Articles tagged with: 高天原

イマドキ古事記 スサノオはヤンキー、アマテラスは引きこもり


旅が好きな私。日本各地の神社にもよく訪れる。
神社を訪れた際、そこに掲げられた由緒書は必ず読むようにしている。
ところが、その内容が全く覚えられない。特に御祭神となるとさっぱりだ。

神代文字に当てた漢字の連なりも、神の名前も、神社を出るとすぐに忘れてしまう。
翌日になるとほとんど覚えていない。
そんな調子だから、いまだに古事記の内容を語れない。
何度も入門書や岩波文庫にチャレンジをしているのだが、内容が覚えられないのだ。

結局、私が覚えている事は、子供向けの本に出るような有名な挿話をなぞるだけになってしまう。
いつも、旅に出て神社を訪れる度に、何とかして古事記を覚え、理解しなければ、と思っていた。

そんなところに、妻がこのような本を買ってきた。タイトルからしてクダけている。
クダけ過ぎている。
スサノオはマザコンのヤンキーだし、アマテラスは引きこもりでしかもロリ巫女。因幡の白ウサギはバニーガールで、海幸山幸はねらー(5ちゃんねるの住人)だ。

文体もそう。砕けている。
私はあまりライトノベルを読んでいないが、ライトノベルの読後感は、多分こんな感じなのだろう。
折り目正しく端正な日本語とは無縁の文体。
ネット・スラングを操り、SNSを使いこなす神々。
かなりはっちゃけている。今の若者風に。
それがイマドキ。

でも、イマドキだからいいのだ。

暴れ狂うスサノオも、古事記に書かれる姿は何やらしかつめらしく武張っている。威厳ある神の姿。
だが、暴れ狂う姿は、成人式で傍若無人の所業に狂うヤンキーと変わらない。しかも母のアマテラスへの甘えを持っているからたちが悪い。
スサノオにサジを投げ、天の岩戸に隠れたアマテラスも、見方を変えれば、ドアを閉め切った引きこもりと変わらない。

文化、文明、言葉。そうしたものが古めかしいと、権威を帯びてしまう。
そして、古典としてある種の侵しがたい対象へと化ける。

だが、同じ時代を生きた神々が見た身内とは、案外、今の私たちがSNSに一喜一憂し、仕事にレジャーに家庭に勤しむ姿とそう変わらないように思える。
「いまどきの若いものは」と愚痴る文句が古代の遺跡から見つかった、と言う話はよく聞く。
このエピソードは、今も昔もそう変わらない事実を私たちに教えてくれる。
結局昔も同じなら、日本人の祖先を描いた古事記も同じではないか。

神々の行いを全て神聖なものと見なし、全てに深淵なる意味を結びつける場合ではない。
そうした行いは、見る神から見れば、単なる甘えた駄々っ子の振る舞いと変わらない。そう気づいた著者は偉い。
神々とはいえ、今の人間とそう変わらないのでは。そう見直して書き直すと本書が生まれ変わるのだろう。

古事記と名がついていても、やっている事は、今の私たちの行いとそう変わらない。
なら、いっそのこと今風の文体や言葉に変えてしまえ。

そうして、全編が今風な文体と言葉で置き換えられた古事記が本書だ。

本書の内容は古事記の内容とそう変わらない。
ただし、その内容やセリフが大幅にデフォルメされ、脚色されている。
そのため、圧倒的に読み進められる。

まず、あの古めかしい言葉だけで古事記を遠ざけていた向きには、本書はとっつきやすいはずだ。
上に書いた通り、古事記といっても難しいことはなく、ただ神々の日々を少し大げさに描いただけのこと。
それが本書のようにイマドキに変えられると、より親しみが湧くだろう。

ただ、古事記の内容は簡潔だ。
そして登場する神の心象も詳しく描かれることはない。
著者はそれを埋めようと、イマドキのガジェットで埋め尽くす。
それによって現代の若者には親しみが湧くだろう。

だが、ガジェットも行きすぎると、肝心のシナリオを邪魔してしまう。
ライトノベルを読み慣れていないからだろうか。
イマドキの表現に目移りして、肝心の筋書きが頭に入って来にくかった。
それは著者のせいでなく、そうしたイマドキの表現に印象付けられた私のせいなのだが。

これはライトノベルを読み慣れた読者にとって、どうなんだろう。
慣れ親しんだ表現なので、帰って筋書きは頭に入ったのだろうか。
若者が古事記に関心を持ってもらえるなら、私一人が惑わされても大したことではないのだが。

古事記とは、日本創世神話だ。
ナショナリズムを今さら称揚するつもりはないが、古事記に込められている物語の豊かさは、注目しても良いはずだ。
ましてやそれが1700ー2000年の昔から語り継がれて来た。
これだけ豊穣な物語。大陸やユダヤの影響があったとしても荒唐無稽とはいいきれないが、それが昔の日本で編まれたことは事実だから。

だから日本はすごい、とかは考えなくても良い。
けれど、日本人であることを卑下する必要もないと思う。
そうした物語の伝統が今もなお息づいていることを、本書を読んだイマドキの方が感じ取ってくれればと思う。

本書は著者が東北芸術工科大学文芸学部に在籍している間、授業の課題から産まれたそうだ。自由で良いと思う。
温故知新というが、若い人たちが古い書物に新しい光を与えてくれることはよいことだ。

‘2018/10/28-2018/10/29


鹿島の旅 2018/7/14


思い立って鹿島に行ってきました。なぜ鹿島か。それは数日前に読んだ本がきっかけです。その本のタイトルは「本当はすごい!東京の歴史」です。その本で著者が唱えているのは、鹿島や富士山を中心とした東国から日本の文明が始まったとの説です。日本の東征神話には実は前段階があり、高天原は鹿島にあった。東征を行った神々は、鹿島を出て高千穂へ至り、高千穂を出て出雲を攻め、ついで大和へ向かったのではないか。著者が唱える説はかなり斬新。真偽はともかく、新鮮な意見といえましょう。

鹿島神宮と富士山と伊勢神宮が二等辺三角形を作っているとの著者の仮説は、私に強い印象を与えました。伊勢神宮といえば日本第一の宮。そのことに異論はありますまい。ですが、本書の説を信ずるなら、鹿島神宮にも同等の評価を与えるべきなのです。鹿島は藤原氏の祖である藤原鎌足の出身地として知られています。ところが、ご承知のとおり、藤原鎌足といえば奈良の飛鳥のイメージ。古代にあって鹿島から奈良に出て栄達を果たすことは容易ではなかったはず。ところが、鹿島が当時の我が国にあって有名な地として認識されていたとすれば、藤原鎌足の栄達にも合点がいきます。その後に千数百年の藤原氏の栄華すら、鹿島とからめることで謎が解けそうです。その他、この本から得た気づきについてはブログに書きました。

鹿島に行こうと思った逸る気持ちを実行するため、車が使える日を選びました。それが7/15。時間を有効に使うためには、早朝に現地に居るのが望ましい。そこで私は前の晩から家を出発しました。東名から首都高、東関東自動車道を経由して鹿島へ。成田から先は私にとって初めて訪れる地。せっかくなので、パーキングエリアやサービスエリアに全て寄りました。なにしろ時間はたっぷり。

鹿島につきましたが、夜なので街並みの様子はよく分かりません。ただカーナビに導かれ、鹿島神宮へと。ところが、鹿島神宮の参道と思われる道路には全く人通りがありません。石畳と妙に静まり返った沿道が、かろうじてここが門前町である事を教えてくれます。

それにしても夜とはいえ、この静けさはなんでしょう。神社の参道といえば、門前に屋台が軒を並べる光景が思い浮かびます。たとえ深夜でも仕舞われた屋台が路上に置かれ、それまでの雑多な雰囲気がどこかに漂っているはず。ところがこの参道には一部の隙もありません。整然としています。私にとって、この静けさは予想外でした。たまに車が通るほかは、人も通らず、開いている店もなく真っ暗です。参道からすでに神域の厳かさに満ちている。それは私の中に鹿島神宮への崇敬を呼び覚ましました。

その静けさに甘えるように、私は大鳥居のすぐ近くに車を停めました。そして大鳥居から楼門までのわずかな距離をしばらく散策しました。大鳥居を越えるとすぐ、手水舎があり、夜にも水が湛えられています。そこからみた楼門はライトアップされており、とても荘厳な雰囲気をかもし出していました。

静まりかえった神社の暗がりには、気合のこもったかけ声が響いてきます。剣道の稽古でも行われているのでしょうか。森の奥から聞こえてくる裂帛の気合い。夜のしじまの神域に響く武の音。古くからの武道の聖地である鹿島神宮の重みが迫ってきます。
神域の 暑き夜を裂き 鬨の声

楼門の向こうへも入れましたが、私はここで踵を返しました。武道の気合に気圧されたと言ってもよいでしょう。やはり、神社は昼のうちに参拝するのがよろしかろう。明日、陽の光の下であらためて参拝しよう、と。

さて、せっかく誰もいない夜道を堂々と歩けるのですから、もう少し鹿島の街を見てみたいと思いました。次に私が向かったのは鹿島神宮駅です。鹿島神宮駅は初めての訪問。ですが、私にとって初めてのような気はしません。鹿島神宮行きと言う電車を総武線の行き先表示でよく見かけるからでしょうか。夜の静けさの中にたたずむ鹿島神宮駅は、ひなびた雰囲気ではなく、郊外の閑静な駅として私の前にありました。せっかくなので駅前を歩きました。そして、鹿島神宮の参道へと至る坂道の途中にある塚原卜伝の像を訪れました。夜なので、あまりよく見えませんでしたが、剣豪が威厳のある姿で街を見守っています。前日に読み終えた「塚原卜伝」の印象が鮮やかに私の中に立ち上がります(レビュー)。

さて、そろそろ宿を探さねばなりません。今回の旅は、最初から車中泊のつもりでした。問題はどこに車を泊めるか。当初は、鹿島神宮の門前町のどこかに車が停められないかと思っていました。ところが、あてにしていたクラフトビールのお店は臨時休業。であればお酒は別の場所で飲もう。せっかくなのでもう少し場所を変えてみようと思いました。

その前に、夜の鹿島の街をドライブしました。最初の訪れたのは高天原の地。「本当はすごい!東京の歴史」に紹介されていたのが、鹿島には今も高天原があるとの情報。地図を見ると確かにそうした住所が存在するようです。実際、私が見た住居表示には確かに〝高天原◯丁目〝の文字が。本に書かれていた事は本当でした。少し感動した私。鹿島が日本の歴史の発祥の地なのかもしれないとの本の主張に真実味が増します。

その勢いで向かったのはカシマサッカースタジアム。夜の暗闇の中にライトアップされたスタジアムの姿はとても壮麗。まゆのような丸みを帯びた外観が堂々としています。私はしばらく、じっくりとその姿を目に焼き付けました。そして駐車場にも車を乗り入れ、さらに近くからスタジアムに見とれます。駐車場にはカブトムシを採っているとおぼしき親子の姿も見えます。

そろそろ、腹ごしらえもしなければ。そう思った私が訪れたのは「ばんどう太郎」。茨城県では有名なお店で、かつて家族で袋田の滝に行った帰りに立ち寄りました。ところが残念なことに、私が訪れたとき、ラストオーダーの時間を少しすぎてしまいました。替わりに私が訪れたのは近くの「ちゃあしゅう屋 鹿嶋店」。茨城のラーメン事情を知るため、チェックインしました。すでにタブレットの充電がやばく、お店で充電させてもらいながら。

そして私は今夜の寝床を探すため、次なる場所へ向かいました。私が向かったのは鉾田です。今回の旅では、私のいろんな趣味の巡りもするつもりでした。なので、関東の駅百選に選ばれながら、すでに廃駅となって久しい鹿島鉄道の鉾田駅を訪れてみようと思いました。北潟湖畔をひたすら北上します。途中、セイコーマートを発見し、珍しいアルコール類を何本か買い込みました。セイコーマートと言えば北海道。そんなイメージが強いですが、茨城にも店舗がある事は知っていました。一人旅でセイコーマートに出会えるとはうれしい限り。

しばらくして夜の鉾田に到着。ところが、鉾田の駅には何もありません。なぜかビッグエコーのお店だけがこうこうと明かりを点している他、開いているお店は全くありません。車も好きに止め放題。かつて、住居か店舗があったであろう空き地が駅の真ん前にあり、そこに車を止めさせてもらいました。ビッグエコーで一人カラオケをしながら、朝を迎えられればよかったのですが、あいにくなことにお店は夜中の2時に閉まってしまう模様。なので私は車中泊を敢行します。

夜、たまに通る車の音。暑苦しいため開け放しの窓から車内に侵入し耳元で羽音を立てる蚊。これらに妨害されながら、私は眠れぬ一夜を過ごしました。
百選の 駅跡の闇 車中泊


本当はすごい!東京の歴史


数多くの本を読んでいると、本の内容に感化されて旅に出ることも二度や三度ではない。本書を読んだ際もそう。本書を読んですぐ、私は鹿嶋神宮を訪れた。

結果としては、本書を読んだことでよい気づきが得られた。ところが当初、本書の内容には期待していなかった。本書を読んだ理由はただ単に長年住み、仕事の場としている東京のことをより知ろうと思っただけに過ぎない。それに加えて本書を読み始めたとたん、関東こそが日本の文化や歴史の起源であるという主張が飛び込んできたのでさらに鼻白んでしまった。本書を読み始めた頃、私は本書を眉に唾を付けて読んでいた事を告白する。

私は西日本の生まれだ。両親ともに福井をルーツとしている。福井の病院で産声をあげ、両親が家を構える甲子園に移ってからは、二十数年を過ごした。家のすぐ近くにはタイガースと高校野球の聖地である甲子園球場が控ええ、うどん、タイガース、関西弁、粉モンの文化にどっぷり浸かって育った。そうした文化を生み出した関西が日本文化の揺籃の地と信じて疑わなかった。飛鳥の都からから難波宮、平城京、恭仁京、長岡京、平安京、福原京。歴代の都はすべて関西にあり、そこで栄華を誇って来た。仁徳天皇陵や大阪城は今も雄大な姿を見せ、関西の文化的な豊饒さを象徴しているかのよう。

そうした土壌に育った上、歴史の授業でも日本史の舞台が関西であることを学ぶ。連綿と続いてきた日本の歴史の積み重ね。その地に住んでいると、文化や伝統を日常のものとして無意識に受け取って育つ。そうして、日本の文化や歴史の主流が関西にあるという観念が定着してゆく。

ところが本書は日本の歴史を東国から捉え直す。日本書記に書かれた神々の国産み神話を除けば、そもそも日本の歴史とは高天原から天孫降臨した神々の裔が高千穂から東へ征服に向かったことに端を発する。本書はその高天原こそが鹿嶋にあったという。実際に鹿嶋には今も高天原という地があるという。私も本書を読んですぐ、実際にその地を確認してきた。実際に高天原という地名をみて、思わず感動してしまった。

本書を読むまで、私は鹿嶋に高天原があることを知らなかった。ところが本書からその事実を教えられ、わが目でも目撃した。ということは、高天原が鹿嶋にあった、つまり日本のそもそもが東から興ったと説く本書の記述にも信ぴょう性が感じられる。あながちトンデモ説とはいえないのだ。

そうなると、弥生や縄文といった時代区分の由来が東京にあることも、本書の主張を補強しているように思える。巨大遺跡といえば仁徳天皇陵や羽曳野のあたり、奈良盆地のそれが頭に思い浮かぶ。だが、東京にも遺跡は多く点在している。さいたまの古墳群や大森貝塚に代表されるように。それはすなわち、当時の東国に人口が多かったことの証拠でもある。

人口が多かった事実は、文明の発展にも関係する。その時、富士山の存在が人々の信仰心を向かわせたことも否定する論拠は見当たらない。著者は富士山を天上、つまり高天原と見立てる。富士山が見える範囲で東の端に位置するのが鹿嶋神宮、西の端に位置するのが伊勢神宮という新鮮な論が展開されるが、それにも説得されそうになる。平安時代に編まれた延喜式神名帳では、神宮の名が付く神社は伊勢神宮、鹿嶋神宮、そして香取神宮の三つしかないとか。香取神宮も鹿嶋神宮に近い場所にある。その二つの神宮が鎮座する地こそ常陸の国。つまり常世の国だ。そしてそれらに共通するのは富士山が見える範囲にあるということ。

本書の中心的な論点は、富士山にある。富士山こそは宗教的なシンボルでもあり、古来から高天原に擬せられてきたのではないかと著者はいう。富士山こそは西日本にはない日本のシンボル。著者の論の芯を貫くこの事実は揺るぎない。

ところが、本書で著者が唱える説には2つ大きな難関がある。一つは、なぜ東征軍が出雲を攻め、大和に入るにあたり、鹿嶋から高千穂を経由する道筋をたどったのか、という疑問。もう一つはなぜ古代と中世までの東国は、本邦の歴史では脇役に過ぎなかったのかの理由だ。

最初の点について著者は、当時の出雲に大国主命系の勢力があり、その巨大な勢力を最初に征服するため、九州から上陸したのではないかと説く。そこで重要になるのが鹿嶋と鹿児島の地名の相似だ。鹿島立つという言葉があるように鹿島から出立した東征軍が、高千穂に向かう際にまず上陸したのが鹿児島ではないか。その二つの地名には共通する語源が隠れているのでは、という著者の論にも蒙を拓かれた思いだ。

ただ、もう一つの難関について、著者は説得力のある論点を提示していない。まさにそれこそが重要なのに。この点こそ、私が本書で一番残念に思った点だ。

だが、理由はなんとなく想像がつく。古来から富士山が何度も噴火してきたことは周知の事実だ。地震もそう。つまり、日本のシンボルであるはずの富士山はシンボルでありながら、東国にとっては天変地異の象徴だったのだ。降り積もる火山灰や地震による災害。東国は文化や歴史の伝統となるには、あまりにも天災に苦しめられすぎてきたのだ。それが、東国を文化や歴史の中心から遠ざけたのではないか。ところが本書では関東ローム層の由来には触れていながら、富士の噴火による天災の被害については全く触れていない。なぜ著者がその点に触れなかったのか理解に苦しむ。私のような素人でも簡単に思いつくのに。

関東が東征の出発地だったと言う論点は新鮮。とても勉強になる。なのになぜ富士山の噴火や関東で頻発した地震には触れなかったのか。その理由は全く分からない。本書と著者のためにも惜しいと思う。

本書は、以降の各章でも東国の歴史を描き出す。古墳の時代、中世、武士の活躍した平野の様子。家康によって開発された首都としての江戸と、世界一の規模を誇る都市に繁栄した江戸。幕末の動乱をへて、天子を擁して文字通り日本の首都となった東京から現代の東京の様子までを概観する。

著者は東国を持ち上げながら、今の世界的な大都市となった東京については非常に厳しい。都市計画の失敗や、西洋を真似たような街づくりの思想など、今の東京に対する不満をつらつらと列挙する。都市としての繁栄を極めたかに見える今の東京は、著者にとっては逆に不満の対象であるところが面白い。

つまり、著者にとっては西日本に対する東日本の優位を示すといった瑣末な事はどうでもよいのだ。本書は日本の文化や歴史の発端が東にあったことを主張することに本旨がある。従来の定説とは違い、世間にはまだまだ受け入れられていない著者の説。それを世に問わんとする著者の意志は分かる気がする。そして著者の意志を割り引いても、本書で書かれた内容からは著者が自らの論を主張するための牽強付会の匂いは漂ってこない。それは本書のためにも擁護しておきたい。

だからこそ、藤原氏の初代鎌足が鹿嶋の出身だったことや、平泉で武家の文化が栄えたこと、鎌倉に幕府が開かれたことなど、歴史の所々で東が西を凌駕した理由にも納得がいく。さらに、水戸光圀が大日本史の編纂事業をしじし、それが幕末には尊王攘夷の先鋒としての水戸藩の存在感の発揮につながったことなど、日本の歴史の要所に常陸が登場することに得心がいく。日本の伝統を復興しようするうねりが鹿嶋神宮の近隣から起こったことは、そうした伝統に立脚した故あることなのだろう。鹿嶋の土壌で育った尊王攘夷の思想を薩摩、つまり鹿児島が受けつぐ。そんな著者の指摘する因果すら、こじつけには思えなくなる。

このように、本書が示す気づきは実に豊かだ。私は本書によって鹿嶋神宮を訪れなければならないと思い、すぐに実行した。ただ、本書の内容が実りあればあるほど、東京には根本的な都市としての欠陥があるように思えてならない。その欠陥とは、天災に弱いという一点に尽きる。著者が意図したのかどうか分からないが、その事実が本書からは綺麗に抜けている。ある時期から江戸を中心とした東国は、日本の歴史の中で傍流に置かれる。その理由こそ、度重なる天災にあったことは間違いないはずなのに。

公平を期する上でも、そのことにはぜひとも触れて欲しかったと思う。なぜなら、今の繁栄を謳歌する東京は間もなく潰えようとしているからだ。東海地震、首都圏直下型地震、富士山噴火。リスクは山積みだ。世界の首都の中でも飛び抜けて天災に弱いとされる東京。その事実は、住民の一人として見据えておかねばならないはず。なぜ、東京はこれだけの平野を擁しながら、日本の歴史では長らく坂東の地として辺境扱いされていたのか。その理由を世に知らしめる絶好の本こそ本書なのに。

現代の東京が天災の危険の上に薄皮一枚で乗っている。その事実はいまさら変えようもない。とはいえ、本書が示すように鹿嶋神宮が歴史で演じた重要性はいささかも薄らぐことはないはず。むしろ、鹿嶋神宮はもっともっと世に広く知られなければならない。私はそう思う。実際、鹿嶋神宮や剣術の達人である塚原卜伝のお墓など、鹿嶋を訪れたことはとてもよい経験と知見になった。その際、香取神宮に行かれなかったことが心残り。なので、もう一度行きたいと思っている。本書を携えて。

‘2018/07/09-2018/07/13