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やし酒飲み


本書はアフリカ文学の最高峰としての評価を得ているようだ。
私も本書の独特の世界に惹かれた。

アフリカと聞くと、私たちは子供の頃に刷り込まれたイメージに縛られてしまう。
未開の地。広大なサハラ砂漠を擁する北部。またはサバンナのそこら中に野生動物が闊歩している大陸。
旱魃や腹を肥大させた子供の写真が脳裏に刻まれている。ルワンダのフツ族とツチ族の凄惨な内戦がニュースを彩った日からさほどたっていない。
民族同士で無益な抗争に明け暮れる一方で、極度の飢えに苦しんでいる。そんな印象が強い。

いわゆる発展途上国だらけの大陸。
そんな印象が今や一新されていることは、ネットで少し検索してみればすぐ分かる。
大都会には高いビルも並んでいる。インフラが整う前に世界の情報技術の恩恵を受けたため、モバイルを使ったマイクロ・エコノミーが他国より発達している。
むしろ、文明に疲れ始めた西洋文明の諸国よりもアフリカにこそ今後の発展が約束されている。そんな話もよく耳にする。

とはいえ、アフリカは遠い。私たちにとってネットで知る実情のアフリカは、幼い頃に聞いたターザンがジャングルで動物と語らうアフリカに及んでいない。それが正直な印象だ。

その印象に縛られた視点から見た時、本書が描くアフリカは私たちの幼い頃の印象を上書きしてくれる。
呪術が有効で、不可思議な出来事が頻繁に起こる地。

主人公はやし酒造りの名人を求め、あちこちを旅して回る。
この構成は、私たちがよく知る日本神話の世界に近い。
日本神話の中では、イザナギが黄泉の国に行った妻を追い、山彦は兄たちに言いつけられて旅をする。そしてスサノオは、さまざまな地をさまよう。

旅は神話にとって、欠かせない要素だ。ギルガメシュも旅をしていたし、モーゼと彼に従う人々もエジプトから約束の地を目指した。

本書は、まさに神話の世界を現代の物語として著している。
もっとも、アフリカにも人々が語り継いできた物語があるはずだ。著者がそれらを思い起こしながら本書を著したことは間違いない。
しかも本書で主人公たちはJUJUというものに願いをかけ、その力で困難を乗り越えていく。

JUJUとは、依り代のようなものに違いない。それは私たちも神話の世界でお馴染みのものだ。
例えばスサノオは八岐大蛇を退治する前、生贄にされそうになっていたクシナダヒメを櫛に変えて八岐大蛇と対決する。
そもそも、国産み神話からして、イザナギとイザナミがかき混ぜた矛から滴り落ちた雫から国が産まれる。スサノオもイザナギの鼻から産まれたとされている。(左の眼から天照大神、右の眼から月読命)。神自体をものから産まれたものとみなすのが日本神話だ。
今でも山そのものを御神体とみなして祈る風習は私たちの中に普通に息づいている。他にも呪いの藁人形の習俗もある。

本書で主人公がJUJUに願いをかけ、願いを託す行動は、実は日本人にとっては特に珍しくないことが分かる。
また、本書に登場する出来事は乱雑で雑多に思えるかもしれない。だが、それらは日本であってもお馴染みの概念だ。

例えば王様やそこで働く人々の間にある労働のあり方。さらには、生産と消費のつながり。また感情と制度の反目も描かれている。芸術と仕事の対立も。
もちろん本書が最も念入りに描いているのは生と死の表裏一体の関係だ。結局、先に挙げた概念も生と死を取り巻く出来事に過ぎない。
私たちは何のために生き、死ねばどうなるのか。それは日本だろうがアフリカだろうが全く関係なく、どこでも共通の関心事である。

本書をそのように読めば、この混沌とした物語の筋が通り始めてくる。

本書はやし酒をモチーフにしている。物心がついた後、飲むことしか能のない主人公がやし酒造りの名人を求めてさまよう話だ。だが、単なる酔っ払いの話ではない。
もちろん、人は酔うとあれこれおかしな妄想を頭に湧かせる。
一方で、普段の生活ではそのような妄想は理性の名の下に押さえ込み、人前ではおくびにも出さない。
その裏側では押さえ込まれた想像力がスキを見つけて表に出ようとたくらんでいる。
酒を飲めば理性のブロックが外れ、あらゆるものが混じり合った想像力の出番だ。人の内面には得体のしれない想像力が渦巻いている。

だからこそさまざまなものが入り混じった、本書のような取り留めもない神話の世界は私たちをどこか懐かしい思いにさせる。
理性にブロックされた整然とした世界でなく、ありったけの想像力を駆使した奇想天外な世界。
本書は、そのような多彩な物語を展開するからこそ、西洋文明の人々に支持されたのだろう。

本書の巻末で訳者の土屋哲氏が、実は本書はアフリカでは評判が高くなく、西洋諸国でとても高評価を得ていると紹介している。

それは西洋が理性の名のもとに押さえつけた、整然としない内面を本書が存分に開放しているからだろう。

冒頭に記した通り、幼い頃に植え付けられたアフリカに対するイメージはぬぐいがたい。だが、そのイメージのまま、豊かな想像力を押さえ込むのが正しいと思い込まされていないだろうか。むしろそのような原始的な力こそが、人間を人間として強くするように思う。
これから情報技術はより進化し、私たち人間の外で圧倒的な力を発揮していくに違いない。その時、私たちはもう一度自らの人間的な能力に目を向けるはずだ。この豊潤の想像力をどのように操るか。本書はそれをまさに体現した一冊だと思う。

‘2020/05/26-2020/05/29


魔法の種


ノーベル文学賞を受賞した作家たちは、いつか読破せねばと思っている。
著者はインドにルーツを持つ英文学の世界では有名な作家だ。そして、ノーベル文学賞の受賞作家でもある。
それなのに著者の作品はいまだに読んだことがなかった。本書が初めてだ。

著者の作風を知らずに読み始めたためか、本書は私にとって少々読みにくかった。

読みにくいと感じた理由はそれだけではない。
翻訳文が生硬だったことも理由の一つとして挙げられる。
主人公の独白調の語りが硬く訳された時、読みにくさは増す。

もう一つ、本書が読みにくかった理由がある。それは本書が『ある放浪者の半生』の続編である事だ。
私は、巻末に訳者が付した解説を読むまで、本書が続編である事を知らずにいた。

実際、本書を読み始めると、読者はすぐにある不自然さに気づくはずだ。
その不自然さは、主人公の過去を追憶する場面においてひときわ目立つ。

本書は、ベルリンにいる主人公ウィリーの現況を描写するところから始まる。
インドに生まれ、アフリカで長い期間、結婚生活を送っていたウィリー。18年に及ぶアフリカ生活は、主人公の考え方に明らかな影響を与えたはず。
それなのに、その18年はわずかに追憶されるだけで、実際にアフリカで何が行われたのか、ウィリーはどういう日々を営んでいたのかが一切描かれない。

私は読みながらそのことを訝しく思っていた。そして最後になって大きなどんでん返しがあるのでは、と思っていた。
しかし、あとがきを読んで本書が『ある放浪者の半生』の続編である事を知り、ようやく納得した。
アフリカでの日々は『ある放浪者の半生』で描かれており、本書は、読者がそれを読者が読んでいることを前提に書かれているようだ。
たしかにあとがきで著者がいうように、本書はアフリカのことを知らなくても読めるし、『ある放浪者の半生』を読んでいなくても本書は読み進められる。
だが、私のような不注意な読者にとっては、本書の前段がぽっかり抜けていると感じ、それが読みにくさにつながっているのも事実だ。

だが、そうした点を除けば、ウィリーが理想を求め続ける人間であることは分かる。理想を求めすぎるあまり、アフリカの生活に飽きたらなかったことも。
私は『ある放浪者の半生』を読んでいないので、アフリカの生活がどんなものだったかは分からない。おそらく、ウィリーがアフリカで感じたのは大義の欠如だったのではないか。

大義とは、個人の目標を自分自身の達成におかない事だ。
そして目標とは、自分の信じるより良い社会の実現だ。その目標に向かって努力すること。これが大義。
左右のイデオロギーを問わず、大義に殉じようとした人のいかに多いことか。

ところが、人は大義の大切さはわかっても、何をすれば良いのか、何が課題なのかが分からない。それをわきまえず、ただ闇雲に大義へと突き進む人がいる。
それは空虚な理想主義であり、頭でっかちに考えるとそこに落ち込む。
誰もが陥る若かりしころの過ちであり、私もその轍にはまった一人だ。

社会のいろいろな経験を積み、いろいろな階層の人と交わり、社会の仕組みを存分に知る。
そのような地道な営みの中から知識が少しずつ身についてゆく。そして、地に足のついた改革が志せるようになってようやく、人は大義への現実的な歩みを始める。

ウィリーは深い知恵がないまま、空回りの理想に走る典型的な人物として描かれているようだ。
妹のサロジニが読みかじった、インドの哲人ガンジーの伝記からの受け売りに感化される。そして改革のために運動するカンダパリという人物の組織に加わるよう、サロジニから焚きつけられてその気になる。

ウィリーは不確かな連絡だけを頼りに、インドへと向かう。ゲリラ運動の大義に身を投じるために。
ウィリーは自分の過去と決別し、今や自分は生まれ変わったと確信する。

ところがそれは大きな勘違いであることは、読者には容易に理解できる。
組織の首脳が誰で、どういう大義を掲げており、どういう手順を踏んで事を成そうとするのか。
ありとあらゆるゲリラへの理解があやふやなまま、行動すること自体が大義であるかのように振る舞うウィリー。

そこには何もなく、ただ空虚な大義に踊らされる人間の滑稽があるのみだ。

おそらく、今の発展途上国の多くでは、年端もいかぬ子供達が、銃を手に取り、理解してもいない大義に殉じて日々を送っていることだろう。
あるいは学生運動の盛んだった頃のわが国で、いったいどれだけの学生が大義の目的や大義を実現する具体的な方法や大義が実現する見込みを理解していたか考えてみるといい。
おそらく、オルグしたリーダー格の発する熱気にあてられ、浮わついた気分で運動に邁進していったのではないだろうか。

ウィリーはさまざまなパートナーと組んでゲリラ活動を行う。
連絡員として重宝されたかと思えば、連絡が途切れた上に放置される。
有望な一員として抜擢されたかと思えば、命令した当の組織から見捨てられる。
そうした経験をへても、ウィリーはとうとう理解しない。その組織が何を目指し、何を実現しようとするのかを。

活動の合間にベルリンのサロジニから連絡はポツポツと来る。
だが、サロジニにも無意味なゲリラ活動に兄を追いやった事への反省はない。それどころか、次々と理想を求める活動に身を投じて行く。
もはやそこに正解があるとは読者や著者も期待しないというのに。

ウィリーはベルリンに戻る。そして、かつて書いた詩集が名声を呼び、それによって生活の糧を得る。そして上流に属する人々と交流する。

だが、本書はそこから迷走を始める。いったい、本書がどこに向かっているのかわからなくなるほど、上流階級の交流のダラダラとしたやり取りが続く。
そして、銀行家の不倫の恋の結末が延々と再現される。
どうなってしまうのか、と私は別の意味で心配になったほどだ。

ところが物語の展開は変わり、ウィリーはついに悟りへと至る。ウィリーの悟りは、以下に引用する二つの文面から推し量れる。
まずはサロジニへの書きかけの手紙の文面において。
「親愛なるサロジニ。あまり極端から極端に行ってはいけないよ。病んだ世界、病んだ人間たちに与えるべき唯一の特効薬のようなものはないのだから。お前の悪い癖だ」(267p)

本書は以下のウィリーによる独白で締めくくられる。
「世界に理想的な姿を求めるのは間違っている。そういうことをするから災いが起こるのだ。そこからすべてが崩れていく。だが、それをサロジニに伝えるわけにはいかない」(333p)

最初に引用した文章は、尽きることのないゲリラ運動や大義のない争いの愚かさを言い表している。
そして後に引用した文章。これが実に示唆に富んでいる。

ウィリーが魔法の種としてつかみ取った真理。それをあえて妹に伝えずに済ませる。その行為にはどのような意図が込められているのだろうか。
理想を追うものには何を言っても無駄、という諦めだろうか。または、理想を追うこと自体は素晴らしい試みであり、それに水をさすことは控えよう、という意図なのか。それとも、ウィリーが自分の経験からつかみ取った真理は、それぞれの人が自らあがいて掴み取ることが大切で、人には伝えられないという本質を表しているのだろうか。

この諦念にも似た心境は、名声を得た著者の苦い後悔なのかもしれない。
最後にきて、本書はその真価を現す。

‘2019/4/10-2019/4/20


半分のぼった黄色い太陽


ラテンアメリカの作家や小説が好きな私。アフリカのことだって好きになれるはず。機会があればアフリカを描いた小説を読みたい、と思っていた。

本書は私にとって、はじめて読むアフリカ人が書いた小説だと思う。本書の舞台はナイジェリアだ。ナイジェリアで1960年代に起こった内乱、ビアフラ戦争が大きなテーマとなっている。アフリカと聞いても日本人の多くは内乱と飢餓、サバンナと砂漠しか思い浮かべられないかも。少なくとも私はそうだった。

しかし、アフリカとはそのような通り一遍の知識だけで語れる地ではない。政情が安定している時のアフリカは、文化的に充実した暮らしが送れた地だったのだ。酒を飲みながら論議にふけり、召使いに生活の雑事を任せ、学問が尊重される生活。本書の前半にも登場するような洗練された暮らしは、アフリカへの偏見を払拭させてくれる。

イボ族に生まれたオランナとカイネネの姉妹は、裕福な環境を満喫している。彼女たちの父は建設会社を経営し、財務大臣を家に招けるだけの地位を築きあげた。財産だけでなく容姿にも恵まれた姉妹には縁談や誘惑も絶えない。だが、彼女たちは自分で相手を選ぶ。その相手がオニデボとリチャード。オニデボは地元大学で数学の講師を勤め、教授への野心を隠そうともしない。社会や政治にも旺盛に口をだし、自らの理想を実現しようと日々を過ごしている。自宅で開くサロンでも他の場所でも、彼の周りには人が集まる。一方のリチャードは、イギリスからイボ美術の文様に魅せられてやって来た白人。リチャードは少し内気で、自らの容姿がナイジェリアでは目立つことを気にしている。そうしながらも、少しずつアフリカの暮らしになじんでいる。そしてある日、カイネネに惹かれ、二人は付き合うようになる。

そんな四人を観察するのは、オニデボがハウスキーピングに雇った少年ウグウ。彼の少年ならではの視線は、オランナとオニデボの二人を観察する。そして二人の間に起こるすれ違いや睦まじい関係を描き出す。たまにやってくるカイネネとリチャードや、周りの人々との交流も召使の注意深さで見逃さない。

本書は四部で構成されている。まず60年代前半。次いで60年代後半。そしてまた60年代前半に戻り、最後は60年代後半で締めくくる。

最初の第一部で描かれるのは、ナイジェリアが満たされていた1960年代前半の日々だ。何もかもが順調。困ったことといえば、古い部族の因習に縛られたオニデボの母がオランナとの間に巻き起こす女同士の争いぐらいのもの。争いといってもいわゆる嫁と姑の間に散る火花のような程度。しかしその対立は、オニデボの母がオニデボとオランナを引き離そうとするたくらみにつながる。それは、四人の間にある事件を引き起こす。ただ、それも家庭の問題にすぎない。ナイジェリアはいたって平和であり、特権階級に安住していた彼女たちに何の不安も起こるはずはなかった。

第二部で本書は60年代後半を描く。ビアフラ内乱の情勢は急を告げ、不穏な空気が特権階級を圧迫し始める。だんだんと日常からゆとりが奪われ、議論や文化が喪われてゆく。理想に燃えたオニデボの周りにはしだいに現実の厳しさが濃くなってゆく。そしてついには家も職も安定も平和も消える。

ここで簡単に触れておくと、ビアフラ戦争とはナイジェリアの政情が不安になったことにより、イボ族がビアフラ共和国を建国してナイジェリアから分離独立を果たしたが、3年後に内戦に敗れて再びナイジェリアに併合された一連の流れを指す。本書のタイトルでもある「半分のぼった黄色い太陽」とは、3年の間だけ掲げられたビアフラ共和国の国旗のデザインのことだ。3年の日々はイボ族にとっての試練であり、イボ族のオランナとカイネネの姉妹、それにオニデボにとっても苦しい時期だった。地位どころか生存すら脅かされる日々。

第三部ではまた60年代前半に立ち戻る。第一部で四人の間に亀裂を入れた出来事は何だったのかが明かされる。オニデボの母によるたくらみ。それが四人に与えた深刻な影響。第二部ではそのできごとには触れていない。それがかえって、オランナとカイネネの姉妹とオニデボの間に流れる緊張感とあいまって、ビアフラ戦争が彼らに及ぼす影響の不気味を表わしていた。著者の筆は、流れるようにその一連の出来事をさばいてゆく。読者はただその流れに乗っていけばよい。

本書はアフリカが舞台という予断を持って読んではならない。予断を持つと、著者の見事な心理描写や事物に人物の心理を語らせる達者な小説技巧を見逃すことになるからだ。本書にはビアフラ紛争で次第に苦しめられていくナイジェリアが描かれているが、そこに至るまでの平和な日々の様子と登場人物たちの織りなす複雑な心理の綾を味わうだけでもよい。また、二組の男女が苦難の日々を乗り越えてゆくラブストーリーとして読んでもよい。どちらの読み方でも存分に本書を楽しめるはずだ。

二組の男女の愛のカタチ。それがビアフラ紛争によって次第にゆがめられ、引き裂かれていく姿。そこに行きつくまでの愛の形が鮮やかに描かれているからこそ、紛争によって無残になってゆく人の心のもろさと、戦争のむなしさが浮き彫りになってゆく。第一部から第三部まで著者がじっくり描いてきた物語のエネルギーは、最終部である60年代後半で一気に昂進する。この部ではウグウはあまり登場しない。拉致されるようにビアフラ軍に徴兵されるからだ。徴兵され、半死半生の目に合わされる。カイネネにも無慈悲な運命が襲い掛かる。なまじ生活力がある彼女は、ビアフラ全体が飢餓に苦しめられる現状を打破しようと行動を起こし、あげくの果てに行方不明になってしまう。そしてもっとも無残なのはオニデボだ。ビアフラ共和国に賭けた民族が自立する夢は残酷に砕け散り、職も理想も失った彼。かつて覇気はどこへやら。気力を失い、酒に逃げるだけの男になってしまう。オランナが絶望に負けず、強い自我を保っているのとは対照的に、オニデボの弱さが対極的に描かれる。白人であるリチャードはただカイネネの帰りを祈るしかなすすべがない。

二組の男女のそれぞれの姿からは、男はいざとなると弱く、女は強いという構図が透けて見える。それは著者が女性ということも関係あるはず。だが、本書において男女の違いは重要ではないと思う。それよりも重要なのは、アフリカの内実をアフリカ人が自ら語ったことにある。それによってアフリカについて、ナイジェリアについての知識を持たない私のような読者が、本書から得られるアフリカへの手ごたえ。頭ではわかっているつもりでも、ナイジェリア人が日本人と同じ喜怒哀楽を持ち、男女の愛や愚かな行為に囲まれて生活している事。それを生き生きと感じさせてくれたことこそ、本書の価値ではないかと思う。

本書のあとがきで訳者が著者やナイジェリアについて詳しく解説を書いてくれている。その内容は一読の価値がある。著者の他の作品には、アフリカを母国としたアイデンティティと、アフリカの等身大の姿を書く姿勢が詰まっているに違いない。読まなければと思った。

‘2017/10/31-2017/11/17