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未来の年表


本書は発売当時に話題になっていた。警世の書として。

本書の内容を一言で表すと少子化が続くわが国の未来を予言した書だ。このまま人口減少が続くと、わが国の社会や暮らしにどのような影響が表れるかを記述している。
その内容は人々に衝撃を与えた。

本書が出版されたのは2017年6月。おそらく2017年の頭から本書の執筆は開始されたのだろう。そのため、本書の年表は2016年から始まっている。
2016年はわが国の新生児の出生数が100万人を切った年だ。
著者はここで、真に憂慮すべきは出生数が100万人を下回ったことではなく、今後も出生数の減少傾向が止まらないことであると説く。
このまま机上で計算していくと、西暦3000年のわが国の人口は2000人になってしまう、というのだ。2000人といえば、私がかつて通っていた小学校の生徒数ぐらいの数だ。

本書は2016年から未来の各年をたどってゆく。顕著な影響が生じる21の年を取り上げ、その年に人口減少社会が何をもたらしていくのかを予測している。そこで書かれる予測はまさに戦慄すべきものだ。
その全てを紹介することはしない。だが、いくつか例を挙げてみたい。

例えば2019年。IT技術者の不足が取り上げられている。本稿を書いているのは2021年だが、今の時点ですでにIT技術者の不足は弊社のような零細企業にも影響を与えている。

2020年。女性の半分が50代に突入するとある。これが何を意味するのかといえば、子を産める女性の絶対数が不足しているので、いくら出生率が改善しても出生数が容易に増えないことだ。
わが国はかつて「産めよ増やせよ」というスローガンとともに多産社会に突き進んだ。だが、その背景には太平洋戦争という未曽有の事件があった。今さら、その頃のような多産社会には戻れないと著者も述べている。

2021年。団塊ジュニア世代が五十代に突入し、介護離職が増え始めるとある。私も団塊ジュニアの世代であり、2023年には五十代に突入する予定だ。介護問題も人ごとではない。

2042年。著者は団塊世代が75歳以上になる2025年より、2042年をわが国最大の危機と予想する。団塊ジュニア世代が70歳になり、高齢者人口がピークを迎えるのがこの年だからだ。私も生きていれば2042年は69歳になっている。本書が警告する未来は人ごとではない。

帯に表示されているほかの年を挙げてみると以下の通りだ。
2024年 全国民の3人に1人が65歳以上
2027年 輸血用血液が不足
2033年 3戸に1戸が空き家に
2039年 火葬場が不足
2040年 自治体の半数が消滅

私はもともと、今のわが国で主流とされる働き方のままでは少子化は免れないと思っていた。

朝早くから家を出て、帰宅は夜中。誰もが日々を一生懸命に生きている。
だが、なんのために働いているのかを考えた時、皆さんが抱える根拠は脆弱ではないだろうか。
働く直接の理由は、組織が求めるからだ。役所や企業が仕事を求めるからその仕事をこなす。その次の理由は、社会を回すためだろうか。やりがい、生きがいがその次に来る。
そうやって組織が求める論理に従って働いているうちに、次の世代を育てることを怠っていた。それが今のわが国だ。
仮に働く目的が組織や社会の観点から見ると正しいとしよう。だが、その正しさは、組織や社会があってこそ。なくなってしまっては元も子もない。そもそも働く場所も意味も失われてしまう。

私たちは一生懸命働くあまり、子育てに割く余力をなくしてしまった。子を作ったのはよいが、子供の成長を見る暇もなく仕事に忙殺される毎日。その結果が今の少子化につながっている。

子育ては全て妻に。高度成長期であればそれも成り立っていただろう。
高度成長期とは、人口増加と技術力の向上が相乗効果を生み、世界史上でも例のない速度でわが国が成長を遂げた時期だ。だが、その成功体験にからめとられているうちに、今やわが国は世界史上でも例を見ない速度で人口が減っていく国になろうとしている。
いくら右寄りの人が国防を叫ぼうにも、そもそも人がいない国を防ぐ意味などない。それを防ぐには、国外から移民を募るしかない。やがてそうした移民が主流になり、いつの間にか他の国に乗っ取られていることもありうる。現にそれは進行している。
本書が出版された後に世界はコロナウィルスの災厄によって姿を変えた。だが、その後でもわが国の少子化の事実はむしろ深刻化している。世界各国に比べ、わが国の死者は驚くほど少なかったからだ。

著者は本書の第二部で、20世紀型の成功体験と決別し、人口減少を前提とした国家の再構築が必要だと訴える。
再構築にあたって挙げられる施策として、以下の四つがある。移民の受け入れ、AIの導入、女性や高齢者の活用。だが、著者はそれら四つだけだと効果が薄いと述べている。
その代わりに著者が提言するのは「戦略的に縮む」ことだ。
少子化を防ぐことが不可能である以上、今のわが国の形を維持したままでこれからも国際社会で国として認められるためには、国をコンパクトにしていくことが必要だと著者は訴える。その上で10の提言を本書に載せている。

ここで挙げられている10の提言は、今の私たちの今後を左右することだろう。
1.「高齢者」をなくす
2.24時間社会からの脱却
3.非居住エリアを明確化
4.都道府県を飛び地合併
5.国際分業の徹底
6.「匠の技」を活用
7.国費学生制度で人材育成
8.中高年の地方移住促進
9.セカンド市民制度を創設
10.第3子以降に1000万円給付

これらは独創的な意見だと思う。わが国がこれらの提言を採用するかどうかも不透明だ。
だが、これぐらいやらなければもう国が立ちいかなくなる瀬戸際に来ている。
そのことを認め、早急に動いていかねばなるまい。
今の政治がどこまで未来に対して危機感を抱いているかは甚だ疑問だが。

‘2020/05/24-2020/05/25


本の未来はどうなるか 新しい記憶技術の時代へ


本書が発刊されたのは2000年。ようやくインターネットが社会に認知され始めた頃だ。SNSも黎明期を迎えたばかりで、GAFAMがまだAMでしかなかった頃の話。
ITが日常に不可欠なものになるとは、ごく一部の人しか思っていなかった時代だ。

本書を読んだのは2019年。本書が書かれてから20年近くがたった時期だ。本書を読んでいる今、ITが社会にとって欠かせない存在になっている事は言うまでもない。
情報デトックスという言葉もあるぐらいだ。もしデトックスを行いたい場合、山籠りか無人島で生活するしか手はない。それほど世の中に情報があふれている。
一方で情報があふれすぎているため、情報の発信地だったはずの本屋が次々と潰れている。そして、新刊書籍の発刊も減りつつある。
本を読むには電子書籍を使うことが主流となり、授業はオンラインかタブレットを使うことが当たり前になってきた。

著者はそんな未来を2000年の当時に予測する。そして本という媒体について、本質から考え直そうとする。
それはすなわち、人類の情報処理のあり方に思いをはせる作業でもある。
なので、著者の考察は書籍の本質を考えるところから始まる。書籍が誕生したいきさつと、本来の書籍が備えていた素朴な機能について。
そこから著者はコンピューターの処理と情報処理の本質についての考察を行い、本の将来の姿や、感覚と知覚にデジタルが及ぼす効果まで検討を進める。

本書の記述は広範囲に及び、そのためか少しだけ散漫になっている。
本書の前半は、グーテンベルクによる印刷技術の発明に多くの紙数が割かれている。活版によって同じ内容を刷る技術が発明されたことによって、本が持つ機能は、情報の伝達から消費へと変わっていった。
というのも、グーテンベルクが書物を大量も発行する道を開くまでは、書物とは限られた一部の特権階級の間で伝わるものであり、一般の庶民が本に触れる事はなかったからだ。

それまでの情報とは、人々の五感を通して伝えられるものでしかなかった。わずかに、パピルスや木簡、粘土板、石版に刻まれるメモ程度に使われる情報にすぎなかった。書簡も大量に生み出せないため、人と人の間を行きかう程度で、世にその情報が拡散することはなかった。
その時代、情報とは、人のすぐそばにあるものだった。
情報を欲する人の近くに情報が集まり、人々の脳や感覚に寄り添う。
情報を受ける人間と発信する人間がほぼ一対一の時代。だから、情報が影響を及ぼす範囲とは個人の行動範囲にほぼ等しかった。

ところが、グーテンベルクが発明した活版印刷技術は、発信した本人から空間、時間、時代を超えて情報が独り歩きする道を作った。個人の行動範囲を超えて情報が発信できるようになったこと。それこそがそれまでの情報媒体とは圧倒的に違う点だ。
そして、独り歩きするようになったことで、それまでの一対一でやり取りされた書簡が、一対多で広がっていった。

それによって、当時の人々は知識を大量に取り込むことが可能になった。
当時の有名な書物の印刷部数は、実は現代の一般的な書物の部数と比べて遜色がなく、むしろ多かったという。人々が競って書物を求めたからだろう。
今の私たちの感覚では、現代の書籍の出版部数の方が当時よりも多いと思ってしまう。だが、そうではなかったのだ。これは本書を読んで知った驚きだ。
要するに、今のベストセラーを除いたおびただしい数の書物は、お互いの出版部数を共食いしているのだ。

それはつまり、出版部数には一定の上限があることを意味している。出版業界が好況を呈していた三十年ほど前の状況こそが幻想にすぎなかったのだ。
情報技術が書籍を衰退させたのではなく、もともと書籍の出版部数には限界があった。このことは本書の指摘の中でも特筆すべき点だと思う。

さまざまな本が無数に発行される事は、情報の氾濫に等しい。しかもその氾濫は、真に情報を求める人が必要な時に必要な情報を得られない事態にもつながる。
すでに20世紀中頃、そうした情報の氾濫や埋没を予測していた人物がいる。アメリカの原子力開発で著名なヴァニーヴァー・ブッシュだ。
ブッシュは適切な情報処理の機器としてメメックスを考案した。本書にはメメックスの仕組みが詳細に紹介されている。そのアイディアの多くは、現代のスマホやタブレットPCが実現している。インターネットもブッシュのアイデアの流れを汲んでいる。

情報処理とは、つまりインプットの在り方でもある。この文章を私は今、iPadに対し声で入力している。それと同じアイデアを、当時のブッシュはヴォコーダという概念ですでに挙げていた。まさに先見の明を持った人物だったのだろう。

他にも、ウェブカメラやハイパーリンクの仕組みさえもプッシュの頭の中にアイデアとしてあったようだ。
通説ではインターネットやハイパーリンクのアイディアは、1960年代に生まれたという。ところが、本書によればブッシュはさらに遡ること10数年前にそうしたアイデアを温めていたという。

続いて著者は、ハイパーリンクについて語っていく。
そもそも本とは、ページを最初から最後のページまでを順に読み進めるのがセオリーだ。私自身も、そうした読み方しか出来ない。
だが、ハイパーリンクだと分の途中からリンクによって別のページと情報を参照することができる。Wikipediaがいい例だ。
そうした読み方の場合、順番の概念は不要になる。そこに、情報の考え方の転換が起きると著者はいう。つまり、パラダイムシフトだ。
もっとも私の知る限りだと、アルゼンチンの作家フリオ・コルタサルの『石蹴り遊び』は、各章を順番を問わず行き来するタイプの小説だったと思う。ちょうど、後にはやったゲームブックのように。
その形態がなぜ主流にならなかったのかは考える必要がありそうだ。

情報を断片に分け、その一部だけを得るという考えが、書籍のあり方に一石を投じる。そのような著者の主張にはうなずけるだけの説得力がある。
本を一冊まるまる読む必要もないし、本を最初から順に読む必要もない。
その考えを突き詰めると、本を買うには必要な部分だけでよい、という考えにもつながる。
それは、今の本の流通のあり方そのものに対して変革を促す、と著者は予測する。事実、今はその変革が起こっている最中だろう。まずはWikipediaによって。おそらく著者の分析と予測はあながち間違っていないと思う。

また本書では、タイムマシン・コンピューティングと言う考え方を紹介する。
それは、同じ場所に対して時間による動画や画像の記録を行うことにより、同じ場所にいながら時代を自在に行き来できる概念だ。
私が知る限り、このアイデアは現実の生活では広まっていないと思う。実際の生活で活用できるシーンがないからだろう。
おそらくそうした概念が真に世の中に受け入れられるとすれば、VRが普及した時だろう。だが、今のVRはまだ人間の五感を完全に再現できず、脳内の認識とも調和しきれていないと思っている。私も既に経験済みなだけに。

本書は、監視カメラやオーウェルが描いた監視社会についても触れている。また、別のページでは電子ペーパーや電子書籍の考えを説明し、今後はどのようなハードウエアがそうした情報機器を実現するかという論点でも考察を重ねる。
ところが、電子ペーパー自体は現代でもまだ広まっているとはいえない。それは、電子ペーパーのコストが問題になるからだ。
そもそもアプリやウェブページの技術が進んだ今、電子ペーパーがなくとも、端末1つで次々とページを切り替えられる。
だから、電子ペーパーの意味はないという著者の指摘は的を射ていると思う。
デジタル・サイネージは最近街角でもよく見るようになってきた。だが、そうした媒体も、よく見るとスマホやタブレットの延長に過ぎない。電子ペーパーである意味はあまりないのだ。
電子ペーパーを代替するデバイスは、Kindleやkoboやスマホやタブレットが実現したため、電子ペーパーという考え方はまだ時期尚早なのだろう。
その事を本書は20年近くも前に唱えていた。

本書は、感覚そのものをデジタルに変えられないかという取り組みも紹介している。
そして、そうした先進的な取り組みの成果を私たちは、生活の中で目にしている。ウエアラブル・コンピューターについても本書は紹介を怠っていない。感覚もデジタルとして受発信できる機器が、今後はますます登場することだろう。

本書の後半は、本そのものよりも情報を扱うメディアの考察に費やされている。
おそらく今後、本が情報処理や娯楽の主役に返り咲く事はほぼないだろう。それどころか、紙で書かれた本自体、図書館でしかお目にかかれなくなるに違いない。
ただ、情報を保存する媒体は何かしら残るはずだ。それがタブレットなのかスマホなのか、それとも人体のアタッチメントとして取り付けられる記憶媒体なのか。私にはわからない。

だが、情報媒体は、人の記憶そのものを保管する媒体として、近い将来、さらに革新的な変化を遂げることだろう。そして、私たちを驚かせてくれるに違いない。

20年前に出された本書であるが、鋭い視点は今もまだ古びていない。

‘2019/7/10-2019/7/21


人工知能-人類最悪にして最後の発明


今や人工知能の話題は、社会全体で取り上げられるべき問題となりつつある。ひと昔前まで、人工知能のニュースは情報技術のカテゴリーで小さく配信されていたはずなのに。それがいつの間にか、人類が共有すべきニュースになっている。

人工知能の話題が取り上げられる際、かつては明るい論調が幅を利かせていた。だが、今やそうではない。むしろ、人工知能が人類にとっての脅威である、という論調が主流になっている。脅威であるばかりか、人類を絶やす元凶。いつの間にかそう思われる存在となったのが昨今の人工知能だ。本書もその論調に追い打ちをかけるかのように、悲観的なトーンで人工知能を語る。まさにタイトルの通りに。

人工知能については、スティーブン・ホーキング博士やビル・ゲイツ、イーロン・マスクといった人々が否定的なコメントを発表している。先日、亡くなられたホーキング博士は車椅子の生活を余儀なくされながら、宇宙論の第一人者としてあまりにも著名。さらに注目すべきは後者の二人だ。片やマイクロソフト創業者にして長者番付の常連。片や、最近でこそテスラで苦しんでいるとはいえ、ハイパーループや宇宙旅行など実行力に抜きん出た起業家だ。情報社会の寵児ともいえるこれらの方々が、人工知能の暴走について深刻な危機感を抱いている。それは今の人工知能の行く末の危うさを象徴しているかのようだ。

一体、いつからそのような論調が幅を効かせるようになったのか。それはチェスの世界王者カスパロフ氏をIBMのスーパーコンピューターDEEP BLUEが破った時からではないか。報道された際はエポックなニュースとしてまだ記憶に新しい。そのニュースはPONANZAが将棋の佐藤名人を、そしてALPHA GOが囲碁のランキング世界一位の柯潔氏を破るにつれ、いよいよ顕著になってきた。しょせんは人間の使いこなすための道具でしかない、とたかをくくっていた人工知能が、いつしか人間を凌駕ししていることに、不気味さを感じるように。

さすがにネットには、本書ほど徹底的にネガティブな論調だけではなく、ポジティブな意見も散見される。だが、無邪気に人工知能を称賛するだけの記事が減ってきたのも事実。

ところが、世間の反応はまだまだ鈍い。かくいう私もそう。技術者の端くれでもあるので、人工知能については世間の人よりも多少はアンテナを張っているつもりだ。実際に人工知能についてのセミナーも聞いたことがある。それでも私の認識はまだ人工知能を甘くみていたらしい。今まで私が持っていた人工知能の定義とは、膨大なデータをコンピューターにひたすら読み込ませ、あらゆる物事に対する人間の認識や判断を記憶させる作業、つまり機械学習をベースとしたものだ。その過程では人間によってデータを読み込ませる作業が欠かせない。さらには、人工知能に対して何らかの指示を与えねばならない。人間がスイッチを入れ、コマンドを与えてはじめて人工知能は動作する。つまり、人間が操作しない限り、人工知能による自律的な意思も生まれようがない。そして人工知能が自律的な意思をもつまでには、さらなる研究と長い年月が必要だと。

ところが著者の考えは相当に悲観的だ。著者の目に人工知能と人類が幸せに共存できる未来は映っていない。人工知能は自己に課せられた目的を達成するために、あらゆる手段を尽くす。人間の何億倍もの知能を駆使して。目的を達成するためには手段は問わない。そもそも人工知能は人間に敵対しない。人工知能はただ、人類が自らの目的を達成するのに障害となるか否かを判断する。人間が目的のために邪魔と判断すればただ排除するのみ。また、人工知能に共感はない。共感するとすれば初期の段階で技術者が人間にフレンドリーな判断を行う機構を組み込み、そのプログラムがバグなく動いた場合に限られる。人工知能の目的達成と人間の利益のどちらを優先させるかも、プレインストールされたプログラムの判断に委ねられる。

いったい、人類にとって最大の幸福を人工知能に常に配慮させることは本当に可能なのか。絶対にバグは起きないのか。何重もの制御機能を重ねても、入念にテストを重ねてもバグは起きる。それは、技術者である私がよく分かっている。

一、ロボットは人間に危害を加えてはならないし、人間が危害を受けるのを何もせずに許してもならない。
ニ、ロボット は人間からのいかなる命令にも従わなければならない。ただし、その命令が第一原則に反する場合は除く。
三、ロボットは、第一原則および第二原則に反しない限り、自身の存在を守らなければならない。

これは有名なアイザック・アシモフによるロボット三原則だ。人工知能が現実のものになりつつある昨今、再びこの原則に脚光が当たった。だが、著者はロボット三原則は今や効果がないと切り捨てる。そして著者は人工知能へフレンドリー機構が組み込めるかどうかについてかなりページを割いている。そしてその有効性にも懐疑の目を向ける。

なぜか。一つは人工知能の開発をめざすプレイヤーが多すぎることだ。プレイヤーの中には人工知能を軍事目的に活用せんとする軍産複合体もいる。つまり、複数の人工知能がお互いを出し抜こうとするのだ。当然、出し抜くためには、お互部に組み込まれているフレンドリー機構をかいくぐる抜け道が研究される。組み込まれた回避機能が不具合を起こせば、人間が組み込んだフレンドリー機構は無効になる。もう一つは、人工知能自身の知能が人間をはるかに凌駕した時、人間が埋め込んだプロテクトが人工知能に対して有効であると誰が保証できるのか。技術者の知能を何億倍も上回る人工知能を前にして、人間が張り巡らせた防御機構は無力だ。そうなれば後は人工知能の下す判断に人類の未来を託すしかない。人工知能が「人間よ爆ぜろ」と、命じた瞬間、人類にとって最後の発明が人類を滅ぼす。

人工知能を開発しようとするプレイヤーが多すぎるため、人工知能の開発を統制する者がいない。その論点は本書の核となる前提の一つだ。いつどこで誰が人工知能のブレイクスルーを果たすのか。それは人類にとってパンドラの箱になるのか、それとも福音になるのか。その時、人間にフレンドリーな要素がきちんと実装されているのか。それは最初に人工知能の次の扉を開いた者に委ねられる。

もう一つの著者の主要な論点。それは、汎用知能AGI(artificial general intelligence)が人工超知能ASI(artificial super intelligence)になったと判断する基準だ。AGIとは人間と同じだけの知能をもつが、まだ自立能力は持たない。そして、Alpha Goはあくまでも囲碁を打つ機能に特化した人工知能でしかない。これがASIになると、人間に依存せず、己で判断を行える。そうなると人間には制御できない可能性が高い。そのとき、人工知能がAGIからASIにステージが上がった事をどうやって人間は判断するのか。そもそも、AGIが判断するロジックすら人類が検証することは不可能。人間の囲碁チャンピオンを破ったAlpha Goの判定ロジックも、すでに人間では追えないという。つまりAGIへのステップアップも、ましてやASIに上がったタイミングも把握することなど人間にはできないのだ。

そして、一度意思を手に入れたASIは、電気やハードウエアなど、自らにとって必要と見なした資源は優先的に確保しにくる。それが人類の生存に必要か否かは気にしない。自分自身を駆動させるためにのみ、ガス・水道・電気を利用するし、農作物すら発電用の資源として独占しかねない。その時、人間にできるのはネットワークを遮断するか、電源の供給を止めるしかない。だがもし、人工知能がAGIからASIになった瞬間を補足できなければ、人工知能は野に解き放たれる。そして人類がASIの制御を行うチャンスは失われる。

では、今の既存のソフトウエアの技術は人工知能に意思を持たせられる段階に来ているのか。まずそれを考えねばならない。私が本書を読むまで甘く考えていたのもこの点だ。人工知能の開発手法が、機械学習をベースとしている限り、知識とその判断結果によって築きあげる限り、自立しようがないのでは?つまり、技術者がコマンドを発行せねば人工知能はただの箱に過ぎず、パソコンやスマホと変わらないのでは?大抵の人はそうたかを括っているはずだ。私もそうだった。

だが、人工知能をAGIへ、さらにその先のASIに進める研究は世界のどこかで何者かによって着実に行われている。しかも研究の進捗は秘密のベールに覆われている。

人間に使われるだけの存在が、いつ自我を身につけるのか。そして自我を己の生存のためだけに向けるのか。そこに感情や意思と呼べるものはあるのか。全く予想が付かない。著者はASIには感情も意思もないと見ている。あるのはただロジックだけ。そして、そのロジックは人類に補足できない。人工知能が自我に目覚める瞬間に気づく可能性は低いし、人工知能のロジックを人類が使いこなせる可能性はさらに低い。それが著者の悲観論の要点だ。

本書の中で著者は、何人もの人工知能研究の碩学や泰斗に話を聞いている。その中にはシンギュラリティを世に広めた事で有名なレイ・カーツワイル氏もいる。カーツワイル氏の唱える楽観論と著者の主張は平行線をたどっているように読める。それも無理はない。どちらも仮説を元に議論しているだけなのだから。私もまだ著者が焚きつける危機感を完全に腹に落とし込めているわけではない。でも、著者にとってみればこれこそが最も危険な点なのだろう。

著者に言わせると、ASIを利用すれば地球温暖化や人口爆発は解決できるとのことだ。ただ、それらの問題はASIによる人類絶滅の危険に比べれば大したことではないともいう。それどころか、人工知能が地球温暖化の処方箋に人類絶滅を選べば元も子もない。

私たちは人工知能の危機をどう捉えなければならないのか。軽く受け流すか、それとも重く受け止めるか。2000年問題やインターネットを巡る悲観論が杞憂に終わったように、人工知能も同じ道をたどるのか。

どちらにせよ、私たちの思惑に関係なく、人工知能の開発は進められて行く。それがGoogleやAmazon、Facebook、AppleといったいわゆるGAFAの手によるのか。ほかの情報業界のスタートアップ企業なのか。それとも、国の支援を受けた研究機関なのか。または、軍の統帥部の奥深くかどこかの大学の研究室か。もし、ASIの自我が目覚めれば、その瞬間、人類の未来は定まる。

私は本書を読んでからというもの、人工知能の危機を軽く考える事だけはやめようと思った。そして、情報技術に携わる者ものとして、少し生き方も含めて考え直さねば、と思うようになった。

’2017/10/17-2017/10/24


慈悲の名君 保科正之


上杉鷹山、細井平州、二宮尊徳、徳川光圀。

2016年の私が本を読み、レビューを書いてその事績に触れた人物だ。共通するのは皆、江戸時代に学問や藩経営で名を成した方だ。

だが、彼らよりさらにさかのぼる時代に彼らに劣らぬほどの実績をあげた人物がいる。その人物こそ保科正之だ。だが、保科正之の事績についてはあまり現代に伝わっていない。保科正之とはいったい何を成した人物なのだろうか。それを紹介するのが本書だ。本書によると、保科正之とは徳川幕府の草創期に事実上の副将軍として幕政を切り回した人物だ。そして会津藩の実質の藩祖として腕を振るった人物でもある。今の史家からは江戸初期を代表する名君としての評価が定まっている。

ではなぜ、それほどまでに優れた人物である保科正之の業績があまり知られていないのだろうか。

その原因は戊辰戦争にあると著者は説く。

2013年の大河ドラマ「八重の桜」は幕末の会津藩が舞台となった。幕末の会津藩といえば白虎隊の悲劇がよく知られている。なぜ会津藩はあれほど愚直なまでに幕府に殉じたのか。その疑問を解くには、保科正之が会津藩に遺した遺訓”会津家訓十五箇条”を理解することが欠かせない。”会津家訓十五箇条”の中で、主君に仕えた以上は決して裏切ることなかれという一文がある。その一文が幕末の会津藩の行動を縛ったといえる。以下にその一文を紹介する。
 

一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
   若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。

明治新政府からすれば、最後まで抵抗した会津藩の背後に保科正之が遺した”会津家訓十五箇条”の影響を感じたのだろう。つまり、保科正之とは明治新政府にとって封建制の旧弊を象徴する人物なのだ。それは会津藩に煮え湯を飲まされた明治新政府の意向として定着し、新政府の顔色をうかがう御用学者によって業績が無視される原因となった。それが保科正之の業績が今に至るまで過小評価されている理由だと思われる。

2016年、本書を読む三カ月前に私は会津の近く、郡山を二度仕事で訪問した。そこで知ったのは、会津が情報技術で先駆的な研究を行っていることだ。私が知る会津藩とは、時代に逆らい忠義に殉じた藩である。そこには忠君の美学もあるが、時代の風向きを読まぬかたくなさも目につく。だが、情報産業で先端をゆく今の会津からは、むしろ時代に先んずる小気味良さすら感じる。今や会津とかたくなさを結びつける私の認識が古いのだ。

私がなぜ会津について相反するイメージを抱くのか。その理由も本書であきらかだ。会津藩の草創期を作ったのが保科正之。公の業績は、それだけにとどまらない。本書の記載によれば保科正之こそ江戸時代を戦国の武断気風から文治の時代へと導いた名君であることがわかる。つまり、保科正之とは徳川260年の世を大平に導いた人物。そして、時代の風を読むに長けた指導者としてとらえ直すべきなのだ。そんな保科正之が基礎を作った会津だからこそ、進取の風土に富む素地が培われているのだろう。

冒頭に挙げた上杉鷹山のように藩籍返上寸前の藩財政を持ち直させた実績。水戸光圀のように後の世の学問に役立つ書を編纂した業績。保科正之にはそういったわかりやすく人々の記録に刻まれる業績が乏しい。ただでさえ記憶に残りにくい保科正之は、明治政府から軽んじられたことで一層実績が見えにくくなった。そう著者は訴える。

さらに、保科正之は徳川四代将軍の補佐役として23年間江戸城に詰めきりだった。その一方で藩政にも江戸から指示を出しながら携わり続けた。幕政と藩政の両方で徳川幕府の確立に身骨を注いだ生涯。また、保科正之が将軍の補佐にあたった時期は、その前の知恵伊豆と呼ばれた松平信綱の治世とその後の水戸黄門こと徳川光圀の治世に挟まれている。その間に活躍した保科正之の業績が過小評価されるのも無理もない。

それゆえに著者は保科正之の再評価が必要だと本書で訴える。そして本書で紹介される保科正之の業績を学べば学ぶほど、保科正之とは語り継がれるべき人物であったことが理解できる。冒頭に挙げた人々に負けぬほどに。

保科正之が幕政に携わったのは、島原の乱が終わってからのことだ。秀忠、家光両将軍による諸家への改易の嵐も一段落した頃だ。戦国時代の武断政治の名残を引きずっていた徳川幕府が文治政治へと方針を変える時期。改易が生んだ大量の浪人は、文治に移りゆく世の中で武士階級が不要になった象徴だ。それは武士階級の不満を集め、由井正雪による慶安事件を産み出す原因となった。そんな社会が変動する時代にあって三代家光は世を去る。そして後を継ぐ家綱はまだ十一歳。補佐役が何よりも求められていた時だ。保科正之の政策に誤りがあれば、江戸幕府は転覆の憂き目を見ていたこともありうる。

また、正之の治世下には明暦の大火が江戸を燃やし尽くした。その際にも、保科正之が示した手腕は目覚ましいものがあったようだ。特に、燃え落ちた江戸城天守閣の処遇について正之が果たした役割は大きい。なぜならば正之の意見が通り、天主はとうとう復元されなかったからだ。今も皇居に残る天守台の遺構。それは、武断政治から文治政治への切り替えを主導した正之の政策の象徴ともいえる。また、玉川上水も正之の治世中に完成している。本書を読んで2か月後、私は羽村からの20キロ弱を玉川上水に沿って歩いた。そのことで、私にとって保科正之はより近い人物となった。

では、幕政に比べて藩政はどうだろう。本書で紹介される藩政をみると、23年も江戸に詰めていたにしては善政を敷いた名君といえるのではないだろうか。高齢者への生涯年金にあたる制度など、時代に先んじた視点を備えていたことに驚く。おそらく正之が副将軍ではなく、上杉鷹山のように窮乏藩を預かっていたとしてもそれなりの名を残したに違いない。

結局、保科正之の偉大さとはなんだろうか。確かに若い将軍を助け、徳川幕府を戦国から次の時代につなげたことは評価できる事績だ。だが、それよりも偉大だったのは時代の潮目を見抜く大局的な視点で政治にあたったことではないか。

本書は、保科正之の生い立ちから書き起こすことで、その大局的な視点がいつ養われたのかについても触れている。保科正之は秀忠が大奥の側室に手をつけ産まれた。そのため秀忠の正室である於江与の方をはばかり、私的には認知、公的には非認知、という複雑な幼年期を過ごす。そして於江与の方から隠されるように武田信玄の娘見性院に養育され、一度は甲斐武田家の再興を託される立場となる。その結果、保科正之は武田家の有力家臣だった保科家を継いだ。正之に思慮深さと洞察力を与えたのも、このような複雑で幼い頃の経験があったからだろう。また、武田家が長篠の戦で新戦術である鉄砲に負け没落したこと。それも大局的な目を養うべきとの保科家の教訓として正之にこんこんと説かれたのだと思う。

それゆえに、正之にしてみれば自分の遺した”会津家訓十五箇条”が子孫から大局的な視点を奪ったことは不本意だったと思う。正之が”会津家訓十五箇条”を残した時期は、まだ戦国時代の残り香が世に漂っており、徳川体制を盤石とすることが優先された。そのため、公の残した”会津家訓十五箇条”は200年後の時代にはそぐわないはずだ。だが、それは遺訓の話。保科正之その人は時代の変化に対応できる人物だったのではないか。だから今、会津が情報化の波に乗っていることを泉下で知り、喜んでいることと願いたい。

保科正之の生涯から私たちが学べること。それは大局的な視点を持つことだ。そして彼の残した遺訓からの教訓とは、文章を残すのなら、時代をこえて普遍的な内容であらねばならないことだ。それは、私も肝に銘じなければならない。あまた書き散らす膨大なツイートやブログやウォールの文章。これらを書くにあたり、今の時代を大局的に眺める努力はしているだろうか。また、書き残した内容が先の時代でも通じるか自信を持っているか。それはとても困難なことだ。だが、保科正之の業績が優れていたのに、会津藩が幕末に苦労したこと。その矛盾は、私に努力の必要を思い知らせる。努力せねば。

‘2017/01/15-2017/01/15


あなたの知らない福島県の歴史


郡山に出張で訪れたのは、本書を読む10日前のこと。セミナー講師として呼んで頂いた。そのセミナーについてはこちらのブログブログで記している。

この出張で訪れるまで、私にとって福島はほぼ未知の地だったと言っていい。思い出せるのは東日本大震災の二年半後に、スパリゾートハワイアンズに家族と一泊したこと。さらに10年以上遡って、友人と会津若松の市街を1時間ほど歩いたこと。それぐらいだ。在住の知人もおらず、福島については何も知らないも同然だった。

何も知らない郡山だったが、訪れてみてとてもいい印象を受けた。初めて訪れたにもかかわらず、街中で私を歓待してくれていると錯覚するほどに。その時に受けた好印象はとても印象に残り、後日ブログにまとめた。

わたしは旅が好きだ。旅先では貪欲にその土地のいろいろな風物を吸収しようとする。歴史も含めて。郡山でもそれは変わらず。セミナー講師とkintone ユーザー会が主な目的だったが、郡山を知ることにも取り組んだ。合間を見て開成館にも訪れ、郡山周辺の歴史に触れることもその一つ。開成館では明治以降の郡山の発展がつぶさに述べられていて、明治政府が国を挙げて郡山を中心とした安積地域の発展に取り組んだことがわかる。郡山の歴史を知ったことと、街中で得た好印象。それがわたしに一層、福島への興味を抱かせた。そして、郡山がどんな街なのか、福島の県民性とは何か、に深く興味を持った。本書に目を留めたのもその興味のおもむくままに。福島を知るにはまずは歴史から。福島の今は、福島の歩んできた歴史の上にある。本書は福島の歩んできた歴史を概観するのによい材料となるはずだ。

東北の南の端。そして関東の北隣。その距離は大宮から東北新幹線で一時間足らず。案外に近い。しかし、その距離感は関東人からも遠く感じる。関西人のわたしにはなおさらだ。そのあたりの地理感覚がどこから来るのか。本書からは得られた成果の一つだ。

本書は大きく五章に分かれている。福島県の古代。福島県の鎌倉・室町時代。福島県の戦国時代。福島県の江戸時代。福島県の近代。それぞれがQA形式の短項目で埋められている。

たとえば、古代の福島県。白河の関、勿来の関と二つの関が設けられていたことが紹介される。関とは関門。みちのくへの関門が二つも福島に設けられていたわけだ。福島を越えると別の国。蝦夷やアイヌ民族が住む「みちのおく」の手前。それが福島であり、関西から見るとはるか遠くに思える。ただ、それ以外で古代の文書に福島が登場することはそれほどない。会津の地名の由来や、会津の郷土玩具赤べこの由来が興味を引く。だが、古代製鉄所が浜通り(海岸沿い)にあったり、日本三古泉としていわき湯本温泉があったり、古来から対蝦夷の最前線としての存在感はは福島にあったようだ。

そんな福島も、源頼朝による奥州合戦では戦場となり、南北朝の戦いでも奥州勢が鎌倉や京に攻め上る際の拠点となっている。また、戦国の東北に覇を唱える伊達氏がすでに鎌倉から伊達郡で盛んになっているなどは、福島が中央の政情に無縁でなかったことを示している。

そして戦国時代だ。福島は伊達氏、特に独眼流正宗の雄飛する地ともなる。伊達氏が奥州を席巻する過程で激突した蘆名氏との擂上原の合戦は名高い。秀吉による奥州仕置が会津若松を舞台として行われたことも見逃せない。会津に転封された蒲生氏郷や上杉景勝など、中央政府からみても会津は一つの雄藩に扱われる国力を持っていたこともわかる。また、この頃に「福島」の名が文献にあらわれるようになったとか。「福島」の名の由来についても通説が提示されている。今の福島一帯が当時は湖沼地帯で、付近の信夫山から吾妻おろしが吹き、それで吹く島と見立てたのを縁起の良い「福島」としたのだという。別の説もあるようだが・・・

そして江戸時代。多分、このあたりから今の福島の県民性が定まったのではないかと思う。たとえば寛政の改革の主役である松平定信公は幕政に参画するまでは白河藩主として君臨しており、その改革の志は白河藩で実施済みだとか。また、会津藩にも田中玄宰という名家老がいて藩政改革を主導したとか。会津藩校である日新館ができたのも、江戸時代初期に藩祖となった保科政之公の遺訓があったからだろう。また、その保科政之公は実際に家訓15カ条を残しており、それが幕末の松平容保公の京都守護職就任にも繋がっているという。朝敵の汚名を蒙ってしまった幕末の会津藩だが、そこには幕藩体制のさまざまなしがらみがあったことが本書から知れる。また、隣国米沢藩の上杉鷹山公の改革でも知られるとおり、改革がやりやすい土地柄であることも紹介されている。改革を良しとする土地柄なのに幕府への忠誠によってがんじがらめになってしまったことが、幕末の会津藩の悲劇を生んだといえるのかもしれない。

ところが、その改革の最もたるもので、私が郡山に訪れた際に開成館で学んだ安積疎水の件が、本書には出てこない。猪苗代湖から水を引き、それによって郡山や安積地域を潤したという明治政府による一大事業が本書にはまったく紹介されていないのだ。そこにいたるまでに、白虎隊や二本松少年隊の悲劇など、本書で取り上げるべきことが多すぎたからだろうか。少し腑に落ちないが、本書では近代の福島県からは幾人もの偉人が登場したことは忘れていない。野口英世、山川捨松、新島八重、山川健次郎、星一など。本書はそれを一徹な気風のゆえ、としているが、実際は改革を良しとする気風も貢献しているのではないか。円谷英二や佐藤安太といった昭和の日本を支えた人物はまさにそのような気性を受け継いだ人のような気がする。

本書はあくまで福島県の歴史を概観する書だ。なので県民性の産まれた源には踏み込んでいない。それが本書の目的ではないはずだから。本書にそこまで求めるのは酷だろう。

でも、もう少し、その辺りのことが知りたかった。改革が好きな県民性の由来はどこにあるのか。今も福島には改革の気質が濃厚なようだ。私をセミナーに招聘してくださるなど、福島ではたくさんのIT系のイベントが催されているようだ。会津大学はITの世界でも一目おかれている。

私が郡山を訪れた時、福島第一原発の事故による風評被害は郡山の皆さんの心に影を落としているように思えた。でも、ブログにも書いた通り、改革の志がある限り、郡山も福島もきっともとの姿以上になってくれると信じている。セミナーで訪れた後も再度郡山には及び頂いた。それ以来、福島には伺えていないが、また機会があれば行きたいと思う。その時はもう少し奥の本書で得た福島の知識を携えて。

‘2016/10/9-2016/10/10


デジタルは人間を奪うのか


IT業界に身をおいている私だが、今の技術の進展速度は空恐ろしくなる。

ハードSFが書くような未来は、今や絵空事でなくなりつつある。自我や肉体がITで補完される時代の到来だ。

自我のミラーリングに加えて自我の世代管理が可能な時代。自我と肉体の整合性チェックが当人の意識なしに、スリープ時にcron処理で行われる未来。太陽系内の全ての意識がデータ化されトレース可能な技術の普及。そんなSF的発想が遠からず実現可能になるのではないか。一昔前ならば妄想で片付けられる想像が、もはや妄想と呼ぶのも憚られる。今はそんな時代だ。

そんな時代にあって自我とは何を意味するのか。そして哲学は何に悩めば良いのか。数多くのSF作家が知恵を絞った未来が、道筋の果てに光となって見えている。今のわれわれはそんな時代の入り口に立ちすくみ、途方に暮れている。

本書は、現代の技術爆発のとば口にたって震えおののく人々のためのガイドだ。

今、最先端の技術はどこまで達し、どこに向かっているのか。デジタルの技術は人間を地球を幸せにするのか。それとも死の星と変えてしまうのか。IT業界に身を置いていてもこのような課題を日々取り扱い、悩んでいる技術者はあまり見かけない。おそらくホンの一握りだろう。

今の技術者にとって、周囲はとても賑やかだ。機械学習にIoT。ビッグデータからAIまで。といっても私のようなとるに足らぬ技術者は、それら最先端の技術から産まれ落ちるAPIをさわって悦に入るしかない。もはや、ITの各分野を横断的に把握し、なおかつそれぞれの分野に精通している人間はこの世に数人ぐらいしかいないと思う。それすらもいるのか怪しいが。

だが例えIT業界に身をおいていないとしても、IT各分野で起こっている技術の発展については表面だけでもは知っておかねばならない。少なくとも本書で書かれているような技術事情や、それが人間と社会に与える影響は知っておくべきだろう。それだけに本書のようなデジタルが人間存在にもたらす影響を考察する書は貴重だ。

著者は科学ジャーナリストではない。デジタルマーケティングディレクターを肩書にしている。という事はIT現場の第一線でシステムエンジニアやプログラマーとして働いている訳ではない。設計やコーディングに携わることもないのだろう。だがマーケティングからの視点は、技術者としての先入観に左右されることなく技術が人々に与える影響を把握できるのかもしれない。「はじめに」で著者は、デジタルの進化に違和感を感じていることを吐露する。つまり技術を盲信する無邪気な楽天家ではない。そこが私にとって共感できる部分だ。

本書冒頭では永遠に動き続ける心臓や精巧に意志を再現する義肢などの最新の技術が披露される。本書では他にも仮想通貨、3Dプリンター、ウェアラブルコンピューター、IoT、自動運転車、ロボット、仮想政府、仮想企業、人口器官などなど様々な分野の最先端技術が紹介される。

だが、本書は単なる技術紹介本ではない。それだけなら類似の書籍はたくさんある。本書の素晴らしい点は、無責任なデマを煽らずにデジタルのもたらす光と影を洗いざらい紹介していることだ。そこでは著者は、冒頭に私が書いたようなSF的な絵空事まで踏み込まない。著者が考察するのは現時点で達成された技術で起こりうる範囲に限定している。

著者の説くデジタル世界の歩き方。それはこれからの時代を生きねばならない人類にとっては避けて通れないスキルだ。テクノロジーがもたらす影を受け入れ、それに向かい合うこと。もののネット化(IoT化)が人にもたらす意味を考えること。人間はロボットを常に凌駕し続け、考える葦でありつづけねばロボットに負けてしまうこと。そのためには人間の思考、感性の力を発揮し続けねばならないこと。

各章で著者が訴えるのは、デジタルをリードし続ける責任を人類が担っていることだ。それがITを産み出した人類に課せられた使命。そのためには人間は考え続けなければならない。ITの便利さは利用しつつも想像力は常に鍛え続ける。そのためのヒントは、情報と知識の使い分けにあると著者は言う。

「情報」はメディアなどを通じて発信者から受信者へ伝達されるある物事の内容や事情に関する知らせで、「知識」はその情報などを認識・体系化することで得られるものである。さらに「思考」は、その知識や経験をもとに何らかの物事についてあれこれ頭を働かせることである。これらの言葉を曖昧に使っていると、大いなる勘違いを招く。(174-175ページ)

情報を知識と勘違いし、知識を知力と錯覚する。それこそがわれわれが避けなければならない落とし穴だ。そこに落ち込まないためには思考の力を鍛えること。思考こそがテクノロジーに飲み込まれないための欠かせない処方箋である。私は本書からそのように受け取った。思考さえ疎かにしなければ、ITデバイスの使用は必ずしも避ける必要はないのだ。著者の提言はそこに集約される。

著者は最後に紙の新聞も読んでいることを告白する。紙の新聞には、電子媒体の新聞にない「閉じた安心感」があるという。全くその通りだと思う。閉じた感覚と開けた感覚の違い。ファミコンやPCエンジンで育った私の世代は、決してITに無縁だったわけではない。ゲームだって立派なIT技術のたまものだ。だが、それらは閉じていた。それが開いたのがインターネットだ。だから、インターネットに囲まれて育った世代は閉じた世界の安心を知らない。だが、閉じた世界こそは、人類の意識にとって最後の砦となるような気がする。紙の本は確かにかさばるかもしれないが、私が電子書籍を読まないのもそれが理由だと思う。

私は閉じた世界を大切にすべき根拠に感覚を挙げたい。触覚もいずれはデジタルによって代替される日が来るだろう。だがその感覚を受容するのがデジタルに寄生された意識であってはならないと思う。今はまだ百パーセント有機生命体である脳が感覚を司っている。そして、それが人が人である定義ではないか。例えば脳疾患の治療でもない限り、頭に電極を埋め込み、脳をテクノロジーに委ねる技術も実現間近だ。そしてその技術が主流になった時、人類は深刻な転換期を迎えるのではないだろうか。

思考こそが人の人たるゆえん。著者の論理に従うならば、我らも思考しなければならない。デジタルデパイスはあくまでも人の思考を助けるための道具。決して思惟する行いをデジタルに丸投げしてはならない。本書を読んでその思いを強くした。

‘2016/05/06-2016/05/07


WORK SHIFT


本書に巡り合ったきっかけは読書会だ。ハマドクという横浜で開催されたビジネス書読書会。

ハマドクの主宰は、横浜で行政書士としてご活躍されている清水先生である。清水先生は私が個人事業主から法人化にあたっての手続き面で多大な貢献を行って下さった。その先生がハマドクを立ち上げるというからには参加しない訳はない。本書はその第一回ハマドクで取り上げられた題材である。

だが、私はそれまで読書会というイベントへ参加したことがなかった。もちろん本好きとしては、かねてから読書会の存在は耳にしていた。が、それまで誘われたこともなく、こちらからも積極的に関わろうとしなかった。要するに無縁だったわけである。そんなわけで第一回ハマドクにお誘い頂いた際も、事前に本書が題材として挙がっていたにも関わらず、読まぬままに臨んだ。

第一回ゆえ、参加者は私と清水先生のみであった。が、二人とはいえ大変有意義な内容だったと思う。第一回ハマドクの内容については、こちらのブログ(第1回ハマドクを開催しました)で先生が書かれている。

本書の内容は、先生のブログを引用させてもらうと、次のようになる。

働き方の未来を変えるものとして、本書では次のことが挙げられています。
・テクノロジーの進化
・グローバル化の進展
・人口構成の変化と長寿化
・社会の変化
・エネルギー・環境問題の深刻化
未来における暗い事実として、
・いつも時間に追われ続ける(テクノロジーの進化、グローバル化の進展により引き起こされるもの)
・孤独化(都市化による)
・新しい貧困層(テクノロジーの進化、新興国の台頭等により引き起こされるもの)
が想定される一方、明るい未来を築くために、3つの転換<シフト>が求められます。
・ゼネラリストから専門家へ(しかも次々に専門分野を開拓)
・協力と信頼を伴うネットワークの構築
・情熱を傾けられる仕事をする

先生が書いた上の内容で本書の内容は要約されている。私が付け足すことは少ないが、私自身が思ったことも含めて書いてみたい。

・テクノロジーの進化
・グローバル化の進展
・人口構成の変化と長寿化
・社会の変化
・エネルギー・環境問題の深刻化
は、ここ10年の社会の動向として多くの人が同意することだろう。そして、それらの問題の行く末に不安を覚える方も多いことだろう。特に一つ目のテクノロジーの進化は他の4つと違い、ここにきて急に話題に挙がるようになった問題といえる。第一回ハマドクが行われたのは2015/6/27のことだが、この前後にもテクノロジーの進化を如実に示すニュースが報道されている。例えばドローンを使った無秩序な儀式妨害が社会問題化されたのは第一回ハマドクの前月の話。ソフトバンクグループによって世に出されたPepperの初の一般販売が行われたのが第一回ハマドクの7日前。Googleによって開発されたAlphaGoが人類のプロ囲碁棋士(ヨーロッパ王者)を破る快挙を成したのは第一回ハマドクの3ヶ月後だ。ハマドクで先生が本書を選んだのは、まさに時宜を得た選択だったといえる。

このようなニュースは、後世からは技術革新のエポックとして残るに違いない。さらに後世の人から見たら、2015年の技術発展のニュースの延長に、シンギュラリティがあることを理解していることだろう。シンギュラリティのニュースが新聞の一面や社会面に登場することはまだ少ない。新聞でいえば日曜版で特集されるような内容だ。知的好奇心の豊かな人や技術関連の人しか知らないかもしれない。

シンギュラリティとは、要するに人工知能が人類の知能を上回る日といえば分かりやすいだろう。今まで地球上で唯一無二と人類が自負していた知恵が、人工知能に負ける日は遠からずやってくる。それは間違いない。ましてやAlphaGoの快挙の後となると、シンギュラリティがやってくる予想に正面切って反対する論者はもはや出て来きそうにない。新聞の一面や社会面でA.I.絡みの重大事件が報道される日が来ることも遠い未来の話ではなさそうだ。シンギュラリティが成った暁には、我々人類が営々とやってきた仕事の意味もガラッと変わることだろう。報告の為の報告や、会議の為の会議といった、ただ仕事をするための仕事は滅び去る。管理職や事務職もほぼ一掃されることだろう。ただ、人工知能による仕事が、無駄な労力を省くだけならまだよい。問題は、人工知能が人々の日々の営みの中にある遊びすら剥奪するようになることだ。

著者はそういった未来すら見据えた上で、人類の未来を予測するための議論を本書の中で打ちたてようという。著者が見据える未来とは2025年。遠くもなく、近くもない未来だ。だが、10数年先と云えば、10年一昔という言葉の示す通り、あっという間にやってくる未来でもある。つまり読者にとっても遠からず押し寄せてくる未来なのだ。10年ぽっちで何が変わると思っていると、あっという間に取り残されてしまう。そんな時代に我々はいる。

本書は大きく四部に分かれている。先生のブログでもそれぞれの内容は書かれているが、それをもう少し詳しく書いてみる。

第一部は、「なにが働き方の未来を変えるのか?」。

その中で著者は、
・テクノロジーの進化
・グローバル化の進展
・人口構成の変化と長寿化
・社会の変化
・エネルギー・環境問題の深刻化
の5つの問題を挙げる。そしてそれぞれの項で具体的な事象を3から10通りほど挙げる。全32通りの事象は、著者がロンドンの「働き方の未来コンソーシアム」の事業の一環として全世界の協力者から集めた事例を基に打ちたてたものだ。実際のところ、ここで挙げられた事象以外にも様々な可能性は残されている。しかし、それは大抵が地球のカタストロフィに関する問題であり、もはやそれが起こった際、人類は滅亡するに違いない。そのため本書ではそのような事象は意図して取り除いているのだろう。

第二部は、「「漫然と迎える未来」の暗い現実」、と題する。先生のブログを引用すると、以下の3項が該当する。

・いつも時間に追われ続ける(テクノロジーの進化、グローバル化の進展により引き起こされるもの)
・孤独化(都市化による)
・新しい貧困層(テクノロジーの進化、新興国の台頭等により引き起こされるもの)
3つの例を、著者は想像力を張り巡らし、2025年の未来図として我々の前に提示する。実際、この3つともIT屋である私にとっては実感できる問題である。一つ目の時間に追われる件についてはまさに私の日常そのものだ。二つ目の孤独化も同じ。ITという私の仕事柄、自宅で仕事をすることも出来る。が、それをすると自由を満喫できる一方で、下手すれば人と一日合わずに仕事が出来てしまう。私の場合は定期的に人にあったりする機会を設けている。が、人に会うことなくこもりきりで仕事をする人によっては精神的なダメージを受けるかもしれない。三つ目の貧困層もオフショア開発や、海外からの来日技術者を目にすることが当たり前の開発現場にあっては、さらに技術者として老境に入った方々に対する厳しい現実を目の当たりにしていると、他人事でないことを強く感じる。

第三部は、「「主体的に築く未来」の明るい日々」、と題し、第二部とは打って変わって明るい未来を描く。

・コ・クリエーションの未来
・積極的に社会と関わる未来
・ミニ企業家が活躍する未来
の3点が著者による明るい未来予想図だ。だが、明るい未来であっても、企業内で安住するという従来の職業観は廃れていることが示される。著者は従来の職業観からの脱皮無くして、明るい未来はないとでも云うかのようだ。そして実際著者の予測は遠からずあたるに違いない。

私が第一回ハマドクに参加したのは、すでに法人化が成って3か月近い日々が経っていた。しかし、本書に出会うのがもっと早ければ、私の起業はもっと早くなったかもしれない。というのもこの章で述べられる明るい未来とは、私の理想とするワークスタイルの方向性にとても近いからだ。実際、コワーキング関係の方々とのご縁で仕事の幅がどれだけ広がるか、また、社会に関わるということが如何に自分の器を広げるかについては、交流会や自治会や学童保育での体験で充分に感じたことだ。それは起業ほやほやの私にとって、とくに声を大きく主張しておきたいと思う。

第四部は、「働き方を<シフト>する」と題されており、本書で著者の言いたい核心が詰まっている。

再び先生のブログを引用すると、
・ゼネラリストから専門家へ(しかも次々に専門分野を開拓)
・協力と信頼を伴うネットワークの構築
・情熱を傾けられる仕事をする
ということだ。

本書を読んだことが、起業ほやほやの私に与えた影響は小さくない。特にゼネラリスト志向の強かった私にとって、本書で著者が提言する専門家たれ、とのススメは効いた。個人事業主として独立する前、私はプログラミングからLAN配線、ハード構築、PCセットアップとIT何でも屋としての自分に自信を持っていた。が、個人事業主になって痛感したことは、それは所詮何でも屋であること。限られた時間の中で全能の仕事など出来っこないという現実だ。

第一回ハマドクの後、起業ほやほやの私は、専門家として舵を切ることとなる。専門家としての自分の強みを見出し、そこに活路を見出すという路線だ。その強みとはサイボウズ社のクラウド基盤kintoneのテスト時から関わり、エバンジェリストとして任命されたこと。そして、文章を書くことが好きだったため、多少なりとも文章の執筆ができること。この二本柱だ。その二本柱で専門家として生きていくには、kintoneエバンジェリストとしての活動を活発化させ、文章執筆についてもkintone初心者講座という連載や、当読読ブログをはじめとしたブログ群から活路を見出すべきなのだろう。

専門家となったところで、所詮は私の時間は一日24時間しかない。そこで、二つ目に挙げられている協力と信頼を伴うネットワークの構築が重要なファクターとなる。実際、起業ほやほやの私が交流会に盛んに顔を出すようになったのも第一回ハマドクの前後からである。例え細切れの時間であってもFace to Faceでのビジネストークは、メールなどの字面でのビジネスに比べていかに大きな効果をもたらすか。これを私は学んだ。

三つ目の情熱を傾けられる仕事についても私が実感していることである。私は個人事業主時代から含めると9年ほど常駐開発先での作業というワークスタイルを続けてきた。が、そういったワークスタイルを見直し、週の半分を自宅事務所での仕事に充てるようにした。通勤ラッシュという心身を擦り減らす作業に心底愛想が尽きていた私。そんな私にワークスタイル変革のための影響を与えたもののうち、本書は決して少なくない割合を占めている。情熱を傾けられる仕事というフレーズは、このままではいけないという私の気持ちに火を点けた。

かように、本書は文字通り私にとってのワークシフトを象徴する一冊となった。おそらくはこれからの未来、人々の仕事環境は激変していくことだろう。おそらくは会社組織もその時代の流れにそって自己変革を遂げていくに違いない。だが、それが出来ない企業、既存の環境に安住するビジネスマンにとって、未来はあまり芳しいものではない。残念なことに。我が国にあってはそれが顕著に出てくることだろう。

著者が終章に載せたのは、3通の手紙。

・子供たちへの手紙
・企業経営者への手紙
・政治家への手紙
の3通の手紙それぞれは、著者の本書のまとめである。そして、未来へ託す著者からの希望のメッセージだ。残念ながらこれらの手紙は、今を墨守し、変革を拒む方へは届かない。だが、未来を志向し、変革を恐れぬ人にとっては福音にも等しい手紙となることだろう。少なくとも私にとって本書は2015年の読書履歴を語る上で重要な一冊になった。その証拠に、第一回ハマドクからほどなく、私は本書を新刊本で購入した。私が新刊本で本を購入するのは結構稀なのだ。

多分今後も折に触れ、本書を読みかえすことだろう。2025年の時点で、私が起業した法人を潰さずに活動させているか。それとも、意に反して経営を投げ出しているか。それは分からない。が、法人や個人に関わらず、仕事の意識を変革させなければならないことに変わりはない。

本書に引き合わせてくれた清水先生には法人化への手続きを取って下さった以上に、本書をご紹介くださったことに感謝したい。

‘2015/7/18-2015/7/26


紙媒体の未来


十日ほど前、山手線の王子駅近くにある紙の博物館に行ってきました。

王子と紙、といえば王子製紙が思い浮かびます。王子は日本の製紙業、それも洋紙業の発祥の地です。今もなお、洋紙会社の本社や工場が集まり、国立印刷局の王子工場も健在です。

今回私が紙の博物館を訪問した理由は二つあります。一つは、紙の歴史やリサイクルの仕組みに興味があったこと。一つは、情報表示媒体として、ディスプレイに対抗する紙の将来性を知りたかったことです。

紙の歴史やリサイクルの仕組みについては、非常に勉強となりました。日本の古紙利用率が六割にもなること。また、紙を発明したのは漢の蔡倫ではないこと。蔡倫よりも二三百年前に紙が使用されていた事が発掘物より証明されていること。また、PCなどのIT機器に欠かせない基盤も、実は紙の一種であることを知りました。このように、紙の歴史やリサイクルの仕組みについては、得るところが多かったです。特に蔡倫が紙の発明者でないことは知らずにおり、定説に寄りかかっていた自分の怠慢を反省しました。

ただ、情報表示媒体として、ディスプレイに対抗する紙の将来性については、残念ながらそれに関する展示には巡り会えませんでした。

そもそもなぜ私がこのような事に興味を持っているか。それは情報媒体としての紙の価値を再発見したからです。IT業界の端くれで飯を食っていながら、なぜディスプレイではなく紙なのか。

そもそも私は、本を読むのが好きです。電子書籍よりも紙の本の愛好家です。もちろん、電子書籍も使いますよ。Kindle端末こそもっていませんが、タブレットにはKindleアプリも入っています。しかし、私にとっての情報媒体とは、相変わらず紙なのです。本のページを繰ることに至福の時間を感じます。Kindleアプリで本を読むことはほとんどありません。

なぜ私が紙の本を好むのか。最初はそれを、本好きの執着心だと思っていました。IT業界にいながら保守的な自分を怪訝に思うこともありました。私の収集癖を満たすには本を貯めこむことが一番だからと思ったこともありました。

でもどうやらそうではなさそうです。この数年、参画しているプロジェクトで毎週議事録を書いています。経営層にまで閲覧される議事録ですから、チェックは欠かせません。チェックを行う上で、紙を節約しようとディスプレイをにらみ付けます。眼球が充血するまで読み込んだ後、印刷して紙面で読むと、誤字が湧くのです。まるで隠れていたかのように。

これはなんでしょうか?

何度も印刷した紙から誤字が湧き出すのを見るにつけ、私には一つの妄想から逃れられなくなりました。液晶ディスプレイには、何かしら人間の視神経を阻害し、集中力を減退させる仕掛けがあるのでは?と。

紙の博物館では、ディスプレイに対する紙の優位性についての答えは得られませんでした。ですが、同様の研究はあちこちで行われているようです。森林保護は共通の課題なのでしょう。私もネット上で様々な考察や研究論文に目を通しました。

それら論文や考察によれば、液晶ディスプレイは、ディスプレイの表面と図像を表示する層にわずかな距離があるようです。今の技術では数ミリ単位よりも少ないほどの。そして、そう意識して液晶ディスプレイを凝視してみると、焦点がぼやけていることに気付きます。一方、紙の文字を見るとくっきりと焦点を結びます。それは反射や透過や発行する液晶の性質によるのかもしれません。おそらくはこのわずかなずれが網膜に映った文字と脳内の認識のずれに繋がっているように思います。

では、ディスプレイのボケた焦点は、ディスプレイの解像度をあげれば解消するのでしょうか。私はそれだけではないように思いました。

紙とディスプレイ。表に出ているのは、共に文字や画像です。しかし、ディスプレイの背後には我々の気を散らすアプリが盛りだくさんです。例えパスワードロックを掛けて集中モードにしても、鉄の意思で画面に集中しても、ディスプレイの背後に隠れているモノが脳に何らかの連想を与えるのでしょう。では紙はどうか。紙は紙でしかありません。印刷されている情報はインクの集まりでしかなく、その背後には何も潜んでいません。

この事は、我々IT屋がアプリにいろんな機能を盛り込んでしまうことへの警告かもしれません。もはや、ディスプレイとその背後に控える情報量は人間の頭脳に余る。そう思います。ITの普及は人間の処理能力を遥か後ろに置き去りにしました。

多分このことは、電子ペーパーが普及し、解像度や触感が紙そっくりに再現されたとしても変わらないでしょう。紙はそこに印刷された情報以外のものを含まず、我々に余計な連想をさせないから集中できる。そう結論付けて構わないと思います。

紙の博物館でも、ディスプレイに対する紙が優位なのは何かをどんどん研究して頂きたいと思います。無駄な紙の使用はやめるべきですが、人間の脳を焼き切らせないためにも、紙に活躍の場は残されているはずです。

そしてその研究成果は、最近ホットな「人工知能は労働者の職を奪うか」の問いに対するヒントになるかもしれません。大容量の情報の受け渡しは、人工知能に任せましょう。人間は人間の脳が許容できる情報を発信し、それを受け取る。IT嵐の後も生き残る仕事とは、そのような仕事である気がします。


娘にスマホを持たせないために


アメリカのニューヨークタイムズが、本社ビルから自社サイトへのPC経由のアクセスをブロックし、スマホかタブレットからのみ接続を許可する実験を始めたそうです。
島田さんのブログ 島田範正のIT徒然より

デジタル時代の戦場はすでにPCではなくモバイルにある。このことを意識させるための意図を含んでいるとかいないとか。

日本でも、ながらスマホによる事故や、スマホを取り上げられた生徒が教師に襲いかかるといった、虚構新聞も真っ青のニュースが報じられています。

我が家でもご多分に漏れず、スマホを巡ってのせめぎ愛が絶えないこの頃です。
今回は、娘達へのメッセージも込めつつ、私のスマホに対する考え方を一席ぶちたいと思います。

のっけから結論を述べます。
子を愛する故になみだを呑んで、スマホさん、また今度ね。
これです。

我が家の娘たちから初めてケータイ欲しい、という希望が出されたのは八年前です。当時某所に書いた文章を当ブログに転載し、リンクを貼り付けておきます。
幼児にパソコンって必要か? 2008/4/16
娘にケータイもたせたないねん 2007/7/7

以来、我が家の娘の念願は常に一つ。自由にスマホで連絡を取り合い、自由にスマホで写真をアップする。願いは単純明快、けれども大人の世界はフクザツ。

一昔前だと汝身の程を弁えよ、の一言で一蹴できたこの願い。年を追う毎に反論に工夫が必要になりつつあります。みんな持ってるもん!という定番セリフには、みんなって誰よ?10人挙げてみなさい!と伝家の宝刀を抜くだけで効果てきめん、途端に娘の言葉も尻つぼみでした。しかし、今は宝刀を抜いたが最後、その刃は振り上げた親を切りつけます。まあ携帯持ってる友達の名が出てくること出てくること。ことケータイ、スマホに関しては、みんなの定義を生半可な数字で設定してはいけません。せめて100人以上にセットしてようやく逃げ切れるぐらいの勢いでしょうか。次々出てくる名前の羅列にうろたえた経験のある親は、私だけではありますまい。

今や、スマホを持っていない児童は少数派になりつつあります。いくつか、最近の調査結果を見た感じでも、その感覚は裏付けられます。
スマートフォンを持っている小学生は、クラスに1人か2人 ライブドアニュースより
中高生対象「ICT利用実態調査」 ベネッセホールディングスより
上の記事は控えめな数字ですが、それでも小学生全体で3割。ということは高学年だともっと割合は高いということでしょう。下の資料でも中高生の利用実態が示されており、大変興味深い内容です。

我が家とて、決して娘にケータイを持たせていない訳ではありません。昨春より、娘達にキッズケータイを持たせました。それすらも、鉄砲玉のような次女を現世につなぎ止めて置くためのやむを得ぬ措置。決して世間の流れに逆らえなかったわけではありません。

しかし、その時から確信していました。キッズケータイの最低限の機能に甘んじるほど、娘たちは内向的でない、と。案の定でした。娘たちの要求は次々とステージを登り詰めようと試みます。しかも、3DS+Wi-Fi経由でのネット接続を許したのが失敗でした。3DSのブラウズ機能を舐めていたとしかいいようがありません。もう、勝手にYouTubeなど朝飯前です。本当に早起きして朝飯前に繋いでいるのだから始末に負えません。家屋内のルーターからしか認めていないため、まだしも通信内容をある程度管理はできているとはいえ、少しはネット接続を制限しなければ、と葛藤に逡巡を重ねる最近です。

もっとも私も娘のことは言えません。ファミコンを隠す親とそれを探し求める息子という構図は当事者として臨場感ありありで語れます。特に、家庭の医学のカバー裏に潜んだそれ、ゴミ箱の二重底に潜ったそれを見つけた時のカタルシスは、少年時代の歓喜の一瞬としてしっかり覚えています。我が家でも同じことをして2年以上隠した挙句、DSが一つ行方不明となったままです。おそらく我が家がある限り、家のどこかでスポットライトを浴びる日を待ち続けていることでしょう。隠す親と隠される子どもというゲーム感覚に溢れた駆け引きも面白いことは面白いですが、あえて建設的なやり方でネットとの触れ合いをさせたいなと思う最近です。子を持って初めて知る親心を会得した私。オホン。

我が家の長女の場合は、ネット上にイラストをアップするにあたってデジカメ経由だと面倒だから、という理由です。3DSだとイラストを撮影しても画質が悪く、アップしたイラストに物言いがついたのだとか。次女の場合は、友達と遊んでも、走り回る時間以外は、みんなスマホとにらめっこ。話題もスマホのことばかりでつまらない。ということです。

二人の言い分はよくわかります。かつて心配していたような懸念-対人コミュニケーション能力が未熟な大人となる-については二人には杞憂だと思います。今の二人にスマホを与えたところで、コミュ障の引きこもりに堕ちることはないでしょう。だから親である我々夫婦が世間の流れに巻かれ、スマホを与えてしまうことは決して敗北ではないのかもしれません。むしろ、今まで世間の流れによくぞ抗い続けたと拍手で迎えられるかもしれません。

しかし、あえてここで私は最後の抵抗を試みたい。親の意地ではありません。世間に対して駄々をこねる訳でもありません。私なりの理由があって、スマホを与えることを今一度見送ろうと思います。その替わりに、ノートPCを与えようと思います。個人毎にアカウントを作り、時間制限やインストール制限などのペアレンタルロックをかけた上で。

何故か。

まず、長女の言い分は、イラスト書きを生業とするのであれば、明らかに間違っていると云えます。イラストレーターが自作のイラストを撮影して納品?そんな納品形態が許される職業はイラストレーターではなく、画家でしょう。近い将来、いや今でもすでにイラストレーターの納品する媒体は、紙ではなく電子データが主流です。現時点でも100パーセント近いのではないでしょうか。百歩譲って看板に直接書いて納品物としたり、紙の直筆が求められたり、といった場合は電子データ以外の媒体もありです。しかしその他の用途で電子データが不要なイラストは私のアナログ脳では思い浮かびません。つまり、ファイル操作に慣れる必要があるということです。ファイルを保存し、メールに添付またはオンラインストレージに保存といったファイル操作です。そしてファイル操作は、今のウィンドウズやマックのファイルシステムが廃れたあとも当分ついて回るはずです。少なくとも長女が120歳まで現役イラストレーターであったとしても。スマホで撮って即投稿、確かに便利で手軽です。しかし、長女にはそういうスマホ依存症のような利用だけでなく、まずはPCの操作を学んで欲しいと思います。本当に人から望まれ、自分がアップしたい内容なら、デジカメ経由で何が悪い?

次に次女です。次女の社交能力はピカ一で、友人もすぐ作れます。それゆえに、スマホを持っておらず、友達との話に加われないのは可哀想だと思います。その点は理解してあげないと。そこで少し妥協点を探りたいと思います。与えたノートPC上での連絡手段を作ることを認めようと思います。例えばLINEやメールといった連絡手段をもちろん親の監視付きで。おそらく次女は不満に思うでしょう。実際数日前に話し合った際にも主張していました。外でネット出来なければ意味がない、と。次女の云う通りなのでしょう。残念ながら、友達みんながスマホとにらめっこしてしまうのは、どうしようもありません。私にもその状況を打開するいい案は思い浮かびません。しかし、これだけは云えます。スマホを与えても、友達と遊んでいる最中にスマホとにらめっこするくらいなら持たない方がまし、と。むしろ、スマホに夢中のみんなを振り向かせるくらい、もっともっと社交性に磨きをかけてもらいたい。スマホ不所持の減点を埋めるのではなく、持ち前の明るさに加点する。次女にはそうあって欲しいと願います。

これから娘たちが世の中を渡っていく上で、ITを使いこなすことは当たり前の必須項目となるでしょう。むしろ必要なのは、より進んだ知能にとって代わられるプログラミング能力よりも、実世界の営みとITを結びつける能力でしょう。しかしそれには実世界の営みについての深い洞察力が必要となります。高吸収材よりも知識吸収力の優れた今の時期に、スマホの扱い方を覚えることが、実世界の営みを理解することより優先されるとは到底思えません。スマホの使い方など大人になってからもすぐに覚えられます。だって今の我々もそうなんだし。


Emailの限界と次世代のコミュニケーション手段


日本年金機構の漏洩問題ですが、この件によって今までに表面化していなかった問題がクローズアップされました。

それは、メール経由のウィルスをウィルス除去ソフトが検知できなかった件です。以下のURLにもその旨が報道されています。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20150603-OYT1T50036.html

実は数年前から、大手ウィルスソフト会社のスポークスマンの口から弱音が吐かれていました。「全てのウィルス検知はもう無理」と。
https://gigazine.net/news/20140507-antivirus-software-is-dead/

怪しいメールからの添付ファイルは開かないのは常識です(今回はその常識も通じなかったようですが・・・・)。ところが、もし知り合いがメールアカウントを乗っ取られた場合、我々はそのメールを安易に知り合いからのものと認識し、添付ファイルを開けてしまいます。そしてその添付ファイルが既知のウィルスソフトで検知できないものだったならば・・・我々にとっても今回の漏洩事案については、他人ごとではありません。ただでさえ真に迫ったメールが飛んでくる昨今ではなおさら。

もはやEmailのインフラとしての信頼性は揺らいでいるといっても過言ではないでしょう。先見の明を持つ企業は、だいぶ前からEmailの限界に気付いています。例えばサイボウズさんのNO-Emailワークスタイルなど。https://no-email.cybozu.co.jp/
実は私とサイボウズさんのご縁もこのキャンペーンから始まりました。当時もEmail排除の思いに強く共鳴した私ですが、残念ながら私の仕事からまだEmailは駆逐できていません。

今回の件で、日本年金機構の体制の緩みをあれこれ云う事は簡単です。が、そもそもウィルス検知が機能しなかったことにもっと論点が当たるべきと思います。そしてEmailというインフラから、次の世代のインフラへ。そのような議論が熱くならねば嘘です。

プライベートの会話市場はLINEが席巻しているわけですが、ビジネス向けのやりとりをセキュアに、しかも簡単にできる仕組みはまだ寡聞にして知りません。Emailの次を担うコミュニケーション手段はグループウェアに相当するのでしょうが、One Stepで繋がりまで行けないのが難しいところです。

例えばですが、ログインやつながりの仕組みはLINEのようにし、やりとりの部分をメールソフトのインターフェースと同様にしたらどうでしょう。メールソフトのように時系列やスレッド単位、あとは相対する方とのやりとりのみ、グループのみのやりとりのみ、といった複数の表示が切り替えられるソフト。この要件であれば充分ビジネスユースにも耐えうるものが出来る気がするのですが・・・

メールの信頼性が揺らいでいる今、日本年金機構だけに限らずメール代替手段への機運が盛り上がるべきでしょう。

というエントリーを昨夜アップしようとしたらPCが固まってしまい、アップが遅れてしまいました。その間、日本年金機構はメールの使用を当分辞めるという発表を行い、それを受けて虚構新聞が狼煙という秀逸な記事をアップしました。が、未だウィルスの正体や突破されたウィルス検知ソフトは明かされずじまいです。


プラチナデータ


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ビッグデータ。ここ数年、IT業界で話題に上ることの多いキーワードである。どういうデータなのか?一言で表すと、個人の購買、行動履歴を含んだ大量のデータ、とでも言えばよいか。ビッグデータを分析することで、マクロ・マイクロを含めた経済動向や、消費者の購買傾向を読み解ける。そう識者は謳う。政府・日銀による経済政策策定の基礎データとして、又は、企業が自社製品の開発やマーケティング戦略に活用できるとの触れ込みで、脚光を浴びた言葉である。

しかしデータ活用など、以前から普通に云われ続けたこと。ビッグデータといっても所詮はキャッチコピーでしかない。だが、データ分析と活用の重要度は廃れるどころか今後も増すと思われる。

著者の元エンジニアとしての嗅覚は、大分前からこの事を察知していたに違いない。世の中のIT技術が小説の小道具として違和感なく使えるようになるまで、本書のアイデアを小説化する機会を伺っていたのではないだろうか。

今から二十年ほど前に流行った言葉にプロファイリングがある。犯罪者が現場に残した証拠から、犯罪者本人の性格や性別といった個人情報を類推する技術である。これまた、19世紀から、ロンドン、ベーカー街の高名な探偵が用いていた技術の焼き直しである。

このプロファイリングを膨大なビッグデータを活用して行うのが、本書のアイデアの肝となる。犯罪現場の状況を大量のデータに突き合わせることで、該当する人物像を即座に呼び出せるシステム。このシステムをめぐり、謎がなぞを呼ぶ。

ある事件の現場データを主任技術者が分析にかけると、該当する人物像として導かれた結果は、主任技術者本人。それは何故か。高性能な情報監視技術を狙う他国の謀略か、はたまた、ある事件の犯人による高度な細工か、または分析システムのバグに過ぎないのか。

このような基本プロットが、著者のストーリーテリングの腕にかかるとどうなるか。一級のサスペンスとしての本書は約束されたようなもの。するすると読めてしまう。

だが、惜しむらくは筋書きがスパイ小説の定石に陥ったことだろうか。真相解明にも奇抜な発想への驚きはなく、真犯人を知った時の驚愕が待っている訳でもなかった。そのような読後のカタルシスには残念ながら出会えなかった。

しかし、だからと言って本書を読むに値しないと決めるのは早計だ。本書はビッグデータの可能性を世に問うことを目的としているのかもしれない。IT技術者の端くれとして書くと、このような技術はとっくに運用されていても驚かない。先年もアメリカでNSAの存在がリークされ、世界を覆う監視網の存在が明らかになった。安易な陰謀論には与しない事を信条とする私だが、データ分析によるプロファイリングという本書の提起は、あり得ることと考えている。

‘2014/9/16~’2014/9/18


国民ID制度が日本を救う


構想がマスコミで取り上げられる前から、私は国民ID制度には賛成であった。国民ID制度が世の話題に上り始めた頃、制度に対し国民総背番号制云々といった揶揄が横行していた。私はそのような、本質とは違った世論を醒めた眼で眺めていた。

データ管理を行う上で、ユニークな番号、つまりIDを抜きにすることはあり得ない。データの集まりであるテーブルとテーブルを結びつける上で、ユニークなキーがあって初めて、テーブル間のデータに一貫性が保たれる。好むと好まざるにかかわらず、IDはデータ管理の上で欠かせないものである。言うまでもなく、国民ID制度が始まる前から、官公庁では国民のデータ管理が行われていた。データ管理を行う以上、IDはデータそれぞれに振られ、テーブル・システム間を結び付ける。実質的には国民ID制度が施行以前から行われていたといってよい。統一したIDがなく、当局の担当者毎の恣意によって割り振られたIDが国民公開されていなかっただけのことである。

私も国民ID制度をくまなく見た上で賛成した訳ではない。むしろ、感情的に反対したい気持ちも理解できる。しかし、IT技術者の端くれから見て、賛成以外の選択肢はありえない。データ管理を行う以上、各データテーブルを結びつけるキー項目となる、IDは避けては通れない。なお、私はIT技術で飯を食っているとはいえ、仕事上では国民ID制度に関する作業に携わったことはない。一利用者として、年に一回、e-taxでお世話になる程度の関わりである。

今は上に挙げたような感情的な反対意見は影を潜め、運用やセキュリティといった観点からの反対論が主流になっているようである。それら懸念については、私も理解する。国がその点について十分な説明を国民に尽くしたかと聞かれれば、疑問である。よりわかりやすく、より簡潔な国民ID制度についての書物は必須である。

本書の著者は、国民ID制度を推進する団体の方である。本書の内容も国民啓蒙書として、国民ID制度を推進する意図で書かれている。本来は国がなすべき国民への説明を、本書が替わりに担っているとも取れる。

啓蒙を目的としただけあり、本書の内容には参考になる点が多い。IT技術に疎い読者層に配慮し、記述は出来るだけ易しく、技術的な内容には深く触れない。暗号化やネットワークのルーティングの仕組みなど、IT門外漢を惑わせるような技術の説明も避けている。唯一技術面な説明がされているのは、IDのリレーションについての記述くらいだろうか。冒頭に、IDはデータ管理上必須と書いた。私が思うに、ID制度について反対した人々の真意は、ID管理そのものではなかろう。一意のIDで管理することで、そのIDが漏れるとすべての個人データにアクセス可能となる、そのことについての不安ではないかと思う。ただ、IDをキーとしたデータ間の連結は、制度の肝となる部分であり、逆にいうと不安を与えかねない部分である。果たして個人IDが漏れるだけで、全ての個人情報が漏れることはあるのだろうか。本書では日本以外の諸外国の事例も挙げており、それによると様々な考え方や運用方法があることが分かる。日本では内部で各データ間を関連させるためのIDが別に設けられており、そういった事例は考えにくいとのことである。このような説明こそ国によってもっと広く分かりやすく行われるべきなのである。

本書の主な構成は、ID制度が深く浸透したエストニアなどのID制度先進国の事例を参考に、ID制度で遅れをとった我が国の行政上の問題点の種々から、翻ってその利点を述べるものである。目次の各章を以下に挙げる。

第1章 あたりまえのことができていない国
第2章 国民ID制度は世界の常識
第3章 IT戦略の「失われた10年」
第4章 国民IDの不在が生み出す深刻な問題
第5章 行政システムを一気に変える起爆剤
第6章 情報漏洩はこうして防ぐ
第7章 便利で公平で安心な社会を目指して

東日本大震災での被災者対応の混乱、役所での手続きの煩雑さ。ID制度が整備されていれば、と思わされる点である。また、エストニアで実現した電子投票による投票率の向上と開票作業の迅速化などが長所として挙げられている。

だが、本書で取り上げた問題点や長所の事例によって恩恵を受けるのは誰か。それは行政である。行政内部での効率化に、ID制度は絶大な効果を発揮することであろう。本書でもその試算額を年間3兆円以上と謳っている。しかし、その恩恵を納税者たる我々国民はどれだけ享受できるのか。それこそが国民ID制度の問題点であり、わが国で頑強な導入反対論が勢力を保つ理由である。国民ID制度は、国民を直接的に幸せにできるのか。それこそが国民ID制度の構想当初から付いて回る問題である。この問題を解決せずして、ただでさえ実名開示が理解されづらく、プライバシーに敏感な日本では、国民ID制度は普及しないといっても過言ではない。残念ながら、本書の中で、その点については明快な解決案は提示されていない。間接的な、どこか奥歯に物が挟まったような長所しか述べられていない。たまにしか行かない役所での待ち時間短縮や、稀にしか起きない大災害での復旧速度アップだけだと長所としては弱い。

技術が生まれ、それが世に行き渡るための要因として、食欲・睡眠欲・性欲の俗にいう3大欲求が言われる。また、時間・空間・人間関係といった三つの「間」を埋めることのできる技術は、浸透も速い。

国民ID制度の場合、導入効果として行政内部の時間を埋めることに効果のほとんどが集中している。他のどのような「間」を国民ID制度は埋めることができるのだろうか。ただでさえ効率化が諸国に比べて突出している我が国で、国民ID制度の利点をどこまで提唱できるのだろうか。難しい問題である。年間3兆円以上の効果が国防に回るのか、福祉に回るのか、それとも建設業者を潤すだけに終わるのか。国民にはお金ではなく、上に挙げた「間」を埋めるだけの利便性を示したほうがよいように思える。

私個人の案としては、さらにネットワーク基盤が整備され、端末を通じた遠隔での諸作業が実現した際に、ID制度が威力を発揮するのではないかと考えている。例えば遠隔医療。例えば窓口対応。日常で遭遇する行列に着目すれば、自ずと利用分野も見つかることだろう。

しかし、それまではIDを利用したサービスの適用範囲を拡大していき、時間・空間を埋める基盤記述としてのID制度の利便性を訴えていくしかない。まず制度を見切り発車させ、その後で浸透させようとした総務省の判断も分からなくもない。が、その後の展開にこれといったブレークスルーが生まれなかったのが痛い。

本書では、そのための一つとして興味深い提案がされている。ID発行を免許更新センターに任せようというものである。日本での身分証明書として、自動車運転免許証はもはや欠かせないものになっている。免許情報の漏洩といった話も聞いたことがない。面白い提案だと思う。

いささか楽観的ではあるが、ID制度は、反対論がどう吹こうとも、ゆくゆくは当たり前のインフラとなっていくことと思う。私もIT技術に関わる者として、何か手伝えるように努力を続けたいと思う。

’14/05/23-‘14/05/27


幼児にパソコンって必要か?


 週一回、妻と互いの超整理手帳を見せ合って、スケジュール調整をしている。

 さっきもそれやっていたのだが、夫婦のそれぞれの仕事に加えて、娘たちも娘たちの習い事やら学校の用事が色々と増えて、スケジュール組むのも大変になってきました。

 その中で聞いたのだが、下の娘の幼稚園、色々と課外授業をしてくれていたのだが、絵画のコマを減らすそうで・・・

 その替わりにパソコンとか英語とかが入ってくるらしい。

 英語はともかく、パソコン? 幼稚園児にパソコン教えてどないすんねん!
 うちの小二の上の娘にはゲームでパソコンを開放してあげたりしてるが、それでもあまり教えようという気がない。

 パソコンより前に学ばんならんことって一杯あるんとちがうんかなぁ・・・今、金融機関で常駐SEやっておる私、本格的にパソコンやり始めたん、25過ぎてからです。23の時は入力オペレータの仕事で、全角への切り替え方しらんと、半角カナで住所うちまくって怒られていた私です。
 そんなんでも金融機関の常駐SEになれんのに、そないにあせって幼稚園児に教えてどないすんねんな。自動車教習と同じで18から学ばせても充分間に合うとおもうし。
 学校裏サイトで陰口しかたたけんような使い方させるくらいなら、18までWebフィルタリングを義務付けるとかしてもええぐらいに思ってるんやけど。


娘にケータイ持たせたないねん


ケータイ 中学生の6割が使用

高校生9割強、中学生6割、小学生3割が携帯電話を使用。


小学一年の娘にもせがまれている。周りにも何人か持っている友達がいるとか。

今に至るもケータイ嫌いの私としては、持たせたくないところである。確かに35分の道を通学させる親心としては、不安でもあるが、ココセコムもさせてるしねぇ。携帯であれば必要だが、ケータイとなると「みんなが持ってるから」という程度なんでは?

でも娘にそんな理屈っぽいこと言ってもわからんしなぁ。だましだまし行きますか。