Articles tagged with: 麻薬

少女は夜明けに夢をみる


本作を見てとても心が痛くなった。試写が終わった後、パネリストの方が仰った「この現実は日本でもおきている」事実が、同じ年ごろの娘を持つ身として私の心を刺した。この鋭さこそがドキュメンタリー。映像の持つメッセージの力をあらためて認識させられた。それが本作だ。

私にとってサイボウズさんとのご縁はもう6,7年になる。今までにもさまざまなイベントにお招きいただき、参加する度に多くの勉強をさせていただいた。もともと、働き方改革や柔軟な人事制度など、サイボウズさんの社風には賛同するところが多い。だから展開するサービスにも惹かれる点があり、私もkintoneやチーム応援ライセンスなどでお世話になっている。私のキャリアにとってもサイボウズさんは飛躍へのステップを作ってくださった会社。本当に感謝しているし、これからも続くべき会社だと思っている。

ところが、私が今までに参加したサイボウズさんのイベントは、そのほとんどがITに関係している。それはサイボウズさんがIT企業である以上、当然のことだ。

そんな私が今回、参加させていただいたのは、本作の特別試写会。まったくITには関係がない。なぜ、このような社会的なメッセージの強い作品の試写会を開催したのか。それは、サイボウズさんが児童虐待防止特別プランを展開されていることと密に関係しているはずだ。
子どもの虐待プロジェクト2018
南丹市、児童虐待防止の地域連携にkintoneを導入

この試写会のご担当者様は、サイボウズさんがチーム応援ライセンスを開始するにあたっての記念セミナーでもお世話になった方。私はそのセミナーで登壇させていただき、その時も今も、私が自分にできる社会貢献とは何か、について考え続けていた。そのため、お誘いを受けてすぐに参加を決めた。

本作は、2019/11/2から岩波ホールで公開予定だとか。
岩波ホールの告知サイト
公式サイト
それにしても、私が今回のような純然たる社会派の映画を見るのは久しぶりのことだ。

冒頭にも書いた通り、本作はとても心を痛める映画だ。描かれた現実そのものが発する痛みもそうだが、その痛みの一部は、私自身の無知ゆえの恥からも来ている。

そもそも私はイランのことをほとんど知らない。世界史の教科書から得た知識ぐらいのもの。「風土は?」と聞かれても、吹きすさぶ砂嵐の中に土づくりの家が集まっている、というお粗末な答えしか持っていなかった。日本をハラキリゲイシャのイメージで想像する国外の方を笑えない。

だから、本書の冒頭で一面の雪景色が登場するだけで意表をつかれてしまう。イランにも雪がふる事実。そして、普通に舗装された道路を車が走る描写。それだけで、私の認識は簡単に揺さぶられてしまう。

さらに、その雪をぶつけ合い、はしゃぐ少女たちが、とても楽しそうなのをみて、私の思いはさらに意外な方向に向かう。彼女たちは保護施設に収容された犯罪者ではなかったのか。

だが、少女たちが歌う内容を知ると、私の認識は一変する。字幕には「幸せだからって不幸せな私たちを笑わないで」という文字が。少女たちが悪事を犯した罪人という見え方が変わる瞬間だ。

本作を上映する前振りで本作の宣伝スタッフの方の言葉や、リーフレットを見ていた私は、彼女たちを単なる犯罪者だとくくっていたように思う。だが、彼女たちは犯罪者の前に一人の人間なのだ。彼女たちの多くは私の娘たちと同じ年ごろであり、本来ならば芳紀を謳歌しているはずのかわいらしい少女なのだ、という事実に思い至る。

その事実に気づくと同時に、心から楽しんでいるように見える彼女たちの笑いの裏には、想像を絶するほどの痛みがあることが感じられる。そもそも、楽しげな雪合戦も高くそびえる塀に囲まれなければできない。また、本作のあらゆるシーンには、曇り空しか登場しない。本作を通して、一瞬たりとも晴れ間は見えない。それは本作が12月から新年までの20日しかロケしておらず、季節がたまたまだったことも関係あるだろうが、監督も晴れ渡った空は撮るつもりもなかっただろう。

あえて平板なイントネーションで少女たちにインタビューしているのは本作のメヘルダード・オスコウイ監督だろうか。一切の感情を交えず、施設に入った理由を娘たちのそれぞれに聞く監督。その中立的な声音につられるように、娘たちはそれぞれの境遇を述べる。

18歳の娘は、14歳で結婚し、15歳で子どもを産んだ。だが、クスリの売人になることを強いられ、7カ月も娘には会っていないという。その子の名前がハスティ(存在)というのも、痛々しい。この世に自分がある理由。それは娘が存在しているから。だが、施設に入っている以上、娘と会うことは叶わない。名前と境遇の落差の激しさ。

昔はいい子だったというが、周りの環境に合わせて不良のように振る舞っているという少女。自分を名無しと名乗っている。面会に来るおばあさんに対しては満面の笑みを見せるのに、釈放にあたっておばあさんが来てくれないことに泣き叫ぶ。そして朝方、世間に戻されても生きていけないと絶望にすすり泣く。性的虐待を受けた自分の帰る場所は父でも母でもなくおばあさんだけ。

なりたい職業が弁護士か警官。理由は同じ境遇の子供を助けてあげたいから。と語る直後に今の夢はと聞かれ「死ぬこと」と答える少女。その矛盾した答えを発する顔は、疲れて希望を失っている。彼女は性的虐待を加えた叔父のうそを信じる家族に絶望していた。だが、家族が実は叔父のうそを見抜き、自分を信じ、愛していたことを知った途端、輝きを取り戻す。満面の笑顔で施設を出る顔に憂いはない。

娘が生まれたら「殺す」と即答し、息子は?との問いに息子は母の宝だから、と答える少女。それは母への愛憎の裏返しであることはすぐに理解できる。だが、普段は陽気なムードメーカー役を担っているにもかかわらず、そこには絶望が感じられる。強盗の子は強盗にしかならないとあきらめ、肉親に対して何も差し入れをしてくれないことを電話口で泣きながら訴える。

そんな少女がいる一方で、息子が生まれれば「殺す」と即答する少女もいる。娘の名前はすでに付けているというのに。

釈放を申し渡されても、それに対して「お悔やみを」と返す少女。鎖につながれ、虐待される日々に戻るだけという絶望。決して自分に明るい未来があると信じず、そもそも明るい未来のあることを知らない少女。

651と名乗る少女は、クスリを651グラム所持していたからそう名乗っているという。本作に登場する少女たちにとってクスリは日常。それが正しくないとわかっていても、生活のため、肉親から求められれば扱うしかない。そんな切っても切れないのがクスリ。

実の父を母や姉とはかって殺した少女。「ここは痛みだらけだね」という監督に、四方の壁から染み出すほどだと返す。その少女は物静かに見えるが、実はもっとも矛盾と怒りを抱いている存在かもしれない。イスラム教の導師に対し、世の矛盾を一番熱く語っていたのも彼女。

本作には何人ものインタビューと、釈放されるシーンが挟まれる。BGMなどほとんどない本作において、目立つのは乗り込んだ車が発車するシーンで流れる不協和音のBGMだ。彼女たちの釈放後の生活を暗示するかのような。

彼女たちに共通する認識は、罰とは生きる事そのものであり、その罪は生まれてきた事そのものだという。なんという苦しく胸の痛む人生観だろうか。私は少女たちの全てに私の娘たちの生活を重ね合わせ、その間に存在する闇の深さに胸が痛んだ。いったい、私の娘たちと彼女たちの間には何の差があるのだろう。国や民族、宗教、文化が違うだけでこうなってしまうのだろうか?

施設の職員がAidsの知識を授けようとする。塀に囲まれた庭でバレーボールをする。収容者の乳飲み子のお世話をする機会が与えられる。新しいオーディオ機器で音楽も聴くことができる。人形劇を演じる事だってできる。それだけだと平和な日常だ。少女たちは施設の中にあって、平和に生きているようにも見える。だが、本作にあって、一切塀の外の世界は映し出されない。だからこそ、その矛盾と暴力に満ちた世界の無慈悲さがあぶりだされる。施設の人がとある少女を突き放すように、ここを出たら何が何でも外の世界で生きねばならないこと。たとえ自殺しても知ったこっちゃないと言い放つ。少女たちの笑顔や会話は、施設の中だからこそ許されるかりそめのもの。

女性だけが集まる場だと派閥やグループが陰険な争いを繰り広げる。そんな偏見が頭をもたげる。だが、本作の少女たちにそのようなものは見当たらない。泣く相手には胸を貸し、出ていく者にはもう戻ってくるなと励ましの声をかける。少女たちは下らない派閥争いなどにうつつを抜かす暇はないのだ。ここに収容されているのはみな同じく苦しむ仲間。だからこそ支えない、慰め合う。その事実にさらに胸が締め付けられる。

イスラム教の導師が少女たちに道を説こうとし、逆に少女たちからなぜ男と女の命の重みは違うのか、という切実な問いを投げかけられる。男と女の命の重みに差があるかなんて、少なくとも最近の日本では感じることはない。少女たちの真摯な問いに導師は「社会を平穏にしなければ」という言葉でお茶を濁す。

何が少女たちをこうしてしまったのか。イランにもイスラム教にも詳しくない私にはわからない。少女たちは決して犯罪者になるべくして生まれてきたのではない。それが証拠に、収容者の乳飲み子が登場し、その無垢な姿を観客の私たちに見せる。その表情からは、この子が将来強盗や殺人や誘拐や売春や薬物に手を染める予兆は全く見えない。

少女たちもまた、違う時空に生まれていたら輝かしい毎日を送っていたはず。少女たちの多くは顔立ちも整っており、化粧したら女優にだってなれるのでは、という子もいる。ただ、環境が。肉親との暮らしが少女たちをこのような境遇に追い込んでいるのだ。

彼女たちの境遇は、社会に潤沢な金を流通させればいなくなるのだろうか。それとも文化や宗教の違いは、今後も彼女たちのような存在を生み続けるのだろうか。監督はそこは描かない。あるがものをあるがままに。ただ、これがイランの現実だと監督は現実を提示する。7年の準備期間はダテではなく、本作に監督の私情は不要だとわきまえているのだろう。

心を痛めたまま、エンドクレジットが流れる。続いてトークイベントへ。

虐待被害を受けたお子さんがいるご家庭や里親家庭で養育支援をしているバディチームの代表岡田さん、妊娠相談、漂流妊婦の居場所づくりにとりくむピッコラーレ代表中島さんによるトークは、こうした現実を送る少女が日本にもいることを語ってくださった。最近の自販機は暖かくないという、普段の生活では気づかない事実。そうした経験から受ける視点は新鮮だ。わが国にも野宿し、その揚げ句に売春に走る少女はいるとか。

本作を見た後、日本にも同様の生活を送る少女がいることは衝撃だ。生活の確立に失敗し、放浪に走る少女たち。援助交際とは交際じゃない。ただの性的搾取だ、という言葉ももっともだし、売春を取り締まるとは売る側を取り締まる話であり、そうした行為を強いられている少女たちを救うことにならない、という指摘にもうなずける。春を買った側を取り締まる法律がない現状にも目を向けなければ、という指摘も納得がいく。同じ年ごろの娘を持つ私は、娘たちの将来だけを考えればよいのか。否。そうではないはずだ。

本書をただ観劇しただけなら、文化も宗教も違う場所の悲劇、として片付けてしまっていたかもしれない。だが、こうしてトークイベントが催されたことによって、本作への理解がさらに深みを増した。もちろん、映画館で観ることで、本作が伝えるメッセージの鋭さは痛みをもって伝わるはず。

私たちが何をすればよいのか。私は経営者として何をすればよいのか。その答えはまだ出ていない。ただ、トークイベントの中では、ボランティアの道もご紹介いただいた。あらためて自分の時間を見据えてみたいと思う。とても貴重な時間だった。

今回の催しを企画してくださり、当日も動いてくださったスタッフの皆様、本当にありがとうございました。

‘2019/10/17 サイボウズ社本社


UNDER THE DOOM 上


あとがきで知ったのだが、本書は、著者の作品のなかで三番目に長いそうだ。著者のライフワークともいうべきダーク・タワーシリーズは別格として、『ザ・スタンド』、そして『IT』、続いて本書の順なのだとか。

小説はただ長ければいいというものじゃない。長さに比例して内容も間延びし、スカスカになっならそれこそお話にならない。しかし、そんなうがった見方は著者の作品に限っては無用だ。『ザ・スタンド』と『IT』は長さと面白さを兼ね備えていた。それらと同じく、本書も文句なしの傑作だった。

メイン州キャッスルロックといえば、世界で一番有名な架空の町。そういっても許されてしまうぐらい、著者の作品ではお馴染みの町だ。本書の舞台となるチェスターズ・ミルは、キャッスルロックの北隣に位置している。

そんな素朴な町がなんの前触れもなく、透明なドームに全方位を囲まれる。そんな出来事から本書ははじまる。

急に現れた見えない壁に衝突する飛行機やトラック、手首から先を壁に切り落とされ失血死する農婦。わずかな空気と電波以外は完全に外部から遮断された町。理由もわからないうちに閉鎖されたチェスターズ・ミル。閉鎖された空間では人間の本性もあらわになる。本性に応じて、階級や上下の序列の争いがあらわになる。人々の醸し出す空気がドームの中に不穏な圧力を高める。

著者の創造した閉じた空間の中で、著者の筆はいつにも増して快調だ。細かな人間感情の機微を丁寧に描きつつ、エピソードをちりばめていくなど著者にとってはお手のもの。人物の配置にも抜かりはない。ごく自然に、閉鎖された町にトラブルの着火役を用意している。彼の名はジュニア・レニー。痴話げんかの余韻と脳内で芽を吹きはじめた腫瘍の影響で二人の若い女性を殺してしまう。そんな彼の父は第二町政委員として陰でこの街を牛耳るビッグ・ジム・レニー。ビッグ・レニーは狡猾に二番手の役割に甘んじ、その間に着々と街の財政に食い込む。そして甘い汁を吸う。さらには後ろ暗い事業に邁進する。表の顔である中古車屋の経営者を演じつつ。

不慮の事態を収拾するために動いた警察署長パーキンスは、不用意にドームに触れてしまったために体内のペースメーカーが爆発して死ぬ。そして副署長ランドルフはといえば、レニーに頭を押さえつけられている暗愚な男。治安維持のため警察力強化をもくろむレニーは、新署長ランドルフに街の愚連隊を臨時警官として雇う事を認めさせ、着実に独裁体制の地場を固めてゆく。

レニー親子に対するは、バーバラという女性のような姓をもつバービー。ジュニアとの痴話げんかを通して、憎悪を一身に集める彼は、流れ者のコック。もともとは、イラク戦争で米軍の特殊任務についていた経歴を持つ。そんな経歴から、バービーは町政委員を差し置いてアメリカ大統領直々にチェスターズ・ミルの最高責任者に任命される。ミサイルや化学薬品の塗布など、米軍によるドーム破壊に向けた努力は全て徒労に終わり、レニーは自らの後ろ暗い事業の清算と、ドーム内での己の絶対権力の確立を一挙に実現するため、バービー包囲網を着々と狭めていく。

果たしてバービーはレニー親子に陥れられてしまうのか、というスリルの構築は著者はならではの熟練の技。著者が巡らせる構図も、単なる善悪の二元でに終わるはずはない。レニー親子とバービーの周りには多彩な人物が登場する。本書の冒頭には登場人物の一覧が附されている。その数総勢59人。

あまりにも人数が多いので、いくつかのカテゴリーに分けられている。
【町政委員】
【食堂〈スイートブライアー・ローズ〉スタッフ】
【チェスターズミル警察】
【聖職者】
【医療関係者】
【町の子どもたち】
【主要な町の人々】
【よそ者たち】
【主要な犬たち】
【〈ドーム〉外側】

ここに出てくる59名の多くは物語に欠かせない。ほんの一瞬だけ登場するちょい役ではないのだ。物語の主要なキャストだけでも数えれば30人は下らないだろう。【主要な町の人々】カテゴリーに括られている人々だけでも、重要な人物は片手では足りない。地元新聞の発行者、百貨店店主、葬祭場経営者などなど。

著者の作品は毎回大勢の人物が登場するが、本作はいつにも増して一人一人の役割をきっちりと割り振り、特定の人物だけに描写が偏らないように入念に配慮されている。これだけの人数を操って、物語の序盤をだれることなく書き進められる著者の筆力には、今更ながら驚くばかりだ。

町の住人たちが織りなす複雑な運命の綾は、ビッグ・レニーの策謀によって一層複雑な模様を描いてゆく。スーパーマーケットへの閉鎖通告とそこで起こった暴動。ビッグ・レニーの周りには謀り事が渦巻く。それを隠蔽しようとしたビッグ・レニーも息子と同じく殺人に手を染めてしまう。ジュニアが隠し続ける二体の死体に加えて、親のレニーの作り出した死体もまとめてバービーのせいにしようと画策する親子。

そうして彼らの策謀の網は、ついにバービーをからめ捕ろうとする。盛り上がったところで上巻は幕を閉じる。かつて週刊少年ジャンプを読んで、次週号を待ち遠しく思った記憶。本書もまた、瞬時に下巻を手に取らせた。ストーリーテリングの神技である。著者と訳者が共同で紡ぎだす文章に迷いはない。

‘2016/12/03-2016/12/07


バリー・シール アメリカをはめた男


本作はトム・クルーズが好きな次女が観たいというので来た。でも実は私も観たかったのだ。なんといっても、本作に描かれているのはとても興味深い人物なのだから。何が興味深いって、本作でモデルとなったバリー・シールという人物を私が全く知らなかったことだ。

TWAのパイロットから、CIAの作ったペーパーカンパニーに転籍し、中南米諸国の偵察任務に従事。さらには麻薬組織の密輸にまで手を染め、莫大な富を得る。その破格の儲けを米国の諸機関に目をつけられ、逮捕。ところが米国の中南米政策の思惑から無罪放免となり、麻薬組織とダブルスパイを演ずる羽目になり、最後は麻薬組織から暗殺される。

これが全て実話だというからたいしたものだ。マネーロンダリングが間に合わず、厩舎や地面に金を埋めるあたりなど、思わず疑いたくなるが、どうやら実話らしい。

本作を魅力的にしているのは、現ナマの醸し出すリアルさだ。銀行送金によらず、札束が持つリアルな感触。資金の移動がすなわちデータの書き換えに堕した現在、味わえない金の生々しさ。瞬時にCPUがトランザクション処理で右から左にデータを移す今では、富の実感も薄れるばかり。本書のように札束があちこちに散らばり、置き場所に困るような事態はもはや神話の世界の話だ。

また、70年代末から80年代前半の、今から見ればローテクなインフラを駆使し、膨大な作業を取り仕切るバリー・シールの動きも見どころだ。複数の公衆電話を使って連絡を並行して行うシーンなど、スマホがこれだけ普及した今では、かえって新鮮に思える。スマートなデータが幅を効かせる今だからこそ、バリー・シールの行動に憧れを抱くのかもしれない。IT世代のわれわれは。

そしてもう一ついい点。それはバリー・シールが家族思いなところだ。吠えるほど捨てるほど金があっても、彼はただ家族と共にいることを望む。浮気もせず、ただ日々の仕事に邁進する。仕事で操縦し旅することで自分の欲求を満たし、スリルと報酬を得る。とても理想的ではないか。趣味と仕事が一致していれば、浮気にも走らない。そもそも浮気する必然すらない。日々が充実しているのだから。そんなところも社会に飼いならされた大人にとって魅力的に映るのだろう。

本書は映像も見応えがある。作中、カーター大統領やレーガン大統領が演説する実映像が幾度か挿入される。それがまた、当時の色あせた映像になっている。そればかりか、バリー・シールを映した映像すら、当時のフィルムを使ったのかは分からないが、いい感じに色あせている。それがまた、ITに頼らぬ時代のヒーロー感を演出しているのだ。

また、パンフレットによると、本作の飛行シーンには一切CGを使っていないとか。それどころかスタントさえ使わず、トム・クルーズ自身が操縦し、危険な飛行に臨んでいるという。まさに役者魂の塊である。

本書全体から感じられるのは、時代の断絶だ。人が情報技術に頼るまえ、人はなんと粗野でワイルドで、魅力的だったことか。コンピューターがオフィスの外に飛びだし、人々の生活に入り込んだことで、何かが失われしまったのだ。得るものも大きかっただけに、喪ったものも同じ。それを象徴しているのが、本作のあちこちにはびこる札束なのだろう。札束を見ずに生活できるようになった今、その分、雑然としたエネルギーが街中から消え失せ、人々は小さくスマートにまとまりつつある。

でバリー・シールをヒーローと書いた。だが、本来なら彼はアメリカにとってただのヒールでしかない。でも、薄れゆくエネルギッシュな日々を現代のスクリーンに体現した彼は、やはりまぎれもないヒーローなのだ。トム・クルーズが本作で演じているのは悪役ではない。彼にはやはり、ヒーローが似合う。私はそう思った。

‘2017/11/12 109シネマズ港北


嫌われ松子の一生(下)


上巻の最後で故郷から今生の別れを告げようと実家に戻り、そして出奔した松子。馴染み客が一緒に雄琴に移ろうと誘ってきたのだ。雄琴とは滋賀の琵琶湖畔にある日本でも有数の風俗街のこと。しかし、マネジャーになってやるからと誘ってきたこの小野寺という男、たちの悪いヒモでしかなかった。ヤクの売人はやるわ、他の女に手は出すわ。痴話げんかの果てに、松子は小野寺を包丁で刺し殺してしまう。

無我夢中で東京へと向かった松子。そこで出会ったのが島津。妻子をなくし、つつましく理容店を経営する男の元で居候として暮らしはじめる。となれば自然と男女の関係になろうというもの。しかし、そんな松子がつかんだかに見える平穏は、逮捕によって終わりを告げる。全国指名手配されていたとも知らず、のうのうと暮らしていた松子を警察が見逃すはずもなく。ついに松子は刑務所に収監されることになる。

笙も別ルートから松子が刑務所にいたことを突き止め、公判記録からその凄絶な生涯を知ることになる。

本書に通して読者が追体験する松子の人生は、すさまじいの一言だ。一人の女性が味わう経験として無類のもの。それでいて、少しも無理やりな展開になっていない。本書はフィクションを描いているはずだが、実は松子のような人生を歩んだモデルがいたのではないかとも思わせる。長年、風俗業で生き抜いて来た女性の中には、松子と同じような辛酸を舐めてきた方もいるのではないか。そう思わせるリアルさが本書には息づいている。

松子の人生は、まるで奔流のように読者を運んでいく。立ち止まって考える暇すら与えてくれない。本書は一気に読めてしまう。だが、あらためて本書を読んでじっくり考えてみたい。すると、松子の生き方にも人の縁が絡み合っていることが見えてくる。松子の人生は一匹オオカミの孤独に満ちているわけではない。人生のそれぞれの局面で、ごく少数の人と太い絆を結ぶ。その絆が松子の前に次々と新しい人生の扉を用意するのだ。それが結果として悪い方向だったとしても、人の縁が人生を作ってゆく。

属する組織の中で、少数の方と縁をつないでゆく生き方。それは、私自身にもなじみがある。というよりも私の生き方そのものかもしれない。私はたまたま破滅せずに、今なお表通りを大手を振って歩けている。だが、それは結果論でしかなく、実は私の人生とは、選択する度に間一髪奈落のそばを避けてきたのかもしれない。自らの経験から振り返ってみると、生きることの難しさが見えてくる。生きるとは、これほどまでに人との縁や、その時々の判断によって左右されるものか。一方通行のやり直しのきかない人生では、選択もその時々の一回勝負。

とはいえ、本書を読んで人生を後ろ向きに考えるのはどうかと思う。殻にとじこもり、リスクを避ける人生を選び続けてはならない。松子にはたまたま不運がつづいてしまっただけとも言える。最後は酔った若者たちの憂さばらしのの対象となり、殺されてしまった。だが、逆もまたあり得るはず。幸運の続く人生も。

そもそも運で自分の人生を決めつけることを私は良しとしない。運などすべて結果論でしかない。松子の場合、旅館での盗難騒ぎを、自分の力でうまく収めてしまおうと独断に走った判断のまずさがあった。彼女の人生を追っていくと、明らかな判断ミスはそう多くはない。多くは他の人物による行いを被っていることが多い。松子の場合、安定した教職をまずい判断で台無しにしてしまったスタートが決定的だったと思う。つまり、選択さえうまくできていれば、彼女の人生は逆に向いていた可能性が高い。

そんなわけで、松子の裏目続きの人生を見せつけられてもなお、私には人生を後ろ向きにとらえようと思わないのだ。

根拠なき運命論も、人生なんてこんなもんという悲観論も、私にはなんの影響も与えない。むしろ、本書とは巨大な一冊の反面教師ともいえる。こうすれば人生を踏み外すという。でも、そこだけが本書から得られる教訓であるとは思えない。本書から得られる彼女のしぶとさことを賞賛したい。一度の選択は人生の軌道を全く違う向きに変えてしまう。しかし、悪いなりに松子は人生を懸命に生きる。そこがいい。失敗を失敗のまま引きずらず、生きようとした彼女が。

笙は公判で松子を死に至らしめた男たちの態度に激昂して吏員に連れ出される。笙には分かっていたのだろう。叔母の一生とは決して救いようのない愚かなものではなかったことを。刑務所から出所した後の松子の人生も、紆余曲折の山と谷が交互に訪れる激しい日々だった。最後は荒川のアパートで身なりを構わぬ格好で独り暮らし、嫌われ松子と呼ばれていた。それはいかにも身をやつした者の末路のよう。でも、かつて松子がつちかってきた縁は、松子を真っ当な道に戻そうとしていた。それを永遠に閉ざしたのが浅はかな若者たちの気まぐれだった。松子と比べると人生の密度に明白な差がある若者たち。そんな若者たちに断ち切られてしまった松子の報われたはずの未来。それを思うと笙には彼らの反省のなさに我慢がならなかったのだろう。

私はつねづね、人の一生とは死ぬ直前に自分自身がどう省みたか、によって左右されると思っている。本書はその瞬間の松子の感情は描いていない。果たして松子はどう感じたのだろうか。多分、晩年の松子には今までの自分の人生を思い返すこともあっただろう。でも普通、人は生きている間、無我夢中で生きるものだ。他人からの視線も気にするひまなどない。憂さ晴らしの連中に襲われた際、松子には後悔する暇も与えられなかったことだろう。だが、本人に人生を思い返す暇がなかったとしても、他人からその生きざまに敬意が払われ、記憶されたとすれば、その人の人生はまだ恵まれていたといえないだろうか。

‘2016/08/08-2016/08/09