早川織絵。新進気鋭のルソー研究家として注目されていた彼女こそ、ティムが競うべき相手だった。

二人は、七日の間、毎日一章ずつ提示される文章を読まされる。
そこにはルソーの慎ましく貧しい日々が活写されていた。
その文章には何が隠されているのか。果たして『夢をみた』は真筆なのか。
さらに、織江とティムの背後に暗躍する人物たちも現れる。その正体は何者なのか。
七日間、緊迫した日々が描かれる。

本書を読むまで、私は恥ずかしいことにアンリ・ルソーという画家を全く知らなかった。
本書の表紙にも代表作『夢』が掲げられている。
そのタッチは平面的でありながら、現代のよくできたイラストレーターの作品を思わせる魅力がある。
色使いや造形がくっきりしていて、写実的ではないけれど、リアルな質感を持って迫ってくる。

ルソーは正規の画家教育を受けず、40歳を過ぎるまで公務員として働いていたという。
独学で趣味の延長として始めた画業だったためか、平面的で遠近感もない画風は、当時の画壇でも少し嘲笑されて受け取られていたらしい。
だが、パブロ・ピカソだけはルソーの真価を見抜いていた。そればかりか、後年のピカソの画風に大きく影響を与えたのがルソーだという。

私は本書を読んだ後、アンリ・ルソーの作品をウェブで観覧した。どれもがとても魅力的だ。
決して私にとって好きなタッチではない。だが、色使いや構図は、私の夢の内容をそのまま見せられているよう。
夢というよりも、自分の無意識をとても生々しく見せられているように思えるのだ。
本書のある登場人物が『夢』について言うセリフがある。「なんか・・生きてる、って感じ」(290p)。まさにその通りだ。

ティムと織江も、正統派の画壇からは軽んじられているルソーを正しく評価し、その魅力を正しく世に伝えようとする人物だ。
だからこそ、バイラーも二人をここに呼んだ。

そんな二人に毎日提示される文章。
そこには、当時の大きく変わろうとする美術界の様子が描かれていた。
素朴で野心もない中、ひたむきに芸術に打ち込むルソー。
美術には全く門外漢だったのに、ルソーの作品に惹かれ、日がな一日、憑かれたように絵を眺め、それが生きがいとなってゆく登場人物たち。

本書には、権威主義にまみれ、利権の匂いが濃厚な美術界も描かれる。
もう一方では、芸術の生まれる現場の純粋な熱量と情熱が描かれる。

本来、芸術とは内なる衝動から生まれるべきもののはず。
そして、芸術を真に愛する人とは、名画の前でひたすら絵を鑑賞し続けられる人の事をいう。本来はそうした人だけが芸術に触れ、芸術を味わうべき人なのだろう。
ところがその間に画商が割って入る。美術館と美術展を主催するメディアが幅を利かせる。ブローカーが暗躍し、芸術とは関係のない場所で札束が積まれて行く。

本書にはそうした芸術を巡る聖と俗の両方が描かれる。
俗な心は人間に欲がある限り、なくならないだろう。
むしろ、純粋な芸術だからこそ、俗な人々の心を打つのかもしれない。

百歩譲って、名画をより多くの目に触れさせるべきという考えもある。美術館は、その名分を基に建てられているはずだ。
そのような美術館の監視員は、コレクターよりもさらに名画に触れられる仕事だ、という本書で言われるセリフがある。まさに真実だと思う。
著者の経歴通り、本書は美術の世界を知った著者による完全なる物語だ。

小説もまた芸術の一つ。
だとしたら、本書はまさに芸術と呼ぶべき完成度に達していると思う。

‘2019/4/21-2019/4/22


臨床家 河合隼雄


私が河合隼雄氏の著作をあれこれと読んでいたのは20代の前半の頃だ。どうやって生きて行くのか、どうやって身を立てるのかもわからずにいた私の迷走の時期。当時の私はそもそも自分の心さえ持て余していた。他人の心を理解する以前に、自分が何を欲しているのかもわからなかった。それでいて、安易に社会の流れに乗ることをかたくなに拒んでいた。そんな私が社会に入れるわけもない。人生の意味を掴みかねていた私は、完全に宙に浮いていた。いつになれば這い上がれるのか、どこに行けばたどり着けるのか。その答えはどこにもなく、救いのかけらも感じられない毎日。私はそれらの答えを純文学の諸作品や心理学に求めようとした。当時は河合氏の著作に限らず心理学関連の書物を手当たり次第に読んでは、自分の心の動きをつかみ、社会にうごめく人々の心のありようをつかみ、どうすれば社会に出られるのかを模索していた。

そんな手負いの私に、河合氏のスタンスは新鮮に映った。「わかりませんなあ」というセリフ。第一人者でありながら無知を恥じることなくそれを認め、己を低くする。本を何冊も著し、高名であったにもかかわらず、無知に関して潔い。河合氏のその姿勢は、当時の私にとても影響を与えた。今の私は仕事で人に教えたりすることも多い。問われることもある。でも、わからない時はわからない、というようにしている。河合氏のように。まだ「わかりませんなあ」という河合氏の口調は真似できないけれども。

悩みの多かった私は、いつしか上京し、職に就き、家族をもち、家の問題で揉まれ、成長していった。それにつれ、私が河合氏の本だけに限らず、心理学の本を読む機会は減っていった。私が河合氏の亡くなったことを知ったのは、氏が亡くなられて翌々年ぐらいのこと。河合氏の死に気づかないほど、上京して以降の私は、心理学に救いを求めることなく。生きていけるようになっていた。多分、私は誰もが青年期にぶつかるであろう危機をいつのまにか克服できていたのだろう。

今、私は年頃の娘を二人養っている。二人とも難しい時期だ。多分、若い私が感じたような世の中の矛盾や人の関係に悩み、この先も苦しんでいくことだろう。人生の意義が何なのかについての疑問にもぶち当たってゆくに違いない。そこで私がどう助言してやれるのか。そのためには再び河合氏の力が必要だ。家族だけではない。仕事で知り合った方、親交を結んだ方に何ができるのか。単なる技術の継承や、世過ぎ身過ぎのノウハウを伝えるほかに何ができるのか。

ここ一年半ほど、私が参加している地元のランチ会がある。ある時、その中で学校のいじめを語り合う機会があった。私はいじめられた経験を持っている。そして、娘たちや妻にも同様の経験がある。自分の力でその時期を耐え抜き、やり過ごした私や妻や娘たちはいい。だが、やり過ごすすべを知らずに自死を遂げる子どもや若者の存在。辛い気持ちになる。大人ですら、油断していると簡単にいじめの対象に祭り上げられる。そんな人々をどうやれば救えるのか。ランチ会でお話を伺ったカウンセラーの方の言葉はとても参考になった。そして、私に再び心理学への興味を呼び起こしてくれた。本書はそれをきっかけに、私が再び河合隼雄氏に触れようとした一冊だ。

河合隼雄という人物は巨大だ。そして「わかりませんなあ」の言葉が表しているように謙虚な巨人でもある。多分、河合氏は苦労も重ね、その過程では悪態や過ちもつくこともあっただろう。だが、それらを乗り越え河合氏は大きな人となった。「無知の知」を本心から理解し、それを正直に語る。それを実践することが大切であることは、頭では理解できる。だが、行うのは簡単ではない。そうした境地に至った河合氏とはいかなる人物なのか。その全貌に、あらためて関心を持った。

本書はさまざまな角度から見た河合隼雄氏についての本だ。臨床家。ユング派精神分析の資格者。文化庁長官。講演が上手。ゼミの教授。フルート奏者。ダジャレが好き。人間だからマイナスの感情も出すし、温和な表情の裏に冷たい視線を覗かせることもある。本書で河合隼雄氏を語るのは、ユング派の分析者であり、同じ精神医学の徒であり、分析を受ける患者であり、高名な指揮者であったり、共著を出したことのある詩人だ。そうした人々が河合氏をさまざまな視点から語り、人物を造形してゆく。それが本書だ。

私は本書を読むまで知らなかったのだが、息子の河合俊雄氏も精神医学の現場で医師として働いているそうだ。序論は河合俊雄氏が筆をとっている。息子からみた父が描き出す序論は、すでに総論として完成している。実に見事な分析だ。肉親であり、同じ分析家からみた父。だからこそここまで書けるのだろう。息子から描かれた河合隼雄氏は序論の短い中でありながら、人物像を簡潔で的確につかんでいるように見える。さすがというべきか。「個人的には、あれほど勝手に生きて、なおかつあれほど人のために生きた人もないと思っている。その矛盾がまさに両立する生き方であった。」(7P)などは、子が親に対して送りうる要約の見本ではないだろうか。また、こんな一文もある。「河合隼雄にとって死者が生きていたように、われわれにとっても河合隼雄は死者として生きているのではないだろうか。そして臨床家として、われわれに出会ってくれるのではないだろうか。」(8P)

肉親がこのように語ることで、なおさらその人物像が鮮やかに浮かび上がる。

本書の出だしは「家を背負うということー無気力の裏に潜むもの」と題し、心理療法の研修会でクライアントの夢の内容を発表した岩宮恵子氏(島根大学教育学部教授)に対する河合隼雄氏の分析が紹介されている。夢の分析は私もかつて自分の夢に対してよく行っていた。一人のクライアントが来院し、治癒していく経過。その一連の出来事が描かれたこの章はとても面白い。河合氏の解釈もユング派分析家の方法論が感じられ、とても興味深く感じた。シャドウや死、イメージの解釈など、連想とイメージの結びつけを厳密にせず、クライアントに作ってもらった箱庭の解釈も含め、人間の内面を掘り下げていく。そんな一連の手続きこそが、悩める若き私が、自分自身に対してしたかったことだ。

続いては「河合隼雄語録ー事例に寄せて」。これは解題によると、京大の研究室で河合氏が折々に語った語録を筆記しておいたた桑原知子氏が、河合氏が京大の教授職を定年で退職するにあたって編集したものだそうだ。桑原知子氏の言葉によると、本来ならば事例あってのコメントなのだが、プライバシーに配慮した結果、事例は割愛したのだとか。はしがきで河合氏自身がこの語録についてのコメントを残されていて、本書にもその全文が転載されている。それによると、当時のことゆえ、必ずしも正しくはないとか。それを裏付けるかのように、本編にはざっくばらんで肩の力の抜けた河合氏の言葉が並ぶ。まさに生の肉声だ。そして、ここからは著書や対談でみられるソフトな河合氏ではなく、内輪に見せる河合氏の様子が垣間見える。もちろん河合氏の言葉に裏表は感じられず、より専門家向けに語っているだけなのだが。

ついで本書は、さらに河合隼雄氏を掘り下げてゆく。[河合隼雄の分析]として、数人の精神分析の専門家による河合隼雄論が並ぶ。

まずは「臨床家 河合隼雄ー私の受けた分析経験から」。山中康裕氏(京都大学名誉教授)によって書かれている。私も山中氏の名前は存じ上げている。同じ分析家が分析家を分析する。その内容は高度で、そもそも山中氏の見る夢からしてとてもリアルで具体的。夢をきちんと記録した山中氏はさすが分析家だ。自分で夢を記録し、分析ができる山中氏のような方であれば、本来は夢分析を受けなくてもよいような気もする。だが、他の分析家からの視点は必要なのだろう。

続いての「分析体験での箱庭」。川戸圓氏(大阪府立大学人間社会学部教授)が河合隼雄氏に分析を受けた際の箱庭療法の経緯が、箱庭の実際の写真とともに載せられている。ここでは厳しい河合氏が登場する。指導を受ける側からすればそう感じて当たり前だ。だが、このような厳しさがあってこそ、あれだけの業績をあげ、慕う門下生も多数いるのだろう。また、クライアントの精神に引きずられないためには、自己を凛とさせておかねばならないのは素人の私でもわかる。

皆藤章(京都大学大学院教育学研究科教授)氏による「河合隼雄という臨床家」は、皆藤氏が河合氏に師事するまでの専攻分野の揺れ(もともと工学部に入学したそう)が、河合氏との出会いでこの分野に定まるまでのいきさつが書かれている。ここでは教育分析という言葉が出てくる。皆藤氏は30歳の時、最初に教育分析を受けたそうだが、河合氏から30歳という年齢は、教育分析を受けるには若いと言われたそうだ。つまり、教育分析とは、精神的な疾患を自覚していない人でも受けられるのだ。山中氏の書かれた文章もそうだが、精神分析家が、自己の心のありようをさらに深めてみつめるため、別の方から精神分析をうける、というのはありなのだろう。私はそのことに気付かされた。そういえば河合氏がアメリカやスイスで学ぶ際も、先輩の分析家から分析を受けた経験を読んだことがあるが、あらためて合点がいった。

角野善宏(京都大学大学院教育学研究科教授)氏は「スーパーヴィジョンの体験から」で、自らが分析している心理療法について、河合氏から指導を受けたときのことを著している。スーパーヴィジョンとは指導を受けることを意味する。スーパーヴァイザーと同じ語源なのだろう。その中で角野氏は、分析には時間がかかることと、本当に患者が自ら分析の必要がないと思うまで、分析家の主観で終了時期を判断する危険性を述べている。他にもこのような記述もある。

「河合先生がもっとも大切にしたことは、心理療法であった。臨床実践であったのである。これがすべてと言ってもよいほど、重要視していた。もちろん研究も大切にされていたが、研究はあくまで臨床実践があってのことで、基本的に心理療法がすべて中心となっていた。」(148p)
「本当に事例において困ったとき、進退窮まったときに、先生が言われていたことは、「もう最後の最後は、クライエントの治癒力を信じることです」であった。」」(148p)

また、角野氏の文章の中で印象に残る記述があった。それは親鸞が師の法然について語った歎異抄の抜粋だ。「たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」(150p)。これは角野氏が河合氏を師として信ずるに至った文脈で出てきた言葉だ。明恵を取り上げた論考やユング心理学と仏教を取り上げた論考など、河合氏の著作からは僧侶の面影を感じることが多い。角野氏の記述はまさにそれを裏付ける。

伊藤良子(京都大学名誉教授)氏による「河合隼雄の心理療法」は、河合氏の膨大な論考のうち、イニシエーションとコンステレーションについて解説している。それぞれ通過儀礼と布置という言葉が対応する。通過儀礼の重要性についてはいまさら言うまでもない。日本で行われる卒業式や成人式は、すでにセレモニーですらなくなりつつある。今の日本の若者は、壁にぶち当たる経験が与えられにくい。だから、若者が壁にぶちあたる理由も場所もまちまちになっている。私がまさしくそうであった。そのため、自らの社会的な位置も見つけにくくなっている。リアルの友人、ネットの知り合い。さまざまなチャネルで、無数の集まりで、友人や知り合いの組み合わせは無数に作れる。それだけに、世に出てゆく若者は、自らの確かな立ち位置を見いだしにくい。私は自分の経験からもそう思っている。自由があるがゆえに不自由。外に向けて放たれているがゆえに、自分の心に縛られる。若者にとっては切実な問題だと思う。伊藤氏はそこに目をつけ、河合氏の考えを紹介したのだと思う。

ついで登場するのは、心理療法を専門としていない人々からの寄稿だ。

[河合隼雄という体験]
「対談:河合さんというひと」谷川俊太郎×山田馨
河合氏と毎年遊びのイベントで一緒だったというお二人。谷川氏は高名な詩人。山田氏は岩波書店で河合氏を担当していた編集者。そんな三人の間柄は、もともとは仕事での関係から始まったという。それがある時期を境に、仕事を抜きにした関係を構築したのだとか。仕事をきっかけに始まるプライベートな付き合いは、私もいくつか持っている。それはとても大切なことだと思う。そして、そうした関係を作りあげるのが、日本人はとても苦手なことも。ましてや、そうした関係を長年維持することはさらに難しい。それを長年続けた三人に、私は心からのうらやましさを感じる。そして、私ももう少しそうした付き合いを増やしていきたいと思った。人間関係の難しさと喜びを知っている私は、三人のような関係を構築したいと思う。

ここでは山田氏による編集者としての目から見たエピソードも登場する。河合氏の原稿に話し言葉が多く含まれ、それが編集者泣かせであることも印象的だ。また、涙もろく、講演中に号泣する河合氏のことも触れられていた事も心に刻まれる。本書の何人かの執筆者も、河合氏の涙もろさについては触れられておられた。そういえば私は物語や映画には泣かされるが、人との付き合いの中で涙を見せることはそうそうない。殻をかぶっていて、身構えた部分が残っているからだろうか。

「物語を生きる人間と「生と死」」柳田邦男。
有名なノンフィクション作家の柳田氏の著作を私は多分、まとまった書籍として読んだことがない。「死を日常の中から排除してしまった現代のジレンマという問題意識」(211)ページというとおり、柳田氏は河合氏の物語を重視する姿勢を、人の生き方の問題と捉えている。科学の論理に偏りすぎ、物語を忘れてしまった現代。柳田氏は危機管理という観点から、科学の危うさに警鐘を鳴らし続けてきた作家だと思っている。私も技術者の端くれとして、あらためて柳田氏の著作を読まねばと思った。

「河合先生との対話」佐渡裕
佐渡氏は有名な指揮者だ。そしてその立場から芸術を愛する河合氏の思い出を語っている。ページは三ページに満たない。だが、佐渡氏は貴重なエピソードに筆を割いている。舞台に臨む前、河合氏と撮った写真に触れていたという佐渡氏は、きっと河合氏から安心を受け取っていたのだろう。それは間接的に河合氏の器の広大さをしめしているに違いない。そんなことが読み取れる一編だ。

「私の「河合隼雄」」を寄稿した中鉢良治氏はソニーの副会長だ。ソニーは文化支援にも力を入れている。だから、文化庁長官の河合氏とはご縁も深かったことだろう。本編はソニーの社員研修に来た河合氏の講演から中鉢氏が得た気づきを、経営者の視点から取り上げている。それはもちろん、私にとっても有意だ。河合氏といえば無為の思想の提唱者でもある。中鉢氏もそのことを河合氏から教えられたようだ。
「河合さんはリーダーの本質を「積極的無為」であり「全力を挙げて何もしないこと!と喝破されていた」(224ページ)
こうした文章を読むにつけ、私自身がダメダメな経営者である事を思い知らされる。そもそも、自分で手を動かしてコーディングに励んだり、日々、営業に出かけている事自体、無為とは程遠い。私がその境地に至れる日は、果たして訪れるのだろうか。

[インタビュー]
ユング派河合隼雄の源流を遡る J.M.シュピーゲルマン(聞き手:河合俊雄)。
シュピーゲルマン氏は、河合氏が精神分析の世界に入るにあたり、最初に分析を行った方だという。河合氏の2年年上だというから、もうかなりのお年だ。その方が河合氏との出会いを振り返っている。本編を読むと、見知らぬ世界に飛び込み、そこで鍛えられた河合氏のすごさがわかる。

本書を読んであらためて思うのが、河合氏の人間としての幅だ。人に与えられた360度の可能性を限りなく使った人、と言ってもよい。そして、幅を広げながらも、それぞれの分野の可能性を深く追求した人だったのだなあと、自らの至らなさを比べて慨嘆する思いだ。それこそが河合氏の巨人たるゆえんだ。私が河合氏の域まで達するにはあと何万年、時間が必要なのだろうか。人生の短さと、残り少ない私の余生に暗澹とする。

[資料]河合隼雄年譜が巻末に付されているが、私自身の人生と比べてみても、その質の違いは明らかだ。

‘2018/07/26-2018/07/28


ワールドカップ


サッカーのロシア・ワールドカップが終わった。総じてよい大会だったと思う。その事は好意的な世評からも裏付けられているのではないか。私自身、ロシア・ワールドカップは今までのワールドカップで最も多くの試合を観戦した大会だ。全部で十数試合は見たと思う。

私がサッカーのワールドカップを見始めたのは、1990年に開催されたイタリア大会からだ。それ以来、三十年近く、八回のワールドカップを見てきた。その経験からも、ロシア・ワールドカップは見た試合の数、質、そしてわれらが日本代表の成長も含め、一番だと思っている。

総括の意味を込め、大会が終わった今、あらためて本書を読んでみた。本書が上梓されたのは、1998年のフランス大会が始まる直前のことだ。フランス大会といえば、日本が初出場した大会。そして若き日の私が本気で現地に見に行こうと企てた大会でもある。

最近でこそ、ワールドカップに日本が出場するのは当たり前になっている。だが、かつての日本にとって、ワールドカップへの出場は見果てぬ夢だった。1998年のフランス大会で初出場を果たしたとはいえ、当時の日本人の大多数はワールドカップ自体になじみがなかった。2002年には日韓共催のワールドカップも控えていたというのに。本書は当時の日本にワールドカップを紹介するのに大きな役割を果たしたと思う。

本書を発表した時期が時期だけに、本書はブームに乗った薄い内容ではないかと思った方。本書はとても充実している。薄いどころか、サッカーとワールドカップの歴史が濃密に詰まった一冊だ。1930年の第一回ウルグアイ大会から1994年のアメリカ大会までの歴史をたどりながら、それぞれの大会がどのような開催形式で行われたのか、各試合の様子はどうだったのか、各大会を彩ったスター・プレーヤーの活躍はどうだったのかが描かれる。ワールドカップは今も昔もその時代のサッカーの集大成だ。つまり、ワールドカップを取り上げた本書を読むことで、サッカースタイルの変遷も理解できるのだ。本書は、ワールドカップの視点から捉え直したサッカー史の本だといってもよい。

ワールドカップの歴史には、オリンピックと同じような紆余曲折があった。例えば開催権を得るための争いもそう。南米とヨーロッパの間で開催権が揺れるのは今も変わらない。だが、当初は今よりも争いの傾向が強かった。そもそも第一回がウルグアイで開かれ、そして開催国のウルグアイが優勝した事実。その事は開催当時のいびつな状況を表している。当時、参加する各国の選手の滞在費や渡航費用を負担できるのが、好況に沸いていたウルグアイであったこと。費用が掛からないにもかかわらず、船旅を嫌ったヨーロッパの強国は参加しなかったこと。それが元で第二回のイタリア大会は南米の諸国が出なかったこと。特に当時、今よりもはるかに強かったとされるアルゼンチンが、自国開催を何度も企てながら、当初は隣国の大会に参加すらボイコットしていたこと。

他にもまだある。サッカーの母国と言えばイギリス。だが、イギリス連邦の四協会(イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド)は母国のプライドからワールドカップへの参加の必要を認めていなかった。実際、開催からしばらくの間、ワールドカップに発祥国イングランドの諸国は参加していない。上記の四協会は、今もフットボールのルール改正に大きな権限を持っている。ところが、当時はそもそもFIFAにすら加入していなかった。それ以後もなんどもFIFAへの脱退と再加入を繰り返し、サッカーの母国としてのプライドを振りかざし続けた。そんな歴史も本書には描かれている。

つまり、ワールドカップの歴史の始まりには、さまざまなプライドや利権が付いて回っていたのだ。世界の主要なサッカー強国が初めてそろったのが1958年のスウェーデン大会まで待たねばならなかった事実は、サッカーの歴史の上で見逃してはならない。

本書の読みどころは他にもある。サッカースタイルの象徴である選手の移り変わり。なぜ、ブラジルのペレが偉大だといわれるのか。それは彼が1958年大会で鮮烈なデビューを飾ったからだ。当時、サッカー界を席巻していたのは1950年初頭に無敵を誇り「マジック・マジャール」と呼ばれたハンガリー代表だ。その中心選手であるフェレンツ・プスカシュ。彼は当時の名選手として君臨していた。しかし、プスカシュはサッカーの王様とは呼ばれない。また、レアル・マドリードの五連覇に貢献したディ・ステファノも当時の名選手だ。ペレやマラドーナ、その他の世界的スターからサッカーのヒーローとして今も名前が挙げられ続けるディ・ステファノ。しかしディ・ステファノもサッカーの王様とは呼ばれない。それだけ、1958年のペレの出現は、当時のサッカー界に衝撃を与えたのだ。ワールドカップが初めて世界的な大会となった1958年の大会。真の世界大会で彗星のように現れたペレが与えた衝撃を超える選手が現れるまで、サッカーの王様の称号はペレに与えられ続けるのだろう。

1958年大会以降、サッカーは世界でますます人気となった。そして、その大会で優勝したブラジルこそがサッカー大国としての不動の地位を築く。しかし、1966年のイングランド大会では地元イングランドが地元の有利を活かして優勝する。1978年のアルゼンチン大会でも開催国アルゼンチンが優勝した。著者はそうした歴史を描きながら、開催国だからと言って、あからさまなひいきや不正があったわけでないこともきちんと記す。

その一方で、著者はつまらない試合や、談合に思えるほどひどい試合があったこときっちりと指摘する。この度のロシア大会でも、ポーランド戦の日本が消極的な戦いに徹し、激しい論議を呼んだのは記憶に新しい。そのままのスコアを維持すると決勝トーナメントに進むことのできる日本が、ラスト8分間で採ったボール回しのことだ。だが、かつての大会では、それよりもひどい戦いが横行していた。予選のリーグ戦ではキックオフに時間差があり、他の会場の試合結果に応じた戦い方が横行していた。特に1982年大会。1982年のスペイン大会といえば、幾多もの名勝負が行われたことでも知られる。だが、その中で西ドイツVSオーストリアの試合は「ヒホンの恥」と呼ばれ、いまだにワールドカップ史上、最低の試合と呼ばれている。

そして1986年のメキシコ大会だ。神の手ゴールや“五人抜き “ ゴールなど、マラドーナの個人技が光った大会だ。当時の私にとっても、クラスメイトの会話から、生まれて初めてサッカーのワールドカップの存在を意識した大会だ。私が実際にワールドカップをリアルタイムで見るようになったのは冒頭にも書いた1990年のイタリア大会だ。だが、本書でも書かれているとおり、守備的なゲームが多かったこの大会は、私の印象にはあまり残っていない。

守備的な試合が多かったことは、1994年のアメリカ大会でも変わらなかった。だが、私にとってはJリーグが開幕した翌年であり、今までの生涯でも、サッカーに最もはまっていたころだ。夜中まで試合を見ていたことを思い出す。

そして1998年だ。この大会は冒頭に書いたとおり、私が現地で観戦しようと企てた大会だ。初出場の日本は悔しいことに一勝もできず敗れ去った。そして、その結果は本書には載っていない。

だが、本書の真価とは、初出場する日本にとって、ワールドカップが何かを詳しく記したことにある。それまでのワールドカップの歴史を詳しく載せてくれた本書によって、いったい何人の日本人サッカーファンが助かったことか。本書はまさに、語り継がれるべき名著だと思う。

本書がよいのは、ワールドカップをゲーム内容だけでなく、運営の仕組みまで含めて詳しく書いていることだ。ワールドカップが今の形に落ち着くまで、どのように公平で中立な大会運営を目指して試行錯誤してきたのか。その過程がわかるのがよい。それは著者が政治学博士号を持っていることに関係していると思う。組織論の視点から大会運営の変遷に触れており、それが本書を通常のサッカー・ジャーナリズムとは一線を画したものにしている。

本書には続編がある。そちらのタイトルは「ワールドカップ 1930-2002」。私はその本を2006年に読んでいる。2002年の日韓ワールドカップの直前に、1998年大会の結果を加えて出されたもののようだ。私はその内容をよく覚えていない。それもあって、2002年の日韓共催大会の結果や、その後に行われたドイツ、南アフリカ、ブラジル、ロシア大会の結果も含めた総括が必要ではないかと思うのだ。参加国が拡大し、サッカーがよりワールドワイドなものになり、日本が出場するのが当たり前のようになった今、本書の改定版が出されてもよいと思うのは私だけだろうか。

‘2018/07/18-2018/07/20