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よろずのことに気をつけよ


「特に『よろずのことに気をつけよ』は、作品の根幹を成すだろう知見に対する無理解や誤謬が散見し、それは致命的なレヴェルにまで達していた」
とは、本書が江戸川乱歩賞を受賞した際の選評だ。この評を書いたのは京極夏彦氏。いうまでもなく民俗学や妖怪の知識がふんだんに盛り込まれた「京極堂」シリーズの著者だ。実際、氏の作品で披露される民俗学の蘊蓄は尋常な量ではない。その京極氏からみると、本書に書かれた呪術やまじない、呪いといった民俗学が扱う主題に対する無理解や誤謬について物申さずにいられなかったのだろう。致命的という言葉まで出しているぐらいの。

だが、京極氏は本書をけなした後、こうも書いている。「致命的な瑕疵を退けるだけの筆力と構成力を備え持っていた。表現力、構成力、キャラクター、題材、すべてが作品のために貢献している」

私のような民俗学の素人には、本書で披露されるまじないの真贋はわからない。ただ、主人公の民間民俗学者仲澤が開陳する民俗学の話は興味深かったし、面白くもあった。上述の「京極堂」シリーズでは畳みかけるような該博な知識の波におぼれそうになるが、本書程度の少なめの記述だと、作品にとって余分なようには思えない。多分、著者は、江戸川乱歩賞の選考委員が京極氏であることを応募要項で承知した上で本書を応募したのだろう。そして同じ祓い師の土俵上で先達の京極氏からダメ出しを食らった。でも、著者はあえて京極氏に挑戦した訳だから、その気概は買うべきだと思う。

本書は私にとって江戸川乱歩の「幽鬼の塔」を思わせる。人物も題材もプロットも「幽鬼の塔」とは違う。だが、どことなく話の流れに相通ずるものを感じた。「幽鬼の塔」は私が初めて買ってもらった江戸川乱歩の作品であり、数年前にも当ブログで取り上げた思い入れのある一作だ。なので、京極氏が指摘した欠点も、褒められた部分も関係なく本書には愛着を覚える。

そもそも、民俗学を取り上げた江戸川乱歩賞の受賞作は初めてではないか。戦後、我が国で盛んになった推理小説。その題材の多くは、民俗学をモチーフにしていた。江戸川乱歩氏の諸作や横溝正史氏の諸作などがそうだ。だから本来、民俗学とは推理小説の題材として親しむべき存在であるはずなのだ。そういう視点で本書を読むと、今までの江戸川乱歩賞に民俗学を題材とした作品がなかったことが逆に意外に思える。

なお、京極氏の誉め言葉とは逆に、私は本書のキャラクター造形に少し違和感を覚えた。とくに仲澤とコンビを組むヒロインの砂倉真由は大学一年生で、養育してもらった祖父の死を調査してもらうために仲澤にすがったという設定になっている。だが、彼女の言動は少し大人びすぎていやしないだろうか。また、本書に登場する刑事があまりにも手ぬるい対応しか見せない、という指摘が複数の選者があったが、私もそれに同意だ。主人公の窮地に対する掲示の対応に違和感を感じた。すこし手心を加えすぎではないか、という。

でも、この二人の主人公には、どことない魅力がある。もしこの二人の活躍が続編として発表されれば、読んでみたいと思わせるものがある。民俗学をめぐって日本を駆け巡る二人。面白いではないか。それも「京極堂」シリーズの新刊に長らく巡り合えていないから、そう思うのかもしれないが。

‘2017/06/03-2017/06/03


アンデスのリトゥーマ


著者の著作のうち、未訳の作品が続々と日本語に訳されている。ノーベル文学賞効果もあるだろうが、こうして読めることに感謝したい。

ここ最近の著者の作品は、都会を舞台にしたものが多かったように思う。本書は一転して土着的呪術的な内容となっている。ページを繰る間、私には土埃が舞う光景が見え、土埃が鼻から入ってくるような感覚にとらわれた。荒涼とした黄土色の起伏が一面に広がる景色。埃っぽい住居が山にへばりつくようにして並ぶ。一歩住居に足を踏み入れると、外の単調な土気色とはうって変わって極彩色に飾られた空間。そこには、シャーマンとも魔女ともつかない女が巣食い、箴言を発する。

本書は、ペルーの山中に跋扈するテロルとインデイオの窮乏、その隙間を縫うように呪術が幅を効かせる地を舞台にしている。現代にあって魔術が大真面目に語られる土地。そのような地に迷い込んだ都会人の無力さ。その無力さを描いているのが本書だ。

主人公のリトゥーマは、治安警備隊の伍長として、アンデス山中に駐屯している。部下は一人。トマス・カレーニョ、通称トマシート。二人はナッコスのハイウェイ工事現場の治安維持を担当している。最近、ナッコスでは住人三人が忽然と行方をくらました。その事件の調査にあたる二人だが、手掛かりは掴めず途方に暮れている。三人は一体どこへ消えたのか。

ペルーは今、暴力革命を謳うセンデーロ・ルミノソが猛威を奮っている。三人はテロリストによって何処かへ消されたのか?それともインディオ達に伝わる伝承に従い生け贄とされたのか。

一方、フランス人旅行者のアベックはアンデス越えをバスで果たそうとし、謎の集団に捕まり顔を石で潰される。暴力が荒れ狂う。本書全体を覆う暴力の血の匂いが冒頭から立ち込める。そのシーンに、トマシートがリトゥーマに語るセリフがかぶさっていく。著者お得意の重層的な進行だ。トマシートはリトゥーマに、ティンゴ・マリーアで見たサディストによる拷問を語る。そして、サディスティックに女をいたぶっていたトマシートのボスを辛抱できず殺してしまう。リトゥーマの合いの手がトマシートの独白に挟まれる。

著者お得意の構造に読者は目を眩まされるかもしれないが、落ち着いて読み進めれば物語から落ちこぼれずに済む。

再び第三者の視線に戻り、リトゥーマとトマシートの二人はドーニャ・アドリアーナが駐屯地に近づいて来るのを見る。彼女は三人目の行方不明者の最後の目撃者。酒場を経営するディオニシオの妻であり、呪いや占いを行っている。

そして、物語は一人目の行方不明者について語り始める。唖者のペドリートはリトゥーマとトマシートの手伝いをしていた。ペドリートは二人の手伝いをする前、羊飼いに拾われていた。だが、謎の集団に捕まり、家畜を全て殺される憂き目に遭う。謎の集団には名前がない。狼藉を働く者共は本書を通して無名のままだ。それが読者に不安な気持ちを与える。読者は漠然とした不安と恐れを抱いたまま、本書を読み進めることになる。

再びトマシートの独白。暴行から救い出した女を連れ、トラックに乗る。女の名はメルセーデス。

そして、舞台はディオニシオの酒場へ。フランス人アベックが惨殺されたことが会話のネタにされる。が、行方不明者たちの消息は依然として不明。かつて鉱山で栄えたナッコスは、ハイウェイ工事で余命を保っている状態。街に次第に不安の空気が立ち込める。読者もまた、不安な気持ちが高まる中、ページを読み進める。ナッコスで何が起こったのか。

フランス人アベックと同じように暴力の嵐にさらされる犠牲者はまだいる。アンダマルカの副町長は、共産主義的な謎の集団によって町を搔き回され、九死に一生を得て逃げる。ダルクール夫人は、国連機関の支援を得て、辺りの植林に携わる善意の人だ。しかしブルジョアと見なされ、処刑される。

トマシートの独白とリトゥーマの茶々入れはなおも続く。メルセーデスによって筆下ろしを果たしたトマシートはペルーの首都リマへと向かう。メルセーデスも一緒に。

二人目、三人目の行方不明者の挿話が語られ、トマシートはメルセーデスを連れて、警官を脅して旅を強行する。これで第一部は終わる。

第二部では、リトゥーマの調査が佳境を迎える。悪霊ピシュターコの噂が飛び交う。ピシュターコは人間の脂を抜き取る、悪霊とも人間ともつかぬもの。

このあたりから、段々と三人の行方不明者を探すリトゥーマの状況と、トマシートとメルセーデスの逃避行、ナッコスの呪術伝承が絡み合い始める。リトゥーマとトマシートとメルセーデスの別の話が同時に進行し、交錯するため、物語全体に満ちる不穏な空気はページの外まで漂い出すかのよう。不穏な空気に反応するかのように、メルセーデスはトマシートのもとから逃げてしまう。

一方、ピシュターコの伝承はいよいよ怪談染みる。それはホラーと云っても良いレベル。追い討ちをかけるかのように、ナッコスの民を養ってきた鉱山は、超自然もここに極まれりとばかりに山津浪に襲われる。リトゥーマもすんでのところで助かる。

アドリアーナは果たして魔女なのか。正体は明かされぬまま、物語は進む。アドリアーナはいう。ナッコスとは魔術的、霊的な場であり、そこを乱すハイウェイは決して開通することはないと。

その霊的な力は、都会の者共を一層するかのように山津波を起こす。

アドリアーナの預言が本書の性格を語り、本編は一旦幕を下ろす。

しかし読者にとっては何も解決していない。三人は一体どうなったのか。トマシートとメルセーデスの逃避行の行方は。

エピローグでリトゥーマはナッコスを去る。去るに当たってディオニシオの酒場に赴く。最後にディオニシオとアドリアーナに挨拶をするために。三人の行方不明者の運命を訪ねるために。ナッコスの霊的な力が街を一気に寂れさせようとする中、その酒場で酔い潰れる無名のインディオは、リトゥーマに衝撃の事実を伝える。その衝撃の余韻消えぬままに、エピローグは幕を下ろす。

解説は訳者の木村榮一氏自身が担当している。ラテンアメリカ文学の愛好家なら氏の訳はお馴染みだ。氏による解説は適切で解りやすい。本書がギリシャ神話に枠組みを借りていることが指摘される。アドリアーナがアリアドネー。ディオニシオがディオニューソス。ナッコスがナクソスを指すとの本書解説での指摘にはさすがの慧眼である。私は初読ではそのことに気づかぬままだった。

そのことを教えられた後で本書を読むと、アドリアーナやディオニシオ、さらには徹底して無名のままのインディオ達の存在が理解できる。テロルや扇動によって生じる暴力は、土地や時代の枠組みから生じるのではない。それは、人が集い、空気の澱んだ場所に等しく生じるのだ。

そのような場所にハイウェイ工事のような風通しをよくするための人間の営み、つまりは都市や文明といったものが何を引き起こすのか、または引き起こしたのか。それこそが本書の主題ではないだろうか。

‘2015/03/13-2015/03/25