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日本史の内幕


著者のお顔はここ数年、テレビでよくお見かけする。
テレビを見ない私でも見かけるくらいだから、結構よく出ているのだろう。
そこで著者は歴史の専門家として登場している。

著者の役割は、テレビの視聴者に対して歴史を解説することだろう。だが、ディスプレイの向こうの著者は、役割をこなすだけの存在にとどまらず、歴史が大好きな自分自身を存分に楽しんでいるように見える。著者自身が少年のように目を輝かせ、歴史の面白さを夢中で話す姿には親しみすら覚える。

本書は、筋金入りの歴史愛好家であり、歴史をなりわいにしている著者による歴史の面白さをエッセイのように語る一冊だ。

歴史のうんちく本と言えば、歴史上の謎や、思わぬ歴史のつながりを解きほぐす本が多い。それらの本に比べると、本書は該博な著者の知識を反映してか、独特の視点が目立つ。

著者はフィールドプレーヤーなのだろう。書斎の中から歴史を語るのではなく、街に出て歴史を語る。古本屋からの出物の連絡に嬉々として買いに出たり、街角の古本屋で見かけた古文書に胸をときめかせたり、旧家からの鑑定依頼に歴史のロマンを感じたり。
古文書が読める著者に対する依頼は多く、それが時間の積み重ねによって埋もれた史実に新たな光を当てる。

著者は、あまり専門色を打ち出していないように思える。例えば古代史、平安時代、戦国時代、江戸時代など、多くの歴史学者は専門とする時代を持っている。だが、著者からはあまりそのような印象を受けない。
きっと著者はあらゆる時代に対して関心を持っているのだろう。持ちすぎるあり、専門分野を絞れないのか、あえて絞らない姿勢を貫いているように思える。

私も実はその点にとても共感を覚える。私も何かに嗜好を絞るのは好きではない。
歴史だけでなく、あらゆることに興味を持ってしまう私。であるが故に、私は研究者に適していない。二人の祖父がともに学者であるにもかかわらず。
本書から感じる著者の姿勢は、分野を絞ることの苦手な私と同じような匂いを感じる。

そのため、一般の読者は本書から散漫な印象を受けるかもしれない。
もちろん、それだと書物として商売になりにくい。そのため、本書もある程度は章立てにしてある。第二章は「家康の出世街道」として徳川家康の事績に関することが書かれている。第三章では「戦国女性の素顔」と題し、井伊直虎やその他の著名な戦国時代に生きた女性たちを取り上げている。第四章では「この国を支える文化の話」であり、第五章は「幕末維新の裏側」と題されている。

このように、各章にはある程度まとまったテーマが集められている。
だが、本書の全体を見ると、取り上げられている時代こそ戦国時代以降が中心とはいえ、テーマはばらけており、それが散漫な印象となっている。おそらく著者や編集者はこれでもなんとかギリギリに収めたのだろう。本来の著者の興味範囲はもっと広いはずだ。

そうなると本書の意図はどこにあるのだろうか。
まず言えるのは、なるべく広い範囲、そして多様なテーマに即した歴史の話題を取り上げることで、歴史の裏側の面白さや奥深さを紹介することにあるはずだ。つまり、著者がテレビ番組に出ている目的と本書の編集方針はほぼ一致している。

本書を読んでもう一点気づいたのは、著者のアンテナの感度だ。
街の古書店で見かけた資料から即座にその価値を見いだし、自らの興味と研究テーマにつなげる。それには、古文書を読む能力が欠かせない。
一般の人々は古文書を眺めてもそこに何が書かれているか分からず、その価値を見逃してしまう。だが、著者はそこに書かれた内容と該博な歴史上の知識を結び付け、その文書に記された内容の真贋を見通す。
著者は若い頃から古文書に興味を持ち、努力の末に古文書を読む能力を身に付けたそうだ。そのことがまえがきに書かれている。

私も歴史は好きだ。だが、私は古文書を読めない。著者のような知識もない。そのため、著者と同じものを見たとしても、見逃していることは多いはずだ。
この古文書を読み解く能力。これは歴史家としてはおそらく必須の能力であろう。また、そこが学者と市井の歴史好きの違いなのだろう。

これは私がいる情報処理業界に例えると、ソースコードが読めれば大体その内容がわかることにも等しい。また、データベースの定義ファイルを読めば、データベースが何の情報やプロセスに役立つのか、大体の推測がつくことにも通じる。それが私の仕事上で身に付けた能力である。
著者の場合は古文書がそれにあたる。古文書を読めるかどうかが、趣味と仕事を大きく分ける分岐点になっている気がする。

上に挙げた本書に書かれているメッセージとは、
・歴史の奥深さや面白さを紹介すること。
・古文書を読むことで歴史が一層面白くなること。
その他にもう一つ大きな意図がある。
それは、単なる趣味と仕事として歴史を取り扱う境目だ。その境目こそ、古文書を読めるかどうか、ではないだろうか。

趣味で歴史を取り扱うのはもちろん結構なことだ。とてもロマンがあるし面白い。

一方、仕事として歴史を取り扱う場合は、必ず原典に当たらなければならない。原典とはすなわち古文書を読む事である。古文書を読まずに二次資料から歴史を解釈し、歴史を語ることの危うさ。まえがきでも著者はそのことをほのめかしている。

そう考えると、一見親しみやすく、興味をそそるように描かれている本書には、著者の警句がちりばめられていることに気づく。
私もここ数年、できることなら古文書を読めるようになりたいと思っている。だが、なかなか仕事が忙しく踏み切れない。
引退する日が来たら、古文書の読み方を学び、単なる趣味の段階から、もう一段階上に進んでみたいと思う。

2020/10/10-2020/10/10


本の未来はどうなるか 新しい記憶技術の時代へ


本書が発刊されたのは2000年。ようやくインターネットが社会に認知され始めた頃だ。SNSも黎明期を迎えたばかりで、GAFAMがまだAMでしかなかった頃の話。
ITが日常に不可欠なものになるとは、ごく一部の人しか思っていなかった時代だ。

本書を読んだのは2019年。本書が書かれてから20年近くがたった時期だ。本書を読んでいる今、ITが社会にとって欠かせない存在になっている事は言うまでもない。
情報デトックスという言葉もあるぐらいだ。もしデトックスを行いたい場合、山籠りか無人島で生活するしか手はない。それほど世の中に情報があふれている。
一方で情報があふれすぎているため、情報の発信地だったはずの本屋が次々と潰れている。そして、新刊書籍の発刊も減りつつある。
本を読むには電子書籍を使うことが主流となり、授業はオンラインかタブレットを使うことが当たり前になってきた。

著者はそんな未来を2000年の当時に予測する。そして本という媒体について、本質から考え直そうとする。
それはすなわち、人類の情報処理のあり方に思いをはせる作業でもある。
なので、著者の考察は書籍の本質を考えるところから始まる。書籍が誕生したいきさつと、本来の書籍が備えていた素朴な機能について。
そこから著者はコンピューターの処理と情報処理の本質についての考察を行い、本の将来の姿や、感覚と知覚にデジタルが及ぼす効果まで検討を進める。

本書の記述は広範囲に及び、そのためか少しだけ散漫になっている。
本書の前半は、グーテンベルクによる印刷技術の発明に多くの紙数が割かれている。活版によって同じ内容を刷る技術が発明されたことによって、本が持つ機能は、情報の伝達から消費へと変わっていった。
というのも、グーテンベルクが書物を大量も発行する道を開くまでは、書物とは限られた一部の特権階級の間で伝わるものであり、一般の庶民が本に触れる事はなかったからだ。

それまでの情報とは、人々の五感を通して伝えられるものでしかなかった。わずかに、パピルスや木簡、粘土板、石版に刻まれるメモ程度に使われる情報にすぎなかった。書簡も大量に生み出せないため、人と人の間を行きかう程度で、世にその情報が拡散することはなかった。
その時代、情報とは、人のすぐそばにあるものだった。
情報を欲する人の近くに情報が集まり、人々の脳や感覚に寄り添う。
情報を受ける人間と発信する人間がほぼ一対一の時代。だから、情報が影響を及ぼす範囲とは個人の行動範囲にほぼ等しかった。

ところが、グーテンベルクが発明した活版印刷技術は、発信した本人から空間、時間、時代を超えて情報が独り歩きする道を作った。個人の行動範囲を超えて情報が発信できるようになったこと。それこそがそれまでの情報媒体とは圧倒的に違う点だ。
そして、独り歩きするようになったことで、それまでの一対一でやり取りされた書簡が、一対多で広がっていった。

それによって、当時の人々は知識を大量に取り込むことが可能になった。
当時の有名な書物の印刷部数は、実は現代の一般的な書物の部数と比べて遜色がなく、むしろ多かったという。人々が競って書物を求めたからだろう。
今の私たちの感覚では、現代の書籍の出版部数の方が当時よりも多いと思ってしまう。だが、そうではなかったのだ。これは本書を読んで知った驚きだ。
要するに、今のベストセラーを除いたおびただしい数の書物は、お互いの出版部数を共食いしているのだ。

それはつまり、出版部数には一定の上限があることを意味している。出版業界が好況を呈していた三十年ほど前の状況こそが幻想にすぎなかったのだ。
情報技術が書籍を衰退させたのではなく、もともと書籍の出版部数には限界があった。このことは本書の指摘の中でも特筆すべき点だと思う。

さまざまな本が無数に発行される事は、情報の氾濫に等しい。しかもその氾濫は、真に情報を求める人が必要な時に必要な情報を得られない事態にもつながる。
すでに20世紀中頃、そうした情報の氾濫や埋没を予測していた人物がいる。アメリカの原子力開発で著名なヴァニーヴァー・ブッシュだ。
ブッシュは適切な情報処理の機器としてメメックスを考案した。本書にはメメックスの仕組みが詳細に紹介されている。そのアイディアの多くは、現代のスマホやタブレットPCが実現している。インターネットもブッシュのアイデアの流れを汲んでいる。

情報処理とは、つまりインプットの在り方でもある。この文章を私は今、iPadに対し声で入力している。それと同じアイデアを、当時のブッシュはヴォコーダという概念ですでに挙げていた。まさに先見の明を持った人物だったのだろう。

他にも、ウェブカメラやハイパーリンクの仕組みさえもプッシュの頭の中にアイデアとしてあったようだ。
通説ではインターネットやハイパーリンクのアイディアは、1960年代に生まれたという。ところが、本書によればブッシュはさらに遡ること10数年前にそうしたアイデアを温めていたという。

続いて著者は、ハイパーリンクについて語っていく。
そもそも本とは、ページを最初から最後のページまでを順に読み進めるのがセオリーだ。私自身も、そうした読み方しか出来ない。
だが、ハイパーリンクだと分の途中からリンクによって別のページと情報を参照することができる。Wikipediaがいい例だ。
そうした読み方の場合、順番の概念は不要になる。そこに、情報の考え方の転換が起きると著者はいう。つまり、パラダイムシフトだ。
もっとも私の知る限りだと、アルゼンチンの作家フリオ・コルタサルの『石蹴り遊び』は、各章を順番を問わず行き来するタイプの小説だったと思う。ちょうど、後にはやったゲームブックのように。
その形態がなぜ主流にならなかったのかは考える必要がありそうだ。

情報を断片に分け、その一部だけを得るという考えが、書籍のあり方に一石を投じる。そのような著者の主張にはうなずけるだけの説得力がある。
本を一冊まるまる読む必要もないし、本を最初から順に読む必要もない。
その考えを突き詰めると、本を買うには必要な部分だけでよい、という考えにもつながる。
それは、今の本の流通のあり方そのものに対して変革を促す、と著者は予測する。事実、今はその変革が起こっている最中だろう。まずはWikipediaによって。おそらく著者の分析と予測はあながち間違っていないと思う。

また本書では、タイムマシン・コンピューティングと言う考え方を紹介する。
それは、同じ場所に対して時間による動画や画像の記録を行うことにより、同じ場所にいながら時代を自在に行き来できる概念だ。
私が知る限り、このアイデアは現実の生活では広まっていないと思う。実際の生活で活用できるシーンがないからだろう。
おそらくそうした概念が真に世の中に受け入れられるとすれば、VRが普及した時だろう。だが、今のVRはまだ人間の五感を完全に再現できず、脳内の認識とも調和しきれていないと思っている。私も既に経験済みなだけに。

本書は、監視カメラやオーウェルが描いた監視社会についても触れている。また、別のページでは電子ペーパーや電子書籍の考えを説明し、今後はどのようなハードウエアがそうした情報機器を実現するかという論点でも考察を重ねる。
ところが、電子ペーパー自体は現代でもまだ広まっているとはいえない。それは、電子ペーパーのコストが問題になるからだ。
そもそもアプリやウェブページの技術が進んだ今、電子ペーパーがなくとも、端末1つで次々とページを切り替えられる。
だから、電子ペーパーの意味はないという著者の指摘は的を射ていると思う。
デジタル・サイネージは最近街角でもよく見るようになってきた。だが、そうした媒体も、よく見るとスマホやタブレットの延長に過ぎない。電子ペーパーである意味はあまりないのだ。
電子ペーパーを代替するデバイスは、Kindleやkoboやスマホやタブレットが実現したため、電子ペーパーという考え方はまだ時期尚早なのだろう。
その事を本書は20年近くも前に唱えていた。

本書は、感覚そのものをデジタルに変えられないかという取り組みも紹介している。
そして、そうした先進的な取り組みの成果を私たちは、生活の中で目にしている。ウエアラブル・コンピューターについても本書は紹介を怠っていない。感覚もデジタルとして受発信できる機器が、今後はますます登場することだろう。

本書の後半は、本そのものよりも情報を扱うメディアの考察に費やされている。
おそらく今後、本が情報処理や娯楽の主役に返り咲く事はほぼないだろう。それどころか、紙で書かれた本自体、図書館でしかお目にかかれなくなるに違いない。
ただ、情報を保存する媒体は何かしら残るはずだ。それがタブレットなのかスマホなのか、それとも人体のアタッチメントとして取り付けられる記憶媒体なのか。私にはわからない。

だが、情報媒体は、人の記憶そのものを保管する媒体として、近い将来、さらに革新的な変化を遂げることだろう。そして、私たちを驚かせてくれるに違いない。

20年前に出された本書であるが、鋭い視点は今もまだ古びていない。

‘2019/7/10-2019/7/21


地方消滅 東京一極集中が招く人口急減


わが国をめぐる問題を挙げろ、と問われて答えをいくつ思い浮かべられるだろうか。私はすぐに十以上は用意できると思う。
では、その問題の中ですぐに解決策が見いだしやすく、しかも今のわが国に悪い影響を及ぼしている問題を一つ挙げろと言われればどうだろう。
その場合、私は東京への一極集中を挙げる。

本書にも書かれている通り、都心への一極集中は地方から人を一掃し、消滅の危機に追いやっている。
そして、都心の機能は3.11の時に如実に現れたとおり、飽和の極みにある。このまま問題を放置しておけば悪い事態に陥るのは確実。
だが、一極集中への解決策は他の問題(国防、少子化、移民、地震、感染症、温暖化、宇宙からの災厄、人工知能、遺伝子)に比べるとまだ対策のしようがあると思う。少子化をのぞいた他の問題は日本だけでは難しいが、一極集中は国内でどうにかできる問題だからだ。

本書は、このまま手をこまねいていると896の都市が亡くなると危機感をはっきり表明している。そして、それに対してさまざまな打つ手を提示している。
元岩手県知事で総務大臣も務めた著者が提示する現状認識と処方箋は明確だ。白い表紙がおなじみの中公新書で、赤一色の本書の装丁は目立つ。内容もあいまって本書はベストセラーになったという。

だが、こうした危機が迫っているにもかかわらず、国が一極集中へ本腰を入れて対応しているとはとても思えない。それどころかマスコミもこの問題については口を閉ざしているように思える。
おそらく出版・マスコミ業界がもっとも一極集中の恩恵を受け、また、促進してきた当人だからだろう。

だが、新聞離れ、テレビ離れが叫ばれている今、もう既存のビジネスモデルに未来はないと思う。
インターネットは情報の価値を拡散し、都市でも都会でも情報が等しく受け取れるようにしてしまった。
今や、情報に関しては都会の優位性はなくなっている。あえて言うなら、ネットワーク越しよりも対面で会った時のほうが受け取れる情報は多いぐらいだろうか。

なぜ人は都会に出てきてしまうのか。
その理由は、従来から言われていた仕事があるかどうか、に尽きるのではないか。
戦前や戦後、農村から出稼ぎと称して多勢の人々が都会へと出てきた。それが戦後の高度経済成長につながった。そうした成功の体験を今も引きずっているのが日本ではないだろうか。
ネットワークがない時代、情報は都会が独占していた。都会にはチャンスがあり、金が流れていた。だから人々は集まってきた。都会だと仕事につける。地方にはないやりがいが都会にはある。そうした幻想がわが国をいまだに縛っている。

かつての私もそうだった。
兵庫の西宮に住んでいた私は、私が求めていた編集者には大阪ではなれないと思い、東京に出てきた。
もちろん、理由はそれだけではない。
当時、付き合っていた今の妻が東京に住んでいて、しかも歯科大学の病院に勤務していたため、動けなかったという理由もある。

私の場合、東京に出た理由はそれだけだ。東京に対する憧れはなかった。
家から自転車を漕いで1時間で大阪の梅田に行けた。そもそもファッションやビジネスに興味がなかった。
もし妻が仙台に住んでいて、私が望む仕事があれば仙台にだって向かっていたかもしれない。

そういう過去をもっている私だから、今の若者が地方から都会へと向かう理由も分かる。
当時の私と同じような動機だろうと察する。漠然とした都会に対する憧れで東京に出てきて、そして消耗してゆくのだろう。
その理由や幻滅はよくわかる。なので、私は今の若者たちを非難しようとは思わない。
それどころか、そうした若者に対して地方に仕事先が就職先が用意されていれば、都会に来なくてもよいのではないか、と提案したい。

今や、私が上京した頃と違い、ネットワークが日本の全土を覆っている。
仮に地方から都会に出てきたとしても、仕事が終わればスマホとにらめっこしているのであれば、都会に住む意味はないはずだ。稼げる仕事の有り無しの違いにすぎないので。

そして今、職種にもよるが、地方で仕事は可能だ。
私の仕事は情報系だが、ネット会議で大抵のことはケリがつく。仕事の発注から受注、納品までを一度も顧客と会わずに済ませたことも何度もある。

本稿をアップする二週間前には奈良の下北山村に行き、二泊三日でワーケーション体験をした。
コワーキングスペース「Shimokitayama Biyori」のWi-Fi環境が良かったのか、AWSのオンラインカンファレンスに参加し、東京で行われた顧客との会議にもオンラインで参加できた。

また、この体験で、田舎の暮らしはお金がかからないことも知った。そもそもお金を使う場所がないのだ。
都会には刺激的なものが多すぎる。そして、その刺激が仮にネット上のコンテンツで満たせるのであれば、地方でもそれは享受できる。

個人の性格にもよるが、私の場合、二週間に一度、東京や大阪に出られればそれで十分。それであれば地方でも働けるし暮らしていけるめどはついた。

だが、その体験をもってしても、本書の内容を読むにつけ危機感が募る。
本書には今後の人口予測と消滅可能性のある896の市町村のリストも付されている。
そこには当然、下北山村も含まれている。しかもこのリストによれば2010年の下北山村の人口は1000人を超えているが、先日訪れた時点ではWikipediaの情報では800人を割っていた。
日中でもほとんど車が通らない下北山村のメインストリートを思い出すにつけ、「消滅」の二文字が切実に迫ってくる。

本書では国による国家戦略の必要も記されている。
だが、今の国会ではモリ・カケ問題や桜を見る会やその他の大臣の失言の糾弾にばかり時間が空費されている。
そのような足をすくわれるようなことをしでかす与党にも失望させられるし、そうした問題をあげつらうばかりの野党にも期待が持てない。
党利党略や利益誘導より、国家の大計に取り組み、足元をしっかり固めて喫緊の課題に注力してほしいと思う。
マスコミももっともっとこの問題には発言してほしい。旅情を誘う番組もいいが、一極集中の問題の危機感を報道しないと何が報道機関か、と思う。

少子化の問題も本書は一章を割いて取り上げている。そして、都会の生きにくさが子作りの妨げになっていることは確実だ。
保育園落ちた日本死ね!!! のブログが反響を巻き起こしたことは記憶に新しい。これもまた、都会の生きづらさの顕著な例だと思う。
子育てをしながら働ける環境を。企業においてもそうした対策が求められていることは自明のことだ。
もし自社の利益を追求するモチベーションを自社の百年後の存続にあると考えているならば、少子化を甘く見るとそもそも会社のサービスの売り先が消え去っていますよ、と忠告したい。

本書にはさまざまな処方箋が載っている。それらの一つ一つはもっとも。
だが、実際に効果を上げうるかどうかはやってみてはじめて分かる点が多い。
だから二の足を踏むのではなく、今のうちに取り組まなねば間に合わないのだ。
本書には各地に人口流出のダムとなる地を作る対策を挙げている。
たとえば下北山村を例に挙げると、村の若者が外に出るのを防ぐのは難しいかもしれない。だが、その流出先が東京ではなく、熊野市や尾鷲市であれば下北山村にはすぐ戻れる。
そうしたダムになりうる都市を各地に育てていくべき、という提言には賛成だ。
ある程度の経済規模さえ確保してもらえれば、都会の人が地方で転職する際にもハードルは少ない。

本書では、そうしたモデルケースとして北海道を取り上げている。
今、日本で最も過疎化が進んだ地域と言えば北海道だろう。
私もあの原野の雰囲気は好きだが、それが将来の日本全土の景色と言われれば、言葉を失ってしまう。
北海道の中でも札幌だけがダムになりうるのではなく、函館、帯広、旭川、釧路といった都市をダムとして、それ以上の流出を食い止める。本書にはその事例が詳しく載っている。

それでは地域がどのようにして雇用を創出していけばよいか。
この課題は当然、考えられなければならない。今までにも議論は出し尽くされてきている。
本書には地域が活きる6モデルとして、産業誘致型、ベッドタウン型、学園都市型、コンパクトシティ型、公共財主導型、産業開発型が挙げられている。
どれもが可能性があるモデルだと思うが、地域によってどれを選ぶかは、地域の特性にもよるだろう。

本書は最後に増田氏と識者による三つの対談が載っている。
最初は藻谷浩介氏との対談。藻谷氏はかつて私もブログで取り上げた『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』の編者でもある。(a href=”https://www.akvabit.jp/%E9%87%8C%E5%B1%B1%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%8C%E6%B8%88%E3%81%AF%E3%80%8C%E5%AE%89%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86%E3%80%8D%E3%81%A7%E5%8B%95%E3%81%8F/” target=”_blank”>レビュー)
二人の結論もやはり今のままでは地方ばかりか日本も破綻するというもの。
さらにお二人は提言として東京に本社を置く必要の意味を問うている。アメリカではニューヨークに本社を置く企業は四分の一だが、日本の場合、七割が東京にあるという。

二つ目の対談は、小泉進次郎氏、須田善明氏と行っている。
小泉氏は政治家として著名だが、須田氏は宮城県女川町の町長であり、東日本大震災で被害にあった町の復興を担当している。
本稿をアップする今、小泉氏の株はかなり下がってしまった。だが、小泉氏が一極集中を問題として認識していることはこの対談でも述べられている。そして今も持ってくれているはずだと期待している。
結局、一極集中の解消を国家戦略として策定し、それを確実に遂行していかなければこの問題は解決しないと思う。
その戦略とは東京オリンピックや大阪万博ではない。地方を主役にしたイベントを誘致するといったことでもない。
たとえば、本社の機能を六大都市以外の都市に移した企業に対しては税務上の優遇措置を与えるとかの策でもあるし、いつの間にか誰も言及しなくなった遷都の問題を真剣に議論することでもある。

三つ目の対談は、慶応義塾大教授の樋口美雄氏と行っている。
6モデルに即した地方の生き残り策を提言しているが、それらを推進するためのリーダーの存在が指摘されている。
まったくその通りだと思う。本当であれば、地方から選出されたはずの国会議員が担うべきことだが、国政や党政を優先させることに汲々としている。

本書を読んで思うのは、考えるよりも実行の必要性だ。
もちろんそれは私や弊社にも当てはまる。
東京に登記し、東京に住んでいる私。働き方を変えることで朝夕の通勤ラッシュを一人分だけ解消させることができた。
ここ数年、地方でも講演する機会も増えてきた。ワーケーション体験に参加し、地方で働き、暮らす可能性も確信できた。
働き方改革を掲げるサイボウズ社のkintoneを担ぐことで、地方の方とのご縁は増えてきた。
そうした実践ができる立場にある弊社と私。だが、それが実体ある生活として地方に還元できているとはとてもいえない。
下北山村へ伺う契機となった紀伊半島はたらくくらすプロジェクトはカヤックLivingさんをはじめとした複数の企業が共同している。そうした取り組みがすでになされている今、私も弊社に協力できることはあるはず。

これから私や弊社に何ができるのか。これからも動いていかねばなるまい。

‘2018/11/13-2018/11/16