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太陽の簒奪者


ハードSFは読んでいる間は楽しく読めるのだが、読み終えるとなぜか中身を忘れてしまうことが多い。本書も同じだった。
設定や頻出する英文字略語、登場人物などは真っ先に忘れる。それらが失われると、筋の運びすらバラバラに解けていく。

本書については、あらすじすらもあやふやになっていた。
そのため、本稿を書くに当たって改めてざっと読み直してみた。
本書のあらすじはこんな感じだ。

突如として水星の地中から高く噴き出した柱。それを発見したのは高校の天文部の部長である白石亜紀。その柱は水星を構成する鉱物資源であり、それは太陽の引力に引かれ、直径8000万キロのリングとなって太陽を取り巻いた。
それによって地球に届くべき太陽エネルギーは激減し、地球は寒冷の星と化した。収穫は減り、それによって多くの産業が衰えていた。大量の人が死んでいき、既存の経済に頼ったあらゆる体制は崩壊していく。
リングがなぜできたのか、リングをどうすればなくせるのか。
長じて科学者となった亜紀は、長きにわたってリングの謎に関わっていく。

本書は異星人とのファースト・コンタクトを描いている。
リングの正体については、本書の中盤あたりで描かれる。だから本稿がネタバレを含んでいても許してほしい。
このリングは、正体の不明な異星人がどこかの星系から次の星系へ船団ごと移動するための手段だ。

リングの構築にあたって、地球と人類に甚大な損害を与えた異星人。異星人を糾弾し、彼らを撃退する迎撃体制が組まれる。そうした風潮に対し、白石亜紀はその異星人が地球に知的生物がいると知らずにリングを設定したのではないかと仮定する。そして、異星人を迎撃しないよう必死に訴える。異星人とのファースト・コンタクトに臨んだクルーは、そこで何を見るのか。

著者は、本書を書くにあたって、異星人とのファースト・コンタクトにおける可能性を熟慮したのだろう。本書を読めばそのことが感じられる。

実際、私たちがファースト・コンタクトを経験する日は来るのだろうか。
私はこの広大な宇宙のどこかに人間と同じような知的生物は存在すると思っている。その存在と遭遇するのはいつか、またはどういう形で遭遇するのか。私にはわからない。そもそも、その存在に確たる証拠がない以上、私がそう思っていることは、もはや信仰に近いのかもしれない。

人類と異星人が遭遇するケースはさまざまに考えられる。例えば、SETI(地球外知的生命体探査)が検出した信号をもとに何かしらの交信が始まることもあるだろう。パイオニア・ボイジャー探査機に取り付けられた銘板を見た異星人が地球を訪問する可能性もゼロではない。逆に、人類の発したメッセージとは無関係に異星人が地球を発見する可能性もありえる。
人類と異星人の遭遇のあり方についてはあらゆるケースを考えた方がいいし、SF作家にとってはテーマとしては使い古されていても、あらゆる書き方が可能である。著者がその一つとして描いたのが本書だ。

異星人の文明が地球よりも相当進化している場合、そもそも遭遇の実際は、人類が想像することすら難しいかもしれない。著者のようなSF作家が知恵を絞っても思い付かないような。

では仮に、私たちの思いもよらない方法で遭遇が実現したとする。
その時、人類は国や民族、宗教の違いによって殺し合うよう段階から、一つ成長できるのではないかと思っている。
異星人は思考回路や思考パターンも人類と違うだろう。そもそも知的水準すら今の人類を凌駕しているとすれば、人類は彼らの思考パターンの片鱗さえも読み取れないはずだ。その時、異星人の容姿や思考回路の違いなど、人類が悩む暇などないはずだ。マスコミが面白おかしく取り上げるとしても。
容姿や思考パターンの違いなど、本書で書かれたようにほとんどの人は触れずに終わってしまうだろう。

ただ、遭遇して初めて人類は知るだろう。それぞれの個人が持つ考え方の違いなど、異星人と人類の違いに比べたら、比較にならないことを。
自分たちが仕事や宗教や文化、価値観の違いに悩んでいることなどちっぽけであることを。それを争いのタネとすることの愚かさを。

そこから人類はどのような道を選んでいくのだろうか。
そもそも今の人類のあり方は、生命として能率的な形なのだろうか。今の生命体としてのあり方は絶対の普遍なのだろうか。
もし、生命のあり方から変えた方がよりよい未来が望めるのなら、どのような生命へと変わっていくのか最適なのか。

なぜそう思うのか。それは、本書に出てくる異星人が、生物としてのあり方を根本から変革しているからだ。
われわれの存在と違う形で発展した異星人の姿が描かれた本書は、今の人類のあり方に問いを投げかける。

今の人類は、それぞれの個体がそれぞれの思惑や欲求をばらばらに抱えている。だから、生まれた民族や文化や宗教や土地に縛られた思考しか巡らせられない。
そのあり方のままで果たして、種族としての進化は可能なのだろうか。

そうした思索からは、根源的な疑問すら湧き上がる。私たちの存在のあり方が理想の形なのだろうかという。
全ての思考の型が今までに人類の発展する中で設けられた枠から抜けられないとすれば、人類が次の段階に進むことは到底無理だろう。
もし人類が次の段階に進みたいのであれば、私たちは徹底的に自らを客観的に考える訓練をしなければならない。自己の思考の道筋を客観的に考え、その思考の道筋を自分の主観から自由にする。それはまさに哲学が今まで苦闘してきた道そのものだ。

SFとはサイエンス・フィクションの略であることは誰でも知っている。だが、フィクションだからといって、その内容を自己の思索の材料にしないのはもったいない。たとえ壮大な時間軸であっても。

‘2020/05/22-2020/05/23


FACTFULLNESS


本書は、とても学びになった。
本書を読んだ当時の感想は、7日間ブックカバーチャレンジという企画で以下の文書にしたためた。
その時から一年数カ月が経ったが、今も同じ感想を抱いている。

Day1で取り上げるのは「FACTFULLNESS」です。昨年、ベストセラーになりましたよね。

今、コロナを巡っては連日、さまざまな投稿が花を咲かせています。その中には怪しげな療法も含まれていましたし、私利私欲がモロ見えな転売屋による投稿もありました。また、陰謀論のたぐいが盛んにさえずられているのは皆様もご存じの通りです。

私はFacebookでもTwitterでも、そうした情報を安易にシェアしたりリツイートすることを厳に謹んでいます。なぜなら、自分がその道に疎いことを分かっているからです。
ですが、四十も半ばになった今、自分には知識がある、と思い込んでしまう誘惑があることも否めません。
私のように会社を経営し、上司がいない身であればなおさらです。
独りよがりになり、チェックもされないままの誤った情報を発信してしまう愚は避けたいものです。

本書は、私に自分の無知を教えてくれました。私が世界の何物をも知らない事を。

冒頭に13問の三択クイズがあります。私はこのうち12問を間違えました。
著者は世界各地で開かれる著名な会議でも、出席者に対して同様の問いを出しているそうです。いずれも、正答率は低いのだそうです。

本書の問いが重要なこと。それは、経歴や学歴に関係なく、皆が思い込みで誤った答えを出してしまうことです。
著者によれば、全ては思い込みであり、小中高で学んだ知識をその後の人生でアップデートしていないからだそうです。
つまり真面目に学んだ人ほど、間違いを起こしやすい、ということを意味しています。

また著者は、人の思考の癖には思い込ませる作用があり、その本能を拭い去るのはたやすくないとも説いています。

本書で説いているのは、本能によって誤りに陥りやすい癖を知り、元となるデータに当たることの重要性です。
また、著者の意図の要点は、考えが誤りやすいからといって、世の中に対して無関心になるなかれ、という点にも置かれています。

本書はとても学びになる本です。少しでも多くの人に本書を読んでほしいと思います。
コロナで逼塞を余儀なくされている今だからこそ。
陰謀論を始め、怪しげな言説に惑わされないためにも。

正直にいうと、私はいまだに偏見の霧に惑わされている。
というか、偏見に惑わされないと思うあまり、判断を控えている。
コロナの中でオリンピック・パラリンピックを開催し、その後、急に感染者数が減った事。私はこの時、なんの判断も示さなかった。
専門家でないことはもちろんだが、私の中で下手な判断をくだせば逆効果になると思ったからだ。
こればかりはFACTFULNESSを読んでも実践できなかった点だ。

「世界は分断されている」「世界がどんどん悪くなっている」「世界の人口はひたすら増える」「危険でないことを恐ろしいと考えてしまう」「目の前の数字がいちばん重要」「ひとつの例にすべてがあてはまる」「すべてはあらかじめ決まっている」「世界はひとつの切り口で理解できる」「だれかを責めれば物事は解決する」「いますぐ手を打たないと大変なことになる」
これらは本書が説く思い込みの例だ。

コロナは世界中でワクチンの争奪戦を呼び起こした。
その時、先進国ではいち早くワクチンが行き渡ったが、発展途上国ではいまだにワクチンが出回っていないという話も聞いた。
この情報は、果たして正しい情報なのか。
上記に書いた思い込みではないのだろうか。
私はこれもまだきちんと調べられていない。

FACTFULLNESSは怪しげなニュースソースに乗っかって言説を吐くことを諫めてくれた。
だが、このように一大事の際に何をみれば正しい情報を得るのか、という点については、一人一人が探していくしかない。
例えばテレビ番組では連日コロナ関連の報道がなされていたが、ああした番組をただ見比べて自分で判断していく以外に道が見つけられなかった。
テレビ局ごとに別の専門家が意見をいい、それを比較するのが精いっぱい。

本書の説く内容に従うならば、私たちはよりおおもとのニュースソースにあたり、加工・脚色された情報を見極めなければならない。
だが、コロナは遠くの国の出来事ではなく、自らに降りかかった災厄だ。しかも何が正しいのか専門家すらわかっていない現在進行形の出来事。
そうなると冷静に判断することも難しい。
それがコロナの混乱の本質だったように思う。

気を付けなければならないのは、これがコロナに限らないことだ。これから起こるはずのさまざまな事件や災厄についても同じ。
マスコミも私たちも等しく、コロナから学ばなければならないことは多いはず。反省点は多い。
「大半の人がどこにいるのかを探そう「悪いニュースのほうが広まりやすいと覚えておこう」「直線はいつかは曲がることを知ろう」「リスクを計算しよう」「数字を比較しよう」「分類を疑おう」「ゆっくりとした変化でも変化していることを心に留めよう」「ひとつの知識がすべてに応用できないことを覚えておこう」「誰かを責めても問題は解決しないと肝に銘じよう」「小さな一歩を重ねよう」
まずは、これらの提言を実践するしかない。

ただ、本書を読んだ後、私が実践し続けようと心がけていることはある。
それは謙譲の心だ。
上の7日間ブックカバーチャレンジの後、弊社は人を雇う決断をした。そして人を雇った。
それが今年だ。
人を雇うことによって、今までの一人親方として営業と開発と総務経理を兼ねる立場から指導する立場へと役割を変えた。

そうなると指導する前提で話をしなければならない。指導ということはあらゆることに秀でている必要があるのだろうか。
否。そんなことはない。
確かに開発にあたっては、知識が必要だ。
だが、本当に経営者は開発の知識において従業員を上回っていないとだめなのだろうか。
違うと思う。
その時に私の心に去来するのは、謙譲の心だ。決して自分が正しいと思わない。
これは本書から得た学びだ。13問のうち12問を間違えた自分が正しいはずがないのだから。

‘2020/04/20-2020/04/28


沖縄にとろける


本書は、沖縄旅行の前に読んでおきたかった。なぜなら、本書には沖縄を楽しむための知識、それも私が大好きな類の知識がたくさん詰まっているからだ。

本書が語る沖縄とは、海や戦跡、水族館や琉球舞踊、音楽についてではない。ありふれた日常の中にある沖縄を語る。

本書が主に扱うのは食文化や酒文化からみた沖縄だ。その観点からみた沖縄は、混じり合った異文化の魅力を放っている。それは観光客として訪れるだけでも存分に楽しめる。実際、私を魅了し続けている。独特の食材を使い、独自の風味で味付けられた料理。お店には泡盛の甕やシーサーが飾られ、飲み食いしながら味わえる旅人の実感は格別だ。

しかし、その装いや味付けはどことなくよそ行きの雰囲気をまとっているように思うのは私だけだろうか。つまりは観光客向けの。それは私がまだ沖縄を観光地でしか知らないからだろう。観光客は決して知らない、沖縄にしかない食文化が、沖縄の日常には隠れているはずなのだ。シーブンのような。旅の楽しみの一つは、その奥深さに触れることにある。普段は観光客の目に触れないが、日常に足を踏み入れると時折その姿をのぞかせる食文化。それらに触れるには、市場やスーパーなど地元民が訪れる場所に行くのが早い。

沖縄は日本屈指の観光地だ。それだけに観光客として訪れるだけでも十分楽しめる。だが、沖縄の日常には、観光客として行くだけでは決して味わえない、さらなる深い麻薬のような魅力を放っているように思う。

その魅力とは、町の大衆食堂の中にメニューとして掲げられている。自動販売機やA&Wの店を訪れ、店内を注意深く見ると気づく。離島のゆっくりした時間に漂っている。うらぶれた裏通りのホテルに染み付いている。地元民しか訪れないビーチで波に洗われている。

私は今回の沖縄が三回目となるが、観光客がよく行くと思われる沖縄本島の有名な観光地はようやく二割近くは訪問できた。となると、次はより沖縄の日常に触れてみたくなる。当然だ。実は二回目も今回も沖縄在住の方にお会いしている。だが、限られたわずかな時間では本書に取り上げられているような深い経験はできない。本書にはいわゆる観光地は登場しない。旅人としてではなく、住んでみて初めて気づく視点。それが紹介されるのが本書だ。

その視点とは、沖縄に住み、地元の方と長い時間を共有してようやく気づく類いのことだ。たとえば本書には住民のビーチパーティーに招かれた著者が、ビーチパーティーとはなんぞや、と考察する章がある。そもそも観光地を訪れ、普通にホテルに泊まっているだけではビーチパーティーには呼ばれるどころか存在にすら気づかないはず。地元の方との親密な関係を築いてはじめてビーチパーティーに呼ばれるのだから。

他の章では、数十メートルの距離を歩かずに車で移動しようとするウチナーンチュを揶揄している。観光客向けのレストランや居酒屋には登場せず、地元住民が足しげく通う店でしか見られないメニューの数々が登場する。法の遵守などまったく見向きもせず、たくましく生きるウチナーンチュの夜型の生活が描かれる。生活のためなら論外と言わんばかりに自販機の夜間販売の制限を無視するふてぶてしさにも触れる。食品衛生法など度外視で造られる島豆腐の製法から、食品の美味しさを賛美する。どの視点も生活をともにせねば書けない内容だ。著者はそうした沖縄のしたたかさとたくましさが、管理と治安が最優先の日本本土で失われつつあることをいいたいのではないか。自主規制が幅を利かせ、画一的な文化しか見られなくなったメインストリームの文化。そのような対比が透けて見えるため、本書はなおさら面白く興味深い。

本書から見えるのは沖縄のたくましさだ。そのたくましさはアジアのそれを思い出させる。たとえば台湾のような。

かつて私は台湾を自転車で一周したことがある。その時に見かけた台湾の人々はとてもエネルギッシュで活力にあふれていた。町中をバイクで五人乗りで走行する少年たちの姿。日本ではまず見られないものだ。その辺で交尾をし、放し飼いで買われている犬たち。私は夜の道を自転車で走っていて何度犬に追っかけられたことか。そのおおらかなアジアの猥雑さは、当時の私に大きく影響を与えた。本書から垣間見える沖縄の姿は、あのときの台湾を思い出させる。

私が台湾で活気むんむんだった庶民を見かけたのも観光地ではなく、日常の中だった。その経験は私に旅の極意を教えてくれた。旅とは観光地ではなく、日常に入り込むことによって得られるものだと。

その経験からいうと、私はまだ沖縄の表しか見ていない。私が沖縄の日常を知るにはあと何度訪れなければならないのだろう。より深く活気にあふれた沖縄。そのエネルギーは少々管理に疲れたように見える日本人に活気を与えてくれるはずだ。活気だけでなく、日本再生のヒントを。

私ももちろん、沖縄からエネルギーを分け与えてもらいたいと思っている。そしてこの整頓と秩序を重んじる日本で生きるためのヒントを。私の残り時間は短い。

‘2018/03/31-2018/04/02


精神論抜きの電力入門


貧しい資源の上に危うく乗っかった日本の繁栄。福島第一原発の事故によって、改めて我々にはその事実が突き付けられた。資源に乏しい我が国が、今の繁栄をどのように維持するのか。多くの人々が忘れ去ってしまったこの問いは、実は全く解決されていない。問題は棚上げされ、事故から4年以上の時が過ぎている。本書は、この問いに答える上で、重要な資料となるかもしれない。一読してそんな感想を抱いた。

著者は経済産業省で資源エネルギー政策の課長などを歴任した人物である。原発推進を国策とした経緯に当事者として関わり、政策の立案者として貢献してきた。いわば我が国原発推進の中心人物であり、その主張は原発推進の立場に依っている。

なぜ日本が原発に頼らざるをえないのか、どうして即時原発廃止が現実的でないのか。クリーンエネルギーが主流にならないのは何が問題か。そういった疑問に対し、本書では精神論に頼った議論を切り捨て、実務の立場からの解説に終始している。本書の題には「精神論ぬき」という言葉が含まれている。なぜそのような言葉を入れる必要があったのだろうか。それは、原発事故の後、精神論で今の電力危機を乗り切ろうとする風潮への警告なのだろう。

私も実は、当時精神論寄りの意見を吐いた一人だ。ただし、単純な精神論だけを唱えていた訳ではない。「電気が無ければただの箱」であるIT技術に生活の糧を得る者として、電力の安定的な供給=原発は必須と考えていた。そのため、原発の即時廃止についても慎重論に立っていたように覚えている。そして、原発は将来的には廃止の方向で考えるべきだが、代替エネルギーの無い現状では稼働せざるをえず、稼働させ続けた上で電力使用量を減らして徐々に原発から脱却すべきという意見を述べた。その意見は今も変わっていない。

夜間に煌々と明かりをつける住宅展示場や、繁華街の過剰にまぶしい光。これらをもう少し抑えるだけで、夜間電力量は減らせるのではないか。重要なのは昼夜の電力使用量の節約云々ではなく、万が一に備えて普段から節約(MOTTAINAI)の精神に慣れておくこと。それが資源貧国の民としてあるべきではないか、というのが私の思いだったように思う。今思い返しても、一歩間違えると精神論の罠に落ち込みかねない意見だ。しかし間違った意見だとは今でも思っていない。間違っていないが、私がその意見を述べるにあたり、裏付けとなる確かなデータや知識を持っていた訳ではないことは率直に認めたい。だが、本書は意見を述べるためのデータや知識を持つ、実務の第一線の著者が描いた本である。

著者の論考は、徹底して実務の立場に立っている。そこには一切の希望的観測は含まれない。理想論や希望論を排する姿勢は清々しいほどだ。冷徹な立場に徹して電力事情について解説された本書には、精神論の入り込む隙間もない。それでいて、本書が原発バラ色未来だけを描いた本かというと、そうでもない。原発利権や電力会社の構造問題にもきっちりとメスを入れている。著者の視線は常に原発の存在について、理想論や希望論を抜きにした、精神論からは遠く離れた場所に留まっている。著者の立場からいえば難しい、単純な原発擁護論とは一線を画しているのが本書の素晴らしい点の一つといえる。

第1章 電力不足の打撃と損失
第2章 原発依存にかたむいた事情
第3章 エネルギー政策の基礎とルール
第4章 再生可能エネルギーの不都合な真実
第5章 原子力をめぐる不毛な論争
第6章 賠償を抱えた東電の行く末
第7章 電力自由化の空論と誤解
第8章 「東日本卸電力」という発想の転換

ここに各章の表題を挙げたが、論じるべき点は全て論じきっているといえる。日本の電力を考える上で、本書で提示された現状を出発点とすることは重要ではないかと思う。

ただし、事故当時、精神論を唱えた私としては、まだ理想論や精神論は捨て去りたくない気持ちもある。精神論を排した本書には一矢でも報いておきたいところである。例えば、本書の第一章、第二章。電力使用量を下げねばならないという市井からの主張に対して、著者は現実的でないと一刀の元に切り捨てている。ここは少し納得が行かない。著者の唱えるすべての施策が実現しても尚、また、仮に原発事故が起こらなかったとしても尚、電力を無尽蔵に消費し尽す今のライフスタイルは見直さねばならないのではないか。これは電力問題にとどまらず、日本の将来を考える上で重要な論点ではないだろうか。

もう一点、本書ではクリーンエネルギーについても国内外の事情を紹介した上で、現時点では質量ともに代替電力としては期待できないと結論付けている。この結論は現時点では認めざるをえない。だが、著者は決してクリーンエネルギーの将来を見捨てている訳ではない。それは本書を読んでも明らかである。本書を読んだクリーンエネルギー開発の技術者の方は、是非とも本書を読み、発奮してクリーンエネルギーを開発して頂きたい。精神論にも似非科学にも無縁の、文句のつけようのないクリーンエネルギーを。その点は、私も著者も思いは一緒だと思う。

最後に、本稿を書く段になって、著者のブログhttps://ieei.or.jp/2015/06/sawa-akihiro-blog150623/ を読む機会があった。そこには、原発推進派としての著者からの贖罪にも似た言葉が綴られていた。本書ではそういった贖罪の言葉は見られない。おそらくはあえて外したのだろう。だが、このブログからは著者の真摯な態度が伝わってくる。本書を読んで、所詮は原発推進派の都合にそったことしか書かれていないんでしょ、と思う向きは、このブログを読まれることをお勧めする。クリーンエネルギーを望む声が高まってもなお、原発を推進せざるをえない日本の貧しい資源事情について、思いを致すこと間違いない。

著者とて、決して手放しで原発が最適解と考えている訳ではないのだ。著者一人にその重荷を背負わせるのではなく、我々市民として電力の節約を唱えることは、決して精神論ではないと思うのだが。本書とブログを読み、著者の真摯な姿勢に感銘を受けても尚、私が抱く電力節約についての想いだけは変わることはなかった。

という内容を書いたまま、8か月近く本稿を眠らせていた。読んだ順に読読ブログをアップするという方針のため、他のレビューを待っていたのだ。今日、本稿をアップするわけだが、結果として本書を読み終えて一年以上が経ってしまった。しかも、あろうことかその間に著者は病魔に侵され、この世から去ってしまった。今年の1月16日のことである。著者と面識があった訳ではないけれど、ブログから著者の想いに触れていただけに衝撃を受けた。当ブログが存命中の著者の目に触れることはなかっただろうことは分かっている。だが、著者の存命中に本稿をアップしたかった。アップが著者の死後になってしまったことは慙愧に堪えない。

私が偉そうなことは言えないことは重々承知だ。IT業界に生きるものとして、電気に縛り付けられた一人にすぎない。プライベートでも電気の点けっぱなしは始終やらかす。著者からみれば私もまた電気を湯水のように使い倒す大衆の一人なのだろう。それは分かっている。だからこそせめて、こういった文章をものし、著者の想いに少しでも報いたかったと思うのだ。

著者亡き今、東京は都知事が辞任するという体たらく。それでいて2020年のオリンピックは着々と迫っている。電力問題など真面目に考えている人などほんのわずかしかいないに違いない。さぞ無念だったことだろう。本書や著者の遺したブログが少しでも多くの方の目に触れることを望みたい。

‘2015/6/20-2015/6/24


中東国家と日本の関係をエネルギーの観点から考える


ISISの残虐な所業から時間が経ち、議論が百出しています。 後藤さんの行動に対する失礼極まりない誹謗中傷から、ジャーナリズムの有り方についての意見まで。安部首相の行動から、外交の問題や自己責任論に踏み込む意見まで。

読むに耐えない意見も多い中、参考になる意見や、唸らされる卓見にも出会いました。でも、皆さんの議論にあまり出てこなかった観点があります。

それはエネルギー、資源からの観点です。

ISISは国際社会では無視されているとはいえ、国を名乗っています。国を名乗る以上、内部で経済が機能しているはずです。彼らの外貨獲得の手段として産油があります。しかし昨年、産油施設が奪回されました。そして産油施設をISISから奪回する試みは今も続き、効果を上げているとのことです。記事

産油施設を失ったことで経済的に困窮したISISが誘拐ビジネスを再び活発化させ、その刃が湯川さん後藤さんに及んだという憶測も成り立ちます。

また、お二人の殺害は、安部首相の中東での演説がトリガーとなったとの批判を目にします。1月16日からの安部首相によるエジプト、ヨルダン、イスラエル、パレスチナ自治政府への歴訪の目的は何だったのでしょうか。私は、産油国との関係強化を目指したものではなかったかと思っています。歴訪国は主要な産油国ではありません。また、演説でも石油について言及した訳でもありません。それでも、中東各国と日本のパイプを深め、産油国との関係強化に結び付ける。そのような目的があったのではないかと思います。演説の中でISISと戦う諸国へ資金を提供する意思を示したのも、中東での日本の存在感を明らかにするため、旗幟を鮮明にする意図があったのではないでしょうか。

先の東日本大震災で、我が国の原子力発電は致命的なダメージを蒙りました。もはや原発推進派の挽回の努力は実ることはないでしょう。そのぐらい、深刻なダメージでした。その一方、地震直後に計画停電が実施された際は節電の機運が高まりましたが、それもいつしか喉元を過ぎ、街中では煌々と明かりが照っています。そして日本の燃料輸入費は高騰を続け、ただでさえ赤字の日本経済に大きな影響を与えています。記事

依然として原子力・火力に変わる大規模な効率的な発電方法の実用化の目途は立っていません。次世代の有力なエネルギー源として脚光を浴びたシェールガスも年初にアメリカの大手企業が倒産(記事)するなど安定しません。そのような現状を考えると、我が国としては中東との関係を太くせねばなりません。安部首相の中東歴訪と演説にはこのような意図が込められていたのではないかと思います。そしてISISとの関係もエネルギー資源の状況によって揺れ動きます。資源貧国である我が国にとって、中東の国家との関係はいまや無視できないものとなっています。

中東との関係に関して、政治や外交、貿易の現場を知らない我々が出来ることはあまりありません。しかし2つほど挙げることはできます。1つ目は中東諸国の文化を理解することです。先日、イスラム教に対する理解を深めなければという意見を書きました。2つ目は、エネルギー依存を抑えるために、東日本大震災直後のように一過性のものでなく、長期的な節電の意識を高めることです。日本の夜は明るすぎます。街中の煌めく明りを何とかするだけで、我々が国に対して貢献できることは多いのではないかと思います。もうちょっと光量を抑えてもなんとかなる。そのことを東日本大震災後の日々で学んだはずです。今の街を照らす光は明らかに過剰です。

安部首相の行動を批判する前に、ISISに対して批難を行う前に、後藤さんのご遺族に対して中傷を加える前に、こういった少しの努力が必要ではないかと思いました。もちろんそれはITで生活の糧を得る私自身にも言えることです。