Articles tagged with: 家族

海賊と呼ばれた男(下)


下巻では、苦難の数々を乗り切った國岡商店の飛躍の様が描かれる。大体、こういった伝記ものが面白いのは創業、成長時につきものの苦難であり、功成り名遂げた後は、起伏に欠けることが多く、自然と著者の筆も駆け足になってしまうものだ。上巻では敗戦によって一気に海外資産を失ったピンチがあった。そのピンチを國岡商店はラジオ修理の仕事を請け負ったり、海軍が遺した石油廃油をタンクの底から浚って燃料確保したりと、懸命に働いて社員の首を切ることなく乗り切った。

果たして、安定期に入り苦難の時期を過ぎた國岡商店の姿は読むに値するのだろうか。そんな心配は本書に限っては無用。面白いのだ、これが。

なぜ面白いかというと、本書では日章丸事件が取り上げられているからだ。國岡商店、つまり出光興産が世界を驚かせた事件。それが日章丸事件。むしろ、この事件こそが、著者に本書を書かせた理由ではないかと思う。 日本の一企業が石油メジャーに堂々とけんかを売り、英海軍も手玉にとって、イランから石油を持ち帰ったのだから。

日章丸事件を一文で書くとすればこうなる。日本から派遣された一隻のタンカーがイランから買い取った石油を日本に持ち帰った。それだけなのだ。だが、その背景には複雑な背景がある。まず、産油国でありながら石油利権を英国に牛耳られていたイラン国民の思いを忘れるわけにはいかない。長年の鬱屈が石油国有化法案の可決と石油の国有化宣言へとつながった。宣言を実行に移し、国内の全油田をイラン国営にした。それはイランにとってはよいが、英国石油メジャーにとっては死活問題となることは必然だ。石油メジャーの背後には、第二次大戦後、国力衰退の著しい英国の意向が働いていることはもちろん。イランの石油国有化は英国が世界中に石油不買の圧力を掛ける事態に発展した。 つまり、國岡商店が喧嘩を売ったのは、世界でも指折りの資源強国、そして海軍国家の英国なのだ。

本書ではそのあたりの背景やイランとの交渉の様子、その他、準備の進捗が細かく描かれる。いよいよの出航では、船を見送る國岡鐵三の姿が描き出される。日章丸に自社と日本のこれからを託す鐵三は、日章丸に何かあった場合、会社だけでなく自分の人生も終わることを覚悟している。まさに命を懸けたイラン派遣だったわけだ。そんな鐵三が日章丸を託したのは新田船長。海の男の気概を持つ新田船長が、海洋国家日本の誇りを掲げ、冷静かつ大胆な操艦でイランまで行き、石油を積んで帰ってくる。その姿は、8年前の敗戦の悔しさの一部を晴らすに足りる。かつて石油が足りず戦争に惨敗した日本が、英国を相手に石油で煮え湯を飲ませるのだから。しかも今回はイランを救う大義名分もある。日本は戦争に負けたが、経済で世界の強国に上りつめていく。その象徴的な事件こそが、日章丸事件ではないだろうか。

残念なことに、日章丸事件から数年後、モサデク政権は米英の倒閣工作によって瓦解し、イランの石油を國岡商店が独占輸入することはできなくなった。でも、それによって國岡商店は敗戦以来の危機を脱する。日章丸事件以降の國岡商店の社史は、さまざまなできごとで彩られていく。そこには栄光と困難、成功と挫折があった。自社で製油所を構えることは國岡商店の悲願だったが、10カ月という短期で製油所を竣工させたこと。製油所の沖合にシーバースを建設したこと。第二、第三の日章丸を建造したこと。宗像海運の船舶事故で犠牲者が出たこと。石油の価格統制に反対し、石油連盟を脱退したこと。「五十年は長い時間であるが、私自身は自分の五十年を一言で言いあらわせる。すなわち、誘惑に迷わず、妥協を排し、人間尊重の信念を貫きとおした五十年であった。と」(291ページ)。これの言葉は創業五十年の式典における店主の言葉だ。

店主としても経営者としても、見事な生涯だったと思う。私にはおよびもつかない境地だ。だが、やはり家庭面では完全とは行かなかった。とくに、先妻ユキとの間に子供ができず、ユキから離縁を申し出る形で離縁する部分は、複雑な気分にさせられる。また、本書には家庭のぬくもりを思わせる描写も少ない。國岡鐵三や、モデルとなった出光佐三の家庭のことは分からない。だが、長男を立派な後継者としたことは、家族に対しても、きちんと目を配っていたことの表れなのだろう。

ただ、それを置いても、本書には女性の登場する余地が極めて少ない。本書には男女差別を思わせる表現はないし、ユキが鐵三と別れる場面でも双方の視点を尊重した書きかたになっている。だが、女性が登場することが少ないのも確かだ。ユキ以外に登場する女性は、右翼に絡まれた受付嬢ぐらいではないか。しかも鐵三が右翼を 気迫で 追っ払うエピソードの登場人物として。ただ、本書に女性が出てこないのも、本書の性格や時代背景からすると仕方ないと思える。

女性があまり登場しないとはいえ、本書からは人間を尊重する精神が感じられる。それは國岡鐵三、いや、出光佐三の信念ともいえる。一代の英傑でありながら、彼の人間を尊重する精神は気高い。その高みは20代の私には理想に映ったし、40台となった今でも目標であり続けている。

ただ、佐三の掲げた理想も、佐三亡き後、薄らいでいるような気がしてならない。佐三の最晩年に起きた廃油海上投棄や、公害対応の不備などがそうだ。本書に登場しないそれらの事件は、佐三が作り上げた企業があまりに大きくなりすぎ、制御しきれなくなったためだろう。しかも今、佐三が一生の間戦い続けた外資の手が出光興産に伸びている。最近話題となった昭和シェル石油との合併問題は、佐三の理念が浸食されかけていることの象徴ともいえる。出光一族が合併に反対しているというが、本書を読めばそのことに賛同したくなる。

日本が世界に誇る企業の一社として、これからも出光興産には理想の火を消さずに守り続けて欲しいと思う。海賊と呼ばれたのも、既定概念を打ち破った義賊としての意味が込められていたはずだから。

‘2016/10/09-2016/10/09


造花の蜜〈下〉


下巻である本書では、視点ががらっと変わる。

上巻では圭太君の母香奈子や橋場警部に焦点が当たっていた。しかし、本書では犯人側の内幕が書かれる。その内幕劇の中で、実行犯とされる人物は逃亡を続ける。何から逃亡しているのか。そしてどこに向かっているのか。やがてその人物は逮捕され、取調べを受けることになる。本書は、実行犯であるその人物の視点で展開する。そして、視点は一瞬にして転換することになる。読者にとって驚きの瞬間だ。

実行犯の背後には黒幕がいる。その人物は狡知を張り巡らせ、正体をつかませない。実行犯の視点で描かれているとはいえ、それはいってみれば遣いッ走りの視点でしかない。黒幕は一体誰なのか。いや、これからこの物語はどこへ行こうとするのか。読者は本書の行く末が読めなくなる。

圭太君の誘拐劇の背後に家庭事情が絡んでいることは上巻のあちこちで触れられていた。本書ではそれらの事情も種明かししながら、実は圭太君の誘拐劇の裏側には違う犯罪が進んでいたことが明らかとなる。複雑な構成と胸のすくような転換の仕込み方はお見事という他はない。そう来たかという驚きは優れた推理小説を読む者にのみ与えられる特権だ。

そして、この時点で黒幕である人物はまだ捜査の網の外にいる。事件はまだ終わっていない。

ここで、本書は2回目となる視点の転換を迎える。圭太君の誘拐劇の舞台となった小金井や渋谷ではなく、今度の場所は仙台。圭太君誘拐劇から1年後のこと。ここに圭太君誘拐劇に関わった人物は誰一人現れない。たまたま仙台に来ていた橋場警部を除いては。人物の入れ替わりの激しさは、もはや別の物語と思えてしまうほどだ。本書はここで大きく二つに割れる。

第三部ともいえる仙台の事件をどう捉えるか。それは本書への評価そのものにも影響を与えると思う。私自身、仙台の話は蛇足ではないかと思ってみたり、黒幕の知能の高さを思い知る章として思い直してみたり。第三部については正直なところいまだに評価を定めきれずにいる。

誤解しないでもらいたいが、第三部も完成度は高いのだ。そして一部と二部で打たれた壮大な布石があってこその第三部ということも分かる。しかし第一部と第二部だけでもすでに作品としては完成していることも事実だ。それなのに第三部が加えられていることに戸惑いを感じてしまう。実は本書の最大の謎とは第三部が加えられた意味にあるのではないかとまで思う。読者を戸惑わせる意図があって曖昧に終わらせたのならまだ分かる。しかしそうではない。第二部が終わった時点で読者は一定の達成感を感ずるはずだ。

読者は本書を読み終えて釈然としないものを感じることだろう。そしてその違和感ゆえに、本書の余韻は長く続くこととなる。

第三部のうやむやを探ろうと著者自身に聞きたいところだが、それはもはや叶わない。残念なことに著者は亡くなってしまったからだ。どこかで著者が本書の第三部について語った内容が収められていればよいが、その文章にめぐり合える可能性は低い。あるいは著者は、死してなおミステリ作家であり続けたかったのかもしれない。自らの作品それ自体をミステリとして存在させようとして。あるいは、著者の他の作品に謎を解く鍵が潜んでいないとも限らない。私自身。著者の読んでいない作品はまだたくさんある。それらを読みながら、第三部の謎を考えてみたいと思う。

‘2015/11/21-2015/11/22


造花の蜜〈上〉


本書のレビューを書くのはとても難しい。

推理小説であるため、ネタばらしができないのはもちろんだ。でも、それ以上に本書の構成はとても複雑なのだ。小説のレビューを書くにあたっては最低限の粗筋を書き、レビューを読んでくださる方にも理解が及ぶようにしたいと思っている。しかし、本書は粗筋を書くのがはばかられるほど複雑なのだ。そして粗筋を書くことで、これから読まれる方の興を削いでしまいかねない。

本書下巻ではテレビドラマ脚本家の岡田氏による解説が付されている。岡田氏も本書の解説にはとても苦労されている様子が伺える。そして、私も本稿には難儀した。本書はレビュアー泣かせの一冊だと思う。

でも、本書はとても面白い。そして構成が凝っている。ミステリーの系譜では誘拐ものといえばそうそうたる名作たちが出揃っている。本書はその中にあっても引けをとらないほど面白い仕掛けが施されている。子供を間に置くことで、視点の逆転をうまく使っているのが印象的だ。

上巻である本書では、圭太君の母香奈子と橋場警部に焦点を当てつつ話は展開する。圭太君があわや連れ去られそうになるが、実は誘拐未遂であり、しかも実行犯が父親というのがミソだ。そしてその体験を語るのが幼い圭太君であることが、混乱を誘う。圭太君の言葉は無垢な言葉であり、その言葉には作為は混じらない。だからこそ大人は惑わされるのだ。冒頭の誘拐未遂の挿話で読者ははやくも著者の仕掛けた謎に惑わされてゆく。

はたして一カ月後、圭太君は再度誘拐される。犯人の知略にもてあそばれる警察側。著者によって小道具が効果的に出し入れさえ、巧妙に視点と語りが混ぜ込まれる。著者の幻惑の筆は冴え渡る。なるほど、こういう誘拐の手口もあるのか、と読めば驚くこと間違いなし。造花の蜜という題名のとおり、本書では金という甘い蜜を巡って虚虚実実の駆け引きが繰り広げられる。ここでいう蜜とは、金の暗喩であることは言うまでもない。そして蜜は金としてだけでなく、小道具としても印象的に登場する。蜜に群がる蜂を多く引き連れて。

鮮やかな誘拐劇の中、ほんろうされ続ける橋場警部。

上巻は、犯人への対抗心に燃える橋場警部の姿で幕を閉じる。これが下巻への布石となっていることはもちろんだ。

‘2015/11/20-2015/11/21


るり姉


本書の帯の裏表紙は、書店の実際の売場ポップをそのまま使っているらしい(梅原潤一氏・有隣堂 横浜駅西口 )。そしてそのポップが実によいのだ。帯にしたくなるのも分かるぐらいに。ポップ一つに私の云うべきことが凝縮されているといってもよい。このレビューは不要なぐらいに。ポップはこちらからも確認できる。

しかし、それだけでは寂しいので、蛇足かもしれないが私もレビューを書いてみる。

本書で書かれているのは2つの家族の日常。気取りやキザとは無縁の日常。気負いもなければ使命感もなく、ただただ日々が過ぎてゆくような毎日。ただ毎日を過ごしている、といった表現がぴったりの家族。イベントといってもイチゴ狩りに行くのが精々で、バイトや仕事に精を出す日々。そんな家族は、シングルマザーの母けい子と、高校生のさつき、中学生のみやこ、小学生のみのりの母娘四人からなっている。そしてけい子の妹にあたるのがるり姉。

生活感も疲労感もなく、ひょうひょうと生きるるり姉の存在。本書は、三人の娘達から見たるり姉への親しみと愛情が満ちている。それが本書のテーマになっている。題名になるぐらいだから、るり姉もさぞかし主役としてあちこちに出ているかと思えばそうでもない。

本書は五章からなっているが、るり姉からの視点で語られる箇所は本書のどこにもない。
第一章 さつき-夏
第二章 けい子-その春
第三章 みやこ-去年の冬
第四章 開人-去年の秋
第五章 みのり-四年後 春

第一章から第五章まで、るり姉以外の家族がそれぞれの視点で、2家族とその日常を綴っている。高校生のさつきから見た二家族の日常。続いて母けい子から自分の家族と妹るり子の家族の日常。さらに遡って、中学生みやこから見たるり姉。そしてさらに遡り、るり姉に一目ぼれして結婚した開人とるり子のなれそめや結婚と新婚旅行もどきの旅。このように、第一章を起点に時間が遡ってゆく。なぜこのような構成にしたかというと、第一章でいきなり2家族にとってつらい現実が起こる為である。著者はるり姉以外の人々の視点から、つらい現実をまず読者に突き付ける。それから、あらためて他の家族の視点もからめて、つらい現実に襲われる前の平和な日常を遡って描いていく。

るり姉をめぐる家族の視点で紡がれるこの物語の中で、魅力ある人物として書かれるのはるり姉。その天真爛漫な魅力が沢山描かれる。その自然で気取らない魅力は、知らず知らずのうちに人を惹きつける。各章で語られる2家族それぞれの視点からは、るり姉への愛情や好意がよくにじみ出ている。るり姉の視点だけを物語から締め出しながらも、他の人々からの視点だけで、るり姉の魅力を浮かび上がらせ、るり姉を本書の主人公とする。そのような難しい技に著者はまんまと成功している。

第五章のみのりによる四年後の物語は、実際に読んでみて頂ければと思う。第一章で予告されたつらい現実が、四年後にどのようになっているか。そこに向けて、著者はそれぞれの視点から、時間を遡らせる構成を駆使して、読者を引きつけて離さない。特別なイベントやアクシデントに頼らずに、語り口だけでここまで読者を引きつける技は、絶妙としかいいようがない。

下世話に陥らず、それでいて完全に等身大の親しみやすい登場人物達を造形したこともあわせ、著者の筆力はたいしたものだと思う。

私は著者を本書で初めて読んだ。それまでは名前すら知らなかった。おそらくは世の中の大多数の読者もそうではないかと思う。そして、それゆえに、帯となったポップが真価を発揮する。出版社の営業的な売りコピーは紋切調で好きになれない。そもそもあまり読まない。だが、この帯は読者と直に接する書店員の声であり、書店員の商売っ気もありつつ読んでほしいという想いが伝わってくる。

今はネット販売が主流になり書店が次々と潰れつつある。書店の生き残り策としてリアル読者の獲得が叫ばれている。各地の書店では工夫されたポップによる販促策の実例をしばしば目にする。ポップが出版社によって帯として採用された本書のような事例は、書店業界にとっては一つのエポックとなったのではないだろうか。

‘2015/6/25-2015/6/27


最後の注文


人生。儚く、危なっかしく、そして愛すべきもの。出会い、別れ、喜びと苦しみ。人の数だけそれぞれの生が営まれ、生き様が刻まれる。それは、死に際しても同じ。生の数だけ死が、生き様に応じた死に様がある。

有史以来書かれたあらゆる小説は、人生を描く芸術であり、表現といっても言い過ぎでない。あらゆる作家によって、あらゆる登場人物の人生が記され、描き出されてきた。

本書もまた、その系譜に連なる一書である。

本書の登場人物は主に五人である。生者が四人、死者が一人。死者が遺言として残した、自分が死んだら遺灰をマーゲイトの海に撒いてくれ、という願い。この願いを叶えるために集まった三人の親友と血のつながらない息子の四人の旅路。端役も含めた七人の語り手によって紡がれる、人生の物語が本書の粗筋である。

もっとも、本書の要約だけ書くと、いかにも使い古された構成である。小説や映画で似たような構成の話は、掃いて捨てるほどある。

本書は英国の著名な文学賞であるブッカー賞を受賞した作品である。本書は何故ブッカー賞を獲得できたのか。単なる旅行譚ではそこまでの評価など与えられはしない。本書が本書である所以は何か。それは、人生の追体験である。

死者の願いを叶える旅の中で、それぞれの登場人物は、それぞれの生を生き直す。死者が生前に手配した導きに引かれるようにして。三人の老い先短い人生を精算する時期に、死者の分身ともいうべき息子が、父の遺志を遂行すべく、三人の人生が浄化されていく。楽しかったことも後ろめたいこともひっくるめて。その過程が、実に入念に練られた本書の語りや構成によって、われわれ読者の前に提示される。そして読者は本書を読みながら、読者自身の人生も思い起こすことになる。

数奇な人生でなくてもよい、人の生の営みとは単調に見えても、ドラマに満ちている。平穏の積み重ねであるようでも、波乱に翻弄された歴史である。本書の登場人物たちの一生がまさにそうである。英雄譚はなくとも、人生とは積み重ねた年の数だけ挿話に満ちているもの。今がつらくても、過去が面白くなくても、未来に希望が持てなくても、精算の時期になれば皆平等なのが人生。生きてきた全てが儚く、危なっかしく、そして愛すべきものとなる。

自分の人生の回顧録を書いてみたくなるような、そんな小説が本書である。

’14/05/07-’14/05/16


日本の親子二百年


年頭に立てた目標として、家族のあり方について考えてみようと思った。

仕事にかまけ、家族との時間が減っているこの二年であるが、果たして、そのあり方は家庭人として正しいのか。周知の通り、日本人は諸外国に比べ、働き過ぎと言われている。だが、それはどういう根拠によるものか。また、それは戦後の高度経済成長期故の一過性のものなのか、それとも日本古来文化として息づいてきたものなのか。そもそも、日本人にとって家庭とはどのような位置づけなのだろうか。

本書は明治以降の日本人が、どのように家庭の関わり合いを持って来たかを、当時の文化人による随筆、小説、論文、座談会の文章や、当時の新聞や雑誌の投稿欄に掲載された市井の人々の文章を広く紹介することで、家族に対する日本人の考え方の変化を読み取ろうとするものである。

著者による研究成果を文章で書き連ねるのも一つのやり方である。が、本書ではあえて当時の市井の人々の生の声を取り上げる。世相や空気といった微妙なニュアンスは、今に生きる著者による文章よりも、当時を生きた人々による文章にこそ宿る。その点からも、投書欄に目を付けたのは、著者の慧眼であり、本書の特筆すべき点である。日本人の家庭に対する考え方の変遷を追うには適していると思う。

本書で分析するのは明治の文明開化が始まった時期から、平成の現代まで。これは、新聞や雑誌というメディアが興ったのが明治からであるため、市井の人々の声を伝える場がなかったという理由もあろう。個人的には、明治維新を境として、日本人の文化の伝承にかなりの断絶があるように思う。そのため、江戸時代の日本人が持つ家族に対する考え方にも興味がある。機会があれば調べてみたいと思う。

なお、本書の冒頭の章では、明治期に日本を訪れた外国人の、日本の子育てに対する賞賛の声が多数紹介されている。交友範囲から考えると、サンプルに偏りがあるかもしれないが、西洋に比べると日本の子育ては実に行き届いているという。つまり、西洋でも近代的な家族の出現は18世紀になってからであり、それまでは早めに子供を徒弟として外に出してしまう慣習がまかり通っていたという事もある。当時の西洋の母親はあまり子供に関心を抱かなかったのだとか。ルソーの「エミール」を生み出した西洋にあって、この状態であるから、日本の家族についての思想が劣っている訳ではないというのが本書の姿勢である。

ただし、明治から大正に移るにつれ、当初の儒教的な、国学的な要素から、徐々に西洋の家族をモデルとして取り上げるべきではないか、との意見が多数紹介されるようになっている。そのころには、日本が文明開化以降、教育の面で西洋に比べて遅れているという理解が一般にも広がっていたということであろう。

大正デモクラシーから、昭和の暗い世相、軍国調に染まった世の中、と家族の考え方の変遷がこれほどにも移り変わっていることに興味を持つとともに、核家族化、情報化が進展した今では考えられないような意見の対立も紙上で繰り広げられた様など、生き生きとした家族への意見の揺らぎが非常に興味深い。

終戦から、高度成長期、そして現代まで。本書の分析は時代の流れに沿う。それにつれ、日本人の家庭に対する考え方も移り変わる。姑が優位な大家族から、嫁の優位な核家族へ。家族の為に汗水たらす偉いお父さんから、仕事に疲れ家族内での居場所もなくすパパへ。姑にいびられる嫁から、自己実現の機会を家庭以外に求める女性へ。文明開化から200年を経たに過ぎないのに、これほどまでに変遷を重ねてきたのが日本の家族である。

本書の主旨は親子関係を200年に亘って分析することである。しかし、親子関係だけでなく、教育や社会論など、本書を読んで得られる知見は大きい。

私自身としても、家庭を顧みず仕事に没頭せざるを得ない今の自分の現状を非とする考えは、本書を読んだ後でも変わらない。ただ、その考えすらも社会の動きや文化の動きに影響されていることを理解できたのは大きい。おそらくはそれぞれの親子が社会の中でどのように生きていくべきなのかは、個々の親子が関係を持ちながら実践していくほかはないということであろう。

本書の中ではモーレツ社員と仕事至上主義が子供へ与える影響という観点では論じられていない。ただ、非行や親離れ出来ない子供、子離れ出来ない親などの理由が述べられる中、本書で指摘されているのが、今の父親が自信を失っているということである。おそらくは家族との関係や実践など持てないほどの仕事の中、家族の中での存在感を薄れさせてきたということなのであろう。

これは今の日本が自信を失っていることにもつながる部分であり、家庭という視点から、今後の日本を占う上でも本書は有用ではないかと考える。

私自身もどうやって自分の仕事に誇りを持ち、陰口やねたみと無縁の自分を確立するか。それが成ったとき、子供たちとの関係も盤石なものに出来る気がする。

’14/03/15-’14/03/27


あなたが子どもだったころ―こころの原風景


氏の本は20代中ごろによく読んだ。心理学という学問に興味がわいたそのころ、色んな心理学の本を読んでいたけれど、一番読んだのは河合氏の本だったように思う。対談の名手として氏の対談集も色々と読んだけれど、仕事が忙しくなるにつれ、氏の本からも心理学の本からも遠ざかってしまった。亡くなられたのも2年ほどして初めてしったほど、疎遠になってしまっていた。

ところが私の娘たちはすくすく育っていく一方で、少しずつ人との距離感の取り方に試行錯誤する時期に差し掛かってきていて、私にも色んな悩み事をぶつけてくるようになりつつある。そんなとき、以前購入したまま積ん読になってしまっていたこの本を手にとってみた次第。

当代一流の各分野の著名人との対談形式で、皆さんの主に子供時代のことを語ってもらうという趣向で、河合氏と比較的同年代の方々から話を伺っていくスタイル。皆さんそれぞれに人間関係の距離に試行錯誤をくりかえし、もまれて削られて、その切磋琢磨によって今の名声があることが河合氏の絶妙の話によって引き出されていく。

干渉しないようにしようしようと思いつつも、子供からみると干渉してくる鬱陶しい親になりつつある自分に改めて自戒。私の場合は本読め本読めと娘たちにせっつくことを自覚しているだけに、本だけは読め読めというまい、と肝に銘じた。

もっともこの本を読み終えた2日後に次女がもっと分厚い本が読みたいと言いだしたことに喜び勇んでしまう自分がいたわけだけど。

’11/11/16-’11/11/18


終の住処


サラリーマン作家の芥川賞受賞として話題になったこの本。

読後の印象は、その前に読んだ「ガラパゴス化する日本」の余韻が残っていたためか、非常に寒々としたものだった。

有能で真面目なサラリーマンが、外見では華やかに昇進していく一方、内側では怪異現象に遭遇したり、妻と11年も話をしなかったりと、波乱に満ちているにも関わらず、それは公的な場での彼の評価にはまったく影響を与えない。

アメリカへ乗り込んで重要な商談を片付けた後に残っていたのは、ろくろく登場しなかった娘の親離れ。そして待っているのは心が通ったとはとてもいえない妻との今後の生活。

日本という国家の戦後史が一人の男性に凝縮されたように感じたのは私だけだろうか。そしてこれからの日本は・・・・?活気をなくした老人だちだけが旧来のものを守りつつ余生を過すものになってしまうのか?

この本ではそのような問題提起がなされているように読んでしまった。

’11/11/10-’11/11/11