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昭和天皇の終戦史


岩波書店は、注意深く覆い隠しているが、どちらかと言えば左寄りの論座を持っている。もちろんそれは悪いことではない。
本書のタイトルから推測するに、昭和天皇の戦争責任についてある程度は言及し、認めているであろうことは予想していた。

昭和天皇が崩御して間もない時期に発見された昭和天皇独白録。敗戦後すぐの時期に内々で語られたというこの独白録が発見された時、新聞で一面に取り上げられたことを私は見た覚えがある。
本書はこの独白録の成立までの過程や、その内容などを取り上げている。著者は、この独白録が「平和のために苦悩する天皇」という先入観につながることを危ぶんでいる。著者は軍国とリベラルの二元で終戦史を捉えることに反対する立場だ。

私は、昭和天皇は一点の過ちも曇りもない、いわゆる聖人君子だとは思っていない。結局、すべての歴史上の人物と同じ、歴史の波に翻弄された方だと思っている。巨大な歴史の渦に抗おうと、懸命に努力し、あわや最後の天皇として名を残すところまで追い詰められた方だと。

判断を誤った局面もあった。逆に日本をそれ以上の破滅から救った英断もあった。
終戦の際、御前会議で聖断を下したことも昭和天皇の本心だったと思う。勝者として進駐してきたGHQのマッカーサー司令官に会った際、私がすべての責任を取るといった言葉も紛れもなく本心からの言葉だったと思う。緒戦の戦果に喜んだのも事実だろうし、開戦が決断される御前会議において明治天皇御製の句を詠んで深い憂慮を示したのも事実だろう。
一人の人間が担うにはあまりにも大きな重荷を背負ったのが昭和天皇。その逆境に耐え、日本の戦後の復興に導いたのも昭和天皇。実に英明な人だったと思う。昭和天皇がこの時、日本の天皇でよかったとすら思っている。

理想主義に燃え、軍国主義に対抗する天皇だったら、軍部の若手将校に退位させられていただろう。悪くすれば幽閉や暗殺さえあったかもしれない。
逆に愚昧な方だったとしたら、聖断もくだせなかっただろうし、GHQの協力も得られぬまま日本は共産主義に赤く染まっていたかもしれない。日本はもっと破滅的な未来を迎えていた可能性だってあった。

賢明でバランスのとれた方であったため、自らの置かれた政治的な立場やよって立つ体制の仕組みや限界もわかっていたはずだ。また、帝王学を学んでいたので、国際関係や地政学もある程度は身につけていたと思う。その上で世論の右傾化や軍の強硬な態度も把握していたことだろう。
その一方、ひと時の衝動で千数百年と続いた王朝を自らの代で終わらせられないとの危機感も強く抱いていたはずだ。

著者が描く昭和天皇のイメージとは以下の文に表される。

「天皇自身は、国家神道的国体観念をふりかざす「精神右翼」や「観念右翼」を一貫して忌避し、そうした勢力の政治的代弁者とみなされていた平沼騏一郎や「皇道派」系の将軍に対しては、終始批判的な姿勢をくずさなかった。
しかしそのことは、天皇が国体至上主義から少しでも自由であったことを意味しない。むしろ天皇は、「皇祖皇宗」に対する強烈な使命感に支えられながら、「国体護持」を至上の課題として一貫して行動した」(219 ページ)

つまり著者は、昭和天皇独白録を奉るつもりもなければ、戦争を主導した戦犯だと昭和天皇を糾弾するつもりもない。その一方で、昭和初期の日本が戦争主導グループとリベラルなグループに分かれ、昭和天皇が終始リベラルな側にいて戦争に反対を唱えていたと言う論調が定着し、それがこの昭和天皇独白録によってさらに助長されるのではないかと言う懸念を表明している。

本書は、独白録の内容や、成立までの過程を丁寧に追っている。
著者のスタンスは上に書いた通り。その上で著者は、本書において宮中派と呼ばれるグループに焦点を当てている。宮中派とはつまり牧野伸顕から木戸幸一に至る天皇の側近グループであり、穏健派とも呼ばれるグループだ。

「この「穏健派」の評価いかんによって、日本の近代史はまったく異なった像をむすぶが、私見によれば、当初、対米英協調路線と政党内閣制を支持していたこのグループは、十五年戦争の経過のなかで次第にそのスタンスを変化させ、軍部の路線との間の距離を縮めていった」(228ページ)

東京裁判において裁判に協力的な姿勢を示し、軍部に戦争責任を押し付ける形で国体の護持、すなわち天皇の戦争責任を免責に持ち込んだ事は、穏健派としては上々の成果だろう。この独白録の作成も対策の一つであることは当然の話だ。むしろ、国難にあたってこうした弁明書がないことの方が不思議に思える。

私は、穏健派と昭和天皇が成し遂げた今の日本の基盤をよしとし、感謝している。
戦前の皇国主義が今も続いていたら私のような自由を尊び、多様性を重んずる人間には生きづらい世の中だったと思うし、日本が悪平等を旨とした共産主義になっていたら、もっと生きづらかったはずだ。
私は昭和天皇には戦争責任はあったと考えている。だが、それは昭和天皇をおとしめることにはならないはずだ。一人の人間として懸命に努力し、知恵を絞り、立場や体制のバランスを考え、いざというときには毅然とした態度で事に当たった昭和天皇に私心はなかったちろう。その苦悩や責任の重さは私には到底想像もつかない。
だが、それでもどうにもならないのが歴史の当事者の宿命だ。

その過程では後世から見れば誤りと判断できる言動もあった。戦局にも一喜一憂した。ときには首相を叱責し、反乱軍に対してつよい口調で意思を示したこともあった。作戦に口を出したこともあった。
それらだけを取り上げれば、昭和天皇の戦争責任は重く、東京裁判ではA級戦犯並みの判決を受けた可能性だってあっただろう。少なくとも退位は避けられなかったはずだ。たが、昭和天皇は退位論にも与せず、あえて困難な道を選び続けた。
国民から畏れ敬われる立場から、親しまれる象徴の立場へ。国内を行幸し、四十数年の間をかけて新たな天皇像と戦後の日本を作り上げた。それは、普通の人にはとうてい成し得ないことだと思う。

聖人君子としての固定のイメージで語ることは、決して昭和天皇も喜ばないと思う。むしろ、バランスのとれた方だからこそ、自分の戦時中の過ちも含めて、バランスを取るために本書を良しとしたはずだ。むしろ喜ばれたのではないだろうか。天皇機関説をその通りだと認めた方だけに。

2020/10/14-2020/10/18


坂の上の雲(一)


海上自衛隊の横須賀地方総監部の見学に訪れたのは2017年の秋のこと。
その時、護衛艦「たかなみ」に乗船させていただいたが、たかなみに乗るまでの時間が空いてしまい、先に「三笠」見学に訪れた。

三笠公園は、横須賀地方総監部から30分ほど歩いた場所にある。海に面した風光明媚な公園は海に面し、岸壁には「三笠」が停泊している。
岸壁には平らかな広場が設えられている。丸く形どられた池には噴水が吹き出し、その池の中央には三笠を背後にした東郷平八郎元帥の銅像が遠くを見据えている。

私にとって初めての三笠。
艦内は思ったより広く、そして現役当時を思わせる雰囲気が保たれていた。
甲板には巨大な鎖が無造作にさらされ、その先は海へと消えている。

その時、ご一緒した方より聞かれたのが「「坂の上の雲」読みました?」だった。私は恥じらう気持ちと共に「まだ読んだことがないんですよ~」と返した。
そして、三笠の甲板や操舵輪や艦長室を存分に堪能する間、私の心にわだかまっていたのは、自分がまだ明治を描いた本書を読んでいないことだった。
読者家を称していながら、まだ本書を読んでいない事実に気づかされたのが、この時の会話だった。

もう一つ、私に本書を読まねばと思わせたのは、東郷元帥記念公園の存在だ。
当時、私が半常駐していた職場の近所の東郷元帥記念公園によく散歩に訪れていた。
公園に残されたライオン像と給水塔の遺物だけがかつての旧宅の広壮さの名残を今に伝えている。
この公園には本当に何度も訪れており、私は東郷元帥には何かとご縁があったのだろう。

私が「坂の上の雲」を読み始めるのも時間の問題だったに違いない。
2018年も後半になり、意を決して読みはじめた。

もっとも、読む前から本書の内容はおぼろげには知っていた。
秋山兄弟と正岡子規を軸に据え、勃興する明治日本の時代の空気を描く。そんな認識だった。

その第一巻である本書では、三人の生い立ちを語る。
伊予松山での日々。それは、戊辰戦争で新政府軍に抗した賊軍としての汚名との戦いだった。
その汚名は、伊予の若者から栄達の道を奪う。
未来の希望が喪われた有為の若者にとって、政府高官の道は選択肢にない。軍隊に入るか、学問で生きるしか、身を立てる術はなかった。

秋山兄弟は、そうしたタガを破ろうと、迷える青年期を送る。そして正岡子規も身を立てる道を文学に求める。
一巻である本書は、彼らの若さと野心が充満している。

彼らの心を支えていたのは、時代の空気もあった。
封建の時代が去り、次なる未来へ駆け上がろうとする明治日本の勃興。
それは賊軍とされた伊予松山でも同じだ。
人々は枠にはまらず、自由でありながら、日本人としての矜持を持っていた。

明治とは、日本人の一人一人が自身の生き方を真剣に悩み、日本のこれからを真摯に考えていた時代でもある。
そして、封建の時代から新時代に切り替わるにあたり、仕組みが整っていないため、なろうと思えば、身を立てられる時代でもあった。

正岡子規は、秋山真之とともに、松山中学を首尾良く中退する。そして上京して一高に入学し、栄達への足掛かりを掴む。
しかし、一高に入学したはよいが、文学に熱中してしまう。
哲学を論じ、人はどう生きるかに頭を悩ませる子規。
その姿は、国家建設の理想に燃えていた一部の学生にとっては看過できない振る舞い。一高の学生でありながら文学にうつつを抜かすとは何事か、と糾弾される。

さらに秋山兄弟の兄、好古は一足先に陸軍に入る。
一高での肩身の狭さや、兄に学費を負担してもらっている引け目もあり、真之も海軍へと進路を変更する。それは、一緒に文学を極めようと誓った仲の正岡子規を裏切ることでもある。
真之はここで自らの資質を要領が良すぎることと見極めている。試験にも勉強せずにヤマを張って臨み、そのヤマを見事に当てて高得点を取る。
文学に惹かれながらも、自らの容量の良さを生かす場を違う世界に求める。この点は重要だ。

本書で描かれる真之は要領も良いが、向こう気の強い人間だ。
そんな真之が唯一頭が上がらない人物。それが、兄の好古だ。その兄が陸軍に入ったため、同じ軍でも兄とは違って海軍に目を向けたことも見逃せない。

もちろん、真之のその選択は、将来の日本を救うことになる。日本海海戦の勝利として。そのことを読者の私たちは知っている。そして、著者も読者がそれを承知していることを前提の上で本書をつむいでゆく。

本書で見逃してはならないのは、好古の欧行のエピソードだ。
好古の留学先は、明治の陸軍が模範としたドイツではなくフランス。
それは陸軍の教育方針では見えない視点を好古に与え、後年、黒溝台や奉天で好古が騎兵を率いて活躍する素地となる。
本書ではドイツから招いたメッケルがどれだけ日本陸軍に影響を与えたかについても触れている。
その事実とあわせて読むと、好古の後年の日露戦争での活躍がより深みをともなって理解できる。

また、子規が喀血する場面も本書に登場する。野球に熱中した少年が味わった初めての蹉跌。
真之たちと歩いて江ノ島まで行ったほどの男が、旅に疲れた結果、喀血を友とする悲哀。
海軍兵学校に入った真之は学校が江田島に移ったこともあり、松山に帰り、病床の子規を見舞う。
軍人としての道を進む真之と病床に臥す子規の対比。これが本書に複雑な味わいを与えている。

もちろん、病床で諦めなかったことが、子規の名前を不朽にした。そして秋山兄弟もそれぞれの経験を積み、後年の名声の基礎を培っている。
彼らの名が後世に輝かしく伝わっているのはなぜか。そうした彼らの青年期のエピソードこそ、本書のかなめだ。

読者は、本書で描かれる日本の歴史を知っている。結果を知った上で、なおかつわくわくしながら読める。
それこそが、本書の魅力でもある。

‘2018/12/5-2018/12/7


日本の原爆―その開発と挫折の道程


「栄光なき天才たち」という漫画がある。かつてヤングジャンプで連載されており、私は単行本を全巻揃えていた。日本の原爆開発について、私が最初にまとまった知見を得たのは、単行本6巻に収められていた原爆開発のエピソードからだ。当時、何度も読み返した。

我が国では原爆を投下された被害だけがクローズアップされる向きにある。もちろん、原爆の惨禍と被爆者の方々の苦しみは決して風化させてはならない。そして、それと同じくらい忘れてはならないのは、日本が原爆を開発していた事実だ。日本が原爆を開発していた事実を知っていたことは、私自身の思想形成に少なからず貢献している。もし日本が原爆開発に仮に成功していたら。もしそれを敵国に落としていたら。今でさえ複雑な日本人の戦争観はさらに複雑になっていたことだろう。

本書は日本の原爆開発の実態にかなり迫っている。著者の本は当ブログでも何度も取り上げてきた。著者の筋の通った歴史感覚にはいつも信頼をおいている。そのため、本書も安心して手に取ることができた。また、私は著者の調査能力とインタビュー能力にも一目置いている。本書のあちこちに著者が原爆開発の関係者にインタビューした内容が引用されている。原爆開発から70年以上たった今、関係者の多くは鬼籍に入っている。ではなぜ著者が関係者にインタビューできたのか。それは昭和50年代に著者が関係者にインタビューを済ませていたからだ。原爆開発の事実を知り、関係者にインタビューし、原稿に起こしていたそうだ。あらためて著者の先見性と慧眼にはうならされた。

「はじめに」からすでに著者は重要な問題を提起する。それは8/6 8:15から8/9 11:02までの75時間に日本の指導者層や科学者、とくに原爆開発に携わった科学者たちになすすべはなかったのか、という問いだ。8/6に原爆が投下された時点で、それが原爆であることを断定し、速やかに軍部や政治家に報告がされていたらポツダム宣言の受諾も早まり、長崎への二発目は回避できたのではないかという仮定。それを突き詰めると、科学者たちは果たしてヒロシマに落とされた爆弾が原爆であることをすぐ判断できたのか、という問いにつながる。その判断は、技術者にとってみれば、自分たちが作れなかった原爆をアメリカが作り上げたこと、つまり、技術力で負けたことを認めるのに等しい。それが科学者たちの胸の中にどう去来し、原爆と認める判断にどう影響したのか。そしてもちろん、原爆だと判断するためには日本の原爆開発の理論がそこまで及んでいなければならない。つまり、日本の原爆開発はどの程度まで進んでいたのか、という問いにもつながる。

また、著者の着眼点の良さが光る点がもう一つある。それは原爆が開発されていることが、日本の戦時中の士気にどう利用されたか、を追うことだ。空襲が全国の都市に及び始めた当時、日本国民の間に「マッチ箱一つぐらいの大きさで都市を丸ごと破壊する爆弾」を軍が開発中である、とのうわさが流れる。「広島 昭和二十年」(レビュー)の著者が著した日記の中でも言及されていたし、私が子供のころ何度も読んだ「漫画 日本の歴史」にもそういったセリフが載っていた。このうわさがどういう経緯で生まれ、国民に流布していったか。それは軍部が劣勢の戦局の中、国民の士気をどうやって維持しようとしたか、という考察につながる。そしてこのようなうわさが流布した背景には原爆で敵をやっつけたいという加害国としての心理が国民に働いていたことを的確に指摘している。

うわさの火元は三つあるという。学者の田中館愛橘の議会質問。それと雑誌「新青年」の記事。もう一つ、昭和19年3月28日と29日に朝日新聞に掲載された科学戦の様相という記事。それらの記事が国民の間にうわさとなって広まるまでの経路を著者は解き明かしてゆく。

そして原爆開発だ。理化学研究所の仁科芳雄研究室は、陸軍の委嘱を受けて原爆開発を行う。一方、海軍から委嘱を受けたのは京都帝大の荒勝文策研究室。二つの組織が別々に原爆を開発するための研究を行っていた。「栄光なき天才たち」でも海軍と陸軍の反目については触れていたし、それが日本の原爆研究の組織的な問題点だったことも描かれていた。本書はそのあたりの事情をより深く掘り下げる。とくに覚えておかねばならないこと。それは日本の科学者が今次の大戦中に原爆の開発は不可能と考えていたことだ。日本に作れないのなら、ドイツにもアメリカにもソ連にも無理だと。では科学者達は何のために開発に携わっていたのか。それは二つあったことを関係者は語る。一つは、例え原爆が出来なくても研究することに意義があること。もう一つは、原爆の研究に携わっていれば若い研究者を戦場に送り出さずにすむ計算。しかし、それは曖昧な研究への姿勢となり、陸軍の技術将校に歯がゆく思われる原因となる。

仁科博士が二枚舌ととられかねない程の腹芸を見せ、陸軍と内部の技術者に向けて違う話を語っていた事。複数の関係者が語る証言からは、仁科博士が対陸軍の窓口となっていたことが本書でも述べられる。著者の舌鋒は仁科博士を切り裂いていないが、仁科博士の苦衷を察しつつ、無条件で礼賛もしないのが印象的だ。

また、実際に原爆が落とされた前後の科学者たちの行動や心の動き。それも本書は深く詳しく述べている。その中で理化学研究所出身で陸軍の技術将校だった山本洋一氏が語ったセリフがは特筆できる。「われわれはアメリカの原爆開発を疑ったわけですから、アメリカだって日本の技術がそのレベルまで来ているか、不安だったはずです。そこで日本も、原子爆弾を含む新型爆弾の開発に成功したのでこれからアメリカ本土に投下する、との偽りの放送を流すべきだったのです。いい考えではありませんか。そうするとアメリカは、たとえば長崎には投下しなかったかもしれません」(186ページ)。著者はこの発想に驚いているが、私も同じだ。私は今まで多くの戦史本を読んできたが、この発想にお目にかかったことはなかった。そして私はこうも思った。今の北朝鮮と一緒じゃねえの、と。当時の日本と今の北朝鮮を比べるのは間違っている。それは分かっているが、チキンレースの真っただ中にいる北朝鮮の首脳部が戦意発揚に躍起になっている姿が、どうしても我が国の戦時中の大本営に被ってしまうのだ。

山本氏は8月6日にヒロシマに原爆が投下された後、すみやかにアメリカの国力と技術力から算出した原爆保有数を算出するよう上司に命じられる。山本氏が導き出した結論は500発から1000発。その計算が終わったのが8月9日の午前だったという。そのころ長崎には二発目の原爆が炸裂していた。また、広島へ向かう視察機に搭乗した仁科博士は、搭乗機がエンジンの不調で戻され、ヒロシマ着は翌八日になる。つまりここで冒頭に書いた75時間の問題が出てくる。ヒロシマからナガサキまでの間に意思統一ができなかったのか、と。もっとも戦争を継続したい陸軍はヒロシマに落とされた爆弾が原爆ではあってほしくなくて、それを覆すためには確固たる説得力でヒロシマに落とされた爆弾が原爆であることを示さねばならなかった。

そして科学者たちの脳裏に、原爆という形で核分裂が実証されたことへの感慨と、それとともに、科学が軍事に汚されたことへの反発が生じること。そうした事情にも著者はきちんと筆を割き、説明してゆく。

それは戦後の科学者による反核運動にもつながる。例えばラッセル=アインシュタイン宣言のような。そのあたりの科学者たちの動向も本書は見逃さない。

「おわりに」で、著者はとても重要なことをいう。「今、日本人に「欠けている一点」というのは、「スリーマイル・チェルノブイリ・フクシマ」と「ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ」とは、本質的に歴史的意味がことなっていることを強く理解すべきだということだ。この二つの構図を混同してはならないと自覚しなければならない」(258ページ)がそれだ。私もそのことを強く思う。そしてぼんやりと考えているとヒロシマ・ナガサキ・フクシマを同列に考えてしまいかねない罠が待ち受けていることにも思いが至る。

もう一つ「日本での原爆製造計画が実らなかったために、私たちは人類史の上で、加害者の立場には立たなかった。だが原発事故では、私たちのこの時代そのものが次の世代への加害者になる可能性を抱えてしまった」(260ページ)という指摘も重要だ。下手に放射能被害の不安を煽ったりする論調には反対だし、私は事故後の福島には三度訪れている。だが、煽りに対して反対することと、原発事故からの教訓を読み取る必要性は分けるべきだ。

「あとがき」で著者は重ねて書いている。「本書は、あえて日本の原爆製造計画という、日本人と原子力の関係の原点ともいうべき状態を改めて確認し、そこに潜んでいた問題をないがしろにしてきたために現在に繋がったのではないかとの視点で書いた。」(266P)。この文章も肝に銘ずる必要がある。いまや日本の技術力は世界に冠たるレベルではなくなりつつある。このまま日本の技術力が地に落ちてしまうのか、それとも復活するのか。それは原発事故をいかに反省し、今後に生かすかにかかっている。海外では雄大な構想をもつ技術ベンチャーが増えているのに、日本からはそういう風潮が生まれない。それは原爆開発の失敗や敗戦によって萎縮してしまったからなのか、それとも原発事故の後遺症によるのか。問うべき点は多い。

‘2017/11/21-2017/11/23


あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書


夏の風物詩。人によってそれぞれである。ある人は花火に夏の開放感を味わい、ある方は甲子園のアルプススタンドに熱気を感ずる。四季折々の風物に事欠かない日本。中でも夏は格別の趣を人々の元へ運ぶ。その色合いは総じて開放的かつ前向きである。

そんな色合いとは異なり、毎夏、思い出したかのようにマスコミに取り上げられる事柄がある。それは戦争に関する話題である。いわゆる終戦記念日であるポツダム宣言受諾、広島・長崎への原爆投下など我が国において開放的かつ前向きとは言い難い出来事が起こった季節。太陽は眩しく、雲は空を衝き、影が色濃く地面に映る季節である。

私もまた、この季節に思い出したように戦争関係の本を手に取る。

特定の史観に絡め取られないよう、左寄りの本を読めば、次は右寄りの本に手を伸ばす。私の読書スタイルである。そんな中、半藤一利氏と著者の一連の作品は、読み終えた後に左右のバランスを取る必要がない。両者のスタンスは、特定のイデオロギーに与せず染まらない。中道をまっすぐに進み、筋を通すことに専心しているように見受けられる。そのため、私も左右の揺れを気にせず、安心して読める。

本書は、著者がそのようなスタンスを貫きつつ、「あの戦争」の通史を分かりやすく伝えることを狙った一冊である。

しかし、中道を進むことは、冒険に走らないことでもある。つまり、本書の内容が教科書的な、なんの新味もない味付けになってしまう恐れがある。私にしてみれば、本書を手に取ったのは通史としての総括を期待していた。そのため、本書から新説を得ようといった期待は持たずにページを繰った。

しかし、さすがというべきか。本書ではそのような期待はいい意味で裏切られた。まず、構成である。通常、このような総括本は、戦争の歴史を時系列で追う。複雑な思惑が絡み合う戦争において、時系列からの捉えは必須と思われがちである。しかし、本書は単純な時系列による構成ではない。戦争を、いくつかの要素に分け、それらの内容を分析することで、その総体を戦争としてとらえようとする。

本書は第一章として、旧日本軍のメカニズムから取り上げる。つまり戦争前史としての大正デモクラシーやワシントン・ロンドン海軍軍縮条約/会議や昭和大恐慌、五・一五事件などの事件ではなく、日本を戦争へ導いた前史として、軍隊の構造からメスを入れる。なぜ軍部の専横が起こったのか、なぜ一部軍人は独走したのか。それを著者は旧日本軍のメカニズムに原因を求める。新鮮な視点である。

第二章は、開戦に至るまでのターニングポイントとして、時系列を少し進め、二・二六事件から始まる軍部の専横に焦点を当てる。天皇機関説の反動で昭和天皇は神格化され、一部軍人はそれを錯覚し、勝手に天皇の名を借りて暴走を始める。太平洋戦争での日本の破滅は、陸軍の暴走にその責を負わせるのが現代の我々の大勢だろう。しかし、本章では黒幕として海軍の一部署を挙げる。ともすれば米内・山本・井上各将の強硬な日独伊三国同盟への反対が持ち上げられ、善は海軍、悪は陸軍と二元化されがちである。しかし石油備蓄がわずかと虚位報告をし、日本を南進へと追いやった責は海軍の一部にあり、と著者は喝破する。私にとって聞いたことのない視点からの糾弾であり、陸軍ばかりが悪ではなかったと知っていたとはいえ、驚きであった。

第三章は、快進撃から泥沼へと題し、もはや敗戦が明確になりつつある中、なぜずるずると破滅への道を歩んでしまったのかを著者は示す。そもそもどういった条件で勝利とみなすか、という策のないまま突き進んだ戦争。いずれも相手国からの働きかけでしか終結点を持っていなかったことに著者の軍部を斬る筆先は向く。日本が主体として戦争に幕を下ろすことを考えておらず、そこにいつまでも戦争が長引いた原因があると著者はいう。

第四章 敗戦へ──「負け方」の研究として、もはや滅亡の道を進むかのように見える日本で、策を練り、日本を上手く負けさせるために努力するわずかな人々の姿を描く。無能な指揮官と無策の大本営にも関わらず、昭和天皇を始めとした戦争終結への努力は、負け方が不得手な日本にあって、今後の指針となるべき示唆に満ちている。

第五章 八月十五日は「終戦記念日」ではない──戦後の日本は、冒頭にも書いた通り、8月15日が終戦記念日として国民にまかり通っている常識に一石を投じる。8月15日はあくまでポツダム宣言受諾の意思表示した停戦でしかなく、ミズーリ号艦上での重光葵全権による降伏文書への調印ですら、終戦とはみなしていない。シベリアや南方の島々に戦士たちが残されている以上、戦後という言葉を使って戦争を終わらせるのはいかがなものかと著者は問う。

それは、夏になると戦争を取り上げるマスコミや、夏になると戦争関連の本を手に取る私への、強烈な問題提起である。

’14/08/12-‘14/08/15