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恐るべき子供たち


ジャン・コクトーは、昨年観劇した「双頭の鷲」の作者として興味を抱いた。レビュー(https://www.akvabit.jp/%e5%8f%8c%e9%a0%ad%e3%81%ae%e9%b7%b2/)の冒頭では、ジャン・コクトーの異才ぶりを表現した有名なコラージュ写真を引き合いに出し、その異才の一部に触れた。実際「双頭の鷲」自体がとても面白く、ジャン・コクトーがなぜこれほどまでに高名なのか、その理由が少しだけ理解できた気がする。

ジャン・コクトーは作家としても才能を発揮したとされている。私は本書を読むまで作品を一冊も読んだことがなかった。だが、私は岩波文庫に収められた本書を持っていた。異能の人が描く小説とはいかなるものか。「双頭の鷲」のように今の私たちにも理解できる作品に仕上がっているのか。それで本書を読んだ。

私は本書を期待して読み始めたのだが、ちょっと期待値を高く持ちすぎたようだ。しっくり来ない。小説の世界に没入しきれないまま読み終えてしまった感じだ。

なぜ小説の中に入れなかったのか。それが何かをつらつら考えながら本稿を書いている。まず思ったのは、訳文が古いということ。しかも”てにをは”にいくつか間違いがある。この2つは読みながら感じたことだ。本書の奥付には、本書の初版が1950年代と書かれている。さすがに半世紀前の訳文は今の時流にそぐわない。訳文のあちこちに時代のずれを感じる。

もう一つは本書に付けられた『恐るべき子供たち』という邦題だ。確かに本書の原題は『Les enfant Terrible』で、直訳すると『恐るべき子供たち』に間違いない。ただ”子供”という単語の語感からは10歳以下の児童を想像する。だが、子供たちという割に、登場人物の年かさはティーンエージャーのそれだ。 しかも、本書に登場する”子供”は、娼婦と一夜を過ごすこともある。つまり、子供と呼ぶには年を食いすぎている。

それでいて現代の感覚から見ると本書の”子供”たちは、それほど大それた事をしでかしていない。 本書で描かれたような出来事が仮に10歳以下の子供たちだけで行われたとすれば、現代でも”恐るべき”で通用するのかもしれない。だが今や海外では10歳以下の子供による銃発砲事件も起きているという。本書のように雪つぶての中に石を仕込んで相手を気絶させる程度では驚かない。これは時代の変化であり、どうしようもないことだ。そもそも本書の”子供たち”が”子供たち”でいるのは一部の間だけだ。数年たった後が書かれる二部では結婚もするし、登場人物の一人はフランスと海外を行き来するビジネスマンになっている。となると、”子供たち”という表現からはますます遠ざかる。

一つは、本書にちりばめられた詩的表現だ。詩人としても名作を残したジャン・コクトーであるがゆえ、文章のあちらこちらに詩的表現が目立つ。その表現は古びた訳文の中にあってなおも光を放っている。だが、訳文が古いため、それらの詩的表現は光を放つ前に訳文の中で浮いている。

と、散々本書には批判を加えた。が、私の批判にもかかわらず、本書は今でも名作となりうる要素がたくさん詰まっていると思う。
それは登場人物たちの関係性が明確に定まっているからだ。主人公のポール。その姉のエリザベート。エリザベートを愛してしまうジェラール。エリザベートの勤める店にいた娘アガート。ポールとエリザベートは姉と弟だが、二人の絆は強い。だが、もろく崩れやすい。本書は複数の人物がポールとエリザベートを翻弄し、はかなげな二人に人間の運命を突きつける物語だ。

ポールが思春期に入ってすぐ、ダルジュロスが彼の心を魅了する。そこには同性に対する憧れがある。異性に興味を持つ前、少年は自分を導き、支配してくれる同性に憧れる時期がある。私もそうした心の動きには心当たりがあるからわかる。ところがダルジュロスはポールが自分を崇拝する気持ちに乗ずるあまり、石入りの雪玉を胸に投げ、ポールの前から退学という形で去ってしまう。ポールの胸を体の痛みに加え、ダルジュロスを失った空白がむしばむ。ついでポールの依存する心は姉のエリザベートに向かう。ところが姉弟の母が亡くなったことで、姉弟を守るものがいなくなったばかりか、ジェラールとエリザベートが結婚し、ポールの心の落ち着き先がなくなる。

エリザベートはジェラールと結婚したものの、ポールに対して複雑な感情を抱き続けている。それは異性に対するものでなければ、一人の弟としてでもない。年の若い、弱い者への支配欲とでもいおうか。だからこそ、ポールがアガートと結ばれそうになると、エリザベートの心には嫉妬心が芽生える。そんなエリザベートに付け入ったのが、再び現れたダルジュロス。彼は本書の物語に波紋を生じさせ、物語を進めるために姉弟の関係を乱す。いわゆるトリックスターだ。第一部ではダルジュロスのこしらえた石入りの雪玉がポールを倒す。そして第二部で再登場したダルジュロスはエリザベートを通じて、ポールを再び倒す。

弟の関係を頼り、頼られる関係から描いたこと。そこに、ティーンエージャーの持つ心の揺らぎが加わり、周りの人間たちとの関係がますます存在自体をかき乱す。人間とは不安定な運命の下にある。その真理をティーンエージャーの群像の上に投影したのが本書だ。

関係性をきっちり読者が把握しないと、本書はわけが分からない。だからこそ、今の文体でもう一度日本語訳を行なければならない。そうすれば、本書はジャン・コクトーの傑作として再び評価されるのではないだろうか。

おそらく「双頭の鷲」も当時の脚本をそのまま脚本として使えば古めかしいはず。それを今のスタッフが現代の感覚で翻案したからこそ見応えのある舞台になったのだろう。多分、本書も新訳で読むと違った印象を受ける気がする。光文社からも新訳が出ているというし、萩尾望都さんが漫画化もしているという。私もそれらを読んでみたいと思う。

‘2017/06/13-2017/06/18


双頭の鷲


ジャン・コクトーが才人である事を示す有名な写真がある。フィリップ・ハルスマン「万能の人」のことだ。腕を六本持ったコクトーが、タバコをすいながらペンを書き、本を読み、はさみを持ち・・・・コラージュカットのその写真は、「ジャン・コクトー 画像」で検索すればすぐに見られる。

この写真が表現しているとおり、彼の才能は様々な分野で発揮された。だが私は、恥ずかしながら ジャン・コクトー の作品のほとんどを観ていないし読んでいない。もちろん戯曲も。本作は、ジャン・コクトーの戯曲「双頭の鷲」を元に、宝塚バージョンとしてアレンジされている。妻から本作の誘いを受けた際は、即座に観ると答えた。

ジャン・コクトーが1946年に発表したというこの戯曲は、ハプスブルク家の暗殺された皇妃エリザベートと暗殺犯ルイジ・ルキーニの関係を取り上げている。皇妃エリザベートといえば、宮廷生活の窮屈さを極度に嫌った女性としてよく知られている。晩年は夫と息子にも先立たれ、世を憚るように生きたことでも有名だ。そんな彼女を暗殺対象に選んだ無政府主義者ルイジ・ルキーニの動機は、王侯貴族なら誰でもよくて、彼女は偶然居合わせたために殺されたとも伝わっている。厭世的なエリザベートが偶然暗殺される運命に遭う巡り合わせに、ジャン・コクトーは人生の皮肉を見出したのかもしれない。そして彼は、戯曲という形式で表現しようとしたのだろう。

「エリザベート」といえば、ミュージカル版が知られている。海外でロングランとなり、わが国でも宝塚やそれ以外の舞台でおなじみだ。ミュージカル版「エリザベート」は、死に惹かれるエリザベートと死神トートの関係を通じ、彼女の欲する自由が生と死のどちらかにあるのか、をテーマとしている。厭世的なエリザベートはこちらでもモチーフとなっているのだ。

つまり、ミュージカル版「エリザベート」の原案とは、ひょっとすると本作「双頭の鷲」にあるのではないだろうか。自由を求め、そしてそれが叶わないことを知ると絶望のあまり厭世的になったエリザベート。彼女の生涯は、文字通り劇的であり、舞台化されることは必然だったのかもしれない。そしてそこに最初に着目した人こそがジャン・コクトー。だとすれば、本作は是非観ておくべきだろう。

本作と「エリザベート」とどちらがミュージカル版として先に初演されたのかは知らない。だが、演出面など似通った箇所に気付いたのは私だけではないはずだ。例えば、ナレーター兼狂言回しの存在。ミュージカル版は、エリザベート裁判の被告となったルイジ・ルキーニの陳述をナレーションとし、観客をエリザベートの生きた時代に導いていた。本作でもナレーターが配され、観客の道案内として重要な役割を担っている。

また、原作の戯曲は6人のみが登場する室内劇として書かれていたという。しかし、本作の出演者は総勢21人だ。ただ、舞台の進行を6人で行うことには変わりない。では、残りの15人(ナレーターを除くと14人)は何をしていたのか。それは、舞台に動きやテンポを生み出す役割ではないかと思う。いわば「動」の動き。

本作の舞台は終始クランツ城内王妃の部屋に固定されている。その壁は巨大なデザイン板ガラスとなっており、ガラスの向こうに人がおぼろげに映るようになっている。14人の演者は、男女パパラッチA~Gとして、ガラスの向こう側に座っている姿を見せている。そうやって常時舞台を囲むことによって、舞台に緊張感をもたらしているのだ。この役割は「静」の動きに他ならない。「静」と「動」の二つの動きを舞台に表現するのがこの14人だといえる。

14人+1人の追加された演者たちが舞台で繰り広げる演出こそが、ジャン・コクトーの戯曲をベースとした見事な芸術作品として本作を成り立たせている。そのことは間違いないと思う。

また、もう一点本作で見逃せない演出がある。それは音だ。舞台の正面奥はバルコニーとなっている。皇妃が暗殺犯スタニスラスと出会うシーンは、バルコニーの向こうで風がうなりをあげ、雷鳴が響き渡る嵐の中だ。その間、自由を求める皇妃は窓を開け放しにしているのだが、皇妃の心中を表すかのように雷鳴が響きわたる。風が吹き込み落ち葉が舞い込む。嵐に紛れて暗殺犯を追う銃声が舞台に響き渡る。

ここまで音響効果が効果的に使われているとなると、音楽にも期待できそうだ。だが正直なところ、本作に死角があるとすれば、それは魅力的なキラーチューンの不在だ。ようするにキャッチーでメロディアスな曲がない。せいぜいが皇妃とスタニスラスが唱和する「双頭の鷲のように」ぐらいだ。そして音響効果が曲の不在を埋めるかのように随所に使われている。

そんな本作であるが、スタニスラスを演じているのは歌劇団理事でもある轟悠さん。普段は専科として各組の脇を締めるために出演している。が、本作では堂々たる主役として魅力的な低音を響かせていた。お年も相当召されているとは思うのだが、そう思わせないほど見事な男役っぷりだった。

その轟さんの相手役を勤める皇妃は、現在宙組の娘役トップである実咲凛音さんが勤めていた。妻いわく、演技よし歌もよしのすばらしい生徒さんだとか。それもうなづけるほど、見事な歌唱と演技だった。そして、厭世観を持っているがゆえに暗殺者に惹かれるという皇妃の矛盾した心中が表現されないことには本作は舞台作品として成り立たない。そこが表現されてはじめて、ジャン・コクトーの戯曲化の意図を舞台に移し変えたといえる。実咲凛音さんはまさに適役といえる。

主役の二人以外の主要な5人についても見事な役者振りで舞台を締めており、宙組の充実振りがうかがえるというものだろう。

それにしても残念に思うのが、本作にキラーチューンがないことだ。それがあれば、本作はもっと世界的な作品となりそうなものを。「エリザベート」とかぶってしまう点は否めないが、本作はオリジナルかつ「エリザベート」の姉妹編として十分に通ずる可能性を秘めている。私も機会があればジャン・コクトーの原作戯曲を読んでみたいと思う。そして、私の考えた本作の意図が戯曲にどの程度込められているのか確かめてみようと思う。

‘2016/12/14 神奈川芸術劇場 開演 13:00~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2016/laigleadeuxtetes/index.html