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ベーシック・インカム入門 無条件給付の基本所得を考える


若い時には理想主義にふけっていた私。利潤の追求は間違っている、とかたくなに信じていた。人々が利潤を独占せず、広く人々に共有できれば、世の名はもっと良くなる。半ば本気でそんなことを考えていた。

経営者になった今、さすがに利潤を無視するわけにはいかない。それは利潤が利潤を呼び、いつまでも成長することが経済のあり方だから、と無邪気に信じているからではない。有限の資源しかない地球でそんなことは不可能だ。利潤を追い求める営みを認めるのは、私の中に飢えへの恐怖があるからでもない。

今、私は経営者として順調に売り上げを上げ続けている。だが、それは私が健康だからできること。何かの理由で仕事ができなくなったとたん、収入は途絶える。そうなったら飢えの恐怖が私の心身をむしばむに違いない。その恐れは常に心のどこかに居座っている。私の心身に異常が生じた時、どこからともなく助けが得られる。などと虫のいいことは考えていない。よしんば助けが得られたとしても、それは最低限の生活を送るための資金がせいぜいだろう。だから私は、利潤を追い求めるだけが人生ではない、という理想は捨てていないが、経済の論理は無視できないと思っている。

そこで、ベーシック・インカムだ。生きていくのに必要な金額が国から支給される。しかも無条件に。助成金や補助金のような複雑な申請はいらない。ただ、もらえる。魅力でしかない制度だ。

だが、経営者になった今、私はこの制度に無条件に賛成できないでいる。それは、私が経営者になった事で、勤しんだ努力だけ見返りがあるやりがいを知ってしまったからだ。勤め人だった頃のように失敗や逆境を周囲のせいにする必要はない。失敗は全て己のせい。逆に努力や頑張りが見返りとして帰ってくる。全ての因果が明確なのだ。見返りがあるということは人を前向きにする。それは人間に備わった本能からの欲求だ。楽になりたいとか、利潤が欲しいという理由ではなく、自分の生き方を自分で管理できる喜び。

だから、私はベーシック・インカムの思想にある「無条件に」という言葉には引っかかりを感じる。「無条件に」という言葉には、努力や責任が一切無視されている。もちろん、弱い立場の方に対してベーシック・インカムが適用されることは否定しない。私がもし、体を壊して仕事ができなくなった時、ベーシック・インカムから無条件に給付を受けられればどれだけ助かるか。それを考えた時、弱い方へのセーフティとしてのベーシック・インカムは必要だと思う。だが、それでは今の福祉制度と変わらなくなってしまう。

私が抱えるベーシック・インカムへの矛盾した思い。その疑問を解決するには勉強しなければ。本書はそうした動機で手に取った。

本書は全6章からなっている。ベーシック・インカムの理念や仕組みだけでなく、古くから検討されてきたベーシック・インカムの歴史が紹介されている。民主主義の勃興に時期を合わせるようにベーシック・インカムは提唱されてきた。その歴史は意外と古い。今までの人類の歴史で、幾人もの哲学者や経済学者、また、マーティン・ルーサー・キングの様な著名な運動家がベーシック・インカムの考えを提唱してきた。ベーシック・インカムはにわかに現れた概念ではないのだ。私は本書を読むまでベーシック・インカムの長い歴史を全く知らなかった。

第1章 働かざる者、食うべからずー福祉国家の理念と現実

この章ではベーシック・インカムの要諦が語られる。著者はその定義をアイルランド政府がベーシック・インカム白書の中で示した定義から引用する。
・個人に対して、どのような状況におかれているかに関わりなく無条件に給付される。
・ベーシック・インカム給付は課税されず、それ以外の所得は全て課税される。
・給付水準は、尊厳をもって生きること、生活上の真の選択を行使することを保障するものであることが望ましい。その水準は貧困線と同じかそれ以上として表すことができるかもしれないし、「適切な」生活保護基準と同等、あるいは平均賃金の何割、といった表現となるかもしれない。

より詳しい特徴として、本書はさらに同白書の内容から引用する。
(1)現物(サービスやクーポン)ではなく金銭で給付される。それゆえ、いつどのように使うかに制約はない。
(2)人生のある時点で一括で給付されるのではなく、毎月ないし毎週といった定期的な支払いの形をとる。
(3)公的に管理される資源のなかから、国家または他の政治的共同体(地方自治体など)によって支払われる。
(4)世帯や世帯主にではなく、個々人に支払われる。
(5)資力調査なしに支払われる。それゆえ一連の行政管理やそれに掛かる費用、現存する労働へのインセンティブを阻害する要因がなくなる。
(6)稼働能力調査なしに支払われる。それゆえ雇用の柔軟性や個人の選択を最大化し、また社会的に有益でありながら低賃金の仕事に人々がつくインセンティブを高める。

この章では他にもベーシック・インカムのメリットが紹介される。その中で、社会保険や公的扶助の現状もおおまかに紹介される。そうした制度が対象とする貧困層に対し、国家はどう認識し、どう対処してきたのか。それは国が行うべき機能の一つと挙げられている。だが、かつて貧困層とは国から完全に見捨てられた層だった。

貧困層とは、雇用されず、生計が成り立たない人々をさす。国としてみれば完全雇用が達成されれば社会保障は不要。だが、現実にはそうはいかない。しかも日本の場合、生活保護対象世帯のうち、実際に保護を受けているのは二割程度だという。これは捕捉率というそうだが、先進国の中でも日本の捕捉率は際立って低いそうだ。

そもそも生活保護とは、貧困者を選別する制度につながる。他にも公的な社会システムはある。そのうち、生活保護制度だけが対象を選別するそうだ。選別という行為は、為政者にとって避けたい。ならば、誰に対しても等しく適用されるベーシック・インカムの制度のほうが政策にも取り入れやすい。そうした観点を著者は説く。

日本ではそのため、完全雇用に近づけるようなワーク・フェアの施策がとられていると著者は指摘する。完全雇用が達成できれば、民間に福祉を完全に委ねられる。そのような発想だろう。だが、諸外国のワーク・フェアと比べ、日本のワーク・フェアには公の補助が欠けているという。

第2章 家事労働に賃金を!ー女たちのベーシック・インカム

本章では、アメリカやイタリア、イギリスで繰り広げられたここ数十年のベーシック・インカムの運動をおさらいする。女性がベーシック・インカムを主張する場合、通常の値上げ運動とは性格が異なる。というのも、通常の値上げ運動は失業時や低所得者の救済を主な目的とする。だが、そうした運動には女性の家事労働に視点が向いていない。そもそも女性が家事労働に従事する場合、それ自体に報酬が支払われることはない。一般的な家庭では、夫たる男性が外で稼ぎ、収入を持ち帰る。妻たる女性は、それを受け取り、家庭のために使う。つまり、夫から受け取る金額の中に、家事労働の報酬も暗黙のうちに含まれている。そのような解釈だ。

だが、報酬を暗黙でなく、家事労働それ自体に報酬を与えよ、というのが彼女たちの主張だ。だが、家事労働の労力など測れるはずもない。なので、女性に対するベーシック・インカムを要求するのが、本章で取り上げる運動の趣旨だ。

アメリカでの運動にはマーティン・ルーサー・キング牧師が関わっていた。そこには公民権運動の一環としての性格もあったのだろう。当時、黒人の女性は弱い立場にあった。それを救済するための手段の一つとして検討されたのがベーシック・インカムだった。イタリアではその運動がもう少し趣を変え、家事労働自体が他の賃金労働と等しく労働だ、という主張がなされた。ただ、ここで誤解してはならないのが、主婦業への賃金を求める運動ではなかったということだ。

イギリスでは要求者組合という形をとり、弱者への福祉も含めた運動に広がってゆく。その中で、受給資格をめぐる議論もより深まっていったという。例えばベーシック・インカムを受ける資格がある女性は、一人暮らしなのか、男性と同居しているか、結婚しているか、など。要は生計を男性に援助してもらっているかどうかによって、ベーシック・インカムの受給資格は変動する。

第3章 生きていることは労働だー現代思想のなかのベーシック・インカム

本章では、アメリカやイギリスでは女性によるベーシック・インカムの運動が衰退したが、イタリアでは発展して長く続いた理由を考察する。そこには賃労働の拒否、そして家事労働の拒否、という二重の拒否があった。ベーシック・インカムはその主張の解決策でもあった。それは、労働の価値化をどう捉えるか、という次の考察につながってゆく。労働とは通常、何か基となるものから付加価値を生み出す営みを指す。生み出された付加価値のうち、労賃が労働者に支払われるというのが古典的な経済の考えだ。そして、今までは家事労働には付加価値が発生しないと考えられていた。発生したとしてもそれは家庭内で消費されてしまうと。もし家事労働に付加価値が発生するとすれば、それは夫である労働者が外で付加価値を生み出すための労働であり、子供という次代の労働力を社会に生み出すための労働であり、それ自体に価値を見いだす考えがなかった。

本章では、行きていること自体が労働という観念が紹介される。生きているだけで労働と認められるなら、その労働には賃金が支払わねばならない。それこそがベーシック・インカムという論法だ。その考えは斬新にも思えるし、突飛にも思える。もちろん、その考えが認められれば、ベーシック・インカムの論理はこれ以上なく確かなものだろう。なにしろ、仕事内容や性別、資産に応じた額の増減を考えずに済むからだ。

日本でも青い芝の会という障害者の権利向上を求める集まりがあるそうだ。青い芝の会では、障害者は生きている、すなわち労働だとの考えに基づいているという。著者はそれもベーシック・インカムに近いと考えているようだ。

後に触れるように原資をどうするか、という問題を脇に置くとすれば、私もこうした考えをベーシック・インカムの一つとみなすことに賛成したい。

間奏 「全ての人に本当の自由を」ー哲学者たちのベーシック・インカム

ここでは哲学者たちがベーシック・インカムをどう考えてきたかについて触れられる。ベーシック・インカムは社会主義や無政府主義に比べ、人類にとって適正な制度であるというバートランド・ラッセルの説や、真の自由を人類が得るためには、必要だとするフィリップ・ヴァン=パレイスの考えが紹介される。苦痛からの逃れる意味での自由ではなく、より真の意味での自由。ベーシック・インカムが給付された場合、生存のために働く必要はなくなる。だが、それでも働きたい人が働く自由も保証されるべき。そうした選択の幅が拡充されるのがベーシック・インカムの根本思想だという。

第4章 土地や過去の遺産は誰のものか?ー歴史のなかのベーシック・インカム

ベーシック・インカムの考え方は、社会制度が封建主義から次の民主主義に移ってしばらくしてから生まれた。それは同時に経済制度が資本主義に変わったとみなしても良い。要するに近代の社会制度が生まれ、ベーシック・インカムの考え方も芽生えた。本書はそれらの紹介を順に進めてゆく。現代の資本主義国家では、土地の私有が認められている。だが、資本主義が勃興した当初、土地は共有という考えがまだ支配的だった。つまり誰にでも土地の権利があり、その土地から収入を得られる権利があったということだ。その考えを敷延すると、まさにベーシック・インカムの考え方そのものとなる。無条件で収入を得る権利というベーシック・インカムの考え方が、土地の扱いという観点で資本主義の発生時からあったことを著者は指摘する。

その考えは、経済学の中でも代々受け継がれてきたという。弱者を救済するための社会制度という性格は同じだが、保険や保護を社会が担うのではなく、無条件に給付するベーシック・インカムのほうが、制度として有効だとの考えも一定数で唱えられていたそうだ。それは、社会主義が見事に失敗した今でも変わらない。

著者はここで、経済制度の分析にまで踏み込んでいない。だが、現行の資本主義の制度の中でも、土地が共有である考えは受け継がれていて、ベーシック・インカムの根拠となる考えは有効であるとの立場のようだ。それはもちろん、人は生きているだけで労働だからベーシック・インカムの権利がある、という考えにも照応する。

第5章 人は働かなくなるか?ー経済学のなかのベーシック・インカム

ここが今の私には関心の高い点だ。

今の社会福祉は、労働を前提としている。だが、社会からは明らかに人間が必要な労働量が減ってきている。それは、技術革新の恩恵にあずかるところが大きい。つまり、労働がないのに報酬を払わねばならない未来が近づいている。もしそうなったら、労働を基に付加価値をつける営利組織はたちまち立ちいかなくなる。だからこそ国や団体による報酬の支給が必要というわけだ。こうした課題を経済学者は今までさんざん議論してきた。

本書に紹介されるのは、どちらかというとベーシック・インカムに賛成の立場の論考だ。だから反対の意見はあまり登場しない。それを差し置いても、今の社会制度で福祉を継続するためには、保険や保護に頼るのは困難になりつつある。そのような意見が優勢になりつつあると著者は指摘する。

ただ、本書の全体を通し、説得力のあるベーシック・インカムの財源が登場しない。これは考えものだ。たぶん現実問題として、財源の不足こそがベーシック・インカムが普及しない最大の理由だと思うからだ。私としては、ベーシック・インカムの普及には技術の力が欠かせないと思っている。資本からではなく、技術の力で全く違う資源からベーシック・インカムとして支給する何かを生み出す。それが実現するまで、私はベーシック・インカムの実現は難しいと思う。

もう一つ、日本においてそれほどベーシック・インカムの議論が熱中しないのは、わが国には自治体による道路、水道、ガス、電気といったインフラが整備されているからだ。現時点で民営化されているとはいえ、こうしたインフラはもともと国家による国民へのサービスだった。だから現状で十分なサービスを享受できているわが国民にさらにベーシック・インカムの恩恵を施す必要はあるのか、という疑問が生じる。

インフラも整っておらず、実際に生活を送るには収入が欠かせない国の場合、ベーシック・インカムの必要性はある。ただ、生活必需品をそれほど労せずに享受できるわが国では、ベーシック・インカムの普及についての議論が深まらない。もちろん、より多様性のあるサービスを受けられる選択の幅があっても良いと思う。だからこそサービスではなく財で等しく受給できるベーシック・インカムは、国民がサービスを自由に選ぶために必要なのかもしれない。原資の安定供給を技術の進化に頼らねばならない現状は変わらないにせよ。

今、年金制度の崩壊が叫ばれている。年金は、その支給の資金を原資をもとに投資した利子でまかない、支給額を安定確保するために努力していると聞く。つまり、既存の旧来の拡大成長を前提とした経済論理に年金制度は完全に組み込まれている。有限の地球に無限の拡大成長は考えにくいとすれば、それをベースに考えられた福祉にどれほどの期待が持てるのだろう。

もちろん、福祉サービスとベーシック・インカムは別ということは理解している。ただ、本章でも提示されているように、何らかの社会的な貢献活動の代償は制度として設けられているべきだと思う。つまり、働いてこそ代償は受け取れる、という考えだ。

第6章 〈南〉・〈緑〉・プレカリティーベーシック・インカム運動の現在

だからこそ、本章で取り上げられる現在のベーシック・インカムを分析する視野が必要だと思う。章のタイトルにある<南>とは既存の資本主義の熟練国ではなく、新興の国々を指す。要はいまだ発展途上にある国々の事だ。<緑>というのは緑の党のような、持続が可能な社会を目指す人々を言う。

ここで著者はエーリッヒ・フロムを登場させる。フロムもまたベーシック・インカムの提唱者だったそうだ。彼は著書『自由からの逃走』で著名だ。その中で彼が唱えたのは自由を持て余した人々がナチスを生んだという理論だ。だが、それとは別に、ベーシック・インカムこそが人々をより自由にするとの考えも持っていたらしい。そして、彼は財ではなく生活必需品の提供でならばベーシック・インカムが成り立つのではないか、と考えていたそうだ。上にも書いたとおり、私はすでに物資が充実している日本では、生活必需品の提供というベーシック・インカムは成り立たないと思う。著者も同じ考えをもっているようだ。

プレカリティという言葉の意味は本章には出てこない。調べたところ、不安定とか予測できないという意味のようだ。第二章で登場した各国のベーシック・インカム運動のその後が本章では紹介される。どうすれば人々がひとしく恩恵を受けられるのか。それはかつての私がまさに目指そうとした社会でもある。そのような社会の実現が経営者としての立場では難しいことも理解している。まさに今の経済制度では現実は不安定で将来は予測できない。だが、これからも理想の実現に向けた努力は注視していきたいと思っている。

本書は各章ごとにまとめが設けられたり、巻末でもあらためてベーシック・インカムのQ&Aの場が設けられたり、各章のあとにはコラムが設けられたり、なるべく読者への理解を進めるような工夫がちりばめられている。何が人類にとって最適な福祉なのか、本書は一つの参考資料となるはずだ。私も自分の理想がどこにあるのか、さらなる勉強を重ねたいと思う。

‘2018/10/17-2018/10/23


大人のための社会科 ー 未来を語るために


技術書を買いに来た本屋で、もう一冊経営に関する本を買い求めようとした私。ところがどうしてもビジネス書よりも人文科学書に目が移ってしまう。そして平積みになっている本書を見つけた。もともと新刊本はあまり買わない私。だがそれだけに買った本には愛着がわく。成り行きで手に入れた本書は収穫だった。刺激を受けただけでなく、新たな知見も得られた。

そもそも私が社会学に特化した本を読むのは初めてだと思う。私が大学で学んだのは商学部だったし。もちろん学際的な視野を身につけるため、他の分野の本も読んだ。経済学、経営学、会計学はもちろん、文学、史学、心理学、政治学あたりまで。経営者になってからは実務の法律知識にも目を通すため、法学にも手を出した。だが、社会学については私の記憶では系統だった本を読んだことがなかった。

私が通っていた大学には社会学部もあった。それなのに社会学が何を学ぶ学問なのか、さっぱり知らなかった。そもそも、社会学が指し示す「社会」が何か分かっていなかった。世間知らずの学生の悲しさといえばよいか。だが、本書を読んで社会学の一端に触れられた気がする。何しろタイトルに社会学と銘打たれているぐらいだから。タイトルに社会学を含んでいるものの、本書の取り上げる範囲は社会学だけに限らない。政治や経済、心理学も含めての社会学だ。つまり、本書でいう社会とは、私たちが生きるこの社会を指している。未熟な学生時代には社会が何かがわからなかった私だが、今はだいぶ分かるようになった。そして、本書がいう「社会」が、われわれが生活を送る上で欠かせない社会であることも分かる。生活に即した社会であり、より良い人生を送るために欠かせない社会。本書は実の社会を取り上げているため、好意的に本書を読めた。

本書がなぜ社会についての本だと思えたのか。それは多分、本書の視線が未来を見すえているからではないだろうか。未来を見なければ今の日本に必要な視座はわからない。本書のいう社会学は、未来を含めた社会学だ。過去だけでもないし、現在のみでもない。未来を見ている。だから現在の日本の課題も明らかにできる。今の日本の課題を社会学を通して的確に把握することにより、本書は、社会学が日本のこれからを考える上で有効な学問であることを示している。

本書は以下のような構成になっている。各章に振られた簡潔な単語は、本書が視野に入れるべきと判断した課題だ。それは社会学が扱える範囲だ、と宣言した課題でもある。それを四つの部でさらに大きく区分けしている。

第Ⅰ部 歴史のなかの「いま」
 第1章「GDP」
 第2章「勤労」
 第3章「時代」

第Ⅱ部 <私たち>のゆらぎ
 第4章「多数決」
 第5章「運動」
 第6章「私」

第Ⅲ部 社会を支えるもの
 第7章「公正」
 第8章「信頼」
 第9章「ニーズ」

第Ⅳ部 未来を語るために
 第10章「歴史認識」
 第11章「公」
 第12章「希望」

例えばGDP。GDPといえばGross Domestic Product、つまり国内総生産のこと。経済指標の一種だから、経済学に属する言葉と思われがち。だが、著者によると、社会学の文脈からもGDPは考察に値する概念だという。GDPとは社会の良さを表しているのか、という問いにおいて。というのも、GDPが計上するのは全ての生産物の付加価値なので、マイナスからの復旧もGDPに計上されるからだ。例えば病気の治療費、災害の復旧工事など。だが、それらは社会の良さを上向かせていない。また、国によっては違法な犯罪から生まれた生産物もGDPに計上しているという。例えば銃器や麻薬、密輸品など。それらが社会の良くしないことは、論じるまでもない。そして、シェア・エコノミーの広がりも、GDPの上昇に寄与しない。

そうした点から考えると、社会にとっての良さを測る指標はGDPの他にあるはず。そこで国連開発計画はHDIという指標を提案している。また、ブータン王国は国民総幸福量という指標を発表し、GDPやGNPが重んじられる風潮に一石を投じている。さらには、指標値をどうやって計上するかもさまざまな手法がある。例えばそれぞれの指標を足し算で求める場合(功利主義基準)、掛け算で求める場合(ナッシュ基準)、最小値で求める場合(マクシミン基準)で求める場合、それぞれで同じ指標でも結果に差は生じる。つまり、GDPとは経済学の文脈でみれば有効であっても、社会学からみれば不十分なのだ。第1章「GDP」からすでに本書は社会学の意義を存分に主張する。

第2章「勤労」も、経済学や法学の範疇で扱われることが多い。経済学では古典経済学で勤労の概念が扱われているし、法学では憲法27条にも勤労の義務が謳われておりおなじみだ。ところが本書は社会学の観点で勤労を語る。日本国憲法では、真面目に労働に勤しむことを国民の義務と定めている。それは言い換えれば、義務を果たさない国民に対し、国が生活を保証する義務がないことに近い、と著者は言う。そこから考えると、実は日本とはかなりの自己責任社会なのだ。その視点は社会学ならではのもの。新鮮だ。日本国が国民に対して提供する無償のサービスも、外交、安全保障、教育の三つだけ。これは先進国の中でも少ない部類だそうだ。

本章で示された観点は、さらに引き延ばして考えてもよい。例えばベーシックインカムが日本で根付くのかという議論にも適用できるだろう。今まで民の手で生活をまかなって来た日本人にベーシック・インカムの考えが行き渡るのかという論点で。あと、日本人がなぜこれほどまでに企業に忠誠を尽くすのか、という議論にも使える。国が生活の面倒を見てくれないから企業がその替わりを担って来た歴史も踏まえると、企業への忠誠は今後も根強く残り続けるはず。

続いての第3章は「時代」と題されている。ここには、史学はもちろんのこと、政治学、経済学が含まれる。ここでは時代区分をどう分けるかに焦点を当てられている。時代区分とは古代、中世、近世、近代と時代を区分して考える手法だ。だが、この区分は切り取り方によって変わる。例えば政治体制によって絶対王政や貴族制、立憲民主主義で分けられる。社会体制の変遷によっても区分できる。農奴制や封建制。また、経済体制でも考えられる。狩猟、遊牧、農業、商業の段階によって。もちろん、資本主義や社会主義といったイデオロギーの観点でも区分できるはず。

重要なのは、そもそも区分の仕方自体が、時代によって変化するという指摘だ。あらゆる価値は絶対でない。当たり前だが、日々の生活ではついそのことを忘れてしまう。これは常に肝に銘じておかねばならないことだ。鎌倉、室町、安土桃山ときて江戸、という区分けは私たちにとって常識だ。ところが時代がもっと先を行けば、その区分も変わるだろう。私たちにとっては激動だった明治、大正、昭和すら、未来では違う区分名で括られているかも。

次の第4章「多数決」からは、第二部「<私たち>のゆらぎ」に入る。今の社会が本当に理想的な姿なのか。それを問い続けることに社会学の意義はある。そして人類の歴史とは理想的な社会を求めた日々だ。理想の社会を求め、揺らぎ続けた過ちと失敗。その積み重ねこそが人類の歴史だと言い換えてもよい。社会のあり方をどうやって良くするか。それは、人々がどうやって意思を決定するかを考え続け、試みて来た歴史に等しい。だが、理想的なやり方はいまだ見つかっていない。もちろんいくつかはある。その一つが多数決だ。一見すると多数決による意思決定は合理的に思える。だが、内情を知れば知るほど理想的な解決策だとは思えなくなる。

多数決が理想的な意思決定手段なのかどうかは、今までに何度も行われた選挙の度に議論されてきた。たとえば三択の場合、第三位に投票された票数によって、第一位と第二位が入れ替わることがある。それを改善するため、再び一位と二位で投票を行う決選投票と呼ぶ方法がある。また、有権者が一人一票を投じるのではなく、候補者にランクを付け、その点数によって当選者を選ぶボルダルールと呼ばれる方法もある。単純な多数決で選ばれた結果と決選投票で選ばれた結果とボルダルールで選ばれた結果が違うことは、本章でも簡単な例として理解できる。また、評価の対象によっても結果は変わる。総合評価とそれぞれの政策ごとで投票する場合も、結果に差は生じることが例に示される。それをオストロゴルスキーの逆理という。とても興味深い一例だと思う。

私がパンと膝を打ったのは、コンピューターの父であるフォン・ノイマンの多数決原理が紹介されている箇所を読んだときだ。ノイマンは電子回路にはエラーが起こると考えた。だから複数の回路の処理結果の中で多数決をとり、導かれた結果に基づき後続の処理を進めた。つまり、ロジックの権化であるコンピューターの動作原理にも、あいまいな多数決の論理が含まれている。これはとても参考になる知見だと思う。

曖昧だから、多数決で意思が決定が確定される危険も先人たちは認識してきた。たとえば我が国では、基本的人権に関する法案の制定は憲法で禁じられている。それは、多数決のあいまいさをよく認識した叡智のたまものだろう。そもそも我が国の憲法自体が、改定するための手続きをかなり厳しくしている。それがあまりにも厳しいため、現内閣が意図する憲法改正も、まずそこから着手しようと考えている節があるくらいだ。結局、私たちは多数決原理が必ずしも最善ではないことを念頭に置きながら、日々の決断を下すしかないのだろう。

つづいて著者は、「運動」と名付けられた第5章で、選挙によらず社会を変える方法について記す。運動とは、主張を通すため集団で集まることを指す。選挙で選ばれた代議士が、立法に関わり、それが法律となって国民の生活を縛る。その道以外にも、運動によって立法に基づいたさまざまな政策を変えさせることもできる。憲法第21条にも集会の自由として謳われている。著者は江戸時代の百姓一揆から、明治時代の負債農民騒擾、2015年の安保反対デモを例にあげ、時代や集団によって変わり得る「正統性」を議論する。この「正統性」が揺らぐため、ある時代では正義だった主張が今は違ってくる。本章には”SEALDs”も登場する。いっとき話題となった学生による安保反対の運動だ。著者はSEALDsの主張の是非を問わず、あくまでも中立に運動の現実を論じる。だが、そもそも”SEALDs”の主張が正当性があるものなのかどうかは問われなければなるまい。”SEALDs”は終わりを迎えたが、終わったことを彼らの主張に正当性がなかったからと決め付けるのも良くないと思う。今の世の中は多様性を重んじる方向に向かっている。正当性が求めにくい社会にもなっている。”SEALDs”に限らず、運動に正当性を与えることが難しい時代だ。運動を成り立たせること自体が困難な時代。

続いての第6章「私」では、「社会問題の個人化」がテーマだ。それを説きおこすため、著者は前提から話を進める。その前提とは、多数決と運動が、世の中に個人の主張を反映するため、必ずしも最適なやり方ではないという実情だ。そのため、個人の意思を発揮できにくい無力感が、今の若者に漂っていると指摘する。”SEALDs”も活動を終え、選挙権が20歳から18歳に引き下げられた後も、その無力感は変わらない。むしろ若者に関していえば年齢が上がるにつれ政治に対する無力感が濃くなるらしい、という調査結果もあるらしい。それは、集団から個人へと利害の対象が変わってきたためだと著者は喝破する。確かに、歴史の流れを眺めると争いの多くは、集団の利害が絡んでいた。百姓一揆もそうだし、フランス革命もそう。だが、今は多様化の時代。集団で共通の利害を持ちにくくなっている。集団で活動する”SEALDs”はむしろ珍しい存在なのかも。集団よりも一人の個人が抱える状況によって利害は大きく揺れる。それを著者は「社会問題の個人化」と言い表している。「社会問題の個人化」は、SNSが今の世でこれだけ支持されている理由でもあるのではないか。私にとってSNSを通した自己顕示のあり方とは、常に関心の高い話題だ。そして「社会問題の個人化」を頭に入れ、SNSを眺めるとそのことに合点がいく。匿名の発信に逃げてしまう理由も。

個人の自由には孤独と責任が伴う。エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』の一節だ。フロムは問う。ナチス・ドイツになぜあれほどのドイツ国民がなびいたのか、と。それは個人が与えられた自由を負担として扱いかね、強大なリーダーシップに自由をゆだねたことにある。フロムはそう分析した。自由を持て余す個人。リスクや冒険を苦痛に感じ、自由を与えられるぐらいなら、束縛を望む人もいてもおかしくない。ところが世の中の流れは、個人に自由を与える方向に進んでいる。会社も多様化を許容しつつ、成長に向けて社員をまとめなければならない。その時、個人はどうやって自分に与えられた自由を扱うか。それを持て余しているのが大多数だと著者はいう。その問題はこれからも人類の歴史に付いて回ることだろう。今よりも個人の自由には孤独と責任が伴うことが増えていくはず。

最後に著者は東浩紀氏が提唱する「一般意思2.0」を紹介する。「一般意思2.0」とは、今の民意のありかがネット空間の言論の中にこそ見いだせる、という仮説だ。もしそうだとすると、今はまさに黎明期にあたるはず。当ブログも私なりの意見発表の場であり、自己顕示の場になっている。私の書いた文も、一般意思の一つとして生き残り得るならば、マスターベーションで終わらないだろう。一般意志の一端として、何かしら書く意味が生じる。望むところだ。

第7章「公正」からは「第3部社会をささえるもの」として、価値観について取り上げる。「公正」とは何をもって判断すれば公正なのか。それはもちろん、おのおのの受け止め方によって変わる。では、客観的に見た「公正」は存在しないのだろうか。著者はここで『バビロニアン・タルムード』とアリストテレスが説いた公正の概念を紹介する。二つの概念から導かれた公正の割合は同じ例題を扱っていてもかなりの隔たりがある。特にタルムードの公正から導かれた結果は、今の私たちの感覚からするとかなり奇妙に思える。だが、本章で解説されるタルムードの公正は、それで理にかなっていることが分かる。つまり「公正」とは採用する計算の方法や文化の共通認識に応じて変わるのだ。

これは例えば議決の票数についても当てはまる。一人当たりの票数を所持する株数に応じて与えるべきか、それともあくまで一人一票に限るのか、という議論だ。また、課税の考え方にも公正の考えは適用される。一人当たりの税額を一律にするのか、所得に応じて累進的に課税額を変えるのか、全ての所得を比例で考えるのか。それによって課税額は変わる。公正とは私たちの生活にモロに直結するのだ。そればかりか、もともと私たちは公正についても、ある傾向で捉えているらしい。「公正に扱われたい」という感情として。それを著者は、最後通告ゲームという経済実験で立証されていることを紹介する。最後通告ゲームで示された結果は私にとってかなり参考となった。なぜなら私は値付けがうまくないからだ。どうも低い額を見積もってしまう。相手にとっては有利な、こちらには不利な額を。値付けを低くする傾向にある人は、幸福感が高い=セロトニン値が高いという実験結果もあるらしい。本当だろうか。

第8章「信頼」で示された内容も私にはとても参考になった。日本人は他人を信頼する率が他の先進国にくらべて低い。それは日本が信頼社会でなく安心社会だから、という山岸俊男氏の論を知ったのは、この章からだ。ある個人が信頼できるかどうかは、その個人がその組織にどれだけ長く属しているか。それは長く受け入れられていること、つまりその人物が安心できる人物であるかどうかの尺度だ。それが日本にでは特に強いと山岸氏は説いている。逆に言えばそれは、組織を飛び出した人間が、周りからは安心を得られないため、個人的に信頼してもらうよう努力するしかないことを意味する。だが信頼の考えが日本には根付いていないため、日本で信頼を勝ち得るためのハードルは高い。そして独立・起業に対する難易度も高い。私はこの論にとても刺激を受けた。昨年、とあるブログでも起業のための一章の中でこの論を紹介した。

信頼の概念は他の学問ではあまり取り上げられていないようだ。そのため社会学で信頼を取り扱うようだ。本章ではさまざまな学者の論を紹介する。その中で多かったのは信頼がないと仕事も生まれない、つまり資本主義の発展には信頼の有無が大いに関係するという指摘だ。これはAirBNBやUberといったシェア・エコノミーの発展にも欠かせない。また、私のような独立した者にとっては、仕事の取り方やネットワークの構築の仕方、また、組織の構築にあたってとても重要な考えだ。山岸氏の本はきちんと読まねばなるまい。本稿を書いたことをきっかけにあらためて探してみたいと思う。

第9章「ニーズ」も重要な章だ。なぜ弱者を助けなければならないか、の問いから始まる本章は、社会そのものの存在意義を説いている。なぜ社会が成立するのか。それは人が一人で生きるには自然は過酷だから。だから集団で生活する。それが生き延びるためには最善な方法である。この考えは歴史学でも人類学でも登場する。そして人が生きていく上ではさまざまな必要(ニーズ)に迫られる。

そのニーズは人によっても、時代によっても、属する集団や場所によっても違う。集団に求められる共通のニーズを見いだすのは難しい。そして、そのニーズがどうやって満たされるのかを測ることも難しい。それを人類は貨幣の発明や、税の義務を課すことで解決してきた。一律で集め、なるべく公正になるように分配したのだ。だが、公正が難しいことは、今までの章で解説されてきた通りだ。

そこで個の利益よりも集団の利益を考えることで、人々は社会を維持しようと試みた。弱者をいたわらなければ、自分がその立場になった時に不利になる。「情けは人のためならず」だ。皆のために税を払ったほうが、結果的に自分にとって利益が大きくなる。もっとも、それは理屈ではわかっていても、それを実践することはなかなかできない。

最低の位置にいる人だけに最低限度の保証をするのか、全員に向けて厚みのある保証を施すのがよいか。あるいはその間のどこかか。それは大きな政府、小さな政府という政治学の領域で論じられる問題だし、ベーシック・インカムの導入については経済学の範疇でもある。ただ、それらは全て社会のあり方を考えると同じ分野に属するのだ。ここまで読んで来ると、社会学とは学問が個別化してきたため、カバーしきれなくなった人々の社会を繋ぎ止めるための学問であることが見えてきた。

第10章「歴史認識」からは「未来を語るために」というテーマが論じられる。未来を語るにはまず過去の歴史をきちんと認識しなければならない。それは歴史学が常に考えているはずのテーマだ。だが、第二次大戦の間のわが国民の行いは、70年以上たった今でも論争の対象となっている。南京事件や従軍慰安婦、その他の虐殺や731部隊の人体実験。それらが事実としてどうだったのかを正しく認識することが重要なのはいうまでもない。だが、実際のところは、イデオロギーの対立の道具や、国際政治のカードとして使われているのも確かだ。

著者も従軍慰安婦問題のいきさつや論争を紹介し、このように結論付けている。「しかし、それが人々のあいだに深刻な亀裂をもたらさないようにするためには、まず出来事レベルでの認識を共有し、解釈レベルでの対立が一定の範囲内に収まるようにする努力が必要なのです。」(187-188P)

まだまだこの問題が収まるには長い時間が必要だろう。だが、もしもう一度同じ過ちを起こさないためにやるべきなのは、アーカイブズの運用を始めることだ。本章の前半でもさまざまな公文書(アーカイブス)を保管する施設が紹介されている。いったい、私たちはあらゆる物を捨ててしまいすぎる。かつては軍機に触れるため、今は断捨離やシンプル・ライフの名の下、貴重な資料となるはずの書類が顧みられず捨てられ続けている。日本は土地が狭いとの制限があるかもしれないが、日本もアーカイブズの考えを身に着けねばならないと思う。私はそう思い、以前から自分の人生をライフログの形で貯め続けている。もっともそれを私が見返すことはあまりないし、将来の人々に役立つのかは心もとないのだけれど。

第11章「公」では、プライベートとパブリックの対比を取り上げる。日本では公共性に相当する言葉がないのと同じく、英語でも公共性を表わす言葉がないらしい。公と私の区別は、大人になれば否が応でも意識せざるをえない。私の場合は、公私を区切らないようにしている。だが、この考えは少数派だろう。日本人は公私をとにかく分けたがる傾向があるようだ。

本章はそのあたりを詳しく見ている。さらに、社会が人口の縮減期にはいると、公共性が生まれる傾向にあることも指摘する。それは今までの歴史からも明らかなようだ。そして、これからの日本の人口は必ず縮減する。今までのイケイケな高度経済成長期では軽んじられてきたが、将来は公共性が求められるはず、と占う。公共性の発露はどういう具体性を持って現れるのか。本章では二つの団体の事例を取り上げている。常陸大宮市の医療法人博仁会と、福山市のNPO法人地域の絆だ。そこで挙げられる職員への育児休暇などの制度を手厚くする施策や、地域の高齢者に対するケアの実践は公共性の一つのあり方だろう。他にも高知県の限界集落で自然発生した助け合いのエコシステムの事例も挙げられている。

私の知る会社ではサイボウズ社がまさにそうした取り組みで知られている。そして事業の一つとして社会への還元を掲げる会社も少しずつ増えつつある。公共との連携は、以前から私も考えていることだ。具体的には自治会との連携だが、まだまだ採算の面ではめどがつかない。そもそも非営利団体に潤沢な予算がない以上、こちらも身銭を切らなければならない。それが実情だ。そこをどう進めるかは試行錯誤中だ。企業のCSRという言葉が市民権を得ている今でも、取り組みが実を結び始めるには時間があるかかるはず。本章はそれを理論的に支えるために、もう少し読み込んでおきたいと思う。

第12章「希望」は、まとめとなる章だ。今、未来がみえない。私たちの誰もがそう感じている。人工知能の脅威や地球環境の激変を指摘する論者もいる。日本の場合、未来に向けた不確定要素が少ないため、諸外国よりも対処のやりようがあると説く論者もいる。

本章では、希望と幸福に焦点を当てている。幸福とは現時点で感じる心の状態。希望とは未来の時間を含んでいる。つまり、今ではなく常に未来に目を向ける。「まだーない」ものを考える。それが希望だと本章は説く。今はまだなくとも未来にはあるかもしれない。それこそが希望。もちろん、ただ待っていても希望は叶わない。未来を変えるには正しい方向への努力がいる。だが、今の出来事が未来に影響するのであれば、今、正しい向きへ何かを成せば未来は必ず変わるはず。希望とはそうしたものだ。

本稿を書くため、あらためて本書をつまみ読みした。あらためて、本書から得る物はまだまだ多いと感じる。社会学とはどういう学問かがわかっただけでなく、ビジネスや生き方の観点でも役立つ情報が多かった。本書は社会学が何かを知らない方にこそお勧めしたい。

‘2017/09/19-2017/09/29