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神様のパズル


人生で最後のモラトリアム。扶養される立場を享受する日々。もはや取り戻せない貴重な時間。懐かしく愛おしい。本書を読んでそんな自分の大学四回生の日々を思い出した。

私の四回生の日々は、今思うと躁状態すれすれな日々だった。一月の阪神・淡路大震災の影響も甚大な上に、オウム真理教によるサリン事件の衝撃もある中で始まった就活の日々。デタラメな就活をとっとと切り上げ旅行三昧の夏をへて、内定なしのまま卒論を出して卒業。将来のことなど何も考えていなかった。とても懐かしい。

本書は四回生が所属するゼミが決まる三月末から幕を開ける。本書の主人公綿貫は大学の四回生。物理学部に在籍している。彼が入ることにした鳩村ゼミは素粒子物理研究室という名が付いている。鳩村ゼミを選んだのは、保積さんがそのゼミを選んだから。まったく脈がないのに思いだけを募らせている保積さんに告白する勇気も持てぬまま、ズルズルと四回生へ。ところが、物理学部に属しているわりに物理の素養がない綿貫は、何を見込まれたのか鳩村教授よりある頼み事をされる。それは早熟の天才美少女ともてはやされたのに最近学校に姿を見せない穂瑞をゼミに連れてくること。

穂瑞家に訪問するも、天才にありがちな穂瑞の剣もホロロな対応で追い返される綿貫。ところが、物理学部の名物聴講老人の橋詰から「宇宙が無から生まれたというのは本当か」という問いをぶつけられる。困った綿貫が橋詰老人を連れて穂瑞のもとに伺ったところ、老人の問いに何かを感じた穂瑞がゼミに訪れて、、、というのが序盤だ。

鳩村教授より卒論に加えて評価の材料にするから、と言われて付けた日記がそのまま本書になっている。この辺りの設定と展開の流れはとても自然だ。

素粒子物理研究室は、穂瑞の提案で宇宙は人間に作れるかというディベートを行う場となる。作れる側には綿貫と穂瑞。反対側には保積さん。ますます片思いが実る可能性は遠のいて行く。折しも鳩村教授は責任者である大型加速器「むげん」の稼働開始に向けて忙しい時。しかもむげんの稼働テストが思わしくなく、むげんの素のアイデアを提案した穂瑞の立場も危うい。

ループ状になっているむげんの中心部には棚田があり、そこには婆さんが独りでほそぼそと農家を営んでいる。むげんの設置でお世話になった事から、鳩村ゼミでは毎年農作業のボランティアをしている。綿貫は農作業にも駆り出される毎日を送っている。

本書は綿貫の日記の体を取っている。綿貫の日々の暮らしと心情がつづられていく日記には、ゼミのディベートの様子、保積さんに振り向いてもらえず話すことすらままならない切なさ、穂瑞がむげん問題でスケープゴートに祭りあげられてゆくさま、農作業の手伝いの大変さ、内定が決まらない焦り、そして卒論が書けない悩みが記される。

本書は主人公の日記の体をなっている。物理学部の学生でありながら物理を知らない綿貫の書く日記が本書にある効果を与えている。それは、穂瑞の考える難解な素粒子論を綿貫の脳内のフィルターを通し、グッとわかりやすく読者に伝えることだ。難解なテーマを扱いながらも、わかりやすく理論を読者に伝える。それはなかなか難しいことだ。物理学部の学生の日記の体を取ったのは絶妙な設定だと思う。

さらに本書は農作業をスパイスに配する事で、複数の対立軸を生み出している。深遠な宇宙と地道な農作業。天才美少女とぼくとつな農婆。就職活動と研究活動。それらは本書に天才たちが繰り広げる理論小説ではなく、生活と未来に悩む若者の青春小説の体を与えている。そこがいい。SFでありながら理論やロジックの世界ばかりを描いていたら、本書は全く別の色合いを帯びていただろう。しかし本書は青春の悩みという、論理とは対立するものを取り上げている。それが本書に単なるSFではない違う魅力を与えているのだ。

また、本書で見逃せないことはもう一つある。それは対人コミュニケーションによって小説の筋が進むことだ。技術者といえばコミュニケーション障害の人物の集まり。そんなステレオタイプの登場人物だったら私は本書を途中で放り投げていたかもしれない。もちろん本書にも研究に閉じこもる学生も登場する。実際の技術者にもコミュニケーションが不得手な方が多い。だが、そうでない人物もいる。技術者や物理屋にもコミュニケーションに長けた人は当然いる。本書は会話によって話が展開していくのだから。そして、本書がコミュニケーションを描いたとすれば、それはとにかくコミュニケーションに不足が取り沙汰される技術者にとって培うべきスキルのヒントとなる。なぜなら、研究も成果もコミュニケーションあってこそ世に出るものだから。

技術者の方には、庭いじりを趣味とする方もいるという。私もたまに行う。同じように宇宙論も物理学も全ては農作業から始まっている。私はそのつながりを本書から教えられた。そのつながりをわかりやすく小説に表現した本書は秀作だと思う。

‘2017/04/22-2017/04/23


図説滝と人間の歴史


滝が好きだ。

みていて飽きない稀有なもの。それが滝だ。旅先で名瀑を訪れると時間のたつのを忘れてつい見入ってしまう。滝ばかりは写真や動画、本を見ただけではどうにもならない。滝の前に立つと、ディスプレイ越しに見る滝との次元の違いを感じる。見て聞いて嗅いで感じて。滝の周囲に漂う空気を五感の全てで味わう。たとえ4K技術が今以上に発達しても、その場で感じる五感は味わえないに違いない。

私の生涯で日本の滝百選は全て訪れる予定だ。本稿をアップする時点で訪れたのは25カ所。まだまだ訪れる予定だ。私が目指す滝には海外も含まれている。特にビクトリア、 ナイアガラ、イグアス、エンジェル、プリトヴィツェの五つの名瀑は必ず訪れる予定だ。

今までの私は滝を訪問し、眼前に轟音を立てる姿を拝むことで満足していた。そして訪れるたびに滝の何が私をここまで魅了するのかについて思いを巡らしていた。そこにはもっと深いなにかが含まれているのではないか。滝をもっと理解したい。直瀑渓流瀑ナメ瀑段瀑といった区分けやハイキングガイドに書かれた情報よりもさらに上の、滝がありのままに見せる魅力の本質を知りたい。そう思っていたところ、本書に出会った。

著者はオーストラリアの大学で土木工学や都市計画について教えている人物だ。本書はいわば著者の余技の産物だ。しかし、著者が考察する滝は、私の期待のはるか先を行く。本書が取り上げるのは滝が持つ多くの魅力とそれを見るための視点だ。その視点の中には私が全く思いもよらなかった角度からのものもある。

例えば絵画。不覚にも私は滝が描かれた絵画を知らなかった。もちろんエッシャーの滝はパズルでも組み立てたことがある。だがそれ以外の西洋の滝を扱った絵画となるとさっぱりだ。本書は絵画や写真がカラーでふんだんに掲載されている。数えてみたら本書には滝そのものを撮った写真は67点、絵画は41点が載っている。それらの滝のほとんどは私にとってはじめて知った。自らの教養の足りなさを思い知らされる。

本書では、滝を地学の観点から扱うことに重きを置いていない。滝が生まれる諸条件は本書でも簡潔に解説されており抜かりはない。滝の生成と消滅、そして学問で扱う滝の種別。それらはまるで滝を語る上でさも重要でないかのようにさらりと記される。そういったハイキングガイドのような記述を本書に期待するとしたら肩透かしを食うことになるだろう。

本書の原書は英語で書かれている。翻訳だ。この翻訳が少し練れていないというか、生硬な文章になっている。少し読みにくい。本書はそこが残念。監修者も付いているため、内容については問題ないはず。だが、文章が生硬なので学術的な雰囲気が漂ってしまっている。

だが、この文章に惑わされて本書を読むのをやめるのはもったいない。本書の真骨頂はその先にあるのだから。

地質学の視点から滝を紹介した後、本書は滝がなぜ人を魅了するのかを分析する。この分析が優れておりユニーク。五感で味わう滝の魅力。そして季節毎に違った顔をみせる滝の表情。増水時と渇水時で全く違う表情を見せる滝。著者は世界中の滝を紹介しつつ、滝についての造詣の深さを披露する。

そして、著者は滝の何が人を魅了するのかを考察する。これが、本書の素晴らしい点だ。まず、滝の姿は人々に大地の崇高さを感じさせる。そして滝は人の感情を呼び覚ます。その覚醒効果は滝に訪れると私の心をリフレッシュしてくれる。また、眺望-隠れ場理論と呼ばれるジェイ・アプルトンの理論も紹介する。この理論とは、眺望の良いところは危険を回避するための隠れ場となるとの考えだ。「相手に見られることなく、こちらから相手を見る能力は、生物としての生存に好ましい自然環境の利用につながり、したがってそうした環境を目にすることが喜びの源泉になる」(72p)。本能と滝を結び付けるこのような観点は私にはなかった。

また、もう一つ私に印象を残したのは、滝とエロティシズムを組み合わせる視点だ。私は滝をそういう視点で見たことがなかった。しかしその分析には説得力がある。滝は吹き出す。滝は濡れる。滝はなだらかに滑る。このような滝の姿から想像されるのは、エロスのメタファーだ。あるいは私も無意識のうちに滝をエロティシズムの視点で感じていて、そこから生命の根源としての力を受け取っているのかもしれない。

また、楽園のイメージも著者にとっては滝を語る上で欠かせない要素のようだ。楽園のイメージを著者は滝がもたらすマイナスイオン効果から結びつけようとしている。マイナスイオンが科学的に正しい定義かどうかはさておき、レナード効果として滝の近くの空気が負の電荷を帯びることは間違いないようだ。マイナスイオンが体をリフレッシュする、つまり滝の周りにいると癒やされる。その事実から著者は滝に楽園のイメージを持ってきているように受け取れた。ただ、マイナスイオンを持ち出すまでもなく、そもそも滝には楽園のイメージが付き物だ。本書は滝に付いて回る楽園のイメージの例をたくさん挙げることで、楽園のイメージと滝が分かちがたいことを説いている。

著者による分析は、さらに芸術の分野へと分け入る。絵画、映画、文学、音楽。滝を扱った芸術作品のいかに多いことか。本書で紹介されるそれら作品の多くは、私にとってほとんど未知だ。唯一知っていたのがシャーロック・ホームズ・シリーズだ。ホームズがモリアーティ教授と戦い、ともに滝へと落ちたライヘンバッハの滝のシーンは有名だ。また、ファウストの一節で滝が取り上げられていることも本書を読んでおぼろげに思い出した。そして滝を扱った芸術といえば絵画を外すわけにはいかない。本書は41点の絵画が掲示されている。その中には日本や中国の滝を扱った絵画まで紹介されている。著者の博識ぶりには圧倒される。日本だと周文、巨勢金岡、円山応挙、葛飾北斎の絵について言及されており、葛飾北斎の作品は本書にも掲載されている。私が本書に掲載されている絵画で気に入ったのはアルバート・ビアスタット『セントアンソニーの滝』とフランシス・ニコルソン『ストーンバイアーズのクライドの滝』だ。

芸術に取り上げられた滝の数々は滝が人間に与えた影響の大きさの表れだ。その影響は今や滝や流れそのものを人間がデザインするまでに至っている。古くまでさかのぼると、古代ローマの噴水もその一つだ。ハドリアヌス帝の庭園の噴水などはよく知られている。また、純然にデザイン目的で作られた滝もある。本書はそれらを紹介し、効果やデザインを紹介し、人工的な滝のありかたについてもきちんと触れている。

滝を美的にデザインできるのならば、滝をもっと人間に役立つように改良できるはずだ。例えば用水のために人工的に作られたマルモレの滝。マルモレの滝の作られた由来が改良の代表例として本書に取り上げられる。他にも水力発電に使われるために水量を大幅に減らされ、滝姿を大幅に変えられた滝。そういった滝がいくつも本書には紹介される。改良された滝が多いことは、滝の本来の姿を慈しみたい滝愛好家には残念な話だ。

人工的に姿を変えられる前に滝を守る。そのため、観光化によって滝の保全が図られる例もある。本書には観光化の例や工夫が豊富に紹介される。私が日本で訪れた多くの滝でも鑑瀑台を設け、歩道を整備することで観光資源として滝を生かす取り組みはおなじみだ。観光化も行き過ぎると問題だし、人によっては滝原理主義のような考えを持つ人もいるだろう。私は華厳の滝(栃木)や仙娥滝(山梨)や袋田の滝(茨城)ぐらいの観光化であれば、特に気にならない。もちろん滝そのものに改変を加えるような観光化には大反対だが。

こうして本書を読んでくると、滝とは実にさまざまな切り口で触れ合えることがわかる。このような豊富な切り口で物事を見る。そして物事の本質を考える。それが大切なのだ。私も引き続き滝を愛好することは間違いない。何も考えずに滝の眼前で何時間もたたずむ愛しかたもよいと思うし、場合によっては滝を考え哲学する時間があってもよい。本書を読むと滝の多様な楽しみ方に気づく。そうした意味でもとても参考になる一冊だ。図書館で借りた一冊だが、機会があれば買おうと思っている。

‘2017/04/21-2017/04/22


沖で待つ


私は芥川賞の受賞作をよく読む。芥川賞の受賞作は薄めの文春文庫に二話められていることが多い。一話は受賞作で、もう一編は同じぐらいの量の短編というように。ところが本書には三編が収められている。しかも行間はたっぷりとられ、フォントも大き目に。それはつまり、各編が短いということだ。著者の作品を読むのは初めてだが、短めの話を得意とされているのだろうか。

著者についても本書についても予備知識がゼロで読み始めた。ところが始めの二編はサクサク読める。著者の経験に題材を採ったと思われる二編は、状況も展開もとっぴではない。誰にでも訪れそうな日常のイベント。そんな普通のイベントに向き合った主人公の日々が読者の心のみぞおちをくくっと押す。

「勤労感謝の日」はお見合いの話だ。アラフォーの主人公恭子のもとにお見合い話が舞い込む。見合いなんて、さして珍しい話でもない。だが、冒頭で勤労感謝の日に毒づく恭子の内面が露になるにつれ、恭子が無職である事が徐々に明らかになる。そんな恭子に残されたのは逃げ道としての結婚だ。

ところが見合いの席に現れた野辺山という男は恭子をがっかりさせる。風采、態度、言動のすべてが冴えないのだ。野辺山の全部に反感をもつあまり、見合いの席を中座してしまう恭子。恭子からは結婚の逃げ道すら遠のいてしまう。気の置けない後輩を渋谷に呼びつけて呑みなおす。が、この後輩も空気の読めない女なので、カイコはサナギまでが美しいけど成虫になると醜くなるというなどとやくたいもない話を婚期を逃しつつある恭子に語り、さらには彼氏と行く旅行の話までのたまう。家に帰っても恭子には見合いに同席した母から今日の逃げ出した振る舞いを愚痴られる。いたたまれず一人でなじみの店を訪れて愚痴を聞いてもらおうと思っても、折あしく生理が来てしまう。女である事の負の面だけが重く心に沈む。

でも、なじみの店でふっと心の重荷を下ろしてはじめて、恭子は今日が勤労感謝の日であることに気づく。勤労って、仕事のことだけじゃなく、生きることもまた勤労。そんな人生の中にぽっと浮かんだ救いにも似た終わりかたが印象的だ。本編は芥川賞の候補にも挙がった。

「沖で待つ」は、主人公と太っちゃんの交流を描いた一編だ。同期入社の男女。恋愛でもなくただの顔見知りでもない不思議な関係。会社で新卒された同期とはじっくり考えると不思議な関係だ。共学のクラスメイトよりも交流が生じる。同僚とはある種特有の結びつきが生まれるのかもしれない。新卒で入社していない私にはわからないが。

新卒で会社に入らなかった私は、同期など一人もいない。一度だけ中途で入った会社では、10人ほど同時に入社した。彼らはたぶん、同期と呼べるのだろう。けど、入社から3カ月以内に私も含めてほぼ全滅した。社内ではあまりにも追いまくられたため、写真すら撮っていない。一度ぐらい一緒にカラオケに行った程度か。今では顔も忘れてしまった彼/彼女らを同期と呼ぶのは無理がある気がする。そんな私だから本書に描かれた及川さんと太っちゃんの関係はうらやましい。

会社にはいろんな出来事が起こる。例えばクレーム対応、営業、出張、転勤など。会社に入ればどれもが避けようのないイベントだ。本編にはそれらがつぶさに描かれる。そんな中で二人の関係は付かず離れず続く。そしてある日、不慮の事故で太っちゃんは死んでしまう。

そこからが本書の独特の展開に入る。生前の二人が交わした約束。それはどちらかが先に死んだら片方の家にあるパソコンのハードディスクを使用不能にするというもの。ハードディスクの形を棺桶と表現し、中の円盤を死の象徴にたとえるあたりに作家の感性を感じる。

本編は2005年の芥川賞受賞作だ。その頃からわが国でもSNSがはやり始めた。私たちが死んだとき、ブログやSNSにアップしたデータはどこにゆくのか。今の私たちはその機能がFacebookに備わっているのを知っている。だが当時なこのような発想は目新しかったように思う。この点に着目した著者の視点を評価したい。

信頼できる関係とは何か。同じ性別だから、一つ屋根の下に住む家族だから信頼できるのか。そうでもない。同じ会社に勤めていれば、利害を同じくするから信頼できるのか。そうでもない。人と人とが心を許し合うことが、どれだけ難しいか。だが、人は一人では生きられない。自分が死んだ後始末を託せるだれかは必ず持っておいたほうがいい。例えばパソコンの中の個人情報を託せる誰かに。人の信頼関係を無機質なハードディスクに見立てたことが本編の優れた点だ。

「みなみのしまのぶんたろう」は、全編がひらがなとカタカナのみで構成されている。本編を読みながら、私の脳裏に去来したのは、筒井康隆氏の「大いなる助走」だ。「大いなる助走」は文学賞選考にまつわるドタバタが描かれている。何度も落選させられた作家が選考委員に復讐するラストは筒井氏の真骨頂が味わえる。本編の主人公「ぶんたろう」は大臣の経験者で作家との設定だ。となれば「ぶんたろう」に擬されているのは石原慎太郎氏のほかはありえない。

ふとした失策で南の島の原発に流された「ぶんたろう」の日々が描かれている。かなとカナだけの内容は、童話的な語りを装っているが、内容はほぼ完全に慎太郎氏を揶揄している。そうとしか読めない。

著者が「沖で待つ」で芥川賞を受賞するまでに三たび芥川賞の候補者となった。直木賞にも一度候補に挙がっている。その中で著者が石原慎太郎氏に対して含むところでもあったのだろうか。芥川・直木賞の選評を紹介するサイトもみたが、そこには石原慎太郎氏による著者の作品への選評と批判が載っていた。が、そこまでひどい選評には思えなかった。ここまで著者に書かせた石原慎太郎氏への感情がなんだったのか、私にはわからない。でも、「みなみのしまのぶんたろう」を書かせた著者の思いの強さはなんだか伝わって来る。

‘2017/04/11-2017/04/11


ジョイランド


著者の作品は短編も長編も含めて好きだ。とくに著者の長編はそのボリュームでも目を惹く。あれだけのボリュームでありながら一気に読ませるところに著者のすごさがある。著者の長編が果てしなく長くなる理由。それは伏線を張り巡らせ、起承転結を固め、登場人物を浮き彫りにするため周囲を細かく描くからだ。登場人物が多くなればなるほど、著者は周到に伏線を張り巡らせる。その分、全体が長くなるのは仕方ないのだ。

ところが本書のサイズは著者の長編の中ではめずらしく薄い。文庫本で1.5センチほどの厚み。薄いとはいえ、本書のサイズは世の小説でいえば長編に位置付けられる。だが、著者にしては短めだ。その理由は、舞台がジョイランドにほぼ限定されていて、登場人物もそう多くないためだと思う。

本書はいわゆるホラーではない。確かに本書には若干の怪異現象も登場する。それもまた、本書を構成する重要な要素だ。だが、どちらかと言えば本書は主人公デヴィンの青春を描くことに重きが置かれている。つまり、じわじわと読者の恐怖感を高めなくてもよい。そのため伏線も読者の恐怖をかき立てる必要もない。それも本書が短めになっている理由の一つだと思う。

主人公のデヴィンは大学生。時代は1973年。舞台はノースカロライナ州の海沿いの遊戯施設ジョイランドとその周辺だ。

大学生の夏を3カ月のバイトで埋めようと思ったデヴィンは、ジョイランドに来て早々、付き合っていた彼女ウェンディと別れてしまう。失恋の痛みを仕事で発散しようとしたデヴィンは、ジョイランドでのあらゆる仕事に熱意を持って取り組む。コーヒーカップや観覧車の操作。もぎりや屋台販売。着ぐるみに入って子供達との触れ合い。危うく窒息しかけた子供を救った事で新聞にも載る。デヴィンがジョイランドに雇われた時、ディーン氏にこう言われる。
「客には笑顔で帰ってもらわなくちゃならない」
ジョイランドは客だけでなく、従業員をも笑顔にする。そこに本書の特色がある。

著者はこういうカウンティー・フェア(郡の祭り)や遊戯施設をよく小説に登場させる。このような施設は読者に恐怖を与える絶好の舞台だ。小説の効果のためもあるが、それだけではない。多分、著者もこういった施設が好きなのではないか。そして好きだからこそ、ホラー効果をところ演出するのに絶好の舞台と登場させるのだろう。ところが本書に登場するジョイランドからはホラー要素がほぼ取り除かれている。その代わりに著者は古き良き遊戯施設としてジョイランドを描く。客だけでなく従業員をも笑顔にする場所として。今までに発表された著者の作品で、遊戯施設は何度も登場している。だが、本書ほどに喜ばしい場所として遊戯施設を描いたことはなかったはずだ。

ただし、一カ所だけジョイランドはホラーを引きずっている。それはかつて屋内施設で起きた殺人事件だ。そしてその施設では殺人事件の被害者が幽霊となって登場するうわさがある。今までの著者の作品であれば、ここからホラーの世界に読者をぐいぐいと引っ張ってゆくはず。ところが本書はホラーではない。その設定は本書を違う方向へと導いてゆく。

本書がホラーではない証拠が一つある。それは、幽霊とそれに伴う怪異が主人公デヴィンの前に現れないことだ。しかしジョイランドでデヴィンの終生の友となるトムは幽霊を目撃する。それなのに主人公デヴィンの前に幽霊が現れない。それは主人公の目を通して直接読者に怪異を見せないことを意味する。ホラーを直接に見せず間接に表現することで、著者は本書がホラーではないことをほのめかしている。その代わりに読者には謎だけが提示されるのだ。つまりミステリー。近年の著者はホラーからミステリーへと軸足を移しつつあるが、本書はその転換期の一冊として挙げられると思う。

デヴィンは結局、3カ月の勤務期間を大幅に延長してジョイランドにとどまり続ける。それは失恋の痛みを忘れるためだけではなく、デヴィン自身がジョイランドの中で何かをつかみ取るためだ。デヴィンが何かをつかみ取るのはジョイランドの中だけではない。ジョイランドの外でもそう。その何かとはアニーとマイクのロス親子だ。

車椅子生活を余儀なくされ、余命もあまりないマイクと心を通わせたデヴィンは、彼のため、ジョイランドを貸し切りにするプレゼントを企画する。

ロス親子との交流はデヴィンをさまざまなものから解き放つ。失恋、青春時代、ジョイランド。そしてホラーハウスにまつわるミステリー。さらにはアニーやマイクとの交流。最後の40ページで、デヴィンは一気に解き放たれる。その急転直下の展開は著者ならではの開放感を読者に与える。

青年が大人になってゆく瞬間。その瞬間は誰もが持っているはず。だが、それを描くことは簡単ではない。そしてそこを本書のように鮮やかに描くところに、著者の巨匠たるゆえんがあるのだ。

マイクとデヴィンが揚げた凧が空の彼方へ消えてゆくラストシーン。それは、本書の余韻としていつまでも残る名シーンだ。地上に青年期を残し、新たな人生へのステージへと昇ってゆく凧。それは著者が示した極上の青春小説である本書を象徴するシーンだ。そして、著者が示した新たな作風の象徴でもある。本書は著者の小説を読んだことのない方にもお勧めできる一作だ。

‘2017/04/08-2017/04/09


クォンタム・ファミリーズ


最近、SFに関心がある。二、三年前までは技術の爆発的な進化に追いつけず、SFというジャンルは終わったようにすら思っていた。だが、どうもそうではないらしい。あまりにも技術が私たちの生活に入り込んできているため、一昔前だとSFとして位置づけられる作品が純文学作品として認められるのだ。本書などまさにそう。三島由紀夫賞を受賞している。三島由紀夫賞は純文学以外の作品も選考対象にしているとはいえ、本書のようにSF的な小説が受賞することは驚きだ。本書が受賞できたことは、SFと純文学に境目がなくなっていることの証ではないだろうか。

本書は相当難解だ。正直いって読み終えた今もまだ、構造を理解しきれていない。本書はいわゆるタイムトラベルものに分類してよいと思う。よくあるタイムトラベルものは、過去と現在、または現在と未来の二つの象限を理解していればストーリーを追うことは可能だ。だが、本書は四つの象限を追わなければ理解できない。これがとても難しい。

私たちが今扱っているコンピューターのデータ。それは0か1かの二者択一からなっている。ビットのon/offによってデータが成り立ち、それが集ってバイトやキロバイトやペタバイトのデータへと育ってゆく。巨大な容量のデータも元をたどればビットのon/offに還元できる。ところが、量子コンピューターの概念はそうではない。データは0と1の間に無限にある値のどれかを取りうる。

本書のアイデア自体は量子論の概念を理解していればなんとなくわかる気もする。物事が0か1かの二者択一ではなく、どのような値も取りうる世界。0の世界と1の世界と0.75の世界は別。0.31415の世界と0.333333……の世界も別。そこにSF的な想像力のつけいる余地がある。今の世界には並行する位相をわずかに変えた世界があり、違う私やあなたがいる。そんな本書の発想。それは、並行する時間軸をパラレルワールドとしていた従来の発想の上を行く。

0と1の間に数理の上で別の世界がありえるのなら、別世界を行き来するのに数列とプログラミングを使う本書の発想もまた斬新。その発想は、別世界への干渉を可能にする本書のコアなアイデアにもつながる。そして、本書の登場人物が別世界への干渉方法やアクセスの糸口をつかんだ時、別世界とのタイムラグが27年8カ月生じる設定。その設定が本書をタイムトラベルものとして成立させている。その設定は無理なくSF的であるが、本書を複雑にしていることは否めない。

本書には都合で四つの世界が存在する。それぞれが量子的揺らぎによるアクセスや干渉によって影響しあっている。ある世界にが存在する人物が別の世界には存在していなかったり。その逆もまたしかり。しかもそれぞれの世界は27年8カ月の差がある。その複雑な構成は一読するだけでは理解できない。二つの象限を理解すれば事足りていた従来のタイムトラベルものとはここが大きく一線を画している。

違うパラレルワールドの量子の位相の違いで、同じひと組の夫婦が全く違う夫婦関係を構築する。そしてその位相に応じて家族のあり方の違いがあぶり出されてゆく。その辺りを突っ込んで描くあたりは純文学といえるかもしれない。本社は家族のあり方についても深い考察が行われており考えさせられる。だからこそタイトルに「ファミリー」が含まれるのだ。

村上春樹氏の「世界のおわりとハードボイルドワンダーランド」が批判的に幾度も引用されたり、四国の某所にある文学者記念館が廃虚と化している様子が描写されたり、かといえばフィリップ・K・ディックの某作品(ネタばれになるので書かない)で書かれた世界観が仄見えたり。それら諸文学を引用することで、文学の終わりを予感しているあたり、文学者による悲観的な将来が示唆された例として興味深い。

特に主人公は同じ人物が別世界の同一人物と入れ替わったり、性的嗜好が歪んでいたり、テロリズムに染まったりとかなりエキセントリックに分裂している。それほどまでに複雑な人物を書き分けるには、本書のようなパラレルワールドの設定はうってつけだ。むしろそうでも分けないことには、四つの象限に遍在する登場人物を区別できないだろう。

理想と現実。虚構と妄想。電子データで物事が構成される世界の危うさ。本書で示されるネット世界のあり方は、恐ろしく、そして寂しげ。このような世界だからこそ、人はコミュニティに頼ってしまうのかもしれない。

今、世界はシンギュラリティ(技術的到達点)の話題で持ちきりだ。しかし本書は2045年に到来するというシンギュラリティよりも前に、熟しきって腐乱しつつある世界を予言している。

本書を終末論として読むのか、それとも未来への警鐘として受け止めるのか。または単なるSFとして読むのか。本書は難解ではあるが、読者に無限の可能性を拓く点で、SFの今後と純文学の今後を具現した小説だといえる。

‘2017/04/04-2017/04/08


道化師の蝶


本書で著者は芥川賞を受賞した。

私は、芥川・直木の両賞受賞作はなるべく読むようにしている。とくに芥川賞については、賞自体の権威もさることながら、その年の純文学の傾向が表れていて面白いから読む。さらにあまり文芸誌を読まない私にとっては、受賞作家はほとんど知らない方であり、その作家の作風や筆致、文体などを知る機会にもなる。だが本書は芥川賞受賞作だからではなく、著者の作品だから読んだ。そもそも著者の作品を読むのは本書で三冊目だ。中でも初めて読んだ「後藤さんについて」に強い印象を受けた。だから本書については芥川賞受賞作だからというよりも、著者のとんがって前衛の作品世界がどうやって芥川賞を獲らせたのか、それはどれだけ一般の読者を向いた作品なのかが気になった。

本書を一読して思ったのは、確かに芥川賞よりの作品と思った。だが、それは私が読んだ著者の三作品の中では芥川賞よりということ。作品世界が高踏であることに揺るぎはない。そして著者の癖のある文体「~する。」の多用は本書でも健在だ。この癖のある文体も含めて、芥川賞受賞作の中でも本書は異色だと思う。本稿を書くにあたり、本書を芥川賞選考委員の面々はどのように評価したのかふと気になった。そしてサイトに掲載されている選評を読んでみた。https://prizesworld.com/akutagawa/senpyo/senpyo146.htm 私の期待通り面白い選評になっている。ある年齢を境に本書の理解を諦めた選者のいかに多いことか。それなのによくぞ受賞できたものだ。正直に本書を理解できないと評する選者の潔さに好感を抱きつつ、それを乗り越えて受賞した事実にも感心した。

表題作は、富豪であるA.A.エイブラムスが追い求める謎の散文家「友幸友幸」を巡る話だ。「友幸友幸」は行く先々で大量の言葉を紙や本に書き残す。その言葉はその土地の言葉で書き記される。無活用ラテン語といった話者が皆無の言葉で記された紙束もある。大量の書簡を残しながら「友幸友幸」は誰にも行方を悟られない。

五つからなるそれぞれの章は「友幸友幸」の行く先を探るための章だ。本編を読むと、そもそも文章を書く行為が何のためかとの疑問に突き当たる。不特定読者に読んでもらう一方通行の文章。やり取りするための両方向の文書。または自分自身に読んでもらうだけの場所を動かないものもある。「友幸友幸」の書く文書はさしずめ最後の例にあたるだろう。

誰にも読まれない文書はいったん紙に書かれ印字されると著者の手を離れる。著者がどう思おうと、読者がどういうレスポンスを返そうと文書はそこにある。たとえだれにも読まれなくとも紙が朽ちるまで永遠にとどまり続ける。

「友幸友幸」が移動を繰り返し正体不明である事。それは著者不在を意味しているのではないか。著者不在でも文書の束はそこで生きている。そうなってくると文書に書かれた内容に意味など不要だ。面白い、面白くない。簡単、難しい。そんな評価も無意味だし、売上も無意味。著者の排泄物として生まれ、著者も書いたそばから忘れ去ってしまう文章。

著者は本編で世に氾濫する印刷物に対して喧嘩を売っている。作家という職業が排泄物を生み出す存在でしかないと挑発している。それが冒頭に挙げたような芥川賞選評の割れた評価にもつながったのではないか。自らが作家であることを疑わず肯定している人には本書の挑発は不快なはず。一方で自らの作家性とその存在意義に疑問を持つ選者の琴線には触れる。

著者の作品には連関構造やループのような構造が多い。それが読者を惑わせる。本編を読んでいるとエッシャーの「滝」を見ているような感覚に襲われる。ループする滝を描いたあれだ。そのようにに複雑な構造である本編で目を引くのは、冒頭に収められた着想という名の蝶を追うエイブラムス氏の話だ。「友幸友幸」が自分を追いかけてくるエイブラムス氏に向けて遺したとされるこの文書の中で、「友幸友幸」は作家を道化師になぞらえている。そして作家とは着想を追う者でしかないと揶揄する。たぶん本編を書きながら著者は自らの作家としてのあり方に疑問を持っていたのだと思わされる。作家が創作を行っているさ中の脳内では、このようなドラマが展開されているのかもしれない。

「松の枝の記」はコミュニケーションを追求した一編だ。「道化師の蝶」が作家の内面の思考を表わしたのだとすれば、「松の枝の記」は作家の思考が外に出たことによる波及を表している。

二人の作家が互いの作品を交互に翻訳する。翻訳とは本来一対一の関係であるべきだ。一方の言語が示す意味を、もう一方の言語で対応する言葉に忠実に置き換える。だが、そんなことは元から不可能なのだ。だから訳者はなるべく近い言葉を選び、原作者の意図を読者に届けようとする。そこに訳者の意思が入り込む。これを突き詰めると、原著とかけ離れた作品が翻訳作品として存在しうる。

本編で交わされる二人の作家による会話。それは壮大な小説作品を通してのみ成立する。「道化師の蝶」がコミュニケーションを拒否した作家の話であるならば、「松の枝の記」はコミュニケーションによる認識のズレが拡大する話だ。そもそもコミュニケーションとは本来、やり取りのキャッチボールによって刻々と内容の意味が変わっていくはず。であるならば原著と翻訳でもおなじ。原著と翻訳を一つの会話文とした壮大なやりとり。

AさんがBさんと会話した内容がBさんとCさんの会話にも影響を与えることだってもちろんある。そう考えると、小説というものは作家がそれまでになした全てのコミュニケーションの結果とも言えるのではないか。さらに言えば、小説とは作家の頭だけで創作されるのではなく、作家と関わった全ての人が創作したと言えなくもない。

それは種の記憶として代々受け継がれた思惟の成果でもある。いや、種にとらわれなくてもよい。たとえば人類の前、さらに前、前、前とさかのぼる。行き着いた先が本編に登場するエレモテリウムのような太古の哺乳類の記憶であってもよい。生物の記憶は受け継がれ、現代の作家をたまたま依り代として作品として表現される。

本編には自動書記の考えが登場する。ザゼツキー症例の考えだ。ザゼツキー症例とはかつて大怪我をして脳機能を損傷した男が過去の記憶をなかば自動的に記述する症例のことだ。これもまた、記憶と創作の結びつきを表す一つの例だ。過去のコミュニケーションと思惟の成果が表現される例でもある。

ここまで考えると著者が本編で解き明かそうとした事がおぼろげながら見えてくる。小説をはじめとしたあらゆる表現の始原は、集合的無意識にあるという考えに。それを明らかにするように本書にも集合的無意識の言葉が162ページに登場する。登場人物は即座に集合的無意識を否定するのだが、私には逆に本編でその存在が示唆されているように思えてならなかった。

本編もまた、著者が自らの存在を掘り下げた成果なのだ。評価したい。

‘2017/03/30-2017/03/31


モナドの領域


本書の帯にはこう書かれている。「我が最高傑作にしておそらく最後の長編」

本書が著者の最高傑作かどうかは、書き手と読み手の主観の問題だ。私にとって著者の傑作短篇はいくつも脳裏に浮かぶ。が、長編の最高傑作と言われてもすぐには選べない。だが一つだけ確かにいえるのは、本書が著者の思索の到達点であることだ。

作品の舞台を全くの異世界に置き、異世界を訪れた人類が認識のギャップに右往左往する様を描いたSF的手法から始まった著者の作家生活。著者の文学的冒険は、読み手と書き手の世界を客観的に描写するメタ手法へと進む。さらに認識や現象の本質に迫る哲学的な作品まで。著者の扱うテーマはどんどんと進化を遂げてきた。

そして本書だ。

本書で著者は、あらゆる存在の創造主を登場させる。地球や地球の属する宇宙よりもさらに上のレベルの枠組みを創造した存在。人間が思い浮かべる神よりももっと先の超越した「それ」。「それ」が本書に出てくる創造者だ。

ある目的があって人間の体を借りた創造者は、人々の過去や正体をこともなげに当ててゆく。おりしも、街には片腕と片足だけが突如現れる事件が起こり、物騒な雰囲気が漂っている。創造者はあえて自分を公衆の目に晒す。創造主の目的は、本稿では書かない。だが、本書を掌る役目なのは創造者だ。そして創造者は著者の分身となって物語を自在に進行させる。

本書で圧巻なのは創造者と人々の対話シーンだろう。いや、対話とは言いすぎか。人々と創造者が対等なはずがないからだ。そのシーンでは人々が創造者に問い掛け、創造者がそれに答える。その様子は師と弟子の問答のよう。人々が創造者に問いたいことは様々だ。検事が、クリスチャンが、哲学者が、サラリーマンが、弁護士が、科学評論家が、経営者が、政治評論家が、それぞれの悩みを創造者に問う。

彼らの問いは、彼ら自身にとっては切実なものだ。創造者はそれらの問いを造作なくさばいてゆく。創造者にとっては取るに足りない問いといわんばかりに。多分、82歳の著者にとってもそれらの問いの多くは取るに足りないものなのだと思う。そして、本書に登場する問いからは、著者の関心分野も読み取れて興味深い。ちなみに問いの中には宗教間の争いも、科学技術の行く末や、環境問題の解決法についても登場する。ところが、国際政治、特に日中韓の関係について問いかけようとする人物はいるが、その質問者はすぐに退場させられる。本書で取り上げられる他の問題に比べれば、国と国の間の関係はあまり大したことではない、という著者の考えが垣間見える。国際政治に関する著者のスタンスがうかがえて興味深い。

さらに本書を読んで感じたのは集合知の未熟だ。本書を読んでいると、ITがもたらしたはずの集合知が人々の切実な問いに答えられない事実を痛感する。知恵袋やOK waveといったQAサイトはあるが、それらのサイト内で人々の悩みに答えるのは他の回答者。つまり人力だ。哲学的な問題や科学技術の問題もそう。ITがそれらの問題に回答できる日が来るのはいつの日だろうか。今のITに期待される知恵とは、ビッグデータの集積から導き出される人工知能による回答をさす。だが、今のITに蓄積されつつある集合知とは、人間の知恵の延長線上にある。つまり今の段階ではITは神にはなり得ていないのだ。

そして著者はSF的な設定手法を本書に持ち込みつつも、技術論や科学論の袋小路に入り込んむ過ちを犯さない。しかもそれでいて難解な人間存在のあり方について分かりやすく説く。SFにはこういうアプローチもあるのだと感心させられた。

思索の内容といい、アプローチの手法といい、本書は著者の思索の到達点だ。その思索の成果を創造者の口を借りて語ったのが本書だ。だからこそ、著者をして最高傑作と言わせたのだろう。私も本書を著者の代表作の一つに推したい。ただ著者のファンとしては、ここまでの高みに登ってからの作家活動が気になる。可能ならばあと一編は著者の長編を読みたいものだ。そんな願いを抱きつつ、著者のブログ「偽文士日録」をチェックしよう。

‘2017/03/17-2017/03/17


神のロジック・人間のマジック


実は著者の作品を読むのは初めてかもしれない。本書を読み終えてからそのことに気づいた。本書は文藝春秋の本格Mystery Mastersの中の一冊だ。本格Mystery Mastersといえば、そうそうたる作家が執筆陣にそろっている。私もシリーズに収められた作品はいくつか読んでいる。

本書を無理やりカテゴライズするとすれば孤島物になるだろうか。孤島物とは、閉ざされた空間ー人里離れた島や洋館などーで起こる事件を扱うミステリの一ジャンルだ。アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」が有名だ。本作はどことも知れない広大な土地にポツンと建つ施設(ファシリティ)を舞台にしている。周りは建物どころか木や山も見えない平原。その中で集められた11、12歳前後の少年少女六人。主人公のマモルは日本の神戸出身。 それにハワード(ちゅうりつ)、ビル(けらい)、ステラ、ケイト(妃殿下)、ケネス(詩人)の五人の生徒で構成されている。ファシリティを運営するのは校長先生(プリンシパル)のシウォード博士と寮長(RA)のミスター・パーキンス。そして食事その他の日常の世話をするミズ・コットンの三名だ。

少年少女らは幾分大人びた話し方をする。彼らの日常は、授業と実習(ワークショップ)で埋められている。そして縛られてもいる。ワークショップとは二班に分かれて寮長から出される課題を解く実習だ。そのような単調な日々は、彼らの心に疑問を生む。一体何のためにこのような場所に集められたのか。その謎こそ本書の肝だ。さらに、彼らにとって気になるものはまだある。それはファシリティに潜むあるモノだ。その正体が何かについても気になる。たまに入って来る新入生は、その彼らが抱える謎をさらに深める。それだけでなく動揺すら与える。新入生の存在がファシリティに潜むあるモノを目覚めさせると悲劇がおこるというからだ。

そして本書はお約束どおりに悲劇が起こる。その辺りは推理小説の骨法にのっとっている。本書は道具立がシンプルだ。そして布石として効果的に配置されている。なので曖昧な舞台設定であっても、全てが解決した時に爽快感が感じられる。

本書は最近話題となっている「約束のネバーランド」に影響を与えているのではないか、と私には思える。本書は2003年の作品だし。「約束のネバーランド」の設定に本書のそれが感じられる。

本書の末尾には「疎外感とアメリカー西澤保彦論」という円堂都司昭氏による作家論が収められている。著者の作風を分析し本書の構造を描いた優れた書評だ。
・人物と世界の齟齬
・心理分析の多さとセクシュアリティへの関心
・ディスカッションによる推理
この三つを円堂氏は著者の作風として挙げている。さらに著者の作品には科学と宗教の相克がテーマとして取り上げられていると氏は指摘する。前者は個々を固定的に体系化する象徴、後者は認識の共有の象徴であると分析する。アメリカでは個々の体系化はアメリカン・ドリームに代表される個人主義となり、認識の共有は民主主義として現れる。そう著者は分析する。

そんなアメリカナイズされた著者の認識が、エッセンスとして作品になったのが本書だ。これについて私の意見も書きたいところだ。だがこれ以上書くと本書の核心に迫ってしまうかもしれない。それは本稿を読んでくださっている方の興覚めになりかねない。だからここらでやめておこう。

本書は著者にとっては会心作だったようだ。上に触れた円堂氏による論考の後、円堂氏が著者にインタビューしたやり取りが本書には収められている。そのやり取りの中で著者が会心作だと述べている。つまり実験精神と著者が小説で表したいアメリカ精神が表現されたのが本書なのだという。となれば他の作品も読んでみなければ、と思わされるではないか。

‘2017/03/04-2017/03/08


骨の袋 下


上巻でマイクはマッティとカイラ親子に出会う。その出会いからほどなく、マイクとマッティは男と女として惹かれ合い、カイラはマイクに実の父のように懐いてくる。しかしそんな三人に、IT業界の立志伝中の人物、老いぼれたマックス・デヴォアの魔の手が迫る。マックスは死んだ息子が残した一粒種のカイラをわが手に得るためならどんな手を使うことも厭わない。マックスの莫大な財産がカイラの親権を奪うためだけに使われる。権力と資金に物を言わせたマックスの妨害はマッティの生活を脅かす。それだけではなく、マッティとの絆を深めるマイクにも妨害として牙を剥く。

一方でセーラ・ラフスに住むマイクにも怪異がつきまとう。それは正体の分からぬ幽霊の仕業。マイクの夢の中を跳梁し、現実の世界にも侵食してマイクにメッセージを知らせようとする幽霊。それは果たして、あの世からジョアンナが伝えるメッセージなのか。そのメッセージはマッティ親子を助けようとする。それによってマイクはマッティとカイラ親子とますます離れがたくなってゆく。義理の父娘として、そして男と女として。

下巻ではカイラの監護権をめぐってマイクとマックス・デヴォアの間に起こる争いが書かれる。本書に法廷場面はあまり登場しないが、法的な話がたくさんでてくる。法律だけでない。歴史までもが登場する。マイクの知らぬうちにジョアンナが何度も一人でセーラ・ラフスにやってきては何事かを調べていた。果たしてジョアンナは何を調べていたのか。

本書は、過去の出来事の謎が作中の鍵となる。謎を探ってゆく過程で置かれてきた布石や伏線。それらが謎の解明に大きな貢献を果たす。著者が布石や伏線の使い方に長けていることはいうまでもない。著者の作品には、こうした伏線が後々効いてくることがとても多い。本書の謎とは「TR-90」で20世紀初めに起こったとされる悲劇に端を発している。かつてジョアンナが探ったという謎を、今マイクが探る。時間を超えた謎解きの過程は、ある種のミステリーを読んでいる気分にさせられる。本書を発表した後、著者は「ミスター・メルセデス」でミステリーの最高賞となるエドガー賞を受賞し、ミステリーの分野でも評価を得ている。著者が培ったミステリーを書く上でのノウハウは、ひょっとすると本書をものにしたことで会得したのではないか。そう思える。

ただでさえ、ホラー作品において他の作家の追随を許さない著者がミステリーの手法を身につければ鬼に金棒だ。その上、本書は、ゴーストラブストーリーと帯に書かれている。つまり、ホラーにミステリー、さらには恋愛まで盛り込まれているのが本書なのだ。付け加えればそこに歴史探訪と法律、文学史が味付けされている。なんとぜいたくな作品だろう。

もう一つ下巻で加わるのは音楽史だ。アメリカがロックを生んだ地であることは今さら言うまでもない。著者の今までの作品には、さまざまなロックの有名な曲が効果的に使われる。本書でもそれは同じだ。特にマッティがドン・ヘンリーの「All she wants to do is dance」に乗って踊るシーンは、本書の中でも一つのクライマックスとなっている。ドン・ヘンリーの同曲が収められているアルバム「Building The Perfect Beast」は私の愛聴盤の一つなので、本書で同曲が出てきたときは驚きながらもうれしさがこみあげてきた。

そしてロックといえば、そのルーツに黒人によるゴスペルやブルースが大きく寄与していることは有名だ。ロックに影響を与えた頃のそれらの音楽の音源はいまや残っていない。音源が残っていない分、野卑でありながらエネルギーに満ち溢れていたはずだ。本書で著者はその猥雑な音楽の魅力を存分に描き出す。

抑圧された黒人のエネルギー。それがロックを産み出し、さらに本書の物語を産んだ。著者は黒人が差別されてきた歴史も臆せずに書く。それはこの「TR-90」の地に暗さを投げ掛ける。マイクは夢と現実の両方でジョアンナと思われる幽霊に導かれ、過去を幻視させられる。果たしてジョアンナの幽霊は何からマイクを護ろうとするのか。そもそもマイクやマッティやカイラを襲おうとするのはマックスだけでなく他にもいるのか。

その過去からの抑圧されたエネルギーが解き放たれた時、何がおこるのか。本書のクライマックスの凄まじさは著者の多くの作品の中でも有数ではないか。たとえば「ニードフル・シングス」のがキャッスル・ロックの町を壊滅させたように。

上巻のレビューで、本書を読んでいると著者の他の作品を読んだ気になったと書いた。とんでもない。私が間違っていた。やはり本書も傑作だった。

基本的なプロットは似通っているかもしれない。だが、その上に物語を肉づけることにおいて、著者の筆力はもはや神業にも思える。本書でも今までの著者の作品にはそれほど出てこなかった文学や歴史、法律といった要素で肉付けをしつつ、起伏に富んだ物語を編んでいるのだから。

‘2017/02/27-2017/02/27


骨の袋 上


1999年に著者がバイク事故を起こし、死の縁をさまよった話は著者のファンにはよく知られている。

私は、日本で出版された著者の本の九割は読んだと自負している。自分ではファンのつもりだ。著者が事故に巻き込まれるまでに上梓された作品に絞れば、読んでいない作品といえば本書を除けばあと二、三冊ほどだろうか。その他の作品はほとんど読んでいる。そして、本書を読み終えたことでさらに未読作品の数は減ったと思う。

これだけたくさん著者の本を読んでいると、今までに読んだ著者の作品と似通った展開や語りが脳裏に思い浮かぶ。

本書も実はそうだった。読みながら既読感にとらわれてしまい、ひょっとして以前に読んだのかも、と20年以上前から付けている読書履歴を読み返そうとしたくらいに。それくらい、本書の出だしは著者の今までの作品を思わせるような節と構成だったのだ。

それはきっと、妻をなくしたショックで小説が書けなくなった、という主人公の設定がそう思わせたのだろう。

結論からいうと、本書をよんだのは今回が初めてだった。そして、著者の他の作品と同じく結末まで一気に読み終えた。もちろん面白さは折り紙つきで。

著者の作品に既読感を感じる理由を二つ挙げてみる。一つは作家が主人公であることが多いこと。もう一つは、作品舞台が狭い地域に集まっていることだ。メイン州のデリーやキャッスルロック周辺。著者の著作をたどると、この辺りで起こった怪異は尋常ではない回数で起こっている。

本書もそうだ。キャッスルロックの近くが舞台だ。著者の他の著作でも名前だけはよく出てくる「TR-90」という土地。本書の舞台はここだ。奇妙な名前なのには理由がある。それはここが自治体の管轄外の地だからだ。いわば番外地とでも言えばよいか。

主人公マイク・ヌーナンは作家としてニューヨークタイムズのベストセラーリストに名前が載るほどの売れっ子。だが、ある暑い日に妻ジョアンナが急死してしまう。その衝撃からライターズ・ブロックに陥ってしまう。つまり小説が書けなくなったのだ。

エージェントのハロルドや出版社の評価はマイクが新たな作品を出す度に高まるばかり。だが新作と称する代物は、マイクが事前に書き溜めていた作品にすぎない。ジョアンナをなくして四年、全く小説が書けないまま、マイクは無為な日々を送っていた。

ハロルドは、マイクの意欲を高め、ベストセラー作家として存在感を示し続けるための処方箋を示し続ける。アメリカのベストセラー作家たちの熾烈なトップ争い。それが実名で記される。例えばそれはジョン・アーヴィングだったり、ディーン・R・クーンツだったり。いずれも私の知る作家だ。

だが、面白いことにその中に著者の名前はない。ここで自身の名前を出さないところが、著者の慎み深さを示すようで微笑ましい。ベストセラー作家のトップ争いをひとごとのように描くあたり、本当のトップを走る著者の余裕なのだろうなと思う。

本書は、小説家の裏側の世界だけでなく、表も描く。表とはつまり作品だ。本書には、文学作品がかなり登場する。例えば、本書のタイトル「骨の袋」は、トマス・ハーディが語ったとされる言葉だ。それは以下の通り。
「あらゆる小説のうちでもっとも生彩ゆたかに描きこまれた人間といえども」「地上を歩きまわって影を落としているすべての人間たちのなかで、もっとも生彩を欠く退屈きわまる人間とくらべた場合でさえ、しょせんは骨の袋にすぎない」(45P)。
骨の袋とは言うまでもなく骸骨だ。そしてその例えは作家の想像力が実在の人間に及ばぬことを表している。また、作家に復帰しようとするマイクの目標がはかないことを象徴しているかのようにも思える。

トマス・ハーディ以外にも本書で言及される作家かいる。それはサマセット・モーム。モームの代表作と言えば「月と六ペンス」だ。その小説の主人公であるストリックランドの名前も本書には幾度も登場する。モームはジョアンナの好きや作家だからだ。

このように、本書には純文学に属する作家が登場する。そこが本書の性格をほのめかせていて興味深い。本書は、著者が得意とするホラーの手法を忠実になぞりつつ、文学的な味わいを与えることに挑戦したのではないか。私はその象徴がトマス・ハーディであり、サマセット・モームの引用だと思えた。

壮絶な描写の冴えは相変わらずだ。それは本書に何度も出てくる怪異現象の描写で味わえる。私の感想だが、本書からは著者の他の作品よりも脳裏にイメージが想起しやすかった。なぜかを考えて思ったのが、本書にはアメリカならではの生活感が薄いことだ。ロック、駄菓子に日用雑貨。著者の作品にはアメリカの日常を彩るガジェットがふんだんにあらわれる。それらが本書にはあまり出てこないだ。その分著者は、自然そのものを描写することに相当熱を込めたのだろう。だから、日本人の私にもイメージしやすかったように思う。

マイクは無為な日々から逃げるかのように「TR-90」を訪れる。マイクとジョアンナの別荘「セーラ・ラフス」があるからだ。ここでならライターズ・ブロックを抜け出せるのではないか、との期待もあって。マイクは、訪れてすぐにマイクはマッティというシングル・マザーに出会う。マッティの三歳になる娘カイラにも慕われたマイクは、「TR-90」に長期間逗留することをきめる。

カイラとマッティには、その義理の父であり祖父のマックス・デヴォアの魔手も伸びる。マッティは地元の名士だったマックスの息子と熱愛の末結婚したが、その息子は不慮の事故で無くなってしまう。もともとマックスにとってマッティは息子と釣り合わぬ女でしかない。しかも、息子が死んだことでマックスの血を受け継ぐのはカイラしかいない。そこでマックスはカイラを養女にするため、あらゆる手を使う。それがたとえマッティにとって不利益であろうとも。

さらにマイクがセーラ・ラフスについてから、不可解な出来事が続く。さらに、生前のジョアンナがセーラ・ラフスで不可解な行動をしたとの証言も聞こえてくる。上巻で、徐々に話を広げてゆく著者のストーリーテリングはさすがである。

‘2017/02/24-2017/02/27


生首に聞いてみろ


著者の推理小説にはゆとりがある。そのゆとりが何から来るかというと、著者の作風にあると思う。著者の作風から感じられるのは、どことなく浮世離れした古き良き時代の推理小説を思わせるおおらかさだ。たとえば著者の小説のほとんどに登場する探偵法月綸太郎。著者の名前と同じ探偵を登場させるあたり、エラリー・クイーンの影響が伺える。法月探偵の行う捜査は移動についても経由した場所が逐一書き込まれる。そこまで書き込みながら、警察による人海捜査の様子は大胆に省かれている。それ以外にも著者の作品からゆとりを感じる理由がある。それは、ペダンティックな題材の取り扱い方だ。ペダンティックとは、衒学の雰囲気、高踏なイメージなこと。要は浮き世離れしているのだ。

本書は彫像作家とその作品が重要なモチーフとなっている。その作家川島伊作の作風は、女人の肌に石膏を沁ませた布を貼りつけ型取りし、精巧な女人裸像を石膏で再現することにある。死期を間近にした川島が畢生の作品として実の娘江知佳をモデルに作りあげた彫像。その作品の存在は限られた関係者にしか知らされず、一般的には秘匿されている。それが川島の死後、何者かによって頭部だけ切り取られた状態で発見される。娘をモチーフにした作品であれば頭部を抜きに作ることはありえない。なぜならば顔の型をとり、精巧に容貌を再現することこそが川島の作品の真骨頂だからだ。なのになぜ頭部だけが持ち去られたのか。動機とその後の展開が読めぬまま物語は進む。

彫像が芸術であることは間違いない。前衛の、抽象にかたどられた作品でもない限り、素人にも理解できる余地はある。だが、逆を言えば、何事も解釈次第、ものは言いようの世界でもある。本作には川島の作品に心酔する美術評論家の宇佐見彰甚が登場する。彼が開陳する美学に満ちた解釈は、間違いなく本書に浮き世離れした視点を与えている。川島の作品は、生身に布を貼ってかたどる制作過程が欠かせない。そのため、目が開いたままの彫像はあり得ない。目を閉じた川島の彫像作品を意味論の視点から解説する宇佐見の解釈は、難解というよりもはやスノビズムに近いものがある。解釈をもてあそぶ、とでも言えば良いような。それがまた本書に一段と浮き世離れした風合いを与えている。

ただ、本書は衒学と韜晦だけの作品ではない。「このミステリかすごい」で一位に輝いたのはだてではないのだ。本書には高尚な描写が混じっているものの、その煙の巻き方は読者の読む気を失わせるほどではない。たしかに彫像の解釈を巡って高尚な議論が戦わされる。しかし、法月探偵が謎に迫りゆく過程は、細かく迂回しているかのように見せかけつつ、地に足がついたものだ。

探偵法月の捜査が端緒についてすぐ、川島の娘江知佳が行方不明になる。そして宇佐見が川島の回顧展の打ち合わせに名古屋の美術館に赴いたところ、そこに宇佐見宛に宅配便が届く。そこに収まっていたのは江知佳の生首。自体は急展開を迎える。いったい誰が何の目的で、と読者は引き込まれてゆくはずだ。

本書が私にとって印象深い理由がもう一つある。それは私にとってなじみの町田が舞台となっているからだ。例えば川島の葬儀は町田の小山にある葬祭場で営まれる。川島のアトリエは町田の高が坂にある。川島の内縁の妻が住むのは成瀬で、川島家のお手伝いの女性が住んでいるのは鶴川団地。さらに生首入りの宅配便が発送されたのは町田の金井にある宅配便の営業所で、私も何度か利用したヤマト運輸の営業所に違いない。

さらに川島の過去に迫ろうとする法月探偵は、府中の分倍河原を訪れる。ここで法月探偵の捜査は産婦人科医の施術にも踏み込む。読者は彫像の議論に加え、会陰切開などの産婦人科用語にも出くわすのだ。いったいどこまで迷ってゆくのか。本書は著者の魔術に完全に魅入られる。

そして、謎が明らかになった時、読者は悟る。彫像の解釈や産婦人科の施術など、本筋にとって余分な蘊蓄でしかなかったはずの描写が全て本書には欠かせないことを。それらが著者によって編みあげられた謎を構成する上で欠かせない要素であることを。ここまでゆとりをひけらかしておきながら、実はその中に本質を潜ませておく手腕。それこそが、本書の真骨頂なのだ。

‘2017/01/12-2017/01/15


カフカ式練習帳


エッセイと小説の違い。いったいそれはどこにあるのか。本書を読みながらそんなことを思った。

かつて、私小説という小説の一ジャンルがあった。作家の生活そのものを描写し、小説に仕立てる。明治、大正の文学史をひもとくと必ず出てくる小説の一ジャンルだ。

では私小説とは、作家の身の回りをつれづれに記すエッセイと何が違うのだろう。

私は平たく言えばこういうことだと思っている。私小説とは作家が身の回りのあれこれを小説的技巧を駆使して描いたもの。それに対してエッセイは技巧を凝らさず、肩の力を抜いて読めるもの。もうひとつの違いは、小説としての筋のあるなしではないだろうか。起承転結らしきものが作家の日常を通して描かれるのが私小説。一方、エッセイは構成が曖昧でも構わない。

こんな風にエッセイと小説の違いを振り返ったところで、本書の内容に踏み込みたいと思う。まず本書には、筋がない。書かれる内容は多種多様だ。著者の子供時代を回想するかと思えば、宇宙の深淵を覗き込み、科学する文章も出て来る。一文だけの短い内容もあれば、数ページに章もある。著者の周りに出没する猫をつぶさに観察した猫を愛でているかと思えば、歴史書の古めかしい文章が引用される。

本書に書かれているのは、エッセイとも私小説とも言えない内容だ。両方の内容を備えているが、それだけではない。ジャンルに括るにはあまりにも雑多な内容。しかし、本書はやはり小説なのだ。小説としか言い様のない世界観をもっている。その世界観は雑多であり、しかも唐突。

著者は実にさまざまな内容を本書に詰めている。一人の作家の発想の総量を棚卸しするかのように。実際、著者にとっての本書は苦痛だったのだろうか、それとも病み付きになる作業だったのか。まるで本書の一節のようなあとがきもそう。著者の淡々とした筆致からは著者の思いは読み取れない。

だが、著者は案外、飽きを感じずに楽しんでいたのではないか。そして、編集者によって編まれ本になった成果を見て自らの作家としての癖を再認したのではないか。もしくは、発想の方向性を。

これだけ雑多な文章が詰められた本書にも、著者の癖というか傾向が感じられる。文体も発想も原風景も。

実をいうと、著者の本を読むのは初めてだ。それでいながらこんな不遜なことをいうのは気が引けるが、本書の内容は、著者の発想の表面を薄く広くすくい取った内容に思えた。その面積は作家だけあって広く、文章も達者。けれども、一つのテーマを深く掘り下げたような感じは受けなかった。

言うなれば、パッと目の前にひらめいた発想や思考の流れを封じ込め、文章に濾し出した感じ。たぶん、その辺りの新鮮な感覚を新鮮なうちに文章に表現するのが本書の狙いなのだろう。

本書には、そのアイデアを延長させていけば面白い長編になりそうなものがたくさんあった。私もまずは著者の他の長編を読みたいと思う。そして、著者の発想や書きっぷりが本書のそれとどれくらい違うのか確かめねば、と思った。

‘2016/09/13-2016/09/26


解錠師


本書はMWA(アメリカ探偵作家クラブ)のエドガー賞(最優秀長編賞)とCWA(英国推理作家協会)のイアン・フレミング・スティール・ダガー賞を受賞している。受賞作品という冠は、本書の場合、本物だ。だてに受賞したわけではない。登場人物の造形、事件、謎、スリリングな展開、それらが本書にはそろっている。傑作というしかない。

本書には設定からしてユニークな点が多い。まず、本書の主人公はしゃべれない。八歳の時に起こった事件がもとで言葉を失ってしまったのだ。だから主人公は言葉を発しないけれど、主人公の心の動きは理解ができる。それは、主人公の視点で描かれているからだ。口に出して意志は伝えられないが、独白の形で主人公の心が読者には伝えられる。ているの動き、感情、そして読者は口がきけないことが思考にどう影響を与えるかを想いながら本書を読むことになる。マイク、またの名を奇跡の少年、ミルフォードの声なし、金の卵、若きゴースト、小僧、金庫破り、解錠師と呼ばれた男の物語を。

本書は、刑務所にいるマイクの独白で展開する。そのため、複数の時代が交互に登場する。最初は分かりにくいかもしれないが、著者も訳者も細心の注意を払ってくれているので、まず戸惑うことはないはずだ。それぞれの章の頭にはその時代が年月で書かれているし。

しゃべれなくなったマイクは、叔父リートの店を手伝いながら、店の古い錠前で錠前破りに興味を持ちつつ、コミュニケーション障害を持つ子供たちの学校に通う。進学した健常者の高校では絵の才能が開花する。そして親友のグリフィンと会う。しかしその出会いから、マイクの運命は変転を加えていくことになる。

卒業記念に強盗という無法を働こうとしたグループにグリフィンと巻き込まれたマイクは、押し入ったマーシュ家で独り捕まる。そこからマイクの運命はさらに変転を重ねる。マーシュ家で保護観察期間のプログラムとしてプール作りの労働に励むことになったマイク。そこでマイクは錠前破りの弟子としての道を示され、さらにマーシュの娘アメリアに出会う。マイクは錠前破りのプロとして独り立ちし、たくさんの犯罪現場の場数を踏む。その後もマイクの独房での独白は進んでゆくのだが、それ以上は語らないでおきたい。

本書のユニークな点は、錠前破りの論理的な部分を図解なしで紹介することにある。金庫の錠前を破るにはロジックの理解と指先の微妙な感覚を検知する能力が求められる。シリンダーの細かい組み合わせと、そのわずかなひっかかりを基に正しい組み合わせを逆算出するのだから当然だ。もちろん、本書を読んだだけで誰でも錠前破りになれるわけではない。だが、図解なしにそういったセンシティブな部分を書き込むにはかなりの労力を要したことだろう。著者略歴によれば著者はIBM出身だそうだ。本書のロジカルな部分にIBMのセンスが現れている。

だが、本書で見逃せないユニークな点は、マイクとアメリアの間に交わされる絵によるコミュニケーションだ。最初はマイクからアメリアへのポートレイトのプレゼントから始まる。夜間にマーシュ家に忍び込み、寝ているアメリアの横にポートレイトを置いて帰るという向こう見ずな行い。それに気づいたアメリカからの返信の絵。寝室で合った二人は、声を交わす前からすでに恋人同士のコミュニケーションが成り立っている。

むしろ本書は、マイクとアメリアの若い恋人によるラブストーリーと読んでもよいかもしれない。声が出せなくても、マイクには絵という感情と、表情と身ぶりでを想いを伝える手段がある。声を出さないことでアメリアへの思いが発散し、薄れてしまわないように。マイクの内に秘めた熱い感情は声なしでアメリアに伝わってゆく。声というのはもっとも簡単な伝達手段だ。だが、たとえ声が出せなくても絶望することはないのだ。マイクからは口がきけないことを後ろ向きに感じさせない強さがある。

先に、著者がIBM出身であることを書いた。IBMは声を使わない情報伝達を本業としている。そんなIBM出身の著者だからこそ、口がきけないマイクとアメリアの交流を考え付いたのだろうか。多分、ヒントにはなったかもしれないが、それ以上に著者は考えたはずだ。口を使わない情報伝達の限界を。それは単にロジックを考えればよい問題ではない。心と感情について、著者は深く考えぬいたのだろう。心の描写をゆるがせにしなかったことが本書を優れた作品に持ち上げたのだと思う。

マイクから言葉を奪った事件も本書の終わりのほうで語られる。それは、八歳の少年から声を奪うに十分な出来事だ。そんな出来事があったにも関わらず、マイクは強い。芯から強い。アクの強い犯罪者たちの間に伍して冷静に錠前破りができるほどに強い。声を出せないことがマイクをそのように強くしたのか。それとも、そのような試練に打ち勝てるだけの素質がもともとあったのか。マイクの強さと心のまっすぐさは、犯罪を扱っている本書であるがゆえに、かえって強く印象付けられた。

おそらく本書の魅力とは、マイクのひたむきな前向きさにあると思う。

‘2016/08/29-2016/09/05


天上の青 下


上巻を通して宇野富士男の性格は充分すぎるほど読者に披露された。一見すると穏やかそうに見えて話も達者。だが、一度、自分に都合の悪いことが起こると気の短さが爆発し、見境のない行動に走る。そういう性格の持ち主は、権威にも激しい敵意を示す傾向にあると思う。

富士男の悪い面は、偶然の出会いで車に乗せた少年に対して顕著に現れる。11歳のひどく大人びた、生意気な口調で話す少年。気圧された富士男は不機嫌が募ってゆく。少年は父が検事であることを誇示し、悪いヤツは罰せられるべきだと持論を振るう。少年との会話は富士男の衝動に火をつける。そして、「僕を殺したりすると、国家的損失だよ」の言葉に富士男の理性は吹き飛ぶ。自分よりもかなり年下の少年との会話にむきになり、自制のできない富士男の幼さが出てしまう瞬間だ。少年の死と家への帰りに引き起こした交通事故が富士男の命取りとなる。

逮捕と勾留。富士男を取り調べるのは、財部警部補と檜垣巡査部長のコンビだ。取調室で取り調べと韜晦のせめぎ合いが始まる。富士男がのらりくらりと尋問をかわしても警察の組織力が次々と矛盾を暴いてゆく。富士男視点で尋問は進むので、いわゆる犯人からの視点で物語が進む倒叙型のミステリーとでもいおうか。読者は富士男がいかにして尋問を切り抜けるのか、または、彼の狡知を警察がいかに破ってゆくかに興味を惹かれるはずだ。会話の巧みさを自負していた富士男をあざ笑うかのように、証拠が次々と富士男を打ちのめしにかかる。富士男と警察の駆け引きがとてもスリリングでリアルだ。私は著者の作品をあまり読んでいないが、推理小説作家としては認知されていないように思う。だが、取り調べのシーンは間違いなくミステリを読んでいるようだった。著者の作家としての筆力を見せられたように思う。

でも、いくら著者が達者に尋問経過を書き込もうと、本書は事件の意外な真相を描くのではなく、罪と罰、そして救いを描く小説だ。そのため、土壇場で予期せぬ事実が判明することはないし、富士男の替わりに真犯人が現れることもなく、まだ見ぬ共犯者が現れることもない。著者は富士男の罪の意外な事実を暴くよりも、波多雪子の無垢な視点で富士男の罪を考えさせる。それによって読者は波多雪子に興味の視点を注ぐのだ。波多雪子の心がどのように揺れ動き、富士男の罪とどう折り合いをつけてゆくのか。

波多雪子は獄中の富士男に向って手紙を書く。手紙の中で波多雪子が書いた一文にこのようなくだりがある。「お互いに小細工はよしましょう。生きることは小細工では追いつかない、骨太なシナリオを持っているように私は思うのです」。さらに、富士男がレイプした女性の家族がたまたま波多雪子の知り合いだったことから、一つの家族が富士男の行いによって崩壊しつつあることを非難し突き放す。一方で、富士男がたまたま車に乗せ、殺さずに会話を交わして送り出した女性は富士男との会話によって自殺を思いとどまる。その女性も波多雪子の知り合いだった。波多雪子は、富士男が一人の少年や家族を壊しただけでなく、一人の女性を救ったことも思い返す。波多雪子は、投函せずに手元に置いておくつもりだった手紙にお礼と続きを加え、手伝えることがあれば手伝うと申し出る。

取調室で自分だけが被害者だと世をひがんで見せる富士男。そんな富士男に、檜垣巡査部長が自分は捨て子だと明かし、富士男の甘ったれた根性にぐさりと切り込む。檜垣巡査部長は、取り調べに当たった刑事の中でも富士男の心情を見抜き、富士男の心を融かす波長をもつ人物だ。ちょうど大久保清にとっての落合刑事のように。そんな檜垣巡査部長は、富士男の人物を理解するための糸口を求めて波多雪子のもとを訪ねる。そこで波多雪子が語る「どなたにせよ、この世で私のことを思い出して訪ねて来てくださる方がいらっしゃるなんて、私、光栄だと思っていますから」という言葉は檜垣巡査部長を圧倒する。檜垣巡査部長は、この言葉だけで富士男と波多雪子の関係にただれた部分がなかったことを確信させたことだろう。そして檜垣巡査部長は、富士男が弁護士を紹介してくれるよう頼んでいることを波多雪子に伝える。富士男は、義兄の三郎がよこした国選弁護士の話を蹴ったのだ。波多雪子の紹介してくれた弁護士なら、という富士男。それを聞いた波多雪子は、自分こそが富士男にとって唯一残された蜘蛛の糸であることを自覚する。蜘蛛の糸とは、仏が地獄に垂らした一本の糸をさしているのだろう。罪人たちが我先にと糸にとりついたために、切れてしまった仏教説話は有名だ。波多雪子は富士男のこころを罪からすくい上げられるのだろうか。

知り合いに弁護士のいない波多雪子は、偶然、風見渚という弁護士と知り合う。宇野富士男の弁護を引き受けられないか、とおずおずと切り出す波多雪子に、風見渚はこう答える。「私、結婚するとき、主人に言われたんです。弁護士をやるなら、一生、道楽でやれ、って。最低食うだけは僕が引き受けてやる。だからお金になるかならないか、ということじゃなくて、この事件の弁護に自分が関わることが、自分にも相手にも意味がある、と思うものだけやれ、って言われたんです」。宇野富士男から波多雪子、そして風見渚へと弁護の糸は流れるようにつながってゆく。ここまでの流れに著者のご都合主義は感じられない。

今となってはもはや、宇野富士夫と大久保清の事件を比べることに意味は薄れつつある。なぜなら、波多雪子の視点が中心となった本書は、大久保清をモデルとしただけの小説ではなくなってきているから。それでもあえて私は大久保清の事件をベースに本書を読んでみたいと思う。私は大久保清の弁護人に選任された方の名前を知らない。その方が弁護人としての本書の風見渚のように高邁な哲学を持っていたのかも知らない。もし、大久保清に波多雪子や風見渚のような精神的な支柱があれば、さぞ心強かっただろうと思う。

波多雪子から宇野富士男にあてた手紙には、風見渚に弁護を頼んだことと、「人間は自分のことを人に語らせてはいけません。それは、第一自分に対して失礼です。」というくだりがある。大久保清は「訣別の章 死刑囚・大久保清獄中手記」と題された手記を発表している。大久保清はそういう形で世間に対して自分を語ろうとした。この書を発行したのはアナーキストの肩書を持つ大島英三郎氏となっている。大島氏がどういう経歴の方かは知らないが、波多雪子が宇野富士男と書簡を交わしたように、大久保清も大島英三郎氏と書簡を交わしたのだろう。本書では以降、宇野富士男の心のうちが書簡の形で表現される。

宇野富士男が、現場検証で連れていかれた海を見て、感慨にふけるシーンがある。少し長いが引用してみる。
「富士男は静かに海の香りを鼻の穴に通した。そして眼をつぶった。その頬は微笑していた。その瞬間、彼は自分がどこに、どんな人生を背負って生きているかを忘れることができた。富士男は自分が小さな気泡になって海へ溶け込む実感を味わった。それは自分が無限に小さくなり、何者かに抱かれる感覚であった。小さくなると、自分の中に内包されていた悪も小さくなるのか。そうは行かない、と人々は言うであろう。しかし偉大になることに血道を上げる奴もいるとすれば、自分が小さくなることに安らぎを見出す人間もいる。それは、常に大きなものになろうと背伸びし、大きなものがいいものだと信じ、大きなものにしか存在の価値はないと思い込んできた常識に対する不遜な反抗の開館であった。」
「富士男は一瞬海に向かって頭を垂れた。富士男は海を見ることはこれが最後だろう、と予感した。だから富士男は海に訣別の挨拶を送り、もう一度しみじみとその無垢な喜びの色を見つめたのだった。」
このシーンは、多分、大久保清が生前出版した「訣別の章 死刑囚・大久保清獄中手記」を意識しているのだろう。私はその手記は読んだことがない。だが、この手記には詩も載っており、その中で大久保清はこのようなことを書いている。
「父母よ!私の骨と灰は
 あなたがたにお願いしました
 その梓川の清き流れに
 私の全部を託して、長い旅に出ます
 そして何日かかるかわからねど
 きっとナホトカの港までゆくでしょう」

私はここにきて、著者が本書の舞台を三浦半島にした理由をおぼろげながら理解した。天上の青はアサガオの花弁の青。そして湘南の海の青、空の青。そして、自らの罪を清める清浄さの象徴としての青。罪は川となって流れ、海へと至る。そこに人の貴賤はない。人の裁きではなく、自然の、神の摂理によって罪は海へと流れゆく。その海の色はどこまでも青い。

富士男への書簡で、波多雪子はクリスチャンとしてキリスト教の話題を持ち出しては、富士男の心を少しでも改悛に導こうとする。だが、富士男は神だけは受け入れられないと拒絶する。波多雪子はそんな富士男のかたくなさに、少しも逆らわず、諭すように言葉をつむいでゆく。もともと自然の摂理に従い、自分に大いなる意志や役割を求めない姿勢で生きている波多雪子。人間の社会では全ては法廷という人による裁きの場で決着がつけられる。だが、波多雪子にとってはそうではない。キリスト教の教えでは、道徳については「裁くなかれ」と神がおっしゃったので人が人を裁くべきではないという。

そんな富士男に極刑の判決が下る。それにたいし、富士男は短く、
「たった一言、答えを聞かせてほしい。
 愛していてくれるなら、控訴はしない」
と。

波多雪子はそれに対し、
「同じ時に生まれ合わせて、偶然あなたを知り、私はあなたの存在を悲しみつつ、深く愛しました。
 この一言を書くのに、この二日を、苦しみ抜きました」
と返す。

波多雪子はこの一言が宇野富士男の刑を確定させ、死に追いやったと深く思い悩む。富士男は欲望の赴くままに残虐に人を殺したが、自分もまた、同じ殺人の罪を犯したのではないか、と。

しかし、著者はそれとは逆のことを言いたかったのではないか。愛するという言葉は、富士男に控訴という自我を捨てさせた。富士男はとうとう改悛の情を示さなかったかもしれないが、彼は法廷で自らの自白をひるがえさず罪を認めた。それは罪を自覚したからの態度ではなかったか。そして、波多雪子からの愛しました、との言葉を受けて控訴せず罪に服した。これは一つの罪を悔いた態度とみてよいのではないか。著者は暗にこう問うているのではないか。波多雪子の愛は、ついに一人の殺人犯に自らの犯した罪を心の底から自覚させたと。

大久保清がここまでの境地に至ったのか、それは知らない。だが宇野富士夫は、波多雪子によって一つの境地に至ったのだと思う。シリアルキラーだったかもしれないが、一人の罪人として死ぬことができたに違いない。

‘2016/08/17-2016/08/19


天上の青 上


映画『羊たちの沈黙』で一躍有名になったのが、プロファイリングという言葉だ。犯罪現場を詳細に分析することで犯行の手口や犯人像を類推し、捜査にいかす手法。シャーロック・ホームズの捜査手法を現代風に置き換えたと言えば乱暴か。残虐な連続殺人犯をシリアルキラーと呼ぶことを知ったのもこの頃だ。

海外では、アンドレイ・チカチーロやテッド・バンディといった人物がシリアルキラーとして知られている。では、我が国ではそれに相当する人物はいるのだろうか。私の知る限り、和製シリアルキラーとして著名なのが大久保清だ。大久保清とは、若い女性八人の連続強姦殺人犯である。昭和40年代半ばの群馬県を舞台とした一連の事件で名を轟かせた。

本書は、その大久保清をモデルにした小説だ。大久保清の犯罪で注目を浴びたのは犯行にいたるまでの手口だ。その手口とは、女性に声をかける誘い方の洗練さに特徴があった。ベレー帽にルパシカを着た知的な自由人、つまり画家として振る舞った大久保清は、自家用車に乗って女性に声をかけていたという。そのような出で立ちの人物は当時の群馬では珍しかったのかもしれない。モデルにならないか、という彼の言葉は信ぴょう性を帯び、被害者はやすやすと誘いに乗ってしまったのだろう。

大久保清について書かれた文章の多くは、表面に現れた事実を詳しく述べている。だが、大久保清の内面を掘り下げ、何が彼を犯行に至らせたのか、について納得のいく文章には巡り合ったことがない。おそらくは私が知らないだけなのだと思う。刑務所で大久保清を担当した教誨師や取り調べにあたった刑事が、大久保清を語った文章はどこかにあるのかもしれない。ただ、それらの文章もどこまで大久保清の内面に迫れたのかは、誰にも分らない。他人の心のうちを知ることなど、しょせん今の科学では不可能なのかもしれない。

著者は小説という手段で大久保清の心にアプローチを試みる。大久保清の心に迫れないにしろ、小説家の創作力によって架空の人物を作り上げられる。著者が本書を執筆しようとしたきっかけはよく知らない。だが、本書では大久保清をモデルとした宇野富士男の造形に成功している。本書の主人公、宇野富士男がどこまで大久保清の忠実な模倣かどうか、それはもはや誰にも分からない。大切なのは、宇野富士男が犯した罪や彼の内面を描くことで、犯罪に深く迫ることだ。

大久保清の事件は群馬を舞台とした連続殺人だった。群馬といえば赤城、榛名、草津といった山国のイメージが思い浮かぶ。平野もあるが、海とは無縁。一方、本書は三浦半島を舞台としている。三浦半島といえば海のイメージが強い。そのため、どことなく作品全体にすがすがしさが感じられる。タイトルの天上の青とは、波多雪子が育てている朝顔の品種名を指している。青、とは花弁の青を差すが、湘南の海の青、空の青も含めているはずだ。その青は波多雪子の心のありようを映しだしている。波多雪子は、本書では宇野富士男と同じくらい重要だ登場人物だ。波多雪子こそが、本書に大久保清事件と違う色合いを与えている。そのことが青の色合いで引き立っているかのようだ。

群馬の緑や土色の中では、大久保清の外観がより洗練さを目立たせた。一方の本書では、青色が外見の洗練さを目立たなくさせ、逆に心のいびつさを浮き彫りにしている。

私は大久保清事件の全経過を詳しく知らない。私の情報ソースとは、いくつかのウェブ記事ぐらいが関の山。なので、波多雪子に相当する人物が実在したのかは定かではない。私の予感では、波多雪子のモデルはいなかったのではないか。なぜならば、波多雪子とは著者の宗教観を投影した人物だから。

著者はクリスチャンとして知られている。私はあまり著者の作品は読んでいないが、カトリックの洗礼を受けた立場からの著作を出している。キリスト教の神とは父性が強調されがちだ。牧師や司祭など聖職者にも男性が多い。だが、キリスト教は父性だけではない。聖母マリアに代表されるように母なる者も教義に取り入れられている。宇野富士男の罪に対しておかれたのが、母性の象徴である波多雪子なのだと思う。

宇野富士男の犯罪に、波多雪子の存在はどう影響を与えるのか。冒頭で富士男は、朝顔の色に惹かれて立ち寄ったといって波多雪子に声をかける。そして後日、種を取りに再びやってくる。その時点では富士男とは、波多雪子にはなにげなく気になる人物として映るだけだ。そんな波多雪子の視点は、富士男に渡したはずの朝顔の種が捨てられているのに気づいた時点でにわかに曇る。

つづいて物語は富士男の視点に替わる。富士男の視点からみた世界とは、不満の対象でしかない日常を指す。富士男は離婚して実家が営む青果店の上にある住居のさらに屋上に住まっている。両親と同居しているとはいえ、富士男にとっての両親は存在感が薄い。姉の夫、富士男にとっては義兄にあたる三郎が青果店を実質切り盛りしていて、遊び暮らす富士男とは犬猿の仲だ。両親は富士男をかばうが、さりとて三郎に気兼ねしている。そんな状況に富士男のストレスは募るばかりだ。鬱憤のはけ口を街での女漁りに見いだすしかない。あてもなく車を走らせては行きずりの女に近づき、ホテルに誘い込む毎日。話術が達者なので会話には事欠かない。そんな富士男の気楽な日々は、女を誘うためについたうそがばれてしまい、行きずりのよう子に危険を感じさせてしまう。車から逃げようとしたよう子を、動転した富士男は殺めてしまう。

ここで重要なのが、波多雪子の視点で富士男からかけられる言葉と、富士男の視点で女たちに発する言葉に差がないことだ。波多雪子も富士男にドライブに度々誘われるが、雪子は他の女たちと違って一線を越えさせることがない。ここで波多雪子が対応を誤れば、他の女たちと同じレベルの女になってしまう。富士男にとって波多雪子とは、他の女たちと同じではない。波多雪子がまとう節度、そして他の存在の意志に自分の存在を預けているかのような波多雪子のふるまいは、富士男に単なる女とは違う何かを感じさせる。明らかに著者は、波多雪子を富士男の聖母として描いている。

富士男は波多雪子の家に入り浸り、それでいて清い関係を続ける。その一方で女漁りに精を出し、文字通り精を出しては、逃げられたり、殺めたり、強姦したり、気まぐれに裸で逃がしたり、何もせず放り出したり、ちょっかいを出さずに送り出したり、と次第に節操を失ってゆく。

大久保清の犯行と本書で描かれる富士男の犯行は違う。だが、本質的には同じなのだろう。大久保清も母親に溺愛され、両親に繰り返し庇ってもらい育ったという。確かに、本書で三郎に相当する人物は大久保清の場合次兄だった。そして、大久保清は最初の殺人に手を染める前に二度も逮捕収監を繰り返している。そんな経歴も富士男にはない。あくまでも本書は大久保清をモデルとした小説でしかないのだから。

だからこそ、著者は自由に富士男を創造する。考え方が幼く短絡的な富士男を。口は達者で、聞きかじった知識だけは豊かな富士男を。自分にとって物事がうまくいくときは、いたって紳士的に振る舞える富士男を。ひとたび気にくわないことや反抗的な態度をとられると、途端に衝動に任せて凶暴な男に豹変する富士男を。

著者はそんな富士男の対極として波多雪子を創造した。慎ましく、控えめで、それでいて芯を持つ女性として。上巻の最後には腕枕をしあう仲となる二人だが、それでも一線は越えない。そんな清い関係を続けながらも、他方で富士男は五人を死に至らしめ、幾人をもレイプする。富士男という一人の人格の中で極端な行為が両立すること。そこに、大久保清の事件ではない著者が創作したエッセンスがあると思う。だが、下巻ではさらに著者が本書で訴えたい点が描かれていく。

‘2016/08/12-2016/08/17


共喰い


「もらっといてやる」発言で有名になった著者。「もらっといてやる」とは、芥川賞受賞の記者会見で著者が語った言葉だ。候補に挙がって5度目にしての受賞。聞くところによれば候補に選ばれた作家は、編集者とともにどこかで当選落選の知らせを待機して待つそうだ。多分、著者の発言の背景には今までの落選の経緯も含めたいろんな思いがあるのだろう。Wikipediaの著者のにも発言についての章が設けられ、経緯が紹介されている。

私はもともと、作品を理解する上でクリエイター自身の情報は重要と考えない。そうではなく、作品自体が全てだと考えている。なので、作家であれ音楽家であれクリエーターその人には興味を持たないのだ。上記の発言によってクローズアップされてしまった著者の記者会見の様子も、本稿を書くにあたって初めて見たくらいだ。世間に慣れていない感じは、一見するとリアルな引きこもりにも見える。だが、ただの緊張から漏れ出た言葉ではないかとも思う。

でも、結果を出したのだから引きこもりだっていいじゃないの。そう思う。厳しいようだが、結果を出せないのなら引きこもりは同情に値しない。でも、著者は聞くところでは一切の職業を経験していないという。それなのに、ここまで濃密な物語や世界観を構築できるのはすごいことだ。本書の末尾には瀬戸内寂聴さんとの対談が収められている。対談では源氏物語の世界で盛り上がっていた。そこでの著者はいたって普通の人だ。極論を言えば、著者のように一切就職しないくらいの覚悟を秘め、とんがった生き方をしなければ受賞などおぼつかないのだろう。著者の受賞は、就職したくなかったかつての私にとって勇気づけられるし、うらやましい。

さて、本書だ。芥川賞受賞作の常として、本書にも二作が収められている。

まずは表題作であり受賞作である「共喰い」。

主人公は17歳の篠垣遠馬だ。時は1988年というから、著者と同年代の人物を描いている。すべての17歳がそうではないのはもちろんだが、性に渇望する年代だ。もっとも、遠馬の場合は会田千種というセックスの相手がいる。若く性急で、相手を思いやれない動物的な交接。遠馬は、そんな自分の飢えに気づく。というのも、父の円の姿を見ているからだ。円は仁子さんに遠馬を生ませると、セックスの時に暴力をふるうという悪癖が甚だしくなった。仁子さんはそんな円に愛想を尽かし、川向うへ移って魚屋を営んでいる。そして円はあらたに琴子さんという愛人を家に入れ、遠馬は父と愛人との三人で住んでいる。

そんな性と血に彩られた川沿いの田舎町の情景は、下水の匂いが立ち込めている。魚屋の仁子さんの店には鰻が売られていて、仁子さんの右手首は義手だ。鰻と義手は、いうまでもなくペニスのメタファーだろう。下水が垂れ流される川も、どこか排泄行為や射精を思わせる。

本書は遠馬の暴力衝動がいつ発動するか、という着地点に向けて読者を連れていく。発動をもっとも恐れているのは遠馬自身で、実際に千種に暴力衝動の片りんを見せつけてしまう。それがもとで千種に会うのを避けられる遠馬は、性のはけ口を見失う。そんな17歳の目には、町のあらゆるものが性のはけ口に見えてゆく。例えば頭のつぶれた鰻であり、仁子さんの右腕であり、下水の汚れであり。

本書の結末はそんな予想を覆すものだ。仁子さんが円を右義手で刺し殺すという結末。それは、女性による暴力の発動という点で意表をつく。それだけではない。その殺人がペニスのメタファーである義手で行われたことに意味がある。多分、暴力の円環を閉じるには円自身ではいかんともできず、仁子が手を下さなければならないということなのだろう。そしてその代償は、円自身の暴力性の象徴であるペニスのメタファーでなくてはならなかったはず。

暴力の輪廻が閉じたことを悟った遠馬は、自らの中にある暴力衝動をはっきり自覚する。そして、それを一生かけて封印せねばならないとの決意を抱く。そのあたりの彼の心の動きが最後の2ページに凝縮されている。遠馬の封印への決意は、下水設置工事が裏付けている。川に直接流れ込んでいた下水が、下水整備によって処置されて海に流される。その様は、暴力衝動によって知らぬ間に傷ついていた遠馬のこころの癒しにもつながる。

そこに本書の希望がある。 「共喰い」の円環は閉じ、17歳の少年が健やかに成長していく希望が。

もう一作は「第三紀層の魚」。

第三紀層とは、本作にも説明が書かれているが、6500万年前から180万年前の日本列島が出来上がる時期の地層を指す。その時期に堆積した植物が今、石炭として利用されているのだ。そして、石炭はいまや斜陽産業。

主人公信道の住む町は、かつて石炭産業で栄えていた。だが、石炭産業の斜陽化は、街に閉塞感をもたらしている。加えて信道の家は、母と祖母と曽祖父の4世代がすみ、それぞれの世代が1人ずつという珍しい構成だ。曽祖父の回顧話を聞かされる役回りの信道にとっては、現代とは全てが過去に押しつぶされているようにも思える。だが、チヌ釣りの師匠としての曽祖父が持つ知恵は、信道に恩恵も与えてくれる。

釣りとは水の下に沈む魚を海面の上へと引き上げる作業だ。日の当たる場所への上昇。過去のしがらみに押しつぶされそうになっている信道の家にも、上に引き上げられるチャンスはある。そのチャンスが母の身に訪れる。東京への栄転だ。

本作は、地元を離れる信道の葛藤と、曽祖父の死で東京に行く決心をつける経緯が描かれる。地方から東京へ。それは、一昔前の日本にとっては紛れもなく立身出世への道だったと思う。本作は、そのような地方の閉塞感を、第三紀層という途方もない深さの地層に見立てた作品だ。地方創生が叫ばれる今だが、その創生とは、第三紀層を掘りつくさないと実現しないのか。それとも第三紀層の上に立派な地面を敷き詰めるところにあるのか。そんなところも考えながら、本作を読んだ。

最後に本書には、瀬戸内寂聴さんと著者の対話が収められている。源氏物語についての話題が中心だが、それだけではない。対談では、寂聴さんから著者への作家としての生き方の励ましでもある。小説を書くことでしか証が立てられない生き方とは、一見すると不器用に思える。でもその生き方はありだと思う。そして、とてもうらやましい。著者だけでなく読者をも励ます対談。実は私は瀬戸内寂聴さんの著作は一冊も読んだことがない。だが、この対談であらためて寂聴さんに興味を持った。作家としての覚悟というか、生きることの多様性をこの対談で示してくれたように思う。ビジネスの世界に住んでいると、目の前の課題に集中してどうしても視野が狭くなってしまう。その意味でも、この対談は読んでいて自分の視野狭窄を思い知らされた。また、対談では著者はとても素直に受け答えをしている。そこにはコミュニケーション障害などという言葉は断じて感じられない。この対談は、冒頭に書いた受賞会見で妙な印象がついてしまった著者の人物像を正しく見直すために、とてもよいと思う。

‘2016/07/01-2016/07/03


聖痕


本書は221党員にとってして待ちに待った最新作である。221党なんて言葉はない。著者のファンを勝手にこう呼んだだけだ。だが、パソコン通信の時代から運営されている著者のフォーラムの名前は221情報局という。221=ツツイであることはいうまでもない。221は著者の番号であり、ファンにとってはお馴染みの数字なのだ。

著者のホームページ(https://www.jali.or.jp/tti/)には221情報局へのリンクに貼られている。パソコン通信の頃からネットを活用した文筆活動を自在に行っていた著者にふさわしく、シンプルかつ読み応えのあるページとなっている。だが、更新頻度がさほど高くないのが惜しいところだ。だが、そんな221党員のためにASAHIネット企画「笑犬楼大通り」が開設された。もちろん著者のホームページからも笑犬楼大通りへのリンクが貼られている。笑犬楼大通りの中でも「偽文士日碌」はちょくちょく拝見している。それはWeb上の日記。だがblogとは少し違う。ページは書籍をあしらったデザインになっている。読者はページをめくるように紙の端をクリックする。すると著者の日々を行き来できるのだ。

著者の日々とはテレビに出たり、著書にサインをしたり、編集者を応対したり、執筆活動をしたり賑やかだ。作家と役者とタレントを兼ね、座長やクラリネット奏者やパネリストをこなし、東京と神戸の両方に家を持つ著者の日々はマンネリとは程遠い。ファンにはお馴染みだが、著者は今までに何度となくこうした日記スタイルの作品を出版している。「偽文士日碌」も今までの日記スタイルの作品を踏襲している。自らも家族も編集者も作家も友人も、著者の日記に登場する人や事物は全て実名だ。著者の日記スタイルには私も大きく影響を受けている。そんな私にとって「偽文士日碌」を読むことは楽しみの一つだ。

さて、本書である。なぜ前置きで「偽文士日碌」を紹介したかというと、本書の筆致は「偽文士日碌」に良く似ているからである。本書は葉月貴夫の生涯を書いている。幼少時から髪に白いものが混じる年齢までの生涯が書かれている。本書で描かれる貴夫と貴生の周囲の人々の織りなす日常は、「偽文士日碌」で描かれた著者の日常を思わせる。

先に私は著者の日記スタイルに多大な影響を受けたと書いた。著者の日記は今までに何冊も出版されている。それらに共通するのは露悪的な姿勢である。つまり、謙譲や遠慮とは無縁のスタイル。生活や出来事を隠さずに描く。例えそれが贅沢三昧な日々であろうとも。自粛などという小癪な態度とかけ離れた日記スタイルは実に小気味良い。下手な隠し事はかえって読む人にとって侮辱となり、隠すことがすなわち嫌みにもなる。そのスタイルは、「偽文士日碌」でも本書でも顕著といえる。

葉月貴生は幼い頃に暴漢にナニ(本書内の雅語では露転と呼ばれる)をちょんぎられる。そのため、中性的な美しさを損なわない。また、性欲にも悩まされることがない。しかも、頭脳明晰で東大卒。料理の腕も抜群で、経営するレストランは客が引きも切らない。レストランに来店する各界の名士とも懇意で、友人関係にも困っていない。また、彼の年の離れた妹を娘として育てる。その娘がこれまた美形で躍りの名手だ。そういった恵まれた、華麗な日常が描かれるのが本書である。そんな彼の日常が遠慮や謙譲など一切なく語られる。

本書には露悪以外にもう一つ特徴がある。それは、かつて世界の文学史で脚光を浴びたラテンアメリカ文学からの影響だ。マジックリアリズムと称されたその作風は、現実に即した描写をしながら極端な状況を描写することで人間の認識を超えたところに読み手を運ぶ。本書には突飛なことが起こるわけではない。ありえない風景が出現するわけでも超人がスゴ技を披露することもない。だが、葉月貴生の周辺の人々や事物は出来すぎている。理想的過ぎるぐらいに理想的なのだ。その誇張された美化こそが、本書に漂っているマジックリアリズムの影響だと思う。ちなみに著者はラテンアメリカ文学からの影響を隠そうとしていない。かく言う私がラテンアメリカ文学の愛好家となったのも、著者からの感化なのだから。

では、理想的すぎる葉月貴生の生活をここまで露悪的に描いたのは何故だろうか。

一つは、日本的な偽善性への著者なりの態度表明だろう。昭和天皇の崩御の際や、東日本大震災では自粛という言葉が大分取り沙汰された。

もう一つは著者の考える美、にあるのではないか。葉月貴生は去勢された身だ。そのため、性欲に煩わされない。しかし、性を嫌悪するかと思えばそうでもない。それは自ら経営するレストランの上階を逢い引きの場として提供することでも表明されている。つまり、真の美とは周囲に影響されず、世俗にあっても美しさが損なわれない。清濁併せ呑んでもなお、美が決然と立っている様とでもいうか。世俗にありながら超然かつ孤高を保てる強さこそが真の美ということだろう。要するに著者が考える美とは自ら無欲であること、ではないだろうか。

美をテーマとした本書を書くにあたり、著者はある工夫を施している。それは雅語の多用だ。いまやほとんどの日本人から忘れ去られ、誰にも顧みられなくなった語が本書にはたくさん登場する。ページが進むにつれ、使われる雅語の割合は増えていく。このところの著者の作品に目立つのはことばに関するこだわりだ。昔から、愚鈍ではなく魯鈍という言葉を使う著者に相応しく。

本書は老いてなお創作意欲盛んな著者の、余生の手慰みとはかけ離れた力作である。私も著者の作品はほぼ全て読んでいるつもりだが、まだまだ著者の日々は追いかけて行きたいと考えている。

‘2015/03/05-2015/03/09


猫のいる日々


横浜の港の見える丘公園の一角に、大仏次郎記念館はある。著者の仕事が収められた文学館だ。こちらの記念館に訪れたのは2015年10月末のこと。本書を読み始める50日ほど前だ。館内では学芸員の方に丁寧に説明していただき、ただ展示品を眺めるだけにとどまらず、著者の遺した足跡をより深く理解できた。

こちらに訪れる前、私が著者に対して知っていたのはわずか。通俗・歴史小説の書き手としてなんとなく認識していた程度だった。しかし記念館の展示を観て、私の認識がいかに浅いレベルであったかを知った。著者は通俗・歴史小説の書き手としても一流だったが、それだけではない。日舞・歌舞伎からバレエ・リュスなどの西洋舞踊にも造詣が深かった。また、フランスの近現代史にも通じ、フランスに関する多彩な角度からの書物を著している。また、純文学の分野でも傑作をものしたかと思えば、一流劇場で掛かるような戯曲も発表している。さらには「天皇の世紀」という日本の近代史をライフワークとしていた。そして本書のようなエッセイも多数残している。実は横浜だけでなく、日本の文学史上でも有数の巨星であったのだ。

今回、こちらの記念館を訪れるのは初めてのこと。しかもこちらの記念館を訪れたのは、近所の神奈川近代文学館で催されていた柳田國男展の会場と間違えてだった。しかし、私にとっては怪我の功名では済まぬほどの深い印象を著者の業績から受けた。

本書は著者が残した多数のエッセイの中の一つに数えられる。稀代の猫愛好家として知られた著者が発表した、猫に関するエッセイ・小説・童話を集めた一冊である。記念館でも著者と猫の関わりは展示されていた。しかし、著者と猫の関わりを知るには展示物よりも本書の内容が全てだ。全編とにかくねこねこねこネコ子猫猫ネコ。猫しか出てこないのである。

本書の中のエッセイにはさまざまなネコエピソードが登場する。

「来世は猫だ。」という書き出しから始まる『ホテルの猫』
「この次の世には私は猫に生まれて来るだろう。」と終わる『台風記』
「私は物など書かないでネコのように怠けて好きなことをして日だまりで寝ていたい」と始まる『わが小説-スイッチョ猫』
「女房の話だと、私の家に住んだ猫の数は五百匹に余る」という文が冒頭に来る『白ねこ』

全部で58編の随筆が猫の事。さらに小説が一編、童話が四編。いずれも猫が登場する。

その中にはフランスにあるル・シャ家という猫を姓とした一族についてのエッセイが2つ。ほぼ同じ内容で載っているのもご愛敬だろう。『ねこ家墓所』『猫家一族』

あまりに猫好きが有名となり、ひっきりなしに捨て猫を敷地に投げ込まれる。「猫が十五匹以上になったら、おれはこの家を猫にゆずって、別居する」と宣言するほどの猫屋敷。『猫の引越し』

私は今まで猫好きな文豪とは内田百閒氏のことだと思っていた。内田百閒氏といえば『ノラや』である。愛猫ノラが家出したことで取り乱し、辺りを探し回る顛末を延々と書き連ねる百閒氏にネコ好きで勝る文豪はいるまい、と。しかし著者もまた猫好きでは百閒氏に劣らない。そして百閒氏のようにネコ可愛がりにメロメロになるのではなく、猫に対して人間の矜持を保ちつつ、ネコに溺れている著者の様子がまたよい。

猫は人間に対して媚びないから猫なのである。同じように人が猫に対して媚びてはいけない。私も猫好きだからその点は良く分かる。その点、著者の猫に対する態度は本書のエッセイを通して凛としていて気持ち良い。猫には媚びないのが一番である。

また、これは猫とは関係ないが、本書の文章は実に読みやすい。私は著者のことをもう少し古い時代の方と思い込んでいた。しかし著者の文体は漢文調でも文語調でもなく、分かりやすい口語体で統一されている。これは通俗小説の書き手として分かりやすい文体に気を遣っているからだろう。

巻末に収められた『白猫』という小説はエッセイに比べてずいぶん長めの分量となっている。短編と中編の間くらいの紙数はあるだろうか。その内容とは、戦時中から戦後の横浜を生きる敏子の目からみた、銃後の市民の戦争や軍隊に対する本音が描写されたものだ。昭和二十年の十月から発表を始めたというから、敗戦後すぐである。空襲下、統制され文筆活動を制限されていた著者の鬱々とした気持ちを発散させるような、戦時下の窮屈さや軍部の独走を批判する内容となっている。この物語において敏子のささくれた心を癒す動物として白猫が登場する。

童話四編も実によい。中でも著者自身がエッセイ『わが小説-スイッチョ猫』で自賛する『スイッチョ猫』は今の世でも通用する優れた童話だと思う。私は『子猫が見たこと』という復員軍人が家に帰ってくる様を描いた一編の童話にも印象を受けた。

没後40年を過ぎた今、著者の名前はだんだんと忘れられていきつつある。その多数が絶版になった著者の作品の中でも、本書はロングセラーとしての扱いを受けているらしい。本書を読むとロングセラーになっている理由がよく分かる気がする。今後、私がネコを描いたエッセイについて良いのない?と聞かれたら本書を薦めようと思う。

‘2015/12/12-2015/12/16


造花の蜜〈下〉


下巻である本書では、視点ががらっと変わる。

上巻では圭太君の母香奈子や橋場警部に焦点が当たっていた。しかし、本書では犯人側の内幕が書かれる。その内幕劇の中で、実行犯とされる人物は逃亡を続ける。何から逃亡しているのか。そしてどこに向かっているのか。やがてその人物は逮捕され、取調べを受けることになる。本書は、実行犯であるその人物の視点で展開する。そして、視点は一瞬にして転換することになる。読者にとって驚きの瞬間だ。

実行犯の背後には黒幕がいる。その人物は狡知を張り巡らせ、正体をつかませない。実行犯の視点で描かれているとはいえ、それはいってみれば遣いッ走りの視点でしかない。黒幕は一体誰なのか。いや、これからこの物語はどこへ行こうとするのか。読者は本書の行く末が読めなくなる。

圭太君の誘拐劇の背後に家庭事情が絡んでいることは上巻のあちこちで触れられていた。本書ではそれらの事情も種明かししながら、実は圭太君の誘拐劇の裏側には違う犯罪が進んでいたことが明らかとなる。複雑な構成と胸のすくような転換の仕込み方はお見事という他はない。そう来たかという驚きは優れた推理小説を読む者にのみ与えられる特権だ。

そして、この時点で黒幕である人物はまだ捜査の網の外にいる。事件はまだ終わっていない。

ここで、本書は2回目となる視点の転換を迎える。圭太君の誘拐劇の舞台となった小金井や渋谷ではなく、今度の場所は仙台。圭太君誘拐劇から1年後のこと。ここに圭太君誘拐劇に関わった人物は誰一人現れない。たまたま仙台に来ていた橋場警部を除いては。人物の入れ替わりの激しさは、もはや別の物語と思えてしまうほどだ。本書はここで大きく二つに割れる。

第三部ともいえる仙台の事件をどう捉えるか。それは本書への評価そのものにも影響を与えると思う。私自身、仙台の話は蛇足ではないかと思ってみたり、黒幕の知能の高さを思い知る章として思い直してみたり。第三部については正直なところいまだに評価を定めきれずにいる。

誤解しないでもらいたいが、第三部も完成度は高いのだ。そして一部と二部で打たれた壮大な布石があってこその第三部ということも分かる。しかし第一部と第二部だけでもすでに作品としては完成していることも事実だ。それなのに第三部が加えられていることに戸惑いを感じてしまう。実は本書の最大の謎とは第三部が加えられた意味にあるのではないかとまで思う。読者を戸惑わせる意図があって曖昧に終わらせたのならまだ分かる。しかしそうではない。第二部が終わった時点で読者は一定の達成感を感ずるはずだ。

読者は本書を読み終えて釈然としないものを感じることだろう。そしてその違和感ゆえに、本書の余韻は長く続くこととなる。

第三部のうやむやを探ろうと著者自身に聞きたいところだが、それはもはや叶わない。残念なことに著者は亡くなってしまったからだ。どこかで著者が本書の第三部について語った内容が収められていればよいが、その文章にめぐり合える可能性は低い。あるいは著者は、死してなおミステリ作家であり続けたかったのかもしれない。自らの作品それ自体をミステリとして存在させようとして。あるいは、著者の他の作品に謎を解く鍵が潜んでいないとも限らない。私自身。著者の読んでいない作品はまだたくさんある。それらを読みながら、第三部の謎を考えてみたいと思う。

‘2015/11/21-2015/11/22


造花の蜜〈上〉


本書のレビューを書くのはとても難しい。

推理小説であるため、ネタばらしができないのはもちろんだ。でも、それ以上に本書の構成はとても複雑なのだ。小説のレビューを書くにあたっては最低限の粗筋を書き、レビューを読んでくださる方にも理解が及ぶようにしたいと思っている。しかし、本書は粗筋を書くのがはばかられるほど複雑なのだ。そして粗筋を書くことで、これから読まれる方の興を削いでしまいかねない。

本書下巻ではテレビドラマ脚本家の岡田氏による解説が付されている。岡田氏も本書の解説にはとても苦労されている様子が伺える。そして、私も本稿には難儀した。本書はレビュアー泣かせの一冊だと思う。

でも、本書はとても面白い。そして構成が凝っている。ミステリーの系譜では誘拐ものといえばそうそうたる名作たちが出揃っている。本書はその中にあっても引けをとらないほど面白い仕掛けが施されている。子供を間に置くことで、視点の逆転をうまく使っているのが印象的だ。

上巻である本書では、圭太君の母香奈子と橋場警部に焦点を当てつつ話は展開する。圭太君があわや連れ去られそうになるが、実は誘拐未遂であり、しかも実行犯が父親というのがミソだ。そしてその体験を語るのが幼い圭太君であることが、混乱を誘う。圭太君の言葉は無垢な言葉であり、その言葉には作為は混じらない。だからこそ大人は惑わされるのだ。冒頭の誘拐未遂の挿話で読者ははやくも著者の仕掛けた謎に惑わされてゆく。

はたして一カ月後、圭太君は再度誘拐される。犯人の知略にもてあそばれる警察側。著者によって小道具が効果的に出し入れさえ、巧妙に視点と語りが混ぜ込まれる。著者の幻惑の筆は冴え渡る。なるほど、こういう誘拐の手口もあるのか、と読めば驚くこと間違いなし。造花の蜜という題名のとおり、本書では金という甘い蜜を巡って虚虚実実の駆け引きが繰り広げられる。ここでいう蜜とは、金の暗喩であることは言うまでもない。そして蜜は金としてだけでなく、小道具としても印象的に登場する。蜜に群がる蜂を多く引き連れて。

鮮やかな誘拐劇の中、ほんろうされ続ける橋場警部。

上巻は、犯人への対抗心に燃える橋場警部の姿で幕を閉じる。これが下巻への布石となっていることはもちろんだ。

‘2015/11/20-2015/11/21


彼女はもういない


本稿を書き始めてから、個人的に驚いたことがある。それは著者の作品を今まで読んだことがなかったということだ。本書の面白さに触れ、著者の実力を知り、それなのに今まで著者の作品を逃していたことはちょっとしたショックだった。

著者の名前は当然知っていた。毎年年末に宝島社が出す「このミステリーがすごい」は欠かさず買っている。著者の名前はその中で何度も登場している。なぜ、今まで著者の作品を読まずに来たのか、さっぱりわからない。

本書は倒叙ミステリーである。つまり、犯人側の視点を通して話は進む。明確な殺意と動機も最初から読者に提示される。やがて始まる連続殺人。殺害手口の一部始終をDVDに録画し関係者宅に電話した上で投函する。それはまるで劇場型犯罪のよう。派手派手しく、遺留品も大量に残したままの杜撰にも思える連続殺人を重ねる犯人。

一方で、各連続殺人の合間には、警察側の視点で物語は書かれる。やがて、城田理会警視の慧眼によって、着々と犯人像は絞られるが・・・・

本書は実に素晴らしい。私も想像していなかった結末で締めくくられる。しかもそれらの伏線は読者の前に早い段階で提示されている。実にお見事な犯罪計画であり、それを見破った警視の推理も半端ではない。

だが、惜しいと思ったのは、本書の冒頭ですぐに明かされる殺意の説得力が今ひとつだったことだ。犯人である文彦の憎悪がどこから湧くのか、殺意の源泉が述べられているのだが、ここの説得力が少し欠けるように感じた。もっというと犯罪へと至る直接の引き金になった出来事が、如何にして殺意へと昇華されたのか、という描写がピンと来なかった。

本書を解く鍵はとあるキーワードにある。本書の半ば過ぎでそのキーワードは登場する。そのキーワードは、文彦の殺意には直接は関係しない。なので、なおさら冒頭で殺意が湧きおこる瞬間の動機を練って欲しかったと思う。惜しい。同じことは、繰り返し本書で歌詞が引用されるスティーヴィー・ワンダーの「Isn’t She Lovely」からも言える。言わずとしれた名曲である。そして、その歌詞は、おそらくは冒頭で描かれる文彦の殺意に直結している。しかし、それが先に上げたキーワードとは直結してない。ここでもう少し違う曲が採り上げられ、文彦の殺意の動機と、キーワードを橋渡すものになってくれたらと思った。つまり、文彦の殺意の理由と謎を解くキーワードが今一つ連結されておらず、唐突なのだ。

あえて言えば、その役を担っているのは、Isn’t She Lovelyではなく、本書の題名になるのではないか。この題はうまくダブルミーニングになっていると思う。文彦の殺意の唐突さが、とっぴであればあるほど、文彦の犯す犯罪が大仰であればあるほど、このタイトルがもつ意味が理解できる仕掛けだ。

その点を除けば、本書の謎の提示の仕方と推理の経緯には実に読み応えがあった。著者の他の作品をこれから読んで行かねば。

‘2015/10/9-2015/10/11


夢幻花(むげんばな)


本書を読み終えた頃、街中には映画「天空の蜂」の封切り直前のポスターが貼り出されていた。駅や映画館で見かける「テロリストによって人質となった原発」というコピーは私の目を引いた。

言うまでもなく、本書の著者は「天空の蜂」の原作である同名小説の著者でもある。私も「天空の蜂」は十数年前に読んだ。今思い返しても先進的な内容で、原発の弱点を端的に暴いた傑作といえる。その後十数年を経て図らずも起こった福島第一原発の事故により、原発の脆弱性が浮き彫りになった。それを契機に改めて天空の蜂の先見性に脚光が当たり、今回の映画化につながったのだろう。

著者はエンジニア出身として知られている。その著者が現実に起こった原発事故の後、改めて原子力に向き合い、そして突き詰めて考えた成果。それを問うた作品が本書である。

作家がミステリーを書くとき、通常は謎ありき動機ありき、で書くのではないだろうか。しかし、本書は違うアプローチで書かれたように思う。どうすれば原子力についての思索をミステリーに織り込むか。本書はまずそこから構想が起こされたのではないだろうか。そして著者は原子力についての思索に作家としての心血を注いだのではないか。本書の帯にはこのように書かれている。「こんなに時間をかけ、考えた作品は他にない」と。

上の言葉の本意は、プロットや筋、トリックを考えることを指していないように思える。そうではなく、物語の背景や底に流れる原子力への思索をいかにして本書に織り込むか、にあったのではないか。しかし原子力という現実の鬼子を物語の前面に押し出したのでは、小説としての効果が発揮できない。著者はそう判断したのだろう。だが、それは素人から見て高度な技に違いない。しかし、著者は原子力を前面に出さず、なおかつ原子力についての思索を読者に問うことに成功している。

本書の筋やプロット、トリックは無論盤石の出来である。そのままでも上質のミステリーであることに変わりない。しかし、本書でもっとも印象に残った一節はエピローグにある。そこで読者は著者の思いを知る。そして本書が「天空の蜂」とは一味違う技巧で原子力について著者が語ったことを知ることになる。

本書の主人公が原発技術者であることは本書の冒頭で紹介される。斜陽産業である原子力産業に見切りをつけようか迷う技術者として。

本書で取り上げられる事件はアサガオを中心として回る。そこに原子力は登場しない。原子力とは関係のないまま事件は解決する。では原子力についての著者の思索はどこに現れるのだろうか。それはエピローグに現れる。謎がすべて解けた後、主人公がエピローグで下す決断こそがこの物語の肝なのである。その決断こそが、著者が原子力に対して正面からぶつかり、考え抜いた結論を効果的に表現する手段に違いない。その決断については、本書の筋とは違って著者のメッセージを読み解く肝となる。なので、本書については特にエピローグから本書を読まないほうがよいだろう。なお、その結論とは私が原子力について考える立場に等しい。

私は原発の漸次廃止には賛成する。そして今の原発が将来廃れるであろうとも予想する。ただし、全ての原発を即時廃炉とすることには反対だ。それは、大体発電手段の利用による燃料費の高騰といった経済的な理由だけではない。理由は他にもある。その理由こそが本書のエピローグで書かれている内容だ。

望む望まないに関わらず、わが国は原発が稼働開始した時点ですでに後戻りできない決断を下してしまった。そしてその決断の後始末は、誰かが長い時間、それも数世代に亘って担い続けていかなければならない。そこには賛成も反対もない。否応無しに誰かがやらねばならないのだ。それこそが私が原発の即時廃炉に反対する理由である。本書で主人公が下した決断もまさにその思想を沿ったもの。そこに我が意を得た思いだ。

‘2015/8/27-2015/8/28


白銀ジャック


著者が文庫のために書き下ろしたのが本書。総じて、文庫書き下ろしとの文句には安易な印象が付きまとう。

書き散らし、書き急ぎ、大量生産。私も普段は文庫書き下ろしと謳われた書物には手を出さないのだが、著者は別である。決して寡作ではないのに、出す本出す本が優れている。このことが、著者のもっとも素晴らしい点だと思う。

果たして本書は、著者の他の作品と同じなのだろうか。そんな期待も持ちつつ、本書を手に取った。

結論からいうと、充分楽しめた。流石は著者である。

スキー場を舞台に、スキー場スタッフの視点で書かれた物語を読むのは本書が初めて。舞台装置も作品のスケール感に一役買っている。

伏線の張り方や登場人物の書き方も通りいっぺんなものではなく、工夫を凝らしたもの。スキー場ならではの仕掛けも道理にかなっている。

ただ、苦言を呈するとすれば、動機だろうか。伏線で独創的で合理的な動機が多々提示されていたのに、結末が少々拍子抜けである。

もっとも、分かりやすい動機でもあり、読後の余韻もスッキリしたものである。

敢えて言うならば、この尾を引かない手軽な読後感こそが本書のレベルに関わらず、文庫書き下ろしとなった理由かもしれない。しかし、本書は他の作家で言えば、主戦級といってもよい出来であり、却ってそのことが著者の優れていることを表している。

聞けば本書にはこれまた文庫書き下ろしの続編もあるとか。無論読んでみようと思う。

‘2014/11/2-2014/11/4


1Q84 BOOK 1


本稿を書き始める数日前、今年度のノーベル文学賞受賞者が発表された。有力候補とみなされていた村上春樹氏は、残念ながら受賞を逃した。毎年のように候補者に名が挙がる氏であるが、本人は同賞に対しそれほどの拘りはないように思える。私の思い込みであるが、今までに読んだ氏の著作からはそういった色気があまり感じられなかったためである。茫洋としてつかみどころのない、見えないもの。現実の色に塗れず、むしろそこから遠ざかり零れ落ちる。そんな世界観を抱く氏の著作からは、ノーベル賞といった世俗の栄誉は縁遠いように思えた。今までは。

本作は、今までの著者の作品とは現実との関わり方が違うように思える。より近寄っていると言っても良い。その近寄り方は、現実にすり寄り媚を売るのとは少し違う。本作のテーマを際立たせるため、あえて現実に近寄って描写した。そんな感じである。テーマを浮かび上がらせるため、背景となる現実を彫っては捨て、削っては捨てる。そうすることで、提示されるテーマはより鮮明になる。

BOOK 1<4月-6月>と名付けられた本書は、芸事にいう序破急の序にあたる。青豆なる殺し屋稼業の女性と、川奈天吾なる小説家志望の塾講師。この二人が本書全体の主人公となる。何も関わりの無いように思える二人の日常が交互に章立てされて物語は進む。序といっても退屈な状況説明が続くわけではない。のっけから読者を引きつける展開が待っている。青豆は、首都高の上でタクシーを降り、非情出口まで歩いてそこから降りていくといったような。目的地のホテルで鮮やかな手技で男の命を奪うといったような。天吾の方は、天才少女作家の応募作を改作し、添削して世に出すといったような。

二人が過ごす、彼らなりに穏やかな日常。そのような日常を転換すべく訪れた展開。そんな中、二人の考えや生い立ちが徐々に語られていく。物語の行く末に興味を持たせ続けながら序の状況説明や人物説明まできっちり行ってしまうあたり、さすがの熟練の技である
先に、本書は今までの著者の作品よりも現実に近づいた描写が目立つと書いた。しかし、近づいたといっても近づきすぎず、現実の瑣末なディテールには踏み込まない。現実の描写とは、あくまで二人の人物像を際立たせるための小道具である。青豆の殺人者としての技量は殊更に誇張しない。性欲が溜まると男をあさりに行く程度の日常。そこには現実のディテールは不要で、その少々危険な香りのする日常を追うだけで読者は次の展開が待ち遠しくなる。一方、危うい行動とは無縁に思える天吾の日常も同じである。塾講師としての日常の雑務にはあまり触れない。小説の応募や選考や出版といった祭り事からも距離を置く。天才少女作家である「ふかえり」を配し、そのエキセントリックでマイペースな行動が天吾を振り回すだけで、読者はますます目が離せなくなる。

話は天吾の代筆した「空気さなぎ」の爆発的なヒットと、仲介した編集者である小松の存在、さらには「ふかえり」の幼少期から、謎の信仰集団が登場するに至って、天吾の日常は破天荒なそれへと変わっていく。柳屋敷に住む謎の老婦人からの青豆への依頼と、柳屋敷の謎めいた執事タマルとの関わりを通し、青豆の世界も大きく動く素振りを見せる。彼女を取り巻く日常がいつの間にか別のものにすり替わり、少しずつ現実が幻想的な色を帯び始める。

ここまで読んでいて、私はテーマと思われるものが浮かび上がっていることに気付いた。それは現実からの疎外である。謎の信仰集団は、当初は現実に背を向けて自給自足を営むだけの集団だったが、急速に閉鎖的になっていく。天吾の幼少期、NHKの集金人である父に休日ごとに集金に連れまわされ、学校ではNHKというあだ名で呼ばれ疎外される。「空気さなぎ」があまりにも大ヒットし、代筆がばれないよう、喧騒から逃れるように世間から疎外された日常をふかえりと過ごす。青豆はあゆみという婦人警官と世界との疎外感を埋めるために、性の逸脱に精を出す。

謎の信仰集団の成立過程、NHK集金人、あゆみを通した婦人警官の描写。ここにきて、著者の筆は精緻を描き、詳細を語る。今までの著者の小説にはない描きっぷりである。その結果、浮かび上がってきたのが世界からの疎外感である。私などは、疎外感が本書の唯一のテーマである、と序の時点で早合点してしまったほどである。

’14/05/27-‘14/06/01


残り全部バケーション


本作は著者の連作短編集である。デビュー当時から、連作短編集に独自の世界を発揮していた著者だが、本書もまた、その系譜に連なる名作である。

著者の作品に登場する悪役は、どこか憎めない奴らが多い。それが作品に無二の味わいを効かせてくれている。本書に登場する「溝口」「岡田」の 両名もまた、憎めない二人として、ファンの記憶に残ることであろう。

全部で5作の短編で構成されている本書だが、5作ともに二人が出てくるわけではない。また時代も別であれば、語り手も別である。5作で語られる時代も順不同である。

本書は、その5編の時間、空間、視点がさまざまに交錯する中、一編の物語として絶妙に編まれている。後書きによると、もともとは独立した短編だったのを編集したのだとか。編集の妙が味わいつつ、作者の仕掛けた伏線に驚き、かつ予測するのも本書を読む歓びである。

物語の半ばまでに、「岡田」は退場する。その「岡田」を折に触れて思い出す「溝口」だが、終盤に話は急展開し、思いもよらぬ現れかたで、「岡田」が再登場する。再登場にいたるまで、本書の多彩な時空のなかで、伏線が張られる。この張り方が実にスマートで、著者の数ある名作の中でも一頭抜け出ている。

私にとっては著者の作品の中で、上位三作に入るほど、好きな一冊となった。

’14/05/21-’14/05/22


最後の注文


人生。儚く、危なっかしく、そして愛すべきもの。出会い、別れ、喜びと苦しみ。人の数だけそれぞれの生が営まれ、生き様が刻まれる。それは、死に際しても同じ。生の数だけ死が、生き様に応じた死に様がある。

有史以来書かれたあらゆる小説は、人生を描く芸術であり、表現といっても言い過ぎでない。あらゆる作家によって、あらゆる登場人物の人生が記され、描き出されてきた。

本書もまた、その系譜に連なる一書である。

本書の登場人物は主に五人である。生者が四人、死者が一人。死者が遺言として残した、自分が死んだら遺灰をマーゲイトの海に撒いてくれ、という願い。この願いを叶えるために集まった三人の親友と血のつながらない息子の四人の旅路。端役も含めた七人の語り手によって紡がれる、人生の物語が本書の粗筋である。

もっとも、本書の要約だけ書くと、いかにも使い古された構成である。小説や映画で似たような構成の話は、掃いて捨てるほどある。

本書は英国の著名な文学賞であるブッカー賞を受賞した作品である。本書は何故ブッカー賞を獲得できたのか。単なる旅行譚ではそこまでの評価など与えられはしない。本書が本書である所以は何か。それは、人生の追体験である。

死者の願いを叶える旅の中で、それぞれの登場人物は、それぞれの生を生き直す。死者が生前に手配した導きに引かれるようにして。三人の老い先短い人生を精算する時期に、死者の分身ともいうべき息子が、父の遺志を遂行すべく、三人の人生が浄化されていく。楽しかったことも後ろめたいこともひっくるめて。その過程が、実に入念に練られた本書の語りや構成によって、われわれ読者の前に提示される。そして読者は本書を読みながら、読者自身の人生も思い起こすことになる。

数奇な人生でなくてもよい、人の生の営みとは単調に見えても、ドラマに満ちている。平穏の積み重ねであるようでも、波乱に翻弄された歴史である。本書の登場人物たちの一生がまさにそうである。英雄譚はなくとも、人生とは積み重ねた年の数だけ挿話に満ちているもの。今がつらくても、過去が面白くなくても、未来に希望が持てなくても、精算の時期になれば皆平等なのが人生。生きてきた全てが儚く、危なっかしく、そして愛すべきものとなる。

自分の人生の回顧録を書いてみたくなるような、そんな小説が本書である。

’14/05/07-’14/05/16


時計じかけのオレンジ


本書は今さら言うまでもなく、スタンリー・キューブリック監督による同名映画の原作である。念のために書いておくと、本書は映画のノベライズ小説ではない。小説が先にあり、それに後追いして映画が作成された。

なぜこんなことをわざわざ書くか。それは私が本書を読むのが初めてだからである。しかも、かなり以前に映画版を見終えている。

有名な映画の多くは、母体となった小説を基にしている。中には小説版の存在を知られぬまま、映画だけが独り歩きするケースがある。本書もまたその一つといえるだろう。

私にとっての本書もそのような存在であった。ならば原作も読まねばなるまいと、本書の存在は長く心に沈殿していた。そんな中、昨年読んだのが、三上延「ビブリア古書堂の事件手帖」である。その中で本書は取り上げられていた。その中で幻となった21章についての言及があり、映画版も長年流通していた版も21章については削除されていたことを知る。そんな経緯があって改めて手に取ってみたのが本書である。

映画では印象的なフレーズとして「デボチカ」「ホラーショー」「マレンキー」といった言葉(ナッドサット語)が使われている。私はうかつにもそれらの言葉がロシア語に起因することに気づいていなかった。しかし、本書を読めばそれらはスラヴ語から派生した言葉であること理解できる。なぜなら冒頭で作者自身が解説を補っているから。

小説と映画の理想的な関係でよくいわれることがある。視聴覚イメージは映画が得意で、内なる思考や状況説明は小説に利があると。

本書と本書の映画版の関係もそれに似ている。上述のナッドサット語についての解説もその好例である。字面で読んでいくと頻出するナッドサット語がスラヴ語であることに容易に気が付くが、映画だと勘が良くないと気が付かないかもしれない。(私だけかもしれないが)。いささか論文的で回りくどい解説であるが、あることで小説世界の理解は進む。

状況説明についても同じことがいえる。舞台が全体主義国家であることは映画版でもわかるのだが、あからさまにソビエト連邦による支配下にあるイギリス、といった構図は本書を読むことで理解が及ぶ。また主人公のアレックスの内面描写も本書に一日の長があるといえる。映画版だと暴力嗜好や性的欲求、第九への愛着などの内面の理由が曖昧なままで、ただ粗暴な人間としてのアレックスしか見えない。

しかし映画には映画でしか出せない点がある。本書を読む事で、キューブリック監督の翻案の素晴らしさに改めて思い至った。アレックスの感情の推移は主演のマルコム・マクダウェルが演技からある程度推理できる。とはいえ、「雨に唄えば」を口ずさみながら暴力に及ぶといった臨場感は映画ならではのものがある。これは映画化にあたっての脚色とのことだが、本書にない説得力がある。さらに、本書ではセリフ回しにナッドサット語が頻繁に混ざるためかなりまどろこしい。映画版ではそのあたりがうまく映像と絡めて処理されている。また、物語後半でアレックスはかつて暴力を加えた相手に遭遇する。被害者は徐々にかつての加害者が目の前にいることに気付く。絶好の復讐の機会である。本作でも盛り上がる部分である。しかし、その状況描写は本書では原文または訳文に問題があるのか、不自然極まりない文章が続き、興ざめする。それは本書が主人公の一人称による語りであり、主人公の視点からかつての被害者を語る描写になるためやむを得ないのかもしれない。が本書の映画版ではそのあたりの描写が役者の演技力で補われている。本書の影が薄くなりつつあるとすれば、そのあたりの記述の稚拙さに原因がありそうだ。

本書も映画版も上に書いたように21章が削除された版である。21章は実験から醒めた主人公が無頼な生活を繰り広げる。が、ある日かつての仲間と会うことで、改心し、かつての暴力衝動を若さ故、として回顧するという筋書きらしい。21章が作者の意図に反して削除されたとすれば、本書は不完全であり、21章の内容を含めた上で改めて読みたいものである。聞けば最近、21章が復活した形で復刊されたとか。暴力や怒れる若者、全体主義など、東西冷戦最盛期に書かれた本書。そのような時代であれ、アレックスがどのような形で自らの若かりし頃を総括したのか、作者の見解を読んでみたいものである。

’14/04/07-’14/04/08


つぎの岩につづく


単に科学技術の粋を描いたり、宇宙や別の星の住人を物珍しく描くこと。これだけがSFではない。それは以前にも書いたように思う。異世界や異文明を描くことで、人類自身を描こうとする営み、これもSFの大切な役割ではないかと思っている。

本書は題名からも想像できる通り、シリアスなハードSFではない。16編の短編からなる本書は、むしろ軽妙ですらある。その中の数編はSFというジャンルではなく、一つの短編として世に問えるだけの内容となっている。人間存在を違う視点から描くという点において。

むしろ、SFという固定観念で読んでかかるよりも、優れた短編集として読んだ方が良い気がする。SF的な設定を借りてはいるものの、示唆に富んだ内容はすぐれた短編集を読む喜びを充分に与えてくれる。

視点を変えて自分自身を、人類自身を眺めたとき、どんなに滑稽なものか。自分に悩んだ時、行き詰った時。視点を変えることでそれらの悩みが取るに足りないものだったということはままあることである。本書はそういう視点変換のトレーニングによいかもしれない。

’14/3/12-’14/3/15


銀の砂


実は著者の事はほとんど知らずに本書を手に取った。著者の作風やジャンル、年齢や性別すらも。

かつての流行作家・豪徳寺ふじ子の元で秘書をしていた珠美という女性が主人公である。次々と浮名を流すふじ子の気まぐれに付き合う有能さが却って仇となり、ふじ子の魔性に絡め取られていく。ふじ子に役者の恋人を寝取られ、それを機に独立し、かねてからの目標である作家としてデビュー。という背景で本書は始まる。

ふじ子を廻る人間関係が丁寧に描かれており、登場人物はよく書けている。ただ、メロドラマ的な前半4分の1の描写に少々ダレた感を抱いた。

しかし、続く章では、舞台は一転する。ふじ子が作家としてデビューするまで、地方都市で姑にいびられた過去。なにがふじ子を変えたのか。さらには珠美がふじ子に出会った経緯に章はシフトする。ふじ子の不思議な魅惑に嵌っていく珠美。二つの章に共通するのは、ふじ子も珠美も奇矯のところのない普通の女性であること。著者の女性作家ということを読了後に知ったのだが、それが納得できる女性の描写が見事である。

それでもなお、ここまで読んでいて、この作品が何を目ざしていくのか、正直予測が付かない。大方の小説には目指す結末が前半で提示される。それは犯行や動機といったミステリーの要素であり、何かを成し遂げようとする主人公の意思であり、既知の歴史軸に対する読者の知識である。

本書はこの点が非常に曖昧に書かれており、そのために前半4分の1を読み進めるのに手が止まりがちとなる。

しかし、実は最初の部分でもふじ子の交流関係の描写の中で、何度か触れられているのである。その事件に。しかし読者はそれに気付かない。少なくとも私にはそうであった。実はそれが著者の仕掛けた効果だったのかもしれない。

本書は後半の4分の3に入り、それまでのゆるやかな流れから急に速度を上げる。その急激な速度アップには読者はついていくのが精いっぱいかもしれない。あるいは戸惑い、あるいは茫然として。しかし、本書の読後感にかなりのインパクトを与えているのは確か。

冒頭にも書いた通り、著者の事を知らずに読んだのだが、この読後感によって、他の作品にも手を伸ばしてみたくなった。

’14/2/21-’14/2/27



著者の作品を読むのは初めてである。だが、粗筋に興味を惹かれ読み始めてみた。街の口コミ(Word Of Mouth)から引き起こされる殺人。しかも被害者は口コミを仕掛けた化粧品会社の製品を使った女子高生。口コミと女子高生という組み合わせにアイデアのひらめきを感じる。

本書の上梓は2001年とある。私にとっては子供をもち、雑事に仕事に追われていた頃である。当時20代とはいえ、私にとって女子高生とは接点がなかった。これを読んだ今、さらに無縁さは増している。とはいえ、女子高生予備軍の娘を持つ身としては、身近な文化となってきたのかもしれない。そういう興味からも、本書で描かれた文化は興味深いものであった。

本書の中では、口コミ文化やそれらの企業の広告・マーケティング戦略の技が色々と散りばめられているのも興味深い。本書の執筆にあたって、著者の調査の跡が表れている。

また、口コミ文化に対応する刑事の世界が描かれているのも本書の彩りを多彩にしている。主人公としてコンビを組むのが、女子高生の娘を持つ父子家庭の中年の所轄刑事と、シングルマザーである若い容貌の本庁の刑事である。二人の刑事が捜査を行う中で謎に迫り、心を通わせていく点が印象的である。

警察小説は、推理小説の一ジャンルとして最近目覚ましい脚光を浴びているが、本書もその嚆矢として評価されても良いと思う。

’14/2/8-’14/2/15