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資本主義の極意 明治維新から世界恐慌へ


誰だって若い頃は理想主義者だ。理想に救いをもとめる。己の力不足を社会のせいにする時。自分を受け入れない苦い現実ではなく己の望む理想を望む誘惑に負けた時。なぜか。楽だから。

若いがゆえに知識も経験も人脈もない。だから社会に受け入れられない。そのことに気づかないまま、現実ではなく理想の社会に自分を投影する。そのまま停滞し、己の生き方が社会のそれとずれてゆく。気づいた時、社会の速さと向きが自分の生き方とずれていることに気づく。そして気が付くと社会に取り残されてしまう。かつての私の姿だ。

私の場合、理想の社会を望んではいたが、現実の社会に適応できるように自分を変えてきた。そして今に至っている。だから当初は、資本主義社会を否定した時期もあった。目先の利益に追われる生き方を蔑み、利他に生きる人生をよしとした時期が。利他に生きるとは、人々が平等である社会。つまり、綿密な計画をもとに需要と供給のバランスをとり、人々に平等に結果を配分する共産主義だ。

ところが、共産主義は私の中学三年の時に崩壊した。その後、長じた私は上京を果たした。そして社会の中でもがいた。その年月で私が学んだ事実。それは、共産主義の理想が人類にはとても実現が見込めないことだ。すべての人の欲求を否定することなどとてもできないし、あらゆる局面で無限のパターンを持つ経済活動を制御し切れるわけがない。しょせん不可能なのだ。

人の努力にかかわらず結果が平等になるのであれば、人はやる気をなくすし向上心も失われる。私にとって受け入れられなかったのは、向上心を否定されることだ。機会の平等を否定するつもりはないが、結果の平等が前提であれば話は別。きっと努力を辞めてしまうだろう。そう、努力が失われた人生に喜びはない。生きがいもない。それが喪われることが私には耐えがたかった。

また、私は自分の中の欲求にも勝てなかった。私を打ち負かしたのは温水洗浄便座の快適さだ。それが私の克己心を打ちのめした。人は欲求にはとても抗えない、という真理。この真理に抗えなかったことで、私は資本主義とひととおりの和解を果たしたのだ。軍門に下ったと言われても構わない。

東京で働くにつれ、自分のスキルが上がってきた。そして理想の世界に頼らず、現実の世界に生きるすべを身につけた。ところが、私が求めてやまない生き方とは、日常の中に見つからなかった。スキルや世過ぎの方法、要領は身についたが、それらは生き方とは言わない。私は生き方を日々の中にどうしても見つけたかった。それが私のメンタリティの問題なのだということは頭では理解していても、実際に社会の仕組みに組み込まれることへの抵抗感が拭い去れない。それは日々の通勤ラッシュという形で私に牙をむいて襲い掛かってきた。

果たしてこの抵抗感は私の未熟さからくる甘えなのか。それともマズローの五段階欲求でいう自己実現の欲求に達した自分の成長なのか。それを見極めるには資本主義をより深く知らねばならない、と思うようになってきた。資本主義とは果たして人類がたどり着いた究極なのだろうか、という問いが私の頭からどうしても去らない。社会と折り合いをつけつつ糧を得るために、個人事業主となり、法人化して経営者になった今、ようやく社会の中に自分の生き方を溶け込ませる方法が見えてきた。自分と社会が少しだけ融けあえたような感覚。少なくともここまで達成できれば、逃げや甘えと非難されることもないのでは、と思えるようになってきた。

それでもまだ欲しい。資本主義の極意が何で、どう付き合っていけばよいかという処方箋が。私にとって資本主義とは自らと家族の糧を稼ぐ手段に過ぎない。今までは対症療法的なその場しのぎの対応で生きてきたが、これからどう生きれば自らの人生と社会の制度とがもっともっと和解できるのか。その疑問の答えを本書に求めた。

著者の履歴はとてもユニーク。高校時代は共産主義国の東欧・ソ連に留学し、大学の神学部では神について研究し、外務省ではソ連のエキスパートとして活躍した。そのスケールの大きさや意識の高さは私など及びもつかない。しかし一つだけ私に共通していると思えることが、理想を目指した点だ。神や共産主義といったテーマからは、資本主義に飽き足らない著者の姿勢が見える。さらに外交の現場で揉まれた著者は徹底的なリアリストの視点を身に着けたはず。理想の甘美も知りつつ、現実を冷徹に見る。そんな著者が語る資本主義とはどのようなものなのか。ぜひ知りたいと思った。

本書は資本主義を語る。資本主義の中で著者が焦点を当てるのは、日本で独自に根付いた資本主義だ。「私のマルクス」というタイトルの本を世に問うた著者がなぜ資本主義なのか。それは著者の現実的な目には資本主義がこれからも続くであろうことが映っているからだ。私たちを縛る資本主義とは将来も付き合わねばならないらしい。資本主義と付き合わねばならない以上、資本主義を知らねばならない。それも日本に住む以上、日本に適応した資本主義を。もっとも私自身は、資本主義が今後も続くのかという予想については、少し疑問をもっている。そのことは下で触れたい。

著者はマルクスについても造詣が深い。著者は、マルクスが著した「資本論」から発展したマルクス経済学の他に、資本主義に内在する論理を的確に表した学問はないと断言する。私たちは上に書いた通り、共産主義国家が実践した経済を壮大な失敗だと認識している。それらの国が採用した経済体制とは「マルクス主義経済学」を指し、それは資本主義を打倒して共産主義革命を起こすことに焦点を与えていると指摘する。言い添えれば統治のための経済学とも言えるだろう。一方の「マルクス経済学」は資本主義に潜む論理を究明することだけが目的だという。つまりイデオロギーの紛れ込む余地が薄い。著者は中でも宇野弘蔵の起した宇野経済学の立場に立って論を進める。宇野弘蔵は日本に独自に資本主義が発達した事を必然だと捉える。西洋のような形と違っていてもいい。それは教条的ではなく、柔軟に学問を捉える姿勢の表れだ。著者はそこに惹かれたのだろう。

この二点を軸に、著者は日本にどうやって今の資本主義が根付いていったのかを明治までさかのぼって掘り起こす。

資本主義が興ったイギリスでは、地方の農地が毛織物産業のための牧場として囲い込まれてしまった。そのため、追い出された農民は都市に向かい労働者となった。いわゆるエンクロージャーだ。ただし、日本の場合は江戸幕府から明治への維新を通った後も、地方の農民はそのまま農業を続けていた。なぜかというと国家が主導して殖産興業化を進めたからだ。つまり民間主導でなかったこと。ここが日本の特色だと著者は指摘する。

たまに日本の規制の多さを指して、日本は成功した社会主義国だと皮肉交じりに言われる。そういわれるスタートは、明治にあったのだ。明治政府が地租を改正し、貨幣を発行した流れは、江戸時代からの年貢という米を基盤とした経済があった。古い経済体制の上に政府主導で貨幣経済が導入されたこと。それが農家を維持したまま、政府主導の経済を実現できた明治の日本につながった。それは日本の特異な形なのだと著者はいう。もちろん、政府主導で短期間に近代化を果たしたことが日本を世界の列強に押し上げた理由の一つであることは容易に想像がつく。

西洋とは違った形で根付いた資本主義であっても、資本主義である以上、景気の波に左右される。その最も悪い形こそが恐慌だ。第二章では日本を襲った恐慌のいきさつと、それに政府と民間がどう対処したかを紹介しつつ、日本に特有の資本主義の流れについて分析する。

宇野経済学では恐慌は資本主義にとって欠かせないプロセス。景気が良くなると生産増強のため、賃金が上がる。上がり過ぎればすなわち企業は儲からなくなる。設備はだぶつき、商品は売れず、企業は倒産する。それを防ぐには人件費をおさえるため、生産効率をあげる圧力が内側から出てくる。その繰り返しだという。

私が常々思うこと。それは、生産効率が上昇し続けるスパイラル、との資本主義の構造がはらんだ仕組みとは幻想に過ぎず、その幻想は人工知能が人類を凌駕するシンギュラリティによって終止符を打たれるのではないかということだ。言い換えれば人類という労働力が経済に要らなくなった時、人工知能によって導かれる経済を資本主義経済と呼べるのだろうか、との疑問だ。その問いが頭から去らない。生産力や賃金の考えが経済の運営にとって必須でなくなった時、景気の波は消える。そして資本すら廃れ、人工知能の判断が全てに優先される社会が到来した時、人類が排除されるかどうかは分からないが、既存の資本主義の概念はすっかり形を変えるはずだ。あるいは結果の平等、つまり共産主義社会の理想とはその時に実現されるのかもしれない。または著者や人類の俊英の誰もが思いついたことのない社会体制が人工知能によって実現されるかもしれないという怖れ。ただそれは本書の扱うべき内容ではない。著者もその可能性には触れていない。

国が主導して大銀行や大企業が設立された経緯と、日本が日清・日露を戦った事で、海外進出が遅れた事情を書く海外進出の遅れにより、日本の資本主義の成長に伴う海外への投資も活発にならなかった。その流れが変わったのが第一次大戦後だ。未曽有の好景気は、大正デモクラシーにつながった。だが、賃金の上昇にはつながらなかった。さらに関東大震災による被害が、日本の経済力では身に余ったこと。また、ロシア革命によって共産主義国家が生まれたこと。それらが集中し、日本の資本主義のあり方も見直さざるを得なくなった。我が国の場合、資本主義が成熟する前に、国際情勢がそれを許さなかった、と言える。

社会が左傾化する中、国は弾圧をくわえ、海外に目を向け始める。軍が発言力を強め、それが満州事変から始まる十五年の戦争につながってゆく。著者はこの時の戦時経済には触れない。戦時経済は日本の資本主義の本質を語る上では鬼っ子のようなものなのかもしれない。また、帝国主義を全面に立てた動きの中では、景気の循環も無くなる、と指摘する。そして恐慌から立ち直るには戦争しかないことも。

意外なことに、本書は敗戦後からの復興について全く筆を割かない。諸外国から奇跡と呼ばれた高度経済成長の時期は本書からスッポリと抜けている。ここまであからさまに高度経済成長期を省いた理由は本書では明らかにされない。宇野経済学が原理論と段階論からなっている以上、第二次大戦までの日本の動きを追うだけで我が国の資本主義の本質はつかめるはず、という意図だろうか。

本書の最終章は、バブルが弾けた後の日本を描く。現状分析というわけだ。日本の組織論や働き方は高度経済成長期に培われた。そう思う私にとって、著者がこの時期をバッサリと省いたことには驚く。今の日本人を縛り、苦しめているのは高度経済成長がもたらした成功神話だと思うからだ。だが、著者が到達した日本の資本主義の極意とは、組織論やミクロな経済活動の中ではなく、マクロな動きの中にしかすくい取れないのだろうか。

本書が意図するのは、私たちがこれからも資本主義の社会を生きる極意のはず。つまり組織論や生き方よりも、資本主義の本質を知ることが大切と言いたいのだろう。だから今までの日本の資本主義の発達、つまり本質を語る。そして高度成長期は大胆に省くのではないか。

グローバルな様相を強める経済の行く末を占うにあたり、アベノミクスやTPPといった問題がどう影響するのか。著者はそうした要素の全てが賃下げに向かっていると喝破する。上で私が触れた人工知能も賃下げへの主要なファクターとなるのだろう。著者はシェア・エコノミーの隆盛を取り上げ、人と人との関係を大切に生きることが資本主義にからめとられない生き方をするコツだと指南する。そしてカネは決して否定せず、資本主義の内なる論理を理解したうえで、急ぎつつ待ち望むというキリスト教の教義にも近いことを説く。

著者の結論は、今の私の生き方にほぼ沿っていると思える。それがわかっただけでも本書は満足だし、私がこれから重きを置くべき活動も見えてきた気がする。

‘2017/11/24-2017/12/01


里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く


今の社会はこのままでよい。そう思っている人はどれくらいいるのだろう。大方の人々は、今の社会や経済の在り方になんとなく危うさを感じているのではないか。本書は、そんな社会の在り方に疑問と危機感を抱いたテレビディレクターが、ドキュメンタリーとして放映した番組を書籍化したものである。

今の日本社会は資本主義に基づいている。右肩上がりに成長することが前提の社会。その成長の前提が、限りある資源をエネルギーとして消費することで成り立っていることは言うまでもない。

しかし、便利さに身を委ねているとその事に気付くことはない。私も含め、いつかはなくなる資源の上にあぐらをかき、依存する日常。

昔からこの事に気付き警鐘を鳴らしてきた人々は多数いた。しかし、大多数の文明のぬるま湯に浸かる人々の心には響かぬままだった。しかしここに来て、少しずつ未来を憂える意見が注目され始めている。このままでは人類に未来はない、との危機感が少しずつ実感を持って浸透している。

とはいえ、人々に染み付いた文明の快さは容易には拭い去れない。資源を消費し信用貨幣を流通させる今の経済の仕組みを転換することは難しい。それでもなお、違う未来を切り開くための努力は世界のそこかしこで続けられ、それを紹介する映像や文章は求められ続ける。本書は、その一角を占めるに相応しい一冊である。

本書は、NHK広島支局の取材班による特番放送を基にしている。当初は中国山地の山間にある庄原市に住む和田芳治さんの取り組みからこの企画が持ち上がったという。本書も和田さんの取り組みの紹介から始まる。その取り組みとは、エコストーブである。

エコストーブとは一言でいえばリサイクルである。先に、今の経済の仕組みは資源の消費を前提にしていると書いた。遠方のどこかで産出された原油やガス、またはウランから取り出されたエネルギー。これが津々浦々に張り巡らされた送電網を通じて送られる。今の日本の繁栄は、それなくしては成り立たない。和田さんはその仕組み自体は否定しない。否定はしないが、依存もしない。依存せずに済ませられる方法を前向きに探す。その行き着いた結論の一つとして、裏山にいくらでもある枯れ枝を燃やす。それだけで、ガスや電気の替わりとなる。

和田さんは、消費経済から発想を転換するため、言葉も自在に操る。「廃棄物」→「副産物」。「高齢者」→「光齢者」。「省エネ」→「笑エネ」。「市民」→「志民」。本書59ページには和田さんの哲学が凝縮された言葉も紹介されている。「なぜ楽しさばかり言うかというと、楽しくなければ定住してもらえないだろうと思っているからです。金を稼ぐという話になると、どうしても都会には勝てない。でも、金を使わなくても豊かな暮らしができるとなると、里山のほうが、地方のほうが面白いのではないかと私たちは思っています」

たかが言葉も前向きな言葉に変えるだけで印象が変わる。人の心はかように不安定なもの。今の社会を形作る貨幣経済への思い込みもまた同じ。そこからの脱却は、思い込みを外すだけで簡単に実現できる。和田さんの姿勢からはそのようなメッセージが滲み出ている。第一章では庄原市の和田さんの他に面白い取り組みが紹介されている。同じ中国山地にある真庭市の銘建工業の中島さん。製材の過程で出る木屑をペレット状に加工し冷暖房の燃料に利用する。これによって真庭市全体で自然エネルギーの利用率は11%と、日本の平均1%を大幅に上回っている。一般にバイオマスエネルギーには否定的な論調を目にすることが多い。例えばアメリカではとうもろこしをバイオマスエネルギーの原料として使うが、それによって本来食糧として作付けされるべきとうもろこしがバイオマス原料として作付けされ、供給量や市場価格に影響を与える云々。

しかし、製材の木屑や枯れ枝利用であれば、そういった批判は封じ込められるのではないか。原子力や火力発電に成り代わることはないだろうが、風力や地熱や潮汐力発電の替わりにはなり得る。なおかつ、日本の国際収支を悪化させる火力発電用の燃料輸入費用を少しでも減らせるとすれば、普及させる価値はある。

第二章では、国ぐるみで木屑をバイオマス燃料として推進利用しているオーストリアの事例を紹介する。

数年前のユーロ危機において影響を最小限に止め、その経済状態は良好であるオーストリア。その秘密が林業とそこから産み出されるエネルギーにあることが明かされる。国ぐるみで林業を育成し、林業で利益をあげ、林業でグローバル経済から一線を引いた独自の経済圏を築く。本書によると、オーストリアでは再生可能エネルギーが28.5%にも上るのだとか。

ゆくゆくは、原発由来の電力すら完全に排除することも視野に入れているとのこと。国民投票により脱原子力を決議したが、それを実践しているのがオーストリアである。

本書ではオーストリアの代表的な街として、ギュッシングが紹介されている。木材から出る木屑をペレットにし、それを街ぐるみで発電する。外部から購入するエネルギーはゼロ。逆に売電を行い、安定した余剰電力を求める企業の誘致にも成果をあげているという。

バダシュ市長による言葉が本書の100ページに出ている。「大事なのは、住民の決断と政治のリーダーシップだ」

さらに本書は、オーストリアで出ているCLTという木造高層建築も紹介する。鉄とコンクリートいらずで、同じような強度を持つのだとか。耐震性・耐火性も備えており、日本の耐震実験施設で七階建のCLTが震度七の揺れに耐えたのだという。

先にあげた中島さんは、日本へのCLT導入へ意気込んでおられた。すでに日本CLT協会の設立も済ませ、法改正にむけた訴えもされているとか。その後CLTはどうなったであろうか。調べてみようと思う。

本書はここで、中間総括「里山資本主義」の極意と題し、著者に名を連ねる藻谷氏による中間総括を挟む。

中間総括は、一章と二章で取り上げられた内容のまとめだが、それだけには止まらない。かなりの分析が加えられ、中間総括だけで十分書籍として成り立つ内容になっている。特に138ページにある一文は重要である。「われわれの考える「里山資本主義」とは、お金の循環がすべてを決するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、お金に依存しないサブシステムも再構築しておこうというものだ」

また、マネー資本主義へのアンチテーゼとして三点が挙げられている。
1 「貨幣換算できない物々交換」の復権
2 規模の利益への抵抗
3 分業の原理への異議申し立て

一章、二章とこの中間報告は今の日本とこれからにとって良き指標となるかもしれない。そのくらいよくまとまり、なおかつ既存概念をうち壊すだけの破壊力も備えている。

三章は、瀬戸内海に浮かぶ周防大島でジャムを作る松嶋さんが主人公だ。新婚旅行で訪れたパリのジャム屋に触発され、大手電力会社の職を捨ててまでIターンした経緯や、そのあとの開業への取り組みなど、サラリーマンに疲弊している方には参考にも刺激にもなるに違いない。まずは都会の常識を取っ払う。さらには、田舎の常識をも取っ払う。ここに松嶋さんの成功の鍵があるように思える。都会の発想では仕入れは安く、製造工程は効率化するのがセオリーだ。田舎の発想では、なるべく店舗は繁華街に、人の集まる場所に構える。しかし、松嶋さんはそのどれも採らない。原料は高く買い、人手を掛けて作り、人家のあまりない海辺の一軒家に店をだす。

ここで、本書は重要な概念を提示する。ニューノーマル。震災以降の若者たちの新たな消費動向のこと。要は本書が目指すライフスタイルであり、グローバル経済、消費前提、マネー資本主義とは対極の消費動向のこと。成長が前提の経済とは対極の生き方を選ぶ若者が、今増えているという。

第四章は、”無縁社会”の克服と題し、里山での人々のつながりを豊かにする取り組みに焦点を当てる。持ちつ持たれつという日本的な近所付き合いへの回帰。これもまた、金銭換算しない里山資本主義の利点。

第五章は、「マッチョな二〇世紀から「しなやかな二一世紀」へ、と題した次世代社会システムの提言だ。とはいえ、その概念のパイオニアは本書ではない。すでにスマートシティという言葉が産まれている。スマートシティプロジェクトという公民学産の連合体が結成され、その中で議論がなされている。それも日本有数の企業メンバーによって。スマートシティとは本書によれば、巨大発電所の生み出す膨大な量の電気を一方的に分配するという20世紀型のエネルギーシステムを転換し、街中あるいはすぐ近くで作り出す小口の電力を地域の中で効率的に消費し、自立する二一世紀型の新システムのこと。

スマートシティの精神と里山資本主義には、さまざまな符合があることが本章で指摘される。今の疲れきった都会のインフラやそこで働く人々。それに対し、スマートシティまたは里山資本主義の考えが広く行き渡った暁には、日本は持続性のある社会として住みよい国となる。本書が一貫して訴えてきたのも、都会中心の生活からの脱却なのは自明だ。私が強く賛成したいのもこの点だ。

最終総括として、今の日本に対する楽観的な提言がなされる。曰く、日本はまだ可能性も潜在力も秘めており衰退などしないという。さまざまな経済指標が掲示され、さまざまな角度から日本の力が残っていることが示される。「日本経済ダメダメ論」の誤りとして三節に渡って日本経済悲観論者へのダメ出しを行うこの章もまた、本書において読むべき章だろう。特に日本の大問題とも言える少子化問題についてもそのプラス効果が謳われている。ただし、それにはマネー資本主義からの脱却が必要と著者は指摘する。そして2060年。人口の減った日本からは様々な問題が去っていることを予言している。

今の日本は灰色の悲観論が覆っている。私は悲観論には与したくない。だからといって、今の日本がこのままでいいとは全く思わない。要は行動あるのみ。今の経済社会のあり方は早晩崩壊するだろう。それは私の死んだ後のことかもしれない。しかし、今動けば崩壊を回避できるかもしれない。キリバスが海面下に没するのは遠い異国の話ではない。同じ目に日本が遭わないとは限らない。いや、津波という形で間違いなく被害に遭うだろう。しかし、本書を読む限り日本にはまだ望みがある。私に今すぐ出来ることは、本書で取り上げられた取り組みを少しでも広めること。そう思って本稿を書いた。

‘2015/04/01-2015/04/07