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叫びと祈り


本書は毎年末に恒例のミステリーのランキングで上位に推された。
連作の短編集である本作は、著者の処女作。初めての小説で上々の評価を得た著者の実力は確かだと思う。

実際、本書はとても面白い。ミステリーの骨法をきちんと備えている。
語りの中にときおり詩的な描写が挟まれ、それでありながら、簡潔な文体で統一されている。さらに短編なので一つ一つの物語がすいすいと読める。ミステリーが苦手な方にも勧められる。

何よりも面白いのは、本書に登場するそれぞれの物語の舞台が国際色豊かなことだ。本書に収められた五編のうち、日本が舞台の物語は一つもない。

五編の物語はそれぞれ、サハラ砂漠、中部スペインのレエンクエントロの風車、ウクライナに隣接する南ロシアロシア南部の修道院、アマゾン奥地のジャングル、東南アジアのモルッカ諸島の島、といった特殊な環境を舞台としている。

日本人にはなじみのない環境と文化。その中で起こる謎。斉木が解決するのはそのような事件だ。
斉木は、世界の問題を取り上げる雑誌の記者だ。語学に堪能で、海外の暮らしには不自由を覚えることはない。さらに、物事に対する深い洞察力を持っている。

「砂漠を走る船の道」

本編こそが、著者の名を大きく高めた一編だ。

砂漠をゆくキャラバン。
キャラバンが向かうのは塩を算出する場所。ここで岩塩を切り出し街へと運ぶ。
太陽が目を灼き、砂が肌を痛めつける。砂がすぐに覆い隠してしまうため、過酷な道は道の体をなしていない。
その道を間違いなく行き来し、天気や環境を知悉するには長年の経験が欠かせない。
キャラバンの一行は荷駄を預けるラクダとリーダーと二人の助手、そしてリーダーに懐く若いメチャボ。
だが、帰途に砂嵐に遭遇し、リーダーは死ぬ。その帰り道には二人の助手のうち一人がナイフを刺されて死んでいた。

一体、何が動機なのか。その動機の謎と過酷な環境の組み合わせがとても絶妙。その関連が印象に残る。
結末ではもう一つの謎も明かされる。その意外性にも新たなミステリーの地平を見せられた気がする。

「白い巨人」

この一編は、風車をめぐる歴史の謎が絡む。
レコンキスタ。それはかつて、イベリア半島を支配したイスラム勢力を再びアフリカに追いやる運動だ。本編に登場する風車は、レコンキスタの戦いの中で、敵であるイスラム側の戦況を味方に伝えようとした斥候が追われ、逃げ込んだ場所だ。逃げ込んだ斥候は風車の中にうまく隠れ、レコンキスタの成就に決定的な役割を果たしたという。

本編に登場するサクラが、かつて想いを寄せた女性を見失ってしまったのも同じ風車。人を消す風車の謎を軸に本編は進む。

風車の謎以外にも、もう一つの謎が明かされる結末もお見事。

「凍れるルーシー」

生きているように、こんこんと永遠の眠りにつく遺体。それを不朽の体、つまり不朽体という。
西洋にはそうした不朽体がいくつか報告されているそうだ。

十字架の上で死んだメシアが復活する。言うまでもなくキリスト教の教義の中心にある奇跡だ。そうした現象を教義に据えるキリスト教が文化に深く影響を与えている以上、西洋のあちこちで不朽体のような現象への関心が高いことは理解できる。

本編の舞台である南ロシアの修道院にも、不朽のリザヴェータの聖骸がある。今までは世間に知られていなかったリザヴェータを聖人として認定してもらうよう、修道院長がロシア正教会に申請を出したことがきっかけで事件は動く。修道院には聖骸を熱狂的に崇める修道女がいて、聖人申請がうまく行かないのではと不安に苛まれる。

そんな所に修道院長が死体となって発見されたことで、事態は一気に混迷に向かう。

本編も短編ならではの簡潔でキレのある物語だ。効果的な謎の提示と収束が魅力的だ。

「叫び」

本編の舞台はアマゾンの奥地だ。隔絶された部族を取材したクルーが遭遇する殺人事件。
だが、斉木たちクルーが部族の集落を訪れた時点で、集落には正体が不明の伝染病が猖獗を極めていた。殺人が起こる前からすでに絶滅寸前の部族。

そのような絶望的な状況でありながら殺人が起こる。どうせ死んでしまうのに、なぜ殺人を犯す必要があるのか。その動機はどこにあるのか。
そこには部族が持つ独特な世界観が深くかかわっている。

本書を通じて思うのは、著者は動機を考えるのがとてもうまいことだ。
それは世界各国の社会や文化についての深い造詣があるからに違いない。
文化によって守るべき考えはそれぞれだ。ある文化では当たり前の慣習が、ある文化では忌むべき振る舞いとなる。よく聞く話だ。

それを短い物語の中で読者に簡潔に伝え、文化によってはそのような動機もありなのだ、ということを謎解きと並行して読者に納得させる。

その技は簡単ではない。

「祈り」

こちらは今までの四編とは少し趣が違っている。語り手によって語られるのはゴア・ドア──祈りの洞窟についてだ。
語り手は誰に対して物語を語っているのか。そこでは上に紹介した四編の物語が断片的に触れられる。

語りの中から徐々に露になってくるのは、斉木が不慮の事故で記憶を失ったこと。
世界を股にかけ、最も自由な生き方をしていた斉木。日本人の認識の枠を超え、自由な考え方をモノにしていたはずの斉木に何が起こったのか。

文化にはさまざまな形がありうるし、その中ではさまざまな出来事が起こりうる。
文化の違いに慣れ、事故に強かったはずの斉木にも防げなかった衝撃。それだけの衝撃を斉木はどこでどのように受けたのか。

果たして斉木は復活しうるのか、

本編はミステリーよりも、四編の短編を受けた一つの叙情的な物語の色が濃い。
文化はいろいろとあれど、それらを共有するのも伝え合うのも人、ということだろう。

‘2019/12/8-2019/12/11


アマゾン入門


本書はAmazon.comについての本ではない。本書のテーマはアマゾン川とその流域の暮らしについて。世界最大の流域面積を持ち、流域には広大な熱帯樹林を擁し、肥沃で広大な場所の代名詞でもあるアマゾン。そこに移民として住み着き、苦労しながらも成果をあげ続けている日本人がテーマだ。

周知の通り、Amazon.comのサービス名の由来の一つにアマゾンがある。アマゾン流域の抱える膨大な広さと豊かな資源。それにあやかったのがAmazon.comだという。今のネット社会に生きる私たちはAmazon.comやAmazon.co.jpにはいろいろとお世話になっている。なっておきながら、その名の由来の一つであるアマゾン川やその流域のことをあまりにも知らない。せいぜいテレビのドキュメンタリー番組でアマゾンを覗き見るぐらい。

著者はそんなアマゾンに魅せられ、長年のあいだに何度も訪れているという。いわば日本のアマゾン第一人者だ。著者の名はジャーナリストとして、ノンフィクション作家としてある程度知られている。だが、そのイメージはアマゾンと対極にある。なぜなら著者が精力的に追っているのは技術だからだ。日本の技術の発展を追った連載や書籍によってその名を高めてきた。だから本書のタイトルからはどうしてもAmazon.comを連想してしまう。

しかし本書はAmazon.comとは無縁だ。それどころかあらゆる技術の類いにも縁がない。インターネットどころか、パソコンすらない時代と場所。なにしろ本書に描かれているエピソードには村にカラーテレビが入ったと喜ぶ人々の姿が登場するぐらいだから。本書が取材されたのは1979年。1979年といえば、日本では一般社会にもカラーテレビが当たり前になりつつある頃。ところが当時のアマゾンではそれすら物珍しいものだった。だから、本書にはAmazon.comどころか、それと対極のエピソードで占められている。

本書は著者にとって二度目のアマゾンの旅の様子を中心に描かれている。1979年の当時は、世界が情報技術に覆われる前の時代だ。世界がまだ広く遠かった頃。アマゾン流域ではさらにそこから何十年も遅れており、アマゾンは無限の広さを謳歌していた。日本人にとって規格外の広さを誇るアマゾン。本書でもそのことは随所で紹介される。例えば河口にある中洲とされるマラジョ島だけで九州やスイスの大きさに匹敵するという。河口だけで三百キロの幅があり、アマゾン流域には日本が16個ほどすっぽりはいること。何千キロも河口から遡っても水深がなお何十メートルもあること。大西洋の沖合160キロまでアマゾンから流れた水のおかげで淡水になっていること。本書の冒頭には、アマゾンの大きさを表す豆知識があれこれ披露される。そのどれもが地球の裏側の島国に住む私たちにとってリアルに感じられない。

アマゾンといえばピラニアが有名。だが、本書では人間を丸呑みする大ナマズが登場する。そのようなエピソードを語るのは本書にたくさん登場する日本人だ。ブラジルをはじめ、南米の各地には日本人の移民が大勢根を下ろしている。厳しい環境の中、成功を収めた日本人も数知れずいる。ジャポネス・ガランチードとは本書のまえがきに登場する言葉。その意味は「保証付きの日本人」だ。日本人の勤勉さと想像を絶する苦労の果てに授かった称号だろう。

厳しい環境に耐え抜きアマゾンに土着した日本人はたくましい。そこには言葉にできないほどの苦労があった。著者はそれらの苦労を紹介しつつ、アマゾンの現状とこれからを描いていく。その描写は収支から経済活動、日々の暮らしにまで及ぶ。彼らの暮らしが本当に地についている事を感じるのはこんなセリフにぶつかったときだ。「アマゾンは広い広いというけれど、日本より狭い」(105P)という言葉。とにかくまっ平なアマゾンに過ごしていると、その広さは全く実感として感じられないのだろう。日本にいる私が各種データやGoogle Earthでみるアマゾンはディスプレイに収まってしまうサイズだ。だが、それこそまさに机上の空論。現地で住まう人々の感覚の方が実感として正しいに決まっている。現地の人々が感じる狭さこそ、人間の五感で得られた実感であり、ディスプレイで知った狭さなどまやかしでしかない。

そんな入植者の勤勉さがアマゾンにはよく合ったのだろう。もちろん勤勉でない日本人もいたはずだが、そうした方は早々にアマゾンから淘汰される。残った勤勉な日本人が現地で成功を収める。なぜなら現地の人々より勤勉だったから。ゴム栽培、ジュート収穫の苦労。トランスアマゾニアンハイウェイの開発秘話。マラリアに悩まされ、原住民に襲われる日々。日本では味わえない苦労の数々。そうした人々の苦労話は、想像すらできない。だが、彼らが乗り越えて来たことだけはわかる。

著者もマナウスから百数十キロ離れた場所で野営をする。アマゾンを知るには最低限一晩の野営はしなければ、といわれ。一晩を静かな原始林で過ごした著者は重要な示唆を得る。
「原始林は、なんともの静かなことか。それに比べて文明地の苛立つ雑踏と、騒がしさ。原始林の”清潔”に対し、文明には”不潔”という言葉しか与えられない。」(197P)

全てが生と死に直結するアマゾン。一方でシステム制御され、効率化を追求したAmazon.com。その二つが同じ名前でつながっている事をAmazon.comの創業者ジェフ・ベゾスの発想だけで片付けてはならない。そこには大いなる啓示を読みとるべきではないか。

本書が描き出すアマゾンは、人間の力の卑小さを思わせる。自然を制御するには思い上がりもいいところと。確かに人間の経済活動は地球の環境を変えつつある。それは人間の制御の及ばぬ領域において。そして本書が取材され出版された当時に比べ、今の私たちの周りには自然よりもさらに統制の難しい存在が姿を現しつつある。人工知能だ。人工知能を推し進める旗頭の一つこそAmazon.comであるのは言うまでもない。そして、人工知能がシンギュラリティを実現したとき、人間はただ取り残される。その時人間は悟るだろう。結局、人間が主体となって神となって地球を操ることなどできはしないことに。かつては自然が、これからは人工知能が。

人間が生体の人間である限り、人間はいつまでも人間だ。そして、その営みこそは、人間が古来から未来まで変えようにも変えられない部分だと思う。本書に書かれているしんずいこそ、その営みに他ならない。本書に描かれた苦労する日本人。わずかながらでもアマゾンに足掛かりをつかみ、成功しつつある人々。彼らの努力こそは美徳であり、人工知能に対する人間の価値の勝利であるはずだ。

もし人間が人工知能の支配する世界で存在感を見いだすとすれば、本書に描かれた人々の姿は参考になるはず。よしんば人工知能が自立する未来が来なかったとしても、文明に飼いならされた人間がどこかで退化して行くことは避けられない。仮に日本人の美徳を勤勉さに求めるとすれば、仮に日本人の勤勉さが世界から称賛されるとすれば、本書に描かれた日本人とは、これからの人間のあり方を示唆しているような気がする。

「アマゾンは、将来世界の中心になるんじゃあるまいか。電力は水力発電で無尽蔵だし、世界の食糧庫になるかもしれませんよ」(96P)とのセリフが本文に登場する。私が想像するあり方とは違うが、アマゾンが地球と人間の今後の指標となることに違いはない。

果たして、自然を味方に付けたアマゾンの価値観が未来を制するのか。人工知能を走らせ統制に終始するAmazon.comの価値観が未来を席巻するのか。二つの相反する価値観がともにアマゾンを名乗っていること。そこに大いなる暗示を感じる。著者は40年も前に今の技術社会の限界とその突破口をアマゾンに嗅ぎとったのだろうか。だとすれば恐るべきはジャーナリストの本能だ。

本書はタイトルや内容に込められた意図を超えて、今の世にこそ読まれるべき一冊だと思う。

‘2017/08/16-2017/08/17


バリー・シール アメリカをはめた男


本作はトム・クルーズが好きな次女が観たいというので来た。でも実は私も観たかったのだ。なんといっても、本作に描かれているのはとても興味深い人物なのだから。何が興味深いって、本作でモデルとなったバリー・シールという人物を私が全く知らなかったことだ。

TWAのパイロットから、CIAの作ったペーパーカンパニーに転籍し、中南米諸国の偵察任務に従事。さらには麻薬組織の密輸にまで手を染め、莫大な富を得る。その破格の儲けを米国の諸機関に目をつけられ、逮捕。ところが米国の中南米政策の思惑から無罪放免となり、麻薬組織とダブルスパイを演ずる羽目になり、最後は麻薬組織から暗殺される。

これが全て実話だというからたいしたものだ。マネーロンダリングが間に合わず、厩舎や地面に金を埋めるあたりなど、思わず疑いたくなるが、どうやら実話らしい。

本作を魅力的にしているのは、現ナマの醸し出すリアルさだ。銀行送金によらず、札束が持つリアルな感触。資金の移動がすなわちデータの書き換えに堕した現在、味わえない金の生々しさ。瞬時にCPUがトランザクション処理で右から左にデータを移す今では、富の実感も薄れるばかり。本書のように札束があちこちに散らばり、置き場所に困るような事態はもはや神話の世界の話だ。

また、70年代末から80年代前半の、今から見ればローテクなインフラを駆使し、膨大な作業を取り仕切るバリー・シールの動きも見どころだ。複数の公衆電話を使って連絡を並行して行うシーンなど、スマホがこれだけ普及した今では、かえって新鮮に思える。スマートなデータが幅を効かせる今だからこそ、バリー・シールの行動に憧れを抱くのかもしれない。IT世代のわれわれは。

そしてもう一ついい点。それはバリー・シールが家族思いなところだ。吠えるほど捨てるほど金があっても、彼はただ家族と共にいることを望む。浮気もせず、ただ日々の仕事に邁進する。仕事で操縦し旅することで自分の欲求を満たし、スリルと報酬を得る。とても理想的ではないか。趣味と仕事が一致していれば、浮気にも走らない。そもそも浮気する必然すらない。日々が充実しているのだから。そんなところも社会に飼いならされた大人にとって魅力的に映るのだろう。

本書は映像も見応えがある。作中、カーター大統領やレーガン大統領が演説する実映像が幾度か挿入される。それがまた、当時の色あせた映像になっている。そればかりか、バリー・シールを映した映像すら、当時のフィルムを使ったのかは分からないが、いい感じに色あせている。それがまた、ITに頼らぬ時代のヒーロー感を演出しているのだ。

また、パンフレットによると、本作の飛行シーンには一切CGを使っていないとか。それどころかスタントさえ使わず、トム・クルーズ自身が操縦し、危険な飛行に臨んでいるという。まさに役者魂の塊である。

本書全体から感じられるのは、時代の断絶だ。人が情報技術に頼るまえ、人はなんと粗野でワイルドで、魅力的だったことか。コンピューターがオフィスの外に飛びだし、人々の生活に入り込んだことで、何かが失われしまったのだ。得るものも大きかっただけに、喪ったものも同じ。それを象徴しているのが、本作のあちこちにはびこる札束なのだろう。札束を見ずに生活できるようになった今、その分、雑然としたエネルギーが街中から消え失せ、人々は小さくスマートにまとまりつつある。

でバリー・シールをヒーローと書いた。だが、本来なら彼はアメリカにとってただのヒールでしかない。でも、薄れゆくエネルギッシュな日々を現代のスクリーンに体現した彼は、やはりまぎれもないヒーローなのだ。トム・クルーズが本作で演じているのは悪役ではない。彼にはやはり、ヒーローが似合う。私はそう思った。

‘2017/11/12 109シネマズ港北