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塚原卜伝


本書は、数年前に入手していた。入手したのは多分神奈川県立文学館でみた大佛次郎展で剣豪小説に興味を持ったからだと思う。わが家の蔵書に加わってから二、三年、本書は積ん読の山の中で出番を待っていた。

なぜこのタイミングで本書を読もうと思ったか。これには説明を加えなければならない。

本書が日の目を浴びたのは、鹿島神宮がきっかけだ。本書の前に読んだ『本当はすごい!東京の歴史』を読み、鹿島神宮の重みに感じ入った。そして、鹿島神宮へ行こうと思い立った。鹿島神宮の周辺で訪れるべき場所を探したところ、目に付いたのが本書の主人公である塚原卜伝だ。当然、墓や生誕地にも訪れたいと思った。となると、塚原卜伝の人となりをもう少し知っておきたい。そこで思い出したのが蔵書の中に埋もれていた本書だ。

本書を読み終えたのは鹿島へ向かう前日。なので、私が鹿島を訪れた時、塚原卜伝の生涯はある程度理解していた。そればかりか、鹿島が武の本拠といってよいことも。

私が鹿島に着いた時、夜はかなり更けていた。さっそく大鳥居から楼門まで歩いてみたが、深閑とした森の奥からは、剣道の稽古と思しき気合いの掛け声が聞こえてくる。鹿島が塚原卜伝を輩出した武の地との本書から得た知見が実感として迫る。鹿島に塚原卜伝あり、を早々に思い知らされた。塚原卜伝を産んだ風土の風がいまだに残されている事も。

翌日、鹿島の周辺を巡った私は、想像した以上に塚原卜伝が鹿島の街で重んじられていることを知った。塚原卜伝のお墓は少し登った高台の崖に面している。そこから見た田園風景がとても心地よかった。お墓の前で手を合わせ、泉下の剣豪にあいさつも済ませた。また、鹿島神宮駅前に立つ銅像にも訪れた。鹿島神宮の境内には剣豪にちなんだ多くの名所があり、そこにも足を運んだ。

鹿島とは日本の東の端にある。そこから世に出た塚原卜伝は、日本の各地を旅と修行の中に歩いた。ちょうど近隣の佐原から出た伊能忠敬のように。藤原氏の祖である藤原鎌足もまた鹿島の出だという。つまり、鹿島とは人を旅立たせる外交の気に満ちているのかもしれない。

塚原卜伝とは、剣の達人であり、流派の創始者でもある。その剣は人を活かす剣ともいわれ、戦わずして勝つことを最善とする。つまり、人を殺めたり、凄惨な争いを避ける剣だ。そればかりでなく、人としての道を説くことに重きが置かれているという。それゆえに今でも鹿島では塚原卜伝が思慕され、顕彰され続けているのかもしれない。

塚原卜伝が生を享けたのは、戦国時代の始まりとも言われる応仁の乱が終わって十数年後だ。その頃はまだ、室町幕府の意向が諸国に行き届いており、諸大名の間で大規模な戦が行われることはなかった。

その後に訪れた桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いに至る四十年間。その四十年間は、各国が戦いに明け暮れ、いきをつく暇もなかった。織田信長の動きに日本国が揺り動かされ、その跡を襲った徳川家康によって大勢が定まるまでの時期。国々か富国強兵に努め、雌雄を決する大規模な合戦があちこちで行われた。つまり、大名を頂点とした組織の論理が優先され、個人が自在に自己を研鑽できにくくなった時代だ。

塚原卜伝にしろ、上泉信綱にしろ、宮本武蔵にしろ、当時名前を上げた剣豪たちは、その四十年間の前後に活躍している。逆にいえば、剣豪たちが名を上げられたのは、軍隊という組織の論理に左右されなかったからだといえる。剣豪が剣豪でいられたある意味では幸せな時期。

だから、本書で描かれる卜伝の歩みには組織の論理が希薄だ。殺伐としてはいるが、組織によって行動が左右されない。己の剣を磨き、諸国修行に明け暮れられる。それはまさに私の望む人生観である。読んでいてとても心地よい。

よくよく考えてみると、個人が組織の論理に飲み込まれる前の時期を描いた時代小説は珍しいかもしれない。そうした時期を象徴するのが、本書で描かれる足利将軍家だ。三好軍や細川軍の動向に右往左往し、京を慌ただしく逃げ出し、そして庇護者を見つけてはひそかに舞い戻る。

腰の定まらぬ将軍家に剣の腕を見込まれ、護衛につく卜伝は、将軍家の動きに合わせてあちこちをさすらう。それに合わせて本書の舞台も日本各地を転々とする。

なお、卜伝に関しては、さまざまな伝説が語られている。そうした挿話は本書には登場しない。例えば、宮本武蔵が家に殴り込んできたとき、持っていた鍋の蓋で刃を受け止めたこと。「無手勝流」の由来となった、決闘の場で島に船をつけ、逸って島に降り立った相手を残して悠然と漕ぎ去っていったこと。武者修行と称して総勢数十名のお供のものを引き連れたことなど。最初の挿話はそもそも生年が重なっておらず、本書は取り上げないし、残りの二つも著者は取り上げるまでもないと判断したのだろう。そもそも本書は卜伝の後半生は描いていない。

もちろん、本書は神宮の杜で卜伝が一の太刀を会得する事や、立ち会い試合で一の太刀で池田真龍軒を屠る場面など、武芸者としての卜伝も存分に描かれる。梶原長門との一件も。だが、それと同じぐらい本書には、道を極めんとする卜伝の姿が描かれる。中でも卜伝が詠んだとされる百首の連歌はこの句で締められ興味深い。

学びぬる心にわざの迷いてや
わざの心の又迷うらん(347ページ)

卜伝は諸国修業の末、全てが剣の道に通ずることを悟る。諸国でさまざまな人物と出会う。その中には、己の腕を見込み、頼ってくる若輩もいた。その若輩はのちに川中島合戦で名を轟かせる山本勘助の若き日の姿。また、上泉秀綱との交わりなども描かれる。孤高になりやすい剣の人でありながら、人との縁に恵まれる。それもまた、組織のしがらみの弱い時代のおおらかさ故だろうか。

なかでも、卜伝が若き日に救った玉路が宿す美少女の面影は、とうとう卜伝を剣の魔界から逃れさせた。人の弱さを存分に知り、人の交わりのありがたみを知ったこと。そして、時代が個人の生きる道を用意していたこと。そうした幸運が卜伝を独自の剣の境地に高めたのだろう。

迷いなし。その境地こそ、あらゆる価値観が錯綜する現代に必要なものではないか。私は鹿島への旅でその大切さを知った。

‘2018/07/13-2018/07/14


本当はすごい!東京の歴史


数多くの本を読んでいると、本の内容に感化されて旅に出ることも二度や三度ではない。本書を読んだ際もそう。本書を読んですぐ、私は鹿嶋神宮を訪れた。

結果としては、本書を読んだことでよい気づきが得られた。ところが当初、本書の内容には期待していなかった。本書を読んだ理由はただ単に長年住み、仕事の場としている東京のことをより知ろうと思っただけに過ぎない。それに加えて本書を読み始めたとたん、関東こそが日本の文化や歴史の起源であるという主張が飛び込んできたのでさらに鼻白んでしまった。本書を読み始めた頃、私は本書を眉に唾を付けて読んでいた事を告白する。

私は西日本の生まれだ。両親ともに福井をルーツとしている。福井の病院で産声をあげ、両親が家を構える甲子園に移ってからは、二十数年を過ごした。家のすぐ近くにはタイガースと高校野球の聖地である甲子園球場が控ええ、うどん、タイガース、関西弁、粉モンの文化にどっぷり浸かって育った。そうした文化を生み出した関西が日本文化の揺籃の地と信じて疑わなかった。飛鳥の都からから難波宮、平城京、恭仁京、長岡京、平安京、福原京。歴代の都はすべて関西にあり、そこで栄華を誇って来た。仁徳天皇陵や大阪城は今も雄大な姿を見せ、関西の文化的な豊饒さを象徴しているかのよう。

そうした土壌に育った上、歴史の授業でも日本史の舞台が関西であることを学ぶ。連綿と続いてきた日本の歴史の積み重ね。その地に住んでいると、文化や伝統を日常のものとして無意識に受け取って育つ。そうして、日本の文化や歴史の主流が関西にあるという観念が定着してゆく。

ところが本書は日本の歴史を東国から捉え直す。日本書記に書かれた神々の国産み神話を除けば、そもそも日本の歴史とは高天原から天孫降臨した神々の裔が高千穂から東へ征服に向かったことに端を発する。本書はその高天原こそが鹿嶋にあったという。実際に鹿嶋には今も高天原という地があるという。私も本書を読んですぐ、実際にその地を確認してきた。実際に高天原という地名をみて、思わず感動してしまった。

本書を読むまで、私は鹿嶋に高天原があることを知らなかった。ところが本書からその事実を教えられ、わが目でも目撃した。ということは、高天原が鹿嶋にあった、つまり日本のそもそもが東から興ったと説く本書の記述にも信ぴょう性が感じられる。あながちトンデモ説とはいえないのだ。

そうなると、弥生や縄文といった時代区分の由来が東京にあることも、本書の主張を補強しているように思える。巨大遺跡といえば仁徳天皇陵や羽曳野のあたり、奈良盆地のそれが頭に思い浮かぶ。だが、東京にも遺跡は多く点在している。さいたまの古墳群や大森貝塚に代表されるように。それはすなわち、当時の東国に人口が多かったことの証拠でもある。

人口が多かった事実は、文明の発展にも関係する。その時、富士山の存在が人々の信仰心を向かわせたことも否定する論拠は見当たらない。著者は富士山を天上、つまり高天原と見立てる。富士山が見える範囲で東の端に位置するのが鹿嶋神宮、西の端に位置するのが伊勢神宮という新鮮な論が展開されるが、それにも説得されそうになる。平安時代に編まれた延喜式神名帳では、神宮の名が付く神社は伊勢神宮、鹿嶋神宮、そして香取神宮の三つしかないとか。香取神宮も鹿嶋神宮に近い場所にある。その二つの神宮が鎮座する地こそ常陸の国。つまり常世の国だ。そしてそれらに共通するのは富士山が見える範囲にあるということ。

本書の中心的な論点は、富士山にある。富士山こそは宗教的なシンボルでもあり、古来から高天原に擬せられてきたのではないかと著者はいう。富士山こそは西日本にはない日本のシンボル。著者の論の芯を貫くこの事実は揺るぎない。

ところが、本書で著者が唱える説には2つ大きな難関がある。一つは、なぜ東征軍が出雲を攻め、大和に入るにあたり、鹿嶋から高千穂を経由する道筋をたどったのか、という疑問。もう一つはなぜ古代と中世までの東国は、本邦の歴史では脇役に過ぎなかったのかの理由だ。

最初の点について著者は、当時の出雲に大国主命系の勢力があり、その巨大な勢力を最初に征服するため、九州から上陸したのではないかと説く。そこで重要になるのが鹿嶋と鹿児島の地名の相似だ。鹿島立つという言葉があるように鹿島から出立した東征軍が、高千穂に向かう際にまず上陸したのが鹿児島ではないか。その二つの地名には共通する語源が隠れているのでは、という著者の論にも蒙を拓かれた思いだ。

ただ、もう一つの難関について、著者は説得力のある論点を提示していない。まさにそれこそが重要なのに。この点こそ、私が本書で一番残念に思った点だ。

だが、理由はなんとなく想像がつく。古来から富士山が何度も噴火してきたことは周知の事実だ。地震もそう。つまり、日本のシンボルであるはずの富士山はシンボルでありながら、東国にとっては天変地異の象徴だったのだ。降り積もる火山灰や地震による災害。東国は文化や歴史の伝統となるには、あまりにも天災に苦しめられすぎてきたのだ。それが、東国を文化や歴史の中心から遠ざけたのではないか。ところが本書では関東ローム層の由来には触れていながら、富士の噴火による天災の被害については全く触れていない。なぜ著者がその点に触れなかったのか理解に苦しむ。私のような素人でも簡単に思いつくのに。

関東が東征の出発地だったと言う論点は新鮮。とても勉強になる。なのになぜ富士山の噴火や関東で頻発した地震には触れなかったのか。その理由は全く分からない。本書と著者のためにも惜しいと思う。

本書は、以降の各章でも東国の歴史を描き出す。古墳の時代、中世、武士の活躍した平野の様子。家康によって開発された首都としての江戸と、世界一の規模を誇る都市に繁栄した江戸。幕末の動乱をへて、天子を擁して文字通り日本の首都となった東京から現代の東京の様子までを概観する。

著者は東国を持ち上げながら、今の世界的な大都市となった東京については非常に厳しい。都市計画の失敗や、西洋を真似たような街づくりの思想など、今の東京に対する不満をつらつらと列挙する。都市としての繁栄を極めたかに見える今の東京は、著者にとっては逆に不満の対象であるところが面白い。

つまり、著者にとっては西日本に対する東日本の優位を示すといった瑣末な事はどうでもよいのだ。本書は日本の文化や歴史の発端が東にあったことを主張することに本旨がある。従来の定説とは違い、世間にはまだまだ受け入れられていない著者の説。それを世に問わんとする著者の意志は分かる気がする。そして著者の意志を割り引いても、本書で書かれた内容からは著者が自らの論を主張するための牽強付会の匂いは漂ってこない。それは本書のためにも擁護しておきたい。

だからこそ、藤原氏の初代鎌足が鹿嶋の出身だったことや、平泉で武家の文化が栄えたこと、鎌倉に幕府が開かれたことなど、歴史の所々で東が西を凌駕した理由にも納得がいく。さらに、水戸光圀が大日本史の編纂事業をしじし、それが幕末には尊王攘夷の先鋒としての水戸藩の存在感の発揮につながったことなど、日本の歴史の要所に常陸が登場することに得心がいく。日本の伝統を復興しようするうねりが鹿嶋神宮の近隣から起こったことは、そうした伝統に立脚した故あることなのだろう。鹿嶋の土壌で育った尊王攘夷の思想を薩摩、つまり鹿児島が受けつぐ。そんな著者の指摘する因果すら、こじつけには思えなくなる。

このように、本書が示す気づきは実に豊かだ。私は本書によって鹿嶋神宮を訪れなければならないと思い、すぐに実行した。ただ、本書の内容が実りあればあるほど、東京には根本的な都市としての欠陥があるように思えてならない。その欠陥とは、天災に弱いという一点に尽きる。著者が意図したのかどうか分からないが、その事実が本書からは綺麗に抜けている。ある時期から江戸を中心とした東国は、日本の歴史の中で傍流に置かれる。その理由こそ、度重なる天災にあったことは間違いないはずなのに。

公平を期する上でも、そのことにはぜひとも触れて欲しかったと思う。なぜなら、今の繁栄を謳歌する東京は間もなく潰えようとしているからだ。東海地震、首都圏直下型地震、富士山噴火。リスクは山積みだ。世界の首都の中でも飛び抜けて天災に弱いとされる東京。その事実は、住民の一人として見据えておかねばならないはず。なぜ、東京はこれだけの平野を擁しながら、日本の歴史では長らく坂東の地として辺境扱いされていたのか。その理由を世に知らしめる絶好の本こそ本書なのに。

現代の東京が天災の危険の上に薄皮一枚で乗っている。その事実はいまさら変えようもない。とはいえ、本書が示すように鹿嶋神宮が歴史で演じた重要性はいささかも薄らぐことはないはず。むしろ、鹿嶋神宮はもっともっと世に広く知られなければならない。私はそう思う。実際、鹿嶋神宮や剣術の達人である塚原卜伝のお墓など、鹿嶋を訪れたことはとてもよい経験と知見になった。その際、香取神宮に行かれなかったことが心残り。なので、もう一度行きたいと思っている。本書を携えて。

‘2018/07/09-2018/07/13