VOICARION ⅩⅦ 〜スプーンの盾〜


私が舞台を見るのは約一年ぶりだ。昨年の冬、大阪の上本町で「VOICARION ⅩⅥ 大阪声歌舞伎 拾弐人目の服部半蔵」を観て以来。
つまり、この一年間、VOICARION以外の舞台は全くみていなかった。メディアでも我が家でも某劇団に関する話題が飛び交っていたにもかかわらず。

昨年見た舞台のサブタイトルは「プレミア音楽朗読劇」となっていた。さらには「大阪声歌舞伎」とも。
本作も同じく朗読劇のはずだが、昨年のようなサブタイトルはつけられていなかった。

確かに、本作の演奏陣はグランドピアノやチェロ、バイオリン、フルート、パーカッションと西洋風で統一されている。
さらに、本作の登場人物にはナポレオンとタレーランがいる。つまりフランスが舞台だ。
そのため、「声歌舞伎」のサブタイトルはそぐわない。

本作の主人公は世界史上でも有名なナポレオンとタレーランの二人ではない。
本作の主人公はアントナン・カレーム。
私は実は本作を見るまでこの人物のことは全く知らなかった。フランス料理の歴史を語る上では筆頭に挙げられるほど有名な料理人だそうだ。
また一つ、自分の無知を思い知らされてしまった。

主人公が料理人であるため、舞台の設えは厨房をモチーフにデザインされている。
観客から見た舞台の構造は、上から三段に分かれている。一番上には鍋やレードルが吊り下げられ、厨房のような雰囲気を醸し出している。
そして、その下の中段には演奏陣が並んでいる。最も下、つまり観客から見ると少し上の目線に位置するのが朗読陣だ。

朗読陣には4名が並んでいる。観客から舞台をみて左から右にかけて、マリー役の井上喜久子さん、カレーム役の朴璐美さん、ナポレオン役の大塚明夫さん、タレーラン役の緒方恵美さんが並んでいる。

4人は朗読劇の間中、その場から動かない。出番がくればスポットライトに立ち、出番が終われば暗がりに座る。
出番の時は台本を手に朗読を行う。全員が声優を本職としているため、朗読の技はさすがだ。昨年の舞台でも同じことを思ったが、朗読がこれほど芸に昇華することを本作でもあらためて感じた。

昨年の舞台では同じ声優さんが別々の配役を担当していた。それが舞台上に不思議な効果を生んでいた。
その一方で、本作は一人一役に固定されている。緒方さんが演じるのはタレーランのみ。
そのかわり、各日の午前と午後の部によって担当する声優さんが変わる。タレーランだけでなく、マリーもナポレオンもカレームも。
東京では41公演が予定されているが、おそらくそのすべての公演ごとに配役のパターンが変わっているはずだ。

一公演の間は一人一役だが、別の日をみるとまったくちがう組み合わせで演じられる。
私が見た公演では、それぞれが完璧に役にはまっていたように思った。が、別の日はナポレオンを女性が演ずることもあるようだ。
でも、それぞれが男性も女性も演じ分けられるのだから、そうした区分けは不要だろう。本作でも男性のタレーランを女性の緒方さんが演じていたのだし。
それが観客にとって新たな発見をもたらす。
まさに朗読劇だからこそできるやり方だと感じた。

そして演奏陣も素晴らしかった。ピアノとバンドマスターを兼ねて見事に舞台を占めてくださった斎藤龍さん、ヴァイオリンのレイ・イワズミさん、チェロの堀沙也香さん、フルートの久保順さん、そしてパーカッションの山下由紀子さん。

フランスの激動の動きを具体的に説明するのが朗読陣のセリフだとしたら、演奏陣の皆さんは当時のフランスの空気を音楽に奏でていた。

また、本作も脚本が素晴らしいと感じた。
本作には、演奏陣による音楽、銃声が派手に音を立て、スモークが流れる演出もある。
ただし、朗読劇という性格上、俳優が動きで観客の目を惹くことができない。
つまり、脚本が演目の出来を大きく左右する。

本作はその肝心の脚本がお見事だと思う。
随所に印象的なセリフが語られ、それが私たちを当時のフランスの激動へと連れて行ってくれる。

また、脚本がお見事だと感じたのは、全編に通じるテーマが深いことだ。
そのテーマとは戦争と平和。
ロシアの文豪トルストイが著した大河小説のタイトルと同じだが、奇しくもこの小説が取り扱う時期も本作と同じナポレオン時代だ。

ナポレオンといえば、世界史上でも傑物としられている。一代でコルシカの貧しい出から皇帝へと上り詰め、人類史上でも有数の出世頭として名を残した。
だが、その生涯は戦いに次ぐ戦いであり、平和とは対極のイメージを持つ。

本作のユニークな点は、戦争を体現するナポレオンに対し、平和のひと時の象徴ともいえる料理を配置したことだ。料理人とはすなわち平和を作る人。
フランス料理を創始したとされるアントナン・カレームが体現する平和と、ナポレオンの嵐のような戦いの一生を組み合わせたところに本作の妙味がある。
戦争と平和を料理という観点から解釈しなおし、それを当代きっての偉大な人物になぞらえた点こそ、原作と脚本と演出をやり遂げた藤沢さんの卓見だと思う。

果たして戦いと料理は両立するのか。
本作では、最初は反発し合った二人が心を通い合わせていく様子が描かれる。それと同時に、同志だったはずのタレーランとナポレオンの間に隙間風が吹き始める。ナポレオンは皇帝という立場に縛られ、いつしか自由の心を失っていく。その一方で、戦争に傾倒するナポレオンの心中は、平和な体現者であるカレームと心を通わせ始める。
人を否応なく変えていく権力の恐ろしさと、権力に引きずられる人の心の弱さ。それが、戦争と平和という対立するテーマに集約されていくところに引き込まれた。

料理と戦争は、一糸乱れぬ統制を求める点で共通しており、対立するテーマではなく、むしろ近しい関係にある。
また、それぞれの人生には思い出となる食べ物がある。そこに人の哲学や信条が込められる(本作では硬いパンの上にある人生として二人の共通点が語られる)。
ということは、戦争と平和も互いに相いれぬ概念ではなく、ともに人の営みの上にある概念なのだ。

だからこそ、タレーランがウイーン会議でフランスは救われたと話す後に語る「世界は同じ晩餐会に参加している」というセリフが説得力を持つ。
戦争も平和もしょせんは人の織りなす社会の一側面に過ぎない、と。

今の世界情勢が私たちに突きつける世相を鑑みるに、本作の提示するテーマは考えさせられる。
ウクライナとロシアのいつ終わるともしれない戦い。イスラエルとパレスチナの長年にわたる争い。
戦争が愚かなことは事実だが、なぜいつになっても戦争は終わらないのか。
わが国では遠くの国の出来事として、私も含めて他人事に感じている。そして、おいしい酒や料理に舌鼓をうっている。

この矛盾こそが今のこの星の現実であり、私たち人間の永遠に克服できない業なのかもしれない。

本作もまた、機会があればもう一度観たいと思える作品だ。

‘2023/12/17 19:00開場 シアタークリエ
https://www.tohostage.com/voicarion/2023spoon/index.html


VOICARION ⅩⅥ 大阪声歌舞伎 拾弐人目の服部半蔵


実は私が舞台を見るのは約三年四カ月ぶりだ。二〇一九年の夏以来。
私が舞台から遠ざかったのは、コロナが世の中を席巻したことが理由ではない。
私が舞台を見なくなった大きな理由は宝塚歌劇団にある。その理由は今までブログで度々書いてきたのでここでは省く。

実は大阪上本町の新歌舞伎座で夜のVOICARIONを観劇したこの日、私は本来、日中に東京の高円寺で長女と別の舞台を見ている予定だった。それがいろいろな事情によって、大阪の上本町で、しかも劇場についてから当日券を購入し、本作を観劇する流れになった。その事情はくだくだしくなるので割愛するが、家族で仲間割れしたわけではない事は書いておく。

その経緯によって、事前に席を購入していた妻とは別の席で観劇することになった。しかも、劇場に着くまでの私は観るつもりもなかった。したがって予備知識はほぼ皆無の状態で客席に座った。ところが、これが期待以上によい舞台だった。

プレミア音楽朗読劇と銘打たれた本作。幕が開く前、客席に響くのはひぐらしの鳴き声。ひぐらしが別のひぐらしの鳴き声を引き継ぎ、途切れずにひぐらしが鳴き続けている。

朗読する七人の俳優は、劇の最初から最後まで割り当てられた場を動かずに演じ切る。自分の場がくれば色付きのスポットライトが当たり、ずっと起立して朗読する。場が終わればライトは消え、闇の中に溶けて椅子に座る。
俳優が朗読の間、手に持つのは台本だ。演劇のスタイルとしては少々奇異に感じるこの姿。思い出すのは声優がアテレコで演じるスタジオの風景だ。
それもそのはずで、七人の俳優たちは声優として名を成した方々。
妻のひいきは緒方恵美さん。本作においては、沖田総司を演じている。

その他の六人の俳優が演じる役は以下の通り。

・服部半蔵(二代目/十二代目)・・・山口勝平さん
・松平定敬/徳川家康・・・高木渉さん
・桂小五郎/毛利輝元・・・諏訪部順一さん
・高杉晋作/世鬼政時・・・立木文彦さん
・服部弥太郎/岡田以蔵・・・朴璐美さん
・仏生寺弥助・・・梶裕貴さん

これらのキャラクターを俳優の皆さんは演じ分けている。
もちろん、声色を使い分けて。

本作の舞台は二つの時代にまたがっている。
本筋となる時代は、尊王攘夷の嵐が吹き荒れる幕末だ。徳川幕府の世を終わらせるため奔走する桂小五郎と高杉晋作。尊王攘夷派と呼ぶ。
尊王攘夷派に対する勢力は、幕府に味方する佐幕派だ。松平定敬は幕末の桑名藩主として著名だが、その桑名藩にはかの服部半蔵の十二代目が家老として仕えていた。
そこにやってきたのは、仏生寺弥助。幕末の剣豪として名前は知られていないが、一説には幕末に活躍したあまたの剣豪の中でも最強だったという。もともとは桂小五郎や高杉晋作と道場で知った仲だが、講談でしった服部半蔵の末裔である十二代目に弟子として近づく。彼らを護衛するのが新鮮組の手練れ剣士である沖田総司。

長州藩には徳川幕府に雪辱をすすがねばならない理由がある。それは関ヶ原の合戦だ。勝者となって天下を握った徳川家康に対し、敗者の側についてしまった長州藩の無念。
関ヶ原の戦いによって徳川家に膝を屈した毛利家の当主輝元は、ひそかに徳川幕府に反抗する布石を打とうと画策する。
そこで豊臣家にひそかに送り込まれたのが世鬼政時。毛利家の抱える忍びの頭だ。
毛利家が世鬼衆を忍びとして抱えるなら、徳川家は服部半蔵が忍びを率いて暗躍する。

こうした人物たちの関係は複雑に見える。が、恐れることはない。本作は朗読劇だ。俳優たちは動かない。しかもスポットライトがあたる。そのため、その場面で登場する人物が観客には一目で分かる。
例えば徳川家康と二代目服部半蔵。桂小五郎と高杉晋作。松平定敬と服部半蔵十二代目と服部弥太郎と仏生寺弥助。場面によっては服部弥太郎と服部半蔵十二代目と沖田総司。沖田総司と岡田以蔵。こうした組み合わせが頻繁に切り替わる。

本作で印象的だったのは、動きのない舞台を逆手にとった演出だ。先ほどまで桂小五郎と高杉晋作を演じていた二人が、一瞬で毛利輝元と世鬼政時になる。時代を超えて。そうしたメリハリの利かせ方が本作の舞台の動きにアクセントを与えている。

私は観劇中、何回か目をつぶってみた。カセットブックの朗読を聞くのと朗読劇はどう違うのか。それは、舞台上で実際に生で行われているライブ感だろう。実際、俳優さんは何度もトチっていたようにみえた。それこそがライブ感だ。目の前で瞬時に役割を切り替える素早さも含めて。

本作にアクセントを加えるのは場面展開だけではない。音と光もだ。
スポットライトだけでなく、スモークが流れ、落雷が響く。バックスクリーンに映る光景が場面に動きを与える。
そして音。本作の音はとても豪華だ。
邦楽の主役となる楽器が舞台の背後。一段上から場面のあちこちで情緒を奏でる。津軽三味線、尺八、筝、太鼓・鳴り物、篠笛・能管、十七絃筝。実に豪華だ。音楽監督は津軽三味線奏者の吉田良一郎さん。あの吉田兄弟の方だ。

本作を私にとって期待以上に仕立ててくれのは脚本だ。
徳川と毛利の260年の怨憎を背景に、殺伐とした世を忍んで生きることの苦しさ。
生と死が隣り合わせの時代にあって、人は何に救いを求めて生きるのか。

「怒って剣を振るのではなく、悲しんで酒をのむのではなく、笑いながら酒を楽しみ、剣を学ぶ。
笑って剣を学んでいたのに、大人になると悲しんだり怒ったりしながら剣を振るう。」
このセリフを語るのは、自尊心は薄いが、天真爛漫で剣の天才である仏生寺弥助の姿に、自らを投影した人物だ。その人物は自らを自嘲する。
私も笑って仕事がしたい。が、本作を見ている頃の私は、次々とやってくる案件の波におぼれ、ついきつい指導をするようになっていた。だからこそ、このセリフは結構刺さった。

もう一つは、昼行燈とあざけられた十二代目の服部半蔵だ。忍びをしていたのは有名な二代目だ。それ以降は改易され、忍びを捨て、武士としても太平の世になれてしまった。
ところが、その服部家に伝わる一子相伝の秘があるという。

本作のネタをばらすことになるが、よいだろう。

服部家300年の奥義。それは「忍ぶ人々の痛みを知る」ことだ。

日々の暮らしのつらさや苦しさに負けず、生きる人々の痛みを知り、縁をつなぎ続ける。
天正伊賀の乱によって殲滅させられ、各地に散らばった伊賀者のネットワーク。その縁を何百年も生かし続ける。そしていざ、ことが起きれば、地に埋伏していたセミが夏に一斉に地面に現れ、鳴き声をつなぐように協力する。

本作のメッセージは人との縁の大切さだ。
そのメッセージは、人との縁だけで生き抜いてきた私を肯定してくれた。

おそらくこの苦しい世の中にあって、私と同じく勇気づけられた観客は多かったはずだ。
三回のカーテンコールは二回目からはスタンディングオベーションとなった。

退場を促すアナウンスにはこのようなセリフも織り込まれていた。「三年間、私たちは忍んできました。夏の蝉のように。」
演劇人の苦しさと希望を感じた。

‘2022/12/03 新歌舞伎座 開演 18:30~

https://www.tohostage.com/voicarion/2022hanzo/


あさあさ新喜劇 「しみけんのミッションインポジティブ」


26、7年ぶりの吉本新喜劇。そらもうめっちゃおもろかった!ゲラゲラ笑って、夏の暑さを吹き飛ばす。これが関西のお笑いやねん! クーラーの効きが悪うてスンマヘン、と座長の清水けんじさんが謝ってはったけど、暑さも感じひんほど、笑った一日やった。もう満足満足。

終わった後は、楽屋口のコロラドの入り口で、妻の友人、佑希梨奈さんと立ち話。圧巻のアドリブの嵐やった舞台の興奮をまくし立てる私。このライブ感が笑いの原点やがな!と一人でツボに入りまくり。もちろん妻も大笑い。いやあ、よかったよかった!

と、ここで観劇レビューを終えてもええんやけど、せっかくなんで、もうちょい書いてみよかいな。

前回、私が吉本新喜劇を観たのは、私が大学一年生の頃。当時、私がアルバイトをしていたダイエー塚口店のバイト先の社員さんやパートさんたちとなんばグランド花月まで観に行った。本場の吉本新喜劇を前にゲラゲラ笑ったのをめっちゃ思い出す。

今回の帰省で妻は、賀茂別雷神社にお参りをしたいと望んでいた。そのため、最終日は家族で京都を訪れるつもりだった。ところが、この日照りの中、興味もない神社には行きたくないと娘たちは言う。なので急遽、妻と二人きりの旅が決まった。そんな時、妻がFacebookで見かけたのが、妻の友人である佑希梨奈さんの書き込み。それによるとちょうど祇園花月の吉本新喜劇に出演しているとか。せっかくの機会なので、佑希さんの舞台を観たいと妻がいう。私も異論はない。26、7年ぶりの吉本新喜劇。しかも祇園花月にはまだ行った事がない。よし、行こうか、と夫婦の意見が合い、祇園花月での観劇が予定に加わった。

阪急の西宮北口から神戸線と京都線を乗り継ぎ、終点の河原町へ。鴨川を渡り、南座や八坂神社を横目に見ながら、祇園花月に到着。あたりは京都の風情と芸能の色で染まっている。祇園花月の外見は見るからにコテコテの吉本印。吉本のおなじみのキャラクターのパネルが入り口に立ち、いかにもな感じを醸しだしている。

うちら夫婦が訪れたこの日、吉本興業は、闇営業問題で大きく揺れている真っ最中。けど、問題なのはテレビに出ずっぱりの売れっ子だけの話。そうした問題は、昔からの演芸を地道にまじめにやっている吉本新喜劇にはあまり関係がないはず。私はそう信じている。

開幕前の前説ではピン芸人の森本大百科さんが、軽妙に客を盛り上げつつ、今日の客層をさぐろうとしている。一階席の前半分はほぼ埋まっていたが、後半分の席は私たちを含め四、五人しか座っていない。私たちの後ろの席はすべてがら空きで、いささか寂しい客の入り。まさか闇営業問題が尾を引いているとは思いたくないけれど。

客の入りが少ないのも理由があり、あさあさ新喜劇と名付けられた演目は新喜劇のみ。午後は、新喜劇のほかに漫才やその他、舞台芸が演じられる。私がかつて観たのもそうだった。けれど、あさあさ新喜劇は新喜劇のみ。だから値段が安く設定されているのだろう。

「しみけんのミッションインポジティブ」と題された演目のあらすじは、旅館の娘たちを狙う結婚詐欺師を捕まえるため、旅館の前に張り込む両刑事と旅館の人々が織りなすドタバタの物語だ。そして、冒頭に書いた通りとても面白かった。何が面白いかと言うとライブ感がすごいのだ。もちろん、練り込まれた笑いだって面白い。けれども、その場のアドリブや即興で逸脱していく面白さも喜劇の醍醐味だ。私はそう思う。客席からのヤジを絶妙に受け返してこそなんぼ。舞台に出る演劇人はそうしたあうんの呼吸を学び、台本にない演技をこなす「芸」を舞台の上で鍛え上げてゆく。

今回、見た舞台で言うと、チャーリー浜さんのアドリブや、山田花子さんのアドリブが目立っていた。山田花子さんは今の吉本をめぐる問題をおいしくアドリブのセリフにかえ、笑いをとっていた。そのアドリブのきわどさは座長の清水けんじさんを焦らせるほど。

そして、チャーリー浜さんだ。前回、私が見たときはちょうどチャーリー浜さんの全盛期にあたっていた。その時もチャーリー浜さんは舞台を食っていたような記憶がある。往年の「ごめんくさ〜い」のギャグは今回も健在。出演者一同がずっこけるのも相変わらず。そうしたお約束のボケツッコミは、吉本のDNAのようなもの。見に来たかいがあってうれしい。ただ、それよりも今回すごいなと思ったのは、アドリブのすごさだ。

清水けんじさんとの掛け合いは、あまりに二人の掛け合いのテンポが良いので、あらかじめ決まった台本なのか、と思えるほど。ところが、掛け合いの中で、大御所であるチャーリー浜さんにツッコミを入れる清水けんじさんのセリフはだんだんヒートアップしていく。台本にないアドリブをかますチャーリー浜さんを座長として叱っているようにも思えてくる。あらかじめ決まった筋書きが突如命を吹き込まれたような瞬間。こうなるともう完全なアドリブの世界だ。絶妙なアドリブを挟みつつ、その全てが観客にとってクスグリとなり、笑いを誘発する。それがすごい。さらに、ゲラゲラ笑えるのに二人の笑いは誰も傷つけない。せいぜい傷つくのは清水けんじさんの座長のプライドぐらい。

私は、今回まで清水けんじさんのことを全く知らなかった。吉本新喜劇の座長と言えば、過去のたくさんの名物座長が浮かび上がる。ところが私は、今の座長が誰かなんて知らずにいた。そんな私の認識を、清水けんじさんの姿は一新してくれた。チャーリー浜さんに猛烈にツッコミを入れる座長はすごいなと思った。こういう即興の笑いを生み出せる喜劇人は、いつ見てもすごいと思う。頭の回転が速くない私にとっては憧れだ。

何もかもがデータ上で流れる今。映画、テレビの笑いは編集された笑いになりつつある。視聴者もまた編集されたことを前提で笑っている。しょせんはスクリーンやテレビ越しの笑い。時差と空間差のある笑いだ。しかも、スポンサーや世論に遠慮して、どぎつく際どい笑いはもはや味わえなくなりつつある。ところが、新喜劇のお笑いには即興性がある。しかも誰も傷つけない笑いを会得しているため、忖度や遠慮は無用。だから面白いのだろう。

私は、喜劇とは生身のライブ感で味わうのがもっともふさわしいと思っている。それを心から感じ取れた笑いの時間だった。出演者の皆さんが、即興で笑いを呼び込む空間を作り、観客はそれに乗っているだけでいい。これこそ笑いの殿堂だ。確かに、よく練られたコントは絶品だ。面白い。だが、笑いとは場を共有することによってさらに増幅する。テレビにはそれがない。

舞台が始まる前、ズッコケ体験を受け付けていた。私たちも申し込んだ。ズッコケ体験とは、観客が舞台の上でギャグにズッコケられる観客体験型のイベント。舞台が一度終わった後の舞台挨拶で、ズッコケ体験の方々が四名呼ばれた。私は申し込んだ時点でズッコケ体験ができるものと思い込んでいた。四名の次に呼ばれるのは自分だと思い、どうやってズッコケようか真剣に悩んでいた。財布も席に置いて行こうとすら思ったほどだ。抽選で四名の方だけ、ということを知り拍子抜けした。次回、もし舞台の上でずっこけられたら、少しは私も笑いの極意が身に着けられるだろうか。

あー、東京でビジネスやっていると、笑いのセンスが身体から抜けていく。そもそも、こういう時間が取れてへんなあ。また見に行かんならん。

‘2019/08/04 祇園花月 開演 10:30~

https://www.yoshimoto.co.jp/shinkigeki/gion_archive/ar2019_07.html


エビータ


昨年、浅利慶太氏がお亡くなりになった。7/13のことだ。私は友人に誘われ、浅利慶太氏のお別れ会にも参列した。そこで配られた冊子には、浅利慶太氏の経歴と、劇団の旗揚げに際して浅利氏が筆をとった演劇論が載っていた。既存の演劇界に挑戦するかのような勢いのある演劇論とお別れ会で動画として流されていた浅利慶太氏のインタビュー内容は、私に十分な感銘を与えた。

ちょうどその頃、私には悩みがあった。その悩みとは宝塚歌劇団に関係しており、私の人生に影響を及ぼそうとしていた。宝塚歌劇団といえば、劇団四季と並び称される本邦の誇る劇団だ。だが、ここ数年の私は宝塚歌劇団の運営のあり方に疑問を感じていた。公演を支える運営やファンクラブ運営の体質など。特に妻がファンクラブの代表を務めるようになって以来、劇団運営の裏側を知ってしまった今、私にとってそれは悩みを通り越し、痛みにすらなっていた。その疑問を解く鍵が浅利慶太氏の劇団四季の運営にある、と思った私は、浅利慶太氏のお別れ会を機会に、浅利慶太氏と劇団四季について書かれた本を読んだ。キャスティングの方法論からファンクラブの運営に至るまで、宝塚歌劇団と劇団四季には違いがある。その違いは、演じるのが女性か男性と女性か、という違いにとどまらない。その違いを理解するには演劇論や経営論にまで踏み込まねばならないだろう。

宝塚の舞台はもういい、と思うようになっていた私。だが、お別れ会の後も、劇団四季の舞台は見たいと思い続けていた。今回、妻のココデンタルクリニックの七周年記念として企画した観劇会は、なんと総勢三十人の方にご参加いただいた。妻が25人の方をお招きし、妻が呼びきれなかった5名は私がお声がけし、一人も欠けることなく、本作を鑑賞することができた。

浅利慶太氏がお亡くなりになってほぼ一年。この日の公演も浅利慶太氏追悼公演と銘打たれている。観客席の最後方にはブースが設けられ、浅利慶太氏のポートレートやお花が飾られている。おそらく生前の浅利氏はそこから舞台の様子や観客の反応をじっくりと鋭く観察していたのだろう。ロビーにも浅利慶太氏のポートレートや稽古風景の写真が飾られ、氏が手塩にかけた演出を劇団が今も忠実に守っている事をさりげなくアピールしている。とはいえ、カリスマ演出家にして創始者である浅利氏を喪った穴を埋めるのは容易ではないはず。果たして浅利慶太氏の亡きあと、劇団四季はどう変わったのか。

結論から言うと、その心配は杞憂だった。それどころか見事な踊りと歌に心の底から感動した。カーテンコールは8、9回を数え、スタンディングオベーションが起きたほどの出来栄え。私は今まで数十回は舞台を見ているが、カーテンコールが8、9回もおきた公演は初めて体験した気がする。

私はエビータを見るのは初めて。マドンナがエバ・ペロンを演じた映画版も見ていない。私がエバ・ペロンについて持つ知識もWikipediaの同項目には及ばない。だから、本作で描かれた内容が史実に即しているかどうかは分からない。本作のパンフレットで宇佐見耕一氏がアルゼンチンの社会政策の専門家の立場から解説を加えてくださっており、それほど荒唐無稽な内容にはなっていないはずだ。

本作で進行役と狂言回しの役割を担うのはチェ。格好からして明らかにチェ・ゲバラを指している。周知の通り、チェはアルゼンチンの出身でありながらキューバ革命の立役者。その肖像は今もなお革命のアイコンであり続けている。同郷のチェがエバ・ペロンことエビータを語る設定の妙。そこに本作の肝はある。そしてチェの視点から見たエビータは辛辣であり、容赦がない。そんなチェを演じる芝清道さんの演技は圧倒的で、その豊かな声量と歯切れの良いセリフは私の耳に物語の内容と情熱を明快に吹き込んでくれた。

搾取を嫌い、労働者の視点に立った理想を追い求めたチェと、本作でも描かれる労働者への富の還元を実行したエビータ。いつ理想を追い求める点で似通った点があるはず。だが、チェはあくまでもエビータに厳しい。次々に男を取り替えては己の野心を満たそうとする姿。ついにファーストレディに登りつめ、人々に施しを行う姿。どのエビータにもチェは冷笑を投げかける。これはなぜだろうか。

チェが医者としての栄達を投げうちアルゼンチンを出奔したのは、史実では1953年のことだという。エビータがなくなった翌年のこと。ペロンは大統領の任期の途中にあった。チェの若き理想にとって、ペロンやエビータの行った弱者への政策はまだ手ぬるかったのだろうか。または、全ては権力や富を得た者による偽善に過ぎないと疑っていたのだろうか。それとも、権力の側からの施しでは社会は変えられないと思っていたのだろうか。おそらく、チェが残した著作の中にはエビータやペロンの政策に触れたものもあっただろう。だが、私はまだそれを読んだことがない。

本作は、エビータが国民の母として死を嘆かれる場面から始まる。人々の悲嘆の影からチェは現れ、華やかなエビータの名声の裏にある影をあばき立てる。そしてその皮肉に満ちた視点は本作の間、揺るぐことはなかった。本作は、エビータが亡くなったあとも国民からの資金では遺体を収める台座しか造られず、その後、政情が不安定になったことによって、エビータの遺骸が十七年の長きに渡って行方不明だったというチェのセリフで幕を閉じる。徹底した冷たさ。だが、チェの辛辣さの中には、どこかに温かみのようなものを感じたのは私だけだろうか。

本作の幕の引き方には、安易に観客の涙腺を崩壊させ、カタルシスに導かない節度がある。その方が観客は物語のさまざまな意図を考え、それがいつまでも本作の余韻となって残る。

敢えて余韻を残すチェのセリフで幕を下ろした脚本家の意図を探るなら、それはチェがエビータに対する愛惜をどこかで感じていたことの表れではないだろうか。現実の世界でのし上がる野心と、貧しい人々への施しの心。愛とは現実の世界でのし上がるための手段に過ぎないと歌い上げるエビータ。繰り返し愛を捨てたと主張するエビータの心の裏側には、愛を求める心があったのではないか。私生児として蔑まれ、売春婦と嗤われた反骨を現実の栄達に捧げたエビータ。その悲しみを、チェは革命の戦いの中で理解し、軽蔑ではなく同情としてエビータに報いたのではないだろうか。

そのように、本来ならば進行役であるはずのチェに、物語への深い関わりをうがって考えさせるほど、芝さんが演じたチェには圧倒的な存在感があった。本作のチェと同じような進行役と狂言回しを兼ねた役柄として、『エリザベート』のルキーニが思い出される。チェのセリフが不明瞭で物語の意図が観客に届かない場合、観客は物語に入り込めない。まさに本作の肝であり、要でもある。本作の成功はまさに芝さん抜きには語れない。

もちろん、主役であるエビータを演じた谷原志音さんも外すわけにはいかない。その美貌と美声。二つを兼ね備えた姿は主演にふさわしい。昇り調子に光り輝くエビータと、病に伏し、頰のこけたエビータを見事に演じわける演技は見事。歌声には全くの揺れがなく、終始安定していた。大統領選で不安にくれる夫のペロンを鼓舞するシーンでは、高音パートを絶唱する。その場面は、主題歌である「Don’t Cry For Me , Argentina」の美しいメロディよりも私の心に響いた。

そしてペロンを演ずる佐野正幸さんもエビータを支える役として欠かせないアクセントを本作に与えていた。史実のペロンは三度大統領選に勝ち、エバ亡き後も大統領であり続けた人物だ。だが、本作でのペロンは強さと弱さをあわせ持ち、それがかえってエビータの姿を引き立たせている。また、顔の動きが最も起伏に富んでいたことも、ペロンという複雑なキャラクター造形に寄与していたことは間違いない。見事なバイプレイヤーとしての演技だったと思う。

また、そのほかのアンサンブルの方々にも賛辞を贈りたい。一部のスキもない踊りと演技。本作は音楽と演技のタイミングを取らねばならない箇所がいくつもある。そうしたタイミングに寸分の狂いがなく、それが本作にキレと迫力を与えていた。さすがに毎回のオーディションで選ばれた皆様だと感動した。

そうした魅力的な人物たちの活動する舞台の演出も見逃せない。本作のパンフレットにも書かれていたが、生前の浅利慶太氏は、最も完成されたミュージカルとして本作を挙げていたようだ。もとが完成されていたにもかかわらず、浅利氏はさらなる解釈を本作に加え、見事な芸術作品として本作を不朽にした。

自由劇場は名だたる大劇場と比べれば作りは狭い。だが、さまざまな設備を兼ね備えた専用劇場だ。その強みを存分に発揮し、本作の演出は深みを与えている。ゴテゴテと飾りをつけることんあい舞台。円形に区切られた舞台の背後には、自在に動く二つの壁が設けられている。らせん状になった壁には、ブエノスアイレスの街並みを思わせる凹凸のレリーフが刻まれている。

場面に合わせて壁が動くことで、観客は物語の進みをたやすく把握できる。そればかりか、円で周囲を区切ることで舞台の中央に目には見えない三百六十度の視野を与えることに成功している。舞台の中央に三百六十度の視座があることは、舞台上の表現に多様な可能性をもたらしている。例えば、エビータの男性遍歴の激しさを回転する扉から次々に現れる男性によって効果的に表現する場面。例えば、軍部の権力闘争の激しさを椅子取りゲームの要領で表現する場面。それらの場面では物語の進みと背景を俳優の動きだけで表すことができる。三百六十度の視野を観客に想像させることで、舞台の狭さを感じさせない工夫がなされている。

そうした一連の流れは、演出家の腕の見せ所だ。本作の幕あいに一緒に本作を観た長女とも語り合ったが、舞台を演出する仕事とは、観客に音と視覚を届けるだけでなく、時間の流れさえも計算し、観客の想像力を練り上げる作業だ。総合芸術とはよく言ったもので、持てる想像力の全てを駆使し、舞台という小空間に無限の可能性を表出させることができる。今の私にそのような能力はないが、七度生まれ変わったら演出家の仕事はやってみたいと思う。

冒頭にも書いたが、8、9回に至るカーテンコールは私にとって初めて。それは何より俳優陣やスタッフの皆様、そして一年前に逝去された浅利慶太氏にとって何よりの喜びだったことだろう。

理想論だけで演劇を語ることはできない。赤字のままでは興行は続けられない。浅利氏にしても、泥水をすするような思いもしたはずだ。政治家に近づき、政商との悪名を被ってまで劇団の存続に腐心した。宝塚歌劇団にしてもそう。理想だけで劇団運営ができないことは私もわかる。だからこそ、ファンの無償の奉仕によって成り立つ今の運営には危惧を覚えるのだ。生徒さんが外のファンサービスに追われ、舞台に100%の力が注げないとすれば、それこそ本末転倒ではないか。私は今の宝塚歌劇団の運営に不満があるとはいえ、私は宝塚も四季もともに日本の演劇界を率いていってほしいと思う。そのためにも、本作のような演出や俳優陣が完璧な、実力主義の、舞台の上だけが勝負の演劇集団であり続けて欲しい。演劇とは舞台の上だけで観客に十分な感動を与えてくれることを、このエビータは教えてくれた。

私も友人にお借りした浅利慶太氏の演劇論を収めた書をまだ読めていない。これを機会に読み通したいと思う。

最後になりましたが、妻のココデンタルクリニックの七周年記念に参加してくださった皆様、ありがとうございます。

‘2019/07/06 JR東日本アートセンター 自由劇場 開演 13:00~

https://www.shiki.jp/applause/evita/


二人静 第四回 金春流能楽師中村昌弘の会


能を最後に観たのはいつのことだろう。まったく覚えていない。そもそも私は能を観たことがあるのかすら自信がない。たしか学生時代に授業の一環で鑑賞した気がするのだが。それぐらい今の私は能の初心者だ。もちろん、国立能楽堂を訪れるのは今回が初めて。

この度の機会は主催の金春流の能楽師、中村昌弘さんが狛江にお住まいであるご縁からお誘いをいただいた。私はそのご縁を逃がさず、きちんとした能を観劇し、堪能し、さまざまな気づきをいただいた。この日はあいにくの雨だったが熱心なファンは多数いるらしい。ほぼ九割がた席は埋まっていた。

能舞台といえばイメージがすぐ浮かぶ特徴のある外観。渡り廊下(橋掛かり)から前面に突き出た立体的な舞台までは幾何学を思わせる構築の美にあふれている。舞台の背後のほかはすべて開放された無駄のない空間。そんな能舞台を国立能楽堂は観客席を含めて屋内に収めている。屋内でありながら能の臨場感を感じさせ、同時にこの日のような悪天候でも気にせず開演できる。それが国立能楽堂の良いところだろう。

観客席から舞台を見て右後ろ奥に切戸口という役者の出入り口がある。開幕の合図を機に、四名の羽織袴の男性とまだ幼さの残る少年が舞台へと進み出てきた。そこからしずしずと進み出る様はそれだけで一つの様式美を感じさせる。仕舞の「邯鄲 夢の舞」が始まる。変声期を迎える前の少年のかん高い声と四名の地謡の野太い声の対照が印象に残る。重厚な地謡の響く中、少年の舞はわずかなたどたどしさを感じたものの、金箔があしらわれた扇を操る様は軽やか。この後に登場して解説を加えた能楽評論家の金子氏によると、少年は今日の主催の中村昌弘さんの息子さんだそう。昨年末に今日の演目である邯鄲を披露する予定だったが、急なインフルエンザで休演を余儀なくされたとか。今日の舞は雪辱を果たす舞台になったそうだが、無事に勤め上げられてホッとしている事だろう。次代の日本の伝統芸能を担っていってほしいと思う。

金子氏の解説は続いての狂言「空腕」と能「二人静」にも及ぶ。能楽評論家という職業は今日初めて知ったが、名乗るだけのことはあり、明快に見どころや聞きどころを語ってくださる。とても参考になった。

金子氏が退場した後は、仕舞「野守」だ。中村昌弘さんが優雅に扇を操り、舞に動きをつける。時にたたらを踏んで舞台から音の波動を発し、リズムを刻む。重厚かつ軽快な舞。さすがだと思う。まさに静と動。それでありながら、前にかざした扇に首をキリッと向ける所作がとても印象に残った。地謡の山井綱雄さんが謡う微妙なメロディの抑揚と、時折、中村さんがたたらを踏んで舞台を鳴らす外は静寂に満ちた舞。そこに一つのアクセントを与える首の表現。私が美しさを感じたのはそこだ。

私は仕舞を見るのはほぼ初めて。妻の日舞を何度か見、歌舞伎の舞台を見た程度だ。こうした所作の美しさは、きらびやかな西洋仕立ての舞台ではあまり感じることはない。ところが能舞台で見ると、その美しさがことさらに迫ってくる。この上なく簡潔な衣装でありながら、人の動きが鮮やかに迫ってくる。空気の動きまで感じられるかのような舞は、音響がまったくない澄み切った能舞台ならではのものだと思う。

続いての仕舞「昭君」は中村さんではなく、別流派である観世流の武田宗典さんによるもの。私はこうした舞踊を語る知識も経験もない。うまく語れないし、二つの演目の違いが何なのかも分からない。それでも二つの舞からは何らかの個性は感じられた。これが舞う演者の個性なのか、流派の違いによるものかは分からない。だが、この二つの仕舞は、時間も短く、メリハリもあってかえって印象に残った。

続いては狂言「空腕」。事前に金子氏から解説が加えられていたため、おおかたの筋は理解していたつもり。狂言はいわゆるコントの源流。だからセリフが観客に聞き取れなければ、何にもならない。正直、最初の三つの仕舞では、地謡が何を言っているのか全く分からなかった。

ところが「空腕」はとても分かりやすかった。大蔵流の善竹富太郎さんがシテ。善竹大二郎さんがアドを演じていたが。この二人の発するセリフは朗々としてとても分かりやすい。どこが笑いどころなのかも理解できる。笑いのツボは数百年の時を隔ててもなお通じるのだ、と理解できる。

歌舞伎や落語など、江戸時代に発展した芸能が今も盛んに興行を行うのはわかる。だが、室町以前から受け継がれた芸能は今の世の中ではなかなか表舞台に出ることは少ない。ところが狂言は別だ。狂言は今の芸能界でも存在感を十分に発揮している。和泉元彌さんを真似たチョコレートプラネットの「ソロリソロリ」もそうだし、野村萬斎さんの活躍ぶりもすごい。それはセリフが明朗で、かつ人間の本性に切り込む芸の本質が、現代にもなお通じるからではないだろうか。

幕あいの休憩を挟み、続いては能「二人静」。今日の主演目だ。これまでの三つの仕舞と狂言はかろうじて舞のダイナミズムが現代の時間軸に通じるものがあった。だが、能はまったく違う。舞台の上で流れる時間は忙しない現代のそれとは別世界。橋掛かりを進んでくる菜摘娘や静御前の亡霊の歩みの遅さといったら。

ビジネスの現場ではあり得ない時間の進み。それは、合理化を旨とする情報業界に住む私にとってはもはや異次元に思える。現代人は忙しない、と揶揄されるが、その一員として生きていると、その忙しさは実感できない。だが、能舞台に流れるゆったりとした時間は、私の生活リズムとは完全に乖離している。ビジネスの現場にどっぷりの今だからこそ、能に流れる時間の遅さを新鮮に感じた。古き良き日本の風土や文化から見た時、現代のビジネスの時間軸とは果たして人のあるべき姿なのだろうか。そんなことを思った。

正直、あまりの時間の進みの遅さに、私は前半の菜摘娘が徐々に静御前に憑依されてゆく部分で三度ほど瞬間的に寝落ちしてしまったほどだ。金子氏よりここが見どころと教わっていたにもかかわらず。

後半、静御前の亡霊が橋掛りを渡って舞台へ乗り、菜摘娘と静御前の亡霊がそろって舞うシーンはクライマックスだと思う。ここも事前に金子氏の解説でなぜ難しいのかを教わっていた。いわゆる能面の目の部分は、わずかにしか開いていない。そして眼の位置は演者の顔に合わせているのではないという。つまり能面を被ると視野が極端に狭まる。それでありながら、菜摘娘と静御前の亡霊の所作にズレや狂いは許されない。そこを鍛錬と勘で合わせるのが見所だという。

正直、微妙なズレは何度か見かけた。明らかなズレも数度はあった。最初はそのズレが失敗に思え、残念にも感じた。だがやがて、そのズレをも含めて鑑賞するのが正しいのではないかと思うようになった。

そもそもズレとは基準としたリズムがあってこそ。ところが能を鑑賞していると基準となるリズムがわかりにくい。確かに能には囃子が付く。「二人静」でも太鼓と小鼓、笛や八名の地謡の方々が背後と脇に控えている。太鼓と小鼓の方は「ヨーッ!」「ハ」と声を伸ばし、合いの手を入れつつ鼓を打つ。だが、その拍子にロックやジャズのリズムは感じられない。そもそも、大鼓に拍子の整合性はあるのだろうか、と思ってしまう。だが、悠久のリズムに合わせ、演じられるのが能なのだろう。

と考えると「二人静」の少しぐらいのズレは許容しなければならない。そしてズレも含めて楽しむ。それが正しい能の楽しみ方ではないかと思った。解説で金子氏がおっしゃっていたが、能が好きだったことで知られる太閤秀吉の望みで「二人静」が舞われた際のエピソードが伝わっているという。当時も二人静を演ずるには同じぐらいの技量を持ち、背格好も同じぐらいの演者をそろえなければならなかったという。そして当代の実力ある二人の演者は流派も違い、犬猿の仲だったとか。実際、秀吉の前で披露された「二人静」の舞はバラバラだったという。にも関わらず、演目としては確かに完成されていたとか。つまり一分たりとも狂ってはならないというのは現代人ならではの感性であり、能の本質ではないということなのだろう。

むしろピッタリと一分の狂いもなく二人の演者の舞が合うことこそ、非現実的でかえって興が削がれるのではないか。デジタルを思わせる完全に同期された舞など、能の舞台にあっては異質でしかない。そんなものはVTuberに任せておけばよい。むしろ、能舞台の上に流れる雄大な時間軸にあっては少しぐらいのズレなど、差のうちに入らないことのほうが大切だ。

私はそのことに思い至ってから、舞台の舞のズレが気にならなくなった。

また、狂言と能では座席前のパネルにセリフが流れるようになっている。狂言は明確にセリフが理解できたので不要だった。だが、能ではさすがに何を謡っているのかわからずパネルのスイッチを入れた。そこで見た極端までに切り詰められたセリフ。それは古くからの日本語の響きが受け継がれており美しい。日本古来の美学が感じられる。ただ、惜しいことに、現代の日本には私も含めてそれを理解できる人がほとんどいない。

パネルにセリフを流すのはよいことだと思うけれど、このセリフをなんとかして理解できるものにできないか。それとも、これは能本来の様式として保存すべきで、セリフも変えずに今後も上演されていくのが正しいのだろうか。私にはわからない。でも、現代の能楽師は当然そのことを考えているはず。本来ならば観客に教養や素養があればよいが、それはかなわぬ願い。では現代のどこに能が生き延びる余地があるのか。

あらゆる文化がデジタルの波に洗われている昨今。能舞台の上こそは、現代ではもはや見られない情報から隔絶された世界なのだと思う。そして能舞台から発信される情報とは、舞台の上で演じられる所作や舞や謡いや拍子のみ。ピンマイクもなく、特殊効果にも頼らない舞台。磨き抜かれ、時流とは一線を画した美意識に純化された生身の人間から発せられる情報。今どき、そんな情報に触れられる機会はそうそうない。

私は能の孤高の世界観にとても惹かれた。そして能の世界に流れる時間軸から逆に現代の世界の疲れと歪みをみた。

そして能が生き延びる余地とは、まさにそこにあるのではないかと考えた。人本来のリズム。そのリズムとは本来、エンジンの動きやCPUのクロック信号、電磁波の周波に襲われるまでは、人間が刻んでいたもののはず。ところが今や人間が刻むべきリズムはデジタルの圧倒的な沸騰に紛れどこかに消えてしまった。だが、人が人である限り、そのリズムはどこかで誰かが保ち続けなければならない。それを担うことこそが能の役目ではないだろうか。

人を置き去りにしていったリズムは、この先もデジタルが牛耳っていくことだろう。だからこそ、能が求められる。能舞台に流れる時間だけが、人の刻むリズムを今に伝える。とすれば、能をみることに意味はある。時間を思い出すための能。人がデジタルから離れるためには、今や能だけが頼りなのかもしれない。

‘2019/06/15 国立能楽堂 開演 13:30~

https://nakamura-nou.saloon.jp/kouenkai/index/tandokukouenbacknumber.html


蘭RAN~緒方洪庵 浪華の事件帳~


四天王寺に大坂天満宮、天満橋に高麗橋。役者のほとんどは大阪弁を操り、上方ではおなじみの三度ツッコミも見られる。そんな大坂テイストにあふれた演劇を東京の、それも銀座で観る。なんという幸せだろうか。しかも本作は私にとって初めての松竹新喜劇なのだから喜びもひとしお。

私は喜劇は舞台も映画も好きだ。オオサカンなコテコテのボケツッコミも好きだし、練りに練ったコントも好き。上方だろうと江戸だろうとどちらでもいける口。本作のような大坂を舞台にしたオオサカンなノリ突っ込み満載の作品も大歓迎だ。

もともと本作は妻からの誘いだった。妻がお目当てなのは本作に出演する元星組のトップである北翔海莉さん。しかも北翔さんの役どころはほぼ主役。とくれば、ファンとしては何を優先しても駆けつけるはず。私が妻から誘いを受けたのはみに行くホンの数日前だ。だが、新喜劇であるからには面白いに違いない。うん、ええよ、と二つ返事で返した。

さて、即答したはよいが、私は新喜劇といっても吉本なのか松竹なのかよく聞かぬまま「ええよ」と返事した。そもそも私が見たことのある新喜劇は吉本だけ。それも二十数年前に当時のアルバイト先の皆様と行ったっきり。

だから当日、劇場に着いた時の私は、吉本と松竹、どちらの新喜劇かわきまえぬままだった。演目の内容も全く知らぬまま。私が知っていたのは北翔さんが出ることくらい。だから劇場に着いてはじめて本作の豪華な出演者の顔ぶれを知った。神保悟志さん、久本雅美さん、石倉三郎さん、ユートピア・ピースさん。そして北翔さんと並んで主演を張るのが藤山扇治郎さん。藤山さんは昭和の喜劇王こと藤山寛美さんのお孫さんだ。よくテレビのドラマでお見掛けする神保さんにはシリアスなイメージを勝手にもっていた。だから喜劇も演じることに意外さを感じた。だが、他の役者さんは喜劇が似合う方々ばかり。これは喜劇として面白そう、と劇場に着いてから期待を膨らませた。

そもそも私は、それほど観劇の経験がない。WAHAHA本舗の公演も観たことがない。松竹新喜劇の舞台もそうだが久本さんを舞台でみるのも初めてなのだ。さぞや笑わしてくれるんやろと期待は高まる。

が、、、ちょっとセリフが届かない。私と妻が座ったのは1階のかなり後ろ。花道の幕から数メートルほどしか離れておらず、かなり奥まっている。場所が悪かったこともあるだろう。妻も同じように声が通りにくいとの感想を漏らしていた。久本さんだけでなく女性陣の声は総じて聞き取りにくかった。普通、こういう舞台では役者はピンマイクを胸にさす。だが、本作ではピンマイクの感度を低くしていたのか、それとも肉声だったのか。北翔さんの声はよく通っていたので、声が出せる人には届いたはず。

久本さんのコメディエンヌとしてのツッコミや演技は、かつてテレビで見た久本さんのパワーそのもの。だからこそ、もう少し客席に久本さんの声が届いていたらもっと笑いが起こったと思う。惜しい。特に、二幕の最初で北翔さんふんする東儀左近に猛烈に突っ込むシーンは爆笑すること必至なのに、声の通りの悪さが笑いを3割減らしていた気がする。

こういった舞台では生声を重視し、あまりピンマイクは使わないのだろうか。もう少し規模の小さな劇場では生声のほうが良い。それは確かだ。だが、ここまで大きな劇場だとそれも限度ではないかと思った。

音響に関してはもう一つ疑問に思ったことがある。それは、背景の音の選択だ。浪華の人情物を扱う本作の背後に流れるのは、どう考えても西洋の音階。そこにアコースティックギターが載り、歌詞はネイティブのイングリッシュだ。ロックとまでは行かないが、シンガーソングライターのような優しげな声。そのような選曲をした演出の意図は分からない。だが、その音楽がセリフを掻き消していたのはさすがにまずい。本作にはそんなシーンが何回か目立った。特に語りの内容を観客に伝えるべき重要なシーンでセリフが音楽で消されていたのはいただけない。

音楽があまり演目と合っていないとの疑問は本作の最後までついて回った。なにも大坂の人情物だからといって囃子に篳篥、三味線でまとめる必要ない。だが、音楽と内容が微妙にずれているとの違和感を与えるのはいかがなものかと思った。

あと、本作には演出者の意図と思われる演出も目立った。それは音楽だけではない。出だしからして、色とりどりのピンスポットで登場人物が紹介されるのだから。それはありだと思う。そのちぐはぐさも内容によっては作品にインパクトをもたらす。

しかし、上に書いたように西洋風の音楽がセリフをかき消すまでに自己主張することでかなり興を削がれでしまった。妻に聞いた話では、本作の大阪公演はかなり大ウケだったと聞く。大坂が舞台の本作が大阪で受けるのは当たり前。だからこそ、東京で演ずる上で新橋演舞場の音響効果も含めて検討するべきではなかったか。

幕あいにパンフレットを読んだところ、演出に錦織一清と書かれていることに気づいた。あれ?どこかで聞いた名前やなと思い、帰宅してからウィキペディアで調べたらやはり少年隊のリーダーではないか。いつの間にか演出家として活動されていたのね。色とりどりのピンスポットに流れるようなオープニング。まさに演出家のイメージそのものだと納得した。それならばなおさら、そのような感性で西洋と東洋を組み合わせるなら音響の釣り合いには注意して欲しかった。

でもそれを除けば本作は芸達者な役者さんばかりなのでゲラゲラ笑って観られる。皆さん、コメディアンも経験されている方が多い。人によっては舞台人の枠ではなく芸人枠に入っている人もいる。それらの俳優陣の演ずる喜劇は、私に喜劇のよさを堪能させてくれた。赤いきつねと緑のタヌキのところとか。あと、先にも書いたが北翔さんを夫の浮気相手と勘違いした久本さんが絡みまくるシーンとか。ほかにも本作にはくすぐりどころが何カ所かあり笑わせてもらった。

そんな喜劇人ばかりのステージにあって、北翔さんの存在感はさすがと言うべき。冒頭で真言を唱えるシーンもそうだし、上方名所の口上を見事に述べ切ったところも。宝塚でトップを張っていただけのことはある見事さだ。上にも書いたとおり、俳優陣の中で圧倒的に声が通っていたのも北翔さんだし。殺陣や唄のシーンなどの北翔さんの良さが見事に出ており、北翔さんのファンにとってはたまらない内容だったのではないかと思う。ただ、本作の北翔さんは並みいる喜劇人たちの中で二枚目路線に徹していたように思う。ところがファンである妻によれば北翔さんは実はコメディエンヌとしての素養も意欲もある方なのだという。今回は笑いとしては受け側に徹していただけなのが惜しいといえば惜しい。上に書いた久本さんに絡まれるシーンでは、ニコニコと受けていただけの北翔さん。ところが北翔さんが逆襲して久本さんを驚かすぐらいだともっと笑いが盛り上がったし北翔さんの芸の幅も広がったかもしれない。

本作は天然痘の種痘をメインプロットに据えていた。そこに人さらいと姉妹の離別と悪徳商人と悪を誅する闇組織。その流れは実にお見事。小説や漫画、舞台や映画でも本作のようなプロットは見たことがない。私は実は本作は脚本にも良い評価をつけたいと思う。流れが切れたりした部分もあったが、これらも演出をもう少し工夫すればよりよいものになるのではないか。本作も大阪で5日、東京で5日しか公演しないという。これで終わってしまうのは惜しい。本作を演出や音響から練りなおし、よりよい舞台にしてもらえればうれしい。なんといっても本作は大坂を舞台としているのだから。

‘2018/05/19 新橋演舞場 開演 17:00~

https://www.shochiku.co.jp/shinkigeki/koen/4400


ドクトル・ジバゴ


「国が生まれ変わるというなら、新たな生き方を見つけるまでだ!」

本作は、私にとって初めて観るロシアを舞台とした作品だ。ロシア文学といえば、人類の文学史で高峰の一つとして挙げられる。ロシア文学から生み出された諸作品の高みは、今もなお名声を保ち続けている。トルストイやドストエフスキー、チェーホフやゴーゴリなど巨匠の名前も幾人も数えられる。私も若い頃、それらの作家の有名どころの作品はほぼ読んだ。ところが、ロシア文学の名作として挙げられる作品のほとんどはロシア革命の前に生み出されている。ロシア革命やその後のソ連の統治を扱った作品となると邦訳される作品はぐっと減ってしまう。少なくとも文庫に収められている作品となると。私が読んだことのあるロシア革命後のロシアを扱った作品もぐっと減る。せいぜい、ソルジェニーツィンの『イワン・デニソーヴィチの一日』と本作の原作である『ドクトル・ジバゴ』ぐらいだ。

本作の原作を読んだとはいえ、それは十数年前のこと。正直なところ、あまり内容を覚えていない。だが、本作を観たことで、私の中では原作の価値をようやく見直すことができた。その価値は、社会主義という制度の中だからこそ浮き彫りになるということ。そして私があらためて感じたこととは、社会主義とは人類を救いうる制度ではない、ということだ。

『ドクトル・ジバゴ』がノーベル文学賞を受賞した際、ソ連共産党は作者ソルジェニーツィンに授賞式に出ないよう圧力をかけたという。なぜなら、 『ドクトル・ジバゴ』 は社会主義を否定する作品だから。

知られているとおり、社会主義とは建前では階級の上下を否定する。そして平等を旨とする。そんな思想だ。社会主義の目標は平等を達成することにおかれるはず。だが、その目的は組織の統制を維持することに汲々となりやすい。つまり、理想が目的であるはずが、手段が目的になるのだ。それが社会主義の致命的な弱点だ。また、その過程では、組織の意思は個人の意思に優先される。個人の生きざま、希望、愛、はないがしろにされ、組織への忠誠が個人を圧殺する。

そこにドラマが産まれる。なぜ 『ドクトル・ジバゴ』 が名作とされているのか。それは、組織に押しつぶされようとする個人の意思と尊厳を描いたからだろう。その題材にロシア革命が選ばれたのも、人類初の社会主義革命だったからにほかならない。組織が個人をどこまでも統制する。ロシア革命とは壮大かつ未曽有の社会実験だったのだ。実験でありながら、建前に労働者や農奴の解放が置かれていたため、人々はその理想に狂奔したのだ。彼らの掲げた理想にとって敵とはロシア帝国の支配者階級。本作の主人公ユーリ・ジバゴも属していた貴族階級は、ロシア革命が打倒すべき対象である。

ところが、ジバゴは貴族の生まれでありながら、個人の意思を持った人間だ。幼い頃に両親と死に別れ、叔父の養子となった。その生まれの苦労ゆえか貴族の立場に安住しない。そして自分の信念に基づいた生き方を追求する。そんなジバゴに襲い来る革命の嵐。その嵐は彼の運命を大きく揺さぶる。そして、革命の前に出会ったラーラとジバゴは不思議な縁で何度も巡り合う。ジバゴの発表のパーティーの場で。そして、第一次大戦の戦場の野戦病院で。

ラーラもまた、運命に翻弄された女性。そして革命によっても翻弄される。労働者階級だった彼女は、特権階級の弁護士コマロフスキーから辱めをうける。そして、それがもとで恋人のパーシャを失ってしまう。パーシャは、革命を目指すナロードニキ。高潔な理想家の彼にとって、ラーラの裏切りはたとえ彼女自身に責任がなくても耐えがたいものだった。彼は軍に身を投じ、ラーラの元を去ってしまう。

やがて第一次大戦はロシア革命の勃発もあって終戦へと至る。ここまでが第一幕だ。ここまでですでに見応えは十分。

本作の見応え。それは演出の妙にあること、役者の演技にあることはいうまでもない。ただ、本作の舞台装置はシンプルにまとめられていた。これが宝塚大劇場だと奈落から競りあがる仕掛けや、銀橋のような変形された舞台装置が使える。ところが本作は赤坂ACTシアターで演じられる。舞台の制限なのかどうかはわからないが、本作ではいたってシンプルでオーソドックスな舞台装置を使っていた。演出といっても音響や照明を除けばそれほど凝った作りになっていない。舞台の吊り書き割りを入れ替えたり、薄幕で舞台を左右に分割し、それぞれの時間と空間に隔たりがあることを観客に伝えるような演出が施される程度。その分、本作は俳優陣の演技に多くを頼っているということだ。

ラーラはコマロフスキーに強引に接吻され、その後犯される。また、ある場面ではジバゴとベッドで朝を迎える。本作におけるラーラとは悲劇のヒロインではあるが、情欲の強い女性としても描かれている。そしてそれはジバゴも同じ。つまり本作は男女の情欲が濃く描かれている。艶やかなシーンの割合が本作には多いように思えた。そんな男女の艶やかさを女性ばかりの宝塚歌劇が果たして演じきれるのか。そんな私の先入観を本作の俳優陣は見事に覆してくれた。とくに、主演の轟悠さんはさすがというべきか。

ジバゴは原作の設定では20-30代の男性だと思われる。一方、ジバゴにふんする轟さんの年齢は、失礼かもしれないがジバゴよりもさらに年齢を重ねている。ところが風邪を引いたのか、本作の轟さんの声は少々ハスキーに聞こえた。しかしその声がかえって主人公の若さを際立たせていたように思う。女性である轟さんが長年にわたる訓練から発する男性の声。そこにハスキーな風味が加わっていたため、本作で聞えたジバゴの声は年齢を感じさせない若々しさをみなぎらせていた。鍛え抜かれた男役の声。そこには女性らしさがほとんど感じられない。それでいてもともとの声の高さがあるため、若さを失っていないのだ。それはまさに芸の到達点。理事の矜持をまじまじと見せつけられた思いだ。お見事。他の宝塚の舞台を見ていると、男役から発せられる声に女性の響きが混じっていることに気づいてしまうだけに、轟さんの声の鍛え方に感銘を受けた。

また、コマロフスキーを演ずる天寿光希さんも素晴らしい。彼女が発する声。これまた地の底をはうように抑えられていた。その抑えつけたような声が、コマロフスキーの狡猾さや一筋縄では行かないしたたかさを見事に表現していた。コマロフスキーは革命前は鬼畜のような男として登場するが、革命後、本作の第二幕ではラーラとジバゴを救い出そうともする。単なる悪役にとどまらぬ二面性を持つ男。そんなコマロフスキーを豊かに演じていた天寿さんの所作もまた見事だった。さすがに時折押し殺した声音から女性の声らしさが垣間見えてしまっていたけれど。それでも、この二人の男役からは女性が演じている印象がほとんど感じられなかった。それゆえに彼らの、男としてラーラに寄せる情欲の生々しさがにじみ出ていた。それでこそ、人間の本能と組織の規律の対立がテーマとなる本作にふさわしい。

ジバゴには貴族でありながら理想に燃える若々しさが求められる。同時に、革命の中で個人の尊厳を捨てまいとする強靭さも欠かせない。それらを見事に演じていた轟さんの演技こそが本作の肝だといえる。本稿冒頭に掲げたセリフは、第一幕から二幕のつなぎとなるセリフだ。このセリフには国がどうあろうとも、個人として人生を全うせん、という意思が表れている。

それはもちろん、宝塚という劇団の中で、個人として演技を極めようとする轟さんの意思の表れでもある。実に見ごたえのある舞台だったと思う。二幕物が好きな私にとってはなおさら。

第二幕は、すでに革命政府が樹立されたロシアが舞台だ。そこでは個人の意思はさらに圧殺される。その象徴こそが、モスクワから都落ちしウラルへ向かうジバゴ一家の乗る列車だ。第二幕は列車を輪切りにしたセットから始まる。過ぎ行く街々がプロジェクションマッピングで背景に映し出される。車内に閉じ込められているのに、回りの景色は次々と移り変わってゆく。それはまさに車両という組織に閉じ込められた個人の生の象徴だろう。

第二幕ではパーシャあらため赤軍の冷酷な将軍ストレリニコフがジバゴの対称として配される。彼はラーラに裏切られた思いが高じて人間の愛や意思すらも信じられなくなった人物だ。もはやナロードニキではなく、革命の思想に狂信する人物にまで堕ちてしまう。歯向かうものは家族や肉親のことを省みず殺戮する。まさに革命の負の側面を一身に体現したような人物だ。ストレリニコフは革命がなった後、用済みとして革命政府から更迭され、挙句の果てには銃殺される。その哀れな死にざまは、革命の冷酷な側面をそのままに表している。そして、個人の信念に殉じたいとするジバゴにも、同様の事態は迫る。妻子はパリに亡命するのに、たまたま往診先でラーラを見かけたジバゴは、そこにとどまってしまうのだ。さらにはパルチザンの医療要員として徴兵され、シベリアにまで連れていかれる。

彼は、命からがらラーラの下へ戻るが、ストレリニコフの妻であるラーラもまた、革命政府から目を付けられ、逮捕される日が近い。コマロフスキーはそんな二人を助けようとするのだが、ジバゴはラーラを落ち延びさせるために自らは犠牲となる道を選ぶ。そうして、彼もまた野垂れ死んでゆくのだ。組織の論理に殉じたストレリニコフも、個人の信念に殉じたジバゴも、ともに死んでゆく。そこに進みゆく時代に巻き込まれた人のはかなさが表現されている。

組織も個人もしょせんは時代のそれぞれで一瞬だけ咲き乱れ、散ってゆく存在にすぎない。その間に時代は前へと進み、人々が生きた歴史は忘れ去られてゆく。それはおそらく舞台の演者たちも観客も同じ。それでも人は舞台という刹那の芸術をつかの間堪能するのだろう。それでいい。それこそが人生というものの本質なのだから。

‘2018/02/22 赤坂ACTシアター 開演 15:00~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2018/doctorzhivago/index.html


ひかりふる路~革命家、マクシミリアン・ロベスピエール/SUPER VOYAGER!


事前に本作を観ていた妻子から言われていたこと。それは「ロベピッピはパパも気に入ると思うよ」だった。なぜ本作をロベピッピと呼ぶのかはさておき、パパ向きの作品と太鼓判を押されていた本作。確かにおっしゃる通り見応えある作品だった。

本作の何がよかったか。それは、フランス革命にそれほど明るくない私に革命の流れを思い出させてくれたことだ。実のところ、本作を観るまで私がフランス革命について知っていた知識とは高校の世界史でならう程度。歴史は得意だったので、大まかな流れは覚えていたとはいえ、寄る年波がだんだん私の記憶を薄れさせていた。だが、年のせいにしていつまでも若いころの知識を更新しないのはさすがにまずい。なんといっても宝塚歌劇団とフランス革命は切っても切れない関係なのだから。ヅカファンの妻子とこれから仲良くやっていく以上、私もフランス革命の知識くらい持っておかないと。それぐらいは夫として父としての責務ではないか?

そもそも私は宝塚歌劇団の歴史を語る上で欠かせない『ベルサイユのバラ』を観劇していない。原作も読んだことがない。『ベルサイユのバラ』はフランス革命を真っ正面から扱っていたはず。なのにそれを見ていない。これはまずいかも。『ベルサイユのバラ』だけではない。私には舞台、小説、映画のどれかでフランス革命を真っ正面から扱った作品に触れた経験がないのだ。たとえば、私がおととし観た『スカーレット・ピンパーネル』やかつて読んだディケンズの『二都物語』。これらも側面からしかフランス革命を描いていない。また、かつてテレビで放映されていた『ラ・セーヌの星』も内容をろくに覚えていない始末。つまり私はフランス革命の最も熱い時期を扱った作品を知らない。目まぐるしく変わる情勢に人々が翻弄された時期こそフランス革命の肝だというのに。そう、本作こそは、私にとって「はじめてのフランス革命」となったのだ。

もう一つ、本作が私を引きつけた要素がある。それは、革命家の挫折をテーマとしていることだ。本作の主人公は、タイトルにもあるとおり、マクシミリアン・ロベスピエール。私の高校生と同じレベルの知識でもフランス革命の立役者として記憶に刻まれている人物だ。本作のパンフレットで作・演出の生田大和氏が語っている。「彼の人生を想う時、ごくシンプルな疑問として「理想に燃える青年」がなぜ「恐怖政治の独裁者」に堕していったのか」。このテーマは、理想主義にはまりかけた青年期を経験した私にとって身に覚えのあるものだ。

私のような凡人を例に出すまでもなく、歴史とは革命家の挫折の積み重ねだ。旧体制を打倒することに全精力を使い果たし、そのあとの国の仕組み構築に失敗する人物のいかに多かったことか。古くは項羽。彼は秦を倒したのち、ライバルの劉邦を戦いでこそ圧倒したが、人望に秀で内政に長けた劉邦に敗れた。ロシア革命は確かにロマノフ王朝を打倒した。が、レーニン亡き後、スターリンによる大粛清の時代が待ち受けている。中国共産党もそう。国共内戦の結果、国民党を台湾に追いやったはよいが、大躍進政策の失敗で幾千万人もの餓死者をだし、文化大革命では国内の文化を破壊せずにはいられなかった。キューバ革命も、革命のアイコンであるチェ・ゲバラが革命後どういう生涯を送ったか。彼は革命当初はカストロの右腕として内政を担当した。それはまさに孤軍奮闘が相応しい活躍だった。革命の理想に現実を近づける事業に疲弊した彼は、キューバを出奔してしまう。内政を諦めたゲバラはコンゴやボリビアでの革命闘争に自らの天命を捧げることになる。我が国でも同様の例はある。日本赤軍があさま山荘事件で破滅するまでの間、凄惨なリンチと自己批判の末に内部崩壊したことは記憶に新しい。革命後に国を運営することに成功したまれな例である我が国の明治維新ですら、維新後十年もたたずに内乱と暗殺によって維新の三傑のうち二人を失っているのだ。

乱世の梟雄でありながら、治世の能臣たり得ること。それが困難なことは上に挙げたように今までの歴史でも明らかだ。ロベスピエールもその困難を克服できなかった。彼は体制のクラッシャーとしては名をはせた。しかし、体制のクリエイターとしては失格の烙印を押されている。

そもそも、革命を軌道に乗せるためには、革命を支持した者への利害の調整が求められる。ただ旧体制の打倒とスローガンを掲げておけばよかった革命期とちがうのはそこだ。革命そのものよりも、革命後の治世こそ格段に難しい。そして、革命に掲げた自らの理想が高ければ高いほど、革命後の利害の調整にがんじがらめになってしまう。その結果、ロベスピエールが採ったような極端な恐怖政治の路線に舵を切ってしまうのだ。追い込まれれば追い込まれるほど、自分の理想こそが唯一無二であると殻をまとってしまう。そして視野は絶望的に狭くなる。本作はそのような状態に陥ってゆく人物の典型が描かれる。徐々に追い詰められ、自らの理想で首が絞まってゆくロベスピエールを通じて。

彼の抱く理想は、決して荒唐無稽なものではなかった。例えば、
 ロベスピエール「人にはそれぞれの心がある。そして心で憎み合い、争い、奪いあう。その連鎖を止める手立てを探している。その理を見つける事ができるなら、私は私の命を差し出しても惜しくない」
 マリー=アンヌ「それがあなたの理想なの?」
  ロベスピエール「いや、願いだ。願いは未来だ。理想は思い出と共にある」
第7場のこのやりとりで、ロベスピエールは自らの理想が過去にあることを図らずも吐露している。過去にあったことは、実現できた経験に等しい。「未来へ~」と合唱するマリー=アンヌとロベスピエールの願いは美しく響く。それはロベスピエールの理想が過去に実現されたもの、すなわち未来にかなうはずの願いだからこそ美しいのだ。

しかし、彼の理想は現実の前に色あせてゆく。第10場で盟友だったはずのダントンから投げられる言葉がそれを象徴している。
 ダントン「これだけは覚えておけ、俺たちは理想のために革命を始めた。だが、政治ってやつは俺たちが思っている以上に現実なんだ。現実の前では理想なんて無力なもんだ」
 ロベスピエール「無力だと」
このセリフなどは、先にも紹介した歴史上の革命家がたどった挫折そのままだ。

第13場Bの場面では、ダントンが最後にロベスピエールを説得しようとして、ロベスピエールの理想主義者としての致命的な弱点を暴く。
 ダントン「わかってないのはお前の方だ。理想だ、徳だと口では言うが、おまえが与えているのは血と生首と恐怖だ」
 ロベスピエール「今はそう見えるかもしれない。だが、革命が達成されればいずれ」
 ダントン「いいや、そんな日は来ない」
 ロベスピエール「なぜ、そう言いきれる」
 ダントン「おまえが喜びを知らないからだよ。どういうわけか、お前は喜びを遠ざける」
結局、人は理想よりも、目の前の美食や美酒、美女に目移りする生き物なのだ。清廉であろうとすればするほど、潔白であろうとすればするほど、それを人に強要した時に思い通りに動いてくれない他人と自分の思惑にずれが生じてゆく。上のダントンとの会話などまさにその事実を証明している。

なお、今回はこれらのセリフを本レビューで再現すべきだと思ったので、妻にお願いしてLe CINQという劇の詳しいパンフレットを買ってもらった。その中には全セリフが収められており、上記もそこから引用させてもらっている。

本作の何がよいかといえば、場面転換のメリハリだ。本作はセットとライトアップがうまく組み合わされており、場面が転換する瞬間と、前後の場面の主役が誰なのかを観客に明確に伝えることに成功している。今まで見た観劇よりも本作で場面転換の鮮やかさが印象に残った理由は何か。私が思うにそれは、本作のいたるところに描かれていたギロチンをかたどった斜めの線だと思う。開幕前に上がった緞帳の裏には、幕に銀色の筋が右上へと伸びていた。20度ほどの角度で右上に伸びる線がギロチンをかたどっていることはすぐにわかった。そしてこの線は建物のひさし、橋に映る影など、本作を通して舞台のあちこちで存在感を主張する。中でも印象に残るのは、上に紹介したロベスピエールとマリー=アンヌが語らうシーンだ。このシーンで二人が語らう橋に映る影として。それはロベスピエールの目指す革命がギロチンによって断ち切られることを予期しているのと同時に、二人の目指す未来が右肩上がりの線上にあることも示しているのだと思う。つまり、彼の目指す革命とは、この時点では実現が見込めており、二人の未来と表裏一体だったのだ。本作では場面ごとの主人公の心理が斜めによぎる線の色や輝きで表現されている。そのため、場面ごとに何に感情を移入すればよいのか、観客には絶妙なガイドになっているのだ。私はそう受け取った。私が本作の場面転換のメリハリが効いていたと思うのは、そういうところにある。

あと、本作で良かったのは声の通りだ。私が座ったのは1階22列。結構後ろのほうだ。それなのに出演者が発するセリフも、そして何十人もの合唱の言葉も比較的聞き取れた。実は私はあまり耳の聞こえが良くない。今までも観劇をしていて聞き取りにくいことなどしょっちゅうだった。が、本作のセリフはよく聞き取れた。これはとても珍しくそしてうれしい。上でLe Cinqからセリフを引用したのも、本作のセリフがよく聞き取れるがゆえにかえって覚えきれなかったことが理由だ。トップの二人の歌声も素晴らしく、それに加えてセリフもよく聞こえる本作は、私にとって気持ちのよい一作となった。

なお、トップ娘役の真彩希帆さんの演ずるマリー=アンヌは、作・演出の生田大和氏がパンフレットで語った言葉によると本作において唯一の架空の人物のようだ。何の不自由もない貴族の暮らしが革命の勃発によって婚約者ともども奪われ、その復讐のために革命の立役者として著名なロベスピエールを狙って近づくうちに恋に落ちるという設定だ。まさに絶妙な設定であり配役だと思う。上に挙げたシーンでは、ロベスピエールの望む理想の暮らしが、マリー=アンヌの失った日々にシンクロするという演出が施され、彼らの掲げる理想が実現する可能性が説得力をもって観客に迫ってきた。

本作は二幕物が好きな私にとって、一幕でも尺の短さが気にならないほど、起承転結がしっかりとまとまった作品として記憶に残ると思う。

さて、レビューである。私がこのところ宝塚を観劇する上で心がけていること。それはレビューの魅力に開眼することである。凄惨な処刑のシーンや悩み苦しむ主人公を見るだけでは観客のカタルシスが得られない。それは私もわかっているつもりだ。だからこそ一幕物の後にはレビューが配され、華麗なラインダンスや目まぐるしく切り替わるきらびやかなシーンで観客の目を奪わねばならない。それも理解しているつもりだ。

正直なところ、まだ舞台に物語性を求める私にとって「SUPER VOYAGER!」と名付けられた本作の魅力がつかみ取れたとは言えない。だが、私は本作を観る前から肝に銘じていたことがある。すなわちレビューに物語性を追うのが徒労だということだ。そういう物語性を排した視点から見ると、本作は二カ所が記憶に残った。一つ目はシーン17,18で披露された白燕尾の群舞のシーンだ。大階段を上り下りしながら、斜めに交差する動き。実に見事だったと思う。あと一つ印象に残ったこと。それはオーケストラボックスの演奏だ。本作で惹かれたのはここだ。リズム隊やギターなど、オーケストラボックスから流れる演奏にビートと切れがみなぎっていた。

私は演奏する姿を見るのが好きだ。ロックコンサートでもついついドラマーの一挙手一投足に目が行ってしまうくらいに。そんな私なので、キレっキレの本作の演奏が流れてくるオーケストラボックスの中をついのぞいてみたくなった。そしてオーケストラボックスの中の人々を表に出せないのだろうか、と妄想をたくましくしてしまった。もちろんオーケストラが表に出れば、舞台のジェンヌさんは隠れてしまう。それはほとんどの観客にとって不本意なことに違いない。多分、圧倒的多数の方に反対されるだろう。でも、オーケストラボックスを底上げするなどして、オーケストラの皆さんを表に出す演出もあってもいいではないか。一度くらい、舞台の華麗な群舞と歌、そして楽器を奏でる皆さんが一堂に集まる様を眺めてみたいと思うのだが。どうだろうか?

‘2018/02/01 東京宝塚劇場 開演 13:30~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/hikarifurumichi/index.html


ベルリン、わが愛/Bouquet de TAKARAZUKA


本作は、私にとって初めて独りだけで観た舞台だ。独りだけで観劇することになった事情はここでは書かない。ただ、私の妻子は事前に本作をみていた。そして妻子の評価によると本作は芳しくないようだ。むしろ下向きの評価だったと言ってよいくらいの。そんな訳で、私の期待度は薄めだった。正直、事前に妻子が持っていたパンフレットにも目を通さず、あらすじさえ知らずに客席に座ったくらいだ。

そんな消極的な観劇だったにも関わらず、本作は私に強い印象を残した。私の目には本作が、宝塚歌劇団自らが舞台芸術とは何かを振り返り、今後の舞台芸術のあり方を確かめなおそうとする意欲作に映った。

なぜそう思ったか。それは、本作が映画を取り上げているためだ。映画芸術。それは宝塚歌劇そのものである舞台芸術とは近く、それでいて遠い。本作は舞台の側から映画を描いていることが特徴として挙げられる。なにせ冒頭から舞台上に映画館がしつらえられるシーンで始まるのだから。別のシーンでは撮影現場まで登場する。今まで私は舞台の裏側を描く映画を何作も知っている。が、舞台上でここまで映画の内幕を描いているのは本作が初めてだ。

舞台の側からこれほどまでに映画を取り上げる理由。それは、本作の背景を知ることで理解できる。本作の舞台は第二次大戦前のベルリンだ。第一次世界大戦でドイツが課せられた膨大な賠償金。それはドイツ国民を苦しめナチスが台頭する余地を生む。後の1933年に選挙で第一党を獲得するナチスは、アーリア人を至上の人種としユダヤ人やジプシー、ロマを迫害する思想を持っていた。その過程でナチスによるユダヤ人の芸術家や学者を迫害し、大量の亡命者を生んだことも周知の通り。そんな暗い世相にあって、映画はナチスによってさらにゆがめられようとしていた。映画をプロパガンダやイデオロギーや政治の渦に巻き込んではならない。そんな思いをもって娯楽としての映画を追求しようとした男。それが本作の主人公だ。脚本は原田諒氏が担当した宝塚によるオリジナル脚本である。

冒頭、舞台前面に張られたスクリーンにメトロポリスのタイトルがいっぱいに写し出される。私はメトロポリスはまだ見ていない。だが、メトロポリスをモチーフにしたQUEENの「RADIO GA GA」のプロモーションビデオは何度も見ている。なので、メトロポリスの映像がどのような感じかはわかるし、それが当時の人々にとってどう受けいれられたかについても想像がつく。

あらすじを以下に記す。METROPOLISのタイトルが記されたスクリーンの幕が上がると、プレミアに招待された人々が階段状の席に座っている。期待に反して近未来の描写や希望の見えない内容を観客は受け入れられない。人々は前衛過ぎるメトロポリスをけなし、途中退席して行く。メトロポリスを監督したのはフリッツ・ラング監督。この不評はドイツ最大の映画会社UFAの経営を揺るがしかねない問題となる。

そこで、次期作品の監督に名乗りを上げるのが、本作の主人公テオ・ヴェーグマンだ。彼はハリウッド映画に遅れまじと、トーキー映画を作りたいとUFAプロデューサーに訴え、監督の座を勝ち得る。

テオは友人の絵本作家エーリッヒに脚本を依頼する。さらに、当時ショービジネス界の花形であるジョセフィン・ベーカーに出演を依頼するため、楽屋口へと向かう。ベーカーは自らが黒人であることを理由に出演を辞退するが、そのかわりテオはそこで二人の女優と出会う。レニ・リーフェンシュタインとジル・クラインに。テオは、果たして映画を完成させられるのか。

本作は幕開けからテンポよく展開する。そして無理なく出演者を登場させながら、時代背景を描くことも怠らない。ここで見逃してはならないのが、人種差別の問題にきちんと向きあっていることだ。ジョセフィン・ベーカーはアメリカ南部出身の黒人。当時フランスを中心に大人気を博したことで知られる。本作に彼女を登場させ、肌の色を理由に自ら出演を断らせることで、当時、人種差別がまかり通っていた現実を観客に知らしめているのだ。先にも書いたとおり、ナチスの台頭に従って人種差別政策が敷かれる面積は広がって行く。それは、人種差別と芸術迫害への抵抗という本作のテーマを浮き彫りにさせてゆく。

本作が舞台の側から映画を扱ったことは先に書いた。特筆すべきなのは、本作が映画を意識した演出手法を採っていることだ。それはスクリーンの使い方にある。テオが撮った映画でジルが花売り娘として出演するシーンを、スクリーンに一杯に映し出す演出。これはテオの映画の出来栄えと、ジル・クラインの美しさを際立たせる効果がある。だが、この演出は一つ間違えれば、舞台の存在意義を危うくしかねない演出だ。舞台人とは、舞台の上で観客に肉眼で存在を魅せることが使命だ。だが、本作はあえて大写しのスクリーンで二人の姿を見てもらう。この演出は大胆不敵だといえる。そして私はこの演出をとても野心的で意欲的だと評価したい。しいて言うならば私の感覚では、モノクロの映像があまりにも鮮明過ぎたことだ。当時の人々が映画館で楽しんだ映像もフィルムのゴミや傷によって多少荒れていたと思うのだが。わざと傷をつけるのは「すみれコード」的によろしくないのだろうか。

美しい花を売る演技によって、端役に過ぎなかったジル・クラインはヒロインのはずのレニ・リーフェンシュタインを差し置いて一躍スターダムな評価を受ける。さらには、そのシーンに心奪われたゲッベルスに執心されるきっかけにもなる。

プライドを傷付けられたレニは、ジル・クラインがユダヤ人の母を持つこと、つまりユダヤの血が流れていることをゲッベルスに密告する。そしてナチスという権力にすり寄っていく。そんなレニのふるまいをゲッベルスは一蹴する。彼女がユダヤ人であるかどうかを決めるのはナチスであると豪語して。ジル・クラインに執心するあまりに。史実ではゲッベルスはドイツ国外の映画を好んでいたと伝えられている。本作でもハリウッドの名画をコレクションする姿など、新たなゲッベルス像を描いていて印象に残る。

あと、本作で惜しいと感じたことがある。それはレニの描かれ方だ。史実ではレニ・リーフェンシュタインは、ナチスのプロパガンダ映画の監督として脚光を浴びる。ベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」の監督としても名をはせた彼女。戦後は逆にナチス協力者としての汚名に永く苦しんだことも知られている。ところが、本作ではレニがナチスに近いた後の彼女には一切触れていない。例えば、レニが女優から監督業にを目指し、ナチスにすり寄っていく姿。それを描きつつ、そのきっかけがジルに女優として負けたことにある本作の解釈を延ばしていくとかはどうだろうか。そうすれば面白くなったと思うのだが。もちろん、ジル・クラインは架空の人物だろう。でも、レニの登場シーンを増やし、ジルとレニの関係を深く追っていけば、レニの役柄と本作に、さらに味が出たと思うのだが。彼女の出番を密告者で終わらせてしまったのはもったいない気がする。

もったいないのは、そもそもの本作の尺の短さにも言える。本作がレビュー「Bouquet de TAKARAZUKA」と並演だったことも理由なのだろうけど、少し短い。もう少し長く観ていたかったと思わせる。本作の幕切れは、パリへ向けて亡命するテオとジルの姿だ。客車のセットを舞台奥に動かし、降りてきたスクリーン上に寄り添う二人を大写しにすることで幕を閉じる。この流れが、唐突というか少々尻切れトンボのような印象を与えたのではないか。私も少しそう思ったし、多分、冒頭にも書いた妻子が低評価を与えたこともそう思ったからではないか。二人のこれからを観客に想像させるだけで幕を下ろしてしまっているのだ。ところが本作はそれで終わらせるのは惜しい題材だ。上に書いた通りレニとジルのその後を描き、テオに苦難の人を演じさせるストーリーであれば、二幕物として耐えうる内容になったかもしれない。

惜しいと思った点は、他にもある。本作にはドイツ語のセリフがしきりに登場する。「ウィルコメン、ベルリン」「イッヒ! リーベ ディッヒ」「プロスト!」とか。それらのセリフがどことなく観客に届いていない気がしたのだ。もちろん宝塚の客層がどれぐらいドイツ語を理解するのかは知らない。そして、これらのセリフは本筋には関係ない合いの手だといえるかもしれない。そもそも他のドイツを舞台にした日本の舞台でドイツ語は登場するのだろうか。エリザベートは同じドイツ語圏のウィーンが舞台だが、あまりドイツ語のセリフは登場しなかった気がするのだが。

なぜここまで私が本作を推すのか。それは権力に抑圧された映画人の矜持を描いているからだ。 ナチスという権力に抗する映画人。この視点はすなわち、大政翼賛の圧力に苦しんだ宝塚歌劇団自身の歴史を思い起こさせる。戦時中に演じられた軍事色の強い舞台の数々。それらは、宝塚自身の歴史にも苦みをもって刻印されているはず。であれば、そろそろ宝塚歌劇団自身が戦時中の自らの苦難を舞台化してもよいはずだ。なんといっても100年以上の歴史を経た日本屈指の歴史を持つ劇団なのだから。 本作で脚本を担当した原田氏は、いずれその頃の宝塚歌劇の苦難を舞台化することを考えているのではないか。少なくとも本作のシナリオを描くにあたって、戦時中の宝塚を考えていたと思う。私も将来、戦時中の宝塚が舞台化されることを楽しみにしたいと思う。

それにしても舞台全体のシナリオについて多くを語ってしまったが、主演の紅ゆづるさんはよかったと思う。彼女のコミカルな路線は宝塚の歴史に新たな色を加えるのではないか、と以前にみたスカーレット・ピンパーネルのレビューで書いた。ところが、本作はそういったコミカルさをなるべく抑え、シリアスな演技に徹していたように思う。歌も踊りも。本作には俳優さん全体にセリフの噛みもなかったし。あと、サイレントのベテラン俳優で、当初テオには冷たいが、のちに助言を与えるヴィクトール・ライマンの名脇役ぶりにも強い印象を受けた。

先に舞台上に演出された映画的なセットや演出について書いた。ところが、本作には舞台としての演出にも光るシーンがあったのだ。そこは触れておかないと。テオがジルにこんな映画を撮り続けたいと胸の内を述べるシーン。テオの回想を視覚化するように映写機を手入れする若き日のテオが薄暗い舞台奥に登場する。銀橋で語る二人をピンスポットが照らし、舞台にあるのは背後の映写機と二人だけ。このシーンはとてもよかった。私が座った席の位置が良かったのだろうけど、私から見る二人の背後に映写機が重なり一直線に並んだのだ。私が今まで見た舞台の数多いシーンでも印象的な瞬間として挙げてもよいと思う。

あと、宝塚といえば、男役と娘役による疑似キスシーンが定番だ。ところが本作にそういうシーンはほとんど出てこない。上に書いたシーンでもテオはジルに愛を語らない。それどころか本作を通して二人が恋仲であることを思わせるシーンもほとんど出てこない。唯一出てくるとすれば、パリ行きの客車に乗り込もうとするジルの肩をテオの手が包むシーンくらい。でも、それがいいのだ。

宝塚観劇の演目の一つに本作のような恋の気配の薄い硬派な作品があったっていい。ホレタハレタだけが演劇ではない。そんな作品だけでは宝塚歌劇にもいつかはマンネリがくる。また、本作には宝塚の特長であるスターシステムの色も薄い。トップのコンビだけをフィーチャーするのではなく、登場人物それぞれにスポットを当てている。私のように特定の俳優に興味のない観客にとってみると、このような宝塚の演目は逆に新鮮でよいと思う。そういう意味でも本作はこれからの宝塚歌劇の行く先を占う一作ではないだろうか。私は本作を二幕もので観てみたい、と思う。

ちなみに、この後のレビュー「Bouquet de TAKARAZUKA」は、あまり新鮮味が感じられず、眠気が。いや、このレビューというよりは、もともと私がレビューにあまり興味のないこともあるのだが。でも、それではいかんと、途中からはレビューの面白さとはなんなのかを懸命に考えながらみていた。それでもまだ、私にはレビューの魅力がわからないのだが。でも「ベルリン、わが愛」はよかったと思う。本当に。

‘2017/12/20 東京宝塚劇場 開演 13:30~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/berlinwagaai/index.html


極上コントLIVE


本作、とにかく笑わせてもらった。極上コントLIVEと名乗るだけのことはある。なにがいいって、ナマの活き活きとしたオオサカンな笑いを間近で観られたことだ。本作はお笑いを忘れていた私に笑いを思い出させてくれた。

私はこう見えてもオオサカンな人だ。お笑い大好き。ところが、東京に出てきて仕事するようになってからというもの、私からお笑いの要素が失われてしまった。

今、本音採用というサイト内のブログで私の若かりし頃の話を書いている。書いていて思い出すのが、気楽だった頃の私はとても天然ボケな人間でよく笑われていたことだ。でも、書かなければ思い出さない時点で、自分がお笑いから遠い場所にいることを告白しているに等しい。私は仕事になると集中するあまり、無口でムッツリになり近寄りがたくなる。困ったことに私が仕事でステップアップしていくにつれ、仕事での集中度合いは増え、それにつれて面白成分は減っている。正直なことを言うと、仕事をしている時の自分の性格は自分でもあまり好きじゃない。ブログを書いていて思うのが、東京に出るまでの私は世間に慣れていない分、愛すべき人間だったなあということだ。今、私にはお笑いが必要なのだ。

幼稚園から高校までを西宮で過ごしたので、自然とオオサカンな笑いの呼吸は身についている、はず。通っていた関西大学では桂文枝師匠も属していた落語大学の高座も体験ずみ。なんばグランド花月では吉本新喜劇の舞台をバイト仲間達と楽しんだこともある。ところが今の私からは、そういう笑いの部分が見事に欠け落ちているのだ。ロジックとデータが求められるIT業界で“起業“したことは、私からお笑いを奪っていった。

そこで本作だ。出演者がとても豪華。吉本クリエイティブエージェンシー、松竹芸能、マセキ芸能社、WAHAHA本舗から数人ずつ舞台人が集結している。その数総勢14人。なんというぜいたくか。

もちろん全員がオオサカンな人たちではないだろう。ところが、ノリがとてもオオサカンな感じだったのだ。それでいて、吉本新喜劇のノリとは一風違ったライブ感にあふれた良質なコントが楽しめるという。

鯛プロジェクトの舞台は『十字架は眩しく笑う』を観て以来だ。その時も大団円に仕掛けられた布石の鮮やかさに舌を巻いた。そして、今回のようなLIVE感あふれた舞台でも伏線を敷き、それを幕締めで回収するのだからすごい。本作はオムニバス形式になっている。五つに分かれた演目。それぞれが別々の演目で、お互いに全く関係はない。

ところが、進行役の田井弘子さんは、それを結婚式の演し物として扱おうとする。つまり、田井弘子さんは結婚式の司会なのだ。一緒に進行役をつとめるせとたけおさんは、前説も担当していた。それなのにさらに司会のパートナーまで担当する。ところが、結婚式の司会になりきろうとする田井さんの演出の意図を読めず、極上LIVEコントの司会なのに、なんで結婚式?てな感じで終始ずれている。結婚式の司会の役目をまっとうしようとする田井弘子さんが「新郎新婦が。。。」とセリフを発するたびに「いや、新郎新婦なんかいないでしょ!、いるのは役者さんだけじゃないですか!」とすれ違いのやりとりが展開される。それがまた面白い。そしてこのやり取りが終幕への布石になっているのだ。

最初の演目は「絶え間なく注ぐ愛の名を」によるコント「遭難」である。舞台の上手に置かれたドラムセットとギターで前奏が始まる。おお、これは生演奏付きのコントなのか、ひょっとしてGLAY風?と思いきや、下手から現れたのは防寒着に身を包んだ一組の男女。吹雪に見舞われ、偶然見つけた山小屋に駆け込んで来た様子。とんでもないところに連れてきて、と志賀正人さん演ずる男をなじる女。それは、ついさっきまで司会していたはずの田井さん。司会からどんな早変わりやねん、と突っ込むまもなく山小屋の男女はケンカをはじめる。と、そこに来客が。すわ、救助隊かと思ったら、それは地の果てまで男を追ってきた借金取り立てのヤクザ。あれ、この人さっきまでドラムたたいてなかったっけ?と問う間もなく、ヤクザは男が作った300万の借金を返せと迫る。男は女への指輪を買うため20万を借金したことを告白し、標高3000メートルの山小屋でプロポーズする。20万に暴利を付けまくったヤクザは、その二人の姿に情をほだされ、身の上話を語る。と、そこにヤクザの身の上話に登場するママが現れる。山小屋の近くでスナックを営むママ。なんて突っ込みどころ満載な設定に加え、お店のホステスの女の子もヒョウ柄でやって来て、話は一気に大団円に。

最後に人情味を打ち出して来るあたり、吉本新喜劇の展開を思わせる。幕の締めに「エクスタシー」が流れるあたりも私のツボを的確に押してくる。さすがの吉本新喜劇にも3000メートルなんて設定ないと思うけど、その設定のおかしさがこのコントの肝。寒そうな男女とヤクザに対し、ゴージャスな衣装のママさんとヒョウ柄タイツのホステスのギャップが面白い。久々に吉本新喜劇を堪能させてもらった気分。笑った笑った。ママ役の佑希梨奈さんは、今回私と妻を『極上コントLIVE』に呼んでくださいました。ありがとうございます。それにしてもさすが吉本新喜劇に出られた方。標高3000メートルなのに出てきた瞬間、ここはナニワでっか?の世界に一瞬で変える。さすがは存在感のなせるわざ。おかしなステップを踏みつつ退場するヒョウ柄の桜千歌さんもアクセントになっていてよかった。翻弄されまくる志賀正人さんの突っ込みが関東風なのに比べて、ヤクザの西島巧輔さんのオオサカンな感じが対照的なのもよかった。

続いては「Wa×Ta×Su」によるコント「浮気」。妻の浮気現場に帰ってきた旦那、そして浮気する妻と間男の三組。これがまた、勢いとライブ感にあふれていて大いに笑わせてもらった。何とかしてその場をごまかし立ち去ろうとする間男と、問い詰めようとする旦那。その追いつ追われつの関係は、スラップ・スティックにぴったり。追う側と追われる側が逆転し、ねじれ、それをさらにもつれさせる浮気妻の行動が混乱に拍車をかける。こういうコントってディスプレイ越しに見るより、ライブで見たほうが絶対に面白い。畳み掛けるようなボケとツッコミの応酬がたまらない。笑った笑った。旦那役のすがおゆうじさんは『十字架は眩しく笑う』の怪演がとても印象に残っていて、今回楽しみにしていた。今回はどちらかというと突っ込み役だったが、的確な突っ込みはさすがというべき。奥さん役の谷川功さんはいで立ちからして怪しさ爆発で、ずれた感じがノリ突っ込みのリズムに変拍子を刻んでいた。間男の我善導さんは、ハイテンションな勢いを通していたのがすごい。我さんの勢いがゆるむとこのコントの良さが出ないだけに、まさに肝というべきか。私はWAHAHA本舗の舞台はまだ未体験だが、一度観てみたいと思った。

続いての舞台は「ボンバーガール」による懐メロソングスとトーク。これがまた、わたしにはツボだった。唄のうまさはさすがというべき。それ以上に間のMCがうれしくて。私が失ってしまったオオサカンなノリなのがたまらない。こういう会話のやり取りがぽぽぽポンと出てくるのって、脳のコミュニケーション神経が光ファイバー並にぶっとくなってないと無理やな、と。こういうやりとりって、東京ではまず聞かれない。そして、考えるより先に言葉を発するなんてビジネスやってたら一番気をつけなあかん、と東京で萎縮してしまった成れの果てがわたし。こういうノリで会話できるようにリハビリせなあかん、と思った。笑った笑った。あとで妻に聞いたところ、佑希梨奈さんと桜千歌さんは実の姉妹だそうで。実は夜の打ち上げの忘年会にも御呼ばれしていたのだが、妻が翌朝早いため参加を断念した。もし飲み会に出られていればお二人とはおしゃべりしてみたかったなぁ、と。

それにしても、『ヨーデル食べ放題』の歌を知らんかったとは不覚。鶴橋の焼肉屋とか20年近く行ってないもんなあ。

ここで司会の田井さんのパートナーがせとさんから「遭難」でドラマー兼やくざを演じた西島巧輔さんに交代。せとさんは結婚式であるとの空気が読めず退場した(笑)らしく。西島さんがせとさんと同じ過ちをおかすまいと話に合わせていた様がまた面白い。舞台人ってとにかく頭の回転が速くないと絶対に務まらんなあ、と頭の回転数が洗濯機なみの私は思った。

続いての舞台は「ちかまろの館」による「御見合いパーティー」。本作は昨日と今日の二日間公演なのだが、「ちかまろの館」は昨日と今日で違うコントを演ずるとか。お見合いパーティーに集まった五人の男女。主催者の女性、三人の参加者、そして結婚詐欺師がいるとの情報を得て潜入捜査で入り込んだ刑事の男。五人の男女が織りなすコントはとても面白く、すれ違いネタや細かいところへのこだわりなど、くすぐり要素がたくさん。急造の仕上がり故か、間合いがもう少し、というところもあったけれど、これまた笑わせてもらった。なにげに主催者役の野中美智子さんの突っ込みが絶妙というか。笑った笑った。それにしてもこれだけの内容を二日違うコントとして演ずる皆さんってすごい。整形した女役の宮島小百合さんの感じ、ムートン伊藤さんの怪しげな結婚詐欺師ぶり、ジッコさんのぼけまくった端正な刑事役、そしてちかまろさんの勘違いしまくった“無理やりお見合い参加女“な感じなど、前日のコントもさぞや面白かったんだろうな、と思える。観てみたかった。

最後の舞台は「シ・ジウ」による「走馬灯のように」。せとさん演ずる平凡な主人公が事故に遭い、跳ね飛ばされている間に人生を振り返るという趣向。これがまた、とても面白かった。主人公が自らの思い出をたどっていく構成になっている。その人生で通り過ぎて行った人々が登場するが、登場の仕方や、彼らをあしらうせとさんの対応がなんともクールで面白い。田井さんとの司会でも高みから見る妙な冷静さ加減がおかしさを醸し出していた。この演目でもそれが全開だった。主人公は冷静に自分の走馬灯を振り返っているのに、まわりの三人が邪魔をするのだ。『十字架は眩しく笑う』では人のよさそうな僧侶の八百屋さんを演じられていたけれど、こちらのほうがせとさんのキャラの面白さがよく出ていたと思う。周りの三人、田井さんも伊藤大輔さんも伊藤美穂さんも絶妙に主人公の走馬灯のノスタルジーを荒らしていてよかった。伊藤大輔さんの性を超越したようなあやしげな思い出の中の人がおかしかったし、伊藤美穂さんの登場っぷりも舞台とリアルをメタ的に行き来するような感じでとてもシュール。また、最後は三人が並行で別々のセリフを語り、お互いの走馬灯を行き来する。それは同じトラックに同時に跳ね飛ばされていたから、というオチ。全く関係ないセリフがシンクロする様子は、演劇的なケレン味にみちていて面白い。第三舞台か、という内輪ネタも飛び出していたが、まさにそういう感じ。そういえば第三舞台も観たことがない。高校時代はよく主催の鴻上さんの本は読んでいたが。

こうして、舞台は幕を閉じ、出演者が勢ぞろいしての大団円となる。が、田井さんはまだ「新郎新婦が、、、、」といっている。どこまで結婚式の設定を引きずんねん、という突っ込みにもめげず。そして、ここで冒頭からの布石が効いてくるのだ。どこにも新郎新婦はいないやんか、いや、せとさんという新郎がいるやないか、という。新婚ほやほやであるせとさんをいじり、ここでお約束のサプライズ、奥さんが登場、と思わせておいて、よしもと芸人のDH奥さんが登場。ここで野球選手(DeNAの筒香選手)のマネでウケをとるDH億さん。奥さんやなくて億さんかい、という突っ込みを受けつつ、せとさんがこのサプライズ昨日も、と内輪を暴露。ところがそんなせとさんにさらなるサプライズが。なんと本当の奥さまご登場。舞台関係者ではないので仮面をかぶっての登場。舞台終演後、せとさんが横で語っている言葉を聞いた限りでは文字通りのせとさんへのサプライズ演出だったそうな。こうして『極上コントLIVE』は名実ともに新郎新婦への晴れ舞台となり、見事に布石を回収しきったわけだ。うーん、お見事。

こちらの会場は ライブハウス 新宿グラムシュタインといい、名前の通り普段はライブハウスらしい。舞台も狭ければ、舞台と観客の間も触れれば届くくらい。開演時間ぎりぎりに入った私は、最初楽屋口の通路近くの席に案内された。ところが、あまりにも狭く、俳優さんたちの通行を邪魔しかねない。それで中央後ろの席に再度案内された。それくらい狭い空間。でも、それぐらいの狭さのほうが、かえってコントのライブ感は高まる。お笑いの場の雰囲気も凝縮されてよいのかも。この場の凝縮感はテレビや演芸場で見るコントでは味わえないものだ。笑いを忘れた私も、これぐらいの規模の会場で笑いの空気に感染していたら、かつての私を取り戻せるだろうか。これからもこういう舞台にはちょくちょく顔を出させてもらえたらと思う。

‘2017/12/15 新宿グラムシュタイン 開演 19:30~


画狂人 北斎


ここ一年、私にとって両国界隈はぐっと身近な場所となった。個人的に訪れるのは、江戸東京博物館や国技館、回向院、横網町公園やクラフトビールパブのpopeyeなど。そしてこの一年で、両国でお仕事のご縁も結ばせていただくことになった。今、私にとって両国は公私ともに熱い場所だ。

本作を観る機会も両国でのお仕事のご縁からいただいた。観劇の一週間前のこと。おかげで素晴らしい舞台経験ができた。きっかけをくださった方にはとても感謝している。

昨年秋にすみだ北斎美術館が開館したことは記憶に新しい。だが、わたしはまだ訪れていないし、積極的に観に行こうとも思っていなかった。両国界隈を歩くと嫌でも葛飾北斎の痕跡が目につくのに。例えば生家跡だったり寓居跡だったり。江戸時代の風情が残されているとはいえない両国界隈だが、北斎が遺した足跡は両国のあちこちに点在している。それなのに、私は両国を何度も訪れながら、ついに北斎自身に興味を持つことがなかった。

でも今は違う。今の私は北斎にとても興味をもっている。なぜなら本作を観たから。本作こそは、私に葛飾北斎の世界を教えてくれた。科学者並みに計算され尽くした構図。枠にはまらず、破天荒な人生観。画に打ち込んだ壮絶な執念の力。北斎の娘お栄との奇妙な生活。齢90を控え、なお長命を欲した活発な意思。北斎を知れば知るほど、北斎は私の生き方の範となるべき人物に思えてくる。中途半端な私の生き方を、よりアグレッシブにしたのが北斎ではなかったか。生涯に93回引っ越し、三万点の作品をのこし、画号を幾度も変え、貪欲に自らの生き方を追求した人物。そう伝えられているのが葛飾北斎。知れば知るほど魅力的に思えてくる。

本作は、葛飾北斎についての朗読劇だ。朗読劇、という芸術形式は私にとっては初めて。朗読会のような感じだろうか。あるいは直立不動、または座像のように動かぬ朗読者たちが、単調に台本を読んでいくような光景。レコーディングスタジオでアテレコする声優さんのような感じ?本作をみるまで、私はそんな想像を抱いていた。

ところがそうではなかった。本作は私の貧困な演劇知識で創造の及ぶような朗読劇ではない。そもそもそんなありきたりな演出を宮本亜門氏がよしとするはずはないのだ。本作は宮本亜門氏が演出と脚本を担当している。朗読劇と銘打たれているとはいえ、舞台のダイナミズムを損なうような演出をするはずがない。

朗読劇であるため、朗読者にはそれぞれのもち場が用意されている。その前には譜面台のような台本置きが設けられている。そこには台本が載せられている。朗読者たちはそれを読み、そしてめくっていた。しかし朗読者は、そこでただ台本を読んでいたのではない。読むのではなく、確かに演じていたのだ。朗読者たちは舞台を動きまわり、それぞれの役を演じる。そもそも、演じているのは名の知れた有名な役者さんであるから、台本など要らないはずなのだ。実際、舞台を動き回る時、役者さんの手元に台本はない。動と静。そこには確かな演劇のダイナミズムが息づいていた。

なぜ、このような形態を宮本亜門氏は採ったのだろう。わたしにはその真意がわからない。ただ、想像はしてみたい。私の想像だが、場面が頻繁に切り替えられるため、それを整理する進行役が必要だったからではないか。本作の舞台は平成29年の東京、そして化政文化華やかなりし江戸の二つだ。二つの時代を本作は幾度も行き来する。そのため、場面の進行役を置くことで場面展開を観客にわかりやすくした。そのため、朗読劇の形態を採ったという考えが一つ。

もう一つは、観客に北斎の魅力をわかりやすく伝えるためではないか。本作の狙いは、観客に北斎の魅力をわかりやすく紹介することにある。それは本作がすみだ北斎美術館のオープニングで上演され、大英博物館の北斎展で上演されたことからも明らかだ。本作は北斎研究家による講演の様子が登場する。背景にプロジェクションマッピングで北斎の絵がふんだんに表示される。朗読劇であれば、このように舞台から北斎研究家が講演する、という演出が観客に受け入れられやすい。また、講演という形態を採ることで、わかりやすく観客に北斎の紹介を済ませてしまえる。実に合理的な演出ではないか。だからこそ、朗読劇という体裁をとったのではないかと思う。

また、本作で工夫があるのが、現代側の場面にもドラマ性を持たせていることだ。現代東京に登場するのは北斎研究家の長谷川南斗とその助手峰岸凜。長谷川南斗は北斎の計算され尽くした構図を称賛し、現代に通じる北斎の先駆性を紹介する。彼の視野には北斎の娘であり、画家としても後世に名を遺すお栄の貢献は入らない。単なる北斎の娘、そして身の回りの世話をする女中としてしか。そんな師の説に助手の凛は違和感を感じる。ことあるごとに論を戦わせる二人。二人にはそれぞれの過去のしがらみがあった。南斗は双子の兄が画壇で天才画家として持てはやされた一方、自分には絵の才能がなかったことを劣等感として持ち続けている。それなのに兄は才能を持ったまま自殺してしまい、自分だけが遺されたことで劣等感を鬱屈している。美術評論家として糧を得ている現状も飽き足りていない。凛は画家としての将来を嘱望された天与のセンスの持ち主。だが、東日本大震災ですべてを失い、以来絵筆を折ったままの状態が続いている。

そういった背景を持たせることで、現代の二人に単なる北斎のキュレーター以上の役割を与えているのだ。それが本作により深みを与えていることは言うまでもない。演出の醍醐味とはこういうことなんだろうと思う。南斗を演じていた菊地創さんと凛を演じていた秋月三佳さんは、本作のポスターには写真付きで登場していなかったが、本作には欠かせない演者だったと思う。

そんな現代から一転して江戸。江戸では北斎と娘のお栄が喧々諤々としながら画業に専念している。白状すると、私は本作を観るまでお栄の存在を知らなかった。長谷川南斗には、単なるお手伝いとしてしか扱われなかったお栄だが、宮本亜門氏の演出ではお栄は単なるお手伝いや娘ではなく共作者として描かれている。

なぜお栄は北斎の陰に隠れ、共作者に甘んじているのか。そこには父北斎に対するお栄の尊敬がある。生活をともにすると絵以外には無頓着でうんざりさせられる父。「親でなければ、絵師でなければとっくに飛びだしていた」」とは、作中のお栄のセリフだ。ところが悪態をつき、伝法な口調で罵倒しながら、お栄は北斎から離れない。なぜならそこには尊敬があるから。あまりに巨大すぎる才能と絵に対する向上心。それがお栄を捕まえて離さない。

そんなお栄の複雑な感情を、演じる中嶋朋子さんは巧みに演じていた。本作の主題は、お栄とは北斎にとってなんだったか、だといっていい。つまり見方を変えれば本作の主役はお栄なのだ。お栄が父北斎に向ける複雑な心境をいかにして観客に伝えるか。ここに本作の肝があるように思う。そんな北斎を演じていたのが志賀廣太郎さん。気性の荒いお栄と同じぐらい奇天烈な北斎。ところが、本作の北斎は少しおとなしい。それもそのはず。本作で描かれる北斎は老境の北斎なのだから。達観しつつ、生には執着。悟りつつ、画業には貪欲。そんな老境の北斎を、志賀さんは見事に演じていた。

画狂人、鬼才、偏屈者。とかく天才画家にはそういうエキセントリックな人間像を当てはめやすい。だが実は、葛飾北斎とは志賀さんが演じた人ではなかったか。飄々とした、絵だけ描いていれば幸せな、その代わりに他のことは何もしないだけの人ではなかっただろうか。

本編が終わった後、宮本亜門氏と隅田北斎美術館館長の菊田氏によるアフタートークがあった。お二人のトークから感じられたのは、世界中で今なお研究され、賞賛される北斎の姿だ。そしてお二人が北斎を敬愛する様子も伺えた。それは、演劇の世界で活躍する宮本亜門氏の生き方にも反映するのだろう。開演前と開演後のロビーで談笑する宮本亜門氏からは、名声に興味をもたず、ただ演出が好きで北斎が好きな思いが伝わってきた。

北斎にしてもそう。他からの視点など気にすることはない。ただ自分の好きな道を一心不乱に生きればいい。人生を悔いなく生きるとは、まさにそういうことなんだなあ、と。

‘2017/09/17 曳舟文化センター 開演 17:30~

https://www.city.sumida.lg.jp/bunka_kanko/katusika_hokusai/hokusai_info/gakyojinhokusai.html


十字架は眩しく笑う


とても面白かった。こういうコメディ作品は大歓迎。

本作はシチュエーション・コメディの王道を歩いている。シチュエーション・コメディといえば、一つの固定された場面の中で、登場人物たちが繰り広げるすれ違いや、行き違いから生まれる笑いを描く喜劇の形式を指す。本作の舞台は、冒頭を除けば一貫してとある喫茶店の店内となっている。つまり、シチュエーション・コメディの要件を満たしている。その喫茶店を舞台に十人の登場人物が入れ代わり立ち代わり現れて、すれ違いを生む。これもシチュエーション・コメディの常道。

すれ違いの面白さを生むためには、観客にしっかりズレを伝えることが求められる。観客は舞台上で演じられる全ての動きを見ている。誰がどういうセリフをいい、そのセリフを誰がどのように受け取ったかをすべて把握している。そのセリフを誰がどう勘違いして受け止め、誰が見当違いの答えを返すか。観客は舞台で演じられる勘違いを笑いで受け止める。だからこそ、脚本がきっちりと計算されていないと役者の勘違いが勘違いでなくなってしまう。それは単なる役者の演技になり、笑いにつながらないのだ。

そのため、役者の勘違いも真に迫っていなければ、笑いにならない。役者の間で間合いが共有できていないと、勘違いは途端に嘘くさくなる。そして笑いは失速してしまう。つまり、シチュエーション・コメディとは、脚本と演技ががっちり噛み合わなければ面白くならないのだ。本作はその二つががっちり噛み合っていた。素晴らしい脚本と演技に感謝したい。

本作は、暗転した舞台から幕を開ける。ベンチに座っているのは一人の男。彼は失業し、求人誌を手に持っている。寄ってくる鳩たちに持っていた最後のパンをあげる。財布には28円。トートバッグにはマジックグッズが見える。マジックに夢を託そうとしたがそれも破れた。ヤケになってハンカチから財布を取り出して見せるが、金や職は都合よくハンカチから現れない。追い詰められ、絶望する主人公。

人生を投げてしまおうか。そう思うが、どうせ投げるなら、と入ったのが喫茶店の中。そこで彼は何をしようとしたのか。レジ荒らし? だが、彼は悪事に手を染めない。その代わりにそこから勘違いとすれ違いの歯車が回り出す。主人公に付いたハトのフン、それにおびき寄せられて来たハエと手に持った求人誌。それが誤解と騒動の引き金となる。出入りの八百屋、店員の三姉妹、おかしな常連客たちに突拍子もない闖入客、マスター。そこにマジシャンくずれの失業者が騒動を引き起こす。

忍び込んで来たはずが、行きがかり上「日本ハエと蚊コーポレーション」という害虫駆除業者になり、喫茶店の求人に応募して来た新人のウェイターにおさまる主人公。さらに誤解から店員の三女のパートナー(フィアンセ)になり、常連客のママからの願いで密かに惹かれ合っている長女と常連客をくっつけるために霊媒師にもなる。そして、次女からのお願いで体調を崩したオーナーに娘たちの嫁ぐ姿を見せようと、三姉妹それぞれに相手がいることをお膳立てしようとする。そんなところに、かつて次女がアイドルをやっていた頃、熱烈すぎてストーキングを働き、お詫びにと手作りケーキを持って来た男がやってくる。一つのウソがとてつもない誤解とすれ違いを引き起こしてゆく。シチュエーション・コメディの本領発揮だ。

なお、舞台後のあいさつで知ったのだが、このストーカー役を演じた多田竜也さんは、本番の二日前に急遽、小林さんが降板され、代役で起用されたとか。二日で合流したとはとても思えないほどオタクな感じが自然に出ていて、さすが役者さん、とうならされた。

ほかの俳優さんも、いずれも芸達者な方ばかり。冒頭に書いた通り、間合いが肝のシチュエーション・コメディ。少しでも演技らしさが混じると失敗しまう。そんなほころびを一切みせず、素晴らしい演技だったと思う。鯛プロジェクトのブログに紹介が載っているが、その順番でご紹介してみる。田井弘子さんは本作の企画と製作もつとめ、さらにおっとり長女役でも舞台に上がるという要の方。死んだ女性に憑依されながら、介護試験の勉強のためお婆さんも演じつつという複雑怪奇な場面は印象的。伊藤美穂さんは、しっかりものの次女役。最初は店に侵入した主人公を怪しく思う。が、オーナーである父を安堵させようと騒動に一役買う元アイドルという複雑な役を演じていたのが印象的。すがおゆうじさんは、本作では一番まともな役柄だが、真面目なあまり騒動に巻き込まれていく様、最後に人情あふれる雰囲気になってからは主役級の存在感を出していたのが印象的。せとたけおさんは、出入りの八百屋兼、地元劇団の素人俳優という役柄。ドラクエⅢの僧侶のいで立ちで現れる後半は、格好だけでも存在感ありありだった。喫茶店の地元の仲間という感じが印象的。田井和彦さんは、三女に思いを寄せる常連客の警官という役回り。これがまたとてもエキセントリックでいい味出しまくっていた。エキセントリックなのに憎めずほほ笑ましいキャラが印象的。中山夢歩さんは主人公。主人公でありながら、トリックスターとしても本作の重要な役どころ。とても端正なマスクでありながら、次々と周りの誤解に応えようとしてさらに舞台を混迷に陥れる様が印象的。堀口ひかるさんは、三女としてご出演。序盤から中盤にかけての本作のコメディ担当の主役でした。メイド喫茶設定と普通の喫茶店設定がごちゃごちゃになる部分はとても面白かった。佑希梨奈さんは、妻の友人であり今回お招きいただいた方。感謝です。母がいない三姉妹の母替わり、そして近所のスナックのママとして常連という役。おおらかな感じでいながら、場面をますますややこしくする様は、本作の雰囲気を温かくしてくれていた。渡邊聡さんは心臓が悪い喫茶店のオーナー。実は本作の要はこの方にあるのでは、と思えた。からだが悪い様を、歩き方だけでなく、顔に血を集めて真っ赤にすることで表わしていたのが印象的。あれどうやって演じるんやろ。

さて、本作はシチュエーション・コメディだと冒頭で書いた。古き良き日本の大衆喜劇に通じる伝統を継承しているかのように。実際、私は本作を観ていて、吉本新喜劇に通じるモノを感じたくらいだ。ところが本作には吉本新喜劇に付きものの定番ギャグがない。喜劇として笑わせる部分はしっかり笑わせながら、定番ギャグに頼らないところが新鮮でとてもよかった。また、笑いも、弱い者をいじったり観客をいじったりせず、すれ違いの面白さに焦点を合わせていたのが良かった。本作はとても万人にお勧めできる喜劇だと思う。また、本作が新喜劇を思わせたのは、しっかりと人情でホロリとさせてくれるところだ。その人情味が本作の余韻として残った。本作はすれ違いを笑いに変えるコメディだが、すれ違いを招くウソの多くは、オーナーのためを思ってのこと。つまり、人のためになることをしようとしてつかれたウソだから嫌みがない。とてもすがすがしい。

さらに、もう一つホロリとさせるため、作中に大きな仕掛けが用いられている。観ている間にいくつかそういう場面には気づいた。だが、それが最後の演出につながるとは予想の外だった。そしてその効果をあげるため、それぞれの場面をリプレイする演出がある。そこでも役者さんたちの演技が光っていた。主人公がマジシャンくずれという冒頭の伏線が見事にきいた大団円。これは、観劇の良い余韻となって残る。あまり舞台は観ていないので、作・演出を手掛けた西永貴文さんのお名前は存じ上げなかったが、素晴らしい手腕だと思った。舞台後に佑希梨奈さんと西永貴文さんにはご挨拶させて頂いたが、また機会があれば観てみたいと思った。

誉めっぱなしだと単調なので、観ていない方にとって不親切を承知でチクリとひとことだけ言う。勇者と魔術師と踊り子と僧侶が魔物と戦う場面。ここをもうちょっと真に迫ったほうがよかったのになあ、と思った。作中は違和感を感じなかったが、リプレイではちょっと違和感を感じた。まあ、余興という設定なので、迫真にするとかえって浮いてしまうのかもしれないが。

それにしてもいい舞台だった。皆さまに感謝。

‘2017/09/16 THEATER BLATS 開演 19:00~

https://taiproject.jimdo.com/%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB/


THE SCARLET PIMPERNEL


タカラヅカのスターシステムはショービジネス界でも特徴的だと思う。トップの男役と娘役を頂点に序列が明確に定められている。聞くところによると、羽の数や衣装の格やスポットライトの色合いや光度まで差別されているとか。

トップの権限がどこまで劇団内に影響を及ぼし得るのか。それは私のような素人にはわからない。だが想像するに、かなり強いのではないか。それは演出家の意向を超えるほどに。本作を観て、そのように思った。

今回観たスカーレット・ピンパーネルは、星組の紅ゆずるさんと綺咲愛里さんがトップに就任して最初の本格的な公演だ。ほぼお披露目公演といってもよい。鮮やかな色を芸名に持つ紅さんだけに、スカーレットの緋色がお披露目公演に選ばれたのは喜ばしい。

紅さんを祝福するように舞台演出も色鮮やかだ。革命期のフランスを描いた本作では、随所で革命のトリコロール、今のフランス国旗でも知られる自由平等博愛のシンボルカラーが舞台を彩る。青白赤が舞台を染め、スカーレット・ピンパーネル、つまり紅はこべの緋色がアクセントとして目を惹く。イギリス貴族達のパーティーでは、フランスからの使節ショーヴランの目を眩ませるため、あえて下品とも言えるド派手な色合いの衣装に身を包む貴族達。ここで下品さを際立たせる事で、他の場面の色合いに洗練された印象を与える。つまり、舞台の演出効果として色使いだけで下品さと上品さを表現しているのだ。

この演出は、本作の主役のあり方を象徴している。イギリスの上流階級に属する貴族パーシーと、フランス革命に暗躍しては重要人物をフランスから亡命させるスカーレット・ピンパーネル、そして大胆にもフランス革命政府内部でベルギーからの顧問として助言するグラパン。これらは同一人物の設定だ。実際、これら三役を演ずるのは紅さん一人。この三役の演じ分けが本作の見所でもある。

ただし、演出と潤色を担当した小池氏の指示が及ぶのはここまでだろう。ここから先の演出はトップの紅さん自らが解釈し、自らの持ち味で演じたように思う。本作は、演出家の意図を超え、トップ自らが持ち味を演出し、表現したことに特徴がある。

トップのお披露目とは、トップのカラーを打ち出すことにある。殻にハマった優等生の演技は不要だ。とはいえ、本作での紅さんの演技はいささかサービス過剰といっても良いほどにコメディ色が奔放に出ていたように思う。紅さんは、タカラヅカ随一のコメディエンヌ(いや、この場合コメディアンと言うべきか?)として知られる。紅さんのシリアスな演技とは一線を画したコメディエンヌの演技は、本作に独特の味を付けている。そして、この点は本作を観る上で好き嫌いの分かれる部分ではないか。

紅さんがおちゃらけた演技を見せる際、どうしても声色が高くなってしまう。地声も少し高めの紅さんの声がさらに高くなると言うことは、女性の声に近くなる。知っての通り、ヅカファンの皆様は男役の皆さんが発する鍛え抜いた低音に魅力を感じている。それは、トップであればあるほど一層求められる素養のはず。男役トップのお披露目公演で、男役トップから女性らしさが感じられるのはいかがなものか。第一幕で感じたその違和感は、男役にのぼせることのない私でさえ、相当な痛々しさを感じたほどだ。幕あいに一緒に観た妻に「批判的な内容書いていい?」確認したぐらいに。私でさえそう感じたのだから、タカラヅカにある種の様式美を求める方にとっては、その感情はより強いものだったと思う。

だが、第二幕を観終えた私は、当初の否定的な想いとは別の感想を持った。

私がそう思ったのは、紅さんのバックボーンに多少触れたことがあるからかもしれない。まだ娘達がタカラヅカの世界に触れ始めた数年前、父娘3人で通天閣を訪れたことがある。紅さんの出身地に行きたいとの娘たちの希望で。当時、二番手男役として頭角を現していた紅さんは、紅ファイブなるユニットを組むほどにコメディに秀でた異色のタカラジェンヌさんだった。

通天閣のたもととは、大衆演劇の聖地。街を歩けば商店街の各店舗がウィットに富んだポスターを出し、そこらにダジャレがあふれている。ツッコミとボケが日常会話に飛び交い、それを芸人でもない普通の住民がやすやすとこなす街。紅さんはこのような街で生まれ育ち、長じてタカラジェンヌとなった。隠そうにも出てしまうコメディエンヌとしての素質。これは紅さんの武器だと思う。

一方で、タカラヅカとは創立者小林逸翁の言葉を引くまでもなく、清く正しい優等生のイメージが付いて回る。随所にアドリブは挟みつつもまだまだ演出に縛られがち。そもそもいくらトップとはいえ、対外的には生徒の位置付けなのだから、演出家の意向は大きいのではないか。自然とトップとしての持ち味も出しにくい。実際、妻の意見でも、最近のジェンヌさんは綺麗な美少年キャラが多くなりすぎ、だそうだ。

そんなタカラヅカに、新風を吹かせるには、紅さんのキャラはうってつけ。お笑いを学んだSMAPがお茶の間の人気者になったことで明らかなように、生き馬の目を抜くショービズ界で生き残るには笑いがこなせなければ厳しい。であれば、本作の紅さんの過剰なコメディ演技に目くじらを立てるのはよそうじゃないか。幕間に私はそんな風に思い直した。

すると、第二幕では、第一幕で感じた痛々しさが一掃されたではないか。視点を変えるだけで舞台から受ける印象は一変するのだ。ただ、その替わりに感じたのは、紅さんの魅力をより際立たせる演出の不足だ。それはメリハリと言い換えても良い。私の意見だが、演出家は、メリハリを男役トップの紅さんのコミカルさと、二番手のショーヴランを演じた礼真琴さんの正統な男役としての迫力の対比に置こうとしたのではないか。確かにこの対比は効果を上げていたし、礼真琴さんの男役としての魅力をより強めていた。私ごときが次期トップをうんぬんするのは差し出がましいことを承知でうがった見方を書くと、次期トップの印象付けととれなくもない。

だが、上に書いた通り、紅さんのトップお披露目は、タカラヅカ歌劇団が笑いもこなせる万能歌劇団として飛躍するまたとないチャンスのはず。であれば、紅さんのコメディエンヌとしての魅力をより引き出すためのメリハリが欲しかった。そのメリハリは、役の演じ分けで演出できていたはず。本作で紅さんは、パーシー 、ピンパーネル、グラパンで等しくおちゃらけを入れていた。だが、それによってキャラクターごとのメリハリが弱まったたように思う。例えばパーシーやピンパーネルでは一切おちゃらけず、替わりにグラパンを演ずる際は徹底的にぶっ壊れるといった具合にすると、メリハリもつき、コメディエンヌとしての紅さんの魅力がアップしたのではないか。特にずんぐりむっくりのグラパンからスラッと爽やかなピンパーネルへの一瞬の早がわりは、本作の有数の見せ場なのだから。この場面を最大限に活かすためにも、コミカルな部分にメリハリをつけていれば、新生星組のトップとして、笑いもオッケーの歌劇団として、またとないお披露目の舞台となったのに。

‘2017/06/06 東京宝塚劇場 開演 13:30~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/scarletpimpernel/index.html


双頭の鷲


ジャン・コクトーが才人である事を示す有名な写真がある。フィリップ・ハルスマン「万能の人」のことだ。腕を六本持ったコクトーが、タバコをすいながらペンを書き、本を読み、はさみを持ち・・・・コラージュカットのその写真は、「ジャン・コクトー 画像」で検索すればすぐに見られる。

この写真が表現しているとおり、彼の才能は様々な分野で発揮された。だが私は、恥ずかしながら ジャン・コクトー の作品のほとんどを観ていないし読んでいない。もちろん戯曲も。本作は、ジャン・コクトーの戯曲「双頭の鷲」を元に、宝塚バージョンとしてアレンジされている。妻から本作の誘いを受けた際は、即座に観ると答えた。

ジャン・コクトーが1946年に発表したというこの戯曲は、ハプスブルク家の暗殺された皇妃エリザベートと暗殺犯ルイジ・ルキーニの関係を取り上げている。皇妃エリザベートといえば、宮廷生活の窮屈さを極度に嫌った女性としてよく知られている。晩年は夫と息子にも先立たれ、世を憚るように生きたことでも有名だ。そんな彼女を暗殺対象に選んだ無政府主義者ルイジ・ルキーニの動機は、王侯貴族なら誰でもよくて、彼女は偶然居合わせたために殺されたとも伝わっている。厭世的なエリザベートが偶然暗殺される運命に遭う巡り合わせに、ジャン・コクトーは人生の皮肉を見出したのかもしれない。そして彼は、戯曲という形式で表現しようとしたのだろう。

「エリザベート」といえば、ミュージカル版が知られている。海外でロングランとなり、わが国でも宝塚やそれ以外の舞台でおなじみだ。ミュージカル版「エリザベート」は、死に惹かれるエリザベートと死神トートの関係を通じ、彼女の欲する自由が生と死のどちらかにあるのか、をテーマとしている。厭世的なエリザベートはこちらでもモチーフとなっているのだ。

つまり、ミュージカル版「エリザベート」の原案とは、ひょっとすると本作「双頭の鷲」にあるのではないだろうか。自由を求め、そしてそれが叶わないことを知ると絶望のあまり厭世的になったエリザベート。彼女の生涯は、文字通り劇的であり、舞台化されることは必然だったのかもしれない。そしてそこに最初に着目した人こそがジャン・コクトー。だとすれば、本作は是非観ておくべきだろう。

本作と「エリザベート」とどちらがミュージカル版として先に初演されたのかは知らない。だが、演出面など似通った箇所に気付いたのは私だけではないはずだ。例えば、ナレーター兼狂言回しの存在。ミュージカル版は、エリザベート裁判の被告となったルイジ・ルキーニの陳述をナレーションとし、観客をエリザベートの生きた時代に導いていた。本作でもナレーターが配され、観客の道案内として重要な役割を担っている。

また、原作の戯曲は6人のみが登場する室内劇として書かれていたという。しかし、本作の出演者は総勢21人だ。ただ、舞台の進行を6人で行うことには変わりない。では、残りの15人(ナレーターを除くと14人)は何をしていたのか。それは、舞台に動きやテンポを生み出す役割ではないかと思う。いわば「動」の動き。

本作の舞台は終始クランツ城内王妃の部屋に固定されている。その壁は巨大なデザイン板ガラスとなっており、ガラスの向こうに人がおぼろげに映るようになっている。14人の演者は、男女パパラッチA~Gとして、ガラスの向こう側に座っている姿を見せている。そうやって常時舞台を囲むことによって、舞台に緊張感をもたらしているのだ。この役割は「静」の動きに他ならない。「静」と「動」の二つの動きを舞台に表現するのがこの14人だといえる。

14人+1人の追加された演者たちが舞台で繰り広げる演出こそが、ジャン・コクトーの戯曲をベースとした見事な芸術作品として本作を成り立たせている。そのことは間違いないと思う。

また、もう一点本作で見逃せない演出がある。それは音だ。舞台の正面奥はバルコニーとなっている。皇妃が暗殺犯スタニスラスと出会うシーンは、バルコニーの向こうで風がうなりをあげ、雷鳴が響き渡る嵐の中だ。その間、自由を求める皇妃は窓を開け放しにしているのだが、皇妃の心中を表すかのように雷鳴が響きわたる。風が吹き込み落ち葉が舞い込む。嵐に紛れて暗殺犯を追う銃声が舞台に響き渡る。

ここまで音響効果が効果的に使われているとなると、音楽にも期待できそうだ。だが正直なところ、本作に死角があるとすれば、それは魅力的なキラーチューンの不在だ。ようするにキャッチーでメロディアスな曲がない。せいぜいが皇妃とスタニスラスが唱和する「双頭の鷲のように」ぐらいだ。そして音響効果が曲の不在を埋めるかのように随所に使われている。

そんな本作であるが、スタニスラスを演じているのは歌劇団理事でもある轟悠さん。普段は専科として各組の脇を締めるために出演している。が、本作では堂々たる主役として魅力的な低音を響かせていた。お年も相当召されているとは思うのだが、そう思わせないほど見事な男役っぷりだった。

その轟さんの相手役を勤める皇妃は、現在宙組の娘役トップである実咲凛音さんが勤めていた。妻いわく、演技よし歌もよしのすばらしい生徒さんだとか。それもうなづけるほど、見事な歌唱と演技だった。そして、厭世観を持っているがゆえに暗殺者に惹かれるという皇妃の矛盾した心中が表現されないことには本作は舞台作品として成り立たない。そこが表現されてはじめて、ジャン・コクトーの戯曲化の意図を舞台に移し変えたといえる。実咲凛音さんはまさに適役といえる。

主役の二人以外の主要な5人についても見事な役者振りで舞台を締めており、宙組の充実振りがうかがえるというものだろう。

それにしても残念に思うのが、本作にキラーチューンがないことだ。それがあれば、本作はもっと世界的な作品となりそうなものを。「エリザベート」とかぶってしまう点は否めないが、本作はオリジナルかつ「エリザベート」の姉妹編として十分に通ずる可能性を秘めている。私も機会があればジャン・コクトーの原作戯曲を読んでみたいと思う。そして、私の考えた本作の意図が戯曲にどの程度込められているのか確かめてみようと思う。

‘2016/12/14 神奈川芸術劇場 開演 13:00~

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噂 ルーマーズ


ニール・サイモンと云えば喜劇作家として知られた存在だ。でも、今まで私は舞台やスクリーンを含めてその作品を観劇する機会がなかった。かねてからアメリカの喜劇に興味を持っている私としては、舞台で一度きちんと観てみたいと思っていた。そんな折、ニール・サイモン作品を初めて観劇する機会を得た。

今回妻と観にいったのは「噂-Rumours」。演ずるのは演劇レウニォン トップガールズと仲間たちである。女性6人、男性4人によるストリート・プレイ。麻布区民センターの区民ホールは座席数175名と小規模だったが、おかげで舞台全体がよく見渡せたし、10人の動きがよく把握できた。これぞ小劇場の醍醐味。小劇場での観劇は久しぶりだが、この距離感こそが演劇の楽しみ方として正当だと思う。

本作はニューヨーク郊外の豪邸の居間を舞台としている。暗転して登場するのはクリス・ゴーマン。取り乱した様子で右往左往している。そんな彼女に指示を出しながら二階から降りてきたのは夫のケン・ゴーマン。二階のチャーリー・ブロックの部屋から降りてきた彼もまた、平静ではない様子。この家の主であるチャーリーはニューヨーク市長代理。ゴーマン夫妻は到着するやいなや、銃声を耳にする。チャーリーが自分で耳たぶを撃ったのだ。そのことで動転しつつ、事態を穏便に済ませるため隠蔽をたくらむ夫妻。しかし、チャーリーが大変なことになっているのに妻であるマイラの姿は見えない。お手伝いさんもいない。チャーリーとマイラの結婚10周年記念パーティーに呼ばれたはずが、ゲストである自分達が事態の収拾を行わねばならなくなる。そうしているうちにパーティーに呼ばれた客たちが時間を空けて次々とやってくる。レニーとクレアのガンツ夫妻。アーニーとクッキーのキューザック夫妻。そしてグレンとキャシーのクーパー夫妻。クリスとケンの隠蔽のたくらみが、ガンツ夫妻を巻き込み、さらにその隠し事はアーニーとクッキーを混乱に落とし込み、グレンとキャシーまでも勘違いと行き違いの中で夫婦仲の悪化をさらけ出すことになる。

次々と登場する8人の人物が居間、チャーリーの部屋、台所と舞台から自在に出入りする。さらに頻繁にかかってくる舞台左脇の電話が彼らの混乱に拍車をかける。ケンはチャーリーの部屋で誤って拳銃を暴発させてしまい耳が一時的に聞こえなくなる。耳の聞こえないケンの行動が彼らの勘違いを一層混迷に突き落とす。このあたり、喜劇の舞台を作ってゆく手腕はさすがの一言。

とうとう隠し果せなくなり、ケンとクリスが意図した隠蔽は破綻する。なぜパーティーなのにホストがいないのか、この家でいったい何が起こっているのか。あとから来た6人にとって違和感が解ける瞬間だ。ところが、そこに警官が二人訪問する。慌てふためく8人。彼らはいずれもニューヨークの名士。スキャンダルは避けたい。警官を相手に演ずる必死の隠蔽工作がさらなる笑いを産み出す。喜劇作品の本領発揮だ。

幕間なしの1時間35分はライブ感覚にあふれていて、とても良かった。多少のとちりかな?という台詞も見え隠れしたけど、すぐに台詞で挽回していたため、進行には全く問題なかった。とくに最後、レニーによる長広舌の部分は見せ場。咄嗟に警官に説明するための嘘をこしらえ、即興で説明する様子の演技はお見事。あれこそが本作の山場だと思う。その臨場感は演劇のライブならでは。小劇場の舞台と客席の近さ故、舞台上の時間と空間を堪能することができた。

演劇は映画と違って、ナマモノだ。編集という作業でどうにかできる映画とは違う。そのあたりの緊迫感は演劇ならでは。また、公演期間内に修整が出来てしまうのも演劇の良さだろう。正直、本作はまだまだ良くなると思う。トップガールズと仲間たちにとって、今日は初日だった。なのでこの後も間合いの修正や台詞回しについて修正を行っていくのではないだろうか。私が観ていても、まだまだ本作の秘める笑いのツボはこんなもんじゃない、と思った。宣伝文によると過去の舞台では700回の爆笑が産まれたという。が、座長の白樹栞さんが最後の挨拶で77回の笑いがありました、といっていた通りあと10倍の笑いが取れる台本だと思う。今回は後からじわじわ来たという妻の言葉通り、観客にストレートに笑いの神が降りてきたわけではなく、一旦脳内で変換されてからその面白さが感じられた。たとえば許されるとすれば台本に忠実に設定情報を持ってくるのではなく、日本の都市に舞台設定を変えるとか。すれ違いの面白さは東京でもニューヨークでも一緒のはず。

次回、同じメンバーで演じた舞台を観る機会があればどう変わっているか。その変化を楽しむのも舞台のよいところだ。落語もそう。一つの噺を口伝で練り上げていくのが落語芸術。喜劇もまた同じに違いない。このように観劇後の劇評に花を咲かせられるのも舞台の良いところ。常に同じい内容が固定の映画とは違い、見るたびに発見があるのも舞台のよいところだ。私も今回の観劇を機会に、映画や演劇の喜劇を観る機会を増やそうと思う。ニール・サイモン作の舞台は他の劇団による公演も含めて観てみたい。もちろん、今回演じた10人の皆様による舞台も。

いずれの役者さんも私にとっては初めてお目にかかる方なのだが、ご一緒に公演後のホールでお写真を撮らせて頂いた佑希梨奈さんは、本作が久々の舞台なのだとか。でも冒頭の右往左往するシーンなど、堂々としていた。他の方も非常にコミカルかつ舞台での存在感を発揮していたように思った。また機会があればどこかの劇場でお目にかかれると思う。私もこういった小劇場の演劇を観られるようにしたいと思っている。

‘2016/9/9 麻布区民センターホール 開演 19:00~

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桜華に舞え/ロマンス!!


今年初の観劇となったのは、宝塚歌劇団星組演ずる本作だ。

本作はまた、星組トップの北翔海莉さん、妃海風さんの退団公演でもある。そんな退団公演の題材として選ばれたのは、意外にも桐野利秋。 桐野利秋とは日本陸軍の初代少将であり、南州翁こと西郷隆盛にとって近しい部下としてよく知られる人物だ。だが、宝塚が取り上げるには少し意外と言わざるを得ない。

なぜ、 北翔さんは退団にあたって桐野利秋を演ずるのか。それは私にとってとても気になることだった。

北翔さんは以前から妻が好きなタカラジェンヌさんである。私も始終その人となりは聞かされていた。舞台人としても苦労して這い上がり今の高みまで達した努力の人でもある。その努力はタカラヅカの活動だけに止まらない。重機の運転やサックス演奏、殺陣の振る舞いをタカラジェンヌとしての活動の合間にマスターしたこともそうだ。人生を前向きに捉える飽くなき向上心は見習うほかはない。また、 北翔さんは技量だけでなくかなりの人徳を備えた方であると伺っている。それは、その人間性が認められ、一旦は専科という役回りに退いたにもかかわらず、星組のトップとして呼び戻されたことでもわかる。いわば異能の経歴の持ち主が北翔さんである。

では桐野利秋はどうなのか。それを理解するため、私は小説に力を借りることにした。 作家の池波正太郎の作品に「人斬り半次郎」というのがある。この作品こそまさに桐野利秋の生涯を描いており、桐野利秋を理解するのに適した一冊といえる。唐芋侍として蔑まされる鹿児島時代。自己流でひたすら剣を振り続けることで剣客として認められ、島津久光公の上洛に付き従う従者の一人として取り立てられる。以降、尊皇攘夷や公武合体など、目まぐるしく情勢が入れ替わる殺伐の世相の合間で剣を振るう日々。それだけでなく、薩摩藩士としての活動の合間に書籍を読み、書を極めて人物を磨いた。女好きでありながらも豪放磊落な利秋は人情の機微を解する人格者としても慕われたという。

つまり、桐野利秋とは北翔海莉さんのキャラクターを思い起こさせる人物なのだろう。殺陣をマスターした北翔さんと剣の達人でもあった桐野利秋。様々な異能を持つ北翔さんと独学で書や儀典をこなすまでになった桐野利秋。人徳の持ち主北翔さんと親分肌の桐野利秋。こう考えると、北翔海莉さんと桐野利秋という取り合わせがさほど奇異に思えなくなってくる。

だが、退団公演に桐野利秋をぶつける理由とはそれだけではない気がする。まだあるのではないか。

先年、宝塚歌劇団は100周年を迎えた。その当時、星組のトップを務めていたのは柚希礼音さん。宝塚の歴史の中でも有数の人気を誇った方として知られる。そんな柚希さんの後を託された人物として 北翔さんが専科から戻されたわけだ。そこには正当な100年の宝塚歌劇の伝統を後代につなげてほしいという宝塚歌劇団の思惑もあるだろう。中継者として北翔さんの人徳や技能が評価されたともいえる。だが、言い方は悪いが、体のいいつなぎ役ともいえる。もっと油の乗った若い時期に正当に評価されるべき方だったのかもしれない。北翔さんは。

本作には、そのあたりを思わせる演出が随所にある。 季節外れに咲いた桜を指してボケ桜と呼ぶシーンがそれを象徴している。生まれてくる時代が早すぎたというセリフもそうだ。北翔さんにとってみれば、もっとはやく評価されたかった。もっとはやくトップに立ちたかった。そんな思いもあったのかもしれない。或いはそれは穿った意見なのだろうか。

だが、北翔さんはトップ就任時の約束どおり、3作でトップを降りることになる。それは潔い決断だ。

本作のみのオリジナルキャラとして衣波隼太郎が桐野利秋の親友として登場する。彼を演ずるのは紅ゆずるさん。北翔さんの次の星組トップとして内定している方だ。衣波隼太郎は桐野利秋と袂を分かって大久保利通、つまり新政府側に付く。そして、本作の最後、城山のシーンでも官軍の軍人として登場し、桐野利秋の最後を看取る。新しい日本の礎となって死んだ桐野を悼み、「義と真心をしっかりと受け継いで」というセリフが衣波隼太郎の口から発せられる。義と真心の持ち主とは、すなわち北翔さんに他ならない。それは次のトップ紅さんによる新時代の宝塚を作っていく決意表明でもあり、伝統への餞とも取れる。

果たして、北翔さんの衣鉢は次代に受け継がれていくのだろうか。本作のサブタイトルはSAMURAI The FINALと銘打たれている。SAMURAI、つまり北翔さんのようなタカラジェンヌは最後になってしまうのだろうか。たたき上げのタカラジェンヌとしての努力の人としてのタカラジェンヌはもう現れないのだろうか。それとも、100周年を経た宝塚は新たな芸術を模索していくのだろうか。とても気になる。

その模索は本作の娘役と男役の関係にすでに顕れているように思える。娘役トップの妃海風さんは、本作で退団する。私が知る限り、本作の娘役と男役と関係は、明らかに今までの関係と違っている。男役に殉じたり従順である娘役像とは一線を画し、独立独歩の姿を見せているのが本作の特徴だ。これは新しい宝塚を占う上で参考としてよい演出なのだろうか。あるいはそうではないのか。とても気になるところである。

本作の並演のロマンチック・レビュー「ロマンス!!」は本編とは違い、伝統的なレビューを見せてくれる。多分、本編のステージ「桜華に舞え」の作風と釣り合いを持たせるためなのだろう。ただひたすらに王道を極めているといえる。ラインダンスありのデュエットダンスありの、そして大階段ありの。個人的にはエルビス・プレスリーのHound DogやDon’t be Cruelの曲が流れた際、指揮者の塩田氏がカラダを揺らしてRock and Rollしていたのがとても印象的であった。

今年初めての観劇となった本作であるが、時代の移り変わりを体験でき、さらには王道のレビューも観られ、とても満足だ。

あ、そうそう。本作は薩摩弁で全編通すなど、とても地域色に演出の気が遣われていた。その一方で、史実ではシカゴですでに髷を断髪しているはずの岩倉卿が、本作で依然として髷を結った姿で西郷の征韓論を一蹴していたのが気になった。折角方言を活かしていたのに、もうちょっと時代考証に気を使ってほしいと思わずにはいられなかった。でも、西郷さんに扮する美城れんさんは本作でもとても印象的だった。この方も本作で退団されるのだとか。残念である。

‘2016/8/26 宝塚大劇場 開演 15:00~
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ガイズ & ドールズ


ガイズ & ドールズ。何とも時代を感じさせる題名だ。ガイズはまだしも、女性は人形扱いされているのだから。もっとも、時代は1948年。第二次大戦の勝利の余韻が鮮明に残るアメリカはニューヨークが舞台。戦争とその勝利によって男たちの意気が上がっていた頃の話である。男性優位のこのような題名が付けられたのも分かる気がする。

今、私の手元には一冊の写真集がある。そこに載っているうちの一枚は、第二次大戦の戦勝日にタイムズスクエアで看護婦にキスする水兵を撮ったものだ。アルフレッド・アイゼンスタットの撮ったその写真は、LIFE誌を語る上で欠かせない一枚として知られている。と同時に、当時のニューヨークの開放的で陽気なGUYS & DOLLSの雰囲気をそのままに映し出した一枚にもなっている。私にとって、当時のニューヨークのイメージは、この写真によって決定づけられている。

本作に登場する舞台美術は、舞台であるニューヨークのタイムズスクエアを模していると思われる。かの写真のように、明るく華やかなGUYS & DOLLSが闊歩したニューヨークが舞台に再現されている。今回は二階からの観劇となった。その分、舞台の奥行きにまで配慮された舞台美術の粋が堪能できた。

例えばニューヨークの大通りを表すため、背後の書き割は中心点に向けて描かれる。観客は遠近法が駆使された舞台にニューヨークの大通りを感じる。ネオンの看板は手前に立体的に配置され、それは夜のニューヨークにたむろするギャンブラー達の猥雑さを表しているようだ。そして床の反射である。背後の中心点に向け絞って書かれたニューヨークの夜景には、街の灯りが灯っている。これが床に反射することで、実に幻想的な効果を舞台に与えている。丁度、人通りの途絶えたニューヨークの夜が、観客の目前に再現されるという仕掛けだ。この反射の効果は、二階席だからこそ味わえた特権なのかもしれない。

本作は舞台の役者たちが立体的に動き回るわけではない。どちらかといえば、平面的な配置が多い。しかし、舞台のセットは立体的に作られている。なので、ギャンブラー達が生息する都会の息吹が舞台から感じられるようになっている。また、左右の花道を効果的に使っている。たとえばネイサンがクラップゲーム(サイコロ賭博)のショバを確保するため、ジョーイと交渉するシーン。ここでは、上手の舞台脇にある電話ボックスと下手の花道にあるジョーイの事務所の間で会話する。オーケストラボックスや銀橋を跨いでの掛け合いは、本作有数のコミカルなシーンである。また、下水道の賭場とストリートを行き来させるのに、上手の花道に設えられたマンホール状の出入り口を使う。主役やギャンブラー達はマンホールに消え、または現れる。その様は、かのマイケル・ジャクソンのBeat Itのビデオクリップのシーンを思い出させた。本作は役者達の配置を平面的にした分、こういった立体的な演出が印象に残った。

本作は平面的な役者配置が多い、と書いた。配置こそ平面的ではあるが、それは舞台を広々と使うためだと思われる。本作は場面展開毎に大勢の役者がストリートプレイを演じるシーンが多い。例えばニューヨークの雑踏。ニューススタンドやボクサー、トレーナー、旅行者、物売り、兵士、警官や浮浪者、ギャンブラーがひっきりなしに行き来する。役者たちの動きは恐らく計算された演出に従っているのだろう。ただ、私のような本作初見の観劇初心者には把握できない程のせわしなさだった。観劇後に妻から教えられたが、あのような雑多な動きこそが、観客をリピーターに仕立てるのだという。確かに、この動きは一度や二度の観劇で把握できるものではない。こういった観客を飽きさせないための仕掛けが、本作の随所に仕込まれている。それがまた、本作をロングラン作品へと変えたのではないだろうか。そして、妻から教えてもらったことがもう一つある。それは、雑踏の中の動きについての役者側の工夫である。役者たちは、演出家の演出意図をさらに展開するかのような工夫を行っているのだという。例えば、雑踏の中で演じられる寸劇。これらの寸劇の一つ一つに、役者同志でドラマの設定を当てはめているのだという。

一幕の終わり近くで、主役のスカイ・マスターソンとサラ・ブラウンがハバナに行くシーンがある。そのシーンでは、キューバンなラテンリズムに乗って舞台狭しとダンサーたちが躍り回る。その人数は、私のような初見者にはわけがわからなくなるほどの数だ。しかし、そのような場面でも役者たちがドラマを設定しているという。つまり、一つ一つの役者はその他大勢ではなく、それぞれの主役を演じているのだ。舞台で輝くのは主役の二人だけではない。周りの役者の一人一人に実は観客には分からないドラマが仕込まれているとすれば、観客のリピーター心はくすぐられること必至のはず。そういった細かい演出の数々によって、舞台にはさらに魂が吹き込まれるに違いない。アデレイドがトップ女優として踊るHOTBOXの場面でもそう。私は今回、ナイスリー・ナイスリー・ジョンソンを演じる美城れんさんの動きのコミカルさが気に入ったのだが、彼女の動きをよく見ていると気付いたことがある。舞台の中央で主役二人がすれ違いを演じている間も、ホール係やギャルソン役の役者と掛け合いをしているのだ。それもおそらく、観客にはドラマの内容が届かないことを承知の上での演技なのだろう。しかし、目の肥えた宝塚ファンには、そういった周辺をも疎かにしない細かい芸こそが喜ばれるのだろう。

私は最近、観劇のたびに、そういった主役だけではない、周囲の役者達の動きを観るようにしている。彼ら彼女らが舞台の壁の花に甘んじるだけで、「何かをしている振り」の演技を見せられると残念に思う。リアルに考えると、我々が一人の客としてお店に入った場合、我々自身が主役として現実のドラマを演じているはずだから。そういったリアリティは大事にしてほしいと思う。

今回、歌は安心して聞けると妻から聞いていた。スカイ演ずる北翔海莉さんの歌のうまさについては、先日のビルボード東京でのライブを鑑賞させて頂き、十分すぎるほど分かっているつもりだ。その上で言うのだが、本作で北翔さんはアドリブを効かせて歌っていたように思う。”こぶし”とでも言おうか。しかし北翔さんは、色を出さずに敢えて素直に歌っても良かったのではないか。こう書くと妻に首を絞められそうだが。なぜなら、サラ演じる妃海風さんの歌がとても綺麗で伸びやかで、北翔さんの声質に似ていたから。主演二人のハーモニーは実に良かった。なので、ここはハーモニーを聞かせることに徹して頂いても良かったのではないかと思う。どことなく、タメのような間合いが挟まっていて、それが一瞬の感覚のずれとして私の耳に残った。

歌については上に書いたような違和感も感じたが、総じて安心して聞けた。そのため、専ら私は演技を見ていた。そして主役二人の演技に関してはすごく良かったと思う。最初にスカイがサラのいる救世軍を訪ね、口説くシーン。ラブコメの定石通り、最初はつんけんし合う二人。だが、このシーンでスカイを拒絶しようとするサラの立ち居振舞いが、その堅苦しい救世軍の衣装に似合っていて実に自然だった。どうせ喧嘩していても、この後くっつくんでしょ的なラブコメ予定調和の匂いを感じさせない演技が気に入った。また、二人のすれ違いから相思相愛に至るまでの二人の見つめ合う顔。これもまた見物だと妻はいう。もっとも、妻がオペラグラス越しに舞台の二人の側から離れなかったので、私には二人の顔が見えなかった訳だが。二階席だし。でも妻曰く、スカイこと北翔さんが顔の表情だけで二人の間の感情の流れを演じきるところが実に良いと褒めちぎっていた。私も次回もし本作を観る機会があれば、望遠鏡を持って行こうと思う。

本作はブロードウェイで演じられた際も、コメディタッチだったと聞く。本作においてコメディ担当なのは、二番手の紅ゆずるさん演じるネイサンである。私にとっては、紅さんは今の星組の生徒さんの中でもっとも馴染みの一人といってもいい。妻から数限りなく見せられた他の星組作品でも、そのコメディエンヌとしての実力は承知の上。今回もトチりを瞬時に笑いに変える切り返しや、随所に挟むアドリブ?と思われるシーンに流石と唸らされた。かつて父娘三人で紅さんの出身地である通天閣の辺りを散歩したことがある。その産まれ育った環境を活かして、次代のトップとして新しい風を吹かせて欲しいものである。ただ、今回のネイサンはホンの少しだけコミカルな演技が空回り気味だったように思う。そもそも主演の北翔さんからして、お笑い系の素養が高い方である。なので、紅さんも少しコメディのトンガリ度を落として、お笑い系二人による相乗効果を狙っても良かったのではないかと思った。あと、アデレイド役の礼真琴さんもコメディエンヌ的な感じがとてもよかった。妻に聞いたところ、普段は男役でも出ているのだとか。そう思わせないほどに14年もネイサンに婚約状態で飼い殺しにされたままの娘役をコミカルに演じていた。ストレス性のクシャミを患っているという設定だが、そのクシャミの音が実にリアルでリアルで。

さて、ここまで演者さんたちの演技について私なりの感想を書かせて頂いた。だが、本作で一か所だけ解せなかった点があった。それは一幕の演出についてである。

ここで本作の筋を少々書く。ネイサンがクラップゲームのショバを開くために千ドルが工面できず四苦八苦していた。そのところにスカイがニューヨークに帰ってくる。さっそくそこで千ドルを巻き上げようとスカイに賭けを持ちかけるネイサン。それはネイサンの指定する女性をハバナに食事に連れて行けるか、というもの。その女性が救世軍で活動しているお堅いサラ・ブラウン。スカイがサラにツレなくされているのを見て、賭けに買ったとほくそ笑むネイサン。しかしその時点ではまだスカイは負けた訳ではないので、スカイからの千ドルは手に入らない。そして、クラップゲームのショバを求めるギャンブラー達の圧力はますますネイサンを追い詰める。そして、ある日、ネイサンたちはスカイが姿を消し、街を行進する救世軍の中にサラの姿がないことに気付く。ハバナに首尾よくサラを連れて行ったスカイは、二人で再びニューヨークに戻り、救世軍前でサラと別れようとするが、そこに救世軍の中からギャンブラー達が沢山飛び出してくる。ショックを受けて傷つくサラ。

ここである。ギャンブラー達は如何にして夜中の救世軍の教会が空いていることを知ったのか。救世軍の教会に夜中に忍び込んで賭場を開帳できることをいつ知ったのか、についての伏線がどこにもなかったように思う。しかも、サラがスカイからのハバナへの申し込みを承諾するシーン。ここも唐突だったように思う。分かる人には分かる台詞でサラはスカイの誘いを承諾する。だが、そこから急に舞台はハバナへと飛ぶ。この部分の流れが少し分かりにくく、私のような本作初見者にはスッと頭に入らなかった。後で幕間に妻に聞いたほどである。

例えばこのシーンは、サラがスカイの誘いに乗ることを観客に伝える工夫ができたのではないだろうか。その上で、その夜は救世軍が夜間空き家になることを、例えば舞台袖でギャンブラーの誰かに聞かせることで、ギャンブラーと観客双方に伝える演出。そういった演出上の工夫で筋を説明的になることなく演出すれば、私のように勘の悪い観客にも上手く伝わるのに、と思った。一幕と違い、二幕が実に分かりやすかっただけにここは残念。是非機会があれば他の組の演目や、ブロードウェイバージョン、またはマーロン・ブランドの映画版でこのシーンの扱い方を見てみたいと思った。

さて、私にとって良いことも悪いことも書いたが、結果としては素晴らしい作品だと思った。観劇の満足感が残る。ブロードウェイの香りのする優れた作品を優れた役者=生徒さんたちによって観させて頂くのは実に素晴らしい。しかも舞台の内容を思い出すと、他の版とも比較して見てみたいという欲求が湧く。おそらくはそうやって思ってくれる観客が何世代にもわたって居続けたことが、再演また再演と宝塚でリバイバル上演され、そしてその積み重ねが101年という年月に繋がったのではないか。本作もまた、どこかの組でいずれは再演されるのだろうか。その時はまた観てみようと思う。

‘2015/11/15 東京宝塚劇場 開演 15:30~
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TOP HAT


ミュージカル「TOP-HAT」

本場のスタッフによる日本語以外で演ぜられるミュージカル。しかもタップダンスを前面に押し出した舞台。それらを生で観るのは、私にとって初めての経験である。開演前から楽しみにしていたが、本作は期待以上の出来だった。ダンスや歌の素晴らしさはもちろんだが、本作の喜劇的な側面を全く期待していなかった私に沢山の笑いを与えてくれた。喜劇として秀逸な「くすぐり」が随所にあり、私の好きな海外の喜劇作家であるメル・ブルックスの作品を思わせる内容に、いやぁ笑った笑った。

本作はフレッド・アステア主演で1935年に封切られた同名映画を演劇化したものである。フレッド・アステアといえば、私でも名を知るダンスの名手であり、かのマイケル・ジャクソンが尊敬していた人物としても知られている。本作を観に行くことが決まってからフレッド・アステア主演のTOP HATの映像を見たが、80年以上前の作品とは思えぬほどのダンスの切れとアンサンブルが素晴らしい。当時のダンスといえば、優雅であるが退屈な社交ダンスの印象が強い。しかし、そのようなスローな踊りとは次元が違うリズムに乗った靴のタップとステッキのリズムは、見事なまでに軽妙である。私のような80年代のMTV、ことにマイケル・ジャクソンのダンスを観て育ったような者にも、充分鑑賞に耐えうるだけのシャープな動きとリズムが揃う群舞。思わず見とれてしまった。

ミュージカルの冒頭、オーケストラボックスから本編の歌曲の抜粋がオーバーチュアとして流される。それに合わせて暗色を主としていた幕の投影色が、段々と色相を替え、黄色から赤へと変わりゆく。舞台の幕が上がり、Puttin’ on the Ritzの曲と共に一糸乱れぬ群舞がタップの音と共に舞われる。ステッキがアクセントとして床を叩き、靴音が鳴らす切れのある音が観客席へと響く。80年前の映像が蘇るかのようなダンスにはただ見とれるばかり。フレッド・アステアの踊りに魅了された私は、本作でも同じような群舞が見られると期待したが、その思いが叶ったのは嬉しい。

先に80年代のマイケル・ジャクソンに原作が与えた影響は書いた。逆に80年代を経て本作に取り入れられた曲もある。オランダのTacoという歌手が1983年にヒットさせたのが、本作の冒頭で唄われるPuttin’ on the Ritzで、80年代の音楽シーンでは比較的知られた曲だ。作曲はアーヴィング・バーリンで、原作では5曲を提供したことが記録に残っている。ただ、本作を舞台化するに当たって5曲ではミュージカルとして足りないため、フレッド・アステアの他作品から曲を借用して本作で使用しているという。Puttin’ on the Ritzもそのうちの一曲であり、1946年にBlue Skiesという映画の中でフレッド・アステアによって唄われている。だが、本作でPuttin’ on the Ritzが冒頭で採用されたのはTacoによるリバイバルヒットの影響もあったのではないか。だが、Tacoのカバーバージョンは80年代風の味付けが濃厚だ。今の我々が聞いてもそのサウンド・エフェクトはフレッド・アステア版よりもさらに古く感じる。Tacoのバージョンはプロモーションビデオも観ることが可能で、その中でタップも少し披露されているが、本作で演じられたタップには到底及ばない。本作のPuttin’ on the Ritzはフレッド・アステアを蘇らせたような見事なステップが繰り広げられる。80年前を蘇らせるばかりか、80年代のダンスをも凌ぐようなキレのあるダンスにはただ見とれるばかり。それを冒頭に持ってきた演出家の意図は十分に効果を上げているといえる。

しかし一点、タップについては云いたいことがある。私がタップを前面に出したミュージカルを生で観るのが初めてなので、或いは的を外した意見かもしれないが・・・マイクがタップ音を感度良く拾うためか、鼓膜にビシビシとタップ音が飛び込んでくる。しかし、そのタップ音が切れのある音としては響いてこないのだ。妻に聞いたところ、タップダンスでは靴の近くにマイクを取り付けるのだとか。そのためか、タップの音が寸分の狂いなく聞こえてこず、わずかなタイミングの違いによってなのか、ほんの少し音がぼやけてしまったのは残念だった。これは演者たちの鳴らすタップ音に僅かにずれがあったからかもしれないし、会場の音響の影響があったのかもしれない。それならば、タップ音については観客が静寂にしていてくれることを信じ、一切のマイクを通さず生音を響かせたほうがよかったのではないか。

本作のストーリー自体は、一言で云ってしまえばすれ違いを元にしたラブコメディーである。ブロードウェイのスターダンサーであるジェリーが、巡業先のホテルで会ったモデルのデイルに一目惚れし、デイルもジェリーに好意を持つが、デイルはジェリーのことを友人マッジの夫ホレスと勘違いしてしまい、妻ある身なのに誘惑してきたことに怒ってベネツィアへと旅立ってしまう。ジェリーとホレス、そしてマッジも遅れてベネツィアへと向かうが、一足先にデイルは自分の服のデザイナーであるアルベルトと結婚してしまい、というのが筋書きである。

パンフレットによれば、映画版もほぼ似たようなストーリーだという。しかし、舞台化するにあたり、筋書きに様々な演出上の工夫が施されたという。そのためか、今の目の肥えた観客を飽きさせないだけの演出上の工夫が随所に見られ、だれることなく大いに楽しませてもらった。

一番の演出上の工夫は、喜劇的要素を強めたことだろう。そしてそれには、二人のトリックスター、ホレスの召使いであるベイツと、ラテン男のアルベルトの役割が大きい。この二人が筋に絡むことで、本作に笑いの味付けを効かせることに成功している。原作ではベイツとアルベルトの役割がほんの少ししかなかったようだが、本作では二人の役割を効果的に用いたことが成功の原因だろう。その点、ベイツことジョン・コンロイとアルベルトことセバスチャン・トルキアの両氏のトリックスター振りは実に見事であった。また、ホレス役のクライヴ・ヘイワード氏とマッジ役のショーナ・リンゼイ氏が演じた狂言回しとしてのすれ違いのきっかけを作る演技がなければ、観客はすれ違いに不自然さを感じ、演出効果も出せなかったであろう。実にお見事であった。

そして主演のお二人。本作がいくら喜劇として成功したとしても、本作を締めるのはやはり歌とダンスである。ここが締まらないと本作は単なる喜劇としてしか観客の記憶に残らない。アラン・バーキット氏演ずるジェリーとシャーロット・グーチ氏演ずるデイルは、踊りも歌も、容姿すらも主演を演ずるために相応しい気品を醸し出していた。フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの二人が演じた諸作品は、それだけで一つのジャンルとして認められるほどの成功を収めたと聞く。おそらくは相当に息が合っていただろうし、私が観た当時の映像でもそのことは感じられた。しかし本作の二人もそれに劣らぬほどの見事な息の合ったダンスを見せてくれた。いや、むしろカット割りやテイクなしで目の前で演じてくれた分、彼らの練習に掛けた努力が伝わってくるほどの素晴らしい歌と踊りだったと思う。華やかなアメリカの当時の雰囲気を80年後の我々に届けてくれるかのようなすらりとした容姿、切れのあるタップとよく響く歌声は、もう一度見たいと思わせるに充分なものだった。

また、すでに没後30年近く経ち、マイケル・ジャクソンも亡くなった今となってはますます歴史の中に埋もれつつあるフレッド・アステア。彼の素晴らしさを現代に蘇らせたことだけでも、主演の二人や振付のビル・ディーマー氏、演出のマシュー・ホワイト氏の他、スタッフやキャストの方々の作り上げた功績は、多大なものといえる。私も改めてフレッド・アステアの遺した諸作品を観て、20世紀の初めを彩った素晴らしいエンターテイナーの演技に見惚れてみたいと思った。

2015/10/11 シアターオーブ 開演 12:00~
https://www.umegei.com/tophat_musical/


ミュージカル エリザベート


昨年10月以来の観劇は、奇しくも同じ演目であるエリザベートとなった。前回は宝塚歌劇団花組の、しかも娘役トップの蘭乃はなさん退団公演を兼ねていた。今回は帝国劇場での一般公演。しかもエリザベート役は宝塚を退団したばかりの蘭乃はなさんが再び演じ、宝塚退団前後の蘭乃はなさんの成長ぶりを目撃することができた。これも縁であろうか。今回は前から3列目という間近で一部始終を観劇することができた。いつも素晴らしいお席を取って頂き、田中先生本当にありがとうございます。

宝塚花組による公演は大変素晴らしく、二幕物の正統派ミュージカルが好きな私は、どっぷりとその世界観に浸ることができた。その際にアップしたレビューにも書いているが、役者の演技もさることながら、舞台装置や演出の工夫が実に美しく、舞台美術の有るべき姿を見せつけられた思いだった。今回の公演も同じ小池氏による演出である。同じ演出家が同じ素材を元にどのような調理を見せてくれるのか。宝塚歌劇団と宝塚以外の公演、しかも男性役者が入ることで演目がどのように変化するのか、非常に楽しみにしていた。

とはいえ、普段観劇の機会も少ない私。失礼ながら蘭乃はなさん以外はキャストの方々に対する予備知識もないまま、舞台に臨んだ。

死神トートは、宝塚版では中性的なキャラクターとして設定されていた。ただでさえ中性的な宝塚男役が演ずるにははまり役といってよい。今回は男性がトートを演ずる訳だが、男性が中性的な雰囲気をいかにして身に纏うか。死神の感情を超越した冷徹さと、エリザベートへの愛をいかに両立して演じ切るのか。客席が暗くなり、固唾を呑んで舞台を見つめる私の関心はそこにあった。

ところが冒頭の裁判シーンからして驚かされることになる。妻からは事前知識として宝塚版とほぼ同一の内容と聞いていた。ところが、このシーンからすでにはっきりとした演出の違いが見られた。エリザベート殺害犯であるルイジ・ルキーニ裁判の流れは同じだが、今回版では裁判の証人として、エリザベートの時代を生きた人々を墓から蘇らせる演出が採られていた。埃にまみれたベール状の衣装はかなり独創的で、子どもから大人からが墓から一斉に蘇るシーンは鮮烈に印象付けられた。宝塚版ではこのあたりの演出が曖昧で、証人も現れないまま、あっさりと次の展開に進んでしまい、印象が残りづらい演出となっていた。さらに今回版では証人が舞台に現れきったところでルキーニが上を指さす。そこに吊られて降りてきたのは死神トート。ここで独唱のソロを響かせる。ここで私の心は一気に井上芳雄さん演ずるトートに魅入られた。それはまさに魅入られたといっても過言ではない。中性的な美声と登場シーンが鮮烈なあまり、私だけでなく観客の多くが井上さん演ずるトートに印象付けられたといってもよい。そこあったのは男性や中性といった性別を超えた美しさ。

ここで先に今回版の難点を指摘しておく。今回版は登場人物の歌声にブレが感じられたことが心残りだった。特に主演である蘭乃はなさんの声がたまにひっくり返ったりしたのは惜しい。いずれも感情を表に出す部分、歌詞になると荒れてしまった。もっともそれは、良くとらえるならば感情表現の一つとして許せる範囲ではある。また、フランツ・ヨーゼフ演じる佐藤隆紀さんも一か所だけだが声がひっくり返ってしまった箇所があった。とはいえ、他の方々の台詞にトチリは見られず、歌声も声量も内容もはっきりと耳に聞こえたため、難点と言えるのは上の二か所ぐらいだろうか。しかしそういった難点は、全てトート演ずる井上さんの圧倒的な歌唱力で帳消しになったといってもよい。まだ30回ぐらいの私の浅い観劇経験の中でしか言えないのが残念だが、今まで聞いた中で一番魅了された声だった。

硬軟取り混ぜ、抑揚や声のトーンも実に感情豊か。中でも「最後のダンス」のシーンはとてもよかった。宝塚版よりも幾分かロック調を増したアレンジにロック調の節回しやシャウトを響かせたそれは、荒々しさが粗暴に陥らず、感情溢れる中にも冷徹さを残す絶妙な歌唱だったといえる。

こういった宝塚版にはないロック調のアレンジ。このような宝塚版との演出の違いは随所に見られた。例えば少女時代のエリザベート(=シシー)が父と過ごすシーン。エリザベートの性格形成に大きな影響を与えた父は、今回版ではフランスの家庭教師と浮気をしていたことを独白する。宝塚版には無かった演出である。また、エリザベートとフランツ・ヨーゼフの結婚初夜のシーン。尾上松也さん演ずるルイジ・ルキーニからは「やることやったら世継ぎが生まれ」という台詞が吐かれ、同時に卑猥なしぐさをクイっと見せる。エリザベートが夫フランツの浮気を知る場面は、自身が夫から移されたと思われる性病の症状によってだし、マダム・ヴォルフの館のシーンでは、出てくる娼婦たちの衣装はかなりぎりぎりで、ある娼婦の貞操帯を開け閉めする音まで舞台に響かせる。いずれもいわゆるスミレコードの枠内では不可能な演出であり、演出家の小池氏にとっては腕の見せどころだったのではないだろうか。また、舞台上でフランツ・ヨーゼフとエリザベート。トートとルドルフといった方々が披露した接吻も、宝塚版では見られないことは無論である。

一方では、私が宝塚版で印象に残った舞台の美しい演出の数々が省かれていたのは残念であった。おそらくは舞台装置の違い(宝塚版は東京宝塚劇場、今回版は帝国劇場)によるものと思われる。そもそも帝国劇場の舞台は少々狭く感じた。舞台上にはセットが所狭しと置かれ、舞台上に潤沢な余裕を感じられなかった。とはいえ、プロセミアム・アーチの装飾は死神の意匠を反映して実に重厚、それでいて東京宝塚劇場のそれよりも数段凝った造りとなっていた。広さの都合で舞台装置の演出が省かれていたことは認めるとしても、フランツ・ヨーゼフとエリザベートが出会うシーンの出演者がタイミングを合わせて行う早回し食事の演出や、絶望にくれるエリザベートが一転して自らの人生の自由へと決意する場面の完全な静寂、窓に浮かぶ月に向かって歌い上げる場面など、舞台装置に関係なく演出に取り入れて欲しい場面までもが削られていたのは惜しいところである。

とはいえ、今回版ではスミレコード以外にも宝塚版ではできなかったと思われる演出の工夫が随所に設けられていた。例えば演者の老け方。本作はエリザベートの生涯を追想していくのが筋である。つまり演者は老けて行かねばならない。宝塚版では辛うじて北翔海莉さん演ずるフランツ・ヨーゼフが3~4段階ほどに老けていく姿が見られた程度であった。しかし本作ではフランツ・ヨーゼフはもちろんのこと、ハプスブルグ帝国の官吏たちや、革命家たちに至るまで、舞台を経るごとに等しく老けさせていた。それも3~4段階ではなく、私の見た所5~6段階に分けて。場面の度に髭が蓄えられ、髪は灰色から順に白くなっていく。この様は見事であった。場面ごとに他の登場人物が老けていく一方、全く変わらない容姿を見せる死神トートとルイジ・ルキーニ。二人の異質性が自然と浮き彫りになる見事な演出と云えよう。そもそもエリザベートの息子ルドルフ。ルドルフの少年時代を演ずるのは小学生(大内天さん)であり、青年となったルドルフは古川雄大さんがきっちりと青年の姿を演じてくれる。メイクや衣装替の都合上、また少年の配役など宝塚版では制限のある演出であり配役が、今回版ではきちんと演出に取り入れられていたのはお見事。

また、今回版のほうが史実の人物であるエリザベートにより密接したアプローチを採っていたように思える。例えば二幕冒頭でルイジ・ルキーニが売り子に扮してエリザベートのグッズを客席に配りまわる。妻の隣の方がマグカップをもらっていたが、配られたそれらのグッズには史実に残されたエリザベートの写真が転写されていた。同時に舞台上のハプスブルク家の紋章が刻まれた石版には、エリザベートの写真が投影されるという演出が施されていた。また、ルドルフが死す場面でも、葬儀の祭壇にひれ伏すエリザベートの実写真が投影され、物語の史実性を高める効果を与えていた。また、舞台によってはセットの背後に画像や画像を投影することで、舞台の作り物の印象をそらすような演出がされていたのも心に残った。

ただ、役者さんについては宝塚のほうが良かったと思える点もあった。例えば宝塚版のフランツ・ヨーゼフはトップ就任前の専科時代の北翔海莉さんが演じていたわけだが、母親ゾフィーとエリザベートの間に板挟みになる苦悩。この苦悩が今回のフランツ役を演じた佐藤隆紀さんの演技には少し見られなかったように思う。前回観たレビューにも書いたが、
 フランツ・ヨーゼフを単なるダメ男として演ずるのではダメなので
 ある。彼が国事に真面目であればあるほど、母に孝行を尽くそうとすれば
 するほど、エリザベートの苦悩は増していく。ここのさじ加減が少しでも
 甘いと、エリザベートの苦悩が嘘になってしまう。

この点で、もう少しフランツの有能さやそれゆえの苦悩が前面に出せていればさらに良かったと思う。

また、狂言回しであるルイジ・ルキーニ。本作の肝ともいえる人物であり、この人物が操作する筋、観客への内容紹介は重要である。ここが揺らぐと本作のねらいが観客に伝わらず、劇自体がブレてしまう。本作の尾上松也さんの演技は無論素晴らしく、ルキーニらしさが出ていてとても良かった。私にとっては甲乙付けがたいのだが、宝塚版で見た望海風斗さん演ずるルイジ・ルキーニのほうが、伝法さ、無頼さにおいて印象に残った。それは女性である望海風斗さんが演じたため私の印象に残ったのかもしれない。

結論として違う観点や演出でエリザベートを観られたことは幸運であった。蘭乃はなさんの歌声は宝塚版のほうが良かったとはいえ、今回版の歌声の荒れも、かろうじて感情表出の範囲として受け入れられる範囲だった。彼女にとって退団前と退団後、同じ役に続けて出られたことは本当に幸せだったといえるだろう。そしてそれは、はからずもその両方の舞台を観ることのできた私にとっても同様である。今回はカーテンコールも3回。最後のカーテンコールではスタンディング・オベーションで送られたわけだが、私もその一人となり、立って拍手で閉幕を見送ることができた。

2015/7/12 帝国劇場 開演 12:30~
https://www.tohostage.com/elisabeth/


エリザベート 愛と死の輪舞


今年100周年を迎え、衰えることを知らない宝塚。100年の長きに亘り劇団が存続してきたことは、実に素晴らしいことである。歴代のスタッフや生徒、OGや観客の貢献はいうまでもない。それに加え、時代の節目でモン・パリやパリ・ゼット、ベルサイユのばらに代表される素晴らしい演目に恵まれてきたことも大きい。

私が初めて宝塚を観劇したのは、今から18~9年ほど前の「ミー・アンド・マイガール」。天海祐希さんが主演の舞台で、かなりの印象を受けた。次に観たのが「ロミオとジュリエット」。3年半前の正月にみたこの作品によって、妻の宝塚熱は再燃し、娘二人も宝塚好きになった。思い出深い一作である。この2作によって、私にとっての宝塚が印象付けられた。ともに2幕物で、起伏に富んだ物語が舞台の上で所狭しと演ぜられる。エリザベートも2幕物であり、海外ミュージカルの輸入翻案というのも同じである。以前から機会があれば観ようと思っていたところ、今回ご招待を頂き、妻と観劇してきた。

結論からいうと、素晴らしい、の一言である。

本作は従来の物語にない構成を採っている。題名にもなっているエリザベートは、ハプスブルグ王朝の末期を生きた、フランツ・ヨーゼフⅠ世の妃でありながら、自由を愛する精神の持ち主として著名な人物である。しかし、トップ演ずる主役は彼女ではない。主役であるのはトート。死神である。エリザベートが見せる奔放な行動の背景に、死への無意識の憧れ、つまり死神トートに魅入られていたのではないか、という発想から成り立つのが本作である。そこに魅入られる=愛という要素を加え、ミュージカルとして成り立つ作品として仕上がっている。

本作は史実にも残るエリザベート暗殺犯のルイジ・ルキーニの裁判から幕を開ける。裁判の審理を進める上で、エリザベートの生涯を追想するというのが全体の構成である。そのため、全編に於いて狂言回しとしてルイジ・ルキーニが登場し、観客と舞台をつなぐ架け橋となる。本作では望海風斗さんが演じていたが、発声が実によく、耳の聞こえにくい私にもよく届いた。ともすれば台詞の聞こえにくいミュージカルで、狂言回しのセリフが聞こえないことは致命傷である。過去にルキーニを演じてきたのも、私でも名を知る錚々たる方々である。妻にそのことを聞いたところ、ルキーニ役はトップへの登竜門である役なのだとか。納得である。

私は、宝塚も好きだし、お声を掛けて頂ければ出来るだけ観させて頂いている。しかし、宝塚のスターシステムにはそれほど興味がない。もちろん、歴代スターの存在感や演技については文句のあるはずもない。ファンがトップの一挙手一投足に目を煌めかせ、青田買いと称して若手に注目するのも良くわかる。が、私の好みはそこにはない。宝塚以外の演劇も含め、私が興味を持って観るのは演出面の工夫である。そして、演出面での工夫にこそ、宝塚の素晴らしさと、100年続いてきた秘密があるのではないかと考えている。

本作は小池修一郎さんの潤色・演出であるが、随所に面白い仕掛けが施されていた。例えばエリザベートをフランツが見初める場面。その瞬間にいたるまでの過程を、映像を早送りするかのように全員の動きを速める。実にコミカルで、かつ流れを壊さない絶妙な演出であると感じた。この動きを舞台で実現するために、出演者たちは何度もリハーサルを繰り返したことだろう。また、舞台背景にガラス張りのセットが配されるシーンでは、セットの背景に宮廷の出席者たちを一瞬で移動させ、宮廷の賑やかさを保持したまま、その宮廷とは一線を画するエリザベートの孤独と、その孤独に付け入ろうとするトートを演出する。姑にあたるゾフィーからつらく当たられ、エリザベートが自死しようとする場面では、ロック調のオーケストラが目立つ本作において、一転して完全なる静寂に舞台を浸す。エリザベートの啜り泣きだけが舞台に響き、本作の転調ともなる抑えが効いた名場面である。そして静寂の後、彼女は人生の自由を求め、その魂を蘇らせる。それとともに、背景の空に自室の窓だけを浮かび上がり、スモークが舞台脇から湧いて舞台を覆う。この場面の美しさは本作のクライマックスとも思えるほど素晴らしく、窓を吊っているはずのピアノ線もうまく隠され、本当に浮いているかのようであった。

本作は愛と死の輪舞という副題が付いている。輪舞とは寄り添うだけでなく、すれ違いの動きに特徴がある。ルキーニが再三台詞を発したように、本作ではエリザベートとフランツの夫婦間のすれ違いが描かれる。しかし本作で描かれるすれ違いはもう一つある。それは、エリザベートとトートの間で交わされるすれ違いである。愛を求める心と死へ誘惑のすれ違い。ある時はエリザベートが持つ生への渇望にトートが退き、ある時は息子の自死の衝撃で死を求めるエリザベートに、「死は逃げ場ではない」とトートが一蹴する。人と交わってこその人生であるが、そこにすれ違いが生ずる。そして人に意識がある限り、その時々によって自分の心の中でさえすれ違いが生ずる。本作では、独りの人間の内と外でのすれ違いによって、苦しむ人間を描いている。

このように、演出上の効果や原作に込められた意図は、それだけで深く考えることも可能なのだが、それも役者あってのこと。演出家の意図を再現する生徒さん(演ずるのは全てプロのタカラジェンヌであり、宝塚音楽学校の生徒さん)たちの演技が見事でなければ、演出の意図など観客には届かない。私のような素人が見ている限りでは、目立つ失敗もなく、見事な演技であった。本作がトップお披露目公演という明日海りおさん演ずるトートの冷徹とニヒルが混ざった様も良かったし、妻子からは歌に難ありと聞いていた、本作が退団公演である蘭乃はなさんの歌も十分素晴らしく、傾聴に値したものであった。そして上にも挙げた狂言回しルキーニを演ずる望海風斗さんもよかった。しかし本作でキーとなったのは、フランツ・ヨーゼフⅠ世を演ずる北翔海莉さんであろう。本作で、エリザベートの抱える苦しみにリアリティを与えるのは、エリザベートを苦しめる姑ゾフィーとともに、その息子でありエリザベートの夫であるフランツ・ヨーゼフの優柔不断さである。一般に、エリザベート贔屓の人々からは、フランツ・ヨーゼフⅠ世は、愚夫にしてダメな国王と思われがちである。しかし実際の彼はそうではなかったと言われている。母に頭が上がらなかったこと以外は、勤勉で真面目な国王として後世に知られている。つまり、フランツ・ヨーゼフを単なるダメ男として演ずるのではダメなのである。彼が国事に真面目であればあるほど、母に孝行を尽くそうとすればするほど、エリザベートの苦悩は増していく。ここのさじ加減が少しでも甘いと、エリザベートの苦悩が嘘になってしまう。そのあたりの難しい役柄を北翔海莉さんは見事に演じており、本作を先に見ていた妻がその演技を絶賛していたのも良くわかる。

愛と死のすれ違い、というテーマ以外にも、本作では自由を求める人の精神、がテーマとして流れている。皇后という立場でありながら、自由を求めずにはいられなかったエリザベートの精神。立場や組織の中で、人はどうやって自由を求める心を失わずに生きるのか。妻に聞いたところでは、北翔海莉さんは実力や人気でトップに立てる人材として衆目一致するところであった。が、トップにはなれないまま、専科として各組の舞台を引き締める役に引き下がったという。それに関しては歌劇団の人事上の都合という憶測が囁かれているとか。北翔海莉さんが抱えている屈託や葛藤を全く感じさせない溌剌とした演技。この姿に、エリザベートが立場を超えて自由を求め続けた精神の気高さを重ね合わせずにいられなかった。

2014/10/25 開演 11:00~
https://kageki.hankyu.co.jp/elisabeth2014/


THE KINGDOM


昨年、家族+2名の友人を連れて観劇したのが、宝塚歌劇 月組の『ルパン -ARSENE LUPIN-』。本作はそのスピンオフ作品であり、ルパンで舞台となった時代をさらに遡り、ルパンの中で重要な脇役である2人の男を主役に据えた物語である。

主役は2人。凪七 瑠美扮するドナルド・ドースンと、美弥 るりか扮するパーシバル・ヘアフォール伯爵である。ルパンではヒロインであるカーラ・ド・レルヌを巡る4銃士のうちの2人として、同じ配役で20年後の時代を演じていた二人。今回はその若かりし日々の二人の出会いと、二人が協力して国際的な陰謀を防ぐための奮闘が描かれる。

もう少し粗筋を書くと、英国王ジョージⅤ世の戴冠のタイミングで、ロシアのボルシェビキが勢力を伸ばし、ロマノフ王朝のニコライⅡ世の亡命が現実の問題として迫る時代が舞台である。兄の急死によってヘアフォール伯爵家を継ぐことになったパーシバルは、ロマノフ家とイギリス王家との橋渡し役としての使命を死の床の兄から託される。また、長じてイギリス情報部員となったドナルド・ドースンは、ロシアからの亡命政治犯が活動を活発化させる中、イギリス王制への陰謀の種を見つける。二人は協力し、英国を陰謀の渦から救うため奔走する。だが、ロシアからの活動家の運動は扇動されたものであり、実は背後には戴冠式に使うダイヤ「カリナン一世」を盗み出すためのルパンの策略があった・・・・。

今回の公演は上にも挙げたとおり二人をトップに立てた公演である。今後の月組を担う二人を競わせ、成長させるために用意されたように思えた。ダブルスター制の公演であり、トップに対してのようなオンリーワンの演出こそないが、二人を表に立たせ、良さを際立たせるような演出が随所に感じられた。或いは本作の反応によっては今後の月組のトップ人事にも影響を及ぼすのかもしれない。

私はそれほどトップ人事に関心はない。が、妻子が宝塚好きであるため、オフィシャルな情報や雑談レベルの憶測をあれこれと吹き込まれている。そんな立場なので、二人のこれからをどうこういう知識も資格もないのは承知で、敢えて本作の感想を込めて書いてみることとする。

宝塚は周知の通り、出演者全員が女で、その約半分が男を演ずるという世界的にも稀有な劇団である。そんな中、男役としてのトップに立つにはダンス・歌・演技はもちろんの事、立ち居振る舞いも男らしさが求められる。トップともなれば、広い劇場の客席に「男」としての魅力を遍く行き渡らせる必要がある。遠い客席の隅からその男っぷりを感じるとすれば、それはどこに対してだろうか。私が思うに、それは声ではないかと思う。遠い客席から舞台上の人物を感じるに、視力やオペラグラスでは心もとない。しかし声ならば隅々まで届く。

凪七 瑠美はパンフレットでもクレジットでもトップに配されている。が、男役としては苦しそうな低声の発声が耳に残った。無理やり男性ボイスを絞り出しているような、「男」を苦しそうに演じているような声からは、男役としての迫力が感じられない。また、舞台上のシルエットにも押し出しの強さが感じられず、トップとしてのオーラに欠けているように思えたのは私だけだろうか。

一方、美弥 るりかは声の低音部にも張りがあり、押し出しも堂々たるものがあるように思えた。もっともこの感想は、私のような素人がたかだか2公演観ただけで判断したものである。上にも書いた通り、私がどうこういう話では無論ない。私は、引き続き妻子からのピーチク情報を頼りとし、今後を見守りたいと思う。

主演の二人以外のメンバーについては、副組長以外は、比較的若手のメンバーで構成されていたように思える。劇中でも4,5回ほど台詞のトチリがあった。千秋楽の前日でこれはどういったことだろう、と苦言を少々申したい。

が、そういった些細な生徒さんのミスは差し引いても、本作のストーリーは良いものがあったと思う。ルパンは今一つ登場人物の関係にメリハリがなく、少々わかりにくいものであったが、今作ではそれが改善されていたように思える。ストーリーが整理されていたため、筋の進み方にも起承転結があったと評価したい。

一方で、スピンオフ作品と銘打ってしまっていたためか、演出上の端々に物語のエピローグであるルパンが意識されていたことも否めない。そのため、ルパンを観ていない観客にとっては少々わかりにくい部分もあったと思われる。ただ、ルパンのストーリーで分かりにくかった部分が本作で説明されたことで、本作を観て改めてルパンを観たいと思ったのは私だけではないだろう。

2014/7/27 開演 15:00~
https://kageki.hankyu.co.jp/revue/388/


Dance Act ニジンスキー


バレエについては門外漢であり、本作が銘打つDance Actなる演劇形態についても、全く予備知識のないまま、劇場に臨んだ。しかしその演劇の粋を集めたような演出の素晴らしさとDanceの不思議な魅力には酔わされた。ゾクゾクする感覚、それを味わえる機会は、芸術鑑賞でもそうそうない。しかし本作ではその感覚に襲われた。

幕が開くと同時に、舞台上には彫像のように静止した4人の男女がそれぞれのポーズを取っている。と、一人一人が順にバレエの踊りを踊りだす。一斉にではなく、間合いをとって順に。その間合いは、4人の踊りの振りのリズムと同期している。流れが融け合っていく。そうして時間軸がつむぎ出され、舞台上の時間が動き出す。本作は時間の流れを意識している。観客も時間の流れに身を委ねることが求められる。しかも複数の時間を。本作の世界観に没入するには、時間を意識することが欠かせない。4人の男女は本作では時の流れを象徴するかのように作中を通じてダンスを幾度も披露する。或る時はゆるやかに。あるときは舞台の上で風を起すかのように。ある時は場面転換の先触れとして。冒頭から、本作における4人のダンサーの位置づけが分かりやすく示される。舞城のどかさん、穴井豪さん、長澤風海さん、加賀谷真聡さん。パンフレットを拝見するとバレエの振りは苦手という方もいらっしゃったのだが、それを感じさせないほど、緩やかに、かつダイナミックに躍動する姿は、実に美しい。

DANCER 舞城 のどか/穴井 豪/長澤 風海/加賀谷 真聡

踊り続ける4人の後ろから、安寿ミラさんが登場する。主人公ニジンスキーの妹ニジンスカという役どころで、本作を通してナレーションを務め上げる。登場早々、その立ち居振る舞いから、舞台上で流れる時間とは別の場所にいるかのごとく振る舞う。反復話法を駆使し、観客に対して本作の背景と登場人物間の関係を説明する。主人公の妹という役柄に加え、元宝塚男役スターの安寿さんの発声が舞台に効果を与えていることは間違いない。彼女の良く通る声を通じ、観客は徐々に本作の世界を理解する。このナレーションなくして、幾重にも重なりあう本作の世界観は理解しえない。

B.NIJINSKA 安寿 ミラ

ナレーションが始まってすぐ、精神を病んだニジンスキーが車いすで舞台上に登場。そして他の人物たちが舞台を去った後、彼の心中を具現したかのごとく、舞踊表現の粋を凝縮したような踊りが舞台上で展開される。バレエの振りについて詳しい訳ではないが、実に独創的である。これはニジンスキーの病んだ精神に閉じ込められた、舞踊家としての本能の迸りなのであろうか。主演の東山義久さんの狂気と快活さをともに表現した演技は鬼気迫るものがあった。

V.NIJINSKY 東山 義久

さらにはもう一人の役回しである、岡幸二郎さん演ずるディアギレフも登場。舞台の裏と表を行き来するその歩みは悠揚迫らぬもので、舞台に別の時間軸を持ち込む。そしてある時はニジンスカのナレーションと重ね、ある時は独白で、ニジンスキーとの愛憎を語り、ニジンスキーという人物の歴史を、その才能を語りつける。合間には見事な歌唱を披露し、芸術と男性の愛好家としてのディアギレフの複雑な内面を存分に示す。岡さんの歌声と声量は、本作の重要なアクセントの一つである。

DIAGHILEV 岡 幸二郎

本作の登場人物は全編を通して10人。それぞれがそれぞれの個性でもって、本作を構成する。その絶妙なバランスは素晴らしいものがある。ダンサーの4人も舞台上で時間軸を示すためには一人ではだめで、4人が4人の独自のステップを全うすることで、場面が場としても時間としても彩られる。

さきほどニジンスキーが車椅子で登場した際、車椅子を押していたのが、ニジンスキーの妻ロモラ。そして担当医師であるフレンケル医師。当初は舞台上の存在感はあえて抑えているが、徐々にこの二人が存在感を増す。ロモラは夫であるニジンスキーの才能や栄光という過去にしがみつく人物として。そしてフレンケル医師はロモラとの越えられない一線を耐えつつ、本作で唯一の常識人として舞台に静の側面をもたらす。つい先年まで宝塚娘役トップを務めていた遠野さんは、さすがというべき歌唱力もさることながら、その立ち居振る舞いが没落貴族でプライドだけに生きているロモラの危うさを見事に表現していた。そしてフレンケル医師に扮した佐野さんの落ち着いた常識人としての抑制の効いた演技は、本作にとって無くてはならないものである。

ROMOLA 遠野 あすか
DR.FRENKEL 佐野 大樹

舞台は、絶妙な演出効果と安寿ミラさんのナレーションにより、時間を一気に遡らずに、徐々に徐々に遡り、ニジンスキー一家の生い立ちを示す。そしてバレエ・リュス入団へと至る。ニジンスキーには兄がいて、先にバレエダンサーとして頭角を現すのだが、精神も先に病む。その兄が精神病院で亡くなったことをきっかけに、ニジンスキー自身も精神に異常を来す。その兄に追いつこうとするニジンスキー自身の狂った心を象徴するかのように、ニジンスキーの兄スタニスラフが登場する。30歳前半でなくなったという兄スタニスラフは、本作では少年のような出で立ちで舞台を所狭しと出現する。おそらくはニジンスキーの心の中に住む兄は少年の姿なのであろう。その姿は観客にしか分からず、ニジンスキー以外の登場人物には見えない存在として、本作の重層性にさらに複雑な層を加える。和田泰右さん演ずるスタニスラフは、本作のニジンスキーの心の闇を映し出す上で、外せない役どころである。その無垢なようでいて狂気を孕んだ登場の度に、観客の心に慄然とした感覚が走る。舞台後に楽屋で和田さんに挨拶させていただいたのだが、実にすばらしい好青年で、舞台とのギャップに改めて舞台人としての凄味を感じさせた。

STANISLAV 和田 泰右

安寿ミラさんのナレーションと岡幸二郎さんによるリードにより、ニジンスキーの栄光は頂点を極める。東山さんによるニジンスキー絶頂期の踊りは実に独創的と思わせるものがある。ニジンスキー本人の踊りも、後継者による踊りも知らない私だが、独創的と思わせる身のこなし、そして跳躍。Dance Actの本領発揮である。ある時は4人のダンサーを従えて。それぞれが素晴らしい舞踊を舞台狭しと表現する。その空間の中を、重厚なディアギレフの存在感を回避し、ロモラのプライドを翻弄し、フレンケル医師の常識をかき乱す。そして、ニジンスカのナレーションの効果はますます冴えわたる。

代表的なニジンスキーの舞踊である『牧神の午後』では全面に幕を張ることで影絵を通して自慰シーンを表現する。『ペトルーシュカ』では、人形を演ずるのが得意という、ニジンスキーの生涯とその狂気を解く鍵となる「操られる」ということについての解釈がなされている。

栄光の中、ロモラとの出会い、ロマンス。そして南米での結婚やつわり故の出演放棄に至り、ディアギレフの怒りが爆発する。栄光からの転落、そして忍従の日々。精神病院でのニジンスキーの追憶と、過去の現実の時間軸はますます錯綜する。この時、観客は何重にも進行する本作の時間軸の中に身を置くことになる。ニジンスカの兄ニジンスキーへの嫉妬を含んだナレーションの時間軸。ニジンスキーの追憶の時間軸。ディアギレフの愛憎交じった時間軸。そしてニジンスキーの兄スタニスラフへの敬慕と兄自身の狂気の時間軸。さらにロモラとフレンケル医師の惹かれあい、拒みあう感情の時間軸。最後に観客自身の時間軸。

幾重にも交錯する時間軸でも、観客は本作の世界観から取り残されることがない。それは冒頭のニジンスカの反復話法によって本作の世界観を叩き込まれているからである。また、10人の登場人物の本作での位置づけがしっかりと説明され、演技されているからでもある。このあたり、見事な演出と、役者の皆さんの卓越した演技による効果のたまものであろう。

ついに狂気の世界に堕ちていくニジンスキー。と、正気であるはずの絶頂期の舞踊においてすら、狂気を孕んだ演技を見せていたニジンスキーが急に快活となる。そしてディアギレフやニジンスカと本作を通して初めてまともな会話を交わす。そこには屈託や確執など微塵も感じさせない。ニジンスカのナレーションにはニジンスキーやディアギレフ没後の歴史が登場する。ここにきて、どうやら観客はニジンスキーは死に、死後の世界に来ていることを理解する。そして、ようやく彼の病んだ心が解放されたかのような錯覚を覚える。このあたりの東山さんの演技たるや素晴らしいものがある。

だが、快活なまま、ニジンスキーは本性をさらけ出す。操られるのが得意とさんざん言っておきながら、俺は神だ!と絶叫するニジンスキー。この時、舞台後方からのスポットライトに向かい、十字架を擬する。観客はニジンスキーの神を騙るかのような十字の影に彼の本心と狂気を観る。もはやナレーターではなく、兄に憧れ嫉妬する女性としてのニジンスカが、この時発する「あなた・・・狂ってる」。

私はこの時、全身にゾクゾクする戦慄を味わった。ニジンスキーの狂気と舞台人としての役者たちの演技に。

一度見ただけでは本作の時間軸を理解し尽せたとは思えない。ニジンスキーの手記もまだ販売されているそうなので、本作のDVDと合わせてもう一度見てみたいと思わされた。

2014/4/27 開演 14:00~
https://gingeki.jp/special/nijinsky.html