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横浜駅SF


鉄道ファンを称して「鉄ちゃん」という。その中にはさらに細分化されたカテゴリーがあり、乗り鉄、撮り鉄、線路鉄、音鉄などのさまざまなジャンルに分かれるらしい。私の場合、駅が好きなので駅鉄と名乗ることにしている。なぜなら私はさまざまな地域を旅し、その地の駅を訪れるのが好きだからだ。

駅はその土地の玄関口だ。訪問客にその地の文化や風土をアピールする役目を担っている。設置されてからの年月を駅はその土地の音を聞き、匂いを嗅ぎ、景色を見、温度や湿度を感じることに費やしてきた。駅が存在した年月は土地が培って来た歴史の一部でもある。土地の時空の一部となる事で駅は風土の雰囲気を身にまとう。そして土地になじんでゆく。

駅とは人々が通り過ぎ、待ち合わせるための場所だ。駅に求められる機能の本質はそこに尽きる。馬から列車へ人々の移動手段が変わっても駅の本質はブレない。行き交う人々を見守る本質をおろそかにしなかったことで、駅はその土地の栄枯盛衰を今に伝える語り手となった。

駅が本質を保ち続けたことは、車を相手とした道の駅と対照的な方向へ駅を歩ませることになった。物販や産地紹介に資源を割かず、あくまでも玄関口としての駅を全うする。その姿勢こそが私を駅に立ち寄らせる。駅とは本来、旅人の玄関口でよい。駅本屋をその土地のシンボルでかたどったデザイン駅も良いが、見た目は二の次三の次で十分。外見はシンプルでも駅の本質を揺るがせにせず、その地の歴史や文化を芯から体現する。そんな駅がいい。そうした駅に私は惹かれる。

ただし、駅にはいろいろある。ローカル駅から大ターミナルまで。大ターミナルは、その利用客の多さから何度も改修を重ねなければ立ちいかない。そしてその都度、過去の重みをどこかへ脱ぎ捨ててきた。それは大ターミナルの宿命であり、だからこそ私を惹きつけない。何度も改修を重ねてきた駅は、いくら見た目が立派でもどこか軽々しさを感じさせる。とくに、常に工事中でせわしさを感じる駅に対してはまったく興味がもてない。本書の主人公である横浜駅などは特にそう。私は何度となく横浜駅を利用するがいまだに好きになれない。

横浜駅はあまりにも広い。まるで利用客に全容を把握されることを厭うかのように。地下を縦横に侵食するPORTAやザ・ダイヤモンド。空を覆う高島屋やそごうやルミネやJOINUS。駅前を首都高が囲み、コンコースにはゆとりが感じられない。横浜駅のどこにも「横浜」を感じさせる場所はなく、旅人が憩いを感じる遊びの空間もない。ビジネスと日常が利用客の動きとなって奔流をなし、その流れを埋めるように工事中の覆いが点在する。いくら崎陽軒の売店があろうと、赤い靴はいてた女の子像があろうと、横浜駅で「横浜」を探すことは容易ではない。私が二十数年前、初めて関西から鈍行列車で降り立ち、友人と合流したのがまさに横浜駅。その日は港の見える丘公園や中華街やベイブリッジに連れて行ってもらったが、横浜駅に対してはなんの感慨も湧かなかった。そして、今、仕事や待ち合わせなどで日常的に使っていても感慨が湧き出たことはない。

私が横浜駅に魅力を感じないのは、戦後、急激に開発された駅だからなのか。駅前が高速道路とビルとデパートに囲まれている様子は急ごしらえの印象を一層強める。今もなお、せわしなく改造と改良と改修に明け暮れ、落ち着きをどこかに忘れてしまった駅。横浜駅の悪口を書くのはそれぐらいにするが、なぜか私は横浜駅に対して昔から居心地の悪さを感じ続けている。多分、私は横浜駅に不安を覚えているのだろう。私の把握を許さず、漠然と広がる横浜駅に。

そんな私の目にららぽーと横浜の紀伊国屋書店で平積みになっている本書が飛び込んできた。そしてつい、手にとって購入した。横浜駅が好きになれないからこそ本書のタイトルは目に刺さる。しかもタイトルにSFと付け加えられている。SFとはなんだろう。科学で味付けされたウソ。つまりそのウソで横浜駅を根底から覆してくれるのでは、と思わせる。さらには私が横浜駅に対して抱く負の感情を本書が取り除いてくれるのでは、との期待すら抱かせる。

本書で描かれる横浜駅は自立し、さらに自我を持つ。そのアイデアは面白い。本書が取り上げるのが新宿駅でも渋谷駅でもなく横浜駅なのだからなおさら興味深い。なぜ横浜駅が主人公に選ばれたのか。それを考えるだけで脳が刺激される。

知ってのとおり、横浜駅はいつ終わるともしれないリニューアル工事の真っ最中だ。新宿駅や渋谷駅でも同様の光景がみられる。ところが渋谷駅は谷あいにあるため膨張には限度がある。新宿駅も駅の周囲に散らばる都庁や中央公園や御苑や歌舞伎町が駅に侵食されることを許すまい。東京駅も大阪駅も同じ。ところが横浜駅には海がある。みなとみらい地区や駅の浜側に広がる広大な空間。その空間の広がりはそごうやタカシマヤや首都高に囲まれているにもかかわらず、横浜駅に膨張の余地を与えている。横浜駅の周囲に広がる空間は他の大ターミナルには見られない。強いて言うなら品川駅や神戸駅が近いだろうか。だが、この両駅の工事は一段落している。だからこそ本書の主役は横浜駅であるべきなのだ。

ただでさえつかみどころがない横浜駅。それなのに横浜駅の自我は満ち足りることなく増殖し膨張する。そんな横浜駅の不気味な本質を著者は小説の設定に仕立て上げた。不条理であり不気味な駅。それを誰もが知る横浜駅になぞらえたことが本書の肝だ。

自我を持つ構造体=駅。それは今の人工知能の考えそのままだ。自立を突き詰めたあまり人間の制御の及ばなくなった知性の脅威。それは人工知能に警鐘を鳴らす識者の論ではおなじみのテーマだ。本書に登場する横浜駅もそう。人の統制の網から自立し、自己防衛と自己複製と自己膨張に腐心する。人工知能に自己の膨張を制御する機構を組み込まなければ際限なくロジックに沿って膨張し、ついには宇宙を埋め尽くすだろう。人工知能の危険に警鐘を鳴らす文脈の中でよくいわれることだ。本書の横浜駅もまさにそう。横浜市や神奈川県や関東どころか、日本を蹂躙しようと領域を増やし続ける。

本書は駅の膨張性の他にもう一つ駅の属性を取り上げている。それは排他性だ。駅には外界と駅を遮断するシンボルとなるものがある。言うまでもなく自動改札だ。自動改札はよくよく考えるとユニークな存在だ。家やビルの扉はいったん閉ざされると外界と内を隔てる壁と一体化する。一度閉まった扉は侵入者を排除する攻撃的な印象が薄れるのだ。ところが自動改札は違う。改札の向こう側が見えていながら、不正な入場者を警告音とフラップドアによってこれ見よがしに締め出す。そこには排除の意図があからさまに表れている。自動改札は駅だけでなく一部のオフィスビルにも設けられている。だが、普通に生活を送っていれば自動改札に出くわすのは駅のほかはない。自動改札とは駅が内部を統制し、外界を排除する象徴なのだ。そして、自動改札はローカル駅にはない。大規模駅だけがこれ見よがしの排他性を持つ。それこそが、私が大規模駅を好きになれない理由の一つだと思う。

駅の膨張性と排他性に着目し、同時に描いた著者。その着眼の鋭さは素晴らしい。本書で惜しいのは、後半に物語の舞台が横浜駅を飛び出した後の展開だ。物語は日本を数カ所に割拠する駅構造体同士の争いにフォーカスをあわせる。その設定は今の分割されたJRを思わせる。ところが、横浜駅に対立する存在を外界の複数のJRにしてしまったことで、横浜駅に敵対する対象がぼやけてしまったように思うのだ。横浜駅に対立するのは外界だけでよかったはず。その対立物を複数のJRに設定したことで、駅の本質が何かという本書の焦点がずれてしまった。それは駅の特異さ、不条理さという本書の着眼点のユニークさすら危うくしたと思う。

駅が構造を増殖するのは人工物を通してであり、自然物ではその増殖に歯止めがかかるとの設定も良い。横浜駅の中を結ぶ情報ネットをスイカネットと名付けたのも面白い。日本を割拠するJRとの設定もよい。本書のいたるところに駅の本質に切り込んだネタがちりばめられており、駅が好きな私には面白い。鉄ちゃんではなく、本書はSFファンにとってお勧めできる内容だ。ところがSF的な展開に移った後半、駅に関する考察が顧みられなくなってしまったのだ。それは本書の虚構の面白さを少し損ねた。それが私には惜しい。

むしろ、本書は駅の本質を突き詰めたほうがより面白くなったと思う。まだまだ駅の本質には探るべき対象が眠っているはずだ。本書に登場する改札ロボットの存在がどことなくユーモラスであるだけに、その不条理さを追うだけで本書は一つの世界観として成り立ったと思う。だからこそ、条件が合致する横浜駅に特化し、駅の閉鎖性や不条理性を突き詰めていった方が良かった。多分、読者にも読みごたえがぐっと増したはず。その上で続編として各地のJR間の抗争を描いてもよかったと思う。短編でも中編でもよい。ところが少し急ぎすぎて一冊にすべての物語を詰め込んでしまい、焦点がぼやけた。それが惜しまれる。

ともあれ、本書をきっかけに私が横浜駅に抱く感情のありかが明確になった。それは本書から得た収穫だ。私は引き続き、各地の駅をめぐる旅を続けるつもりだ。そして駅の本質が何かを探し求めて行こうと思う。今まではあまり興味を持っていなかった大ターミナルの構造も含めて。

‘2017/05/12-2017/05/13


長崎の旅 ハウステンボスの魅力について


妻と二人で長崎を旅したのは2000年のゴールデン・ウィークの事です。前年秋に結婚してから半年が過ぎ、一緒の生活に慣れてきた頃。そんな時期に訪れた長崎は、妻がハウステンボスでつわりに気付いたこともあり、とても思い出に残っています。

それ以来16年がたちました。娘たちを連れて行きたいね、と言いながら仕事に雑事に追われる日々。なかなか訪れる機会がありませんでした。今回は妻が手配し、娘たちを連れて家族での再訪がようやく実現しました。うれしい。

2016/10/30早朝。駐車場に車を停め、踏み入れた羽田空港第一ターミナルは人影もまばら。諸手続きをこなし、搭乗口へと。私は搭乗口の手前の作業スペースでノートPCを開き、搭乗開始を待ちながら作業します。家族四人揃っての飛行機搭乗は11年ぶり。ハワイに旅行して以来のことです。実は私にとっても飛行機搭乗は10年ぶりとなりました。今回はスカイマークを利用したのですが、LCC(Low Cost Carrier)自体も初めての利用です。機内ではスカイマークデザインのキットカットが配布され、旅情を盛り上げてくれます。

やはり飛行機は速い。2時間ほどで福岡空港に着陸です。私にとって九州に上陸するのも前回のハウステンボス以来です。心踊ります。ただでさえ旅が好きな私。海を渡ると気分も高揚します。空港のコンコースを歩く歩幅も二割り増し。目にはいるすべてが新鮮で、私の心を明るく照らします。

福岡市営地下鉄に乗るのは20年ぶり。全てが懐かしい。ちょくちょく福岡に来ている妻に交通の差配は任せ、JR博多へ。みどりの窓口でハウステンボス号のチケットを購入し、いざホームへ。お店を冷やかし、パンフレットを覗き、街ゆく人の博多弁に耳を澄ませます。よかたいばってん。旅情ですね。

ホームに降り立つと、フォルムも独特なJR九州の車両群がホームにずらりと並んでいます。その光景に浮き立つ気分を抑えられません。鉄ちゃんじゃなくともワクワクさせられる光景です。もともと妻がJR九州には良い印象を持っていて、ユニークなデザインの車両については妻から話を聞いていました。私自身、ハウステンボス号に乗るのも、ユニークな車両群に会えるのをとても楽しみにしていました。そんな期待を裏切らぬかのように、やがて入線して来たハウステンボス号は、二種類の異なる車両が連結されていました。ハウステンボス号にみどり号が連結されているのです。

家族揃っての鉄旅は良いです。かつてスペーシアに乗って日光に行った事が思い出されます。本当はもっと何度もこういう旅がしたかったのですが。ま、過ぎた事を言っても仕方ありません。

鳥栖から長崎方向に転じたハウステンボス号は、佐賀の主要駅に停車していきます。私にとってなじみのない佐賀の駅はそれぞれの地の色あいで私を迎えてくれます。吉野ヶ里遺跡らしきものが見え、世界気球選手権大会が線路側で開催されています。有田では街に林立する窯の数に目をみはります。旅情です。旅です。

私は家族と会話したり、車窓をみたり、国とりゲームをしたり。そして、飛行機に乗っている時から読み耽っていた「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」を読み切ったり。この本のレビューは、いずれ読読ブログでもアップする予定です。本を読み終えた翌日、家族で長崎の街を歩いたのですが、この本を読んでおいたことは、長崎の街を歩くにあたって得るものがたくさんありました。

早岐の駅で佐世保に向かうみどり号から切り離され、ハウステンボス号は運河沿いを走ります。そして間も無くハウステンボス駅に到着。駅から、運河を挟んでそびえ立っているホテルオークラJRハウステンボスが見えます。ここからのハウステンボスはとても映えます。写真を撮りまくりました。期待が高まります。

私は今回でハウステンボスに来るのは3回目です。そして、ハウステンボス駅を利用するのはたぶん初めて。小ぶりな駅ですが、駅舎の面構えからしてハウステンボス感を爆発させています。これは駅鉄として、駅の全てをくまなく撮らねば。

入り口に向かったわれわれですが、実はまだこの時点で入園券を買っていませんでした。宿泊するウォーターマークホテル長崎・ハウステンボスのみ予約済の状態。16年ぶりの訪問は、正面から見て一番奥にあるホテルへの行き方もすっかり忘れてしまっています。正門から宿泊者用通行券のようなパスを使って入場すると思ったら、そんなものはないとのこと。外をぐるりと回るか、送迎バスに頼るしかないとか。結局、着いて早々、ハウステンボスの外周を送迎バスで回ってから中に入ることになりました。

前回来手から16年。ハウステンボスは波乱の年月を潜り抜けたといいます。一度は会社更生法が適用されたとも。そんな状態からHIS社のテコ入れで復活し、今や日本屈指のテーマパークになった経緯は、まさにカムバック賞もの。何がそれほどハウステンボスを復活させたのか。どれほどすごくなったのか期待していました。ですが不思議です。正門や外周からみたハウステンボスにオーラが感じられないのです。ディズニー・リゾートのように、エリアごと夢と魔法の世界でラッピングしたような演出には出会えずじまい。統一感がなくバラバラな世界観が散らばっているように思えます。

ホテルでチェックインすると、内装はさすがに洗練されています。今回チェックインしたウォーターマークホテルには、前回も泊まりました。その時はたしかホテルデンハーグという名前だったと覚えています。多分ハウステンボス自体の経営権が移った時に名称を変えたのでしょう。なので、ホテルの中では特段違和感を感じることはありませんでした。でも、ホテルを出て、ハウステンボス方向に向かうと何かが違うのです。このエリアはフリーエリアになっていて、ゲートを通らずに楽しめます。石畳に旅情あふれる欧風の建物が並んでいます。それは、異国情緒を感じさせます。ですが、よくよく見ると建物に入居しているのはココカラファインだったりします。観光土産屋さんが長崎の名産品や地域限定商品を陳列しています。建物の飾り付けも自由気まま。好きなように各店がポップを掲出し、幟を立てています。ディズニー・リゾートのような統一された世界とは対極です。おしゃれな道の駅? のような感じさえ抱きます。

それでも我が家は、見かけた佐世保バーガーのお店に入ります。うわさに聞く佐世保バーガーとはどんなんや?うまいっ!旅の疲れが佐世保バーガーで満たされ、気分も上向きます。

が、せっかく上向いた気分も、北に向かって歩いて行くにつれ、違和感に覆われていきます。レトロゲームの展示コーナーがあります。ここでは私も懐かしいゲームを何プレイかしました。でも、ゲームをやりにハウステンボスに来たわけやない、と違和感だけが募っていきます。海辺のウッドデッキをあしらったような場所には、ONE PIECEをあしらった海賊船が停泊しています。そしてウッドデッキにはフードを深々とかぶった謎の人物、フォースを使いこなしそうな人がのろのろと歩いています。この何でもありな感じは、かつて私がきた時の印象とはあまりにも違っています。ディズニー・リゾートの統一された世界観に慣れた我が家の全員が同じ感想を抱いたはず。ハウステンボスって、ショボくねぇ?という。

モヤモヤした感じを抱きながら、入場券をかざしてゲートを潜ります。ハウステンボスのランドマークともいうべきドムトールンを見上げつつ、跳ね橋を渡るとそこはハウステンボスの中心部。先ほど見た謎の人物にも似た妙な通行人がどっと増えます。そう、今日はハロウィーン前日。街中が仮装であふれています。ハロウィーンがアメリカではなく欧風の街並みに合うのかどうか。それはこの際大した問題ではありません。でも、欧風な街並みに洋風の仮装をした通行人が増えたことで、フリーエリアで感じたショボさがだいぶ払拭されました。でも、何でもありな感じは変わりません。お化け屋敷やARのホラー体験のアトラクションがあり、屋外のトイレは惨劇を思わせる血糊で汚されています。

一体どこに向かえばいいのか、行くあてを見失いそうです。それでも事前に下調べしておいたチョコレートの館や、チーズの館、ワインセラー、長崎の名産物などのアトラクションを巡ります。フリーチケットで入場したとはいえ、追加料金が必要となるアトラクションには結局入りませんでした。ただ、広大な敷地を移動し、道中の景色や種々のバラエティに富んだのぼりや掲示をみていると瞬く間に時間は過ぎて行きます。ハロウィーン期間ということもあって、巨大なイルミネーションが園内で展開されています。長崎ちゃんぽんを食べ、SF映画に顔合成された私たちを登場させてくれるアトラクションや、AAAのホログラムコンサートなど、技術の粋を惜しみなく注いだアトラクションには驚かされます。そんな風に過ごしていると、閉園時間が近づいてきます。結局、園内のかなりの場所を訪れることはできませんでした。北側の風車付近や、マリーナ、庭園や美術館の地区など。

広い園内と、雑多過ぎるほど統一感のない世界観。それでいながら、オランダを模した建物が林立する中、建物を縫うように石畳の街路が縦横に広がります。パトレイバーの等身大像や、運河を挟んだ建物の側面に映し出されたプロジェクションマッピングで太鼓の達人が遊べるアトラクション。徹底的に世界観の統一を拒むかのような園内。飽きるどころか、ほぼ並ばずにアトラクションを訪れていても、遊びきれていない満腹感とは反対の感覚。園内で感じた統一感のなさは、マンネリ感や既視感とは逆の感じです。それはかえってハウステンボスの巨大さを知らしめます。

ところが夜になると印象は一変。イルミネーションが園内に点灯し、統一感のある光で満ち溢れるのです。その素晴らしさは、ドムトールンに登って園内を見下ろすとより鮮やかになります。園内がマクロなレベルで統一されています。日中に見えていたオランダ風の街路や建物は、イルミネーションの影のアクセントとして存在感を増します。光の氾濫は眼をくらませるようでいて、その裏にある街路や建物の存在をかえって主張しています。

ここに至って私のハウステンボスへの認識は改まりました。フリーエリアで抱いたショボいかも、という認識。これはハウステンボスの目指す方向を見誤っていたことによるものだと気づいたのです。

ハウステンボスの目指す方向。それは、統一感のある世界観とは逆を向いています。つまり、東京ディズニー・リゾートの作り上げる夢と魔法の国からの決別です。ディズニーキャラの住むカートゥーンの世界観。それは東京のディズニー・リゾートがガッチリと抑えています。大阪のUSJもそう。ハリウッド映画の世界観が大都市からすぐの場所で楽しめる。

たぶん、かつてのハウステンボスは、オランダの異国情緒を体験できるとの触れ込みで統一感のある世界として創りあげられたはずです。しかし、長崎という日本のはしでは無理があった。ではどうすればいいか。HISはハウステンボスが日本の周辺に位置しているという条件を逆手に取ったのです。そして、それにふさわしい方針転換をしたのだと思います。すなわち、なんでもありの世界。統一感のない世界の実現へと。

何度も東京ディズニー・リゾートに行っていると、統一された世界観に、次第にマンネリズムを感じていきます。いくら趣向を凝らしたディスプレイで飾られていても、しょせんはディズニーキャラの世界。世界観が強固であれば、そのぶん閉塞感も増します。春夏秋冬、季節ごとにイベントで色合いを変えても、ディズニーキャラの世界観の延長でしかありません。それは、観客の達成感や飽和感につながります。ハウステンボスは、世界観に左右されないがため、逆に自由な発想が展開できます。オランダ風の建物や路地はただのベースに過ぎないのです。

逆説的ですが、そのことに気づいた時、私は最近のハウステンボスが盛り返している理由をおぼろげに理解したように思いました。ディズニー・リゾートと同じ土俵にあがらず、統一感をあえて出さずに勝負する。そして訪問客に満足感を感じさせない。それが、次なるリピートにつながる。実際、ハウステンボスをくまなく訪れられなかったことで、かえって園内の広さに満足感を持ったくらいなので。聞くところによれば、USJも雑多ななんでもありの路線を打ち出し始めているようです。上に書いたように従来のUSJはハリウッド映画の世界観で統一していました。でも、今は何でもありの世界観を出すことで、ディズニー・リゾートと一線を画しています。そしてディズニー・リゾートを凌駕しつつあります。成功の理由とは、世界観の統一を放棄したことにあるといってもよいのではないでしょうか。いまや、世界観の統一という満足だけだと、訪問客に見切られてしまうのでしょう。

地方を活性化するヒントも、ここにあります。田舎の何でもあり感は、洗練されたスタイリッシュな都心に住んでいるとかえって新鮮です。都心は、人が多すぎる。それゆえに、固定客をつかめば経営が成り立つのです。固定客とはつまり世界観が確立している店へのリピートです。つまり、都心では世界観を固定させることが繁盛へのキーワードだったといえます。しかし、ハウステンボスは田舎にあります。田舎で都会並みの統一感を出したところで、都会の人間にははまらないのです。オランダの街並みがはまった人にはリピーターになってもらったでしょうが、そうでない方には世界観の限界を見切られてしまいます。それこそが、当初のハウステンボスの凋落の原因だったと思います。すでに都会の世界観に疲れている私には、ハウステンボスが展開するこのとりとめのなさが、とても魅力的に映りました。そして、東京ディズニー・リゾートのような感覚で、テーマパークを当てはめてしまっていた自分の感性の衰えも感じました。

すでに寝静まろうとしている店を訪れ、少しでも長く多くハウステンボスを経験しようとする我が家。ホテルに一度戻り、娘たちを寝かせた後、夫婦で再びハウステンボスに戻ります。フリーエリアと有料エリアを分ける跳ね橋のそば。ここに、深夜までやっているbarがあります。「カフェ ド ハーフェン」。16年前もここに来ました。そして妻はジン・トニックの味が違うことにいぶかしさを感じました。それはもちろんつわりの一症状でした。このbarにはそんな思い出があります。今回、大きくなった娘たちを連れて来たことに万感の思いを抱きつつ、結婚生活を振り返りました。そして、16年ぶりのハウステンボスが、世界観を変えてよみがえったことに満足しつつ、お酒を楽しみました。

また、訪れようと思います。


vol.2 JR常磐線 湯本駅


2013/8/6~2013/8/7まで家族でスパリゾートハワイアンズに行っていました。その際に訪れた湯本駅の雰囲気が印象に残ったので、駅鉄シリーズにアップします。

[2-1]駅前通りへ

[2-2]駅前ロータリーへ

[2-3]駅舎内へ

(写真をクリックすると拡大します)

駅前通り

[2-2]次章へ

IMG_0258駅前の通りから臨む駅

IMG_0273駅前には「いわき市彫刻のある街づくり事業」としていわき市内に18体ある彫刻のうち、7体が設置してあります。これは「花束」

IMG_0275別の方角から望む駅全景。

IMG_0265この山の向こう側は湯元温泉で、温泉神社などもあります。

IMG_0274駅前通りと国道の交差点にも足湯がありました。

IMG_0264駅前からいわき中心部を望んで

IMG_0263駅前は温泉地として、また炭鉱として興味深い施設が多々あります。

[2-1]前章へ

駅前ロータリー

[2-3]次章へ

IMG_0260駅看板。

IMG_0259駅前の独自コンビニ。

IMG_0268駅前にあるYUMOTOのオブジェ。ちなみに背後に映っているのは新常磐交通のバス

IMG_0261駅からロータリーと通りへの道を望んで。

IMG_0271湯の街らしく、あちこちに足湯がありました。これは駅ロータリーに設置の足湯。駅構内には入りませんでしたが、ホームにも足湯がある模様。

[2-2]前章へ

駅舎内

IMG_0266改札はこんな様子。

IMG_0267自動販売機と料金表。

湯本駅先頭へ


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Wikipediaの湯本駅


vol.1 JR大糸線 梓橋駅


2013/7/27~2013/7/28まで家族で信州旅行に行っていました。その際に訪れた梓橋駅がなかなかよかったので、駅鉄シリーズを新たに作成しました。今後不定期にアップする予定です。

[1-1]駅外観へ

[1-2]ホームへ

(写真をクリックすると拡大します)

駅外観

[1-2]次章へ

IMG_9960駅外観。

IMG_9975よく見ると駅の説明がパネルとして駅舎に掲示してあります。

IMG_9986地元の駅に対する誇りと愛情が伝わってくるパネルです。

IMG_9985駅前には近くの史跡案内も。

IMG_9984駅の横にはちょっとした庭園が設えてありました。

IMG_9956梓橋踏切の待ち時間に、その電車が梓橋駅に停車する様子がうまく撮れました。

[1-1]前章へ

ホーム

IMG_9968駅員さんの御厚意で駅構内に入れて頂きました。非常に気さくな駅員さんで、写真を一緒に撮らせてもらいたかったぐらい。私以外に地元の高校生の乗客がいましたが、彼の色んなことをしっていました。地元密着ぶりが素晴らしい。

IMG_9964駅名標。

IMG_9963駅名票の後ろには何やら木が植わっています。

IMG_9973りんごのように見えます。

IMG_9961りんごです。まぎれもないりんご。

IMG_9980時節柄、まだ色づく前ですが、ひとつだけ赤みを帯びつつあるりんごを見つけました。うまそうです。

IMG_9978りんごの木の下には、梓橋りんご倶楽部という表示が。

IMG_9969駅舎のパネルにもりんごについて記載がありましたが、駅のホームの一角にもりんごの由来について記載看板が設置されていました。駅員さんにも話を伺ったところ、車掌さんや運転士さんの有志も募ってりんごのお世話を行っているそうです。

IMG_9971りんごの木は大切に保護されて育っているようです。この日は風も吹いていたのですが、カラカラと音が鳴り響いています。ペットボトルで作った風車が小気味よい音を立てています。

IMG_9972これは駅員さんに聞いたところ、鳥よけだということです。

IMG_9962一部の木にはネットも被せて保護しています。

IMG_9983そもそも梓橋や梓川によったのも、妻の名前にちなんだ場所であり、妻の希望だったからです(ほんとはもっと上流に行きたかったらしいのですが・・・)。そのことを駅員さんに伝えると、御厚意で妻や娘も構内に入れて頂きました。さっそく構内で側転をぶちかます次女。

IMG_9977りんごがホームに植わっている光景をしげしげと眺める次女。都会の駅にはないゆとりの良さが分かるのは、10年先でしょうか。

IMG_9966当駅は安曇野への玄関口を自負しており、立派な看板も立っています。

IMG_9967いい風合いの看板です。

IMG_9979安曇野方面を望んでの風景です。

IMG_9981梓川上流、上高地の山々も映えています。

IMG_9965安曇野方面から南の松本方面を望んで。横切っている道路は梓川の堤防です。

IMG_9958梓橋鉄橋。説明パネルに記載されていた通り、昭和40年代に一度落橋した後立てかけられた橋です。

IMG_9957梓橋のたもとに立っていた梓川の看板。

梓橋駅先頭へ


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