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澄みわたる大地


魔術的リアリズムの定義を語れ、と問われて、いったい何人が答えられるだろう。ほとんどの方には無理難題に違いない。ラテンアメリカ文学に惹かれ、数十冊は読んできだ私にも同じこと。魔術的リアリズムという言葉は当ブログでも幾度か使ってきたが、しょせんは知ったかぶりにすぎない。だが、寺尾氏による『魔術的リアリズム』は、その定義を明らかにした好著であった。

その中で寺尾氏は、魔術的リアリズムに親しい小説や評論をかなり紹介してくださっている。その中には私の知らない、そもそも和訳がまだで読むことすらままならない作品がいくつも含まれていた。

著者略歴には寺尾氏が訳したラテンアメリカの作家の著作も数冊載っている。それによって知ったのは、寺尾氏が、理論だけでなく実践「翻訳」もする方であること。私は寺尾氏がまだ知らぬラテンアメリカ文学を翻訳してくれることを願う。

そんなところに、本書を見掛けた。著者はラテンアメリカ文学を語る上で必ず名の挙がる作家だ。だが、上述の寺尾氏の著作の中では、著者の作品はあまり取り上げられていない。作風が魔術的リアリズムとは少し違うため、寺尾氏の論旨には必要なかったのだろう。だが、著者の名は幾度も登場する。メキシコの文学シーンを庇護し、魔術的リアリズムを世界的なムーブメントへと育てるのに大きな役割を果たした立役者として。その様な著者の作品を訳したのが寺尾氏であれば、読むしかない。

本書はセルバンテス文化センター鯵書の一冊に連なっている。セルバンテス文化センターとは、麹町にあってスペイン語圏の文化を発信している。私も二度ほど訪れたことがある。セルバンテス文化センターでは、スペイン本国だけでなくスペイン語圏を包括している。つまり、本書のようなメキシコを舞台とした文学も網羅するわけだ。

そういったバックがあるからかは知らないが、本書の内容には気合いが入っている。小説の内容はもちろんだが、内容を補足するための資料が充実しているのだ。

脇役に至るまで登場するあらゆる人物の一覧。メキシコシティの地図。本書に登場したり、名前が言及されるあらゆる人物の略歴。さらには年表。この年表もすごい。本書の舞台である1950年代初頭までさかのぼったメキシコの近代史だけでなく、そこには本書の登場人物たちの人物史も載っている。

なぜここまで丁寧な付録があるかというと、本書を理解するためには少々の知識を必要とするからだ。革命をへて都市化されつつあるメキシコ。農地を手広く経営する土地持ちが没落する一方で、資本家が勃興してマネーゲームに狂奔するメキシコ。そのようなメキシコの昔と今、地方と都市が本書の中で目まぐるしく交錯する。なので、本書を真に理解しようと思えば、付録は欠かせない。もっとも、私は付録をあまり参照しなかった。それは私がメキシコ史を知悉していたから、ではもちろんない。一回目はまず筋を読むことに専念したからだ。なので登場人物達の会話に登場する土地や人物について、理解せぬままに読み進めたことを告白する。

筋書きそのものも、はじめは取っ付きにくい思いように思える。私も物語世界になかなか入り込めないもどかしさを感じながら読み進めた。それは、訳者の訳がまずいからではない。そもそも原書自体がやさしく書かれているわけではないから。

冒頭のイスカ・シエンフエゴスによる、メキシコを総括するかのような壮大な独白から場面は一転、どこかのサロンに集う人々の様子が書かれる。紹介もそこそこに大勢の人物が現れては人となりや地位を仄めかすようなせりふを吐いて去ってゆく。読者はいきなり大勢の登場人物に向き合わされることになる。やわな読者であればここで本書を放り投げてしまいそうだ。本書に付されている付録は、ここで役に立つはずだ。

前半のこのシーンで読者の多くをふるいにかけたあと、著者はそれぞれの登場人物を個別に語り始める。それぞれの個人史は、すなわちメキシコの各地の歴史が語られることに等しい。メキシコの地理や歴史を知らない読者は、物語に置いていかれそうになる。またまた付録と本編を行きつ戻りつするのが望ましい。

実のところ、中盤までの本書は導入部だ。読者にとっては退屈さとの戦いになるかもしれない。

しかし中盤以降、本書はがぜん魅力を放ち始める。本書は、文章の表現や比喩の一つ一つが意表をついた技巧で飾られている。それは、著者と訳者による共作の芸術とさえ言える。前半にも技巧が凝らされた文章でつづられているのだが、いかんせん世界に入り込めない以上は、飾りがかえって邪魔になるだけだ。だが、一度本書の世界観に入り込むことに成功すると、それらの文章が生き生きとし始めるのだ。

文章が輝きを放つにつれ、本書内での登場人物達の立ち位置もあらわになって行く。ここに至ってようやく冒頭のサロンで人々が交わす言葉の意味が明らかになっていく。本書はそのような趣向からなっている。

登場人物たちが迎える運命の流れは、読者にページをめくる手を速めさせる。本書を読み進めていくうちに読者は理解するはずだ。本書がメキシコを時間の流れから書き出そうとする壮大な試みであることに。

革命とその後に続く試行錯誤の日々に翻弄される人々。その変わりゆく営みのあり方はさまざまだ。成り上がり階級の人々が謳歌していた栄華は、恥辱に塗れ、廃虚となる。没落地主の雌伏の日々は、名声の中に迎えられる。人々の境遇や立場は、時代の渦にはもろい。本書の中でもそれらは不安定に乱れ舞う。吉事に一喜し、凶事に一憂する人々。著者のレトリックはそんな様子を余すところなく自在に書いてゆく。閃きが縦横に走り、メキシコの混乱した世相が映像的に描き尽くされる。

だが、それらの描写はあくまでも比喩として多彩なのだ。非現実的な出来事は本書には起こらない。つまり、本書は魔術的リアリズムの系譜に連なる作品ではないのだ。それでいて、本書の構成、描写など、間違いなくラテンアメリカ文学の代表として堂々たるものだと思う。おそらくは、寺尾氏もそれを考えて『魔術的リアリズム』に本書を取り上げなかったと思われる。だが、魔術的リアリズムを抜きにしても、本書はラテンアメリカ文学史に残るべき一冊だ。寺尾氏も我が意を得たりと、本書の翻訳を引き受けたのだと思う。

‘2016/07/17-2016/08/05


黙示録


著者の作品を読むのは『テンペスト』以来久しぶりとなる。
テンペスト 上 レビュー
テンペスト 下 レビュー

なぜ4年も遠ざかっていた著者の作品を読もうと思ったか。それは、著者の作品に魔術的リアリズムがあるとの評を見掛けたためだ。先日、寺尾氏の『魔術的リアリズム』を読み、深い感銘を受けた (レビュー)。それを契機に改めて魔術的リアリズムの系譜に連なる我が国の作品を探してみた。すると、著者の作品が引っかかって来た。

そう言われて初めて『テンペスト』にも魔術的リアリズムを思わせる描写があった事を思い出した。 ただ、初めて触れた著者作品 『テンペスト』 の全てに好印象を抱いた訳ではない。沖縄の歴史を細かく、そして大胆に描く構成は良かった。だが、地の文と遊離したせりふのわざとらしいポップさはいささか鼻に付いた。『テンペスト』には今から思うと魔術的リアリズムの魅力が詰まっていたように思う。だが、不自然さを感じさせる文体を欠点として目をやってしまい、そういった作品の魅力的な側面を見逃していた。それもあって、著者の他の作品に食指が動かなかった。

本書は4年ぶりに読む著者作品となる。本書を読むにあたっては、魔術的リアリズムの描写に注目しながら読み進めた。

本書は琉球舞踊の組踊を取り上げている。玉城朝薫によって創始された琉球舞踊。芸術としての琉球舞踊が真に成立したのは、玉城朝薫の才能によるところが多いという。そして朝薫が活躍した時期、琉球王朝には蔡温という名宰相が、琉球国の基盤を作ろうとしていた。18世紀の頃だ。

清の朝貢国でありながら薩摩藩に侵略された琉球国。それによって清と徳川幕府の二重属国の立場に甘んじていた。そんな祖国を真に独立した国として、さらには世界の中心として輝かせたい。蔡温の野望は大きい。蔡温、朝薫の二人とも、目指すのは琉球の存在意義を周辺国に向け打ち立てることだ。それには清にも大和にも負けない琉球国の威厳を豊饒な文化によって示す。豊饒な文化とは、歌舞音曲によって評価されることが多い。つまり、琉球に独自の歌舞音曲である、組踊を創始すればよい。玉城朝薫は、組踊を創始した偉大な才能である。だが、いくら歌と踊りが創作されても、それらは演者がいてこそ。その踊りの体現者こそが、本書の主人公である蘇了泉であり、そのライバル雲胡である。本書では了泉と雲胡が切磋琢磨しながら踊りの粋を極めていく姿が描かれる。

本書にも『テンペスト』で鼻に付いた誇張されたせりふ回しは健在だった。このせりふ回しによって、主人公が発するせりふが地の文の流れから浮いてしまう。その浮き加減をコミカルで漫画的な読みやすさとして評価する方もいるだろう。が、やはり私にとっては気になった。

とはいえ、本書からは『テンペスト』で感じたようなセリフと血の文の浮き沈みが感じられなかった。本書において、蘇了泉の心は静から動へ幾度も浮き沈みを繰り返す。それは躁鬱とすら思わせるほどの起伏だ。確かに、躁状態の蘇了泉が発するせりふは地の文から浮いて走り回っていた。だが、低いテンションの時のせりふ回しは地の文に足が着いていたといえる。その時、物語のテンポと主人公の心の動きは見事に一致していた。テンションが高い時は、主人公の高揚や躁的な気分を表していると思えば納得して読み進められた。

一方、本書にちりばめられた魔術的リアリズムの手法も確かめた。まだ幾分、躁状態のせりふ回しには 落ち着かなさを感じた。とはいえ、 全体的にはとても効果的に魔術的リアリズムの手法が使われていたと思う。了泉の跳躍が少しずつ空へと飛翔するかのような描写。江戸への琉球使節団団長の御歳130歳の妖怪のような姿。彼の部屋はカビが覆い、床は腐って抜け落ち、少年を歪んだ性の欲望として漁る。そして全く気配を悟らせぬ江戸の瓦版屋の銀次。彼はどこでも神出鬼没に現れる特技の持ち主。彼らの描かれ方は、誇張が与える劇的な効果を確実に本書にもたらしていたと思う。そして本書でもっとも魔術的リアリズムが感じられた描写といえば、了泉と雲胡の踊りだ。二人が舞台で演ずる舞踊は人々を観客席から違う世界へといざなってゆく。 彼らの踊りが人に与える様の描写は、魔術的リアリズムの本分を発揮していたといえるだろう。

寺尾隆吉氏の著書によれば、魔術的リアリズムの定義とは「 非日常的視点を基盤に一つの共同体を作り上げ、そこから現実世界を新たな目で捉え直す」ことだという。ここでいう共同体を本書に移し替えれば琉球の人々が該当するはずだ。また、リアリズムとは、江戸幕府と清の間で二重朝貢を余儀なくされる琉球の現実のこととらえてよいだろう。琉球の存在意義を、独自の文化、特に独自の舞踊に託そうとする思い。琉球が背負う地政の宿命と、そこから次の世界へと琉球を導こうとする朝薫や蔡温の生き方は、リアリズムと呼ぶに値する。そんなリアリズムをしっかりと描きながら、真摯な舞踊が与える感動を、現実から逸脱した描写で描き出す手法は、確かに本書に効果を与えていた。

本書の中には人々のつづる漢文詩や、ウチナーンチュ(琉球語)による美しい歌詞が随所に登場する。それらは、大陸文化と大和文化が交わり、独自の進化を遂げた琉球文化の豊かさを存分に意識させる。そんな文化的土壌をしっかりと描きつつ、その成果として、組踊の持つ果てしない可能性をしっかりと語っているのが本書の魅力なのだ。

本書を読み終えて一年後、私は沖縄の地を22年ぶりに訪れた。その際、沖縄第一の聖地として知る人ぞ知る斎場御嶽にも訪れた。なぜ私が斎場御嶽を訪れようと思ったか。その答えの一端は本書の中にある。

踊りの魅力を文章で現す。それは実際のところ、至難の業ではないだろうか。音楽と動きの融合芸術である舞踊は、単に文章に落とし込むだけではその魅力は伝わらない。しかし、本書はそんな難問の答えに限りなく近づいているように思える。本書で描かれた組踊の奥深さや魅力は、私のような踊りの門外漢にもしっかりと伝わった。そればかりか、踊りを描くには魔術的リアリズムの描写こそ最適であることも知った。芸術や芸能を描いた作品として、本書の名前は忘れないだろう。私の中でしっかりと刻み付けられたのだから。

琉球の地理的な位置。華やかな宮廷生活とさげすまれるニンブチャーという身分の人々の現実。そういった琉球の光と影を描き出し、そこに踊りのあでやかな描写で彩った本書は、沖縄を描いた傑作といえる。私は著者が『テンペスト』に描いた沖縄よりも、本書で描かれた沖縄にこそ惹かれる。22年ぶりの沖縄訪問にあたっては、本書で知った組踊にも少しは触れたかった。だが、時間がそれを許さなかった。次回の訪問時にはぜひ組踊を鑑賞してみようと思う。

‘2016/07/11-2016/07/15


魔術的リアリズム―二〇世紀のラテンアメリカ小説


「魔術的リアリズム」。当読読ブログでも何度かこの言葉を取り上げている。

「魔術的リアリズム」とは、ラテンアメリカの作家たちによって知られる文学潮流の一つである。現実をベースにした描写に超現実的なエピソードを織り込むことで物語に深みを持たせる。本書を読むまで私が「魔術的リアリズム」について理解していた定義はこんな感じだ。

それが独学の理解に過ぎないことは自分でも分かっていた。一度はこの言葉と正面から向かい合わねば。そう思っていたところに本書を見かけ、手に取った。

著者が「はじめに」で述べているとおり、「魔術的リアリズム」という語句の定義はしっかりと定められている訳ではない。そもそも読む人によって多様な受け取り方をされる事に文学の価値があるはず。とすれば、文学に何かを定義すること自体がナンセンスではないだろうか。

そんな事は著者にとっても先刻承知のはず。それを分かっていて敢えて「魔術的リアリズム」というものの本質を掴もうと切り込む。大学教授としてラテンアメリカ文学を教える著者にとって、避けては通れない課題。その成果が本書だ。

第一章 シュルレアリスムから魔術的リアリズムへ

とっかかりはシュルレアリズムだ。ダダイズムの系譜から連なるシュルレアリズム。意味をなさず繋がりのない言葉が続くあれだ。「魔術的リアリズム」の源にシュルレアリズムを置く著者の意図はすんなりと理解できる。源と書いたが、それはシュルレアリズムが「魔術的リアリズム」に先んじて現実からの開放を目指した事を指すのではない。実は「魔術的リアリズム」という単語が初めて世に出たのは、シュルレアリズムが最も華やかなりし時期。ドイツの美術評論家フランツ・ローが最初にこの言葉を使ったのが1925年。表現主義の絵画に対する批評の言葉として使われたという。シュルレアリズムを語る際はアンドレ・ブルトンの「シュルレアリズム宣言」は外せないが、出版されたのは1926年。つまり「魔術的リアリズム」の言葉はシュルレアリズムの聖典よりも早く世に出たことになる。そのため、一見すると「魔術的リアリズム」の源をシュルレアリズムに置くのは矛盾に思える。さらに著者によれば、フランツ・ローのいう「魔術的リアリズム」と本書で論じようとするラテンアメリカ諸作家による「魔術的リアリズム」に直接の関係はないそうだ。だが「魔術的リアリズム」の言葉がシュルレアリズムの潮流の中で生まれたことも確か。その系譜に沿うならば、シュルレアリズムが蒔いた芸術の新たなうねりは、確実にラテンアメリカ文学の将来に影響を及ぼすことになる。

そのうねりは、まずラテンアメリカからパリに遊学に来ていた三人の作家に影響を与えた。その三人とはグアテマラのミゲル・アンヘル・アストゥリアス、キューバのアレホ・カルペンティエール、ベネズエラのアルトゥーロ・ウスラル・ピエトリ。著者はこの三人の文学を比較し、その代表作とされる作品を分析する。この三人の代表作のうち、著者が最も高い評価を与えたのはアストゥリアスの「グアテマラ伝説集」。たしか岩波文庫にも収められていたはずだ。では残り二人についてはどうか。ところが著者の評価は冴えない。わたしはピエトリの名を本書で始めて知った。一方カルペンティエールは私の好きな作家の一人だ。さらに言えばここで著者が俎上に上げている「エクエ・ヤンバ・オウ」はかつて私も読んだ。確か関西大学出版部が出していたように思う。わたしの出身校ながら出版物を見かけた事が珍しかったので印象に残っている。だが肝心の内容については作者と同じくピン、と来なかった。著者も「エクエ・ヤンバ・オウ」をカルペンティエールの未熟な時期の作品と一蹴している。

こうなると著者が推す「グアテマラ伝説集」は是非とも読んでみなければなるまい。本書で知った「グアテマラ伝説集」の素晴らしさと先駆性は、わたしを新たな読書欲に駆り立てた。こうやってまだ見ぬ書を知る喜びといったら! 知ることはとても楽しい。学べる幸せは何事にも替え難い。

第二章 魔術的リアリズムの原型

第二章で著者は、ヨーロッパに芽生えた「魔術的リアリズム」がラテンアメリカで花開いたのがなぜか、という問いに答えを出す。それは「豊かな多様性に特徴づけられた統一体としてのラテンアメリカ、そのコスモポリタン性に求められるべき」(47P)であるという。

とはいえ、ラテンアメリカで「魔術的リアリズム」がすぐに花開いた訳ではない。そもそもシュルレアリズムからしてヨーロッパ本国では退潮に向かっていた。ファシズムの台頭とともに。ヨーロッパを引き揚げラテンアメリカに帰った三人の作家も、世界的な戦時色の中これといった作品を残せずにいた。第二次世界大戦とは世界中に戦争の惨禍をもたらしただけでなく、芸術的にも多大なダメージを与えたのだ。

しかし、大戦も終わり、発表の場が閉ざされていた作家たちは戦時中にため込んだ鬱屈を吐き出すように旺盛な創作に励み出す。その一人が第一章にも登場したカルペンティエールである。第二章で著者は主にカルペンティエール「この世の王国」を取り上げる。私もかつて読んだ際に強い印象を受けた。大戦中にカルペンティエールが訪れたハイチ。この地の豊かさに衝撃を受けたカルペンティエールは、重要な知見を手にする。それは「驚異の知覚は信奉を前提とする」事。この一文を著者は特筆する。これは「この世の王国」の序文に記されていたという。なお、だいぶ前に「この世の王国」読んだはずの私は当然のことながらこの一文を忘れていた。ここらへんが大学で文学を教える著者と素人の私の差なのだろう。

カルペンティエールはシュルレアリスムを「驚異的なものの存在を信じぬままに小手先だけで驚異を生み出そうとしていた」(54P)と批判する。その上で、「驚異の知覚と伝達には驚異自体を信じること、さらには基底となる世界観を共有することが不可欠だと論じている」(54P)と説く。カルペンティエールのこの見解は、批評家から批判されたらしい。それでもなお、著者が「この世の王国」をラテンアメリカ文学の重要なマイルストーンとしてあげたのは理由がある。それは著者によると、黒人の奴隷たちによって打ち立てられたハイチの王国を描写するにあたり、西洋人による西洋文化の視点からではなく黒人の奴隷からみた世界を描いているからだ。シュルレアリスムが所詮は西洋文化人の慰み物でしかなかったとすれば、第一章で触れた三人の作家が発表した作品も、西洋文化の視点から描かれたラテンアメリカに過ぎなかったという事だ。著者が指摘するのはこの点だ。「グアテマラ伝説集」の語りの主体は、マヤ・インディオだった。それは著者が「グアテマラ伝説集」を評価する理由の一つ。そして「この世の王国」もまたラテンアメリカからの語りで構成されている。「魔術的リアリズム」がラテンアメリカで発展するにはラテンアメリカ自身からの視点が欠かせない。その事は、著者にとって重要な点と位置付けられているようだ。その道標の一つとして「この世の王国」を外すわけにはいかなかったのだろう。

一方、返す刀で著者は「この世の王国」の限界も指摘している。限界とは、西洋的視点を交えずにラテンアメリカの物語を語ること。カルペンティエールは土着視点からの描写を目指しているが、作品の随所に西洋的比喩が出てくることだ。作中に西洋的比喩が現われる度、読者の知覚からはカルペンティエールの意図したラテンアメリカへの驚異が薄れてゆく。「驚異の知覚は信奉を前提とする」事を説いたはずのカルペンティエールが信奉を前提にできていない事実。ラテンアメリカの驚異を読者に披露する事を企図したはずのカルペンティエール自身が、驚異とは西洋から見た驚異に過ぎない根本の矛盾に気付かなかった時点で、その試みは頓挫するしかなかったのだ。著者の論理の進め方は実に鮮やかだ。

では、ラテンアメリカを語るには、土着の視点での語りを純粋に推し進めればよいのか。そうではないことを、著者はアストゥリアスの「とうもろこしの人間たち」を例に挙げて説く。アストゥリアスは第一章でカッコグアテマラ伝説集」の作者として登場した。「とうもろこしの人間たち」は、マヤ世界観へ極限まで寄り添った作品として描かれた。だがその結果、誰にも理解できない作品になってしまっているという。私はまだ読めていないが。つまりラテンアメリカの「魔術的リアリズム」も、西洋の教養人に読まれて初めて価値が見出される。土着民は小説などそもそも読まないのだから。でも土着民に寄り添いすぎると誰にも理解できなくなる。しかしながらラテンアメリカを西洋の視点から語ると破綻する。その地の文化に完全に密着した小説など、前提から無理だということ。それを悟ったカルペンティエールは「この世の王国」を最後に「魔術的リアリズム」から離れてしまう。

著者は袋小路に至ってしまった理由を、西洋とラテンアメリカを二極で捉えてしまったことに帰する。つまり西洋=先進、ラテンアメリカ=後進という二元化の考えだ。無意識のうちに西洋とラテンアメリカを単純に二分化してしまったことがカルペンティエールの失敗だと著者はいう。

第三章 魔術的リアリズムの隆盛

第三章では、二極化に替わる新たな軸を打ちだした作家の活躍が描かれる。彼らによって「魔術的リアリズム」はいよいよ世界的な隆盛を迎える。ここで紹介されるのは二極化の罠に落ち込まず、次なるレベルへと到達した作品だ。

第三章で取り上げられる作品は「転轍手」「ペドロ・パラモ」そして「百年の孤独」。まず著者は「転轍手」の分析において、前章までの諸作品に見られた西洋とラテンアメリカという対立軸が、正常と狂気という対立軸に置き換わったことを指摘する。つまりカルペンティエールをはじめとした旧来の作品がラテンアメリカを描こうとして失敗した原因が西洋とラテンアメリカの二極化にあったならば、これらの作品は正常から見た狂気を描く事で、ラテンアメリカ小説を対西洋という枠組みからは解き放ち、普遍的な文学として昇華させたのだ。

また「ペドロ・パラモ」では、小説の筋書きを推進する構造にも着目する。その構造とは円環構造にある。それは登場人物達のささやき。そのささやきがさらに次なる事態を引き起こし、作中の人物たちを廻り廻ることになる。著者は、円環構造の真の意義は作品の基調となる非日常的視点を内部に自己生産するところにある(92P)と喝破する。

「百年の孤独」では西洋とラテンアメリカに替わる新たな対立軸を作品内に打ちだすだけでなく、新たな構造も備えている。著者は「百年の孤独」をさらに精緻に分析し、その構造を明らかにする。「百年の孤独」は架空の街マコンドを舞台とした小説だ。多彩な登場人物。創始者、来訪者、町の後継者たちの言動が物語を動かしている。つまりは、語り手が単一ではないのだ。「百年の孤独」を一つの頂点として「魔術的リアリズム」は完成を見る。ではなぜ「百年の孤独」がここまで持てはやされたのだろうか。著者は超自然的出来事が「魔術的リアリズム」の要素の一つであることは承知の上で、ドイツの作家ギュンター・グラスの「ブリキの太鼓」と「百年の孤独」を対比する。「ブリキの太鼓」も超自然的な出来事が頻出する傑作だが、主人公が一人というところに物語展開の限界がある。ところが「百年の孤独」はマコンドに縁のある大勢の関係者が起こす、または関係者に起こる事象を描いている。そのため、多様な視点から魔術的リアリズムが描けるのだ。著者はそれこそが「百年の孤独」の価値である事を説く。そして、その語り手が物語の枠外にいるのではなく、縁ある者を含んだマコンドの世界、それ自体から発信されていることが重要だ強調する。

「百年の孤独」における語りの重要性については私も理解できる。その語りは奇想天外であるばかりか、現実のコロンビアともかけ離れていない。そこに単なるファンタジーではない「魔術的リアリズム」としての「百年の孤独」があると著者はいう。私が今までに読んだ小説のうち、再読したものはあまり多くないが、「百年の孤独」はその一冊だ。なので著者が言及することも理解できる。

本書で著者は、「魔術的リアリズム」の定義を何度か試みる。第三章の締めに置かれる以下の文もその一つだ。

フィクション化によって日常的現実世界を通常と異なる形で提示して「異化」し、同時に、現実世界に起こる、フィクションと見まがうばかりの異常な事件を「平板化」して受容可能にする、一見矛盾するように見える二つのプロセスを同時に達成した時点で、アストゥリアス、カルペンティエール、ルルフォと継承されてきた「魔術的リアリズム」は完成した。「魔術的」=「驚異的」であることと、「リアリズム」=「日常性」が見事に融合した結果こそ、『百年の孤独』にほかならないのだ。(117P)

第四章 魔術的リアリズムの新展開

1967年は、ラテンアメリカ文学にとって一つの頂点となった年だ。「百年の孤独」が世界的ベストセラーとなり、アストゥリアスがノーベル文学賞受賞がした年。第四章で著者は1967年を起点とした「魔術的リアリズム」をあらためて捉え直す。

本書はここまでラテンアメリカ文学の歩みを紹介して来た。だが、第三章までに登場する作家たちに、アルゼンチンのボルヘス、ビオイ・カサーレス、コルタサルといった名前が出て来ない。彼らもまたラテンアメリカ文学を語る上で欠かせない作家のはず。中でもコルタサルは私の認識では「魔術的リアリズム」に属する作家だ。だが著者はこれらの作家を「ラプラタ幻想文学」の範疇に括る。ラプラタとはアルゼンチンを流れるラプラタ川の事に違いない。「ラプラタ幻想文学」とは、アルゼンチンに縁のある作家たちをまとめるための言葉だと理解した。ではなぜ作者は彼らを「魔術的リアリズム」の本流に置かないのだろうか。著者によると「ラプラタ幻想文学」に連なる作家たちの作風は「魔術的リアリズム」とは一線を画するという。その根拠を著者は、現実世界との関わり方に置く。

フィクションの構築によって現実世界への新たな視点を求めた魔術的リアリズムの作家と違って、彼らはフィクションによって現実世界そのものの存在意義を消滅させようとしていた(133P)。

というのが著者が示す理由だ。つまり、語り手の立ち位置がフィクションの外側と内側どちらにあるかの違いと受け取れば良いだろうか。「魔術的リアリズム」の諸作品は、内側世界の共同体の住人として物語を語る。ちょうど「百年の孤独」のマコンドの住人のように。一方「ラプラタ幻想文学」の語り手は読者の側の現実世界から作品を語るといえばよいだろうか。私も好きな短編にコルタサルの「南部高速道路」がある。著者もこの一編を「魔術的リアリズム」に近いと評価する。それでもコルタサルは現実世界に軸足を置き、その視点から異常な世界を書いている。その点が著者の考える「魔術的リアリズム」とは少し違うという事だろうか。

第五章 闘う魔術的リアリズム

著者が「魔術的リアリズム」の正当な後継者として認めるのは「夜のみだらな鳥」だ。私も「夜のみだらな鳥」は読んだ。そしてとても衝撃を受けた。「夜のみだらな鳥」の異常な語り手の本質は、外部からの冷静な語りを一切受け付けないところにある。狂気の世界の内部からの語りにしか、「夜のみだらな鳥」の世界観は作りだせない。

著者は相当数のページを「夜のみだらな鳥」に割いている。「百年の孤独」と同等かそれ以上かもしれない。それだけ衝撃的であり、評論家にとっても挑み甲斐のある対象なのだろう。私自身、「夜のみだらな鳥」を紹介しろといわれても、上に挙げたような文しか書けない。しかし「夜のみだらな鳥」がラテンアメリカの文学において最高峰に位置する作品だということは分かる。私が読んだラテンアメリカの小説などほんの一部にしか過ぎないが、「夜のみだらな鳥」が醸し出す異様な世界観は、世界の文学史においても指折りのはずだと思う。

「夜のみだらな鳥」には多くのページを割いた著者だが、「魔術的リアリズム」を語るにはまだ足りないらしい。著者は、独裁者のモチーフもラテンアメリカ文学の特徴に挙げる。われわれ日本人はラテンアメリカを政治的な紛争が絶えない地域とイメージする。そして名だたる独裁者を輩出した地域としても。ラテンアメリカ文学には独裁者を扱った小説が多々ある。著者はラテンアメリカ文学の三大独裁者小説として「族長の秋」「至高の我」「方法再説」を挙げる。後者二冊は私はまだ読んでいない。が、この他にもバルガス・リョサによる「チーボの狂宴」も読んでおり、独裁者がラテンアメリカ文学に頻出するイメージである事は私にも納得できる。

本章で著者は、独裁者小説についても詳しく分析し、その定義を以下のように示す。

独裁者小説とは何かということにおいて、「魔術的リアリズム」の手法を使いながらも、独裁制を人間的現象として理解する意図が前面に打ち出されている。(177P)

独裁者小説がラテンアメリカ文学の潮流として興った理由を語る上でラテンアメリカ諸国を襲った軍事政権の登場は欠かせない。軍事政権が各国で政権を獲った事は、諸作家の執筆環境にも大きな影響を与えた。文学者は否応なしに政治に密着することになった。

「百年の孤独」の成功の影にはメキシコ政府による文学者を優遇する政策があった。そのことは、メキシコ文化センターという施設が果たした役割として第三章の冒頭で紹介されている。国によって成熟したラテンアメリカ文学は、国による縛りが強まると牙をむく。ラテンアメリカ文学の隆盛によって地位を高めた作家達の反抗は、これらの独裁者小説といって現れたのだろう。特にラテンアメリカの独裁国家といえばキューバは外せない。キューバの作家レイナルド・アレナスについての言及が本章には登場する。アレナスは、ホモセクシュアルとして迫害されたという。そんなアレナスが書く独裁者は、かなり異形だという。この事もラテンアメリカ文学と地域の繋がりを示す点として見逃せない。私はまだアレナスは未読なので、一度読んでみなければと思っている。

第六章 文学の商業化と魔術的リアリズムの大衆化

最終章で著者は「魔術的リアリズム」が商業ベースに乗ってしまった現状に切り込む。もちろん批判的な筆致で。そもそも著者が第二章で指摘したように「魔術的リアリズム」の諸作品は、一部の文学的素養のあるインテリにのみ読まれていた。こういった読者に熱狂的に支持されたが、同じ人々がブームの沈静化に一役買った点も見逃せない。そこで出版社は一般的な読者に対して「魔術的リアリズム」の手法を流用した作品を出版したのだろう。ここに登場する諸作家は私も何冊か読んでいる。その中でもイザベル・アジェンデの「精霊たちの家」は本章でも大きく取り上げられている。著者は「百年の孤独」と「精霊たちの家」を対比し、ラテンアメリカ文学ブーム後の作品の特徴を見極めようとする。著者が違いに挙げるのは、例えば「精霊たちの家」が運命に結実する物語であり、すでに完結してしまった世界であることや、勝ち組の価値観が全編に横溢したステレオタイプな語りの多いこと、である。

それら80年代以降に生まれた「魔術的リアリズム」作品には、一部読者にしか訴えない作品ではなく、コマーシャリズムに乗っていると著者はいう。そして、その事によって一般の読者を獲得した。著者はこれら作家の本質はエンターテインメント性にあり、そちらの土俵で評価されるべきという。

結びで著者は本書で示してきた概観を繰り返す。そして「非日常的視点を基盤に一つの共同体を作り上げ、そこから現実世界を新たな目で捉え直す」(220P)と「魔術的リアリズム」の定義を総括する。残念ながら、本書には他国への「魔術的リアリズム」の影響や、「魔術的リアリズム」の今後の進み方については触れた箇所はない。そこまで筆を進めるところまでは行かなかったようだ。

でも、本書によって今までのラテンアメリカ文学、中でも「魔術的リアリズム」の歩みや特徴が明らかにされた事には変わりがない。また、本書によって私が読んでいないラテンアメリカ文学をたくさん知った。そして「魔術的リアリズム」とは何ぞや、という私がそもそも本書を読むに至った動機も満たせた。本書で著者が語る分析や切り込み方はとても参考になった。よくよく考えてみると、当ブログを書き始めてから、文学論を読むのは初めてのような気がする。今まで文学論など学んだ事のない私。そんな私が全くの独学で書いてい当ブログだが、本書によって新たな視点を身につけられた事も大きい。

できれば本書は購入して座右の書にしたいぐらいだ。そして本書で紹介された諸作品は、既読のものも含めて再読したいと思う。

‘2016/06/04-2016/06/07


製鉄天使


著者の作品の中で「赤朽葉家の伝説」という小説がある。著者の代表作の一つとして知られている。私は著者に直木賞をもたらした「私の男」よりも「赤朽葉家の伝説」のほうが好きだ。鳥取の製鉄家一家の歴史を大河風に描き切った「赤朽葉家の伝説」は、魔術的リアリズムの手法を採っている。

魔術的リアリズムとは20世紀中ごろにラテンアメリカの諸作家によって世界に広められた文学の一潮流で、現実の中に超現実的な描写を織り交ぜて作品世界に奥行きを出す手法といえばよいか。本稿を書く10日ほど前に読んだ寺尾隆吉氏の「魔術的リアリズム」によれば、「非日常的視点を基盤に一つの共同体を作り上げ、そこから現実世界を新たな目で捉え直す」(220P)のが魔術的リアリズムと定義されている。魔術的リアリズムの代表作とも云われるのがコロンビアの巨匠ガルシア=マルケスが著した「百年の孤独」だが、「赤朽葉家の伝説」はまさにそれを彷彿とさせる。私も「赤朽葉家の伝説」を読んだ時は、まさか日本版魔術的リアリズム小説を日本の山陰を舞台で読むことが出来るとは、と感心した記憶がある。

本書はその「赤朽葉家の伝説」と濃厚に関連付いている。舞台は同じく鳥取。「赤朽葉家の伝説」では製鉄業で財を成した一家を三代の女性を軸にして描いている。その二代目である赤朽葉毛毬は、レディースとして暴れまくっていた人物として書かれている。本書はそのエピソードを拡大してスピンオフさせた物語だ。名前は変えられているものの、本書の主人公赤緑豆小豆は「赤朽葉家の伝説」の赤朽葉毛毬と同一人物といえる。製鉄一家の赤緑豆家に生まれた小豆は、鉄を自在に扱うことのできる能力を持っている設定だ。記憶は定かではないが、確か赤朽葉毛毬も同様の能力を持つ人物として描かれていたはず。

赤朽葉毛毬改め赤緑豆小豆が主人公である本書は、鳥取を拠点にレディース、つまり女だけで構成された暴走族の頭として中国地方の制圧に青春を掛ける物語だ。製鉄天使とはそのレディースのチーム名である。

さて、なぜ冒頭で魔術的リアリズムのことを長々と触れたかというと、本書を単なる荒唐無稽なレディース小説と読むと本書の本質を見誤るからだ。語り口や内容は一読すると実に軽い。使われる台詞も乱雑だし、クサい台詞も満載だ。いわゆる大人向け小説ではあまり見られない擬音語も随所に使われている。
「あたしが突っこんだ交差点には、血と涙の雨が降るぜ。何人たりともあたしの走りを止めることはできねぇんだ」(198頁)
「4649号線は、そのときも、きっと、燃えて、いるんだぜい!」(282頁)
夜露死苦と書いてヨロシクとは、ヤンキー文化を現す言葉として良く知られている。本書には夜露死苦という言葉こそ出てこないが、4649号線は何度も出てくる。全編がレディース文化に埋め尽くされ、強調され、これ見よがしにレディースが現実を侵食している。

特異なエピソードや人物達が登場する「赤朽葉家の伝説」において、文体は抑えめでまだ常識側に立っている。しかし本書において著者は、文体すらも常識を捨てることを試しているかのようだ。そして、文体を非常識化するにあたり、著者は格好の題材としてレディース文化に着目した。行き過ぎといえるほどに擬音語やクサい台詞を使っても、それはレディース文化のリアリズムとして物語世界では許される。著者がその点に着眼したことを評価したい。

レディースという時代の仇花文化に焦点を当てた本書を、寺尾隆吉氏の定義に当てはめると以下のようになるだろうか。「レディースという視点を基盤に製鉄天使という一つの共同体を作り上げ、そこから大人の常識世界を新たな目で捉え直す」。つまり、リアリズムに軸足を置きつつ、共同体=レディースの視点を魔術的に拡大したのが本書。私は本書をそう受け取った。

上に「大人の常識世界を新たな目で捉え直す」と書いた。おそらく本書の表テーマは、少女の大人常識への嫌悪だ。本書の中で小豆は、自分が大人になってしまうことへの嫌悪や恐れを抱き続けている。そしてその恐れを振り払うかのように製鉄天使で荒ぶる魂を燃焼させ続ける。が、年を重ねて行く中、小豆にも自分のレディースとしての賞味期限、少女としての寿命を悟るときがくる。小豆がそのことを悟るのは、自分の発する体臭からだ。本書では大人への移り変わりを体臭という言葉で表している。それは生理という体の変化だけではない。体や顔つきが成長するにつれ、周りは子どもとして見てくれなくなる。すると大人社会へ参加しろとの圧力が有形無形で掛かってくる。レディースという活動からも足を洗わねばならない時期が来る。否が応でも社会に呑みこまれてしまう時期が来てしまう。もはやモラトリアムは許されず、社会への何らかの貢献を求められる。

「赤朽葉家の伝説」では、赤朽葉毛毬はレディース卒業後、少女漫画家として名を挙げた。しかし、本書では小豆は漫画家にはならない。本書は次なる夢「財宝探し」へ突き進む小豆の姿で幕を閉じる。「赤朽葉家の伝説」では抑えた文体に合わせて、毛毬の行く末も漫画家という常識的な設定とした。翻って本書では荒唐無稽な文体に合わせて、探検家としての小豆の将来を予感させる設定にしている。大人社会への参加を強制される理不尽に対し、あくまでも非常識の夢を追い続ける小豆の選択もまた、本書の性格を現しているようで面白い。

表テーマとして大人常識社会への嫌悪を扱いつつ、本書はその嫌悪の視点を逆手に取って特異な共同体からの視点として本書を描く。裏テーマとして魔術的リアリズムの手法をさらに進め、荒唐無稽な物語を描きながらもレディース抗争の面白さを前面に出している。本書の持っている構成はそのような裏表のテーマと通俗小説、そして魔術的リアリズムを掛け合わせたユニークなものだ。とても興味深い。

著者は、上に書いたような野心的な試みをしつつも、本書を描くにあたって楽しんで描いていたことは間違いないだろう。1980年代の日本の中国地方を舞台としたレディースという枠組みこそ現実に則っているが、エピソードは好き放題に書ける。物語作者としては腕がなったに違いない。こちらのWebサイトhttps://www.tsogen.co.jp/seitetsu/での著者の出で立ちからも、著者が楽しんで本書を書いたであろうことが想像できる。とても微笑ましい。

‘2015/6/19-2015/6/19