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終わりの感覚


正直に言う。本書は、読んだ一年半後、本稿を書こうとしたとき、内容を覚えていなかった。ブッカー賞受賞作なのに。
本稿を書くにあたり、20分ほど再読してみてようやく内容を思い出した。

なぜ思い出せなかったのか。
それにはいろいろな原因が考えられる。
まず本書は、読み終えた後に残る余韻がとてもあいまいだ。
それは、主人公のトニーが突きつけられた問いへの解決が、トニーの中で消化されてしまうためだと思う。トニーはその問いへの答えを示唆され、自ら解決する。その際、トニーが出した答えはじかに書かれず、婉曲に書かれる。
そのため、読後の余韻もあいまいな印象として残ってしまう。

また、本書は提示された謎に伴う伏線が多く張られている。そのため、一つ一つの文章は明晰なのに、その文章が示す対象はどこかあいまいとしている。
この二つの理由が、私の記憶に残らなかった理由ではないかと思う。

人はそれぞれの人生を生きる。生きることはすなわち、その人の歴史を作っていくことに等しい。
その人の歴史とは、教科書に載るような大げさなことではない。
歴史とは、その人が生きた言動の総体であり、その人が人生の中で他の人々や社会に与えた影響の全てでもある。

だが、人の記憶は移ろいやすい。不確かで、あいまいなもの。
長く生きていると幼い頃や若い頃の記憶はぼやけ、薄れて消えてゆく。

つまり、その人の歴史は、本人が持っているはずの記憶とは等しくない。
本人が忘れていることは記憶には残らず、だが、客観的な神の視点からみた本人の歴史としてしっかりと残される。

過ちや、喜び、成し遂げたこと。人が生きることは、さまざまな記録と記憶をあらゆる場所に無意識に刻みつける営みだ。

自分のした全ての行動を覚えていることは不可能。自分の過去の記憶をもとに自らの歴史をつづってみても、たいていはゆがめられた記憶によって誤りが紛れ込む。
自分の自伝ですら、人は正確には書けないものだ。

本書の最初の方で、高校時代の歴史教師との授業でのやりとりが登場する。
「簡単そうな質問から始めてみよう。歴史とは何だろう。ウェブスター君、何か意見は?」
「歴史とは勝者の嘘の塊です」と私は答えた。少し急きすぎた。
「ふむ、そんなことを言うのではないかと恐れていたよ。敗者の自己欺瞞の塊でもあることを忘れんようにな。シンプソン君は?」
と始まるやりとり(21-22p)がある。
そこで同じく問いに対し、トニーの親友であるフィンことエイドリアンは、以下のように返す。
「フィン君は?」
「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信である」(22p)

さらに、その流れでフィンことエイドリアンは、同級生が謎の自殺を遂げた理由を教師に問いただす。
そこで教師が返した答えはこうだ。
「だが、当事者の証言が得られる場合でも、歴史家はそれを鵜呑みにはできん。出来事の説明を懐疑的に受け止める。将来への思惑を秘めた証言は、しばしばきわめて疑わしい」(24p)
著者はそのように教師に語らせる。
これらのやりとりから読み取れるのは、歴史や人の記憶の頼りなさについての深い示唆だ。

長く生きれば生きるほど、自分の中の記憶はあいまいとなる。そして歴史としての正確性を損ねていく。

トニーが学生時代に付き合っていた彼女ベロニカは、トニーと別れた後、エイドリアンと付き合い始めた。ベロニカの両親の家にまで行ったにもかかわらず。
そのことによって傷ついたトニー。エイドリアンとベロニカを自らの人生から閉めだす。
その後、エイドリアンが若くして死を選んだ知らせを受け取ったことによって、トニーにとって、エイドリアンとベロニカは若い頃の旧友として記憶されるのみの存在となる。

トニーはその後、平凡な人生を歩む。結婚して娘を設け、そして離婚。
40年ほどたって、トニーのもとにベロニカの母から遺産の譲渡の連絡が届く。そこから本書の内容は急に展開する。
なぜ今になってベロニカの母から遺産が届くのか。その手紙の中では、エイドリアンが死とともに手記を残していたことも書かれていた。

再会したベロニカから、トニーは不可解な態度を取られる。ベロニカが本当に伝えたいこととは何か。
トニーは40年前に何があったのか分からず困惑する。
エイドリアンの残した手記。ベロニカの謎めいた態度。
突きつけられたそれらの謎をトニーが理解するとき、自らの記憶の不確かさと若き日の過ちについて真に理解する。
かつて、高校時代に歴史の教師とやりとりした内容が自分のこととして苦みを伴って思い出される。

本書は、人の記憶の不確かさがテーマだ。長く生きることは、覚えてもいない過ちの種を生きている時間と空間のあちこちに撒き散らすこと。
エイドリアンのように若くして死んでしまえば過ちを犯すことはない。せいぜい、残した文書が関係者によって解釈されるくらいだ。
だが、長く生きている人が自分の全ての言動を覚えていられるものだろうか。

私も今までに多くの過ちを犯してきた。たくさんの後悔もある。私が忘れているだけで、私の言動によって傷つけられた人もいるはずだ。
50歳の声が聞こえてきた今、私の記憶力にも陰りが見え始めている。一年半前に読んだ本書の内容を忘れていたように。

誰もが誠実に、過ちなく生きていたいと思う。だが、過ちも失敗もなく生きていけるほど人の記憶力は優れていない。私も。これまでも、この先も。
過去と現在、未来に至るまで、私とは同じ自我を連続して持ち続けている。それが世の通念だ。だが、本当に私の自我は同じなのだろうか。その前提は、本当に正しいのだろうか。
本稿を書くにあたって改めて読み直したことで、そのような思いにとらわれた。

‘2020/01/01-2020/01/03


旅猫リポート


久々に著者の本を読んだ。本書は猫が主役だ。

冒頭から「吾輩は猫である」を意識したかのような猫の一人称による語りから始まる。そこで語られるのは、猫の視点による飼い主とのなれ初めだ。猫にとっては自らを養ってくれる主人との出会いであっても、そこに猫によるおもねりはない。飼われてやった、とでもいいたげに。自我と自尊心を持つ猫による、猫ならではのプライド。しょっぱなから、猫の心を再現したような描写が思わず読者の頬を緩めさせる。猫好きならばなおさら本書の出だしにはぐっと心をつかまれることだろう。ああ、猫やったらこんな風に考えそうやな、とか。

ナナ、が本書の語り手だ。旅する猫。ナナは五年前、冒頭でナナによって語られたようななれ初めをへて、優しそうな主人ミヤワキサトルの飼い猫となる。今、サトルにはナナを手放さねばならない理由が生じてしまった。

本書のタイトルにもある「旅」とは、ナナとナナを託せる相手を探すサトルの旅のことだ。サトルの小学校の時の親友コースケ、中学校の時の大切な友達ヨシミネ、高校時代に微妙な三角関係を作ったスギとチカコ。彼らはサトルにとってナナを託すに足る人々だ。彼らを訪問し、ナナを預けられないかをお願いしつつ、サトルの人生を旅する一人と一匹。その旅をナナの視点でリポートするのが本書の内容だ。旅をする猫によるリポートだから「旅猫リポート」。

まず小学校時代。サトルは小学校の修学旅行で京都を訪れている間に両親を交通事故で失う。その時にサトルが飼っていた猫がハチ。両親を失ったことでハチを遠縁の親戚に預けざるを得なくなった。それからのサトルは両親を喪失した心の傷を繕いつつ、離ればなれになったハチを案じつつ生きてきた。コースケこそが、一緒にハチを拾った親友であり、大きくなった今は写真館の店主として切り盛りしている。

中学時代の親友はヨシミネだ。両親のいないサトルにとって、両親からの愛を得られずにいたヨシミネとの絆は大切だった。そんな日々を懐かしむ二人がナナの視点で描かれる。サトルがナナにそそぐ愛情の源が感じられるシーンだ。

高校時代によくつるんでいたのはスギとチカコ。彼らは結婚し、富士山のふもとでペットが泊まれるペンションを営んでいる。結果として結ばれたのはスギとチカコだが、サトルとチカコの間に恋が生まれていたかもしれない。そんな思い出を描くのは著者の得意とするところ。また、ここでは犬と猫どっちが好き?というおなじみのテーマが語られる。なぜならスギは犬派でチカコは猫派だから。

小学校、中学校、高校とサトルは大切な友人との旧交を温める。だが、彼らにはナナを託せない。コースケは家を出た奥さんを呼び戻すためナナを飼いたがるが、それを察したナナがゲージから出てこない。ヨシミネの飼い猫とは相性が悪く、スギとチカコのペンションにいる飼い犬とは相性が合わず、ナナを託せる相手は見つからない。だが、サトルがかつて結んだ人生の絆は再び温められて行く。彼らとのエピソードにはサトルとハチのその後が語られ、その思い出がナナとの旅によって思い出させられる。少しずつ、サトルがどうしてナナを飼えなくなったのかが明かされていく。そのあたりのさじ加減は絶妙。

最後にサトルとナナは北海道へ渡る。ここにサトルの両親は眠っている。墓参りを済ませる二人。墓は人が最後に辿り着く場所だ。北海道もまた、サトルにとって最後の場所となる。そこでサトルは叔母のノリコと最後の日々を過ごす。それはナナにとってもサトルとの最後の日々になる。

サトルとの旅の間、ナナがみたさまざまな景色が記憶に蘇る。ナナはサトルの病院から動かず、ただサトルのそばにいる。犬に比べて薄情と言われることの多い猫に、ナナのような感情はあることを著者は訴えたいかのようだ。とても感動させられる。

本書を読み、一カ月前に亡くなったチワワの風花のことを思った。そして残されたヨーキーの野乃花のことを思った。はじめて私が本格的に飼った犬が風花だ。風花を肩に載せたまま町田の駅前をともに闊歩した日々。北海道の幸福駅で行方不明になりかけて探し回った思い出。今の家に引っ越してすぐに2週間行方不明になり探し回った日々。

風花が亡くなってから、野乃花が私にべったりくっつくようになった。そして本書を読んだ数日後、私は野乃花を連れて八王子の金剛の滝に向かった。ここで野乃花と二人で山を歩き、滝を見た。野乃花に心があれば、滝を見ながら何を思うんやろうかと思った。旅猫リポートならぬ、滝犬リポートやな、とひとりごちた。そして野乃花や風花もナナのようにいろいろな心を持ちながら飼われていたんやろうな、と思った。本書を読むまで、私は本当に犬の立場で考えることがなかった。じっとこちらを見つめてくる時、犬には確かに感情がある。そして心がある。それは多分、猫も。

本書を読むと、犬猫の気持ちが少しは理解できるような気持ちになる。

‘2017/08/07-2017/08/08