唐突ながら、出版社には格があると思う。格が何かを表現するに、新聞を例にあげると良いだろう。例えばガセネタといえば東スポ、大スポであり、信頼できる新聞といえば日本経済新聞というように。もっともこの例も最近は怪しくなりつつあるけれど。要するに情報の発信元への信頼度を格といい替えてみた。

出版社によってはトンデモない珍説を堂々と出版してしまうこともある。記載された情報を著者の主観だけでろくに裏取りせず、堂々と帯に新説として打ち出してしまうなど。そのようなトンデモ本の類いは「ト学会」に面白おかしく取り上げられ出版社としての格を落とす。そうしたトンデモ本を出す出版社の本は、どれほど真面目な内容であってもエンターテインメントの一種として見られ、読者は読んでいる間、眉に唾を付けっぱなしとなる。出版社や著者にとっては甚だ不本意な話であると思う。

では、本書の発行元である国書刊行会はどうか。国書刊行会は、私にとっては格の高い出版社である。世界のマイナーだが面白い本、日欧米以外の国で出版された名作や前衛作、そして問題作を我が国に積極的に紹介するその志には常々敬服している。格の高さだけでなく志を持っている出版社だと思っている。その二つを兼ね備えた出版社となるとなかなか見当たらない。

正直言って私が本書を手に取ったのは、題名と出版社の落差に興味を持ったからだ。もし本書が私にとって格の落ちる出版社から発行されていれば本書は手に取らなかっただろう。なにせ題名が「秀頼脱出」である。豊臣秀頼は大坂城で死んだのではない、という陰謀説の臭いが題名からもうもうと立ち込めている。そして本書は小説ではなく歴史書の類だ。しかも著者の名は本書で初めてお見かけした。となればなおさら本書は敬遠の対象となる。しかし、そのような偏見を抱きかねない本書は国書刊行会から出版されているのだ。私ががぜん興味を持ち、本書を手に取ったのはそういう経緯からだ。

なお、私は歴史にまつわる伝説の類いは好きだ。高木彬光氏の名著「成吉思汗の秘密」はそれこそ10回は読んでいる。こういう悠久の歴史の中で遊ぶロマンは好きだ。史実を金科玉条のように崇め奉るだけではロマンは生まれない。しかし、ロマンはロマン。それを史実として吹聴することについてはちょっと待て、と思う。

秀頼が死なずに薩摩辺りに逃れたという説があるのは以前からおぼろ気には知っていた。だが、今までの私は太閤の栄華を惜しむ民衆の心情が作り上げたよくある陰謀説の一つとしてあまり本気にしていなかった。

わたしがここに来て秀頼の脱出に興味を持った理由は二つ。一つは先日読み終えた「とっぴんぱらりの風太郎」だ。(レビュー)。秀頼はこの本において主要な脇役として登場する。その哀愁と愛嬌の両方を備えたキャラ設定には親しみを覚えた。そして「とっぴんぱらりの風太郎」は大坂城の大爆破でクライマックスを迎えるのだが、秀頼の最期は曖昧に描かれていた。果たして「とっぴんぱらりの風太郎」の中で秀頼はどうなったのかという疑問が喉に引っ掛かっていた。

もう一つは大河ドラマ真田丸の存在だ。本書を読んだ時点ではまだまだ先だが、いずれは秀頼の最期もドラマ内で映し出される日も来るのだろう。その時に秀頼の最後がどう描かれるのか、という興味だ。結局、私は真田丸の視聴を途中で断念してしまったのだが。

本書では秀頼脱出に真田大助が先導役を果たしたという説まで紹介されている。著者の探求は幸村一行の消息までは及んでいない。著者が追及し検証するのはあくまでも秀頼が大坂城を脱出し、薩摩へ逃れたという仮説の構築だ。そこに著者は重きを置いている。

その検証を進めるにあたり、著者の姿勢は慎重この上ない。そもそも著者が秀頼脱出説に興味を持ったのは、木下家の現当主、木下俊凞氏から木下家に一子相伝で伝わる伝承を教えてもらったからだという。その伝承とは、秀頼の遺児国松は京で斬首に処せられたのではないというものだ。豊臣秀吉の若き日の姓名が木下藤吉郎であることはよく知られている。諸説はあるが木下とは父の名乗っていた姓だという。そして秀吉の死後は秀吉の妻北政所の一族が木下家を継いだという。いずれにせよ木下家は秀吉に縁ある家柄だ。江戸幕府からは一定の配慮を受け江戸時代を生き延び、今に至っている。そんな一族に伝わる伝承だからこそ、著者は俗説として退けず、真剣に向き合ったのではないか。

さらに著者は、ある縁で多田金山に眠る伝説に真田幸村の家臣として知られる穴山小助が絡んでいたことを知る。太閤埋蔵金伝説で知られる多田金山には、今も眠ったままの財宝があるという。金山の資金の一部は、大阪冬夏の陣や秀頼の薩摩行きにあたり豊臣家のためとして使われたという。こういった周辺の伝承も、著者の心を調査へと駆り立てる。

著者は秀頼脱出説の真偽を調べるため九州へ飛ぶ。木下家に伝わる伝承によると、木下家が藩主となった立石藩5000石から初代藩主木下延俊の意思によって日出藩が分家された。日出藩の藩主となった人物こそ、大阪城から逃れた国松ではないかと著者は推測する。そこには立石藩主木下延俊が設けた子の名前が六人とも同じ縫殿助という名となっていて、いかにもな証拠となっている。

一方、国松の父秀頼は薩摩の谷山でかくまわれ、そこで子を成したのち45歳で自死した伝承が残っているらしい。それを裏付けるかのように地元には秀頼が薩摩に来た伝承が野史に残っていたり、秀頼の墓と伝わる石塔が今も立っている。著者はそれらの伝承は確認したものの、それ以外に碑や墓、書状という明確な形では確証が得られなかったようだ。本書にはそのことが正直に記してある。

著者の探求はかつて日出藩があった今の日出町へと向かう。日出藩菩提寺だった松屋寺には豊臣と銘された石柱や石灯籠が多数並んでいる。それらは写真として本書に紹介されている。また、日出藩領にある長流寺は、他の寺にはあまり見られぬ場所に石柱が立っている。その石柱にはただ一言『興亡三百年』と彫られている。これも写真で掲載されている。

著者が住職に伺った話でも、国松が立石藩初代藩主延由であることは公然の事実として伝えられているらしい。位牌にも豊臣の名が刻まれており、その位牌の写真も本書に紹介されている。

こういった著者の探求は、読者をして国松生存説に傾かせるには魅力的だ。冒頭に書いた通り、国書刊行会という名のある出版社が本書を出すからには相当の裏付けがないと難しい。著者が調べて本書に掲載した裏付けは、国松生存説を補強し、出版に踏み切らせるだけの強力な調査結果だったと思われる。

あとは秀頼である。秀頼は著者の調べるによると宗連と名を変えて薩摩に住んでいたという。だが、薩摩には確とした痕跡が残されていない。薩摩藩としては幕府の目を憚って証拠を残さぬように処置したのだろうと著者はいう。そして、著者の主張する通り国松生存が濃厚であれば、秀頼もまた生存していたと考えるのが自然である。薩摩には秀頼生存の確とした証拠がない代わりに、あちらこちらに伝説は残されている。著者はそれらの説も紹介するのだが、秀頼生存説の決定打となる証拠がない。

膠着状態の著者を救うかのように、埼玉の木場氏という方からの連絡がある。木場氏は、自家に伝わる一子相伝を語る。それによれば豊臣家に仕えた馬場文次郎という武士がいて、この人物が秀頼の大坂城脱出にあたって多大な貢献を果たしたとか。そのため、島津藩では木下の”木”と恩人である馬場の”場を組み合わせて木場という家を創設し、秀頼の子孫に名乗らせたというのだ。木場家では一子相伝の口伝として代々伝承されているというのだ。

木場家の伝承は歴史ロマンとしては魅力的だが、正直いって口伝なのが弱い。口伝だけでなく手紙や書状が残っているのであれば、本書でその手紙を紹介して欲しかったのだが。

また、木場家の伝承の中では真田大助が落ち延びる秀頼と鶴松に同道して薩摩へと向かったとあるようだ。木下家に伝わる一子相伝にも木場家に伝わる一子相伝にも、真田幸村ではなく大助が薩摩落ちに関係したという。双方の一子相伝を信ずるならば、真田幸村は薩摩に落ち延びず大助だけが落ち延びたことになる。つまり真田信繁の名を日ノ本一の兵として高めた大坂の陣での活躍は、死なずに落ち延びたという行いに汚されなかったことになる。これには正直ほっとした。兵をおいて将が薩摩に落ち延びたとすれば幻滅だからだ。

本書では巻末で私も初耳の説が紹介されている。それによると秀頼が設けた息子の一人に羽柴天四郎秀綱がいたという。そして島原の乱の首領であったと記された文書があるという。いうまでもなく天草四郎である。また、そこには秀頼自身も参戦していたともいう。その書状も本書には紹介されていないし他の証拠もない。これが本当なら歴史ロマンの花開く話なのだが。

著者が本書を世に問うた後、どのような調査を行ったのか。そして日本の史学会が秀頼脱出説をどう扱ったのか。そのことをとても知りたく思う。史実として秀頼脱出を認めるわけではないが、火のないところに煙は立たないともいう。何がしかの新事実があるのならなおさらだ。脱出説には関係なく、秀頼を再評価する動きも歴史家の間にあるとも聞く。戦国の世を締めくくる合戦の大将の末路が、城と共に飛散したのか、それとも今の世まで脈々と伝わっているのか。それはとても興味があるのだが。

‘2016/03/22-2016/03/24


16 thoughts on “秀頼脱出

  1. まぶりん麻呂。

    大坂落城後から京童が歌っていたとされる歌に次のようなものがあります。「花の様なる秀頼様を鬼のやうなる真田がつれて退きものいたよ加護島へ」。南九州市頴娃(えい)町にある雪丸という集落。火の無い所に煙は立たないと申しますが、大阪夏の陣の後、船で薩摩に逃れたという説は信じたいものです。薩摩は宇喜多秀家を一時匿ったことがあるので秀頼の薩摩脱出は有り得ない話ではないと思います。

    秀頼もさることながら武田勝頼が大崎玄蕃と変名して土佐へ移ったのは、書いてみたい題材のひとつです。真田昌幸が勝頼を迎えようとした潜龍院の跡地を草の者などの情報収集基地に使ったという話を膨らませ、勝頼を昌幸配下の忍びとして生きながらえさせ、大阪夏の陣で幸村に従い、城中で出会った長宗我部盛親の伝手で土佐へ渡った事を思い起こさせるような話を考えています。先日読んだ天野純希氏の「蝮の孫」では、刀根坂の戦いで死んだとされる斉藤龍興が九右ェ門というそっくりの人物と入れ替わり生き延びたという結末でした。勝頼が入れ替わるとしたら天目山で真田の忍びの者と入れ替わるというのが妥当な線でしょう。

    最近読んでいる本に箕輪諒氏の「くせものの譜」というのがあります。武田信玄の孫という噂のある御宿勘兵衛が主人公なのですが、さすらいの牢人勘兵衛が使える主君はことごとく滅亡することから厄神と呼ばれるが、出仕先で出会う人物との絡みが面白く、かなりマイナーな所を付いているのがツボです。

    1. 長井祥和 Post author

      水谷さん、こんにちは。
      秀頼脱出説は、学界的にはどうなんでしょうね。別に学会という権威に盲従する気はないのですが、ご紹介頂いた童歌は有名ですし、真田関係の本を読んでいても、当時からすでに秀頼脱出説はまことしやかに語られていたというので、私としても火のないところに~を用いたいです。

      ところで書いて頂いた勝頼土佐脱出説なるものがあるのですね。私初めて知りましたよ。あと斉藤龍興の脱出説ですか。英雄を惜しむ人々の思いが講談の場を借りて脱出説に変わっていったのはまだ理解できるのですが、斉藤龍興は正直講談の題材にも人々の惜別の対象になったとも思えません。これ、興味ありますね。今度教えてください。

      箕輪諒という作家さんも知りませんでした。これ、面白そうですね。今度探して見ます。

  2. 木場家末裔より

    秀頼脱出に関して大変興味を持ち裏付けになる書状がないか当家の家系図を分析しています。家系図がある事から当家が木場本家であると思われます。家系図では初代は木場伊左衛門、二代目は木場伊太夫となっています。即ち真田家と木下家に関連する名です。この名付け故により秀頼末裔としての信憑性が高いと感じます。家系図やその他の古文書から判断するに木場家の始まりは1600年代であるようです。この点からも同様のことが言えると思います。今日までこの家系図や書状は世に出していませんので面白い資料であるかもしれません。

    1. 長井祥和 Post author

      木場家末裔さま

      私のような一歴史ファンのブログへのコメントありがとうございます。
      こちらの本では、口伝しか伝わっていないように書かれていたのですが、
      家系図や古文書は遺されているのですね。

      お書き頂いた内容はとても興味深いです。世に出されていないとのこと
      ですが、著者の前川氏はすでにお持ちの古文書はご覧になられているの
      でしょうか。これは私の勝手な想いなのですが、木場家末裔さまのお持
      ちの古文書が、戦国の終わりや、幕末維新の意味を覆すかもしれず、と
      ても貴重な資料だと思います。

      是非、そういう研究発表の資料や場があれば、教えて頂ければ嬉しいで
      す。素人ながら、とても興味があります。

      鹿児島にはまだ行ったことがなく、妻と行きたいね、と言っているので
      すが、ますます行きたくなりました。

  3. 木場家末裔より

    長井様、早速のメールありがとうございます。

    先祖が豊臣家の可能性があると思えば正直興味津々です。他人事ではありませんから…寧ろ他人様に興味を持って頂いてる事に感謝したい気持ちです。現在はふるさと鹿児島には木場筋の親戚は全くおりません。木場家の事を一番よく知る叔母は昨年他界してしまいました。木場家を家系図を一人で伝えていかないといかない立場になってしまいましたので心細いばかりです。

    長井様にはもう一つ興味深い当家の宝物のお話をさせて頂きます。当家には戦前まで門外不出と伝えられた日本刀がありました。父からその話は聞いていましたのでどうしてもその日本刀の事を知りたく思っていました。叔母が亡くなる一年前にこの件を聞いたところ刀には村雲と銘が打たれていたそうです。父の兄が幼少の頃、この刀を抜いて身内を傷つけてしまいそうに振り回していた事から銘を覚えていたようです。刀を抜くと目の色が変わってしまっていたそうです。叔母にはそれがとても恐ろしかったようです。当家にとっては宝物というより妖刀であったのでしょう。この刀は残念ながら若くして大黒柱を失った祖母が生活の為に手放したそうです。

    1. 長井祥和 Post author

      木場家末裔さま

      早速のご返事ありがとうございます。
      豊臣秀吉という方は日本の歴史上で今後も長く伝えられていくべき人物ですよね。
      私ももともとは大阪の出でして、
      実家の近くにも豊臣秀吉ゆかりの地があります。
      http://8tagarasu.cocolog-nifty.com/sakamitisannpo/2009/01/post-85f7.html

      その血筋が木場様として続いているのであれば、私も嬉しく思います。是非、後世に
      木場家の由緒をお伝えして頂ければと願っております。

      よく妖刀の話は聞きますが、実際にそういうことがあると、一層興味がわきますよね。
      今もひょっとすると刀はどこかで木場様に巡り合えることを願っているかもしれません。
      私も頂いたお話を覚え、どこかの博物館で村雲の銘のある刀に巡り合えれば木場様に
      お知らせいたします。

      是非今後ともよろしくお願い致します。よろしくお願い致します。

  4. 木場家末裔より

    長井様

    ゆかりの地の情報ありがとうございます。

    是非一度訪ねてみたいと思います。

     

    こちらが初代、二代に発行された書状です。

    二枚とも1710年に発行されています。

    https://www.fastpic.jp/viewer.php?file=5114856348.jpg

    何故このように書面で残す必要があったのか不思議です。

  5. 長井祥和 Post author

    木場家末裔さま

    早速のご返信ありがとうございます。

    平盛雄というのは、どういった方でしょうか。盛という通字が使われているので、やはり平氏一門につながる方なのでしょうか。とても興味が湧きますね。

    この方が考えて実名として承認したとい意味合いであれば、木場家の由来にも何らか手がかりを残しているかも知れないですね。他にもこういった書簡が残されているとすれば、解明や分析がまたれるところです。

     

    ぜひまた教えて頂ければと思います。

    1. 木場家末裔より

      長井様

      私ごとのメールにお付き合い頂き嬉しく思います。

      木塲が始まるまでの系図が以下の写真です。

      不可思議ですが1600年ぐらいまでの人吉藩藩主相良家の系図が残されています。

      1600年前後に書き写されたたものと想像できます。

      そして先日お送りした1710年発行書状にある初代木塲伊左衛門、2代目伊太夫と当家は始まるのですが

      https://www.fastpic.jp/viewer.php?file=5953651475.jpg1

      https://www.fastpic.jp/viewer.php?file=5735629484.jpg

      不思議な流れです。

      こらからも情報提供、ご意見頂ければと思います。

       

       

  6. 長井祥和 Post author

    木場家末裔様

    コメントありがとうございます。
    相良家、とはまたおとなりとはいえ、意外ですね。

    また、最初のほうの古文書は、藤原氏の由緒でしょうか。
    蘇我の入鹿や馬子を誅した、中臣鎌足やその子の不比等の業績なのでしょうか。

    藤原氏を名乗った武将は信長をはじめとしてよく聞きますが、同じことなんでしょう
    か。とても面白いし興味深いですね。まさに宝の山ですね。

    是非一度、見てみたいものです。是非また貴重な文書を拝見させていただければ!

  7. 木場末裔

    先日南洲墓地を参りました。西郷隆盛のお墓のほぼ真後ろに木塲守義の墓があります。興味深い事に家紋が桐の紋となっています。是非一度お墓参り下さい。

    1. 長井祥和 Post author

      木場末裔様ご無沙汰しております。

      ご連絡ありがとうございます!

      鹿児島に行かれたのですね〜

      今西郷どんは私も妻も見ています。妻が桐野利秋が好きなもので。我が家も一度鹿児島に行きたいと申しております。

      是非、大西郷のお墓に行った際は木場さんのご先祖さまにも手を合わせさせていただきます!

  8. 木場末裔

    長井様

    ご無沙汰しております。鹿児島への旅は実現したでしょうか。

    大河ドラマせごどんに木場伝内が登場してから木場を検索して下さる方が増えてるようです。木場家にとっては有り難い事です。秀頼との関係が想像出来る資料や情報が収集できれば面白いですね。

    1. 長井祥和 Post author

      木場末裔様
              ご無沙汰しております。

              ご連絡ありがとうございます!

              西郷どんによって、木場家ご一族のご先祖様に脚光があたり、戦国の頃の新資料など見つかればよいですよね。わが家もなかなか鹿児島に行く時間がとれていないのですが、ぜひとも行きたいと思い、時間を取りたいと思っています。

              あと、以前教えて頂いた藤原(中臣)鎌足に興味を持っています。鹿島神宮が中臣氏の先祖の地であり、そこから中臣鎌足は明日香に出たとか。私はまだ鹿島神宮にはいったことがなく、一度行ってみたいと思っています。この3連休を使って。その時に、何か木場家のご先祖様とつながるような面白い関連でも見つかれば、と願っております。

              また、ご連絡頂ければ嬉しいです。

  9. 木場末裔

    長井様

    鹿島神宮への参拝は実現されましたか。

    せごどんも面白い時代に入って来ました。毎週欠かさず興味深く見ています。ところで幕末のできごとで非常に疑問に思っている点があります。第二次長州征伐の薩摩の出兵拒否の時の事です。史実として出兵拒否の書面が木場伝内の名で出されているとの事です。当時大阪留守居役ではありましたがこのような重要な決断の書面を何故木場の名で出したのかいささか不思議に感じています。またまた想像を膨らませてみたいと思っている今日この頃です。

    長井様の意見も是非お聞かせください。

    木場末裔より

    1. 長井祥和 Post author

      木場末裔様

      こんにちは。コメントありがとうございます。

      鹿嶋はとても堪能してきました。いずれ訪問記は当ページのブログにもアップしたいと思います。
      藤原鎌足をまつる神社も鹿嶋にあり、日本のあけぼのにとって欠かせない地であることは実感できました。

      木場伝内は、せごどんの重要な脇役ですね。藩の実務を取り仕切る人物として、とても重要だったと
      おもいます。おそらくは西郷吉之助の名前で発給する文書より、木場伝内名義のほうが対外的に重んじられたのではないでしょうか。

      当時の薩摩にはテロのイメージがついて回っていたので、あえて木場伝内という藩内の重鎮の名前を出すことで、
      この文書に藩の公式の文書であることを印象付けたかったのかな、という気がします。

      この夏は薩摩訪問が出来なさそうですが、来年にでも伺ってみて、余韻にひたりたいと思っています。

       

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