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日本史の内幕


著者のお顔はここ数年、テレビでよくお見かけする。
テレビを見ない私でも見かけるくらいだから、結構よく出ているのだろう。
そこで著者は歴史の専門家として登場している。

著者の役割は、テレビの視聴者に対して歴史を解説することだろう。だが、ディスプレイの向こうの著者は、役割をこなすだけの存在にとどまらず、歴史が大好きな自分自身を存分に楽しんでいるように見える。著者自身が少年のように目を輝かせ、歴史の面白さを夢中で話す姿には親しみすら覚える。

本書は、筋金入りの歴史愛好家であり、歴史をなりわいにしている著者による歴史の面白さをエッセイのように語る一冊だ。

歴史のうんちく本と言えば、歴史上の謎や、思わぬ歴史のつながりを解きほぐす本が多い。それらの本に比べると、本書は該博な著者の知識を反映してか、独特の視点が目立つ。

著者はフィールドプレーヤーなのだろう。書斎の中から歴史を語るのではなく、街に出て歴史を語る。古本屋からの出物の連絡に嬉々として買いに出たり、街角の古本屋で見かけた古文書に胸をときめかせたり、旧家からの鑑定依頼に歴史のロマンを感じたり。
古文書が読める著者に対する依頼は多く、それが時間の積み重ねによって埋もれた史実に新たな光を当てる。

著者は、あまり専門色を打ち出していないように思える。例えば古代史、平安時代、戦国時代、江戸時代など、多くの歴史学者は専門とする時代を持っている。だが、著者からはあまりそのような印象を受けない。
きっと著者はあらゆる時代に対して関心を持っているのだろう。持ちすぎるあり、専門分野を絞れないのか、あえて絞らない姿勢を貫いているように思える。

私も実はその点にとても共感を覚える。私も何かに嗜好を絞るのは好きではない。
歴史だけでなく、あらゆることに興味を持ってしまう私。であるが故に、私は研究者に適していない。二人の祖父がともに学者であるにもかかわらず。
本書から感じる著者の姿勢は、分野を絞ることの苦手な私と同じような匂いを感じる。

そのため、一般の読者は本書から散漫な印象を受けるかもしれない。
もちろん、それだと書物として商売になりにくい。そのため、本書もある程度は章立てにしてある。第二章は「家康の出世街道」として徳川家康の事績に関することが書かれている。第三章では「戦国女性の素顔」と題し、井伊直虎やその他の著名な戦国時代に生きた女性たちを取り上げている。第四章では「この国を支える文化の話」であり、第五章は「幕末維新の裏側」と題されている。

このように、各章にはある程度まとまったテーマが集められている。
だが、本書の全体を見ると、取り上げられている時代こそ戦国時代以降が中心とはいえ、テーマはばらけており、それが散漫な印象となっている。おそらく著者や編集者はこれでもなんとかギリギリに収めたのだろう。本来の著者の興味範囲はもっと広いはずだ。

そうなると本書の意図はどこにあるのだろうか。
まず言えるのは、なるべく広い範囲、そして多様なテーマに即した歴史の話題を取り上げることで、歴史の裏側の面白さや奥深さを紹介することにあるはずだ。つまり、著者がテレビ番組に出ている目的と本書の編集方針はほぼ一致している。

本書を読んでもう一点気づいたのは、著者のアンテナの感度だ。
街の古書店で見かけた資料から即座にその価値を見いだし、自らの興味と研究テーマにつなげる。それには、古文書を読む能力が欠かせない。
一般の人々は古文書を眺めてもそこに何が書かれているか分からず、その価値を見逃してしまう。だが、著者はそこに書かれた内容と該博な歴史上の知識を結び付け、その文書に記された内容の真贋を見通す。
著者は若い頃から古文書に興味を持ち、努力の末に古文書を読む能力を身に付けたそうだ。そのことがまえがきに書かれている。

私も歴史は好きだ。だが、私は古文書を読めない。著者のような知識もない。そのため、著者と同じものを見たとしても、見逃していることは多いはずだ。
この古文書を読み解く能力。これは歴史家としてはおそらく必須の能力であろう。また、そこが学者と市井の歴史好きの違いなのだろう。

これは私がいる情報処理業界に例えると、ソースコードが読めれば大体その内容がわかることにも等しい。また、データベースの定義ファイルを読めば、データベースが何の情報やプロセスに役立つのか、大体の推測がつくことにも通じる。それが私の仕事上で身に付けた能力である。
著者の場合は古文書がそれにあたる。古文書を読めるかどうかが、趣味と仕事を大きく分ける分岐点になっている気がする。

上に挙げた本書に書かれているメッセージとは、
・歴史の奥深さや面白さを紹介すること。
・古文書を読むことで歴史が一層面白くなること。
その他にもう一つ大きな意図がある。
それは、単なる趣味と仕事として歴史を取り扱う境目だ。その境目こそ、古文書を読めるかどうか、ではないだろうか。

趣味で歴史を取り扱うのはもちろん結構なことだ。とてもロマンがあるし面白い。

一方、仕事として歴史を取り扱う場合は、必ず原典に当たらなければならない。原典とはすなわち古文書を読む事である。古文書を読まずに二次資料から歴史を解釈し、歴史を語ることの危うさ。まえがきでも著者はそのことをほのめかしている。

そう考えると、一見親しみやすく、興味をそそるように描かれている本書には、著者の警句がちりばめられていることに気づく。
私もここ数年、できることなら古文書を読めるようになりたいと思っている。だが、なかなか仕事が忙しく踏み切れない。
引退する日が来たら、古文書の読み方を学び、単なる趣味の段階から、もう一段階上に進んでみたいと思う。

2020/10/10-2020/10/10


今こそ知っておきたい「災害の日本史」 白鳳地震から東日本大震災まで


新型コロナウィルスの発生は、世界中をパンデミックの渦に巻き込んでいる。
だが、人類にとって恐れるべき存在がコロナウィルスだけでないことは、言うまでもない。たとえば自然界には未知のウィルスが無数に潜み、人類に牙を剥く日を待っている。
人類が築き上げた文明を脅かすものは、人類を育んできた宇宙や地球である可能性もある。
それらが増長した人類に鉄槌を下す可能性は考えておかねば。
本書で取り扱うのは、そうした自然災害の数々だ。

来る、来ると警鐘が鳴らされ続けている大地震。東海地震に南海地震、首都圏直下地震、そして三陸地震。
これらの地震は、長きにわたって危険性が言われ続けている。過去の歴史を紐解くと発生する周期に規則性があり、そこから推測すると、必ずやってくる事は間違いない。
それなのに、少なくとも首都圏において、東日本大震災の教訓は忘れ去られているといっても過言ではない。地震は確実に首都圏を襲うはずなのにもかかわらず。

本書は日本の歴史をひもとき、その時代時代で日本を襲った天変地異をとり上げている。
天変地異といってもあらゆる出来事を網羅するわけではない。飢饉や火事といった人災に属する災害は除き、地震・台風・噴火・洪水などの自然災害に焦点を当てているのが本書の編集方針のようだ。

著者は、そうした天変地異が日本の歴史にどのような影響を与えたのかという視点で編んでいる。
例えば、江戸末期に各地で連動するかのように起こった大地震が、ペリー来航に揺れる江戸幕府に致命的な一撃を与えたこと。また、永仁鎌倉地震によって起こった混乱を契機に、専横を欲しいままにした平頼綱が時の執権北条貞時によって誅殺されたこと。
私たちが思っている以上に、天変地異は日本の歴史に影響を与えてきたのだ。

かつて平安の頃までは、天変地異は政争で敗れた人物の怨霊が引き起こしたたたりだとみなされていた。
太宰府に流された菅原道真の怨霊を鎮めるため、各地に天満宮が建立されたのは有名な話だ。
逆に、神風の故事で知られる弘安の大風は、日本を襲った元軍を一夜にして海中に沈め、日本に幸運をもたらした。
本書にはそういった出来事が人心をざわつかせ、神仏に頼らせた当時の人々の不安となったことも紹介している。
直接でも間接でも日本人の深層に天変地異が与えてきた影響は今の私たちにも確実に及んでいる。

本書は私の知らなかった天変地異についても取り上げてくれている。
例えば永祚元年(989年)に起こったという永祚の風はその一つだ。
台風は私たちにもおなじみの天災だ。だが、あまりにもしょっちゅう来るものだから、伊勢湾台風や室戸台風ぐらいのレベルの台風でないと真に恐れることはない。ここ数年も各地を大雨や台風が蹂躙しているというのに。それもまた、慣れというものなのだろう。
本書は、歴史上の洪水や台風の被害にも触れているため、台風の恐ろしさについても見聞を深めさせてくれる。

本書は七章で構成されている。

第一章は古代(奈良〜平安)
白鳳地震
天平河内大和地震
貞観地震
仁和地震
永祚の風
永長地震

第二章は中世(鎌倉〜室町〜安土桃山)
文治地震
弘安の大風
永仁鎌倉地震
正平地震
明応地震
天正地震
慶長伏見地震

第三章は近世I(江戸前期)
慶長東南海地震
慶長三陸地震津波
元禄関東大地震
宝永地震・富士山大噴火(亥の大変)
寛保江戸洪水

第四章は近世II(江戸後期)
天明浅間山大噴火
島原大変
シーボルト台風
京都地震
善光寺地震

第五章は近代I(幕末〜明治)
安政東南海地震
安政江戸地震
明治元年の暴風雨
磐梯山大噴火
濃尾地震
明治三陸大津波

第六章は近代II(大正〜昭和前期)
桜島大噴火
関東大震災
昭和三陸大津波
室戸台風
昭和東南海地震
三河地震

第七章は現代(戦後〜平成)
昭和南海地震
福井大地震
伊勢湾台風
日本海中部地震
阪神淡路大震災
東日本大震災

本書にはこれだけの天変地異が載っている。
分量も相当に分厚く、636ページというなかなかのボリュームだ。

本書を通して、日本の歴史を襲ってきたあまたの天変地異。
そこから学べるのは、東南海地震や南海地震三陸の大地震の周期が、歴史学者や地震学者のとなえる周期にぴたりと繰り返されていることだ。恐ろしいことに。

日本の歴史とは、天災の歴史だともいえる。
そうした地震や天変地異が奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸・幕末・明治・大正・昭和・平成の各時代に起きている。
今でこそ、明治以降は一世一元の制度になっている。だが、かつては災害のたびに改元されていたと言う。改元によっては吉事がきっかけだったことも当然あるだろうが、かなりの数の改元が災害をきっかけとして行われた。それはすなわち、日本に災害の数々が頻繁にあったことを示す証拠だ。
そして、天変地異は、時の為政者の権力を弱め、次の時代へと変わる兆しにもなっている。
本書は、各章ごとに災害史と同じぐらい、その時代の世相や出来事を網羅して描いていく。

これだけたくさんの災害に苦しめられてきたわが国。そこに生きる私たちは、本書から何を学ぶべきだろうか。
私は本書から学ぶべきは、理屈だけで災害が来ると考えてはならないという教訓だと思う。理屈ではなく心から災害がやって来るという覚悟。それが大切なのだと思う。
だが、それは本当に難しいことだ。阪神淡路大震災で激烈な揺れに襲われ、家が全壊する瞬間を体験した私ですら。

地震の可能性は、東南海地震、三陸地震、首都圏直下型地震だけでなく、日本全国に等しくあるはずだ。
ところが、私も含めて多くの人は地震の可能性を過小評価しているように思えてならない。
ちょうど阪神淡路大震災の前、関西の人々が地震に対して無警戒だったように。
本書にも、地震頻発地帯ではない場所での地震の被害が紹介されている。地震があまり来ないからといって油断してはならないのだ。

だからこそ、本書の末尾に阪神淡路大地震と東日本大震災が載っている事は本書の価値を高めている。
なぜならその被害の大きさを目にし、身をもって体感したかなりの数の人が存命だからだ。
阪神淡路大地震の被災者である私も同じ。東日本大震災でも震度5強を体験した。
また、福井大地震も、私の母親は実際に被害に遭い、九死に一生を得ており、かなりの数の存命者が要ると思われる。

さらに、阪神淡路大地震と東日本大震災については、鮮明な写真が多く残されている。
東日本大震災においてはおびただしい数の津波の動画がネット上にあげられている。
私たちはその凄まじさを動画の中で追認できる。

私たちはそうした情報と本書を組み合わせ、想像しなければならない。本書に載っているかつての災害のそれぞれが、動画や写真で確認できる程度と同じかそれ以上の激しさでわが国に爪痕を残したということを。
同時に、確実に起こるはずの将来の地震も、同じぐらいかそれ以上の激しさで私たちの命を危機にさらす、ということも。

今までにも三陸海岸は何度も津波の被害に遭ってきた。だが、人の弱さとして、大きな災害にあっても、喉元を過ぎれば熱さを忘れてしまう。そして古人が残した警告を無視して家を建ててしまう。便利さへの誘惑が地震の恐れを上回ってしまうのだ。
かつて津波が来たと言う警告を文明の力が克服すると過信して、今の暮らしの便利さを追求する。そして被害にあって悲しみに暮れる。

そうした悲劇を繰り返さないためにも、本書のような日本の災害史を網羅した本が必要なのだ。
ようやくコロナウィルスによって東京一極集中が減少に転じたというニュースはつい最近のことだ。だが、地震が及ぼすリスクが明らかであるにもかかわらず、コロナウィルスがなければ東京一極集中はなおも進行していたはず。
一極集中があらゆる意味で愚行の極みであることを、少しでも多くの人に知らしめなければならない。

本書は、そうした意味でも、常に手元に携えておいても良い位の書物だと思う。

‘2019/7/3-2019/7/4


日本列島七曲り


これこそ著者の毒がそこいらにまかれたスラップ・スティックの宝の山だ。

著者にかかればタブーなどどこ吹く風。性も英雄も深刻な事件も政治も茶化してしまう著者の悪ノリが盛り込まれている。

「誘拐横丁」
複数のご近所家族が子どもを誘拐しあうぶっ飛んだ内容の短編。
ご近所同士で子を奪い合い、金をよこせとお隣さんの間で金が飛び交う。
そんな狂った関係も本当の殺戮につながらず、最後は乱交パーティーに突入するあたりが、本編のユーモラスな後味につながっている。
そこには著者の根本の人の良さが垣間見える。

「融合家族」
一つの家屋を奪い合った結果、二組の夫婦が標準的な広さの家屋に無理やり同居する話。
片方の家族の居間がもう片方の家族の使う台所で、片方の家族の玄関はもう片方の家族の夜の寝室を使う。しかもお互いを意識しつつ無視しながら。
こんなこんがらがった設定は小説ならでは。本編こそ映像化できない作品といえるのではないか。そして著者のすごさが堪能できる作品だと思う。
ちなみに本編も最後は乱交パーティーに突入する。

「陰悩録」
本書を読む一カ月前に訪れた世田谷文学館の筒井康隆展で、数作品の拡大された生原稿のすべてが壁に掲げられていた。
「関節話法」「バブリング創世紀」と並んで本編も。
ひらがなを主体に記された本編は、ユーモアを失わずにオチで読者を驚かせる。その点からも著者の名作の一つである事は言うまでもない。
おそらくは著者が入浴した際にひらめいたのだろうけど、そこから本編にまで発想をふくらませられたことがすごい。

「奇ツ怪陋劣潜望鏡」
人の心に潜む欲望が妙な幻覚として日常をむしばんでいく様子が描かれている。妙な幻覚とは、抑圧された性への渇望を抱えたまま結婚したあるカップルに起こる。
具体的には潜望鏡の形をとって日常のあらゆる場所に登場する。
今から思うと、よくありがちなネタなのだろう。だが、無意識の現れなど随所に著者の心理学の知識が現れているのが面白い。
もっとも、本編が前提としている性の抑圧は、ネット上でいくらでも性的な発散ができる現代では通用しない気もするが。

「郵性省」
これまた性のエネルギーについて。
オナニーによってテレポーテーションができる能力を身につけた益夫の物語。
男子の、しかも高校生の性のエネルギーはかなり高そう。だから、本編のような突き抜けた物語もあながち夢物語には思えない。
それにしても著者の突き抜け方はさすがと言うしかない。着想からの展開の広がりは、著者の感嘆すべき点だ。
本編はオチも秀逸。

「日本列島七曲り」
表題作。発表された当時、盛んだったハイジャックを風刺している。
こうした深刻な事件も著者の筆にかかれば、スラップ・スティックの格好の題材になる。実際、思想のために飛行機を乗っ取る行いなど、悪い冗談でしかない。9.11でワールドセンタービルに飛行機が突っ込む瞬間を中継で見ていた私は、なおさらそう思う。
本編を不謹慎というのは簡単だが、テロ行為をこうした手法で批評したっていいじゃないかと思う。

「桃太郎輪廻」
桃太郎という誰もが知る童話も著者が翻案すると、悪趣味な内容へと早変わり。
桃太郎だけでなく、グリム童話の名作も取り込んだ内容は、童話のほのぼの感とは無縁。
本能のままに突き進んだ桃太郎一行がやらかす悪事は、童話として中和され薄められた物語の元となった逸話がもっとギラギラとヤバかった事を思わせる。
本編のオチは有名な桃太郎の冒頭シーンにきっちりと輪廻させていて、そうした部分に著者の着想のすばらしさを感じる。

「わが名はイサミ」
メタキャラとして著者が顔を出しまくる本編は、新撰組局長の近藤勇を茶化しまくっている。歴史上の英雄だろうが知ったことか、とばかりに。
勝沼の戦いに赴くまでに甲陽鎮撫隊が連日宴会を繰り返しながら進軍し、新政府軍に先に甲府城を押さえられた失態は史実に残されている。その史実をモチーフに、近藤勇の人物を徹底してけなしている。
まったく、著者にはタブーなどないのか、と思いたくなる。

「公害浦島覗機関」
本編は著者の作品の中でも上位に挙げられるべき作品ではないかと思う。
ホテルの中にある謎の空間の存在に気づいた主人公。
空間からは二つの部屋がのぞける。部屋の様子から、どうも空間の中は周囲に比べて時間の進みが遅くなるらしい。
客室の一つでは首都から人を追い出すため公害を促進しようと画策する政治家が指示を出している。その政策が功を奏し、人が住めないレベルにまで大気汚染が進む。ところが人は首都圏にしがみつき続けそして。
作品のオチが見事。

「ふたりの秘書」
二人の女性の秘書に二股をかける社長のドタバタ。
著者にはフェミニストを敵に回す作品がいくつかあるが、本編もその一つ。
見えと虚栄と相手との比較に余念がない女性の一面を、二人の秘書を描くことで表現している。
ロボット秘書もチラッと登場させることで、人間の人間臭さを揶揄しつつ、人間のおかしみを出すあたり、著者の人の良さがわずかに見える気がする。

「テレビ譫妄症」
テレビ評論家が大量のテレビを見ているうちに、現実との境目が曖昧になっていく様が描かれている。
これはありがちな設定かもしれない。だが、数日間ぶっ通しでオンラインゲームをして死ぬ若者が報道される今、違う意味で現実味を持って迫ってくる。
VRやARなどが私たちの暮らしに身近になってきた最近では。

‘2018/11/08-2018/11/09


小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣


歴史が好きな私だが、小栗上野介はあまりマークしていなかった。幕末の日本を動かしたキーマンの一人であるはずなのに。勝てば官軍の逆を行き、負けた幕軍の中で歴史に埋もれてしまった人物。

小栗上野介が世間で脚光をあびる事はなく、せいぜい、赤城山に徳川の埋葬金を埋めた張本人では、と伝説の中で取り上げられるぐらい。あれほどの幕末の激動の中で、幕府側の人物はほとんどが明治になって語られることがなくなった。今も取り沙汰される幕府側の人物といえば、最後の将軍徳川慶喜は別格としても、西郷隆盛と会見し、江戸を無血開城に導いた勝海舟や、五稜郭まで新政府に抵抗したのち、明治政府でも大臣まで歴任した榎本氏ぐらいだろうか。だが、彼らに比べて、幕府のために粉骨砕身した小栗上野介は、今もなおあまりにも過小評価されている人物だといえる。

なぜ私が急に小栗上野介の本書を読もうと思ったか。それは、ある日、家族でこんにゃくパークへ向かう道中で、小栗上野介の隠棲した場所を訪れたからだ。それはまさに偶然のたまものだった。そもそも草津に行くつもりで向かっていたのに、急に草津行を中止し、こんにゃくパークへ行き先を変えたのも偶然ならば、道の駅くらぶちに訪れたのも偶然。道の駅に小栗上野介を顕彰する展示があり、じっくり見られたのも偶然。極めつけはその近辺の地名だ。「長井石器時代住居跡」や「長井の道祖神」、「長井川」。ここまで偶然が続くと、これも何かの縁だと思うしかない。そういうわけで、今まで全く縁のなかったはずの小栗上野介について調べてみようと思い、本書を手に取ってみた。

先に挙げた明治以降も名が伝えられた幕府側の人々。彼らの名前が残ったのは、明治まで生きのびたためだろう。そのため、優れた能力を明治以降でも発揮することができた。ところが、明治維新の前に非業の死に倒れた人物はその事績が正当に伝えられていない。かろうじて安政の大獄で迫害された人々は、弟子たちが明治新政府の要職についたためその人物や事績が後世に伝えられた。だが、幕府側の人物は、正当な立場で論じられていない。安政の大獄の当事者である井伊直弼もそうだし、開国時の老中だった阿部正弘もそう。そして、本書が取り上げる小栗上野介もその一人だ。

本書は小栗上野介の生涯を紹介している。事績の割には、後世にその偉大さが忘れられている小栗上野介。

本書の帯には、小栗上野介の事績の一端を紹介するため、明治の大物である二人が語った言葉が記されている。
「明治の近代化は
  ほとんど小栗上野介の構想の
  模倣に過ぎない」大隈重信

「日本海海戦の勝利は、
  小栗さんが横須賀造船所を
  造っておいてくれたおかげ」東郷平八郎

また、同じ帯には小栗上野介を「明治の父」と評した司馬遼太郎の文章も紹介されている。つまり、小栗上野介とはそれだけのことを成し遂げた人物なのだ。

一八六〇年、日米修好通商条約批准のためアメリカへ旅立った遣米使節団。八十人弱と伝わる一行の中で、正使、副使に次ぐ地位にあったのが目付役の小栗上野介だった。その旅は太平洋からアメリカに向かい、パナマ運河を超えて東海岸に渡りワシントンへ。帰りは船のトラブルがあり、大西洋から喜望峰、香港と巡った一行は世界一周を果たした。その一行の中でもさまざまな文物を吸収し、それを幕政に積極的に取り入れようとしたのが小栗上野介だ。その過程の一部始終が本書には紹介されている。

後年、明治の元勲たちも欧米を視察した。榎本武揚も小栗上野介に遅れること2年でオランダ留学を果たした。だが、彼らと小栗上野介が違うのは、小栗上野介は江戸幕府にあって改革を推進できる立場だったことだ。

当時の幕府には黒船来航から巻き起こった動乱を乗り切るための人材が底をついていた。なので、積極的に小栗上野介を登用し、小栗上野介もそれに応える仕事をする。だが残念ながら、めまぐるしい情勢の変化は、小栗上野介に腰を据えて改革するための時間を与えなかった。

薩長がイギリスと結んだことへ対抗するため、幕府がフランスと結び、軍制改革に当たったことはよく知られている。その推進を担ったのが小栗上野介だ。小栗上野介がなした最大の業績が横須賀造船所の建造であることは先にも東郷平八郎の言葉として出ている。それも小栗上野介が持っていたフランス人とのつながりから生まれたもののようだ。他にも大砲製造所や反射炉の建設など、幕府の改革に取り組んだ小栗上野介。時流に遅れた幕府のため、必死になって幕府を再建しようと努力した跡が感じあっれる。フランス語学校も設立したというから、まさに孤軍奮闘にも似た働きだったのだろう。もし幕末の情勢がどこかで少しでも変わっていたら、日本にはフランスを由来とする文物がもっとあふれていたかもしれない。

また、経済にも明るかった小栗上野介は、日米修好通商条約の際に為替比率を見直そうと旅先で交渉に励んだという。アメリカとの間に結んだ為替比率が、日本の貨幣に含まれる金銀の含有量からして不公平だと、フィラデルフィアの造幣局で貨幣の分析試験を求め、不均衡を証明したという記録も残っている。また、日本最初の株式会社を設立したのも小栗上野介だという。よく坂本龍馬が作った亀山社中こそが株式会社の元祖というが、亀山社中が設立された二年後に小栗上野介の作った兵庫商社のほうが、先に株式会社を名乗っていたらしい。

ところがそれほどの逸材も、交戦派として将軍慶喜からは罷免される。そして上州に引っ込んでしまう。そして薩長軍が上州にやってくる。従容と捕縛された小栗上野介だが、無駄なあがきはせずに潔く斬首されたという。それらの地こそ、私が訪れた倉渕。今もなお小栗上野介が顕彰されていることからも、穏やかに隠棲していたことが伺える。

能力のある官吏であり、新政府でも相当の働きをしたはずの小栗上野介。だが、要領よく立ち回って延命しようとの野心はなかった様子からも、私利私欲の目立つ人物ではなかったようだ。小栗上野介を捕縛した人物の愚かなふるまいがなければ、小栗上野介の名前が忘れられることなかったはずなのが惜しい(捕縛した人物は後に大臣や各県知事を歴任し、昭和十一年まで生きたという)。

この時、立ち寄った倉渕は、のんびりとした感じが良い印象を残している。にもかかわらず、この時はこんにゃくパークへ急ぐため、小栗上野介の墓所や斬首の場をきちんと見ていない。私の名が付くあちこちの史跡も。なるべく早く再訪したいと思っている。

‘2018/09/22-2018/09/23


人斬り半次郎 賊将編


中村半次郎として意気も溌剌とした幕末編から一転、桐野利秋として戦塵の中に倒れるまで、あと十年と少し。

本書は、維新の激動が半次郎の心に生じさせた変化を露にしつつ始まる。維新に向け、半次郎の命運は下るどころか、はた目にはますます盛んだ。上巻の終盤では、薩摩に残した恋人幸江に去られる。さらには半次郎が恋心を抱いていたおたみも同輩の佐土原英助とくっついてしまう。そればかりか肉欲だけでなく、書や本の師弟として結びついていた法秀尼も何かと騒がしい京から去ってしまう。尊王攘夷も佳境にきて、半次郎の周りから女の気配がふっと消えてゆく。一方で半次郎の武名はますます鳴り渡り、薩摩になくてはならぬ人材として自他ともに認める存在になっている。もはや半次郎は恋に心をやつしている場合ではなくなっているのだ。ここまでがむしゃらに立身出世を願い、男ぶりを鍛えることに没頭してきた半次郎。維新の結実を前にして彼は自らの中で整理をつけたようだ。半次郎が切り捨てた自身の一面とは、彼の素朴な部分だったのかもしれない。あるいは愛嬌とでもいおうか。非情な世を渡るため、弱さと取られかねない部分を切り捨てる。それはやむを得ない行動だったかもしれないが、そんな半次郎のもとから女性たちは去ってゆく。

薩長の同盟はいまやほころびようもなく盤石だ。幕府の棟梁たる将軍家茂は若くして死に、もはや公武合体どころではない。跡を継いだ将軍慶喜は大坂から敵前逃亡して江戸に帰ってしまう。もはや幕府の劣勢は明らか。将軍慶喜が決断した大政奉還だけでは倒幕の炎は鎮まりそうにない。起死回生の妙案が幕府から生まれない状況の中、鳥羽・伏見の戦いは始まる。勢いに乗った官軍は、そのまま連戦連勝で五稜郭までを席巻する。

会津藩降伏の場において新政府軍の軍監として臨む半次郎に、唐芋侍とさげすまされた面影はない。どっかり座る半次郎の姿は、今なお錦絵の中の偉丈夫として残されている。だが、本書を読んだのちに見る絵の中の半次郎は、孤独を感じさせる。勝てば官軍、負ければ賊軍、という言葉はこの時期の新政府軍が基になっているという。危うく、己を非情に持ちあげねば生き抜けなかった頃の姿に、弱さが同居するはずはない。

明治になってしばらくたった頃、中村半次郎は桐野利秋と名を改める。さらには初代陸軍少将に任命される。陸軍中将は当時はまだ将官の階級として設置されておらず、初代陸軍大将の西郷隆盛に次いで桐野利秋が任じられたことになる。名実ともに西郷隆盛の腹心として認められた瞬間だ。

倒幕が成った今、武よりも文が必要となる。維新の志士たちもまた同じ。刀を差して歩いていては、国造りはおぼつかない。長らく続いた武力による争いは終わり、新たな国を作って行かねばならない。髷を落とし、洋装に着替え、西洋文明の摂取に奔走する。それは桐野利秋も同じ。法秀尼から書を教わり、その集中力をもってすれば、文でも新政府の中心として遜色なく働けたはず。だが、武名が目立ちすぎたためか、初代陸軍少将に収まってしまう。ここで桐野利秋が内政に携わり、海外や国内に広く目を向けていれば、後年、不平士族に焚き付けられる脇の甘さは露呈しなかったかもしれない。

だが、いまや桐野利秋のそばに彼を言い諭せる女性はいない。幕末の日々の中で去って行ってしまった女性たち。彼女たちだけが、一気呵成や猪突猛進といった心持ちとは逆の教えを 桐野利秋に与えられたはずだ。唯一桐野利秋に諭せる人がいるとすれば、それは心服する西郷隆盛のはず。だが、西郷もまた、国づくりの進め方において新政府とは相いれない不満を持っていた。西郷には次第に達観の気持ちが募ってゆく。桐野利秋に対しても諦めたかのように何も言わず、したいようにさせる。最後に西郷が国を思って奔走した征韓論さえ、政府に受け入れられることはなかった。

西洋になびくか、それとも、アジアの国に進出して西洋に対抗できる基盤を作るか。西洋に右向け右でならおうとする風潮を苦々しく思っていた西郷の哲学は、当時の新政府の首脳には理解されなかったのだろう。今となっては、どちらが正しかったか誰にもわからない。西洋の先進的な文化に触れた遣欧使節からみると、西郷の唱える征韓論はあまりにも視点が狭く映ったかもしれない。が、いたずらに西洋をまねることは長期的にみて日本の国勢を左右しかねない、という西郷の考えも理解できる。ただ、本書の桐野利秋は、西郷に心酔するあまり、西郷の思想を理解せず、ただ単に敵対するもの全てを敵視していたようだ。征韓論や日本のこれからに考えをめぐらさず、西郷の考えこそが正義という考えに凝り固まる。西郷と政策で対立する大久保利通を暗殺せんと訪問するくらいに。ここに桐野利秋のいちずさがあり、限界があった。倒幕へと猛進する時は示現流の流儀のごとく無類に強い。だが、平時にあっても生き方を変えられないのは、強さではなく愚かさだ。引き際の潔さも、相手によって柔軟に相対する世慣れたふるまいは、平時にあって国を動かすものには欠かせない。自らを教え諭す女性たちが去って行った桐野利秋に、そこまで求めるのは酷なのかもしれないが、著者は暗にそのあたりも描いているように思える。

本書を読んでいると、満州事変から第二次大戦に至るまでの日本陸軍が浮かんでくる。一度決めた計画を撤回することは面目に関わるので是が非でも決行。そんな陸軍の欠点とされる部分が、桐野利秋の生き方に見え隠れする。直接関係があるかはわからないが、陸軍の基礎が固められるにあたっては、初代陸軍少将である桐野利秋も多少は関わっているはずだ。桐野利秋の生きざま、示現流イズムが、その後の陸軍に影響を与えていないとは誰にもいえないはずだ。一方、初代陸軍大将でありながら、西郷の陸軍への関与は鈍く思える。もし西郷の鷹揚な器の広さが揺籃期の陸軍に影響を与えていたならば。もしドイツ陸軍を手本とするのではなく、薩摩が影響を受けた英国流に陸軍の風潮が染まっていたならば。ここまで陸軍の悪評も定着しなかったのではないだろうか。そう思えてならない。

西南戦争における薩摩軍の動きは今更言うまでもない。すでに何かを悟ったかのような西郷を祭り上げ、不平士族の意見に乗って日頃の不満を晴らそうとする桐野利秋の行動については、もはや何もいうことはない。維新の上げ潮にあっては桐野利秋と西郷をつなぐ絆はますます強固なものとなった。しかし、平時にあって器の広さを見せた西郷に比べ、勢いのまま平時にあっても突っ走った桐野利秋の間には、隙間がぐいぐいと開きつつあったのだろう。その流れのまま西南戦争に突入したことが、意思疎通の齟齬をますます開かせたのだと思う。

結局、二人は主従として心中する他はなかったのだろう。時代の移り変わりにあたって、大勢の不満のはけ口を作るために、いや、日本が士農工商の封建時代から立憲君主制に移行するにあたって道を開くために、最後の生贄となったのではないか。

上巻の素朴さと違い、香水を漂わせつつ最後まで戦って死んでいった桐野利秋は、ただただ痛々しい。その痛々しさに哀しみを覚える。

桐野利秋を演じた北翔海莉さんは、桐野利秋を演じる上でどう解釈したのだろう。百周年を迎えた宝塚の伝統の部分は、いったん自らをもって終わりとし、次代に新たな宝塚歌劇を託そうとしたのではないだろうか。時代が変わろうとする時、旧世代の人間は、旧世代なりに幕を引いて去ってゆく。百年の伝統を次代に引き継ぐ北翔海莉さん、封建から立憲の世へと引き継ぐ西郷と桐野利秋。いずれも歴史の流れには欠かせない人物だと思う。

‘2016/08/08-2016/08/09


人斬り半次郎 幕末編


本書を手に取ったのは、「桜華に舞え」という舞台がきっかけだ。宝塚歌劇団星組のトップ退団公演。その公演で退団する北翔海莉さんが扮したのが、人斬り半次郎こと桐野利秋である。

「桜華に舞え」は劇団の演出家によるオリジナル脚本であり、本書は原作としてクレジットされていない。でも本書が全くの無縁だったとは思えない。脚本には間違いなく何らかの影響を与えているはずだ。

そんなわけで人斬り半次郎とはいかなる人物かを、舞台を観る前に本書で知っておこうと思った。

薩摩示現流と名乗る剣術の流派がある。映像で稽古風景を見た事があるが、撃ち込み一筋の気迫のこもった稽古だった。ただひたすらに攻めに徹する。そして気迫で相手を圧倒する。そこには守りや間合いといった静はなく、ただただ動の一点張り。人斬り半次郎こと中村半次郎も、示現流の達人である。

だが、彼は途中で示現流の道場を辞めてしまう。それは道場で不和が起こったからだ。半次郎のあまりの強さに、他の門下生が太刀打ちできなくなったのだ。しかもその多くは藩の上士。一方で半次郎は下士であり、本来ならば上士を手合わせすることすらはばかられる立場なのだ。そこでいざこざが生じたため、半次郎は道場を辞め、稽古を自己流で行うことになる。

普通の人であればここで剣術を諦めてしまい、後の世に名を残すことはない。だが、彼が普通の人々と違ったのは、自己流であっても鍛錬を惜しまなかったことだ。なにがそこまで彼を駆り立てたのか。それは己に打ち勝つため。己の置かれた状況に打ち克つためだ。

唐芋侍。半次郎が属する郷士の事を薩摩ではさげすんでこう呼んだという。幕末の薩摩藩といえば開明の印象が強い。だが実は藩内には歴然とした階級があり、半次郎が属する郷士は下級武士、つまり下士として下に見られている。下士が藩主直参の上級武士として取り立てられることはほぼなかったという。半次郎の場合、父が公金横領の罪で訴えられたこともあり、ほぼ上士になる見込みはない。それもあって半次郎は上士に対する対抗意識が強く、道場でも世渡り下手の自分を押し通してしまったのだろう。

だが、半次郎は腕力に訴える粗暴なだけの男ではない。本書で描かれる半次郎は人間的にとても魅力的な男だ。美男子で女にはめっぽう優しく、そして惚れやすい。つまり男にはめっぽう強くて女には弱いのだ。一人の人間の中に強さと弱さが同居している。複雑ではなくむしろ単純。半次郎は決して粗暴なだけの男ではなかったが、彼の生きざまは示現流の影響を受けたのか、守りや間合いを知らなかった。おそらく世が世なら世事に疎く不器用な男として薩摩の吉野郷で生を終えていただろう。要領よく頭角を現すといった形では世に出られなかったに違いない。

彼の境遇を変えたのは黒船来航をきっかけとした国内情勢の変化と、藩主斉彬による登用策だ。それによって西郷隆盛が取り立てられる。郷士の中の暴れものとして城下の若手武士たちから恐れられ遠ざけられていた半次郎は、西郷の訪問を受ける。そして、半次郎が武芸を鍛錬する気迫と開墾に一心不乱に取り組む姿、弁の立つ様子は西郷を感心させる。

西郷にとって、小賢しいだけの男は不要だ。己の地位に満足せず、さわやかな男ぶりをみせる半次郎は、これからの薩摩に必要な人材と映ったのだろう。西郷の上士や下士といった身分にとらわれぬスケールの大きさは、本書を通じてさまざまなエピソードによって明らかにされてゆく。

半次郎が後日、西郷のもとにあいさつに訪れたときのこと。土産にと大きな唐芋を三本持ってきたのだが、それを見た西郷の弟小兵衛が笑う。それを見咎めた西郷が、小兵衛を叱る。この唐芋は半次郎の厚志であり、それを笑うとは何事であるか、というわけだ。情に厚く理想家肌だったと伝えられる西郷の人柄がしのばれるエピソードだ。この出来事によって半次郎は西郷に心酔し、この人のためなら、と一生を賭けることになる。

ここに、西郷に目を掛けられた半次郎の立身出世の物語が始まる。ただ、西郷の立場も弱い。薩摩の実権は前藩主斉彬公の急死によって久光公に移っている。そして斉彬公によって取り立てられた西郷と久光公はそりが合わない。先日も、島流しの憂き目にあったばかりだ。同士である大久保市蔵にとりなされ、罪を許されて戻ってきたとはいえ、まだのびのびと藩政を切り回すまでの力はない。しかし緊迫する情勢は久光公に上京を迫っていた。そのお供として半次郎を推す西郷。大久保市蔵に半次郎の腕の冴えを実検させ、大久保に認められた半次郎は出世への足がかりをつかむことになる。

彼の強さは、攻めの局面であれば、より強さを引き寄せる。だが、半次郎はすでにこの時気づいていない。攻めの局面に夢中になっていると、背後で失われてゆくものもあるということに。半次郎は女性を引き寄せる魅力的な男だ。夜這いの風習のある吉野では年上の幸江と恋仲になっていた。だが、立身出世に逸るあまり、半次郎は幸江を忘れて上京してしまう。幸江が実在の人物かどうかは知らないが、このくだりは、本書において半次郎の負い目となってずっとついて回る。

上京した久光公に随行して京に出た半次郎。だが、この時期の薩摩藩が置かれていた情勢は薄氷の上を歩むようなものだ。西郷もそれを見越した上で薩摩藩に良かれと思い、久光公の命令に反して自己判断で動く。それが久光公の逆鱗に触れ、また島流しにあってしまう。それと前後して寺田屋では薩摩藩士同士による刀傷沙汰も起こっている。世にいう寺田屋騒動だ。

めまぐるしく薩摩藩を巡る情勢は変化する。そんな中にあって、もくもくと勤めを全うする半次郎。が、彼の剣術の腕は少しずつ京の街中に知られてゆく。青蓮院宮の衛士として幾度も宮の危機を救う。そして、扇子問屋を営む松屋の娘おたみを救う。おたみを救ったことで、彼女が気になってしまう半次郎。武士が女に惚れることは弱点につながる。しかも、勤務の最中に知り合った法秀尼とは、性の愉楽に身をゆだねる仲となる。

この謎めいた法秀尼が、西郷のいない京において半次郎の成長に大きな役割を果たすことになる。前に半次郎を攻める一方で守りを知らないと書いた。だが、半次郎とて愚かではない。剣術以外に自分の身を立てる武器が必要であることを悟り、法秀尼に書を習うのだ。さらには本も読みふける。仕事も剣術も手習いも含めて強靭な体力でそれらをこなして行く。人斬り半次郎が後年、桐野利秋となったのは、この時期の精進のたまものだろう。

著者は幕末の情勢と半次郎の日々を鮮やかに書き分けていく。天下の情勢と薩摩藩の置かれた立場が複雑に変動する中、任務と自己鍛錬を怠らぬ半次郎の日々。堅苦しいだけでなく、法秀尼と肉欲に溺れるゆとりも見せる。そんな日々にあって、長州藩との抗争に目覚しい活躍を見せる半次郎は、薩摩藩にあって伍長としてそれなりの地位を固めたといえる。幸吉という自分を慕う少年も手元におき、一見すると半次郎の日々は順風満帆に思える。だが、半次郎が抱くおたみへの少年のような恋心は募るばかり。おたみもまた、自らを救ってくれた半次郎を慕うのだが、それに半次郎は気づかない。殺伐とした幕末の京にあって、すれ違う二人の心がもどかしくも、とても新鮮だ。多情多彩な半次郎の日々を、彼は要領は悪いなりに、全力でこなしてゆく。こういう不器用なところが半次郎の魅力なのだ。

そんな中、二年ぶりに許された西郷が京に来る。そして土産話として吉野の幸江が嫁に行ったことを半次郎に知らせる。そのことを聞かされた半次郎はうろたえる。法秀尼との情事やおたみへの思慕など、多情な半次郎だが、幸江のことに衝撃を受け、苦しむ。この多情さが彼の魅力であり、煩悶する彼はとても人間くさく、好感がもてる。

そんな忙しい中でありながら剣術の鍛錬は怠らないので、半次郎の剣術の冴えは人々のますます知るところとなる。法秀尼からもらった和泉守兼定を懐に差し、西郷の遣いとして長州を視察して回り、半次郎は忙しい。京を覆う物騒な世相は池田屋事件を起こし、半次郎が長州から戻ってきた直後には禁門の変がおきる。それによって長州と薩摩の対立は決定的なものとなる。そして薩摩に中村半次郎あり、という武名は京や江戸、そして長州にも達する。

そんな日々が半次郎を変えていったのだろう。久々に薩摩に帰った半次郎は、あまりにも立場が上がったことで吉野の人々から仰ぎ見られる存在となる。一方で、自信に満ちた半次郎に眉をひそめる人々もいる。守りも間合いも知らない半次郎がいちずであればあるほど、人々との差は開いてしまう。そんな不器用で直情な半次郎の悲しい性が少しずつあらわになってゆく。吉野でかたくなに半次郎に合うのを避ける幸江の態度は、そんな半次郎の後年の孤独を予見するかのようだ。人は栄達してもなお、少年の頃と同じような心でいられるか、という問題がある。成長は自信へと変わるが、その自信は人々の目に尊大に映る。私自身も気をつけねばならない点だと思っている。

半次郎の肥大しつつある自信は、淀川の決闘であわや命を落としかけることによって足元をすくわれる。同郷の大山格之助によって助けられたことは、天狗になりかけた自らを諫める機会になったはずだ。だが、徳川幕府の命運もわずかな今、半次郎に自らを省みる時間が与えられることはない。そして倒幕の勢いはいっそう増してゆくばかり。時代に翻弄される半次郎の悲劇が、ほのめかされるかのように上巻は終わる。

‘2016/08/06-2016/08/08


桜華に舞え/ロマンス!!


今年初の観劇となったのは、宝塚歌劇団星組演ずる本作だ。

本作はまた、星組トップの北翔海莉さん、妃海風さんの退団公演でもある。そんな退団公演の題材として選ばれたのは、意外にも桐野利秋。 桐野利秋とは日本陸軍の初代少将であり、南州翁こと西郷隆盛にとって近しい部下としてよく知られる人物だ。だが、宝塚が取り上げるには少し意外と言わざるを得ない。

なぜ、 北翔さんは退団にあたって桐野利秋を演ずるのか。それは私にとってとても気になることだった。

北翔さんは以前から妻が好きなタカラジェンヌさんである。私も始終その人となりは聞かされていた。舞台人としても苦労して這い上がり今の高みまで達した努力の人でもある。その努力はタカラヅカの活動だけに止まらない。重機の運転やサックス演奏、殺陣の振る舞いをタカラジェンヌとしての活動の合間にマスターしたこともそうだ。人生を前向きに捉える飽くなき向上心は見習うほかはない。また、 北翔さんは技量だけでなくかなりの人徳を備えた方であると伺っている。それは、その人間性が認められ、一旦は専科という役回りに退いたにもかかわらず、星組のトップとして呼び戻されたことでもわかる。いわば異能の経歴の持ち主が北翔さんである。

では桐野利秋はどうなのか。それを理解するため、私は小説に力を借りることにした。 作家の池波正太郎の作品に「人斬り半次郎」というのがある。この作品こそまさに桐野利秋の生涯を描いており、桐野利秋を理解するのに適した一冊といえる。唐芋侍として蔑まされる鹿児島時代。自己流でひたすら剣を振り続けることで剣客として認められ、島津久光公の上洛に付き従う従者の一人として取り立てられる。以降、尊皇攘夷や公武合体など、目まぐるしく情勢が入れ替わる殺伐の世相の合間で剣を振るう日々。それだけでなく、薩摩藩士としての活動の合間に書籍を読み、書を極めて人物を磨いた。女好きでありながらも豪放磊落な利秋は人情の機微を解する人格者としても慕われたという。

つまり、桐野利秋とは北翔海莉さんのキャラクターを思い起こさせる人物なのだろう。殺陣をマスターした北翔さんと剣の達人でもあった桐野利秋。様々な異能を持つ北翔さんと独学で書や儀典をこなすまでになった桐野利秋。人徳の持ち主北翔さんと親分肌の桐野利秋。こう考えると、北翔海莉さんと桐野利秋という取り合わせがさほど奇異に思えなくなってくる。

だが、退団公演に桐野利秋をぶつける理由とはそれだけではない気がする。まだあるのではないか。

先年、宝塚歌劇団は100周年を迎えた。その当時、星組のトップを務めていたのは柚希礼音さん。宝塚の歴史の中でも有数の人気を誇った方として知られる。そんな柚希さんの後を託された人物として 北翔さんが専科から戻されたわけだ。そこには正当な100年の宝塚歌劇の伝統を後代につなげてほしいという宝塚歌劇団の思惑もあるだろう。中継者として北翔さんの人徳や技能が評価されたともいえる。だが、言い方は悪いが、体のいいつなぎ役ともいえる。もっと油の乗った若い時期に正当に評価されるべき方だったのかもしれない。北翔さんは。

本作には、そのあたりを思わせる演出が随所にある。 季節外れに咲いた桜を指してボケ桜と呼ぶシーンがそれを象徴している。生まれてくる時代が早すぎたというセリフもそうだ。北翔さんにとってみれば、もっとはやく評価されたかった。もっとはやくトップに立ちたかった。そんな思いもあったのかもしれない。或いはそれは穿った意見なのだろうか。

だが、北翔さんはトップ就任時の約束どおり、3作でトップを降りることになる。それは潔い決断だ。

本作のみのオリジナルキャラとして衣波隼太郎が桐野利秋の親友として登場する。彼を演ずるのは紅ゆずるさん。北翔さんの次の星組トップとして内定している方だ。衣波隼太郎は桐野利秋と袂を分かって大久保利通、つまり新政府側に付く。そして、本作の最後、城山のシーンでも官軍の軍人として登場し、桐野利秋の最後を看取る。新しい日本の礎となって死んだ桐野を悼み、「義と真心をしっかりと受け継いで」というセリフが衣波隼太郎の口から発せられる。義と真心の持ち主とは、すなわち北翔さんに他ならない。それは次のトップ紅さんによる新時代の宝塚を作っていく決意表明でもあり、伝統への餞とも取れる。

果たして、北翔さんの衣鉢は次代に受け継がれていくのだろうか。本作のサブタイトルはSAMURAI The FINALと銘打たれている。SAMURAI、つまり北翔さんのようなタカラジェンヌは最後になってしまうのだろうか。たたき上げのタカラジェンヌとしての努力の人としてのタカラジェンヌはもう現れないのだろうか。それとも、100周年を経た宝塚は新たな芸術を模索していくのだろうか。とても気になる。

その模索は本作の娘役と男役の関係にすでに顕れているように思える。娘役トップの妃海風さんは、本作で退団する。私が知る限り、本作の娘役と男役と関係は、明らかに今までの関係と違っている。男役に殉じたり従順である娘役像とは一線を画し、独立独歩の姿を見せているのが本作の特徴だ。これは新しい宝塚を占う上で参考としてよい演出なのだろうか。あるいはそうではないのか。とても気になるところである。

本作の並演のロマンチック・レビュー「ロマンス!!」は本編とは違い、伝統的なレビューを見せてくれる。多分、本編のステージ「桜華に舞え」の作風と釣り合いを持たせるためなのだろう。ただひたすらに王道を極めているといえる。ラインダンスありのデュエットダンスありの、そして大階段ありの。個人的にはエルビス・プレスリーのHound DogやDon’t be Cruelの曲が流れた際、指揮者の塩田氏がカラダを揺らしてRock and Rollしていたのがとても印象的であった。

今年初めての観劇となった本作であるが、時代の移り変わりを体験でき、さらには王道のレビューも観られ、とても満足だ。

あ、そうそう。本作は薩摩弁で全編通すなど、とても地域色に演出の気が遣われていた。その一方で、史実ではシカゴですでに髷を断髪しているはずの岩倉卿が、本作で依然として髷を結った姿で西郷の征韓論を一蹴していたのが気になった。折角方言を活かしていたのに、もうちょっと時代考証に気を使ってほしいと思わずにはいられなかった。でも、西郷さんに扮する美城れんさんは本作でもとても印象的だった。この方も本作で退団されるのだとか。残念である。

‘2016/8/26 宝塚大劇場 開演 15:00~
https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2016/ouka/


浮雲心霊奇譚 赤眼の理


八雲シリーズが佳境に入り、著者も展開に苦慮していると思われる。

最新刊である「心霊探偵八雲9 救いの魂」は、八雲シリーズの終焉が間近であると思わされる。著者を世に出し、人気作家としたシリーズをこのまま終わらせてしまうのか。おそらくは著者も編集者も悩んでいることだろう。何とかして終わりの時期を先延ばしできないだろうか。本書はそういった葛藤の末に産まれたと思われる。八雲の本シリーズを終わらせる前に、スピンオフを出して時間を稼ぐ。本書を意地悪くみれば、そういう見方もできる。

だが、そういった見方は脇に置いておこう。

本書は八雲シリーズのスピンオフ作品ではなく、独立した小説として見るべきだ。赤眼で幽霊が見えるという八雲に通ずる設定もこの際眼をつぶろう。

そうして読むと実は本書の優れた面が見えてくる。著者が書き手として優れているのは読みやすさ。これに尽きる。文体や語り口が滑らかで突っかからず、実にするすると読める。本書においてもそれは健在である。もっともあえて言うとその長所が短所にもつながるのだが。つまり、会話文が流暢すぎるあまり、内容が頭に残りにくいのだ。赤川次郎氏や伊坂幸太郎氏にも通ずるのだが、会話文の達人に共通する欠点だといえる。

著者の会話文の旨さや場面転換の巧さは、映画学校卒という著者の経歴にも通ずるのだろうか。地の文をあまり使わず、段落を短か目にして出来るだけ会話文だけで話を進めるスタイルは、本書をあっと言う間に読ませてしまう。

本書は三編からなっている。いずれも町人の八十八が町で怪異に出会い、それを憑き物落としの達人に頼むという筋立てだ。当初は名のない憑き物落としの達人だが、八十八によって浮雲と名付けられ、以降それを通り名とする。幕末を舞台とし、主要な脇役には後年新撰組で名を売り五稜郭で戦死するあの方も登場する。

本書であえて欠点を探すとすれば、憑き物落としという浮雲の設定だ。憑き物落としと聞くと、あるキャラたちにどうしてもかぶってしまう。そう、京極堂シリーズの登場人物達に。浮雲の憑き物落としという職業は中禅寺秋彦こと京極堂のそれだ。幽霊が見えるという設定は榎木津礼二郎の専売特許と言ってもいい。キャラ立ちシリーズとして確固たる地位を築いている京極堂シリーズに真っ向勝負を挑むのだろうか。八雲シリーズでは能力こそ京極堂のそれを意識していたが、憑き物落としという職業まではかぶせていなかった。が、本書ではそれすらガチンコでぶつけ、京極堂シリーズにあえて勝負を挑んでいるように思える。その志やよし、といったところか。

だが、京極堂シリーズには本書にはない骨格がある。それは、妖怪や民俗学という世界観だ。八雲シリーズや本書にはまだそれに匹敵する柱がない。そもそも京極堂シリーズに登場するあの膨大なウンチクの嵐が紛れ込んだ途端、著者の武器である読み易さが大きく損なわれてしまうことは確実だ。さて、どうするか。

妻が著者のファンである。おそらくは今後も新刊が出るたび購入することだろう。私もそのたびに読むと思う。どういった方向性を打ちだしてゆくか、とても楽しみにしていきたいと思っている。

‘2015/04/21-2015/04/22


近代日本の万能人 榎本武揚


武揚伝<上><上>を読んでから、榎本武揚という人物に興味を抱いたわけだけれど、上記リンク先でも書いたように、明治以降の逆賊という汚名の中、いかにして大臣を歴任し、子爵を受爵できるまでにいたったのかについて興味があったところ、こちらの本を見つけたので読んだ。

末裔たる榎本氏や歴史作家として名の知れた方や在野の榎本武揚研究家、最近よく文章を見かける元外交官など、多種多様な人々を集めての座談録や講演録、榎本子爵紹介記事が載っていたりと、万能人という題名にふさわしく様々な分野に活動の足跡を残した榎本武揚についての研究がこの一冊に集大成されているよう。

幕末までの榎本武揚が彼のほんの一面でしかなかったことを知らしめるような、明治以降の活躍もまた、八面六臂の活躍というのかもしれない。政治に外交に技術に科学に公害に隕石に冒険に、と驚くほかはない。明石・福島の両氏よりも先にシベリア横断を成し遂げたり、隕石から短刀を鍛造して皇室に捧げたり、と知らない異能振りがこれでもかと紹介されていく。過小評価とは彼のためにある言葉かもしれないと思わされるほど。

文中でもどのようにして明治政府に登用され、業績を上げていったかが述べられているけど、このようなあらゆる分野から業績を上げていることそのものが、彼がなぜ幕臣の立場で明治政府からかくも重用されたかの証明となっている。

小説である武揚伝とは違ってこちらは学術的な面が強く、しかも業績の紹介に筆が費やされた感があるので、江戸っ子として明治天皇や庶民からも慕われたという彼の人柄や人間性に触れたような記述は少ないけれど、かえってそれが彼の魅力の巨大さを際立たせているように思えた。また、これだけの業績を上げながらも自己宣伝をほとんどせずに生涯を追えていった彼だからこそ、逆にその人間性を伺うことができるというものだ。

私としては技術で国家に貢献するも、人間関係の複雑に絡み合った糸を解きほぐすような政治活動からは一歩引いていたという彼の立場や生き方に、自分の身の立て方を学びたいと思うばかりだ。

’11/11/22-’11/11/24


武揚伝〈下〉


著者の本は第二次大戦下のエピソードを重厚に取り上げた諸作や、警官シリーズなど、比較的よく読んでいる。

エンターテインメントの骨法が分かっている人だけに、下巻は江戸開城から官軍に反旗を翻すまでの逡巡、函館への航行と圧倒的な劣勢の中の苦闘と、時代に翻弄される主人公の姿を一気に読ませてくれる。

勝海舟や徳川慶喜の出番はがくんと減り、代わりに函館まで転戦した人々の群像劇が中心となっている。中でも土方歳三がクローズアップされている。

土方歳三はじめ徳川家に恩を奉ずる人々は、死場所を求めてあるいは新勢力への本能的な反感など、総じて革新を拒否する保守の人といった位置づけにされ、主人公は過去を守るために奮戦する人物としての描写が多い。上巻が西洋文明を進取する未来に向けて戦う人であったのに、下巻では逆の立場となっているのが面白い。

榎本武揚という大人物ですら翻弄される歴史の荒波。その荒波も隠れたテーマとなっている。オランダへの航海では難破させられながらも乗り越えられた荒波に、江戸から函館、そして松前への航海ではついに屈服してしまうところに、歴史の波に抗うことの厳しさを感じた。

榎本武揚の生涯を概観するに、逆賊の汚名を着つつも明治政府に重用された部分が取り上げられがちなのだが、この小説では終わりの2、3ページに一夜の夢として、さらにはエピローグとして簡潔に明治政府での功績を2ページだけ取り上げただけで、あえて描くのを避けている。小説の終わらせ方としてはいさぎよいし、読後感も良かったのだけれども、一方ではその見えない葛藤を書ききるのも小説の役割ではないかとも思った。

’11/11/06-’11/11/07


武揚伝〈上〉


最近のTPP論議について、これは日本国の開国であるという論調を目にすることが多い。ここ200年でいうと、幕末、第二次大戦に続く3回目の開国であるという。

今のtppがどのような開国になるのか皆目わからないけれど、封建体制を終わらせ日本を変えたという意味では最も重要な開国が幕末のそれであることは言うまでもないと思う。

幕末から明治にかけては、有名無名問わず公私の情を超えて、日本のために精魂尽した人が幾百もいたけれど、榎本武揚については、Wikipedia程度の知識しか持っていなかった。

逆賊の汚名を着せられた旧弊の徒として人生を終えておかしくないのに、明治政府でも重用されたその人物とは・・・

気になって読んでみた。彼の生き様から、今の閉塞しつつある日本を考えるヒントが得られないかと思って。

上巻は15代将軍慶喜が大阪城を脱出するところまで。榎本少年が親の幕臣技官であった父の薫陶を受け、葛藤しつつも幕府の留学生としてオランダに赴き男を磨く箇所など、私にとって新たな知識を得るとともに、その進取の気質と意思の強さこそが、逆賊でありつつ明治政府に取り立てられた強みであることをしった。実は幕末明治にかけて、立場が違えば国を率いていくことのできた人であったのだなぁ・・・・と今まであまり知らずにいたことを恥じる思い。

それにしても気になったのは、小説ゆえに主人公を引き立てるためなのか、徳川慶喜や勝海舟が低く、それも貶められるまで描かれているところ。慶喜については私もいろいろ読んだりして知識はあったのだけれど、勝海舟までもがこういう評価のされ方をするとは・・・・氷川清話とか子供向けの伝記を読んだだけではわからない陰影のある人だったんだなぁということも得た知識の一つ。

’11/11/04-’11/11/06