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2分間ミステリ


私は子供の頃から、ミステリーを読んでいる。
小学生の頃は、少年探偵団モノや、ルパンシリーズ、ホームズシリーズなどの他にも名作とされた世界の推理小説を読んだ。
中学生になってからは赤川次郎氏の一連の作品や、西村京太郎氏の著作にもかなりお世話になった。

子どもの頃の私は、それらの鉄板のシリーズの他にもさまざまな本に食指を延ばしていたように思う。私が覚えているのはマガーク少年探偵団などだ。
だが、当時もよく知られていたという「少年たんていブラウン」のシリーズについては読んだ記憶がない。そもそも当時はシリーズ自体を知らなかったように思う。
「少年たんていブラウン」のシリーズを知ったのは、本書のレビューを書くにあたり、著者のことを調べてからだ。著者は「少年たんていブラウン」の生みの親として知られていたようだ。

私は「少年たんていブラウン」は読まぬまま、大人になってしまった。
だが、前述のマガーク少年探偵団や、コロタン文庫シリーズなどの子供向けに書かれた推理関連の本をさまざまに読んだことは覚えている。
そうした本の中には、もっぱら、推理クイズを収めていたものがあった。
なぞなぞよりは一段高尚な雰囲気。子供の頃はそうした本も随分と楽しんだ覚えがある。

本書を読み、そうした子どもの頃の読書の思い出が蘇った。

本書に収められている2分間ミステリの数は七十一編にもなる。
その一編ごとに、ほぼ見開き二ページにわたって状況が描かれ、謎が読者に提示される。
その謎はもちろん明かされるが、ご丁寧なことに答えはすぐには分からないように工夫されている。
次の編の末尾に上下が逆さまに印字されていれば、うっかり答えを知ってしまうこともない、という配慮だ。

冒頭に「読者の皆さんへ
クイズの答えは、うっかり目に入ってしまわぬよう、
万全を期して天地逆に刷ってあります(印刷ミスで
はありませんので念のため)。
と言う注意書きがあるのが良い。

各編の内容は、二ページのほとんどで事件が描かれる。そして状況をみてとったハレジアン博士が、最後に放つセリフで、裏の秘密を見抜いていることを示す。
その直後になぜ博士がそう思ったのか、という問いが読者に対して提示される。

七十一編のほぼ全てがそのように構成されている。
だが、それだけだと単調になってしまう。
そこで著者は、二ページの短い中で単調にならぬよう、筋立てと人物と事件と謎を作り込む。
その職人芸のような技が本書の読みどころだ。

著者の技の一つは、登場人物を多様にする工夫を凝らしていることだ。
もちろん、どの編にもハレジアン博士が登場し、博学を示し、読者よりも先に謎を解く構成には変わりない。
それにも関わらず、事件が起きるタイミングや時期、場所、ハレジアン博士の関わり方に工夫を凝らすことで、各編に変化を生じさせている。

登場人物は複数回登場する人物は以下の通りだ。ウィンターズ警視や資産家のシドニー夫人、ハレジアン博士のデートのお相手であるオクタヴィア、儲け話に騙されやすいバーティ・ティルフォード、たれ込み屋ニック。
そうした人物が登場する筋書きは、よくある殺人事件の展開も多い。一方でそれ以外の趣向を凝らした話も多く収められている。
おそらく『名探偵コナン』も『金田一探偵の事件簿』も、本書で示された単調にならないための工夫の影響は大きく受けているはずだ。

本書にはイラストがない。すべて文字だけだ。
つまり、読者がやれることとは、文字に記された地の文とセリフから矛盾を見つけることだけなのだ。
これが案外と難しい。解けるようで、まんまと著者の仕込んだ謎を見落としていることがある。私も半分以上は答えを頼ってしまった。
それはすなわち、読解能力の問題だ。

読解能力とは、単に文の意味を理解するだけではない。そこに書かれた事物の背後に横たわる関係にまで想像力を膨らませる必要がある。論理的な思考力が求められる。

それは当たり前のことだが、探偵や刑事には必須の能力だ。
だが、探偵や刑事だけではない。論理的な思考とは、普通の仕事にも必要な能力ではないだろうか。

文章に記された各単語の背景に隠された関係を結びつけ、その関係の整合性を判断する。矛盾があれば、状況とセリフのどこかに間違いかウソがある。
実は私たちは、ビジネス文章を読む際、そうした作業を無意識の内に行っている。そうみるべきだ。
ビジネス文書にかぎらず、日常生活で目にする景色のすべてからそうした論理を無意識に理解し、日常生活に役立てているのが私たちだ。

いわゆるロジカル・シンキングとも言われるこの能力は、日本ではそれほど要求されない。が、仕事の中ではとても重要な要素であることは間違いない。
そしてわが国において、論理的な思考を訓練する機会が義務教育の間に与えられることはほぼない。
そのことは、以前から識者によって唱えられている通りだ。

上にも挙げた通り、子供向けには本書やその類書のような推理クイズが出されている。今もたくさんのジュニア向けの推理ものが出版されている。
それなのに、もっともそうした能力が求められる大人向けには、本書のような書物があまりない。

本書は大人になった読者にとっても論理的な思考、つまりロジカル・シンキングを養える良い本だと思う。
むしろ、惰性で文章を読む癖がついてしまっている大人こそに本書を薦めたい。

‘2019/01/30-2019/01/31


時をかける少女


筒井康隆展に行き、感銘を受けた事は『宇宙衛生博覧会』のレビューで書いた。
筒井康隆展はファンにとってうれしい内容に満ちていた。会場には、今まで著者が発表してきた名作たちがさまざまな形で紹介されていた。その中でも一つの空間を占めていたのが本書だ。
著者の名を広め、一つの作品として幅広い層から支持を得た作品だから当然だろう。本書と本書からマルチメディア展開したグッズの展示は圧巻だった。

その展示を見てからというもの、私の脳裏から『時をかける少女』のテーマソングが鳴り止まなくなった。
原田知世さんと松任谷由実さんのどちらもGoogle Musicで何度も聞いたが鳴り止まなかった。鳴り止ませるには映画をみるか、原作を読むほかない。

そう思っていた時、トランクルームに本を預けに行ったら、以前しまっておいた本の山の一番上に本書が覗かせていた。これは何かの啓示に違いない。
前回、本書を読んだのがいつだろう。全く思い出せない。おそらく私が著者の本を集中的に読んでいた1995年から1997年の頃に読んだはず。

正直、本書の内容はほとんど覚えていなかった。
なので、とても新鮮だった。また、なぜ本書、いや、本書の表題作がこれほど支持されているのか、今も支持されているのかが分かった気がする。

どこかで読んだ気がする説明がある。
それによると、本編が発表されてから50年以上がたつが、いまだにタイム・リープは実現されていない。
そのため、私たちにとって本編で描かれたタイム・リープの考えは今もなお、うらやましさの対象なのだ。
だから技術がこれだけ進歩しても、読者の心をときめかせ、古さを感じさせない。
それが、映画化は4回、テレビドラマ化は5回と繰り返しメディア化されてきた理由なのだろう。

そして新しいながらも、本編からは懐かしき少年・少女小説の折り目の正しさを感じる。
読者に著者が語りかけ、同意を求めるような語り口。ポプラ社の少年探偵団・シリーズや、ルパン・シリーズを読んだ時のような懐かしさ。そうした小説に親しんだ私のような層には、本編はたまらない思い出を蘇らせてくれる。

しかも本編は、少年・少女小説でありながら恋を描いている。
その恋も、子供っぽい初恋ではなく、未来の感性を予想した率直な告白なのがよい。
本書が発表されてから50年がたつが、このような形の告白はまだ一般的になっていない。だから今も本編が新鮮なのだろう。

もう一つ。本編には未来の技術がほとんど描かれない。本編には未来が関係するのだが、それにも関わらず、著者は書いた当時の技術しか登場させていない。
昔のSF小説を読むと、現代より遥か先の未来を書いていながら、すでに私たちにとって古く寂れた技術が登場し、私たちの興を殺ぐことがままある。本編にはそれがない。唯一「磁気テープ」が出てくる場面があり、その部分は著者自身の手によって書き換えてほしいと思う。
だが、それ以外に私たちがレトロだと感じる未来の道具は登場しない。それがよい。

そうした部分は著者が執筆した当時に考慮したのかどうかはわからない。
だが、結果として本書は今でも古びずに読み継がれている。そして幾度となく複数のメディアで作られ続けている。
著者が冗談で本編を称して「金を稼ぐ少女」というが、まさにそのような存在なのだろう。

続いての二編も、少年・少女の小説の伝統をよく受け継いだ語り口だ。

「悪夢の真相」
著者が心理学に造詣が深いことはよく知られている。
本編は、日常の出来事を深層心理の面から描いていく。大人にとってみると、何気ない日常は、子供にとっては重大であり新鮮だ。

そして、自分の考えがどれだけ以前の記憶によって左右されているか。どれだけ夢が過去の経験と結びついているか。
その記憶や経験は覚えていないものも多い。例えば胎児の頃、乳児の頃の記憶も含めて。

そうした子供の視点から日々の出来事を描いていくことで、本編は少年・少女にも心の不思議さを伝えている。
当時ではいまよりも新鮮な作品として存在感があったことだろう。残念なことに私は本編のことをほとんど覚えていなかった。それは多分、本編の筋書きに印象がなかったからだろう。
もちろん本編にはドラマチックな出来事が登場する。だが、細かくエピソードを積み上げ、背後に隠されていた過去の出来事に秘められた謎を明かす本編では、それはかえって印象に残らなかったのだろう。

「果てしなき多元宇宙」
これこそSF、と呼べるような一編だ。
多元宇宙とは、複数の異なる時空で時間軸が存在し、その中では地球や日本があったり、別々の意志を持った存在が生活を行っている。お互いは行き来できることもなく、存在すら知らない。
多元宇宙は設定上では自由に理論を設定できるので、SF作家には便利な存在だ。
おそらく昔から数えきれないほど類似の設定で物語が描かれてきたはずだ。

著者もその設定を借り、とある次元で起こった大事故によって複数の時空に影響を与えるまでになったと設定する。
それによって日本の平凡な女の子が全く違う時空に移動したり、日本で夢見ていた生活が実現できる、という物語だ。

こうやって三編を読むと、ライト・ノベルの創始者こそが著者である、という理由もわかる気がする。
いつまでも作品を発表し続けてほしいと願う。ちなみに私の脳内でヘビーローテーションしたテーマ曲は、本書を読んだことで終息した。

‘2018/10/24-2018/10/24