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アクアビット航海記 vol.19〜航海記 その7


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2017/12/8にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

データ入力の仕事に挫折する

データ登録の仕事で思った以上にお金がもらえた。そのことに味をしめた私。
今までは先輩に頼りきりだったので、自分でも動かねば、と一念発起したのでしょうか。私は派遣社員として他の会社に登録する道を選びました。
たかが登録。
今のわたしから見ればなんのことはありません。
ですが、時代は1998年。
多分、登録を行う上で、ウェブ経由で行う方法などなかったはず。電話か何かでアポイントを取り、派遣会社へ訪問したのでしょう。それは、今と比べて労力のかかる仕事です。
でも、一時は鬱に沈んでいた私も、そこまで踏み切れるようになったということでしょうか。
その派遣会社の名前はエキスパート・スタッフさんです。今も大手としてよく知られていますよね。

ほどなく、エキスパート・スタッフさんからオファーが来ました。
その仕事は、FileMakerへの入力です。自宅のパソコンにFileMakerをインストールし、東急ハンズの商品のポップを決まった通りに入力し、納品する。デザインスキルは不要で、価格や商品名を入力するだけでよかったように覚えています。
それは、私にとって初めての在宅ワークでした。

話はそれますが、本稿を書く10日ほど前に(2017/11月末)に、FileMakerの案件を受注しました。
実は私がFileMakerに携わるのは東急ハンズのポップ作成以来なのでした。
当時はオペレーターとして、今回は移行エンジニアとして。
この記事を書くタイミングでFileMakerの案件が受注できたことに何かの縁を感じます。一抹の感慨とともに。

さて、FileMakerの仕事を行っていた私。ですが、この案件も程なく終わってしまいました。そして、この仕事から後、パタリと新規案件が来なくなったのです。
当時の私は思っていました。データ入力の派遣作業とは、依頼が来たら、それを受けるだけ、と。つまり、受け身です。
ですが、それではダメなのです。たちまち収入が途絶えてしまいました。
今だから思える反省点があります。
それは、自分の仕事ぶりを評価してもらうための働きかけを全くしていなかったことです。
これは日本ワークシステムさんで派遣登録している時もそうでした。
この時、当時の私がそれまでの自らの仕事ぶりがどうだったかを聞き、案件が終わる度に、私の仕事ぶりを評価してもらうように聞いていれば、仕事ぶりを改善する余地はあったはずです。
ところが当時の私はそうした作業をまったくしていませんでした。
まだまだ、私は受け身で仕事をやり、受け身の状況に流されていただけなのでした。

社会保険労務士事務所で自転車をこぐ日々

収入が途絶え、困った私は、またしても政治学研究部に頼ります。
この時、私を助けてくれたのは、政治学研究部の先輩ではなく後輩でした。
その彼が入っていたバイト先を抜けるにあたり、後任として私を紹介してくれたのです。
そのバイト先とは、社会保険労務士事務所でした。阪急の西中島南方駅の近くにありました。
この時、私を助けてくれた後輩M君にもいまだに感謝しています。

この社会保険労務士さんは確か、菊池さんといったように覚えています。
ですが、事務所はもう閉じてしまわれたようです。当時もすでに菊池さんは年配でした。今、ネットで検索してもそうした名前の事務所は見当たりません。
私はこの社会保険労務士事務所では、オフコンに社会労務のデータを登録する仕事を行っていました。社会保険労務士さんですから給与データなどを入力していたのかもしれません。
そして印刷した伝票を週二回ほどのペースで福島区の取引先に届けていました。
今、思えば、その仕事も気楽なものでした。
西中島の事務所へは、西宮の自宅から毎日自転車で通勤していました。
その足で福島区のお届け先まで自転車で向かう。そんな日々だったように覚えています。

そんな私の自転車通勤の日々は、数カ月で終わりを告げます。確か1998年の10月いっぱいまで続けていたように思います。この社会保険事務所のアルバイトを辞めるいきさつは、次回の連載で触れたいと思います。

芦屋市役所から始まり、社会保険事務所まで続いたデータ入力オペレーターの日々。それは、私の打鍵能力を鍛えてくれました。
後年、システム・エンジニアとしてさまざまな現場を渡り歩いた私ですが、自らの打鍵スキルに助けられたことは数えきれません。
ですが、いくらキーボードの入力に長けていようと、それだけでは身を立てられないのです。ましてや、結婚して家族を持つとなると。
そう、当時の私は結婚を考えるようになっていました。
結婚のことを触れるには、1998年の秋から少し時間を遡らねばなりません。

結婚を意識する

それは忘れもしない、1998年の2月末のことです。
その日、私は結婚の相手と考える方と初めて会いました。その相手こそ、今の妻です。
妻とのなれそめを紹介すると長くなるのでここでは書きません。
ただ、なれそめの一つがネットのBBS(電子掲示板)であったことは言っておくべきでしょう。

SNSがまだ市民権を得るどころか、存在もしていなかった当時。オンラインでコミュニケーションをとる手段は、メールくらいしかありませんでした。
先に書いたBBSとは、ウェブ上の掲示板のことです。
その掲示板で私と妻は初めて会話を交わしました。
私がその掲示板を訪れるきっかけは、長くなるので書きません。私の小学校の頃からの友人H君が関わっています。
そして、掲示板で妻とも会話をするようになってからしばらくたった2月末、私はそれまでエンもユカリもなかった町田を訪れます。そして、今の妻と出会うのです。
なぜ町田に来ることになったのか。それは、H君が町田まで妻に会いに行くと同行者に私を誘い、私が付いていったからです。
この時の旅も道中もエピソードに溢れており、書くネタには事欠きません。ですが、本連載の主旨とは外れるので割愛させていただきます。

当時、時間だけは自由に使えた私。相変わらず本は読みまくっていました。
ですが、一方で黎明期のインターネットにも大いにはまりました。当時の言葉でいえばネットサーフィンです。いろんなページを巡っていました。
メールでのやりとりや面白そうなメールマガジンにやたらと登録し、上にも書いたBBSや、ICQなどを駆使して盛んにコミュニケーションもしていました。
タイや香港、スコットランド、ロンドンの人とオンラインでのやりとりしていたのもこの頃です。

1998年といえば、フランス・ワールドワールドカップが行われた年です。私はこの時、フランスワールドカップに観戦に行こうとしていました。
その旅費を稼ぐため、スコットランドのマッカラン蒸溜所に英文の手紙を送り、雇ってほしいと頼んだのもこの時です。
まだ付き合う前の妻を半蔵門のイギリス大使館や赤坂のイングリッシュ・カウンシルに連れ回したのもこの頃です。

皮肉なことに、私を沈んでいた日々から救ってくれたのは、内向的なオンラインの世界でした。
当時、メーリングリストがあちこちで立ち上がっていました。私はあちこちのメーリングリストに参加し、そのうち二つのメーリングリストにはオフ会にまで参加しました。その二つのメーリングリストとは阪神間MLとBacchus MLです。
この時に二つのメーリングリストのオフ会で知り合った方々には、その後の人生でとてもお世話になりました。本稿を書いている今もお世話になっています。
オンラインで知り合った方とオフ会で会い、見聞や知り合いを広げる。そして、BBSで知り合った女性とリアルに結婚する。
この頃の私が、黎明期のネットから受けた恩恵は、とても重要なものでした。
この時に培った多様な知見が、後の起業にも役立っていることは言うまでもありません。

鬱に陥った過去を吹き飛ばすかのような活発な日々。
この頃の私は、自分が何になれるのか、何で糧を得るのか、自分の将来を必死に模索していました。
物書きとして身を立てる道を探りました。本をひたすら読み漁って世に出るヒントを得ようとしました。オフ会に出て人との繋がりを求めました。
この時期の私に、まだ起業という考えはありません。
ですが、今から考えると、当時の私の心の在り方は起業を目指す人のそれだったのかもしれません。
勤め人におさまろうという気持ちは、相変わらず希薄なままでした。

ところが、そんな私が勤め人になろうと試みます。
私が入り込んだその企業は、ブラック企業でした。