前巻は、日本海海戦を前日に控えた5/26日の夜で幕を閉じた。本書は5/27で幕を開ける。
日本海海戦。それは日露戦争の掉尾を飾る戦いであり、奉天会戦の勝利によって、日本の勝利がほぼ明らかとなった戦局に最後の一押しとなる戦いでもある。そして、著者が今までの七冊を費やしてつむいできた明治の精神を締めくくる最終巻は、日本海海戦の描写で占められる。

5/27は日露両国が対馬沖で戦った歴史的な日。
前巻にも出てきたが、最初にバルチック艦隊をみた民間人は宮古島の漁民だ。
そして、信濃丸の哨戒担当者はバルチック艦隊を目撃した最初の軍人となった。
哨戒に夢中になるあまり、敵艦の群れの真っただ中に入り込んでしまった信濃丸。その事実に気づき、緊迫する艦の様子。
信濃丸は、哨戒する任を帯び、戦艦に仮装した汽船だ。汽船の装備しか備えておらず、バルチック艦隊の真ん中に入り込めば、即座に集中砲火を浴び、撃沈されるだけ。
現場を速やかに離脱した信濃丸は現場を脱出し、打電する。ついで、巡洋艦和泉がバルチック艦隊を認め、その事実を打電した。それらの情報はただちに連合艦隊の旗艦である三笠に伝えられた。

バルチック艦隊が犯した致命的なミスは、航海中に数えきれないほどあったという。そしてこの時、和泉が発した打電は、バルチック艦隊に備わっていた無線機によって簡単に妨害できたはずだという。ところがロジェストウェンスキーは妨害を禁じた。そして、事前にバルチック艦隊を構成する全ての艦の煙突を黄色く塗った処置は、日本に敵艦隊の全容をたやすく把握する効果を及ぼした。

やがて朝日があたりを照らすころ、三笠より大本営に打った電報が、後世まで語り継がれる一文として永く刻まれることになった。
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス
本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
実はこの文章は秋山参謀の手によるものではないという。
私はこの文章は秋山参謀の手によるものだとすっかり思っていた。ところが、最初の一行の文は他の参謀がすでに起草しており、秋山参謀は二行目の文を付け加えたに過ぎないという。しかもこの二行目の文章も、その日の朝、東京の気象官が現場付近の天候を記した文を引用したというから驚きだ。

この中にある「撃滅」という言葉も、本来は電報の語彙としてふさわしくない語句だという。撃滅という言葉は本来、敵の艦隊を全て撃沈することを指し示す。だが、海戦において、そこまで完全に敵をやっつけられない。
そして撃滅という言葉は、東郷司令長官が明治天皇に拝謁した前で語った決意の言葉でもある。普段、ゆったり構えた東郷元帥が、このような極端な言葉を用いたことに、この言葉の重みがあるのだという。

そして、流用とはいえ「天気晴朗ナレドモ浪高シ」をとっさに付け加えた秋山参謀のセンスもまた称賛されるべきであり、この文章だけで、わが軍が有利な天候であるのみならず、艦艇の運用に制限がある事までも味方に知らしめたという。
そして、砲を撃つ際に練度が高い側、つまり日本が有利であることまでも示したという。

敵と対峙する三笠の艦橋にあって微動だにせぬまま、風や飛沫をあびて立ち尽くす東郷司令長官。そして背後に控え、戦局を注視する参謀たち。
その姿はまさに先頭に立つ将たる威厳のあるべき姿だ。

本書の第一巻のレビューの冒頭で、横須賀に静置保存されている三笠に登ったことを書いた。
そこで思ったことは、三笠の艦橋は、思ったよりも高くないということだ。それは私が戦艦の姿を日露戦争の時期よりも四十年後の姿として思い描いていた勘違いだろう。
だが、艦橋が低かったとしても、敵の砲弾を食らえば一撃で死ぬことには変わらない。死の危険を厭わず、将の将たるゆえんを全身で示していた東郷司令長官の威厳にはいささかの変化もないはずだ。

今も原宿の東郷神社にはZ旗が掲げられている。当日もZ旗が掲げられ、バルチック艦隊へと接近したという。
徐々に両艦隊同士の距離が縮まる中、東郷司令長官は微動だにしない。周りの参謀たちが焦りにみちてもなお。
そしてこの時、伝説となった丁字戦法、つまり敵前での回頭せよとの指令が東郷司令長官より出される。

敵を目前にしての回頭とは、つまり向きをその場で変えることだ。だから敵からしてみれば動きを変えている間、動きが止まっているように見える。つまり、これほど標的としてふさわしい存在はないのだ。
世界の海戦史に永遠に残されるであろう丁字戦法は、まさに型破りで常識に外れた戦法だった。
著者の筆はこの一連の流れを緊迫感を失うこともなく書き尽くしてゆく。
敵の砲弾が三笠に集中する中、艦橋でどっしり構える東郷司令長官。
この時、まさに東郷司令長官は歴史の中の名優であり、将のあるべき姿を体現する存在だったはず。

一方で当初、秋山参謀が考えていた戦法とは、両艦隊があい見えてから、バルチック艦隊がウラジオストックへと向かう間に七段構えで徐々に敵の艦隊を削ってゆくというものだった。
ところが、丁字戦法によって回頭を終えたことで、日本の連合艦隊はバルチック艦隊に砲弾を集中させやすい風上の位置についた。あとはひたすら砲弾を叩き込むのみ。
そこでは東郷司令長官が繰り返し行わせた砲術訓練が効果をあげた。しかも、敵艦隊のどの煙突もがわかりやすく黄色に塗られている。
しかも丁字戦法に対応するロジェストヴェンスキーの取った判断は、好機と見て砲弾を集中させるのではなく、その隙に乗じて全艦をウラジオストックに急行させる消極的なもの。

そうした要因が重なった結果、バルチック艦隊は徹底的に日本の連合艦隊の砲弾の雨にさらされた。その破壊力は、日本側の艦隊がほぼ無傷なのに比べ、バルチック艦隊はそのほとんどが使用不能になったことでもわかる。

ただし、東郷司令長官とて万能ではない。
この時、敵の動きを誤解し、あらぬ方向に艦を操舵させるミスもやらかしている。そして、その失策を救ったのが上村大将の率いる第三艦隊。右往左往する敵艦隊を独断で補足し続け、撃滅することに成功する。

翌日、鬱陵島に集まった日本艦隊は、引き続き残敵を掃討する作業にあたる。ロジェストウェンスキーはわずかに残った艦に移ったが、艦ごと捕捉され捕虜となる。第三艦隊のネボガトフ大将も同じく捕虜となる。
世界の海戦史でも例を見ない大勝利。
撃滅すると宣言した東郷大将の志は果たされ、歴史の偉人の仲間入りをした。

特に東郷大将が名声を上げたのは、敵将のロジェストウェンスキーを病院に見舞った時の態度にあるとか。
敵の健闘を讃え、負けた不運を悼む。その武人にふさわしい振る舞いは敵将に感銘を与えたという。
東郷大将は晩節こそ名を落としてしまったかもしれないが、この時期の大将はまさに名将であったと思う。

本書は、日露戦争の戦後交渉であるポーツマスでの折衝には触れていない。
そのため、折衝の結果である日露講和条約(ポーツマス条約)の結果が日本国民の期待を裏切り、それが小村寿太郎全権大使に対する批難につながったことや、日比谷で焼き討ち事件があったことも本書では触れていない。

代わりに著者は、秋山兄弟のその後を描く。
根岸の正岡子規邸を訪れた真之。無言で門前にたたずみ、きびすを返して墓へと参り、無言で正岡子規に別れを告げる。
そこには、日本の海軍の作戦を一人で担った高ぶりは微塵もない。
それどころか、戦争の惨禍は真之を精神的に追い詰めてしまう。
真之は自らの子に僧侶になってくれるように頼む。そして50歳の若さで世を去る。
兄の秋山好古は長生きしたが、晩年は軍からは離れ、愛媛で学校の校長となった。そして教育に腕をふるう余生を過ごした。

著者が本書の中で明治の精神を託した三人の姿。
それは、明治が欠落を急速に埋める時代だったことを表しているのではないだろうか。
それまでの幕藩体制と鎖国による遅れを急速に取り戻そうとする動き。その中で日本人は欧米に学び、または既存の文化や体制を否定することにエネルギーを費やした。
その先取の努力は、ついには当時の大国と目された清国・ロシアと戦う運命に日本を追いやった。

清との戦いはまだしも、ロシアとの戦いは日本を甚だしく疲労させた。
二つの戦いに日本は辛くも勝利した。
が、その勝利は日露戦争後の日本が四十年近くを慢心できるほど絶対的なものではなかった。
勝利の要因には、将や兵隊の根性や努力が貢献した部分もあるだろう。
だが、ほとんどは官僚主義に硬直し、情報の不足によるロシアの自滅であり、主戦場が日本に近い有利もあったはず。

そうした一連の明治の月日を正岡子規と秋山兄弟は懸命に生き、時代をつむいだ。だが、その代償として三人のうち二人は若くして死に、残る一人にも晩年は違う道で余生を過ごさせた。
日本にとって得るところも多かったが、失ったものも見逃せないほどあった。そんな時代を象徴するのが三人の生きざまだったと言える。

本書の巻末には、本書が単行本で六巻シリーズだった時に著者が残したあとがきが六巻分収められている。
どれもが本書から省かれた挿話に満ちており、とても興味深い。

さらにシリーズ全体を著者が取材した際に生まれたよもやま話も書かれている。
本書の全体の内容については、ウィキペディアによると否定的な面もあるらしい。だが、著者の取材上の苦労話を読むと、それも仕方ないと思える。
準備に五年、執筆に四年三カ月を掛けただけのことはある。

本書の全体をもって明治を把握したと早合点する愚は避けたい。
だが、明治を知る端緒として坂の上の雲が不朽であることは間違いないだろう。

‘2018/12/25-2018/12/26


カテゴリ: 読ん読く.
最終更新日: 2月 10, 2020

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