本書の表題作は芥川賞にノミネートされたそうだ。
私は著者のことは知らなかったが、本書のタイトルに興味を持ち、手に取った。

本書には三編が収められている。
三編のどれも、着想が面白く、なおかつ使われている文章が巧みなことに惹かれる。

私がラテンアメリカ文学を好むこと。それは今までに何度かこのブログで書いた。
時間や空間を意図的に混在させ、物語の筋を混線させる手法。そうした実験と挑戦の精神にあふれた内容は、小説とはかくあるべき、といったセオリーを痛快に蹴飛ばす。
それら小説のリズムや展開の狂った内容は、予定調和なリズムや展開に飽き足らない私に刺激を与えてくれる。

本書もまた、時間と空間を意図して混線させている。
ただし、その混線のさせ方は分かりやすい。
ラテンアメリカ文学の著名な作品を読むと、読み手が付いていくのが精一杯になる時がある。だが、本書は時間と空間の混線する境目がくっきりとしており、読者もやすやすと付いていけるはずだ。

冒頭に収められた「2とZ」は、その区切りが分かりやすく、読みやすい一編だ。
第二次大戦中のスペイン、冷戦の真っ只中のハンガリー、バブルに浮かれる東京の渋谷、そして最近の東京の某所。この四つの時間と空間が話の中で展開として交わる事は決してない。
だが、それぞれの物語は区切りとなる一文を境に自在に切り替わる。
一つの文のなかで出来事の主体が切り替わり、対象の属する時間と空間が入れ替わる。

その鮮やかな切り替わりは読者にとって分かりやすい。そして入れ替わりが鮮やかなため、それは読者にある種の爽快感を与えるはずだ。なぜなら。時間と空間が切り替わった瞬間が、文章の中で鮮やかに認識できるから。
その爽快感はどこからやってくるのだろう。少しだけ考えてみた。
それは、文章から映像が想起しやすいため、文章を読む思考の動きと映像がシンクロするからではないかと思う。そのシンクロが新鮮さをもたらすのではないだろうか。

映像の手法とは、場面の切り替わり(トランジション)のことだ。
さまざまな映像作品をみてみるといい。多様な手法を駆使して場面の転換を行っている。
例えば場面の切り替えがあったとする。その時、前後の二つの場面を共通するイメージで繋ぐことによって、時間も場所も異なる二つの場面が切れ目を感じさせずに転換される。

本編の表題作である「2とZ」は、まさにそうした手法が見て取れる。
二つの場面をつなぐオブジェクトのフォルムは似通っている。だが、それが属する時間も空間も、次元すらも異なっている。
本編はその場面を転換させる手法を多用することによって、異なる時間と空間の物語を自在に動き回っている。
異なる時間と空間が読者の脳内でつながり、変容を遂げる時、読者の認識に刺激が与えられる。その変容とはメタモルフォーゼ。つまり変態だ。
鳥の糞に見えた物体が実は蝶の幼虫の擬態であり、それもやがて葉の色と同化し、そして成長して蝶となる。
私たちの周りには、普段そうした現象が起きているのに。なのに、私たちの認識は時間と空間を小分けにしたがる。だが、本編のように時間と空間の区切りが継ぎ目もなくつなげられる時、私たちの認識は刺激を受ける。その刺激こそが新鮮さの正体ではないか。

続いての「パレード」は、主体が次々と入れ替わる物語だ。
ある日、何の前触れもなしに兵士に占拠された町。人々は理由もわからず連れ出され、理由も知らされずに殺される。そして、他人が殺される様を目撃し、自分の殺される瞬間を体験する。
目撃し、殺されてゆく主体の意志は次々と切り替わりる。そこで主体となる意思は不条理な展開に翻弄され、命を散らしてゆく。

本編は、主体の違いを超越しようとした試みだと思われる。
思い、考える自分。それはあくまでも自分の思惟の枠に閉じ込められている。
その枠を飛び越えるには、他者の思惟に突入するしかない。
その試みの一つとして本編があるのではないだろうか。

兵士が言うセリフ「私たちはおまえたちだ」は、すなわち、認識する主体とは、本来はあやふやな枠組みを超えて存在する。このセリフはそのことを端的に示しているように思える。
生まれてから育つ間に植え付けらえた認識の型や枠組み。それらは私たちの認識を閉じ込めている。

本編は、結末に差し掛かると急に兵士に襲撃される前の日々に戻る。
それは本編の物語がループしていることを示す。と同時に、あらゆる未来などしょせんは何が起こるかわからない不確かなものだ、という著者から読者への大胆な挑発でもある。

最後の表題作「MとΣ」もまた、「2とZ」のように読者の認識を軽々と飛び越える様が描かれる。

会社の先輩の死に直面する内村。そして先輩が残した日記には、内村が過去に遭遇した出来事が描かれている。
発売当日に並んで買ったドラクエをかつ上げされそうになった思い出。そして内村からドラクエを取り上げようとした連中の一人が若い頃の先輩だった事実。
そこに、マイク・タイソンがまさかのノック・アウトされた試合と、南アフリカで27年間投獄されていたネルソン・マンデラの出獄が無関係な断片として描かれる。

本編を読んで思ったのが、カール・ユングの提唱した「シンクロニシティ」の概念だ。
その概念はバタフライ効果のような分かりやすい連鎖ではない。
それは時空を超越した因果の関係を仮定した深い概念だ。共時性とも訳される。

本編に描かれた出来事には、ある一つの共通点がある。それは1990年2月11日。
その日に地球の各地で、全く関係のない出来事が無数に起こり、そして行われた。
それらの出来事がお互いに因果を重ねているはずはない。だが、同じ日付という一点において、それらの出来事は集約される。
著者はその日付という共通項に着目し、誰にも因果を立証できず、本来は同立で語るべきではない出来事を一編の物語として読者に提示する。

かつて人間は神を信じていた。そして今、科学技術がそれに置き換わった。
科学技術が進歩するにつれ、何か見えない超越者の意志が人々の無意識に現れはじめているように思える。
それは決して怪しげでスピリチュアルな存在ではない。ただ、今の科学では解明の不可能な事象となって現れる。
その意志が何か。それがわかることは近未来の将来にはないだろう。
だが、誰もが漠然と持っている畏れと疑問をシンクロニシティとして取り上げたのが本編だと思う。

‘2019/01/28-2019/01/29


カテゴリ: 読ん読く.
最終更新日: 3月 24, 2020

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